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今週の1枚(2011/10/10)



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Essay 536 : 無意識と直感

偉大なるブラックボックス=無意識の声を聞け
 写真は、Narrabeen Lakesの薄暮。
 正確な場所は、Google Map上ではココです
最初の頃、よくNarrabeenとNaremburnをゴッチャにしていました。よく見ると違うんだけど、パッと見た目の字面が似てるし、こんなヘンな地名、他にはないだろうとか軽く考えちゃうのですね。同じように、Tamarama(タマラマ)とTurramurra(タラマラ)もあります。早口言葉みたい。North Rocks(Parramattaの北)をThe Rocksの北側なんだろうと勘違いしたこともあります。



 今回のテーマは、特段目新しくもなく、常日頃から書いている話です。しかし、こういうカタチでまとめたことはなかったと思います。

 事実上の重複をおそれずに書くのは、このテーマは頭で分かっても仕方がないからです。知識として知っていても実践するのが非常に難しい。すぐに忘れてしまう。だから死ぬまで毎週言い続けるくらいで良いのだ、くらいに思ってます。これは何よりも自戒を込めて。

 サマリーは超簡単で、「直感を大切にせよ!」です。それだけ。
 なぜなら直感を生み出す無意識の世界にはそれだけの力があるからです。
 「直感」というと、「ヤマカン」やいい加減な当てずっぽう的なネガティブニュアンスがあります。しかし、僕は、実はとても信頼性の高いものだと思ってます。

 日常のサポート仕事においても、学校もシェアも「直感ピピピで決めるといいよ」とアドバイスしてますが、経験的にもそれがハズレが一番少ないです。十数年以上見てきて「本当にそうだよな」と日々確信は深まるばかり。

 では、なぜ直感はそれほどまでに有用なのか?どういうメカニズムでそうなるのか?です。
 多分こうなんじゃないかな?という僕なりの仮説があり、まずこの点を書きます。

意識と無意識

 聞いたことがあると思いますが、人間の精神作用には意識部分と無意識部分があります。心理学や精神医学、あるいは論者によって無意識のなかでさらに”前意識”を分けたりするようですが、ここではそこまで専門的にならず、大雑把な素人考えでいきます。

 で、意識と無意識では、無意識の方が圧倒的にデカい。もう殆どが無意識の世界で、意識部分なんかほんの数%、どうかすると1%以下かもってくらいらしいです。文字通り「氷山の一角」であり、新幹線16両編成でいえば、先っちょの運転席だけが「意識」であり、それ以外は無意識。

 しかし、この無意識領域も、資料室で埃をかぶっている死蔵ストックなわけではなく、常に活発に動いています。意識界だけではなく、無意識の世界でも毎秒猛烈な勢いで何らかの思考が行われている。むしろ、その活動の激しさは意識を上回るかもしれない。

 例えば、睡眠時の夢です。意識(覚醒)していなくても、僕らの脳は動き回り、過去の記憶やイメージの断片を取り出してはくっつけたりしているようです。何で夢なんかみるのか?夢の中で人の脳味噌は何をやっているのか?そのあたりのメカニズムは結局のところよく分からないそうです。よく分からないけど、でも激しく稼働している。今この瞬間にも、肝臓がせっせとグリコーゲンを貯蔵しているように、オートマティックな人体のメカニズムとして脳は働き続ける。意識されることはなくとも不眠不休の猛烈な勢いでカチカチと動き続けている。自分の頭の中とはいえ、ブキミといえばブキミです。俺のアタマは何をやっているのだ?

 人間の脳をパソコンに喩えれば、意識というのはフロントエンドで操作している部分。つまり特定のソフトやデーターを立ち上げて、キーボードやマウスで操作入力している部分に相当するでしょう。しかしパソコン本体はそれに尽きるものではない。まずもって膨大なデーターがあります。過去に保存した画像や書類のデーター、勝手にログされている履歴や、意味不明な膨大なtempファイルなどがあります。また、それ以外にもOSシステムが常に動き、毎秒数億回の膨大&複雑な演算処理をしています。だからこそコンピューターが「動く」という現象が生じる。この意識的に操作していない影の部分が無意識だと思うのです。

 僕らの精神活動をトータルでみたとき、この膨大な無意識領域の方が本体なのでしょう。
 「意識」などは、本体部分を垣間見るための「覗き窓」であり、とどのつまりは「端末」に過ぎない。
 さきに「新幹線の運転席」と書きましたが、本当に「運転」をしているかすら疑わしいです。大事なことは全部この巨大なブラックボックスで決めていて、僕らの意識は基本的にご本尊の決定を単に「聞くだけ」なのかもしれません。

 こういうと、あまりにも意識領域を無力におとしめているかのように聞こえるかもしれません。もちろん全く無力ということではなく、意識が最も体系的なコントロール部門であることは確かでしょう。しかし、意識が人間の精神活動の全てを制御しているわけでもない。その歩合比率は、これは確たるデーターがあっていうわけではないのですが、何となく思っているよりかなり低いのではないでしょうか。

 なぜなら−−
 もし本当に意識が精神活動の多くを支配するなら、鬱とかトラウマなどのメンタルの問題なんか殆ど生じないでしょう。意識レベル=理屈レベルで納得できれば病状が全快するなら、どんなに楽か。不安神経症でもパニック障害でも、意識レベルでコントロール出来ないからこそ大変なのでしょう。

 意識や理屈で全てが割り切れるんだったら、全てにおいて話は簡単だし、物事もサクサク進む。でも、現実は進んでいない。「やろう!」と固く決意した筈のことも実はやってなかったりする。ダイエットしかり、お勉強しかり。いくら頭では分かっていても、いくら全力でそう思おうとしても、身体がついてこないとか、気を抜くとすぐもとに戻ってしまう。意識の表層では楽しいと思っていても、心の芯から楽しんでないから「楽しいふり」をしているだけ、とか。恋愛なんかでもよくあるけど、愛そうと思って愛せたり、諦めようと思って諦められたらどんなに楽か。

 そもそも僕らの「感情」というのはどこから来るのでしょうか?
 「わけもなく落ち込む」「意味なく楽しい!」とかありますけど、あれって何なんだ?「わけ」も「意味」も絶対どっかにある筈なんだけど、しかし自分では分からない。

 「楽しい」「いい気持ち」という気分を生物学的に言えば「快/不快」感情であり、これは脳内の報酬系と呼ばれる生理作用=中脳の腹側被蓋野から大脳皮質に投射するドパミン神経系の動きによるといわれてます。そして、それらの神経系の起動スィッチを押しているのは誰なのか?といえば、一つには肉体的・物理的な生理反応です。酷暑の中からクーラーのあるところに入るとスッとした快感を覚えるとか、美味しいものを食べると機嫌が良くなるとか、そういうことです。これは分かりやすい。

 しかし、外界の物理刺激によらず、精神活動によって快不快になったりします。「イヤなことを思い出して不愉快な気分になる」という。その意味では「意識」が主導的な役割を果しているようにみえるけど、実はそうではない。意識だけで全てがコントール出来るなら=「楽しくなろう」と思うだけで楽しくなれるのですから話はとっても簡単です。しかし、現実には「そう思おう」と思っても全然そう思えなかったりする。「もう考えないようにしよう」としても、イヤなことがいつまでも頭からこびりついて離れず、夜に眠れなくなったりもする。

 つまり、意識は意識をコントロールしていない。少なくとも完全には管理しきれていない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というけど、そんなの修行をおさめた高僧でもないと無理。

 「意識」は本当に自分をコントロールしてるのか?
 「意識」を裏から支配しているものがいるのではないか?

 それは確かに、動き回ったり、何らかの社会的な活動をするには意識がシャンとしてないと出来ないのだけど、肝心な自分のココロそのものは、意識は統括していない。「ぐっと堪える」とか多少は制御コントロールするのだろうが、それは本体の表出をコントロールしているだけで、本体そのものではないし、100%管理もできていない。ダムの水門は適宜水量の放出をコントールするけどダム本体ではない。もっといえば、意識の役割は、無意識レベルで出てきた結論なりエネルギーを、現実世界で実行に移すためのプラクティカルな現場監督のようなものでしょう。

 精神活動の本尊部分は意識ではなかなか管理出来ない。メンタル管理は本当に難しい。
 だからこそ、カウンセリングとかやるわけですよね。それもデーターを入力したらチーンと答が出てくるようなものではなく、ゆっくりゆっくり時間をかけて、あれこれ話し合いながら、「本当の自分」を探していくという作業が必要になる。
 

無意識と直感

 直感というのは「無意識の声」だと思います。

 もうちょい具体的に言うと、初対面の人に会って、「あ、いい人だ」「この人好き!」という直感を抱いたとして、なぜそう思ったのか?脳内ではどういう現象が起きてそう思うのか?

 おそらくは、これまでの膨大な体験記憶のストックを高速度でスキャンして、パターン収斂して、「こういう見た目の人はこういう場合が多かった」という経験則を導き出してくるのでしょう。判例検索システムのようなものですね。

 人間は生まれてから全ての出来事(一説によれば胎児から)を実は覚えていると言われています。本当に全てを記憶しているかどうかは分からないけど、でも、何十年も完璧に忘れていたことを、何かの拍子で思い出すことはあります。催眠療法の年齢遡行という技法では、徐々に子供の頃に戻って当時の記憶を賦活させたりするようですが、そんなことが出来るんだから、ストックとしての記憶は持っているのでしょう。ただし、記憶を再生するためのインデックスが散逸したり薄くなってるから、意識的に再生できない。でもデータとしては存在している。ちょうどハードディスクがぶっ飛んだり、CDが読み込めなくなってるようなものですね。これらの場合もインデックス(目次部分)が破損して読めなくなるのが殆どのケースらしいです。だからインデックスを再構築するデーター復元ソフトがあるし、僕自身HDDの復元は何度もやったことがあります。

 しかし、これまでの全人生、全体験の記憶のデーターベースって言うけど、気が遠くなるくらい膨大ですよね。デジカメの写真整理の比ではない。そして、このデーターベースこそが、僕らの人格の基礎や世界観になっているのでしょう。

 初対面の人に会うとき、あるいは何かの決断をするとき、僕らの無意識世界では、このデーターベースを縦横無尽に検索して、何かを「感じ」「考えて」いるのだと思われます。しかし、あまりにも演算量と計算速度が速すぎて、フロントエンド(意識野)では知覚できない。意識部分ではその思考過程を追い切れない。そして、最後にチーンと出てきた結論部分だけを「直感」という形で僕らは認識するのだと思います。いわば僕らの精神ご本尊からの「ご託宣」です。

 だから、直感というのは、何も考えていないのではなく、意識が追いつけないくらい膨大に考えている状態なんだと思うわけです。ゆえに当たり率が高いと。逆に意識でやってるのは非常に簡単な手作業で、いわば自分で電卓叩いてシコシコ計算しているようなレベルでしょう。これくらいだったら意識領域で出来る。しかし、それを超える膨大なデーター検索や複雑な考察になると無意識コンピューターに任せないとならない。

 「直感で選んだ方が間違いが少ない」というのはそういうことだと思うのです。

 はい、今回はここで終っても良いのですが、さらにディープに突っこんでいきます。
 読むのしんどかったら、ここで終ってください。余力がある人だけどうぞ。↓

脳のハイパーデーター処理

 ここで思い至るのは、脳内の「データー」というのは僕らが何となく考えているよりもずっと広い、ということです。

 文章ドキュメントや画像などの形になったデーターだけではないです。人間の生体コンピューターというのは、ある意味では機械よりも遙かに優秀で、且つ遙かにいい加減で、融通無碍です。なにかといえば、「感覚データー」を扱える。僕らの五感は全て記憶として保存できます。画像のような視覚データーだけではなく、「懐かしい匂い」(臭覚データ)、「おふくろの味」(味覚データ)、「いつもの肌触り」(触覚データー)、「聞き覚えのある声」(聴覚データー)などがあり、それらを「懐かしい」とか感じるということは、きっちりデーター保存も出来ており、また検索して探し出すことも出来るということを意味します。これは現在のコンピューター技術では難しいでしょう。味覚や臭覚を分子分解してデジタル情報化すれば出来ないわけでもないけど、言うほど簡単な話ではないでしょう。

 しかしこんなのはまだ序の口です。人間の脳は、もっともっと抽象的で曖昧な感覚を識別することができます。
 例えば、「うらびれた感じ」「華がある」「「薄気味悪い」「ちょっと浮いている」などなど、どう分類分けしていいのかすら分からない感覚を持っています。「うらびれた」という概念一つとっても、何と何が揃うと「うられびれた感じ」になるのか、その構成要素がよく分からない。おそらくは全てのコンビネーションやパターンなのでしょう。

 「駅裏にある場末感の漂う映画館」というのは感覚的にはピンとくるのですが、いざデーターに直して定義づけて検索をしろと言われたら難しいですよ〜。そもそも「駅裏」が定義づけにくい。東西南北で駅南とか東口は言えても、何をもって「表/裏」を判別するのかはすぐれて直感的です。人口動態調査や商業地域や年商総額などから高い方を「表」とするとしても、そんなデーターなんか見ただけでは分からないです。でも僕らは初めて見る駅だって、「ははあ、こっちが駅裏の方ね」となんとなくアタリがつきます。これをコンピューターにやらせるのは、今の技術では難しいのではないかな。さらに「場末感」になると絶望的に難しい。「データー処理上の”場末”の定義」なんかちょっと思いつかない。それでも僕らは感覚的に分かる。分かってしまうのですよ。すごいんだわ。

 そして、脳内ではこれら曖昧でボヤヤンとしたものも全てデーターとして扱えます。
 この凄まじさは幾ら強調しても強調したりないくらいです。

 この優れた直感データー処理ができるからこそ、僕らの言語は豊かに膨らむことが出来るし、また「比喩」という知的×感覚的作業が出来ます。僕もエッセイで多用しますが、「まるで○○みたい」という比喩でポイントとなるのはイメージ/感覚の類似性です。「○○に似ている」という。そしてこの類似感の飛距離がすごい。単なる造形的・幾何学的相似性だけではなく、もっともっとブッ飛んだおよそ何の関連性もない事柄を「似ている」と感じる。

 若かりし豊臣秀吉が、口の悪い主君の信長から、猿に似てるからと「猿」という仇名で呼ばれていたとか、明智光秀が「金柑頭」と呼ばれたいたというように、造形的な相似性で仇名や比喩が出てくるのはまだ分かる。しかし、「脂ぎった中年男」や「脂ののった働き盛り」という表現で分かるように、「あぶら」がキーワードなんだけど、実際にはどこにも脂なんかない。前者はまだ皮膚の発汗における油性成分というまだしも視覚イメージにくっつけられないことはないけど、後者の「脂ののった」に至っては「脂」なんかどこにもないです。だけど、そこに何らかのイメージ的な類似性を感じる。この飛距離はスゴイですよ。しかも同じ「脂」という概念を使いながら、キッチリ違う意味で使い分けている。

 こういった自由奔放なイメージデーター処理能力は、いったいどうやって可能になるのでしょうか?
 パソコンでやってるデーター処理とは、その自由度やワイルドさにおいてケタ外れというか、もう次元が違う。

 結局、僕らが日常的に扱っているデーターの量と処理方法が途方もないのでしょう。
 僕らは、日々、現実の場面に臨場し、なにかを体験するのですが、そこで得ているデーター量というのは、信じられないくらい膨大なのだと思います。五感プラスアルファの領域において無限に近いくらい広がりがある。僕らは初対面の人と出会ったときでも、単に容貌・年齢・職業がどうとかいう以上に、はるかに多くの物事をスキャンして読み取ってます。例えば、体臭や発汗具合であったり、シャツの袖口が黒ずんでいた等の服装の様子、馴れ馴れしいしゃべり方、貧乏揺すり、自信満々そうだけどどことなく虚勢を張ってる感じ、目をキョトキョトさせて心が定まっていない感じとか、もの凄い情報量を得ています。

 しかし、それとてまだまだ意識的に認知できるレベルのものに過ぎません。無意識レベルではさらに桁違いに大量の情報を得ているのだと思います。「話しているだけであったかくなる感じ」とか、「5分も話していると無性にイライラしてくる」とか、とげとげしいとか、包容力があるとか、奥底まで見透かされてるような恐さがあるとか。これらは意識としてそう感じる場合もあるけど、いちいち意識もせずに感じ取っている場合もある。人には個別に指摘できない全体的な雰囲気があり、それを何と呼ぶか、いわゆる「オーラ」とか「波動」とか言うのだろうけど、こういったものも確かに僕らは感じ取っている。

 一体どの程度までそれを感じているのか、これは無意識の領域までまたがるので分かりません。でも、「特にどこと指摘はできないけど、”違う!”というのは分かる」「うーん、”なんとなく”としか言えないんだけど」と僕らが頻用するように、意識外でもいろいろなデーターを採取し、結論づけているのが分かります。

 このように僕らはかなり精密に現実をスキャンする能力があり、またそれを大量に記憶ストックし、そして瞬時に検索する、という途方もない能力を持っていることになります。すごいですよね〜、考えてみれば。

 半分余談になるけど、だからこそ僕らのなかでは芸術というものが成立するのでしょう。
 芸術というのは「感動の伝達」だと思うのですけど、「感動しました」と文章で書いても感動そのものはリアルに伝わらない。何かにガビーンとなった感動を、後からくる人に同じようにガビーンとなってもらうためには、もの凄く手間暇がかかる作業をしなくてはならないし、多くの場合は不可能だったりします。しかし、針の穴のような可能性ながらも、○○と○○を○○に組み合わせると不思議なことにそのときと同じ感動が甦るという奇跡のパターンがあり、それを錬金術みたいに模索していくのが芸術だと思うのです。絵画もそうですが、精密さだけだったら写真の方が上なんだけど、写真だけでは伝わらない感動が、なぜか絵画では伝わるという。

 これは言語でも同じで、一つの単語には本来の語義を超えた豊かなイメージがあり、言語活動というのは、そのイメージを絵の具にして描いた絵画のようなものです。だから難しい。芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」は聴覚イメージを、蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」という視覚イメージをそれぞれ鮮烈に訴えてる名句です。一つ一つの単語は変哲もないのだけど、それぞれが持っている付帯イメージが相乗効果で重なりあったときに、すごい化学変化が起きる。子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」も、僕にはまず柿のオレンジ色の鮮烈な色覚イメージが来ます。そして何だか知らないけど夕方のような気がする。それも同じオレンジ色の夕焼け空が浮かぶ。そんなのどこにも書いてないのだけど、喚起されてしまう。

 また、これらの名句は、単に情景を書いているだけではなく、その場の臨場感や空気感まで書いています。ここが天才的だと思うのだけど、五月雨〜なんか、ひんやりとした温度や湿度すらも皮膚感覚で甦るし、恐いぐらいに広々とした空間感覚、さらには書いてもいない新緑の濡れた緑色すらもイメージとして立ち上がってくる。絵画でも「空気が描けたら一人前」と聞いて、僕は早々に第一歩で挫折しましたが、空気って透明なだけにそれを的確に描くのは死ぬほど難しいです。やはりイメージと感動の錬金術が必要。

 まあ、そこまでアーティスティックなレベルではなくても、言語には全て付帯イメージがあり、これが言語学習の最後の難関になるのでしょう。日本語ですら四苦八苦しているのに、これが英語になったらもう大変。ある英単語に対してネイティブだったら誰でも持っているイメージを皮膚感覚で習得しないと、その英文の本当の意味やニュアンスが分からないという。こんなん地獄のように難しいです。語学なんてのは一生モノの趣味、ライフワークなんだよなって思いますよね。

 以上、僕らは体験する森羅万象について、信じられないほど膨大なデーターを意識/無意識の両面で受け取り、豊かなイメージを持っています。ところが、意識的、パソコン的に記録できる量なんか、全体からしたらほんの僅かに過ぎません。こんなもので分かるわけがない。だからこそ、ある人物に関する情報、メールの文章や写真、履歴書などのデーターだけで幾ら想像してたって、実際に会ったら全然違った!ということも珍しくないです。なぜこんなに違って感じられるのか?それは画像その他のデーターの絶対量が決定的に足りないからでしょう。いわゆる「情報」というもののどーしよーもない無力さを思い知らされるのはそういうときですね。

 僕の仕事の学校&シェア選びでも「見て決めるといいよ」とオススメしているのも同じ事です。「情報」とやらを幾ら集めても、この現実には遠く及ばない。ニアリーにすらならない。ましてやネットで情報集めなんてのも、ネット自体が微妙に情報バイアスがかかってるから、さらに狂ってくる。それでは腐ったタマネギでカレー作ってるようなもので、美味しくなる道理がないです。といって情報の全てが無駄というわけではないですよ。有用なものもある。だから何が有用で、どう利用すると有用なのかということを、かなり注意して使わないと、情報というのはあるだけ有害だったりもします。事前準備というプラス面もあるけど、偏見や先入観というマイナス面もあるからです。

最終的に満足させるべきは無意識

 直感ピピピで決めろというのは、無意識のデーターベースを積極的に活用せよ、ということだというのは既に書きました。

 そして、それ以上の意味があります。
 何かというと、何らかの決断を下す場合、結果的にその選択が正しかったかどうか、その最終判定を下すのもまた無意識だということです。無意識というのは、自分の本体部分なのだから、こいつを満足させてやらなければならない。いくら意識的に満足していたとしても、無意識レベルで納得してなかったら、遠からず苦しくなってくるし、いずれは亀裂が走るし、場合によっては破綻に至る。

 世間的にイケてる学校に入って、イケてる就職をして、ステイタスもそこそこ、、、人生は順風満帆だあ!となっている筈なのに、鬱になる人がいますよね。なんだか分からないけどメンタルが壊れたり、体調が狂ってくる人もいる。つまりは理屈や意識レベルでは満足しているのだけど、無意識レベルでは全然満足してないのでしょう。無意識世界では「違う!」という強烈なダメ出しがなされているのでしょう。でも、無意識の声は届きにくいし、言語化もされないから、不可解な体調不良のような形で出てくる。

 つまり意識レベルで幾ら納得してても、意味がないとまでは言わないまでも、決定的ではない、ということです。このことはお読みになってる方だったら多言不要でご理解いただけると思う。ある程度の期間人間やってれば、誰だって心の摩訶不思議さについて戸惑ったり手こずったりした経験があるでしょう。厄介なんですよね、ほんと。


 ということで、最終的に満足させてやるべきものが無意識だとするならば、選ぶのも無意識にやらせてやった方がハズレが少ないということです。シェア探しでも何でも、「どうしてそれに決めたのか説明できない」というのが最高の状態だと僕は思うし、皆にも言ってます。ちょっと前のエッセイで「曖昧で要領を得ないものは常に正しい」というのを書きましたが、同じ事です。なぜかといえば、無意識が決めているからです。

 まあ、慎重に掘り下げていけば、なぜそれに決めたのか言語的・意識的に説明できるかもしれないけど、それを本当にやるためには、カウンセリングを50時間くらいやらないと分からんかもしれないし、やっても分かるという保証もない。でも、分かる必要もないのですね。「そこにする」という現実的な結論はもう出ているのだから。

さらに

 やれやれ、ここまで書いてまだ半分くらいしかいってません。
 これ以上何を書くことがあるのかというと、これがまた沢山あります。続編を書くかどうか分からないので、以下箇条書きしておきます。

 @、直感は常にあるとは限らない
 無意識世界では常にガーッと脳内イメージデータが走り回っているのですけど、それで何らかの結論が出てくると決まったものではないです。というか、結論が出てくる場合の方がマレでしょう。多くの場合は、ただ単に洗濯機のように廻ってるだけなのでしょう。

 A、何が信じずべき直感なのかを見極める
 単なるカンチガイとか、思いこみと、本当の「直感」とは違います。しかし、意識レベルでこれを判別するのはかなり難しいし、それなりの技術が必要です。まあ、場数を踏むしかないんだけど、意識的にやれば感度を良くすることは可能。一回でもそういう体験をすれば、「ああ、なるほど」と分かると思う。いろいろな表現がありますが、「ピピピ!」とか、「天から降ってくる」とか、「ジグソーパズルがすぽっとハマった感じ」とか。

 B、無意識データーベースのメンテとアップグレード
 これは簡単。ありとあらゆる体験を、バランス良く、することです。なんでもやってみろ、全方位の知識を仕入れろ、自分の身体で感じてみろ、食わず嫌いをするな、です。なぜかといえば、体験歴が何かに偏っていたら、無意識データーベースに入ってるデーターもまた偏ってしまうわけで、そういったイビツなデーターを母集団としたら、どうしたって回答もまた狂ってくる。データーべースの品位を高め、正確性を増すためには、出来るだけ現実にニアリーなストックにしておくべきです。あらゆる体験をバランス良くすればするほど、正答率が上がる。つまりは洞察力がつき、判断を誤らなくなるようになる。「視野を広く」というのも同じ事です。

 C、直感も間違える。信ずべき直感と疑うべき直感
 AとBの帰結なのですが、イビツなデーターで出てくる直感はあまり信じない方がいい。でもそういう「濁った直感」みたいなのは、慣れると段々わかってくるような気がします。ハマり具合が違うとか、スーッと通る感じがしないというか。濁った直感は、要するに「偏見」ですからね〜。自分のデーターベースを「育てる」ためには、多少気が進まなくても騙されたと思ってやってみるべき場合もあります。やってみたら意外と良かったということは良くあり、「意外と良かった」という体験を得るごとにデーターベースはふくよかに、健やかに育っていくと思います。

 D、無意識に気持ち良く働いて貰う
 無意識を理屈で抑圧しないことですね。「そんな曖昧なことじゃ理由にならない」とか思わないで、常日頃から無意識の声に耳を傾けてやり、それなりに尊重してあげるといいかも。なにしろそっちの方がより「自分」なんだし(^^*)。まあ、感覚全開というか、右脳全開というか、妙な比喩でいうと、いつもアタマの部屋のどっか方面のフスマは取っ払って全開にしておいて、スースー風が通り抜けるようにしておく感じ。

 「ピンとくる/こない」という感覚を大事にするのだけど、現実世界では常にぴんと来るとは限りません。選択肢も限られていたら、理屈で決めないとならない場合も沢山あります。そういうときは、「ごめんね〜、ちょっと時間ないし」「まあ、これで良かったら新しい体験になるし、やらせてみて」って無意識君に仁義切っておくといいです。なんか冗談で言ってるみたいだけど、でも、ちゃんと無意識を敬ってあげることは大事だと思うぞ。

 E、バランス
 なんでもバランスが大事なんだけど、無意識や直感を重要視し過ぎると、なにやらオカルティックな世界にも流れていくのですね。無意識データーベースの直感と、「神のお告げ」というのは、現象面 or 主観面においては微妙に似てるんですよね。それが悪いとは言わないし、それぞれの趣味なんだろうけど、僕としてはもうちょいカジュアルで日常的で、ごく当たり前のものとして扱いたいです。

 直感が大事だから、左脳的な論理や理屈はどうでもいいかというと、それは絶対に違うと思います。論理や理屈で処理できるレベルは、論理でキッチリ処理すべきでしょうし、処理できるだけのカミソリのような論理構築力は持つべき。

 逆に論理ばかりギリギリ詰めているときは、意識的に反動でバーンとイメージ世界に遊んだりしてバランスを取るといいです。絵描いたり、作曲とかするのもいいですよね。どうしようもない駄曲でも、「あーもー、だっさあ〜」とかやってるのは楽しいもんです。

 F、実感
 直感イノチというのは、遊んでばかりの学生時代よりも、むしろ実社会にでてから痛感しました。弁護士業務で見ていた風景は、いかに理屈以外の要素で人の人生がかくも激しく翻弄されるかです。もう恐ろしいくらい。理屈通り生きてる人なんか一人もいない。それだけにファジーな要素を的確に判断できる直感力の勝負なんだなって思ったもんです。ビジネスの経営判断でも、トップになると本当に五分五分で判断できないことが山ほどある、というか判断できないことを判断しなければならないのがビジネスなんだなと。「人を見る目」なんかもそうだけど、理屈を超えたところで勝負していかねばならない局面がこんなに多いとは思わなかったです。

 海外に一人ぼっちで来るような場合も同じで、ある意味、動物的な感覚を持つことが必要とされます。一方では知恵熱が出るくらい猛烈に左脳を使うのだけど(言語でも、あらゆる生活局面における推測でも)、同時に右脳を使う場面もまた日本よりも多い。人間のタイプとか、生き方とか、それこそ部屋探しにしても、日本では考えられないくらいダイナミックレンジが広いから、ほんと好き嫌い一発でバキバキ決めていかねばならないし、その感覚が鋭くなる気がしますね。

 また、オーストラリア人をはじめ、世界の人は日本人よりも右脳的な部分を大事にしている気がします。まあ、ワガママでいい加減っちゃそうなんだけど(^^*)、それに尽きず、遊ぶ感覚が鋭いし、楽しくもっていく行き方が上手。「よくそんなこと思いつくよな」というのが芸術やレクレーションだけではなく、普通の政治やシステムのレベルで出てくる。もの凄い合理的だから理屈には強いんだけど、でも何故か理屈には縛られないというか。固い部分と柔らかい部分が変幻自在。

 ちなみに、リスク管理の項目でも書いたけど、こちらの警察や外務省が出している広報パンフなんかでも、必ずと言っていいくらい「直感を信じろ」と書いてます。例えば、デートレイプについて注意喚起をしている広報サイトでも、"Trust your gut feelings""Listen to your instincts"などと書いてますよね。

 ということで、実戦的に本当に大事なんですよ。





文責:田村



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