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今週の1枚(2011/10/31)



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Essay 539 : 「ひょん」〜神の一撃

 写真は、近くの商店街の掲示板から。
 なにげに通り過ぎていますが、よく見ると面白い広告があったりします。
 また生きた英語を勉強する教材でもあり、この写真のシェア探し広告でも、"would like to"ではなく、"would love to"というネィティブっぽい表現がわかります。"would be willing to"なんかも日本人にはちょっと思いつきにくい言い方ですよね。



 「神の一撃」という言葉をご存知でしょうか?
 僕も、みなさんに「ご存知ですか?」と言うほどご存知ではないのですが、たしか宇宙や天文学にでてくるフレーズで、「宇宙は神の一撃で始まった」というらしいです。

 話は近代科学草創期、ガリレオ、コペルニクス、ケプラー、ニュートンとキラ星のように天才が登場してくる華やかな時代に遡ります。彼らは辛抱強く天体観測を行い、「宇宙はどうなっているのか?」ということを熱心に研究し、「宇宙は回転寿司のように廻っている」という天体の運動法則を導き出していきました。円軌道にこだわるコペルニクスから楕円軌道を発見したケプラーへと、天体の運行法則はどんどん数学的な精密さで究められていきます。

 しかしテーマはもう一つあって、「なんでそうなっているの?」ということです。天体の運行法則はわかった、なるほど運動エネルギーがこのように作用してこうなっているというのは分かった。でも、じゃあなんで廻ってるの?最初に何か原因がないと、こんなにグルグル廻らない。誰がどうやって廻したのか。「最初に回転寿司は廻したのは誰か?」です。ここが超難問で未だに解けてません。当然ながら天才達も困った。そこで、「それは最初に神様がガーン!と一撃をくれて、それから宇宙は回り始めたのだ」という答になったりしました。これが有名な「神の一撃」論で、英語では、おそらく"The First Cause"と言われているものだと思います。

 しっかし、そこまで緻密に科学をやっておきながら、最後の最後で「神」かよ?と、無神論者が多い日本人の僕らは考えてしまうのですが、彼らは別にそんなに深刻な矛盾も疑問も感じてなかったのかもしれません。ローマ教会と喧嘩したので有名なガリレオも彼自身は熱心なクリスチャンでしたし、ニュートンもまたしかり。

 ちなみに調べると面白くなってすぐに脱線するのですが、ニュートンというのは面白い人だったようですな。かーなり気難しい変人で、「生涯で一回しか笑ったことがない」とか。また、片足は近代にもう片足は中世にどっぷり浸かってて、オカルト趣味にはまったり「最後の錬金術師」とも言われているそうです。当時奇異だった猫を飼う習慣を持っていたり、世界初のバブル崩壊(南海泡沫事件)で大損し、微積分法の先取権をめぐってライプニッツと25年の裁判闘争をするなど、めっちゃ”濃い”人です。いやあ、人間このくらい濃くないとダメなんかもしれませんな。

 「神の一撃」を言ったのは、ケプラーだったかニュートンだったか忘れましたし(ネットで調べるとニュートンのようだけど、確証無し)、またそれを言ったシュチュエーションも「なんで廻っているの?という質問を受けて答に窮した挙句に言ったのか、それとも自信満々で「神に決まってるじゃないか」と言ったのか、そこも定かではないです。が、そのあたりで誰かがそう言ったと伝えられています。
いきなり余談

 ところで、僕は「神の一撃」を大学のパンキョー(一般教養)の「科学思想史」で知ったのですが、当時の僕らの感覚でいえば、一般教養なんてフケる(サボる)のが当然でした。

 かすかに昔のバンカラ気風を残し、学部生の留年率8割弱を誇っていた我が法学部では、そもそも大学を4年で正規に卒業すること自体が「小市民の証」で「恥ずべき事」とされていましたし、就職してサラリーマンになること=悪魔に魂を売ることくらいの感じでしたもんね。ま、実際には地方公務員になる人が多かったのですが、まあ「おはなし」や「伝統文化」としてはそうでした。「就活」なんて小市民丸出しの日本語もまだ無かったし。

 僕らの代から数年後には、もう「軟弱」になってきて、真面目に講義に出ている学生が多いという話を人伝に聞いて愕然としたものです。同じような話は、司法研修所の寮でもあって、僕らの頃は自宅起案や試験の前日という超ハードな勉強時期に敢えてイキがって部屋で酒盛りをするのがカッコいいことだったのですが、数年後には皆さんお利口になって、寮の売店では誰も酒(みなの定番だったのは安い薩摩焼酎「白波」)を買いに来ないと、売店の人が嘆いていたそうです。

 まあ、日本がだんだん軟弱化していく移行期だったのでしょうか。世代論でいえば、今の40代ですら、僕らからみたらクソ軟弱でどーしよーもないということになるのでしょう(^_^)。ほんとかどうか知らんけど。でも、僕らの上の世代はもっともっとワイルドで、僕の先輩はマジに祇園の女の所から通学してたり(それでちゃんと司法試験に受かるところが凄い)、そんなのが多かったです。ガチに喧嘩したら人間力で負けそう。もっと上は、、とキリがないけど。

 でも、そういう昔話や世代論ではなく、この感覚=イレギュラーでちょっと”不良”の方がカッコいいという感覚は、古今東西どこにでもあると思います。少しばかり上に逆らってボコられてるくらいが「覇気がある」「元気があってよろしい」という、丸大ハム的わんぱく賛歌(知らんか)というか、大阪弁でいうゴンタ文化は確かにあります。今でも、どこでも。僕が中学の頃は、詰め襟のホックを上までしっかりかけているのはダサイことだったし、「廊下を走るな」と言われて守る奴はいないし、宿題なんかやってくる奴は「小心者」だったし。しかし、こういう感覚は今だってあるでしょ?いつの時代も学校の制服の基準通りに着るのはダサいことで、スカートは”違法に”短くしたり、長くしたりするのがカッコいいという。「いい子」になるのは、権力に屈し、おもねっているとして非難されるという。

 ガッコでも会社でも、上がむちゃを言えば、下は「やってらんねーよ」で面従腹背する。中国なんか逞しい庶民文化が息づいいて、「下(庶民)にはそれなりにやり方がある」というのが確固とした文化だといいます。西洋だってあります。英語だって、"teacher's pet"と「いい子」は馬鹿にされたりするし、むしろ日本よりも荒ぶってる部分がある。オーストラリアだって、ネズミ取りのある所では皆さんイイコに制限守るけど、カメラがないところではビュンビュン飛ばすし、シックリーブ(病欠)は月金に集中しているし。

 ああ、そういえば来週火曜日はメルボルンカップだから殆ど仕事にならない。だとすれば月曜日なんか真面目に仕事しないだろうし、そうなると土曜日から火曜日まで4連休になるから、遡って金曜日から気もそぞろで休みを取る人も多かったでしょう。でもって連休明けの水曜日には多分真面目に仕事なんかしないだろうから、結局この1週間くらい、オーストラリアではあんまり皆さん真面目に仕事しないでしょうねえ。ストもやってるし。そうなると、日本の本社から納期をやかましく督促されて板挟みになる日本企業の駐在員の方々は胃がキリキリするような日々をお過ごしかもしれません。お気の毒です。いやあ、「海外で働く」ってそーゆーことっすよ。

 ということで、一般教養の「科学思想史」で「神の一撃」を知ったのですが、本来サボる筈のパンキョーに何故出てたのかというと、あんまり理由は覚えてないけど、やっぱ面白かったんでしょうねえ。大学なんか「司法試験一次試験免除の資格をゲットするため」だけと機能的に割り切りまくっていた僕だけど、でも、あの科目はなんか面白かった。「アレキサンドリアのムセイオン」とか今でも覚えていますし。

 閑話休題。
 この「神の一撃論」は、現在でも「ビッグバンはなぜ生じたのか?」という形で論じられ続けているようです。宇宙の創生がビッグバンだとすると、じゃあその前は何だったの?それがどういうメカニズムでビッグバンが生じ、今の宇宙(時間と空間)が作られたの?というと、正直お手上げであり、神様にでも出てきて貰わないとならないのかもしれません。

 宇宙開闢(かいびゃく)以前が文字通りゼロ、無だとしたら、何にもなかったところから突如として大宇宙が生じたことになる。これは「無から有が生じる」という科学の大原則に相反する。でも、そうとしか言いようがない。このような数学的な不連続点、これまでの論理をポーンと飛躍するような”特異点”があるということです。

 そして、ここからが我田引水の力技になるのですが、何事かを生じさせるためには、このポーンという「飛躍」=なんらかの「特異点」=すなわち神の一撃が必要なんだろうな、という話になります。

 ということで、本題です。ここで宇宙から一気に地上に急降下し、世間話になります。
 

「触媒」〜魔法の一滴

 材料を集め、下ごしらえもし、準備万端整って、水も漏らさぬように粛々と実行しても、それだけでは「何か」が決定的に足りない、ということがあります。魔法をかけようと思って、マニュアル通りに山羊の頭やら猿の精液なんぞを集め、きっちり書かれた魔方陣の上にそれらを適切に配置しても、それだけでは何も起らない。魔法の呪文やら魔法の杖の一振りが必要です。エロイムエッサイムとかオンキリキリソワカとか何とか唱えないとならない。

 そこで求められるのは、例えば「触媒」です。一滴垂らすだけで、無色透明だった溶液が真紅に染まっていくように、その物質の性質を一変させてしまう触媒。化学変化を促進(or抑制)し、決定的な方向付けをする物質。何事かをなすには、大体においてこいつが必要であるという。いくら大豆を煮こもうが「にがり」がなければ豆腐にならない。そして「麹」がなければ「発酵」というプロセスが始まらないので、味噌にも醤油にも酒にもならない。

 そして魔法よりも現実の方が遙かに厄介なのは、その触媒的な「なにか」が何なのかは事前には分からないことです。魔法だったら正しい呪文をゲットすれば良いのですが、現実では何をゲットすればいいのか全然分からん。だから成功するのか失敗するのか事前にはよく分からないという。

 この類例は世間にいくらでもあります。良く言われるのは「売れる」という現象です。マーケッターや商品企画部の人々は、ありとあらゆる調査をし、データーを精査し、考えに考え抜いて商品を世に送り出します。しかしそう計算通り売れてくれるものではない。もう、なっかなか売れない。ましてやヒット商品など宝くじレベルの確率です。チマタで語られる「商品伝説」や、ビジネス講座の解説などは、ヒット商品を「なぜ売れたのか」という結果から遡って解析しますので、それだけみてると非常に論理的に物事が進んでいるかのように見えます。

 しかし、同じように考えて、同じようにやったのになぜか売れなかったという商品はその数倍、数十倍あるはずです。後付の理屈で「これが良かった」と結果論を語っても全てを解析できたことにはならない。だからこそ、マーケティング理論がいかに進化しようとも、未だにヒット商品を生み出すコツは中々分からない。結局はAKB48等を生み続けている秋元康のような仕掛け人の職人技的な直感に頼るしかない。理屈で済むなら誰がやっても良さそうなものなのですが、それは出来ずに「職人」に頼っている時点で、理論化出来ていないともいえます。

 僕の知人がプロのマーケッターで、市場調査のやり方論や実際にアンケート現物や回答の解析手法などを見せてもらったことがあります。それはそれは統計学と心理学を駆使したものでした。「こういう聞き方をするとYES」になるけど「こういう聞き方をするとNOになる」とか「この質問のあとにこれを聞くとYESになるが、順番を逆にするとNOになる」等があり、だから質問のアレンジを変えたアンケートを複数用意し、出てきた結果のバラツキやら標準偏差を弾き出して(以下理解不能)などなど、非常によく考え抜かれています。しかし、そうやって出てきたデータ数字の羅列を並べながら、「つまりこういうことだ」と結論づけていくのは、すぐれて職人的直感だと言います。さらに、そういう調査をすれば売れるか?というと、そういうものでもない。商品AとBとではBの方が売れないようだとか、限定されたレベルならばかなり正確に予測できるそうですが、さて本当に売れるのか?ヒットするか?というと、あまりにも変数が多すぎて、それはもう神の領域だそうです。

 ここは本当にミステリアスで、過去のヒット商品群でも、後付で考えてすら何故売れたのかよう分からんものも多い。タイミングや時代もあるのでしょう。「たまごっち」は爆発的に売れたそうですが、今やってる人は少ないでしょう。飽きたというのもあるでしょうが、かなり時間が経ってるから若い世代では知らない人も多いでしょうし、本当に面白いなら今でも売れてて良さそうです。同じように時間が経って第二世代、第三世代を生んでも良さそうな商品、例えばルーピックキューブとか、ダッコちゃんとか、フラフープとかあるんだけど、今は売れない。なんで?でも、逆に冷静になってみたら、これらって別にそーんなに面白いものではないですよ。熱狂的にハマるというほどのものでもない。でも、そのときは売れた。それも爆発的に売れたし、熱に浮かれたように皆も買った。なぜそういう現象が起きたのか?ここはやっぱり謎ですわ。

 似たような商品群でも、「触媒」を一滴垂らした商品は売れ、垂らしてないものは売れないかのようです。売れるための「サムシング」があるか、ないか。でもそのサムシングって何よ?というと、事前には分からない。マレには当る場合もあるけど、多くの場合は空振り三振です。
 音楽でもマンガでもそうです。音楽なんかほんと何が売れるのかさっぱり分からん。尾崎豊もXも、あれでよくデビューさせたなと当時の僕でも思ったくらいだし、絶対に売れないと太鼓判を押していた業界の人の方が多かったそうです。Xも髪を黒く短髪にして爽やかなジャニーズ風にしたらデビューさせてやるというオファーが来たそうです(蹴ったそうだけど)。当時の業界常識からしたら完全アウトでした。でも売れた。古い話で恐縮ですが、まだアイドル全盛だった昭和時代、国民的とすら言われた山口百恵などは、デビュー当時の写真などをみても、言っては悪いのですが、まあそんなに凄くはないし、ありていにいえばイモっぽいんだけど、あそこまで大バケした。

 ところで、日本の閉鎖的なガラパゴス市場の場合、この神の領域を狭めたり封印するという「ズル」が出来ます。それがいわゆるマルチメディア・ミックス戦略で、億単位の広告費とともにCMや番組主題歌とタイアップを取り、他の番組に出演させ、あるいはスキャンダルすら有効利用するという戦略です。電通などの広告代理店の資本の論理ですな。長く、多く接していけば人は自然に好意を持つという心理学の法則から、要するに沢山露出させてしまえば「誰もが知ってる」ことになり、好感も持たれる。そして、大ヒットになるための「クリティカル・マス(人数が増えていき、ついには大勢を決するだけのパワーを持ちうる集団規模)」に達すれば売れます。強引にそこまで持って行ってやれば、そこそこは売れる。ほんでも映画なんかでも大コケしてるのが多いですけど。

 こういった戦略は、日本語バリアのある閉鎖市場の方が効果的に出来るし、常に周囲を窺っている国民性の下は効果倍増です。これが英語圏になるとあまりにも市場が広すぎてどうしようもない。電通は、企業規模でこそ世界レベルですが、影響力や知名度は殆どない典型的な内弁慶企業だと言われますが、つまりはガラパゴス的な箱庭市場かどうかということなのでしょう。

 それがいき着くところまで行ったのは、小室とつんくの90年代J-POPでしょう。売れるための曲展開とか、気持ちいいコード進行とか、盗作にならない程度の人気曲の切り貼り作業はプロだったらある程度出来る。それを大々的にやったのが彼らで確かに非常に成功をおさめたのではあるけど、結局は長続きはしない。というか、後遺症の方がすごくて、聴き味がみんな似てきてしまい、「似たりよったりJ-POP」になってしまった。まあ、洋楽でもそうだけど。結果として音楽そのものがパワーを失ってきた。iPod以降、リスニング環境・機器は向上しているのだけど、コンテンツがしょぼくなっているという皮肉な現象がある。

 そんな商業領域だけでなく普通のアマチュアバンドレベルでも、一人一人は上手でも全体になったときになんかパワーが出ない場合もあるし、一人一人はヘタなんだけどトータルになるとえもいわれぬ味が出てくる場合もある。また、バンドでもスポーツチームでもキーパーソンのような人がいて、こいつが入っているとチームの戦闘力はなぜか神がかって強くなるのだけど、居なくなると妙に気が抜けるとか。シンプルで誰でも真似できそうなバンドで、実際フォロワーも多いのだけど、絶対に本人以外には再現できないバンド、例えばストーンズ、ブルハ、ピストルズなど。あんな簡単なことやってるのに、本人でなければ「なんか違う!」になってしまう。

 もっと身近にいえば、似たようなルックス、似たような成績でありながらも、なぜかAさんは異性に人気があり、Bさんはそれほどでもないという。この差。「華がある」とか「スター性」「カリスマ性」とか色々言われますが、カリスマのレシピーが結局は分からないから、これもやっぱり神の領域です。

 さらにどんどん身近になると、ただの知り合い、ただの友人関係であったのが、あるときふと一線を越えて男と女になることがあります。これも何か触媒が必要で、この触媒がないと、いいいところまでいくのだけど一線を超えない。いつまで経っても健全なままだという。多分、フェロモンのオン・オフだと思うのだけど、難しいですよねえ〜。

 さてさて色々述べてきましたが、この全ては整っている筈なんだけど、決定的に「なにか」が足りないから物事が始まらない/成就しないという構造は、こういった触媒に似ているなあってことです。

神の一撃


 しかし、もう一歩先があります。

 上に述べたことに尽きるのだったら、タイトルも「触媒」でよいですし、ニュートンの枕振りも要りません。しかし「神の一撃」なんてぶっ飛んだアナロジーが頭に浮かんだのは、そこからもう一段先があるからです。ということは、やっぱり現実は触媒よりもぶっ飛んでいるということですね。いやあ、現実は魔法よりもスゴイです。

 何を言ってるかというと、触媒というのは「プラスアルファ」であり、他に全部揃っていて且つ何をやりたいかの目的も見えているような場合に出てくる概念です。しかし「神の一撃」の凄まじさは、最初の時点でなーんにも揃ってなくても、また何をやりたいという目的や意識もなくても、この一撃によって全てが始まってしまうという「無から有を生じさせる凄さ」です。触媒が、しょせんは有A→有Bに変化させるだけ(それだけでも相当に凄いのだが)なのを考えると、無→有を生じさせる「神の一撃」は、さらに格上だと言わざるを得ません。

 そんなことが現実に起きるのか?というと、だから現に宇宙があるじゃないですか。
 どーしよーもなく巨大なスケールで生じているではないか。

 しかし、そんな触媒をも超える天地開闢的・革命的な「神の一撃」が、僕らのような平々凡々たる市井人に起きるか?というと、実は結構起きていると思います。そりゃ「宇宙創世」のようなスケールではなく、もっともっと小さく、ミクロレベルではあるけれど、「神の一撃」は確実に生じており、それによって僕らの人生は確実に針路を変え、新たな物語に入っていきます。

 この神の一撃状況を最も的確に、馴染みやすい口語日本語でいえば、

 ひょんなことから

 ってやつだと思います。

 「へ?」と拍子抜けされた方も多いと思うのですが、この「ひょん」が凄いんですよ。
 語感からすると、いかにもすっとぼけた剽軽味なんですけど、実は核融合並のパワーをもっていたりします。
 なにしろ「ひょん」が出てくると、無から有が生じるのですから。

 「ある日、いつものようにサンダルをつっかけてコンビニ弁当を買いに出た僕は、ひょんなことから一人の女の子と知り合った。−−そして、それが波乱の幕開けだった」 という。

 この「ひょん」が出てくると、これまで全く考えてもいなかった新しい展開になっていきます。どうかしたら人生がガラリと変わります。

 人はそれを「出会い」と呼んだり、あるいは「運命」「宿命」と呼んだりしますが、それこそ後付で、リアルタイムには、「おやおや」「へえ〜」「ふーん」くらいの非感動的なゆる〜い感じで始まっていったりする場合が多いと思います。

 そんな「こ、これだったかあああ!!!」とガビーン!となって、背景画像に落雷シーンが出てきたり、声にエコーが掛かったりということはないです。ほよよ〜んと始まる。その、いっそ牧歌的でのどかな感じが「ひょん」の語感に通じるのでしょうでもね。でもねー、「運命の出会い」なんてそんなもんスよ。「あ、どうも〜」みたいな感じで始まる。

 これをもう少し真面目に翻訳すると、人生において決定的な転機になるような出来事というのは、その殆どが「偶然」だということです。狙って狙えるものではない。というか全く予想外の方角からやってくる。

 僕自身を省みても、なんで弁護士になろうと思ったのかというと、その最初の最初のキッカケは、たまたま石川達三の「青春の蹉跌(さてつ)」を読んだからです。あの頃は受験勉強がイヤで、逃避の口実として本ばっか乱読してたのですが、石川達三は硬質で歯切れのいい断定口調の文体が、ロックみたいに思春期の心に突き刺さったのですね。「青春の蹉跌」でも、「この日本の全ての門は権力に向って開かれている。権力を持たない人間に門が開かれることは絶対にない」と、「そこまで言い切るか?」くらいの感じで書いているのですが、その言い切る感じが気持ち良かったです。頭脳明晰でありながらも私生児という出生の事情から、当時の日本社会では将来展望が描けない主人公は、知能だけでこの世間を這い上がってやると固く決意するのですね。この激しい上昇願望と孤独な戦いは定番のドラマツルギーで、スタンダールの「赤と黒」のジュリアン・ソレルもそうです(あれも面白かった)。

 石川作品は、この「青春の蹉跌」から読み始めたのですが、最初に読み始めた理由は「何となく」です。本屋でみていて、新潮文庫の背表紙の色がコバルトブルーというか、気に入った色だったのと、手頃に薄くて安くて読みやすいそうだったから、「ふーん」で手にとって買っただけです。読み始めたらハマってしまった。この小説は主人公が司法試験に挑戦して合格するまで、かなりリアルに書かれています。試験問題とその回答例まで書かれています。また小説なもんだから、現実よりも三倍増にスリリングでドラマチックで、「こんな世界があったのか」と。だから、よし司法試験だ!と思ったという。他にも付帯理由は沢山あるのですけど、最初に司法試験という試験がこの世にあるというのを知ったのはこの小説です。でも、これってほんとに「ひょん」なんですよ。同じ石川達三でもこの青春の蹉跌だけが当時の僕には飛び抜けて面白かったし、多分別の作品から入ってたら読み続けなかったかもしれません。それに、そもそも別の作者にいってた可能性も高いし。だからほんと偶然なんです。

 オーストラリアに来るようになったのも、これは何度も書いたけど、仕事帰りのバス待ちの時間潰しに、ふと入った古本屋でオーストラリアに関する本を買ったのが最初です。それまで「オーストラリア」なんか興味もなければ、意識にのぼったことすらなかった。オペラハウスだって知らなかった。あのカタチは知ってたけど、なんか有名な映画のセットかなんかだろうと適当に思ってたくらいだもん。まさか実在するとは。そもそも海外旅行なんかいく奴の気が知れなかったくらいだし。それが結局来てしまってるし、もう17年も住んでるし。もしあのとき、バスがすぐにやってきて古本屋に入らなかったら、オーストラリアに来なかった可能性が高いです。海外の面白さやオーストラリアのユニークさ、ひいては人生の展開などについて意識に上らなかっただろうし。

 今のカミさんと知り合ったのも、たまたまどっかの会合に付き合いで出席して、たまたま席の向かいに座ってたからです。でもその頃はただの飲み友達で、その期間が延々続き、たまたま帰国したときに昔の飲み友達を誘いまくっていたときに、さらにもう一振り触媒が振りかけられたという。でも最初の最初は「たまたま」×2です。これも書いたけど、両親が知り合ったのも、階段の踊り場でオフクロが盲腸で苦しんでいたのを仕事でたまたまそのビルを訪問した親父が最初に発見して救急車を呼んだのが出会いだそうです。こんなのも信号一本ズレてたら出会わなかっただろうし、だとしたら僕もこの世にいなかった。

 ねえ、自分がこの世にいるか/いないかくらい重大な出来事とってこの世にないと思うのだけど、それがこんなしょーもない「たまたま」で左右されているのです。でもこれが真実なのですね。そして自分の存在/不存在というのは、主観的にはまさにビッグバンであり、それを生じさせたのはまさに「神の一撃」に匹敵する重大事です。しかして、その現実世界における形象は何かといえば、盲腸による出会いという愚にも付かない市井のイチ出来事、つまりは「ひょんなこと」です。故に、ひょん=神の一撃という等式が成り立つ、と(ほんとか)。

 そう、カミナリがドドーンと落ちるような「運命の出会い」は、あなたの人生に起らないかもしれないし、僕もさして心当たりはない。だけど、ふと全然知らない本を手にとって読み始めたり、ふと知らない店に入ったり、、というような出来事は、これは人生に幾らでもあると思うのですね。そして、それが何かの巡り合わせで「ひょん」になる、、、、このくらいだったらありそうでしょう?落雷背景もエコー声もないけど。

 ところで、こういったことは、過去のエッセイでも書いてきました。「たまたま教」なんかかなり近いですよね。それこそ手を替え品を替え同じようなことばかり書いている気もしますね。ほんでも、開き直るわけではないのですが、対象が同じ「現実世界」である以上、似通ってくるのは当然で、テーマによって言うことが全然違ってたら、そっちの方がむしろ問題かもしれません。しかしながら、本体原理は同一だとしても、それが現実世界で現れてくるパターンというのは、びっくりするくらいのバリエーションがあります。「あ、こういう感じで出てくるのか」「こんな具合に考えればいいのか」という新たな発見が常にあります。「たまたま教」の場合は、ダンドリの限界性に重点を置いて書きましたが、今回は偶然性が人生や世界の普遍的な構成原理になるのだという話です。

 世界の構成原理だの普遍性だの、たかが「ひょん」くらいでで大袈裟な、と思われるかもしれないけど、でもさ、宇宙そのものが「神の一撃」としか言いようがない、ワケのわからない不連続点や特異点によって生じているのだぞ。森羅万象の原点ともいうべき部分が「よく分からん」「理屈としては破綻している」のです。このことは、単に「分からん」以上の意味があると思う。

 総じて言えば、既に生じている物事の因果の流れとかそのへんの「展開原理」は十分に理論化出来るし、ダンドリとして計算も構築もできます。それはそれで、必死に電卓叩いて計算すれば良い。しかし、こと物事の「発生原理」になると、なんかよう分からん場合が多い。絵画でも小説でも音楽でもマンガでも、モチーフや着想を得て、それを展開していく段になれば、これまで蓄積された技術やパターンで幾らでも詰めていくことが出来るのですが、最初の着想部分、それも天才的な着想になればなるほど、なんでそんなことを思いつくのか、その方法論が分からない。もう「天から降ってきた」というのが一番正確な表現だというのは、クリエイティブな作業でうんうん呻吟されたことがある人だったら同意していただけると思う。技術や論理だけでは着想は得られない。展開は理論化できるが、発生だけは理論化できない。そこを小室君のように発生まで理論化すると結局詰まんなくなる。

 「生命」だって、一旦生じたあらゆる生命のメカニズムだったら徐々に解明していくことは出来る。しかしなぜ、どういうカタチで生命が発生したのか?というと、分かったようでよく分からないといいます。人類だって、猿が進化したと一口で言うけど、昔っからミッシングリング論、進化の過程のどっかでビヨ〜ンとワープが生じているとも言われます。売れている商品の販売管理や、流通状態、製造ラインの調整、ひいては会計処理だったら幾らでも出来る。しかし何が「売れるか?」というのは究極的には謎であるという。男女の恋愛論や結婚論だって、既に存在しているカップルのどーしたこーしたは幾らでも語られているのだけど、どうやって出合ったのか、なんで好きになったのかの部分は、これまた究極的には謎でしょう。

 このように発生した物事の展開論理は比較的簡単なのですが、発生そのものはミステリアスである。非論理的、予想外の「なにか」が生じることによって万物が生じる。天地創造の神の一撃のような「なにか」が要る。これが「ひょん」です。

 今、僕は日常用語例に則して「ひょん」とかカジュアルに言ってますが、別の表現をすることも勿論可能です。例えば東洋哲学的にいえば「縁」とか言うのでしょうか。あるいは物理学や数学でいう「虚数」のようなものでしょうか。

 これ以上書いているとボロが出るので(既に出ているが)、このくらいにして、これまでのアレコレからとりあえず押さえておくべきツボを挙げておきます。

 @、材料を揃えて準備万端整えてもなぜか上手くいかない場合がある。うまくいかないからといって絶望することはなく、それは「触媒」が足りないからかも?と考えるのは有用なことでしょう。その「決定的ななにか」が何なのか?これは考えても中々分からないから、手当たり次第にあれこれ試すしかない。

 A、触媒を上回る、神の一撃「ひょん」があるということです。まったく予想もしなかった人生が、ある日突然、ほよよ〜んと始まるという、この不思議さ、この面白さ。

 B、この「ひょん」を生かすノウハウらしきもの、これは幾らでも思いつきますよね。
 例えば、計画はバリバリ立ててもいいんだけど、「気まぐれ」一発で全ての計画をチャラにできること、出来るだけの心のゆとりを持つことです。これはけっこう大事かもしれない。自分の立てた計画の奴隷にならないこと。

 あと、想定外の出来事を面白がることですね。「カンケーねーよ」で捨てないで、「へえ〜」といって十秒くらい眺めているとか。ああ、もっと分かりやすい言葉で言えば、「寄り道」「道草」って結構意味あるかもってことです。だってさ、僕らの人生って「放課後」「下校時」から始まってませんか?授業時間から人生が立ち上がっていったという人は少ないと思うのだけど。

 加えてこれが要諦だけど、「ひょん」一発で全ての人生がガラリと変わったという経験を一回でもいいから体験することでしょう。そしてそれを常にとは言わないけど、ときどき思い出すこと。

 まあ、それで人生が変わったとしても、それに気づくのは随分あとになってからでしょうね。過ぎてみてから、「ああ、あの地点だったのか」と分かるという。だから意識してどうこうする話ではないです。日々の感じでいえば、気持ちゆるめに、遊びをもたせておくなんでしょうね。100%計画が立てられたとしても、敢えて95%くらいに留めておくこと。キチキチにしないで、5%は神様用にとっておくと。日頃からあんまり合理的に詰めすぎないで、ちょい無駄を多めにしておくと、「ひょん」を招き寄せやすいと思います。まあ、このあたりは何となく分かるでしょう?



文責:田村



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