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今週の1枚(2011/08/15)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 528 : イギリス暴動について思うこと

 写真は Crows Nest にて撮影。
 他人の庭先に咲いていたラベンダーです。また、背景の並木はジャカランダ。ジャカランダは春が紅葉シーズンで今からどんどん葉っぱが落ち続けます。でもって、晩春から初夏に鮮やかな薄紫の花をつけ「オーストラリアの桜」になります。今から楽しみです。

 ここのところ毎週毎週植物シリーズみたいにやってますが、この時期はどんどん花が咲いて春になっていきます。ジャスミン、ツツジはもう咲いてるし、アヤメも咲いてるところは咲いている。もうちょいしたら藤、それから紫陽花。こういった春の変化が手に取るように分るのが楽しいです。四季の変化そのものは日本の方がずっと鮮烈ですが、自然の変化に気づく感性はこちらに来てから格段に鋭くなりました。まあ、どこに住むかにも寄るのだろうけど。今のこの尖った感性のまま、あの美しい日本の自然変化を感じられる場所に行きたいものです。それが最高の贅沢って気がします。

 考えてみれば、古今集でも、要するに「花が咲いた」というだけのことを、大の大人、それも位階人臣を極め、贅沢に慣れきった連中がきゃっきゃ喜んでるわけですよね。まあ、風流人ぽく振る舞ってカッコつけようというスノビッシュな動機もあっただろうけど、でも、それだけではないのでしょう。「花が咲く」というのは、本来そのくらい嬉しいことなのだと思います。



ロンドン暴動写真
 微妙に前回の続きになりますが、先週はイギリスが暴動で燃えていました。
 おおまかな内容はご存知かと思いますが、イギリスの各都市で数日間にわたり暴動が起き、車や建物に火が付けられ、商店は破壊され略奪行為が繰り広げられたという大騒ぎです。

 まあ、こう文章でいっても「ふーん」という感じでピンとこないのでしょうから、写真リンクを貼っておきます。クリックするとオーストラリアの地元紙の写真のページに行きます。大きなサイズのリアルな写真が20枚以上ありますので、文章で説明するよりも分りやすいです。是非ご参照を。

 これに関して思うことが幾つかあるので書き留めておきます。

なぜ生じたのか分らないこと

 これが一番肝心な部分でしょう。
 「抑圧された社会の弱者層が暴徒化した」というのは、よくある説明ですし、ある程度は当っているのでしょうが、ある程度しか当っていない。

 なぜかというと街のチンピラのような若年犯罪集団も多大な関与をしているのですが、一方ではテニスコート付きの豪邸に住む令嬢が逮捕されたり、11歳の少年、学業優秀だった女子大生、普通の郵便局員達も今回の暴動に関与しているからです。

 シドニーの新聞SMH社の記事のStereotype of the underclass does not apply Shattered nation によれば、

 There were those who completely defied the stereotype: a primary school teaching assistant, and a millionaire's private-school educated daughter who stole plasma screen televisions. After mug shots of these two and several white, employed, educated and sometimes middle-class perpetrators were published on Thursday, Stott said the narrative had shifted again. ''Now the question is, 'Oh God, look at these people. Aren't they normal?'''

 中にはステレオタイプとは完全に異なる人々も混じっている。小学校の補助教師、裕福な家庭の名門私立学校に通っている令嬢がプラズマテレビを略奪している。木曜日の段階で犯人の顔写真として公開されているなかには、この二人の他にも幾人もの想定外の人々、つまり、白人であり、仕事もあり、教育も受け、ときとして中流家庭の人もいる。スコット教授は言う(暴動直後から背景事情の説明が試みられているが、事態が進展するごとに説明の修正を余儀なくされてきたが)、これでまた説明を修正しなければならなくなった。「現時点での問題は、”なんてこった、今回逮捕された人々を見ろ。彼らは「ノーマルな普通の市民」ではないか?”と。

 なぜ彼らまでもが?というのが、世界に突きつけられた最新ヴァージョンの謎かけでしょう。
 もっともらしい説明はそれなりに出来るのだろうけど、もっともらしいほど嘘臭いというか、あんまり簡単に結論に飛びつかない方が良く、謎は謎として慎重にアプローチしていくべきだという気がします。

キャピタリズムとグローバリゼーションのしわ寄せ論

 さて、これからも色々な説明が試みられ、語られるでしょうが、とりあえずメインになるのは抑圧された弱者の暴発論でしょう。「百姓一揆」みたいなものですね。行ったことないので皮膚感覚では分りませんが、イギリスという国が「誰もがイキイキと希望に胸膨らませている社会」というわけではないでしょう。そういう人もいるだろうが、そうではない人もいる。もともとが階級社会を引きずっている欧州、それも"working class"という言葉がズシリと重い響きを持つイギリスの場合、社会には常に「割を食ってる層」がいます。

 大体、オーストラリアだってその「割を食ってる層」のために成立したようなものです。1780年当時の産業革命&資本主義勃興時のイギリスでは、都会に多くの失業者が流れ込み、彼らは軽微な罪でも刑務所に入れられたから刑務所が満杯になり、流刑地が必要になったのでオーストラリアが開発されたという。

 世界史の流れをみれば、大昔は暴力的強弱で貧富の格差が生じた。ギリシアやローマ時代では軍事的に征服された人々が奴隷として下層階級を構成したし、封建時代でも軍事的強弱で国王や領主と被搾取農奴が生じた。悲惨といえば悲惨、わかりやすいっちゃわかりやすいです。しかし、18世紀の産業革命と資本主義は、お金の有無(生産手段の有無)で階級が生じる。

 なんで産業革命と資本主義がカップリングするかといえば、過去の世界史シリーズ(26)産業革命と資本主義の勃興でもやりました。産業革命も最初は紡績機械の技術革新というか「ちょっとした工夫」から始まったのですが(1733年のジョン・ケイによるが飛び杼(ひ)の発明とか)、段々機械も大がかりになり、また他方では動力革命(蒸気機関)も行われることで、「職人さんの道具の改良」という可愛いレベルから、「巨大な工場プラント」に規模がデカくなっていきます。そうなると、起業しようにも途方もない資本が必要になり、お金を持ってなかったら労働者として工場で働くしかなくなる。かくしてお金を持ってる人はどんどんリッチになり、持ってない人は相対的にビンボーになるという資本主義の原型が作られることになります。

 以後、世界史の流れは、資本主義原理を基軸に展開し、今日まで続いているといっていいでしょう。「ケンカが強い奴がエラいゲーム」から「金を持ってる奴がエラいゲーム」へです。いつの時代でも資本主義をベースにした勝ち組負け組ゲームが行われ、植民地主義や帝国主義、世界大戦、冷戦、そして今日のグローバリゼーションと、その時代によってパートナーを変えつつ、資本主義は生き残ってきている。グローバリゼーションといっても、植民地支配も一種のグローバリゼーションでした。あの頃は軍事的に支配搾取するという方法論であり、今日は生産コストが安いから進出するというメソッドの違いはあれど、「地球の別のところにいって何かすると、すごーく儲かる」という構造論理そのものは同じ。

 前回述べたようにグローバリゼーションは「コーヒーに入れたミルク」のようなもので、世界が一つに溶け合うにつれ、ミルク的な先進諸国は日に日に白さが失われ、産業の空洞化と中間層や若年層の没落という「しわ寄せ」がいくようになります。

 今回のイギリスの暴動にもそれが背景事情になっているでしょう。それはもうバリバリそうなっているでしょう。過去の繰り返しになりますけど、斜陽化する先進国では、求められる人材は多国籍企業をコントロールする一握りのエリートであり、他国に安く外注出来る職から減ってくる。つまり「誰にでも出来る仕事」から先に無くなっていく。そうなると割を食うのは高度な専門知識を持たないゼネラルなサラリーマン階層であり、そして未経験ゆえに誰にでも出来る仕事から始めざるを得ない若年層です。イギリスに限らず、日本も含めてどの先進国でも若年失業率は一般失業率よりもずっと高い。これはもう誰が悪いとかいう問題ではなく、構造的にそういうゲームになってしまっているということです。

 それで割を食ってる人達としては、やってらんなくなりますよね。大多数はケナゲにも日々の仕事や就活にいそしむでしょうが、「やってられっか、馬鹿野郎!」という層もいる。勉強キライだし成績もパッとしないけど、それでも真面目に通学している多くの一般学生もいるけど、ヤンキー化したりひきこもりになったりする人が出てくるのと同じことです。

 このあたりが、「アラブの春」と言われる昨今のシリアやエジプトのデモと違うところでしょう。アラブ諸国の方が、状況は悲惨なんだろうけど、強権的な政権が抑圧しているという古典的で分りやすい状況があります(本当のところはそんなに分りやすいのかどうか疑問でもあるが、しかし、まだしもわかりやすい)。ところが、先進諸国の割を食ってる層の問題は、もうゲームのルールとか構造そのものから発生するから、どーしよーもない。

 このように「構造そのものが原因」になってしまうと、明確な敵がいないし、何か特定のポリシーの是非ではなくなってくるから、一般の学生や労働者のデモのような政治的な主張もなくなる。本当は何らかの主張はあるのだろうけど、あまりにも全体的で茫漠としているから表現しにくい。「何が不満なの?」と聞いたら、おそらくは「全部!」でしょう。こうなってしまっている「世界のありよう」そのものが気に食わない。だから、世界をブチ壊してやる!という単なる暴動・暴徒、つまりは犯罪集団になってしまう。

 この強烈な破壊衝動は、要するにリセット衝動なんだと思います。ゲームをやっていたら、バグかなんかでいきなり変な画面になってしまった。頑張ってスコアを稼いでいたら、いきなりゼロ点に戻ってしまった。「なんじゃこりゃ!?」という非常に不本意な状況になる。で、「やってられっか」でリセットボタンを押したくなる、という衝動です。

グローバリズムとゼノフォビア(xenophobia)

 大きな構図はそうだとしても、それに各国の複雑な事情が絡んで微妙なツイストを示しますし、連鎖反応の仕方も変わってくる。例えば、同じ割を食うにしても言語ギャップや社会的コネクションが弱い移民層から先に割を食うことになり、イギリス暴動でもこういう人々の参加もあるでしょう。しかし、実際に暴れているのは白人層も多い。移民というのは最初からハードシップをある程度覚悟しているから、現実がシビアでも想定内だから前向きに何とかしようとする傾向があり、相対的に「割を食ってる感」が少ない。というか、割を食うのは覚悟の上って部分がある。一方、支配階層であるはずの白人層が、失業したりパッとしない人生を強いられてると「なんで俺たちが?」という強い不遇感を持つ。これが、よく"white trash"と蔑称される白人の落ちこぼれ層になり、KKKとかネオナチごっこに走ったりする。

 エドワード・ノートン主演の「アメリカンヒストリーX」という映画でも語られているようなメンタリティですが、俺たちの職を奪ったのは移民の連中だということで、話は人種問題にツイストします。ヘイトクライムです。結果として弱者と弱者の共食いというか、不毛な部族間戦争になる。1992年のロス暴動でも黒人VS韓国系移民という不毛な図式になったように。

 それが進むとプロの犯罪集団が構成されるようになります。アメリカでも底辺に位置づけられている黒人層で犯罪組織が出来、移民当時差別されていたイタリア系移民がマフィアを生むように。あるいは神戸港の港湾労働者の利益擁護から山口組が生じたように。各部族間にプロフェッショナルな犯罪組織が出来るようになる。しかし、まあ、あまりにもプロとして隔絶してしまえば、要するに組織犯罪問題という刑法プロパーの問題になるの逆に分りやすくなっていきます。

 問題は、そこまでいかないでグツグツ坩堝のように煮えている段階です。今回のイギリス暴動がまさにそうだと思うのですが、(セミ)プロレベルの犯罪集団もビジネスライクにルーティング(looting, 略奪)に参加しているでしょうが、でも、単に「むしゃくしゃしている」という層もいるだろうし、人生に建設的な目標を持ち得なくなって規範意識が鈍磨し、「単に面白そうだから」で参加している人々もいる。冒頭に掲げたように、「何が不満なの?」という勝ち組である連中も略奪に参加している。

 これがさらに911テロから始まったキリスト教・西欧 vsイスラム教・中東という不毛な対立図式と重なり合うと、ムスリムに白人社会を侵食されると思いこんだ馬鹿がノルウェーで大虐殺を行うようなことにもなります。もっともこの事件は、キリスト教原理主義みたいな宗教上の理由などではないです。移民政策反対という明確に政治的な主張に基づくものであり、だからこそモスクやムスリムではなく、与党の幹部候補生の若者達を殺しています。それは一種のネオナチ的、人種的なものだと言っていいでしょう。それに考えてみれば、昔も今も、純粋に宗教上の争いなどは実のところそんなに無いんじゃないかな。せいぜい同じ宗教内部の派閥争い(キリスト教内部のカトリックVSプロテスタントや、イスラム教内部のシーク派とスンニ派など)くらいのもので、それとて世俗の権力闘争に過ぎないという側面もあります。この種の一見宗教的な対立構造を突き詰めていけば、その本質は単なるゼノフォビア(外国人恐怖症)だったりする場合が多いように思います。


 しかし、このゼノフォビアが面倒臭いのですね。
 グローバリゼーションが否応なく進むということは、国内外での人的交流も盛んになるということであり、どこの国も今まで以上に大量の外国人が入り込んでくることになります。今後は、それを自国内部の紛争の火種にするか、あるいはそれを逆手に取って、自国の強さに変えるしたたかさを持ってるかどうかが問われることになるでしょう。

 例えば、オーストラリアでは、直近の統計でついにイギリス系移民よりも中国系移民の数が上回りましたけど、それを恐れるというよりも、中国とのパイプをより太くして国全体として豊かになっていこうという姿勢が強い。したたかですよね。移民の選別に「優秀かどうか」を厳しく問いかけるオーストラリアの永住権制度においては、中国系移民といってもバリバリのビジネス系が多く、彼らが母国とのコネクションを利用してガンガンビジネスを立ち上げていってくれるわけです。あるいはオーストラリアの大企業の中国支部長になったりする。インド系が伸びてきても同じ事です。

 彼らも市民権を取れば「オーストラリア人」です。オーストラリアは多文化主義を長いことやっていて、どんな移民が来てもこれを受け入れて地元社会に馴染ませる術に長けている。つまり、オーストラリアに来るとどんな民族でも大なり小なりオージー化してしまう。それはオーストラリア人の天性の大らかさもありますが、白豪主義から180度転換した政治&社会努力の賜物でしょう。僕が思うに、オーストラリアの将来性は、資源があるとかいうよりも、このソフトウェア(上手なやり方)ではないかと。だからこそ移住したのですが。

 しかし、どこの国もオーストラリアのようにやっているわけではない。一つには「過去の負債」があります。欧州は過去の植民地政策のツケで多くの植民地からの移民を引き受けなければならないし、アメリカは過去の奴隷制度のツケで黒人白人の差別問題が横たわっています。これに比べればオーストラリアはこの種の過去の負債が少ない。アボリジニ問題くらいです。逆に過去の負債は大してないけど、そもそも国の作りとして単一民族に近い日本や韓国では、外国人がどっと増えたり、外国との関連で自国内部の物事の全てが動いていくことに生理的な不安感や嫌悪感を感じる人も多いでしょう。

 こういったゼノフォビア(外人恐怖症)がキツい国は、これからの世の中で大きなハンデを抱えることになります。その国に経済進出しても差別されたりしてメリットが少ないなら、世界の優秀な企業や人材は来なくなり、ひいては国力の致命的な低下を招き、競争社会において脱落することを意味します。高度成長の頃のような工業化社会では優秀な製品を一致団結して作っていれば良かったのですが、既にサービス産業から知価社会にシフトしてますから、世界レベルで上手にコーディネイトする能力が大事になっていくでしょう。世界の皆と上手く溶け込めなくて孤立して貧困化していくのをイメージ的にいえば、ジャングルの奥地のやたら警戒心の強い未開部族みたいになっていくということです。まずいです。

 しかし頭ではそうと分っていても、保守的な人はとことん保守的ですからね〜。どこの国にも一定比率でその種の時代に乗り遅れた人々はいるでしょう。明治時代になってもまだチョンマゲ結ってるみたいな。そういう層が醸し出す社会の不協和音やヘイトクライムと、どう向き合ってどう対処していくか、それがこれからの課題になるでしょう。

資本主義をどうするか問題

  暴動後のイギリスでは徹底的な暴徒狩りが行われ、"no matter how long it takes"で「どんなに時間がかかろうとも最後の一人まで検挙するぞ」とやってます。防犯カメラなどで捉えられた犯人の画像を、London Disorder ImagesFlickerのOperation Withern などで公開し、身元の割り出しをしています。もう肖像権もプライバシーもヘチマもないです。既に1900名だったかな検挙されてます。犯罪は犯罪で適正な処罰が必要なことに異論はないのですが、それでオシマイというものでもないだろう。「抜本的な対処を」と叫ばれる所以です。

 でも本当に本当に「抜本的」にやろうと思ったら、18世紀以来の資本主義をやめないとならないんじゃないかしら?なぜなら自由競争原理は、それが「競争」である以上必然的に敗者を産む。経済競争での敗者が「割を食う層」になるなら、この存在は決して消えないことになる。まあ、その程度のレベルだったら修正資本主義で福祉を充実したり、所得再配分を徹底させていけば良いかもしれません。

 しかし、それは「大きな国家」を意味するのだけど、それほどの税収が見込めるのか?という根本的な問題があります。どういうわけか、人類には「豊かになると子作り本能が減退する」初期設定がなされているようで(逆に貧乏になると「貧乏人の子沢山」現象になる)、先進国はおしなべて少子化。これに医療の進展による長寿化が重なるので、日本のようないびつな人口構成になる。つまり医療費や年金は嵩むわ、若年層の職業訓練や失業保険は嵩むわで、大きな国家どころか、「すごーく大きな国家」になっていく。でも、税収は細くなる一方。

 これに輪を掛けるのがグローバリゼーションです。世界相手に稼げる勝ち組企業(or個人)であればあるほど世界に出ていくので、国内は空洞化し、失業率も増える。また頑張って国内にとどまる企業があったとしても、大きな国家を維持するために法人税を上げたり、高額所得者の課税率を上げるなど所得の再配分をやろうとすれば、それを嫌がって逃げてしまう。はたまた海外流出を禁止する措置を取れば、端的のその企業の国際競争力が落ち、倒産してしまう。虻蜂取らずです。

 だからこれを本気に「抜本的に対処」しようとするなら、こういう競争原理そのもの、資本の論理そのものを変えていかねばならないんじゃないか?しかし、それは今現在の僕らの「豊かさ」を放棄することにもつながりかねない。なぜなら競争に敗北し、あるいは競争を避けて(同じ事だが)いくとどうなるかといえば、”逆”発展途上国化するこということであり、誰も彼もが失業し、その日のパンにも事欠くことになり、さらには教育、医療など基本的なインフラすら劣化し、疫病や餓死者が増えることになる。そうなると僅かな物資を巡って凄まじい争奪戦が起きて、暴力的勝者が圧政体制を敷くようになる。まあ、一気にそこまではいくわけはないですが、少なくとも、物が豊かで、便利で、それらを支えるお金があってこそのハッピーなのだという、人生や幸福の構造原理は、大きな変容を余儀なくされるでしょう。

 脱資本主義を推し進めていけば、早い話が「皆でアボリジニーになろう」みたいな話になるわけで、ファンタジーとしては美しいけど現実問題不可能に近い。ネットが無いとか電気が無いなんてレベルではなく、完全に物質的・科学技術的な恩恵を放棄するということは、「盲腸になっただけで死ぬ」ような世界に暮すことになるわけで、到底そんな人生観は受け入れられないと思うのですよ。僕もイヤだ。でも、さすがにそれは極端だから最低限の医療技術くらいは現在のレベルを維持しようとか、例外を認めてしまったら意味ないのですね。なぜなら、医療技術を維持するなら電気も必要だし、医療機器や薬剤の製造工場も必要だし、教育機関も必要になる。結局、蟻の一穴的に元の木阿弥になりかねない。

 そうなると、僕が思うに、「競争はしないけど物質的には十分豊かな社会」あるいは「競争による毒素をかなり解毒した社会」を作れるかどうかになるのではないか。

 しかもこれは一国だけやっていても仕方がない。他国がバリバリ競争を続けていたら意味がない。世界でせーので合意しなければならない。温暖化対策のようなものですし、冷戦時代の軍縮に発想が似ていると思います。

 多分、抜本的に何かを変えていこうと思うならば、「行きすぎた資本主義は戦争レベルに人類に害悪をもたらす」という人類レベルの共通認識に立ち、なんらかのコントロールを施していくという感じになるのではないか。まだまだそれほど語られているわけでもないし、全然コンセンサスも得られていないのですが、資本主義が持っている本来の毒性みたいなものを薄める作業が必要だろうと。これまでは一国単位で労働法や独禁法でカウンターを当てていたけど、多国籍企業に一国レベルの規制をしても逃げられるだけだから意味がない。経済がグローバル化したら、規制もグローバル化しなければならないのではないか。

 具体的には、競争はするし物質的幸福を維持するのだけど、競争の方法やルールを決めていくことです。第三世界の安い労働力を目指して生産コストを下げるにしても、それは全生産量の50%を越えてはならないとかね。つまり空洞化に歯止めをかけ、50%はそれぞれの自国で生産し、自国の労働者を雇わないとならないことにする。これは本当に「せーの」で厳正にやらないと、馬鹿正直に守ってる国や企業が損をするから結局有名無実になるという就職協定みたいになってはならない。あと、投資家や資本家のキャピタルゲイン課税を世界一律に高くしたり、累進課税を世界レベルで高くし、さらにタックスヘイブンは認めないとか。競争なんだからルールを平等にすればそれでいいわけで、そういうことを世界各政府が協調して出来るかどうかです。今のところそんな話はあんまり無いみたいだけど。

 しかし、資本主義や消費社会って、いい加減どっかでコントロールしないと、真剣にヤバイものがあると思います。

 資本主義や消費社会によって割を食った人々が今回の暴動のメインプレイヤーなのでしょうが、しかし、彼らは同時に熱烈な消費者だったりもするわけです。今回の暴動で襲撃されたお店は、電器店のほか、スポーツ衣料店やファンション系の店が多い。ナイキのシューズを略奪にきた暴徒達が仲良く列を作って”試着”をしているという。彼らが欲しいのは、カッコいいシューズや服や最新の家電だったりするわけで、何のことはない資本主義の申し子だったりするわけです。彼らが哀しくも滑稽なのは、資本主義と消費社会の右手によって餌を与えられ、左手によって殴られている図式そのものです。彼らが信奉するブランド品、それを生み出している世界資本主義によって彼らの生活は追い詰められ、未来は奪われている。何という悲喜劇か。

 そしてこれはブラッド・ピットとエドワード・ノートンの映画「ファイトクラブ」で描かれているモチーフですね。映画の冒頭でエドワードノートンがマイクロソフトとスターバックスとIKEAの家具カタログの奴隷になっている様が描かれ、映画の最後で、ブラッドピットが「ファイナンシャル・イークイブリアム(平衡化、チャラにすること)」とうそぶいて世界の主立つ金融機関の全データーをビルごと爆破するオチになるのですが、非常に象徴的です。エンターテイメントになっているんだけど、実は結構テーマは深いし、鋭いのですね。こういう視点の邦画ってあんまり無いような気がするのだけど、あるのかな。
 

カウンターパワー、まっとーな現実

 

 しかし、悪いニュースばかりではないです。
 「ほお、さすがはオーストラリアの母国」だと思ったのですが、暴動があった翌日には、もう市民がドドドと出てきて、皆で街を掃除しています。右の写真をクリックすると、その様子を多くの写真で見ることが出来ます。

 また、上のページのコラムに書かれているように、暴徒達相手に店やコミュニティを守った勇気あるトルコ人達が賞賛されたり(THE TURKISH RESISTANCE TRIUMPHS IN EAST LONDON)、略奪を受けて1万ポンド以上の損害を受けたと報道されたインド系とおぼしきShivaさん一家のために、有志がWEB上で呼びかけて12時間以内に5000ポンドの寄付が集まっています(Neighbours rally round to support grocer whose livelihood was torched)

 今回の暴動で息子を亡くしたTariq Jahan氏は、150人以上の暴徒達の前に出て行き、解散をよびかけています。
''I lost my son,'' he said to the cameras and the crowd. ''Step forward if you want to lose your sons. Otherwise calm down and go home.'' After he finished speaking a group of young men began chanting and cat-calling. Jahan stood up again, above them. ''What's going on? I'm mourning my son and you lot start up again. Why? Grow up, guys! Grow up. Go home, yeah? You guys have got nothing better to do. Go home. Stop messing around.''

 この様子は、前述のStereotype of the underclass does not apply の記事の最初のビデオで収められています。ちょっとジョージ・クルーニーに似た渋いお父さんですが、100名以上の暴徒達の前にでていくのはハンパな勇気じゃないですよ。

 New brooms clean up London as social media vigilantes track lootersに多くのリンクが貼られていますが、Facebook、Twitterなどのネットメディアを通じた呼びかけが次々に立ち上がってます。

 笑ったのは略奪する暴徒達の写真を使ったユーモラスなコラージュでphotoshoplooterとか、探すと結構あります。

 いろいろ見てて思ったのは、まず市民の側のレスポンスが速いこと、そして強力なことです。
 今回の暴動は、キャメロン首相が述べたように"sick"なものなのですが、社会全体が病気に冒されているわけではなく、まだまだ健康なのだなということです。健康の人の肌に弾力があるように、凹んでもすぐにポンと押し戻す。そのプリプリした力みたいなものは感じました。

 これは日本の震災の後の市民サイドのリアクションを見ててもそう思ったのですが、やっぱりその辺が一つの解決の糸口になるのかなという気もします。健康な白血球が病原体を駆逐し、あるいはリンパが抗体を作っていくように、社会が健康なうちに病気を押し返していくという。イビツな状況を見せつけられて唖然とするのですが、次の瞬間には強烈で健康なリアクションを起こしていき、社会の平衡を保っていくということが大事なのではないかと。

日本のメディア

 最後にイギリスの暴動を報じている日本のメディアですが、あんまりこういう認識はないみたいですね。検索しても、日本人女性が被害にあったのと、ソニーの工場が燃えたということばっかりで、これまた「乗客に日本人はいませんでした」という脱力フレームワークだという。なんか、もう、「わかってんのか?」って感じ。

 社説や解説でそれらしいのもあるのですが、例えば焦点:英暴動の拡大懸念色濃く、「アラブの春」との共通点も(朝日新聞2011年8月10日)は、そこそこまとまってますが、でもよく見てみると「ロイター日本語ニュース」をそのまま持ってきているだけだったりします。天下の朝日新聞なんだから、これだけの世界の動きに対して、自前の言葉でなんか意見は言って欲しかったです。

 そんな中で、ニートの若者暴徒化 過当競争・景気低迷…根深い病巣(MSN産経ニュース08/09)は、わりと突っこんでいる方でしょう。ニート問題に矮小化しているキライはあるんだけど(しかし、どうでもいいけど記事をブチブチ寸断して次のページにクリックさせるのは止めて欲しいです。SEO対策のワザとしてそういうのもあるけど、読みにくい)。

 そして、AFP通信の英国暴動、背景は不良グループ文化? 逮捕者の年齢層は10〜40代は、冒頭で書いたような一筋縄ではいかない複雑な様相を書いている点でいいと思う(ただし結局貧困問題に結論づけているキライがあるけど)、でもこれもフランスのメディアだし。結局純粋の国内メディアでは、夕刊ガジェット通信のイギリスの若者も「希望は戦争」なのか08/12の谷川茂氏のコラムが一番ツッコミが深いように思いました。

 ただ、海外の出来事を自国の現状や将来とをリンクさせ、他山の石として学ぼうとするのは、韓国の中央日報の方がより鮮明で【社説】英国青年の暴動、他人事ではない(中央日報/中央日報日本語版]8/10)における「英国の状況を韓国と単純比較することはできないが、私たちも安心できる状況ではない。 韓国の青年失業率は7.3%とまだ低いほうだが、これは就職を放棄した人、軍入隊者、在学生、就職浪人などを差し引いて集計した結果だ。 実際の就職者比率である青年雇用率は40.3%と、経済協力開発機構(OECD)で最低水準だ。 アルバイトで延命しながら貸金業者に頼る‘88万ウォン世代’の不満を放置してはならない理由だ」としています。これはノルウェー事件においても同じで、ノルウェー大虐殺を招いた反多文化…韓国はでは「ノルウェーで発生したテロが多文化主義嫌悪者の仕業と明らかになり、韓国社会内部の反外国人情緒に対する警戒心も高まっている。外国人居住者の増加による人種・宗教的葛藤が大規模な暴力につながるおそれがあるという指摘が提起されている」 とするなど、より「見えている」感じがします。

 今回ここで書いた内容は、オーストラリアの普通の新聞を読んで得ただけの知識で、別段深いツッコミや洞察があるわけでもないです。いわば常識レベルでしかない。その常識レベルにすら到達しているかどうか疑問で、「どっかの国で起きた話」とどこかしら他人事で、日本人が直接被害を受けた部分だけピンポイントで報道するという日本のメディアの水準というか、スタンスというか、能力というか、に違和感を覚えるのでした。ほんと、「いいんか?」って感じ。

 冒頭でも書いたように、今や現実はもっと先に進んでいます。この程度の常識的な水準では解明不能なレベルにまで至っており、さらに頭を振り絞って考えなければならない。一方では、「解明できない」ということは、「何とでも言える」ということであり、この事件をもとにあらゆる政治的な立場から我田引水のプロパガンダ合戦が起りつつあり、それがまた不毛な二次災害、三次災害を招くことこそが警戒されねばならない。現にノルウェー事件でも、あれを”教訓”に「だから多文化主義はダメだ」と凄い結論を引き出す人達もいるわけです。それって、「女の子に振られると傷つくから、付き合わない方がマシ」「仕事でココロが傷つくなら、仕事をしない方がマシだ」という論理にニアリーなんだけど、「そんなこと言って食っていけんの?」という当然のツッコミもないまま、情緒的に話が流れて、第二第三の暴動やら反動やら差別やら偏見やらが増幅するかもしれない。

 というわけで、世界的にかなりメンド臭い状況になっているように感じます。
 もともとが解決不能の構造にあるうえに、解釈不能な事態が起きるという。それが余りにも複雑で面倒臭いから、考えるのがイヤになってしまう人達も出てくる。もう破壊しちゃえとか、一方的に決めつけて差別しちゃえという短絡的な反応ですが、これがまた事態をどんどん複雑にするという。でも、なんだか分らないけど、とりあえずバランスはとっておかないとならない。霧の中を飛行しているような心細さではあるのだけど、だからといって墜落して良い理由はない。分らないまでも暴動があれば掃除をするという健全なバランス感覚を発揮しつつ、学んでいかねばならないのでしょう。この辛気くさい営みに、どこまで人類(先進国の人々)は辛抱できるのだろうか?という、それこそが焦点になっていくのかなという気がします。

 そしてまた冒頭の謎かけに回帰するのですが、ほんの一握りとはいえ、資本主義の勝ち組ですら何らかのリセット願望を抱くということを何本も延長線を書いて推測すれば、結局資本主義に勝者はいるのか?という根本的な問い掛けにもつながるでしょう。競争に敗れた人々は分りやすくもトホホな未来が待ってます。しかし競争に勝ったからといって、それが幸福感につながらなかったら、そもそもその競争に意味があんのか?という。結局だれも幸せにしないのなら、意味ないんじゃないかと。

 そうかといって、物質文明の全てを放棄することは前述のように不可能だとしたら、なんとか「いいとこ取り」は出来ないものか?とも考えてしまいます。資本主義というのは、ある意味では原子力みたいなもので、もの凄い恩恵(エネルギー)も与えてくれるのだけど放射線も出す。なんとか被曝しないで果実だけ取り出すということは出来ないものか?と。あなたはどう思いますか?What do you say?



文責:田村




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