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今週の1枚(2011/07/18)



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Essay 524:曖昧で要領をえないものは常に正しい

ぼややんとした本質に軸線を合わせろ


 写真は、Camperdownの公園にて。ここは絵になるし、ニュータウンによく食事に行くから過去何度も出てます。
 巨大な犬二匹が可愛かった。悠然と新聞読んでるお兄さんもいい感じ。でも、これ、平日の昼間なんだよね。



 日本を離れてオーストラリア行こう!と思っても、まあ、普通、多少は「いいのかな?」というタメライもあるでしょう。また、周囲から、「なんで行きたいんだ?」とヤイヤイ言われたりもするでしょう。それに対してキチンと理路整然と答えられない場合が多いと思いますが、そうすると「そんな曖昧なことで」「うわっついた理由で」とか反撃されたりもするでしょう。

 このあたりのこと、「確固たる目的意識を持て!」という世のオトナどもの、分ったような、でも本質的に全然分ってないモノの言い方にムカっ腹が立った僕は、10年以上前のシドニー雑記帳に「きちんとした目的意識」?(別窓)を書いたことがあります。「あなただけの神殿」(別窓)とともに、読者の間で人気がある一作です。今回はそれをもう少し敷衍させて書きます。

 ところで、直前回(Essay523)が高密度だったので(3回分くらいの密度があったよな〜、分ければよかった)、今回はスカスカに、くだけていきます。

カタチではなく、硬度

 渡豪の理由なんて、「なにか素晴らしいモノを得るために」だけでいいです。I wanna something special!で良い。

 そしてこれは「その程度でも、まあいいか」という及第点ギリギリのボーダーではなく、それこそが最優秀答案であり、もうそれ以上のものは望めないというくらい究極形態です。これは、渡豪に限らず何によらず、何らかの「コトを起こす」ときの根本原理だと思います。

 問題はカタチの明確さではない。強度です。ゴンと叩いたら手が腫れ上がるくらいの硬度です。それは欲望の強さといってもいい。「なんだかよく分らないもの」を「メチャクチャ切実に求めている」こと。

 欲する内容が明確でクリアなものなんか、ある意味、どーでもいいです。いわば事務処理レベル。手紙を送るから切手が欲しいとか、地図が破れたからセロテープが欲しいとかいうのと同じ事。お金だって究極的には事務処理レベルでしかない。「あると何かと好都合」というだけでしかない。

 自分自身の大本や根幹に関わるものほど、輪郭がほやけてくる筈です。
 ぼやければボヤけるほど本質に迫っているのだ。

なんか、こう構文

 例えば「心からゆっくりくつろいで、疲れを癒したい」とか、「パーッと弾けたい!」とか。
 言う前によく「なんか、こう、、」という枕詞がつくような欲求です。「なんか、こう、ヒリヒリして、生きてる〜!って感じがするもの」とか、この「なんか、こう」構文にハマるようなものです。

 これらの場合、何かを欲しているのは明確なんですけど、それが何なのかが自分でもよく分らない。あるいは、結論的な情景だけはやたらクッキリとデテールまで見えているのだけど、そこまでの行き方が全く分らない。

 どういう結婚がしたいですか?と聞かれて、「なんか、こうさ、もう何十年も一緒にいるんだけど、一緒にメシ食ってて、ふと目があったようなときにさ、どちらともなくクスッと笑うような、なんか、そういう温かさみたいなのがちゃんと残ってるというかさ、あーもー、上手いこと言えない!」という。

 今度の社員旅行(国内)何処行きたいですか?
「うーん、あんまり、もう名所旧跡とかどうでもよくて〜、イベントも別に要らなくて〜、くつろげるとこ!」
「はい」
「なんか、こう、部屋の障子をカラリと開けると、湖だか川とかが見えたりしてさ」
「はあ」
「で、そのへんの木々の新緑とかがもう"目に染みる"って感じの色でさ、葉っぱの間を通り抜ける風そのものが爽やかに緑色に染まってるというかさ、その空気を吸ったら身体の中の血をきれいにしてくれる、みたいな」
「はあ、、」
「で、畳の上に大の字に寝たらさ、背骨がミシミシ伸びていくような感じのさ、そんなとこがいいな〜」
「す、すいません、もうちょっと具体的に、例えば予算とか温泉だったらどことか、、」
「予算?そりゃ安い方がいいよねえ、温泉はあると嬉しいよねえ」
「は、はあ、「低予算で温泉希望」ということですね」
「あ、そういうマトメになっちゃうのかあ」

 「明確に」「確固とした目的意識」というのは、このマトメなんですよね。大事なものが抜け落ちちゃう。

 何度でも繰り返しますが、人間の欲求、それが切実な希求であればあるほど、話は要領を得なくなっていくものだと思う。強く欲すれば欲するほど、ボヤヤンとしてくる。

 ここで、じゃあ"I want you!!"とか、「悲願優勝!」とか、この上なくターゲットがハッキリしているものもあるじゃないか?という反論もあるでしょう。はい、ありますねー。でも、これだって象徴的にそう言ってるだけで、紙一枚はがしたら途端に曖昧モコとするのだ。「なんで優勝したいの?」「優勝したらなんかイイコトあんの?」とか。「彼女のハートを見事射止めて、ほんでどうすんの?」と聞かれたら、「そりゃあ、お前、いろいろだよ、いろいろ!」と話は途端にボヤヤンとしてくるのだ。それが切実な恋心であればあるほど、「なんで?」「ほんで?」と言われると困る。

「なんか美味しいもの!」


 食欲なんかもわかりやすいですね。
 「美味しいものが食べたい!」欲求です。「とにかく何か食べたい」のではなく、「美味しいもの」が食べたい。

 デートなどで、

「どこ行く?」
「なんか、美味しいものが食べたいな〜」

 とかさ、よく女の子とか言うでしょう?「美味しいものってなに?」と聞いても要領を得ない。その曖昧さに男の方が次第にキレるという。「もっと具体的に言わんかい!和食とか中華とか、鍋がいいとか!」「うーん、うーん、美味しいもの!」「ぐあああ!!」というやりとりは、今のこの瞬間も、日本中の、いや世界中の数億人のあいだで共有されているでしょう。

 そうなんだよね、いかに話に具体性がないとか、計画性に欠けるとか、経済的視点が欠落していると批判罵倒されようとも、欲しいものは何?と聞かれた素直な答は、「なんか美味しいもの」なのだ。そうとしか言いようがないのだ。

 そして、それは常に正しい。
 なぜか?本能だから。
 それは生き物が生まれながらに持っている「生命パワー」からストレートに出てきているから。グラグラと沸き立つ命の溶鉱炉から放射される一条の光、「正しい直感」だからです。もう表現がプロレスの解説みたいになってますが(そういえば古館氏は元気でやっておられるのでしょうか)。

ペッタン道ならし

 なんでこんなリキんでるのかといえば、日本人の、それも戦後の、さらにいえばバブル崩壊後の日本人にある程度共通してみられる傾向につながるからです。

 物事を決めるときに、「やりたいか/やりたくないか」という根本的なところをまるっぽ無視して、

 ・出来るかどうか
 ・やるだけの情報やダンドリが十分に整っているかどうか
 ・つまりは「やりやすい」かどうか
 ・それをやることで、周囲の理解を得られやすいかどうか
 ・もっと言えば、世間体を取り繕うことが可能かどうか

 という愚劣な(敢えてそういう)理由で物事が決まっていく、その傾向が段々と強くなってるような気がします。

 それはもう昔っからそうで、大学入試の進路指導で偏差値という「入学可能性」で話が進んでいきました。しかし、ここにきて、ネットで情報を得られるというおめでたい幻想(これも敢えてそう言う)も相まってか、なんでも事前にリサーチして、道をペッタンペッタン平に均して、しずしずとスムースに進めないとイヤだとか、段差があるとイヤだとか、ファジーでリスキーな要素があったらもう逃げ腰になるというカタチでも進行していると思う。

 それ、良くないです。心の病気だといってもいいし、身体の病気だといってもいい。

 なんでそこまで言い切るのさ?といえば、イノチが感じられないもん。生きてんのか?って感じだもん。

ほんとに求めてるの?

 だってさ、「美味しいものを食べたい」という願望の場合、そんなふうに物事考えないでしょう?
 ダンドリや可能性は考えない。まず「美味し〜いモノが食べたい!」と強く思う。
 強く思うところから話が始まる。

 そこでは、それが手近にあってゲットしやすいとか、店の情報がふんだんに得られてリサーチしやすいとか、それを食べることで自分のステイタスが上がるとか(自慢できるとか)、そんなの「美味しいものを食べたい道」からしたら「邪道」じゃん。

 例えば利便性が先に出てくるのは、「ああ、今日晩飯どうしよっかなあ、もう時間も遅いしなあ、今から米研ぐのかったるしいなあ」という局面において、しょうがなくやるような局面。店の情報その他は、勝負デートでカッコつけたいとか、接待のための店をセッティングしたいとかそういう局面でしょう。「人気の店に行ったことがあるステイタス」は他者への見栄が本筋にある。

 いずれにせよ「美味しいものが食べたい」という純度100%の欲求からしたら、濁ってます。そんな残務整理みたいなメシの食い方してて人生が終って良いのか?若いうちはまだいいけど、でも、「多忙だから」とか言ってるうちに、ストレスで胃が弱くなって「油っこいもの、重たいものはちょっと、、」になる。さらに時は流れて成人病。糖尿病で食べたいものも食べられなくなり、歯が弱くなって「固いものはちょっと」になり、最後は鼻からチューブだべ。ほんでええんか?

 もし本当の本気で何かが食べたかったら、遠くであろうが、ウワサ程度の不確実な話であろうが、行くよね。時間がなかったら会社を休んですら食べにいったりもする。周囲から「えー、理解できない」と言われようが、「ふふん、キミタチ、わかってないね」で余裕でかわせる。

 だもんで、もし彼女から「なんか美味しいもん!」と言われたら、それは大袈裟に言えば(今回は大袈裟ばっかだけど)、「魂の会話がしたい」とど真ん中のストレートを投げられているのだと思い、全力でこれに対処すべきでしょう。全力でまず「すごーく美味しいもの」を一緒に考えよう。ここで低レベルのダンドリ君になってはいけない。「○○はどう?あそこだったらここから二駅だから、近いし」なんてのはNG。

 食べ物の比喩がピンとこないのだったら、あなたの好きなものに置き換えたらいいです。例えば日本酒、例えばスポーツ、例えば音楽。

 音楽にハマってる人が欲しいものは常に一つ「本当にいい音楽」「本物」です。もうそれだけ。聴いて「きたっ!」ってやつ。ぶわっと鳥肌がたって、血が逆流するやつ。もうその点に関しては絶対に妥協しないでしょ。好みに合わないものは「あれ、イマイチ」「全然」バッサバッサ切っていく。

 もしあなたが音楽がメシよりも好きだったら、「本物」を聴くためには労を厭わないと思う。徹夜してでもチケット買うし。またCDを買うにも安いから買うみたいなことはしない。周囲の連中から「理解できない」と言われようとが、「わかってねえなあ」って思うだけで自分の趣味を変えようとは一ミクロンも思わない。そこには利便性も、情報の豊富さも、周囲の評価もすべて綺麗にオミットされ、ただただ純粋に「音」で決める。違いますか?

 「美味しいもの」「本物の音楽」を求める気持ちが強ければ強いほど、ダンドリが面倒臭くても、辛くても、気にならないはずです。それが簡単であるかどうかなんか、本質的には意味がないし、意味も何もそもそも頭にのぼってこないでしょう。

 だから彼女さんから「なんか美味しいもの」と言われたときは、自分における「本物の音楽」と言われていると同じくらいの重みで受け取るといいです。そこで「今、これ割引セールやってるし」みたいな濁ったレスポンスをしたらどうか?ですよ。


 ちなみにモテ技術でいえば「美味しい店を沢山知ってる奴はモテる」というのがありますが、半分正しく、半分間違ってる。一つは、彼女さんが求めているモノを与えられるという意味ではポイント高いから、半分ホント。しかし、あとの半分が嘘。で、このあとの半分の方が結構大事なんですよね。

 あなたが、中学高校のときに必死になって聴いてた音楽、スポーツ、漫画、小説、映画、食べ物なんでもいいです。本当に求めて、本当に探して、本当にやってるときって、おそらくは人生でとてもいい時間を過ごしているのだと思います。中高時代に接したこういった物事が今のあなたの人格=こう感じ、こう考え、こう動くというパターン=を作っているでしょう。良い時間を過ごせば過ごすほど、それは必ずや人格にはねかえってきますから、人間的にも必ずや何らかの成長をもたらす。

 英語で"Have a good time!"とか挨拶でいうけど、これは本当に大事で、煎じ詰めれば人生の意味なんかこれだけだって言ってもいいくらいです。西欧の格言流にいえば「より良い時間を過ごせば過ごすほど、あなたの魂はより彫琢され、研磨される」とでもいうのか。これを一転して下世話に言えば、「”本物”を知ってるやつはカッコいい」ということです。

 本質的で本能的な快楽を知ってる人は、やっぱり人間的に魅力がある。このあたりメッチャ微妙でわかりにくいところだけど、ゆとりがあるというか、人格に奥行きがあるというか、オーラが違うというか、ちゃんと生きてる感じがする。

 そして、ここが先ほどの「あとの半分」なのですね。仮に「美味しい店を沢山知っている」という状況があったとしても、単に情報的に知ってても意味がなくて、その美味しい店であなたがどれだけ良い時間を過ごしたか、それによってどう魂が磨かれたかです。そこがポイントなんだろう。また、第三者的に見ると、本気で好きな物事を語るときって、人は子供みたいになります。無邪気な素顔が出る。それがまた人間的魅力になり、ひいてはモテにつながるのだと僕は思うぞ。そこがダメだと、美味しい店を教えて喜ばせることが出来たとしても、結局は便利なお財布代わり君になっちゃう。逆に言えば、別に無理してカッコつける必要もない。全然そんな店を知らず、興味もなかったら彼女から素直に学べばいい。要はその人の世界観や価値観をレスペクトするかでしょう?

 何かしら人が曖昧で要領を得ないことを熱心に語り出したら、そこには何らかの真実が宿っていると思ったらいい。「うまく言えない」ことにこそ本当のことがあり、カウンセリングでも弁護士相談でも、クライアントがもどかしげ(and/or)口ごもる部分にこそ急所を見る。

ダンドリ君は召使い

 で、何の話かというと、美味しいものや音楽やその他のことにはかなり妥協せずに、ストレートに「いいもの」に触れる快感に忠実にいるくせに、なんで海外体験とか、ひいては人生設計とかになると、ダンドリ君が仕切るの?という大疑問があるからです。より大きな物事ほど、より正確に、より素直に、より魂全開で、より後悔なく決めたらいいじゃないかの?

 音楽でも食べ物でも「ゲットしやすい」とか「安い」とか「関連情報が豊富」なんてことは、本質的に何の意味を持たないことをよく知ってるクセに、つまり人生の楽しみ方をちゃんと知ってるくせに、なんでメインステージではそうならないわけ?変じゃん。

 なんか「ああ、晩飯どうしようかな」みたいなノリで生きてるわけ?残務整理のように、しょうがないから、イヤイヤ生きてるわけ?まあ、そういう立場の人もいるかもしれないし、もしそうなら話はわかる。イヤイヤやるんだから「楽で効率のいいこと」がいいよねえ。変なところでギクシャクしたくないから、事前に情報武装して道は平らに舗装されている方が好ましいよね。でも、本当にそうなのか?

 そりゃ、まあ、確かにダンドリは大事ですよ。僕自身、自他共に認めるダンドリ君だから、ダンドリ立てたり、マニュアル作るのはメチャクチャ得意です。また得意でなければ仕事はできない。自己破産の申請だろうが、シェア探しだろうが、バキバキとダンドリをかましていく快感は知っている。

 しかし、こういったダンドリは全て手段です。本来の目的のためにご奉仕する召使いみたいなものです。で、「ご主人様」は何なのか?といえば、曖昧で要領を得ない「美味しいもの」です。自分なりに納得のいく、ゴキゲンで素敵な人生でしょう。

 もちろん望みがデカイほどダンドリも容易ではないでしょうが、容易なことをすることが正しいわけでもないし、納得につながるものでもない。大事なのは、頑張ることに確信が持てるかどうかであり、それだけだといってもいい。

曖昧なまま

 以上、整理。
 
 @、その希望が本質的で正しければ正しいほど、曖昧になる。「なんか美味しいもの」「ガツン!とくるやつ」になる。その行きつく先は「素晴らしい人生」という禅問答のように抽象化していく。

 A、曖昧なものを明確な現実に落とし込んでいくダンドリ作業があるが、まずボヤヤンとやりたいこと、どうなったら気持ちよさそうかを考え、夢想し、固め、そのあとにオモムロにダンドリを考える。この手順を絶対に逆にしてはならない。

 でも、逆に考えちゃうんですよね。
 レストランのメニューのように、カタログのように、与えられたものの中から選ぶみたいな感じになる。選択肢がもともと少ないからすぐ行き詰まるし、行き詰まらなくてもどこかしら違和感を覚えたりもする。

 本質的なことを考えるときは、出来るだけ曖昧に考えるべし。カタチにしてはダメ。ダンドリに引っ張られないようにする。そこで問われるべきは、その願望が本物かどうかであり、それを計るバロメーターは意欲の強さです。エンジンがワンワン逞しく唸っているかどうか、その鳴りに耳を澄ませること。エンジンは快調なんだけど、地図がないからどこにいって何をすればいいのか分からないという。まずはこの段階から始める。この段階での詰めや熟成が甘いと、三日坊主に終ったり、成功しても「こんなものを求めてたんじゃない!」と虚しくなる。

防波堤としての理論武装

 しかし、不幸にしてこのような「まっとーな感性によるまっとーな手順」を周囲に理解してもらえず苦境に立ったような場合は、それなりに表向きの「理論武装」が必要です。こんなの手段の手段の手段、、、(×10)くらい低階層の技術です、例えば、こんな感じ。

→「理論武装」のサンプル

 ↑言うまでもなく、これは「サンプル」であり、理論武装です。別に嘘は書いてないし、それなりに正しいとは思うが、それはこの際問題ではない。あなたがこれを信じる必要も、理解する必要すらない。要は周囲を説得する、あるいは一方的にあれこれ言われたときの「防波堤」として機能しうるかどうかだけ。「だー、うるさい」「私のことなんだからほっといてよ!」などと言うよりは、多少は効果があればそれでよい。

 この防波堤の目的は、言うまでもなく「なにか美味しいもの」=「曖昧なご本尊」を守るためです。ご本尊は曖昧なだけに打たれ弱かったりするんですよね。「美味しいもの!」と口走った途端、「幼稚園児じゃあるまいし、もっと明確に言え!」「お前、第三世界の貧困を知ってるのか?何が美味しいものだ、贅沢言ってんじゃない!」「そういう欲望だけに引きずられた飽食文化が社会を堕落させてんだよ!」「物質的快楽しか知らない可哀想な人なのよ」とかなんとか周囲から一斉射撃を受けたら、ツライですよね。

 その挙句、時として自分ですら信じられなくなったりしますしね。考えて分るものでもない、というか考えれば考えるほど分らなくなったりするのですよね。くれぐれも、ご本尊を大事に守ってあげてくださいね。

手段と軸線

 ところで、考えてみれば、僕だって前職の弁護士は、日本社会の職業リストというメニューやカタログから選んでます。だけど高校生の時に既に究極目的が「自由」「ワガママに生きたい」「朝寝ていたい」というのはバッチリ定まっていた。だからメニュー選びながらも、それが「手段に過ぎない」とはじめから割り切れた。その職に就くための資格試験は手段の手段であり、大学は手段の手段の手段であり、入試なんか「手段の手段の手段の手段」という第四階層の下っ端だったから殆どまともにやらなかった。とりあえずゴールを設定できたので、それ以外は全てプロセスやダンドリに過ぎないとスッパリ整理できたのは良かったです。

 で、めでたく第一階層手段(弁護士職)をゲットしても、所詮はメニューから選んだもの、いわば吊しの背広みたいなもので、段々それでは身の丈に合わなくなってくる。でもここから先はメニューもカタログもない。で、「なくてもいいや」でこっちに来ました。この場合の「オーストラリア」という目的地も手段一つに過ぎず、永住権も英語力も手段の手段。ご本尊にある基本コンセプト=「なんか美味しいもの」的願望は、「なんか、こう、もっとパーッと弾けて」というメッチャクチャ曖昧ようなものでした。そういえば、なんかもう音楽的に決めてましたね。ブランキーの「DIJのピストル」みたいな感じ。「ドキドキするようなイカれた人生」ってやつ。それと「Punky Bad Hip」に出てくる「俺たちの国境は地平線さ」という一節。「国境」とか「地平線」という言葉がキましたねえ。「いいね、それ」って。これ、ウケ狙いの冗談じゃなくて、本当にそうなんです。

 だからオーストラリアに行く時点では、その後の展望や戦略は白紙!もう100%ピッカピカの純白という。でも、肝心な部分で突っ張れるかどうかが最大のネックであり、そこが貫けたのが一番嬉しい。それに比べたら来た後の苦労なんか屁みたいなもの。そもそもそんなに苦労だと思ってなかったし、何をやっても楽しかった。メインの部分が軸線に合ってたら、そこには苦労なんかない。美味しいものを食べるときに、箸やフォークを動かす作業を苦労だとは思わないように。

 逆に言えば、なにかをするのが苦労のように思えたり、回避すべき苦痛に思えるのだったら、軸線が合ってないです。根本的に間違ってると疑った方がいい。「血がきれい」「背骨ミシミシ」を望んでいたのも関わらず、「低予算で温泉希望」にまとめてしまっている可能性はないか?です。というか「低予算の温泉」しか選択肢が見えてませんか。もっと言えば選択肢がなければダメだと思ってないか?選択肢なんかなくても構わないのよ。なきゃ自分で作れ。それを「自由」と人は呼ぶのだ。


 しかし、ここまで書いて、何を当たり前のことを書いてるんだ俺は、と思ってしまった。なんでこんな当たり前のことを10数年にわたって、毎度毎度メールやエッセイで言わねばならんのか。今の日本でこんなこというオトナは少ないのでしょうか。常識だと思うのだけどな。少なくとも、こっちの国ではわりと常識。僕なんかかなりチマチマと慎ましい方です。世界の皆さんときたら、軸線しかない!ダンドリなし!みたいな人もいるし、それだけ楽しそうに生きてます。

 いや、ほんと、メッチャ楽しそうなんだわ。先日もイタリア料理屋で、いい年のおっちゃんがジェラート頼んでゲットして、もう顔が芯から嬉しそうだったもんな。満面の笑み、少年の目の輝き!って感じ。そういえば、1年前にお世話した美容師さんが、ワーホリ2年目でたまたまシドニーに戻ってきてるんだけど、ローカルの美容室で働いてて、「はい出来ました〜」というとき、オージーのお客さんって「おお、カッコよくなったぞ!」とばかりにすごい嬉しそうにするんだって。そこは日本とえらい違うところで、やってて楽しいって言ってましたね。総じて「何がそんなに楽しいの?」というくらい皆さん楽しそうだよね。合ってんだろうな、軸線。



文責:田村





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