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今週の1枚(2011/10/17)



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Essay 537 : 「素」 と 「虚」

 写真は、Bondi JunctionのWestfield Shopping Centre



 「素」という言葉が面白いです。

 「素の自分」という言葉があります。ありのままの自分、飾らない自分。
 「素粒子」というコトバもあります。万物を構成する最小単位です。
 一方では「味の素」という使い方もあります。「もと」ですね。「元気の素」です。

 「素」がつく言葉を挙げていくと、素足、素人、素手・素足、素敵、素通り、素泊まり、素直、素肌、素早い、素振り、素因、素材、素行、素地、素質、素知らぬ、素っ気ない、素描、素封家、素朴、素養、要素、元素、栄養素、毒素などなど。

 これらをつらつら眺めて、「素」というのは一体何を意味しているのか?考えてみると、

 @、その存在の核になるものであり、ベーシックで基礎的、最小の構成ピース(core/basic)→素粒子、要素、元素
 A、あくまでソリッドでありのままの実質(material、substance)→素朴、素質、素材
 B、ゆえに虚飾を排する(naked、true)→素顔、素地、素朴、素っ気ない

 などなどが浮かびました。
 ふむ。考えてみればすごい言葉です。
 「素」が充実してたら最強でしょう。素が良かったらあとは何とでもなる。それこそ「だしの素」のように何にでもなれる。

 一方、「素」の対立概念は何かというと、「虚」だと思います。

 あるものごとを見るとき、それは「素」なのか?それとも飾り付けた「虚」なのか?という切り口があります。そのあたりから話を広げていきましょう。

虚の本質


 人間において、何が「素」で、なにが「虚」なのか。

 考えるに当って「素」は難しいので、とっつきやすい「虚」から入っていきます。「虚」とは何か?
 「虚」というのは、アケスケに言ってしまえば「ごまかし」です。「虚飾=嘘の飾り付け」「虚栄=嘘の繁栄」ですから、文字通りウソであり、非真実です。

 一般に「素に自信がないと虚に走る」という傾向はあると思います。
 背が低いのを誤魔化すためにシークレット・ブーツを履く、ハゲを隠すためにカツラをかぶる、白髪を染める、とっても分かりやすいです。これらは「素」に自信が持てないがゆえに「虚」に走るという典型例ですが、とても分かりやすいだけに微笑ましいです。罪もない。

 「ウソはいけない」と言いますが、言葉による嘘以外にも嘘は沢山あります。学歴詐称、経歴詐称にはじまって、年齢詐称、体重&スリーサイズ詐称、、、、。「化粧」だって、「粧(よそお)って化ける」んですから、嘘の一種でしょう。

 しかし、そういった嘘はある程度は許してあげるのが大人でしょう。自分だってたーくさん嘘ついてるんだから。

 とはいうものの、僕もティーネイジャーの頃は愚劣に潔癖だったから嘘が許せなくて、親の嘘、教師の嘘にはじまって、化粧をしている女性ですら「ウソつき」だと思ってましたもんね。もうカツラかぶってるおっさんと嘘つき度ではほぼ同罪。てか、もう、どういう形であれスカしたり、カッコつけてる奴は死刑!ってくらい。高校くらいの頃で、要するに馬鹿だったですよね。

 それが、まあ、ロックなんぞをやり始めて、何をトチ狂ったか勢いで自分が化粧してステージに上がったりする頃から、嘘に対する許容度はグンと上がります。まあ、ロックなんかある意味では「嘘のカタマリ」ですからね。「いいよね〜、嘘」みたいな。もちろん化粧している女性でも全然OKです。

 余談ですが、30歳を超えるくらいになると、つまりはオッサン度が高くなると、今度は化粧がヘタクソな女性が、なんかいじらしくてラブリーに見えるようになってきました。もう可愛くって。結婚生活などで10年以上も女性と一緒に暮らしていれば、女性がどうやって化けるかは分かるようになるし、初見で化粧顔を見て、その素顔を「逆修正イメージ」することも割と出来るようになる。そうなると、逆に、一所懸命お化粧をしようというひたむきさというか、「粧う心」のある意味でのピュアさやいじらしさに、ふと胸を打たれたりもするのですね。まあ、オッサン臭いんだけどさ。

 ちなみに、自分がもっとジジーになってくると、若い人をみても、その人のジジババ顔が簡単に想像できるようになってきます。「どう変化するか」を自分自身や友人知人を見ててイヤというほど学習しますからね。だもんで、20歳くらいの人をみても、「ああ、可愛いおばあちゃんになりそうだな」とか思っちゃいます。いや、別に意識しなくても自然と見えちゃうんだからしょうがないです。

 もう一つ余談だけど、「老い」に対する恐怖や醜悪感情は、オーストラリアに来てかなり無くなりました。なぜって、こっちのジーちゃんとか、かなりラブリーなんですよね。「お年寄り」という言葉につきまとうイメージがあんまりなくて、男性はヤンチャ坊主みたいな感じだし。どっかの家具売り場に行ったとき、最高級品のふっかふかのソファーに試しに座ったおじーちゃんの満面の笑みが忘れられん。赤ん坊の笑顔。見るからにイタリア系らしいおじいちゃんが蝶ネクタイから靴下までビシッとコーディネイトを決め、ニコニコしながらキックボードに乗ってスイスイ走ってたり。ビーチでボッロボロの貫禄サーフボードと抱えて悠然と歩くジーちゃんとか、長めの銀髪なびかせてBMWのオープンカーで疾走するジーちゃんとか。バーちゃんは逆にイケイケな人が多いような気がする。頭の回転がシャープで、エッジが立ってる人。サッチャーみたいな。また年齢が高くなるほどにお洒落には気を使うようになってる気がしますね。若い女性、女子大生くらいが一番気を使ってないというか、勉強が超ハードなのでそんなヒマはないのだろうし、それこそ「素」でグイグイ押してる感じがする。

 どなたかのワーホリ体験談にも書かれてましたが、オーストラリアに来て「あ、年をとっても楽しいんだ」ということを学んだと。僕も学びましたし、日々学んでます。カッコいいロールモデルがわりと周囲に多いので、老いに対するイメージはだいぶ変わりました。だから、他人のジジババ顔を想像できちゃったとしても、それは意地悪な意味でそうなっているのではなく、かなりポジティブな意味でそうだということです。

 話は逸れましたが、嘘を嘘と言って弾劾するばっかりが能じゃないでしょうってことです。

 文化なんか虚実入り混じってなんぼです。
 平安貴族のお香、伽羅を焚きしめてどうこうとかいうのも、滅多に風呂に入らない時代で、「素」でやってたら臭くてたまらんから「芳香剤でごまかす」「虚」が発達したものでしょう。文化とは「上手で優雅な嘘の付き方の体系」と言えなくもない。一方で、日本料理の精髄は「素材の味を生かす」ことだと言いますから、その意味で「素」は最大に尊重されている。どちらも大事。「虚・実入り混じる」というのはそういう意味です。

 こういう罪のない嘘、テイストのある嘘はいいです。
 サンタクロースの不存在をムキになって論証しようとしたり、デーモン小暮が悪魔だなんて大嘘だと言い立てたりするのは、野暮というものです。粋じゃないよねって。

 虚というのは文化。
 楽しむもの、味わうもの、そして騙されてあげるもの。

「素の他人」


 では、本題の「素」です。

 「素の自分」というのは、分かるようでなかなか分かりません。何が本当の自分で、何がカッコつけてる「虚の自分」なのか、自分でもわからなくなってきてしまう。なまじ自分なだけに冷静に突き放した見方が出来ない。「素」に迫れば迫るほど、ダメダメな自分に向き合わねばならず、場合によっては傷口に塩を塗り込むような苦痛すらある。

 むしろ「素の他人」の方が、遠慮なくダメ評価できるから分かりやすいです。それが真実かどうかはともかく、ズケズケ考えやすい。

 早い話がルックスで、自分自身についていえば、お化粧をしたり、ファッションにも気を配って「イケてるわたし」を演出しようとします。Facebookのプロフ写真でも「奇跡の一枚」を撮ったり探したり。でも、他人は容赦がない。そういうイジこい努力を、「厚化粧」とか「若造り」とかバッサリ斬って捨てたりしますよね。「詐欺」呼ばわりする場合もある。

 典型的なのは整形手術で、いくら見てくれが良くても「整形だろ?」と言われてしまったら終わりという部分もあるし、昔ほどではないにせよ、整形にはどっかしらネガティブな要素がある。少なくとも誇らしげに自慢するようなこととは思われていない。


 しかし、しょせんは赤の他人に過ぎないことに、なんでそこまで虚と素を激しく峻別し、弾劾するのか?
 他人(世間)は見てくれが十割という言葉もあるように、表面的な付き合いしかしないのだから、目の前の現象が全て、見た感じが全てであり、それが素のものか虚のものかという立ち入ったところまで考えなくても良いではないか?にも関わらず他人は考える。なぜか?

 こと恋愛、とくに結婚相手の選定のレベルになると、この種の「素」の重要性は高まります。一夜限りの遊び相手だったら、整形だろうが、ケバかろうが構わないし、むしろハデで見栄えがいい方が盛り上がるかもしれないけど、いざ結婚相手に選ぶとなると話は自ずと違う、という人も多いでしょう。

 なぜか?といえば、一つには本能的なものでしょう。動物の本能は子孫繁栄であり、しかも「より優秀な」子孫繁栄です。つまりは遺伝子選びです。相手選びには、いかにその人の遺伝子が優秀かどうかを本能的に考える。人間が他者を「美しい」とか「魅力的」と感じるのは、顔や体型の左右対称度とか、理想の割合比率(プロポーション)に近いかどうかによるそうです。動物でも、繁殖シーズンになると、孔雀の羽のようにより魅力的な姿(遺伝子)をオスが競い合う。遺伝子は「素」そのものですから、整形のような「虚」を激しく嫌う。つまり「素材の良し悪し」をかなり冷静に値踏みをするわけです。

 でも、結婚相手なんか生涯に一人か、いいとこ数人ですので、そんなに四六時中マジに考えねばならないことでもない。しかしそれでも「素の他人」にこだわる場合が多い。それは、長期的な付き合いになればなるほど一時的なごまかしがきかなくなってくるからでしょう。化粧だって落としてしまえばそれきりだし、シークレットブーツも脱いでしまえばそれまでのように、「虚」というのは品質保証の寿命、つまりは賞味期限が短い。これに対して「素」というのは品質が安定的で、将来的にも安心できる。賞味期限が一生レベルだったりするわけです。

 見てくれは良くてもすぐに故障する車と、見てくれはイマイチだけど丈夫で長持ちする車とどちらが良いか?です。それは用途によって違うのだけど、長期的で、実用性が高いほど(営業車とか)、実質部分(素)を重視するようになる。これは原理的には当然の話だと思うし、また経験的にもそうなっていると思います。

 何の話をしているかというと、就職です。そして、親友レベルの「友達」です。
 就職においては、「虚」が嫌われ、あくまで「素」が重視されます。そりゃそうですよ、面接のときだけ調子こいて、自信満々に見えても、いざ採用したら全然使えない!では困りますから。就職というのは、労働市場という「マーケット」であり、市場においてウソを表示することは「品質の不当表示」であり、犯罪的ですらある。いかにそのウソを見抜くかがバイヤー(採用官)の腕の見せ所ですらある。

 就職、友人関係、結婚という長期にわたる人間関係=人生の根幹に関わるような人間関係になればなるほど、虚構性は嫌われ、「素」が重視される。実際、自分だって他人に対してはそういう態度で臨んでいるでしょう。順境のときだけチヤホヤして、いざ逆境になったら手の平を返して冷たく去っていくような奴は友達じゃないって、誰でも思うでしょう。「金の切れ目が縁の切れ目」みたいな相手と真剣に愛情を交わそうとは思わない(ま、騙されるんだけどさ)。

 このとき他者に対して何を求めるか、不変の性能・性質として何を求めるか?こそが、人間における「素」なのだと思います。

素の自分

 他人に対しては比較的クリアに見えることでも、自分に対してはその視力が曇る。よく分からなくなるのです。

 それは「素の自分」があんまり好きではない場合が多いからでしょう。鏡に映った自分のたるんだ下腹とか、涙が出るような試験結果、そんなものをじっと見つめていても、まあ、楽しくはないよね。

 はたまた人格態度においても、今日一日、あるいは過去において、他人に対して心ない仕打ちをしてしまった冷血な自分、すぐに逃げ出してしまった根性なしの自分、心にもないお世辞を連発した情けない自分、力に屈して心が折れた卑屈な自分、保身のために大事なものを踏みにじった卑劣な自分、、、、あー、もーヤダ!で、夜も眠れなくなったりします。

 それをずっと抱えて生きていくのはしんどい。自信が持てない、向上もあまり見込めない現実を抱えて死ぬまでトボトボ歩いていくのかと思うとたまらなくなる。そこで、なんとか心の平衡を保つために、一生懸命飾り付けをしようとします。「まんざら捨てたもんじゃないよ」と自分に言い聞かせるようになる。そこに「虚」が不可避的に混入する。

 僕はそこで自分自身にウソをつくことを、必ずしも悪いとは思ってません、その点は、いつか「私設応援団」ということで一項起こしたいと思ってますが、人間なんか誰だってダメダメなんだから、ウソでも付かなきゃ生きていけないですよ、正味の話。

 ただし、この種の「虚」はモルヒネみたいな麻酔薬で、場合によっては劇薬となり、麻薬にもなる。「痛み止め」程度に使ってる分には有用だけど、中毒になると自分を浸蝕する嘘になる

 ウソをつくこと、誤魔化すことが人生の目的みたいになったらヤバいんじゃないかな、ということです。
 「そんな馬鹿な」と思うかもしれないけど、結構ありがちでしょう?

 心理学では、防衛機制(傷つきやすい自我を守るための心のディフェンス・システム)の一つに代償(補償)作用があります。コンプレックスを補うために、他の分野で頑張ることで、例えば勉強がダメだからスポーツで頑張るようなことです。それはそれぞれの素材を生かし、長所を伸ばすことだから、全然悪いことではない。

 しかし、防衛機制のなかには、抑圧、投射、攻撃、同一視、合理化、逃避、、などなど好ましからざるものも多い。なにがアカンかというと、誤魔化してる部分です。

 例えば、自分のダメな部分を否定したくて、その種の話題を無意識的に避ける(抑圧)とか。ケチな人に限って他人のケチぶりを激しく非難するとか(投射)。イケてない人生を紛らわせるためにネトウヨみたいに他者を罵倒するとか(攻撃)、有名人を過度に崇拝したり(同一視)、お国自慢、友達自慢ばっかりするとか(摂取)、「ま、こういう人間ですから」とか自分のことを敢えて突き放した物言いをするとか(分離)、本心とは真逆な方向に振る舞おうとするとか(無意識では憎んでいる親とことさらに仲良く振る舞ったり=反動形成)。もっともありがちなのは「酸っぱいブドウ」の「言いわけ君」で、何かと言えば「本気でやってないし」「今はそれをやる局面じゃないし」ばっか言ってて何にもやらない合理化機制。

 この種の知識は、中学か高校の保健体育だか倫社でやりましたし、常識レベルなのかもしれない(最近のカリキュラムではやらないのかな)。でも、常識だからといってわかっているとは限らないし、僕にしたって往々にしてこの種の過ちを繰り返す。誰だってそうだと思うし、程度問題だけど場合によっては必要悪ですらあるのでしょう。

 でも、本当に程度問題で、行きすぎたら真剣に良くない。

 素の自分をありのままに見つめること、ダメな自分を認めることは、かなり血が流れる作業なのでキツイです。もうモルヒネ何本も打ながらの作業になるかもしれません。

 ここでミソなのは「ありのまま」で、過剰評価も過小評価もしないことです。サントリーのCMのように「何も足さない、何も引かない」です。偽善的にも露悪的にもならない。実際よりもダメ評価しないという点です。ここが難しいんだけど、ともすればピュアで思い詰める人ほど、過剰に自分をダメ評価するよね。そして、辛辣であればあるほど正しいかのように錯覚する。それは世間で出ている「辛口批評」が、ときとして客観公正な論評としてバランスを失しているのと同じです。辛きゃいいってもんじゃないです。激辛が好きなら唐辛子だけ食べてればいいのだ。「辛いけど美味い」じゃなくちゃ。

 自分を過剰にダメ評価すると何が不味いかというと、それに対する手当(上の各防衛機制)も過剰の発動されてしまうからです。やりすぎてしまう。ますますグチャグチャになっていく。

 ただ、素の自分を等身大に見えるようになるには、それなりに修行が必要で、十代だったらまず無理でしょう。20代でも厳しいなあ。てか、20代は素の自分が見えるようになるのが最大の目的だと言ってもいいくらいだと思う。30才過ぎると、多少はコンプレックスも落ち着いてきて、わりと平静に見えるようになり、本当の自分を高める作業はそれから始めてもいいくらいかもしれないです。

 20代は、ピンボールみたいにあっちこっちで小突き回され、ジェットコースターのように上がったり下がったりしてればいいんだと。そのうち収まるところに自然と収まる。このピンボール過程が少ないと、妙なところでボールが止まっちゃったりして、それが後顧の憂いを残す。エリート意識満々で実社会に出たら、瞬殺レベルで鼻柱をへし折られ、横町の角を曲がるたびにボコボコにされなきゃダメです。主観的にはトホホだけど大事なプロセスです。逆にダメだと思ってた自分が、こんなにも他人から愛されるんだということも知らなきゃダメです。どっちが欠けてもダメだと思う。でないと、自分の「素」が見えてこない。

虚と社会正義

 これはちょっと余談になるだけど、この種のゴマカシ機制が社会正義と絡むと話はややこしくなります。国家社会をミスリードすることもありうる。「およそ大衆が叫ぶ「正義」は、その本質においては「嫉妬」である」というシニカルな見方がありますが、一面真理なんですよね(他面ではウソだけど)。金持ちへの嫉妬、持てる者への持たざる者の嫉妬が原動力になって、「正義」を振りかざすという。

 どこの裁判所にもその管区内には「訴訟マニア」と呼ばれるオジサン、オバサンがいると言われています。分かりやすいのは、「自分が内閣総理大臣であるのを認めろ」という裁判ですね。地位確認訴訟という労働事件によくある訴訟形式を使う。またマニアだから知識には精通しており、形式はバリバリ整っているから、「訴状却下」という門前払いも出来ない。裁判所の事務官こそいい面の皮で、そんな訴状を受理して裁判官に持って行ったら「なんじゃ、こりゃ」でカミナリを食らうという。それは極端だけど、やれタクシーに乗ってて(常識程度の)急ブレーキをかけられたのでタクシー会社を訴えるとか、それで負けたら判決を下した裁判官、自分の弁護士を全員被告にして訴え、またその裁判が負けたらそれに関与した全当事者を訴え、、という。ねずみ算式に広がっていく。冗談みたいな話だけど、本当にいるんですよ、そういう人。でも本人は、真剣に「世直し」のつもりでやっているのですね。悪意がない分始末に負えない。

 なんでそんなことするのか?というと、おそらく人生のどっかでボタンが掛け間違っちゃったんでしょう。極度の不況と労働条件の悪化が、ナチスの台頭とファシズムを生んだように、人々のイケてない人生のフラストレーションはなにかの代償を求める。そこに愛国心やナショナリズムが歪んだカタチで与えられることは、よくある話です。そもそもナチスにしてからが、 ヒットラーという画家志望→挫折した小男のコンプレックスの産物と言えなくもない。

 その意味でいえば、自分のメンタル管理をしっかりやってバランス良く整えるのは一般市民の義務ですらあり、ひいては幸福になることは権利であると同時に義務でもあるでしょう。オーストラリアに来てしばらくして思ったのは。、誰もが幸福であるのが当たり前だけではなく、幸福であるのが義務なんだな、と。自分の面倒は自分で見る。"Take care of yourself"です。そして諸般の事情で自分で面倒を見られない人のためには、強力なボランティア軍団が待ちかまえている。

 誰であれ「人を不幸にしない」というのが、よい社会を作っていくための基礎なんでしょう。これは単なるキレイゴトではなく、それが一番効果的で一番コストが安い。不幸というのは放射能のようなもので、どう処理しても回りまわってどっかに出てくる。ちょっと前の秋葉原無差別殺人事件だって、加害者の不遇感や屈折はいろいろあろうが、トバッチリで殺された方々こそ溜まったものではない。不幸には利息が付くのだ。そしてその利息は、本人以外の誰かが払わされたりする。「他人の不幸は蜜の味」とか言って笑ってる場合ではないのだ。他者の不幸は、ブーメランのように廻りまわって自分の背後を襲う。

 NPOなど社会正義に関する何らかの活動をしている人々は、それが恒常的、安定的であればあるほど、クールであることが求められるし、僕の経験でも実際にもそういう人が多い。理想家であるためには一流の実務家であらねばならない。本気で現状を変えようと思ったら、地味に、辛抱強くやっていくしかないです。一過性のノリでイケイケでやってても世間は離反する一方だし、いっときの過激派みたいに「そういう人達」として見られて”隔離”されちゃうから逆効果です。しかし、新規参加をする人達の中には、フラストレーション発散やら歪んだ防衛機制が生き甲斐みたいになっちゃってる人々も常にいたりするのですね。そしてまた会合で声高に「正論」をブチ上げたりするから、組織内融和だけでも大変なご苦労だと思います。

虚像に取り殺される話

 閑話休題。「素の自分」の話でした。
 今までは、ヘタレの素の自分を誤魔化すために虚に走る話でした。

 しかし、それとは違うパターンもあります。
 子供の頃から勉強しろといわれて勉強したらそこそこ好成績だった、褒められた、調子に乗ってもっと勉強したら優秀だと言われた、、、を繰り返しているうちに、結構なステイタスを得てしまった。そうやって順風満帆に進んできたのだけど、さて、それってその人の「素」なのか?という問題です。

 あるいは、真逆に子供の頃から勉強が出来ず、怒られてばかりいたからグレて、気がついたらヤクザの親分になってましたという場合、正負ベクトルは違えどそれなりの所まで「成功」している場合、それはその人の「素」なのか?

 しかし、順調にいってるかどうかという問題と、それが素/虚なのかという問題とはレベルが違う。いっくら人も羨む(恐れる)立場についたとしても、「素」の自分とは違うということはよくあるし、どっかしら「らしくないことやってるよな、俺も」という気にもなることもある。

 ここらへんになってくると、何が素で何が虚なのか分かりにくいです。
 何となくなりゆきで虚像が作られ、またその虚像を演じるのが上手なもんだからどんどん堂に入って、自分でも実像なんだか素顔なんだか分からなくなってしまうという。いわゆるアイデンティティとかペルソナの問題にも連なる古典的なエリアでしょうが、「素がダメだから虚に走る」というパターンではないパターン。実際にはこっちの方が多いかもしれません。

 役者さんとかロックスターなど強烈なパブリックイメージを背負っている人ほど、素顔との落差が激しいといいます。でも、あそこまで強烈なペルソナだったら、逆に「素」とペルソナの違いが本人にも周囲にも分かりやすいし、ある意味幸福な形態だと思います。

 問題なのは、なんとなく周囲の圧力で虚像が作られてしまって、自分でもそこそこやり甲斐があるように感じているんだけど、でもぜーんぜん「素」とは違う場合です。さらに面倒なのは、その虚像の運営に支障を来して困ってしまった場合です。

 虚像なんだから、運営に支障を来したって構わなそうなものですが、あまりにも長いこと虚像経営をしてきたので、「素像経営」が分からなくなった。それどころが虚像に取り紛れて素顔がどっかいっちゃって、見あたらないという。

 さきの秋葉原事件の加害者だって、高校まではエリートコースだったらしいし、そこでコケて段々不遇感が募ったという経過らしいです。本人だって「親に言われて演じてる」とハッキリ虚像であることを自覚している。でも、じゃあ「素」は何なのよ?というとそこがどうも確立してない。虚像なんだからコケようが炎上しようが知ったこっちゃない筈なんだけど、結局ひきずってる。それが「虚像」「演じてる」というなら、虚像を超える実像、「これが俺だ!」という実像をバーンと提示しなければならない。しかし出来ない。虚像に取り殺されてしまう。

 これは馬鹿馬鹿しいです。思いっきり馬鹿馬鹿しいです。最初の「素がダメだから」というのは、まだ「素」に関わってるだけ救いがある。素がダメなら、ダメでないように鍛えようとか、素の表現の仕方をなんとかしようとか幾らでも方法はあるのだ。しかし、虚像がダメになったら実像までダメになっちゃうというのは本末転倒も甚だしい。馬鹿馬鹿しさも極まれり!というか。なんか昔の忍者マンガの忍法「影縫いの術」を思い出した。影に向って手裏剣を打込み相手を動けなくするという馬鹿馬鹿しい術があるのだけど、まあ、催眠術ですよね。それと同じじゃん。

素の効用

 いずれにせよ「素の自分」は何なのか、折にふれ考えておくといいと思います。お得です(^_^)。

 効用@は、「素」に関わらないことであれば、どーでもいいのだと思えるので、これで現世の悩みの70%はほぼ解消する。本質に関係ないことなんだから、あとはもう単なる「世間体マネージメント」の巧拙だけでしょ?そのへんは、もう、「うまくやんなよ」の世界です。テキトーにうまくやっときゃいいんだ、それだけです。うまくいかなくて困ったことになっても、まあ、それだけです。どっち転んでも本質じゃないんだから大騒ぎせんでよろし。

 効用Aは、いい意味で、別に自分がそう大した人間じゃないってことが分かります。そんな肩肘張って頑張らんでもいい、カッコつけなくてもいい。楽になれるぞ。大体僕の思う「素の本人」というのは、3歳児とか5歳児の頃の自分ですよね。ぼけーっと雲を眺めていた自分です。猫を追いかけて縁側からコケてピーピー泣いてる自分です。それが本当の姿でしょ?なにカッコつけんだよって。分からなかったら自分の親に聞いてみるとよろし。どういう子供だったか。

 効用Bは、素の自分に合うことは、前回の無意識論と同じで、自分にジャストフィットする。
 僕の「素」は、例えば興味があることは一生懸命やるけどそんなのは例外的で、常態においてはただのナマケモノだということです。これは自分でも自覚してるし、「ああ、そうなんだな」と段々わかってきた。他人と同じでなくても、世間から後ろ指を1万本さされようとも、好きなときに昼寝がしたい、寝たいときに寝るという生活、これが一番大事。これが「私の人生設計」であり「戦略」(^_^)。だから自由業を求めたし、だからオーストラリアなんだし、だからこっちでも時間が比較的自由だということで、金銭的には全く浮かばれない超零細個人事業をやってるという。それは何故かといえば、「素」にあってるからです。まあ、それだけが僕の「素」の全てではないけど、大事な柱ではあります。昼寝のためなら何でもやったるで〜、と。まあ、「寝るために不眠不休の努力をする」というのは矛盾もいいとこなんだけど、戦う目的が納得できるのは大きい。

 さて、あなたが今日やってるあんなこと、こんなこと、それってあなたの「素」に基づくものですか。それとも虚に関するマネージメントですか?

 でも、ほんと、「素」が充実してたら最強だと思います。
 「素」さえしっかりしてたら、あとは何とでもなる。それこそ「だしの素」のように何にでもなれる。素が充実してたら誤魔化す必要性も乏しいし、歪んで変な方向にぶっ飛んでいく恐れも少ない。人生における幸福とは何か?といえば、「素」がのびのびしていることであり、人生における「彩り」とは何かといえば「虚」を楽しむことなのかもしれません。

 ところで、一番最初に「素」のつく熟語を並べましたが、どうしてもなんでこんな字の組み合わせになるのかわからない単語が一つだけあります。それは「素敵」という言葉です。ワンダフルという意味なんだけど、なんで、「素」のエネミーがワンダフルなんだ?意味わかんね、と思ってたのです。語源を調べても諸説あるようです。「素的」とも書くようですが。

 もしかしたら、「素」が良かったら「最強無敵」だということで、「素敵」なのかもしれません。こじつけですけど。




文責:田村



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