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今週の1枚(2011/08/01)



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Essay 526:忘れる力、止める力



 この写真のように、オーストラリアでは今が冬真っ盛りです。が、既に春の兆しはかなり来ています。
 木蓮は既に満開だし、梅のような樹木には梅のような花が咲いてます(だったら梅じゃないかと思うのですが、植物音痴なのでよく分らないのです)。ジャスミンは、既に日当たりのいいところでは咲き始めつつあります。もうしばらくしたら、夜はむせかえるようになるでしょう。楽しみです。あ、一応撮影場所を書いておくと、Blamainです。



忘れる力

 日本で仕事をしているときに先輩に聞かれました。「この仕事をしていく上で最も必要な能力はなんだと思う?」と。
 洞察力、構想力、交渉力、文章力、決断力、度胸、記憶力、、、などではなく、「忘れる能力」だそうです。

 「なるほど〜」と思いました。
 仕事には多くのストレスがかかります。一つの案件に最低でも一つ、平均すれば数個の「不安」があります。「本当にあれで良かったのかな?」という。それを同時並行的に数十件抱えていたら、不安に押しつぶされて精神が壊れます。仕事に就いた初期は、僕もこれにヤられました。まだ右も左も分らないヒヨコちゃんの頃は、経験不足はいかんともしがたく、何をするにも経験的な確信が得られず悩みます。一ヶ月もした頃、もしこの一ヶ月自分が行ってきた処置がぜーんぶ間違ってたら、一体どれだけの賠償責任をひっかぶるのだろう?と止せばいいのに計算し始めたら、なんと30億円を越えてしまいました。「新人一ヶ月でもう30億かよ?」と、もうそれだけで「ああ、俺は終った、、」みたいな感じにもなって、夜も眠れなくなってしましました。

 結果的には別にこれといってミスも犯しておらず何事もなかったのですが、しかし、そんなのたまたまかもしれないし、幾ら経験を積み重ねても確信が持てないことなんかザラにあります。この世界における人間のありようというのは実に無限のバリーエーションを持ち、たとえ過去の数百万件の事例を完璧に記憶し、百万年の経験を積み重ねても、「げげ!こんなん初めて!」という事例は出てくる。というか、全ての案件がなにがしか「初めて」という要素を持つ。でも、その度に「ああ、俺は終った」とやってたら身が持ちません。

 ではどうするか?全知全能を振り絞ってベストを尽すのは当たり前ですが、やるだけのことをやったら、ケロっと忘れることです。忘れないと精神がぶっ壊れる。それだけではなく、それでトバッチリを食らうのはクライアントです。A案件のあとにB案件をやるわけですが、そのときにAのことをウジウジ気にしてたらBに取り組めない。どっかしら「心ココニアラズ」でやってしまい、今度こそ致命的なミスをしてしまう。それが一番恐い。だから、やるだけやったらとっとと忘れる。それこそがベストであると。

 しかし、そんなに簡単に忘れられるものか?場合によっては他人のあるいは自分の生き死にに関わるような事柄を、そんなに「はい、じゃ次!」みたいに気持ちを切り替えることなど出来るものか?

 「出来る!」と先輩は言います。なぜかといえばこれは「技術」だからだ。持って生れた性格や資質などではなく、技術であると。むしろ性格や資質に頼ってはいけない。仕事というのものは、ストレス耐性が100ある人は120の、300の人は350のレベルで、つまりは自分の限界を超えたレベルまで連れて行かれてしまうものなのだ。かならずどこかで持って生れた地点を越える。いずれにせよ同じことであり、それを何とかする技術が必要なのだと。そして、それが「技術」である以上絶対に習得可能だから、習得しろ、と。

 でも、習得っつっても、どうやって?「そんなこたあ、自分で考えろ、お前もプロなんだろ?」と突き放されてしまいました。

 確かにこれは習得可能な技術でした。忘れるようにやっていくと自然に出来るようになっていきます。どんな仕事でも「気持ちを切り替えろ!」とかよく言われますが、言われて「はい〜」と出来るものではないにせよ、それぞれの仕事においてプロになっていく過程で多くの人は出来るようになっていく。あるいはオトナになっていく過程で自然に覚えていく。

 というか、もともと人間には健康な忘却能力があります。「イヤな記憶は保持しない」という生体のメカニズムがある。だからこそ、僕らはこれまで生きてこられたわけです。もし過去のイヤな記憶を全てリアルに覚えていたら、もう誰も彼もが発作的に自殺してしまうかもしれない。過去にかいたこんな大恥、あんな生き恥、屈辱、忸怩たる思い、抱えきれない罪悪感、、、失敗による貴重な「教訓」というエッセンスだけ抽出したら、あとは「無かったこと」にしなければ生き物なんかやってられませんわ。

 しかし、本来の忘却能力をさらにアクセルレート(加速)するのが「技術」です。かいつまんでエッセンスをいうと、メチャクチャ忙しくすることです。とにかく忙しくする。落ち込んでるときほど、悩みが深いときほど、殺人的なスケジュールを入れてしまうことです。

 すると、目の前でどんどん新しい局面が展開していくので、自然にそちらに心を奪われ、イヤなことは忘れていく。これをうろ覚えの記憶のメカニズム、確か高校のときの体育の授業(教室でやる退屈なやつ)で習ったような気がするが、逆向抑制というやつです。新しい記憶によって古い記憶を駆逐してしまうことです。

 話が30年以上前の体育の授業の記憶という素人考えもいいところなのですが、でも、経験的にいえばそれは正しい(場合が多い)。また少なくとも「使える」(とても)。

 比喩的に言えば、パソコンのRAM(ランダムアクセスメモリー)、バッファみたいなものなのでしょう。作業用記憶領域です。料理をするためのテーブルみたいなものです。そのテーブルの上に、作業に必要な記憶を並べてあれこれ仕事をしているわけですが、テーブルの広さには一定の限界があり、新しい荷物を置いたらその分古い記憶がズリ落ちてしまう。ならばドカドカと新しい記憶を置いていけば、自然と古い記憶は忘れていってくれる、ということです。これは理屈がそうだというだけではなく、実際にもそうです。意識的にそのパターンにもっていってやるのが、すなわち「技術」なのでしょう。

 そんなに上手いこといくかい?と疑問な方もおられるでしょうが、「出来る!」とくだんの先輩のように断言してあげます。もちろん百発百中とはいかないだろうし、大きなトラウマになってしまっているような場合は、専門のカウンセリングなどが必要でしょう。しかし、素人療法のような日常的な「風邪の予防」としては十分可能ですし、効き目もある。

 ということで、何事かにお悩みで、もう吹っ切ってしまいたい人はクソ忙しくされることをオススメします。てか、忙しくしろ!と。

 人間というのは落ち込むと活発ではなくなり、どうしてもひきこもりがちです。じーっと動かなくなって、あれこれ思いを巡らせる。これがヤバイんです。風邪気味なのに寒中水泳をやろうというくらい、熱中症気味なのにサハラ砂漠を横断しようとするくらいヤバイです。別の箇所(英単語の記憶術など)で書いたことがありますが、記憶というのは繰り返せば繰り返すほど強固なものになります。反復練習の必要性ですね。でも、忘れなければならない記憶を反復強化してどうする?です。

 強化されたイヤな記憶や心配事は、実際の大きさの300%とか1000%とかに増幅していきます。信じられないくらい巨大化していく。で、巨大化した心配に押しつぶされて、「ああ、もうダメだ、、、」で死にそうになる。これは無駄というよりも、愚かです。

 考えるべきことはキチンと考えればいい。それこそ四六時中考え続けてていい。しかし、「考えること」と「悩むこと(心配すること)」はレベルが違う。全然違う。「考える」ときは、「もっといい方法はないか?」と気持ちが攻めに出てますし、ポジティブです。だから考えても考えても気持ちが沈む方向にはいかない。むしろ場合によってはハイになる。悩みや不安は、基本的には「考えてもしょうがないこと」に悩みます。

 この区別が難しいのだけど、例えば旅行の幹事をやってて実行前日の夜、「明日晴れるかなあ」「もし雨になったらどうしよう」と心配になったします。気になって眠れなくなってしまった。その場合、雨だった場合に備えてプランBやCをせっせと調べて構築する、例えば近くに面白い美術館とか紅茶が美味しい気の利いた喫茶店はないかと調べるんだったら、ポジティブですし、考えていいです。てか考えている暇があったらムクリと起き上がって、パソコン叩いて調べろ。逆に「雨だったらせっかくの景色も見えないしなあ」「皆怒るだろうなあ」「またドンくさいとか、無能とか言われそうだな」「でも○○さんとか雨女だって言ってたしなあ」とクヨクヨ考えるのは無駄。だって考えても客観的な事態が好転するわけではない。それどころか寝不足で当日出ていくハメになり、皆のクーポン券を自宅に置き忘れるような大ポカをしてしまうかもしれない。

 大体ポジティブな「思索」「試行錯誤」だったら、「クヨクヨ」という状況表現にならず、もうチャッチャとやってます。「あーもー、時間がないっ!きゃ〜!」ってハイになります。どよよ〜んと「悩む」ということ自体、既に実務的には問題です。

 まあ、こういう「悩む」こと=客観的には愚にもつかないようなことで長い夜を過ごすのは、思春期の人格形成には意味あります。それは否定しません。「輾転(てんてん)反側」(=眠れずに何度も寝返りを打つこと)なんて古くからの言葉もあり、その一種の人間的な「美しさ」みたいなものは認めます。てか、好きです。そうやって思い悩んで、発酵し、醸造し、蒸留することで人の魂というものは少しづつ錬成され、豊穣になっていくのでしょう。大事なことです。

 しかし、ここでは他人様の信頼に応える「プロ」「実務家」としていかにあるべきかというプラグマティックな技術論です。一人前の職業人においては、結果を一ミリでもよくするための「思索」は幾らでもすべきであるが、結果に関係しない、それどころか結果に悪影響を及ぼすリスクすらある「悩み」なんてクソ贅沢なことをやっていることは許されないのだ。なぜなら職業人とクライアントは、結果というただ一点でのみつながっているからです。それは例えば患者が医師に望むことは「快癒」という結果と「治療」という行為だけであり、医師の人格的成長のための教材として存在するつもりは毛頭ないのと同じ事です。

止める力

 次に大事なのは止める力です。
 盛り上がってるときにスパッ!とそれを中止する力。

 これが、忘れる力と同じくらい、いやそれ以上難しく、それ以上に大事だったりします。

 ここで過去に何でも書いている「脳の作業性興奮」が出てきます。いや、ほんとこの概念は重宝してます。かなり日常生活で使える。

 僕らはときとしてムキになって何かに熱中しますが(部屋の掃除とか)、なんでムキになってるのか?といえば、「やってるから」です。最初はイヤイヤ始めたにせよ、やってる間に段々集中してきて、しまいには「ゴハンだよ〜」と呼ばれても「後で!」と怒鳴り返したりしている。イヤで始めたものに何故にそこまでムキになるの?といえば、やってる間に脳が興奮してきてやめられなくなってしまうのですね。ジグソーパズルやゲームなんかもそうです。

 だからこの力を賢く使えば、イヤでイヤで仕方がないこと(僕でいえば税金のための帳簿付け〜こういうのは死ぬほどキライ)も、やり始めてしまえばムキになる。気がついたら10時間くらいぶっとーしでやってる(自宅ビジネスの長所と弊害)。要するに初動だけハードルが高く、それを過ぎたら自動的にやるのだから、コツとしては「最初の3分は心を虚しくする」ことです。もうロボットになりきって、「自分、いないし」「ココロ、ないし」で、魂のない人形になった気分で、なにも考えずにやる。やる。やる。これが2−3分続いたら、自動車の押し掛けスタートみたいなもので、エンジンがかかる。そこまでいけばしめたものです。

 ということで、日常的なコツというか技術としては、3分間だけ自分から魂を抜くという作業が出来るかどうかです。3分でいいんだ、3分で(人によって違うとは思うけど)。3分だけ辛抱してたら火がつきますから。全部やろうと思うからダメなのであって、とにかく3分死んだ気になってやる。痛みも痒みも感じない抜け殻になる。これ、仕事とかイヤなことをするときにあなたもやったことあるでしょ?「今ここで怒られているのは私デハナイ」みたいに思いこんで、呪文をかけるという。

 さてこうやって起動したエンジンは、今度は止まらなくなります。もうムキになってるから、「う〜、も〜、あとちょっと」とか言いながら終らなくなる。よく考えたら(よく考えなくても)、ここで頑張ることに大した意味もないようなことでも、そんなこと百も承知しているのだけど、でも止まらない、止められない。

 なにしろ「やっているからやっている」という殆ど存在論的な理由でやっているので止まる理由がないのですね。あ、ここで「存在論的」とか何やら哲学的に聞こえますが、「生きているから生きている」みたいなもので、存在それ自体が原動力になってるような感じです。「何のために生きているのか?」がよく分らなくても、ハッキリいってそんな理由がゼロであっても、「じゃあ今死ぬか?」というと中々死ねないし、理由があるから生きてるというものでもない。それに似ている。「やっているからやっている」という。

 また、ムキになってるわけではなくても、中々今までの生活を変えられないのもそうでしょう。もう絶対辞表出してやる、絶対離婚だ!とか固く決心知っても、なんかかんかズルズル流されていって続いてしまうのも、一つには「やっているからやっている」状態があるのでしょう。惰性もあるし、慣性もあるでしょう。よく「離婚するのは結婚する3倍のパワーがいる」とか言われますが(僕はそんなことなかったけど)、一回始めてしまったものは、なかなか止まらなくなるのが通例です。もう原発みたいなものですね。止めてもしばらくは稼働し続けているという。

 だからこそ「止める力」というのが必要なのです。これも大事な技術でしょう。
 アクセルも必要ならば、ブレーキもまた必要。

 しかし、言うは易しで、これは難しいです。
 イヤになって止めるとか、飽きたから止めるなら簡単なんだけど、続けたくてたまらない、もっとやっていたい、あるいは別にやりたくはないのだけど止まるにも止まれない状態にあるものを、強引にスパッ!!っと切断するのは、かなりの精神力が必要です。精神構造としては、濃度を100倍に希釈した自殺みたいなものだから、そう簡単には出来ない。出来るくらいならとっくに止めてます。

 では、スパッとやめるための「技術」はどういうものがあるでしょうか?あると思います。
 ここで「そんなこたあ、自分で考えろ」と突き放してもいいのですが、「だったら最初から書くな」ですよね。

 簡単に言ってしまえば、「止める力」というものを、最初からもの凄く重視しておくことでしょう。始める前から、「ここが一番難しいんだ」「ここが本番なんだ」「これこそが正念場なのだ」とメチャクチャ肝に銘じておくこと。

 そう思えるためには、何故スパッと止めねばならないのか?という「止める効用」を知っておくといいと思います。「ダラダラやるのは時間管理がヘタ」程度の理由だったら、まだまだブレーキとしては弱いでしょう。もっと重要で実質的な理由がある。

 第一に、すっごい分りやすい理由をあげると「死ぬから」です(^_^)。
 調子に乗って延々やっていると「死ぬよ」と。

 これでは余りにブッキラボーなので、もう少し噛み砕くと、要するに致命的な大ミスをする恐れがあるということです。

 オーストラリアの幹線道路には、よく「Stop Revive Survive」という標識が置いてあります。RTA(道路交通局)には専用の頁もあります。そのココロは”to avoid a fatal fatigue crash”です。「致命的な疲労による事故を回避するため」です。そう、疲れるのです。

 ムキになってるとき、脳は興奮してアドレナリンなど脳内麻酔的なものを分泌しているでしょうから、主観的にはそんなに疲労を感じないのだけど、身体メカニズム的にはしっかり疲労している。この「疲労感のない疲労」が一番恐いです。ふとした瞬間に信じられないようなミスを犯して大事故につながる。だから死ぬよ、と。自分は死ななくても誰かを殺すかもしれないよ。

 これは「事故」というアクシデンタルな出来事だけではなく、仕事の効率にもかかわってきます。
 最初のうちは集中力もあるから仕事がはかどるのだけど、ある程度の時間を経過すると人間の身体は疲れてくるし、集中力も落ちてくる。ムキになってるときというのは、ともすれば仕事が雑になるときでもあります。「やるためにやる」みたいになってくるから、「まあ、これでいいだろ」「はい、一丁あがり」みたいないい加減なことをしてしまう。それがあとでどれだけの損失を与えるか?

 ジクソーバズルでも、途中で無理矢理どっかのピースをはめ込んでしまって、あとで辻褄が合わなくなったら、ヘタすれば殆どやり直しになる。数独でもそうですよね。帳簿管理をやっても、ある地点からごっそり一行脱落してたり、1頁まるまる飛んでたりする。僕らがやってるホームページはスタイルシートという面倒臭いタグを付けたり閉じたりしますが、いじくっている途中で分らなくなったら地獄になります。チェッカーソフトもあるのだけど、それでも分らないときもよくある。表が崩れたときなんか悪夢です。もう修正するのにヘタしたら何時間もかかり、最初からやり直した方が早い場合すらある。

 この種のケアレスミスを生き馬の目を抜くビジネスの現場やったら場合によっては命取りになります。「どうしてくれるんだ!」「責任取れ!」と責められた挙句、本当に自殺しちゃった人なんか数え切れないくらいいます。ついこの間でも敦賀の原発でお一人亡くなってますよね。お気の毒にご本人のミスですらないのに死んでしまうという。ハンパないですよ。ましてや自分のミス、ましてや愚にもつかないケアレスミス。許されないよ。その意味でも「死ぬよ」と。冗談じゃないんですよ、これは。

 もう一つは、無計画な戦線の拡大です。
 やってる間に「あれもこれも」どんどんタスクが増える。最初は簡単な部屋の掃除だったはずが、本棚の本を並べ替えしたりしているうちに火がついて、「そもそもこんなところに本棚があるのは無駄」「こっちに机をもってきた方が陽射しも入るし」とかどんどん思いついてしまって戦線が拡大する。かくして単なる整理がビッグプロジェクトになる。

 同時にどんどん枝道にも入る。雑巾がボロボロなのに気づいて、「ダメだ、こりゃ」で過去に買っておいた筈のマジッククロスみたいなものを探す。探しているうちに洗濯機の水漏れに気づいて「あちゃ〜」となる。軽くチェックするつもりで洗濯機を動かしているうちに今度はホースが外れて水浸し。「あわわ」と焦ってなんとかハメようとするけどスペースが狭くて角度が悪いからうまくいかない。だんだん逆上して洗濯機自体を強引にズルズル引っ張り出してくる過程で、濡れた床につるっと滑ってバランスを崩し、コケた足のところに上から洗濯機がのしかかってきて「ぎゃ〜」になる。単なる整理だった筈が、最後には洗濯室でズブ濡れになって足を怪我するところまでいく。

 このパターン、第二次大戦の日本陸軍のインパール作戦みたいです。もうボコボコに負けが込んでいるのに、補給線を無視して無理矢理インドまで行こうとするから、結果として参加将兵8万余名の殆ど全員が餓死か病気になったという、類をみない愚劣な作戦。なかには兵の窮状を慮り、刑死を覚悟して撤退させた佐藤中将の例もあるが、驚くべきことはこの大失敗の責任を誰も取っていないということです。当局上層部が終戦まで(終戦後も)ウヤムヤにし続けている。

 このように、ムキになってるイケイケパターンというのは、前半はまだしも労働生産性は高いかもしれないけど、後半になると落ちる。くだらないミスを連発して、前半に稼いだ点を後半で失う。それでカリカリしてさらにムキになるという「バクチの負けパターン」に陥ったりもする。そして、他人や自分の命に関わるような大チョンボをやってしまう恐さがあります。主観的にはムキになっているんだけど、客観的にはダラダラやってるんですよね。でもそれに気づかない。

 さらに(まだある)、ダラダラ続けると美味しい終末効果が得られない。マラソンでもゴールが見えた時には最後の力を振り絞って走れるように、「あと少し」「もうこれで終わり」となると人間のエネルギーや集中力は増大する。テストでも、「あと5分」と宣告されたときの馬鹿パワーは凄いでしょう。でも際限なく延々やってるとこの果実をミスります。他にも、不自然な態勢(パソコンに向って延々十数時間とか)による頸肩腕症候群や腰痛などの健康被害もあります。要するにムキになって延々やってても、百害あって一利なしなんだわ。一利くらいはあるかもしれないけど、害もメチャクチャ大きい。

 仕事ってやってるとついムキになったりするけど、ふと気づけば一家離散してましたなんて例もある。事故や破産あるいは大病など人生レベルでトラブルになるときというのは、大体がムキになってるときにタネを撒いているケースが多いです。

 以上は「ムキになってる」場合ですが、「存在論的にやめられなくなっている場合」も同じでしょう。勢いや慣性がついてしまって、「やっているからやっている」みたいになって、今更方向転換が出来なくなっている事柄です。

 止められなくなっているものを強引に止めるというのは、片腕チョン切られるくらいの精神的苦痛を感じたりもします。が、それは多くの場合錯覚です。錯覚といっては言い過ぎかもしれないけど、一回それで止めてしまえば、びっくりするくらい劇的に自分の感覚が変わります。「夢から醒めた」くらいの感じです。って、もうお分かりですよね。

 何かにムキになっているときに、ふと電話がかかってきて、「あーもーこんなときに」と舌打ちしながら電話に出ます。長話をするまでもなく、ほんの5分か10分でいい、それで熱は冷めてます。ムキ系は脳の興奮によるものだから、数分もインターバルをおいたら興奮が醒める。ムキという憑き物が落ちる。部屋の掃除の途中に不意の来客(宅急便の配送とか)があったりしたような時もそうです。憑き物が醒めてから、グチャグチャになってる部屋の惨状を改めて見て「はああ」と大きな吐息をつくという。

 ちなみに、消費者被害で言うSF商法(催眠商法)なんかもこの原理を使ってますよね。ムキになって盛り上がると、ついついオーバーランする。オーバーランして高い買物をして貰うという。「本日限り!」なんてのもナニゲにそうです。「今この場で決めさせろ」というのはセールスの鉄則とすら言われます。時間を置くと冷えちゃって購買欲がなくなるから。だからこそ「クーリングオフ」なんですよね。いやあ、クーリングオフとはよく名付けたものです。だから逆に僕も学校見学とかいっても、原則として「一晩寝かす」という作業をします。その場で決めて貰いたくないからです。

 ムキにはなってないけど、何となく方向転換できなくなってるときも、実際にやってしまえば、ケロリと感情が変わります。会社を辞めようと決心して、その結論は変わらないのだけど、何となく辞表を出しそびれてズルズルやってるときなど、なんかもの凄い「決断!」って感じがするのだけど、止めた後になって振り返ると、「なにを大袈裟な、あの程度のことで」とか思えちゃったりするのですね。多分、原発なんかもそうなんだろうな〜。絶対無理とか現実的ではないと思えるんだけど、止めてしまった後になって思えば、「何を大袈裟な、あの程度のことで」と思えるのでしょう。僕も仕事を辞めてこっちに来るときは清水の舞台どころか、スカイダイビングくらいに思ってましたが、来てしまえば「何を大袈裟な、飛行機乗るだけじゃん」と思ってしまうという。そんなもんです。


 以上、止めるべき時に「スパッと止める」ということは「やる」のと同等かそれ以上に大事なことでしょう。「ちゃんとやる」というのは、「ちゃんと止める」という行為を伴って初めて完成するのだと思います。意志的な「止め」がなければやった効果は半減する(それどころか取り返しのつかない大失敗になる)と。

 ということで、さっそく覚えた「止める力」を使って、今回はここでスパッと止めます。
 本当はこれに「再開する力」というのを書こうと思ってたんだけど、これ以上は長すぎでしょう。



文責:田村





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