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今週の1枚(2011/10/24)



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Essay 538 : ゼロの幸福

20歳までに人生を全て履修していること
 写真は、夜のCrows Nest。
 ジグザグ=ZIG-ZAGというのは、実は英語だったというのを、こちらに来てから知りました。



 「人生に必要な知恵は全て幼稚園の砂場で学んだ」という書籍が随分昔に流行った記憶があります。読んだことはないのですが、タイトルだけで「ああ、確かにそうかも」と思った記憶もあります。言わんとするところは(多分)よく分かる。

 今回書くこともそれに近いのですが、「幼稚園の砂場」ほどの時期/場所限定ではなく、もう少しスパンは長いです。といっても「子供時代」であることに変りはないのですが。

 サマリーを言えば、「大人になるまでに、もう既に一回「人生」やってるんじゃないの?」ということです。

 「大人になるまで」という表現はちょっと漠然としているのですが、まあ中学くらいまで?あるいは高校、大学入った初期の頃、マックス20歳くらいまでです。人生に登場する基本アイテムというか、エッセンスはこの時期までに全て出尽くしており、あとはその繰り返しでしかないかのでは?と。やってない未履修の単位は「老い方」「死に方」くらいじゃないか。

 そして、「それがどうした?」といわれたら、人生に対する全ての解答は過去の自分の体験にあるということです。いっぺんどっかでやってるんだもん。それを注意深く分析して、法則性なり教訓を引き出せば、それで済む筈。

 考えてみれば、人間の生き方なんかシンプルなもので、メシ食ったり寝たりという生理欲求を満たし、他の人間達と交わってあれこれやってるだけでしょう。それを10年、20年もやってたら、大体のパターンは出尽くしてしまう。そんなに「うわ、こんなん初めて!」みたいな驚天動地の人生体験が待ってるとも思えない。そんなのがあるなら、過去20年に出てきているはず。これが昆虫のように変態するとかいうなら話は違いますよ。イモ虫時代やサナギ時代に、成虫になって空に羽ばたく体験が分かるわけがない。でも、人間なんか似たようなカッコのまま大きくなるだけだし、生態も似たようなもの。


 抽象的に言っていても分かりにくいでしょうから、幾つか例を挙げます。

 まず人間関係。幼児の頃に段々と自我が芽生え、世界と自分とが分離していく。「自分 vs 世界」という基本構造を学ぶ。最初は親に絶対的に保護されているだけの存在ですが、それでも父・母という違う人間がいることに気づく。「上の人間」の存在、そして「個性」というものを学ぶ。さらに兄・姉がいると、また種類の違う「上」がいることにも気づく。そしてその個性によって翻弄されたり、あるいはそれを利用することも覚える。

 お母さんは優しいけど時々押しつけがましいとか、お父さんはいい加減だけど、それだけにお母さんよりも許容度が高い場合もある。兄貴は気分屋で、いじめたり害をなす存在だけど、身近でもっとも役に立つアドバイスをくれる。こういった個性差に「AさんはOKだけど、Bさんはダメ」「Cさんを通じてBさんを動かすと上手くいく」という人間操縦法を覚える。直属の上司に意見具申してもダメだけど、頭越しにさらに上に言うと通る場合もあるが、それなりにリスクがあるとか。お兄ちゃんに逆らったら潰されるけど、お母さんに言いつけて叱って貰う、、などなどのテクニックを覚える。ね?やってるでしょう?

 さらに人間関係で言えば、弟や妹が出来たら、部下が出来たようなもので、可愛い反面小面憎かったりもするし、お母さんが弟にかまいっきりで、生まれて初めて「嫉妬」という感情を覚える。さらに、「お兄ちゃんでしょ!」の一言で全ての欲求を封殺され、この世には「立場」というものがあるのだということを知る。

 これがさらに近所の遊び友達が出来て、また別種の上下&水平の人間関係を学ぶ。学校に入り「集団」における身の処し方を覚える。「派閥」も知る。勉強や体育など、素質や成績によって待遇が変わることも学ぶ。また、その評価採点方法が必ずしも完全ではないことも学ぶ。部活をやれば、より厳しい上下関係を学び、自分が先輩になれば後輩指導の難しさを知る。色気づいたら恋を知り、上手くいかないことを知り、場合によっては三角関係など複雑な状況も学ぶ。

 ほら、もうこの時点で大抵のパターンは出尽くしてるじゃないですか?他に何がありますかね?
 まあ、あるとしたら「舅姑との付き合い方」とか、「孫にお年玉を上げる」とかだけど、これらも応用といえば応用でしょう。

 この人間関係論だけで本が一冊書けるくらいですが(実際そういう本があるくらいだし)、それに尽きるものではないです。幾つか思いつくもので、案外盲点になりそうな事柄を書いていきます。

経済的起伏と人生的起伏はぜーんぜん関係ないこと

 大人になると忘れてしまうのですが、また今の日本などにいるとついつい錯覚するのですが、自分の経済的な浮沈と、人生の幸福度とは必ずしもパラレルではないです。というか、ぜーんぜん関係ないです。金があれば幸せになり、金がなければ不幸になるというものではない。あったり前の話なんだけど、こんな簡単なことを何故か人は忘れてしまう。

 「簡単なこと」なだけに、かなり早い時期に僕らはそれを学んでいます。

 子供の頃の「経済」といえば、要するに「お小遣い」です。たまにお年玉というボーナス収入もあります。

 一般に子供の収入(小遣い)は右肩上がりです。年を取るほどに小遣い額が増えるという「年功序列の右肩上がり」構造をしています。だからバブル崩壊後の生まれだろうが何だろうが、多くの人はそれなりに「右肩上がりの年功序列」の恩恵は被っていると言える。でもって、大学に入るとか成人になると小遣いは無くなります。「定年」ですよね。

 で、よく思い出して欲しいのですが、子供の頃、いつ頃が一番楽しかったとか、辛かったとかいうのと、自分のお小遣い額の変遷とは関係ありますか?これも多くの人の場合、全然関係ないと思うのですよ。

 僕もあんまり覚えていないけど、いつだったかな300円の小遣いが500円に上がったときは嬉しかったのですが、日々の楽しさは全く別の要因によって決まってました。つまりは、所属しているクラスの雰囲気が良かったり、いい友達ができたり、逆に先生に目を付けられたり、いじめられたりという、そういう人間関係メインの原因で、浮いたり沈んだりしていました。これも僕がだけが特別なのではなく、誰でもある程度はそうだと思う。

 あとはその繰り返しです。大学以降、司法試験受験時代→修習時代→弁護士時代で所得水準は格段にあがりました。受験中は時給540円でしたもんね(最初は480円)。まあ、昔の話ですけど、それでも安かったよな。でも、バイト始めて定期収入が入るようになってからの方がまだしもリッチ感はあって、それ以前の初動時代は「1年間に3回しか肉を買ったことがない」という貧民ぶりでした。まあ、ギターやって受験やってたら弦代、書籍代ですぐにスッカラカンになります。「肉が食いたい」という曲まで作曲したもんな。修習時代は夢のお給料が出て、手取りで10万円を切りましたが、それまでがそれまでだから滅茶苦茶リッチな気分になりましたねえ。それで結婚もしてますが、別に足りないとは全然思わなかった。でもって弁護士になったら、いきなり月給手取り30万円でした。プラスボーナス。もうロケットのように垂直上昇的に所得は増えたものの、じゃあハッピーになったのかというと微妙なんですよね。

 今から思うと(当時ですら思ったが)、一番金が無かった頃が一番楽しかったですよね。若かったからということもあるけど、それだけではない。自由の開放感であるとか、何かにチャレンジしているとき高揚感であるとか、そういうことが大きな要素になってたように思います。貧乏下宿の仲間なんかほんとにいい友達だったし、一番安いサントリーのホワイトを買ってきた奴が「じゃーん!」とかいって差し出して、皆で「おお!」とどよめいたりしてたときが一番楽しかった。最初のカミさんと結婚する頃、250円のシメサバを買おうかどうしようか30分も迷ってた頃の方が確実に「しあわせ」でしたね。

 これは話の流れで無理矢理そう書いているわけではなく、かなり本心からそう思います。もしタイムマシンで好きな時代に戻れるなら、お金のなかった受験時代に戻りたいです。弁護士時代は、あれはあれで良かったけど、特に戻りたいとは思わないです。思うくらいだったらオーストラリアくんだりに来てないです。

 それとお金の幸福感というのは相対的なものです。
 千円でピーピーいってた時分に臨時収入が1000円あったりするとかなり嬉しい。引き出しの奥から予想外のお札が出てきたりしたときとか。でも年収1000万、2000万円になると臨時収入が500万くらいあっても「ふーん」って感じ。貧乏時代の千円の方が確かに主観的には嬉しかった。羽振りが良かった頃には10万円近くのバーバリーのコートでも衝動+即金買いしたけど、それより学生時代に「サバのミソ煮缶3個100円特売」を見つけたときの方が心のトキメキは大きかった。

 だからお金に伴う幸福感というのは、あくまで相対的なもので、あくまで現在の水準が基準になり、そこを起点にして増えるかどうかなんですね。総資産10万円の人が20万円に増える(倍増)と、1000億円の人が2000億円の増えるのとは基本的に等価だと思います。むしろ、額が大きくなるほど体感的に実感する機会(そのお金で飲みにいくとか、美味しいケーキを食べるとか)が少ない分、幸福感は薄いかもしれない。

 そして、これらのことだって別に「達観」でも何でもなくて、子供の頃のお小遣いとハッピー度の相関関係を考えてみれば、誰でもわかるように思うのです。

不幸とは呪縛であり、幸福とはその解放である

 もちろんお金がなくて不幸になることは沢山ありますよ。そんなことは、あなたに言われるまでもなく、自己破産や管財人の現場で幾らでも見てきてます。子供の頃だって、家が商売やってて(よく転業したし)、お金が無くて家の中がギスギスした暗い感じも体験してるし、ある日起きたら家族がいなくなって取り残されたという悪夢にうなされたこともあります。金がないのはツライです。そんなん知ってます。

 でも、お金が「ある」という状態を体験し、どちらも比較できるようになると、お金がないことによる不幸さはお金では根本的に解決しない(場合が多い)、ということも分かるようになります。対症療法でしかない。そりゃ妹が難病になって、治療しようと思ったら3000万円掛かるとか言われたら、お金の有無と幸福はかなり直結するし、商売などにおいてはお金はダイレクトに威力を持ちます。お金さえあれば即座に解決するという問題も多い。

 でもね、でもね、多くの自己破産案件をやった経験、そして自分自身の経験で言えば、お金がないから不幸と思っている状態のマジョリティは、お金がないことにより「現在の幸福(だと思ってる)状態を維持できなくなる不幸」だと思います。もっと言えば「○○でなければ地獄に堕ちる」くらいに思っているその思いこみです。ここまで強く思いこんでしまえば、それはもはや「呪縛」といっても良いくらいで、それを守るためには数千万の借金を重ねてもいいと思えるくらいにまでなる。

 自己破産の本当の効用は、数千万の債務を免責する法律効果ではなく、本人の主観においてこの呪縛を解く点にあると思います。破産する前の人というのは本当に不幸度が高いというか、死人のような顔色なのですが、破産を通じ生活を整理し、ゼロからスタートになるときには、人が変わったかのようにイキイキします。死人が甦ったかのように元気になる。これは離婚した人もそういう部分がある。人にもよるけど、ずっと我慢し続けてきた婚姻生活を解消すると、パッと花が咲いたようになる人も多い(特に女性)。「ねばならない」という呪縛が解けたからでしょう。

 だとすれば、お金がない不幸に対する根本的な対処法は、お金を得ることではなく、呪縛を解いて、自由な発想で他の選択肢を探すこと、探せること、実現すること、そのように思えることでしょう。これはAPLaCの”PL”である「Pluralistic Life=多元的な生き方」であり、おそらく僕は死ぬまで言い続けていると思いますが、選択肢が豊富にあればあるほど、あると思えれば思えるほど、その人は不幸には陥りにくい。これしかないと思いこむからツライ。

 今の日本に何が一番足りないかといえば、お金でも職でも安全でもなく、選択肢だと思う。生き方のバリエーション。そしてそれは無から有を生じさせるほど難しいことではなく、既に現存しています。ほんとに信じられないくらい沢山の人が、信じられないような多種多様な生き方をしている。それぞれの道を見つけている。ただ知らないだけ。だからそれを知れば良く、伝えれば良い。その意味で、お金がない不幸に対するお金というのは、ただの対症療法であり、場合によってはいたずらに苦痛を長引かせる無意味な延命治療ですらある。

 僕自身の過去を顧みて恵まれていたなと思うのは、ド貧乏時代とリッチ時代の両方を若い時分に体験できたことです。Before/Afterを体験すると、「なるほどそういう問題ではないな」と分かる。これも前に書いた「なるほどの旅」と重複しますが、所得を増やす本当の目的は「なるほどね」と確認することだったりすると思います。

 もう一歩踏み込んで極論めいたことを言えば、金が無いことに伴う苦痛は、金があることに伴う苦痛とほぼ等しい、と。いや、ほんと、お金が「ある」ことによる苦労はすごいですよ〜。とりあえず稼ぐためには相当キツイことをしなければならないし、しかもそのキツさの殆どは精神的なものです。「悪魔に魂を売る」という表現があるけど、それに近いようなこともあろうし、24時間間断なく緊張が続くし、プライベートは限りなく薄くなる。

 そこまで苦労して稼いだところでがっぽり税金で取られるし、つきあいは激しいし、タカられるし、カッコつけなならんし、嫉妬されたりもするし。それに幾らあっても安心だという気にならない。時給650円で頑張ってる人には、退職金3000万円というと目のくらむような大金に思えるだろうけど、その人にとってみれば老後の蓄えとしては全然足りる気がしない。それに資産防衛は難しく、銀行はコケる、インフレになる、株や不動産、金ですら暴落するなど気苦労が絶えない。鮫のような連中も寄ってくるし、子供は誘拐されるかもしれないし、腹心の部下には裏切られるし、親族からの相続目当ての鬱陶しい攻勢もある。金に伴う苦労を解消しようと思ったら、か〜なり面倒臭いです。前の事務所の依頼者に個人資産1000億円という人がいましたが、ほとんど鬱になってましたもんね。でもヘタにそれを表に出したら、策謀を巡らす親族連中が医者を抱き込んで診断書を書かせて精神病院に強制入院させられかねないから、ひきこもることすら出来ない。

 それより一番の問題は、なまじお金があると、お金に頼るように考え方がシフトすることです。昔からの大金持ちはそのあたりの処世訓が出来ているし、お金以外の力(縁戚やネットワーク)が強い。しかし、働いて所得を得ている程度の小金持ちは、お金が無くなったら地獄に真っ逆さまになるかのように思いこんだりする。つまりは「呪縛」がキツくなる。僕ですら、このままやってたらしがみつくようになると思って、それが恐かったというのがあります。今の日本では、いわゆる既得権者が、まるでスッポンのように絶対に既得権を手放そうとしませんが、おそらくは相当な恐怖心があるんだろうなって気がします。

 ああ、だから僕の幸運は、単にお金の有/無双方を体験しただけではなく、「お金がないけど幸せだった」という体験を得たことでしょうね。だからこそお金パワーが案外ショボイということがよく分かったのでしょう。

 二代目以降のサラリーマン社長に比べて創業者が強いのは、お金が無かった頃の幸福、いわば「ゼロの幸福」のようなものを知っている点にあると思います。ゼロになることを本質的に恐がらないし、無意識ではまたゼロの幸福に戻りたいとすら思うのかもしれない。だからこそ、大バクチも打てるし、乾坤一擲の勝負も、凄まじいイノベーション(革新)も出来る。故人となったスティーブ・ジョブスも、ゼロから始めたのみならず、一時期自分の会社から放逐されてますから、ゼロを二回も知っている。だからこそ革新的であり続けられたのだと思います。逆に、守ろうとする人間、しがみつこうとする人は勝負に弱い。恐怖心がいつしか判断を誤らせるのかもしれません。

 ということは、お金がなくて不仕合わせだと思っている人は、多分、お金が入っても不仕合わせのままだということです。残酷な物言いかもしれないけど、だってそういう問題じゃないんだもん。収入が少ない、ステイタスがないから彼女が去っていったとか、結婚できないと思いこんでるのであれば、それは違うと思う。いわゆる「甲斐性なし」だけど、女からみて甲斐性無し男のダメさの本質は、結果としてお金がないことではなく、それを得るためのガッツやクレバーさ、したたかさ、総じて言えば「オスとしての頼もしさ」がない点にあると思う。逆に言えばこれさえあれば、金がなかろうが、ステイタスどころか世間から後ろ指を指されようが惚れてくれる人はいる。チンピラヤクザだって女にはそう不自由してない。

 だからどこまでいっても「金の問題」ではなく「人の問題」であり、人の問題にするのはあまりにもツライから金の問題にすり替えているだけ、言い訳として使ってるだけじゃないのか?と。しかし、そんな言い訳なんぞ、女性が本能的に備えているオス査定スキャンを免れ得る道理もない。

 さて、これらのことも、子供時代に十分に経験しています。大人世界における「所得」は子供時代における「成績」にニアリーだと思うけど、成績が良ければハッピーで、成績が悪ければ地獄、という具合に一律に決まっていたわけでもないでしょう?いわゆるガリ勉君は、あんまり女の子にモテないし、人望も乏しい。逆に運動が出来る子が人気があったりするが、これも運動さえ出来れば良いのかというと必ずしもそうでもない。

 さらに他者の評価の上下と、個人的な幸福感は必ずしもリンクしない。先生や親に褒められ、クラスで尊敬されていても、個人的には鬱々としているときもある。でも、親や教師に年中叱られ、クラスでも鼻つまみもの状態だったとしても、趣味の合う友達が出来て、少人数でシコシコやってるときが意外と楽しかったりするのだ。人気クラブではなく、存続が危ぶまれるような泡沫クラブの部室にタムロして、いつもの面々とウダウダやってるときが実は楽しかったりする。なぜか?本当の自分を出せるからでしょう。

 これらの事実によって何が分かるかといえば、成績(所得)と幸福感とは無関係であること、そして世間からのゼネラルな評価よりも自己表現がどれだけ出来ているかが意味を持つこと、などです。

 子供時代において何が「不幸」だったか、どういうときに気分が滅入ったかといえば、結局同じ「呪縛」でしょう?成績がなまじ良いと、好成績をとり続け「いい子」であらねばならないという「呪縛」をかけられ、またそう思いこみ、いわゆる「いい子ストレス」がかかる。勉強の出来ない子は、勉強が出来ないことがあたかも大罪であるかのように怒られ、叱られ、自分がいかに落ちこぼれか呪縛洗脳される。「勉強」を「所得」に置き換えれば、まんま大人世界に通じるわけで、結局また同じ事をやってるわけです。

 呪縛はなにも勉強(所得)に限るものではなく、友達がいないとダメ人間であるかのように思うのも立派な呪縛だし、趣味がなければつまらん人間であるかのように思うのも呪縛。「安心」「安全」も呪縛。働いてないとダメ人間というのも呪縛、正しい子育てをしないとダメ親であるかに思うのも呪縛。呪縛というのは価値観であり、人間においてはOSであり、ここが納得できないとき、納得できない価値観を押しつけられて自我が侵されそうになるとき、さらに、さらに突き詰めていけば、自分の価値観を自分で作り上げることが出来ないとき、人は激しく不幸感情を抱くのだと思います。


 「ゼロの幸福」というのは、何も所得がゼロだとか、世評がゼロだというのではなく、呪縛がゼロである状態の幸福でしょう。「いい加減にしなさい!」と怒られながらもチラシの裏に落書きを描いていたとき、誰も入ろうとしない不人気クラブに敢えて入っているとき、「お前なんかに出来るわけないだろ」と言われながら(言われているような気がしながら)もそれでも何かにチャレンジしていたとき、人はなにがしかの幸福感を感じる。その本質は何かといえば、呪縛の無さであり、世界の呪縛外圧に対抗しうるだけの自前の価値観を作り上げられたことでしょう。簡単にいえば、「うるせー、俺はこれがやりたいんだ」と言える力が、人を幸福感へと導く。

 しかしながら、かくも多くの人が呪縛にかかるのは、呪縛というのは楽なのでしょう。自分だけの価値観を樹立するというのは難しいことです。先ほど述べた「ヘタレの言い訳」みたいなクソ価値観ではなく、本物のオリジナルの価値観。こいつは難しい。だから「出来合いの価値観」を借用した方が楽だし、周囲の理解も得られる。よって進んで呪縛に入り込み、そしてしまいには呪縛に苦しむ。蜘蛛の巣みたい。ここからポンと飛躍して処世訓を引き出せば、「皆さん、どうしてます?」と聞くな!です。周囲をうかがい始めたその瞬間からあなたの不幸は始まるってね。

 ということで、大人世界のあんなことこんなことも、全部子供時代の体験の焼き直し、パクリでしかないと思います。

成長の喜びの本質

 この調子で挙げていけば無限に例はあるのですが、キリがないので、これで最後にします。

 成長することは楽しいし、幸福の素になりそうなんだけど、必ずしもそうではない。長い目で見ればそうなんだけど、リアルタイムに実感としてそう感じられるとは限らない。これも子供の頃に学んでます。

 もし本当に成長=幸福ならば、子供というのは常に成長しているのだから一人残らずハッピーでなければウソです。背丈は伸びるし、身体も大きくなるし、知能も高くなるし、知識も増える。こんなに思いっきり成長しているだけど、でも子供の幸福感はそれとはリンクしていない。「柱のキズはおととしの〜」という童謡がありますが、こんなに背が高くなった!という喜ばしい事実、ときには1年間に10センチくらい伸びる「高度成長」時期もあるのだけど、当の子供にしてみれば、実はそれほど嬉しいことではない。喜んでるのは親や親戚のおばちゃんとかで「まあ、○○ちゃん、大きくなって〜!」と、畑の野菜のように鑑賞されるという。肝心の自分は、去年着ていたオキニの服がツンツルテンに着れなくなって哀しい思いをしているという。

 世の中に「成長」は数々あれど、小さかった自分が「巨大化」するというという成長が一番分かりやすく、一番幸福だとも思える。にも関わらず、それほど嬉しく感じない。ダイエットのように日々体重計に乗って一喜一憂するように、毎日背丈を測って成長を喜ぶ子供って、そんなに居ないと思う。

 なぜか?これは簡単でしょう。別に自分の努力で成長したわけではないからです。全ては遺伝子プログラムの成果であり、自分としては食って寝てるだけ。だから「成し遂げた」感がない。そう、成長に伴う喜びというのは、そこに自己実現として自我が混入しないと楽しくならない。クラス対抗試合で優勝したとか、カーブが投げられるようになったとか、どんなにささやかなことでも、そこに自我が混じっていたら嬉しい。成長の喜びとは、一つにはこの達成感でしょう。

 もう一つ、「世界の見え方が変わる喜び」があると思います。

 逆上がりができるようになった場合、それまではクラスでミソッカス扱いだったのに、これで誰からも馬鹿にされなくなるぞ、皆に対して胸を張れるぞと思う。それが嬉しい。乗れなかった自転車が乗れるようになったり、これまで出来なかった事が出来るようになったとき、それまで諦めていたこと、視界にすら入ってなかったあんなことやこんなことも出来るかもしれないぞと思う。それが嬉しい。

 つまりは自信がついたら世の中の見え方が変わるということであり、この見え方、Before/Afterの視界の落差が喜びの本質だと思います。

 世間では挨拶のように「頑張ってね!」と言いますし、僕も言います。じゃあ何のために頑張るのか、頑張ると何かいいことがあるのか、頑張ることの最終目的は何か?といえば、全て「自信をつけて見え方を変えるため」だとも言えるでしょう。ヘタレな自分が見てる世間と、自信のある自分が見てる世間は、同じ世間でありながら見え方が全然違います。見え方が変われば、あんなにつまらなかった灰色の世界が、色鮮やかな楽しげな世界に見える。

 手前味噌ですが、僕がやってる仕事も、オーストラリアに来て最初の一週間で「見え方を変える」ためのものです。自信が付いたら見え方がガラリと変わる。あの恐かった「外国」が愛すべき故郷のようになる。「風景に色が付いて」きたら卒業です。

 でも、それもこれも、全部子供の頃に履修済みでしょう?
 だから、特段新しい知識や技術を教えているわけでもなく、単に思い出していただいているだけです。




文責:田村



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