今週の1枚(2011/06/27)



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Essay 521:変わりゆくオーストラリア人の自画像

--20年ぶりのオーストラリア人の意識調査から


 写真は、Canteburyのガソリンスタンド。信号待ちをしているときに撮影。
 ごくごくありふれた日曜の昼下がりの、ごくごく見慣れた普通の風景。




 先週末の新聞に、20年ぶりに行われたオーストラリア人の意識調査の記事が載っていました。
 なかなか興味深いものなのでご紹介します。

 記事の内容は、Ipsos社というマーケティング調査会社が発表したオーストラリアに関する調査を紹介したものです。Ipsos社って何?と思って調べてみる(こういうときにネットは便利)、パリに拠点を置く世界第5位のマーケティング調査会社だそうです。そのオーストラリア支社。今回の主任のレベッカ・ハントレーさんという女性は、おきれいな方なのですが、PhDを持っているバリバリのリサーチャーです。年中調査を行っているようで、2011年にも色々と興味深いトピックをやっています(別窓)。

 今回のオーストラリア人の意識調査(Being Australian)は、1988年に行われてから20年以上の時を隔てて行われたもので、この20余年の間にオーストラリア人の意識がどう変わっていったかを示すものです。また1988年の前回調査の主任がHugh Mackay氏だったというのも個人的には興味を惹かれます。「誰、それ?」と思われるでしょうが、僕にとってはオーストラリアに来たばかりの頃、オーストラリア人を理解するための教科書のようになった著作(Reinventing Australia)を書いた人で、「なるほど!」という衝撃があまりにも大きかったので、自分でもそのエッセンスを訳して、「オーストラリア人の肖像」(別窓)としてこのHPに挙げています。このサイトのなかでも最古に属するコンテンツなのですが、一番価値のあるコンテンツだとも思ってます。その続編レポートが出たということですから、見逃すわけにはいきません。

 最後にまとめてコメントを書きますが、以前にこの種のものを読んだとき、「びっくりするくらい日本と同じ」と思ったのですが、今回はより強くそう思いました。これは日豪が似通ってきたというよりも、世界的(少なくとも先進国)の一般市民の深層心理というのが徐々に似通ってきていると思われます。

 記事本文は、Sydney Morinig Herald紙の"Who do you think you are?"というAdnrew West記者のもの(別窓)で、2011年6月25日付です。
 (新聞記事というのは時間がたつと削除されてしまう可能性もあるので、原文を別途保存しておきました。もし上記のリンクが切れていた場合は、ココ(別窓)をごらんください。)

記事の本文(リポートの概要)の翻訳

Who do you think you are?

"The days of worshipping sportsmen and revelling in a beer-soaked recreational culture is over" ... the new Being Australian report.
A landmark survey of Australian values reveals big changes on work, sport and booze, writes Andrew West.


Andrew West
June 25, 2011

変わりゆくオーストラリア人の自画像

「ビールを片手にスポーツヒーローに騒いでいたかつてのオーストラリアは終った」〜新しい「オーストラリア人」調査結果発表
オーストラリア人の価値観に関する画期的な調査結果によると、我々の労働、スポーツ、そして飲酒に対する意識は大きく変わってきている。
アンドリュー・ウェスト記者


ごく最近、社会学の研究者であるレベッカ・ハントレーさんは、アデレードのはずれにあるスーパーマーケットの倉庫で、6人の男達のインタビューをしていた。ハントレーさんによると、「彼らは揃って、いわゆる”おっちゃん”って感じのタイプで、もう本当に典型的で。タトゥーがあって、がっしり&でっぷりしてて、言葉遣いも庶民的であけすけで、、」

インタビューは、最初、完全にハントレーさんの予想どおり始まった。彼らはタバコを吹かしながら食堂のテーブルにつき、ビールを飲んで、移民や難民、イスラム教の女性のブルカについて「けしからん!」とかあれこれ言っていた。

ところがすぐに彼らの声からは怒りが少なくなり、より微妙で、そしてより深刻な悩みを窺わせるものになっていった。現在のオーストラリアに関する彼らの心配は、大企業や一部の金融エリートのためにオーストラリアの経済が歪められていっている、というものであった。「彼らの大きな懸念は、”経済における正義”とでもいうべきものです」と、20年ぶりになされたオーストラリア人に関する大規模な意識調査をおこなったハントレーさんは、レポートの概要を語る。

彼らの十代の子供達はapprenticeships(徒弟的な職業機会)を探しているのだが、なかなか十分な機会もなく、またあったところで家を出てやっていけるだけの給与を得られるわけでもない。また、彼らはアデレード郊外に公共交通機関が整っていないことをボヤき始めた。十分な交通機関がないから、彼らの奥さん達も仕事や子供の世話が出来ないのだと。

シフトワークによる労働時間の変則度がとめどもなく広がり、特に週末におけるシフトワークは彼らの趣味である釣を妨害しているという。ハントレーさんは言う、「彼らは、ある意味では非常に強力な環境保護者達なです。彼らは水の汚染や大企業の利潤追求主義を心配すると同時に、政治における環境保護勢力がそれらをどこまで止められるかについても心配しています。」

「確かに彼らは現在の難民受け入れ政策については真剣に怒っているのかもしれないのですが、しかし、究極的には、そんなことは彼らにとってどうでもいいことなんです。」

Ipsos Mackay Reportの主任であるハントレーさんが、現在のオーストラリアの各層や投票パターンを全て反映させるために選んだ対象グループへの調査を進める中で発見したのは、現在のオーストラリア人は、全てのことについて気にかけてはいるが、しかし移民や難民についてはそれほど気にしてないという事実である。「もし他のテーマについて語るのを禁じられたら、ようやく移民や難民政策について論難するようになるでしょう」。

2011年の「Ipsos Mackay Report, Being Australian」は、今年の3月にシドニー、メルボルン、アデレードなどで実行された、低中所得者層〜上中所得者層からの100名以上の男女が15のグループディスカッションを行ったものをベースとした、かなり徹底的なフィールド調査をもとにして編纂されたものである。この調査は、これまで変わらないオーストラリア人らしさ(大企業に対する懐疑、ないしは敵意、見栄をはることへの無関心、そして権威に対して特に恐れを抱いていないこと)とともに、1988年に行われた前回調査結果に比べて大きな変容をも示している。

簡単に言ってしまえば、現在のオーストラリア人はドール・ブラッジング(dole-bludging=福祉に寄りかかって怠惰な生活をしていること)よりも自分達の労働超過を心配しているし、「スポーツ選手を英雄視し、ビールを飲んだくれる休日」というカルチャーが過去のものになってしまったということである。「最も顕著な変化は何か?といえば、次の3つの点に集約されるでしょう。仕事、スポーツ、そして飲酒です」

この調査結果から幾つかの政治的な要素を学ぼうとすれば、それは例えば、いかに現在の与党労働党が支持率27%で四苦八苦していたとしても、それでも尚、オーストラリア人は社会民主的な価値観(=左翼的な社会保障的な政治)を許容しようとしている。少なくとも経済や、職場、公共サービスのエリアについてはそうだ。グループディスカッションの成果をふまえレポートは彼らの声をこう代弁している=「大企業は我々の人生を歪めている」と。

「企業の強欲さとビジネスのやり方は、労働の長時間化と労働条件のしめつけなど、古き良きオーストラリア人のライフスタイルを侵食するものとして、憂慮すべきものであると言う人々もいます」

今年、オーストラリア各地で広がった洪水被害に対する保険会社や銀行の対応は、オーストラリア人が心の奥底に抱いていた彼らに対する敵意に火を付けることになった。かねてからオーストラリアにおける企業の特権的な振る舞いに、平均的な収入を持つオーストラリア人達は違和感を抱いていたのである。一人の参加者はこう述べる「今の時点で、何が『アンチ・オーストラリア(un-Australian)』的かといえば、それは大企業が民衆を騙すことさ」。

「今、北部(洪水による被害を受けたQLD州)にある保険会社の連中は、『はい、確かに洪水は起きているのですが、あなたの加入している保険の約款によればこうなってますので、したがって私どもとしてもお支払いをするわけにはまいりません』てな。これこそアンチ・オーストラリア的だと思わないかい?被災者の人達には支払ってあげるべきだよ、だってさ、現にみんな大変な思いをしているじゃないか」

一方で民間セクターにおける労働組合加入率がわずか15%にまで激減しているなか、今回の調査は、職場における団結が変わらぬ価値を持ち続けていること、とりわけずっと昔からオーストラリア人のマインドにセメントで固めたような確信になっている労働者の権利意識を浮き彫りにしている。他の参加者はこのように表現した。「オーストラリア人であること(Being Australian=今回の調査レポートのタイトルでもある)ってのは、つまり、ワシらが毎日8時間(だけ)きっちり働いてだな、とっとと家に帰って家族、特に子供達と一緒に過ごしたりする、、ということだわ。」

「大企業の連中と来たら、俺たちをパートタイムで使って営業時間を延長しようとするしさ、おかげで俺らの一週間は引き延ばされていくんだ。だって、奴らは好きなように労働時間を配置することが出来るし、俺たちのライフスタイルはそれに振り回されていく。挙句の果てに、俺らの「週末」はもうメチャクチャになっちまった。」

こういった叫びのような心情は調査レポートの隅々にまで現われている。ある参加者は「私達の週末はもはや「週末」じゃないんですよ。いつが週末になり、私達がいつ家族と過ごす時間をとれるかは、企業が決めるようになったんです」

大企業の力に対する、とりわけ自分達のライフスタイルをいいように操れる直属のボスに対する恨みの声があがるのは、ある意味ではとても分かりやすいことであり、レポートはこの20年間で職場に対する我々の意識が180度変わってしまったことを明らかにしている。「1988年の調査においてみられたドーブブラジャーやスラッカー(怠け者)達に対する懸念の代わりに、2011年調査においてはその対極に向いつつあり、オーストラリアがワーカホリックとアル中の国家になりつつあるかのような状況になっています。

最近行われた Essential Research という意識調査では、、ジュリア・ギラード首相とトニー・アボット野党党首によってなされた福祉受給者に対する厳しい締め付けに対して、多くのオーストラリア人が明確に反対するかあるいは当惑していることを示している。1980〜90年代において特徴的に見られたアンチ福祉論争とそれにともなうポピュリズムが、最近においては政治的なポイント稼ぎにならないことを示している。労働超過に関するオーストラリア人の心配は、昔から定番の議論ネタである=かつてジョンハワード元首相が「バーベキューストッパー(BBQをやる手を止めてムキになって論じてしまう)」と呼んだ=「仕事と人生の適正バランス」論に尽きるものではなく、移民政策においてもその影を落としているのだ。

ハントレーさんは言う。「かつてオーストラリア人は、移民の連中がオーストラリアの福祉システムを食い物にしていると不満を訴えていたものですが、今はオーバーワークや週末労働をガンガンこなしていく勤勉で野心的な新しいオーストラリア人に対する懸念に変わってきています。ある参加者は、『企業は長時間労働をやってくれる労働者を好むし、それをやってくれる外国人労働者を採用しようとするんだ』と述べています」

しかし、とハントレーさんは続ける。「各政党、とりわけ労働党においては、これらの移民・難民政策の不人気を中和することが出来ます。もし、彼らが有権者達に、そんなことで投票をしてより大切な政策や改革を犠牲にする愚かさを納得させることが出来たら、です。どの政党も、その移民政策がどうあれ、それ以上のものを提示できたら選挙で勝つことが出来るでしょう」

今回レポートは、マッコーリー大学のショーン・ウィルソン氏と投票活動分析家であるトニー・ミッチェルモア氏が共同で行った調査結果を裏付けることにもなった。ウィルソン氏らの調査においては、労働党は彼らの伝統的な強さ、すなわち公共医療、教育、設備の充実であるとか、金持ち非優遇の累進課税システムの推進などの諸政策によって、移民政策の不人気さにも関わらず、国民の信任を得ることが可能であることを示していた。

ウィルソン氏はこう述べている。「もし、オーストラリアのワーキングクラス=この言葉は「働く普通のオーストラリア人」と大きく捉えてもらいたいのだが=の考えていることをじっくり分析すれば、彼らは総じて社会民主的だというのがわかるでしょう。ただ与党労働党がビビってしまって「金持ちどもに国を思うままにさせないぞ」と言えてないだけでね。」

スポーツとスポーツ選手達、一見するところこれらは変わらぬオーストラリア人の情熱の対象であり続けているかのように見える。2011年の調査では、1988年調査と同じく、参加者はスポーツ選手達を「ヒーロー」と呼ぶ。しかし、両調査における違いは、現在の彼らは「ヒーロー」と呼ぶときに、多少なりとも誇張が入っていると感じていることだ。

一人の参加者が「今のところ、オーストラリアにはそれほど国民的な英雄と呼べるような人はいないよね」というと、「いや、でも、スポーツ選手がいるだろ?」と他の参加者がフォローをするのだが、その声はそれほど熱っぽくはない。

飽きもせずに繰り返されるスポーツ選手達のスキャンダル=やれラグビーチームが乱交騒ぎをしたとか、AFLの選手がドラッグに手を出したとか、クリケット選手がファンに手を出したとか=は、少しずつスポーツ選手に対する尊崇の念を侵食しつつある。今回の調査によると、「人々の間では、一部のスポーツ選手が彼らの特権的な地位を悪用しているという厳しい見方がある。また、オーストラリアでは、彼らの偉大な業績や英雄的な地位によって、多少の乱行には目をつぶろうとしてきた我々自身の傾向に対する嫌悪感すらみられる」

多くのオーストラリア人は、クリケットのShane Warne、フットボールのBrendan FevolaやBen Cousinsの各競技における偉大な才能は認めるだろう。しかし、レスペクトをするかというと話は別だし、ましてやロールモデルなどにしようはずもない。それは先ほどの二人の参加者間の会話に端的に示されている、「だってさ、ベン・カズンズを見てみろよ(とても尊敬なんてできっこないよ)」と。

「Fevolaもそうだよね。あれだけ才能に恵まれながら、馬鹿ばっかりやってそれを無駄にしてるじゃないか」「世間の人達が彼の乱行を知ってるというのに、彼は世間をなんだと思ってるのかね」「でも、奴は何億も稼いでいるぜ」「そうなんだよ、それが問題なんだよ。そんな稼がせたらダメだし、そんな金は奪ってしまえばいい、もっと真面目にやれって」

しかし、これらの心情は、単なる不道徳や、個人的な乱行や、有名人スポーツ選手の悪癖が参加者の神経を逆撫でしているだけではない。 それは彼らスポーツ選手のエゴである。高給をとり、熱心なファンと浮気をする彼らのええカッコしいと自惚れが、参加者の嫌悪の対象になっているのだ。ある参加者はこういう「アンチオーストラリア的というのは、デカい面をしていかに自分が凄いか見せびらかすような態度を言うんだと思うよ。「俺様を見ろ!俺は凄いんだぞ」なんて言おうものなら、まずボコボコにされるね」

「仮に本当に凄いことを成し遂げたとしてもだよ、それを言っちゃダメなんだよね。皆、そういう奴が大嫌いなんだからさ」
「そうだよね、多分俺たちもそいつが凄いのはある程度認めるとしても、「そこまでは凄くないよ」って思うと思うな」

眼科医のFred Hollows (1993年没), ガン外科医の Chris O'Brien (2009年没)、脳外科医のCharlie Teo、熱傷皮膚外科のFiona Wood など著名な医師達は、国民の間で「普通の英雄(ordinary heroes)」として熱いレスペクトを集めている。一人の女性参加者は、「彼らは情熱的だし、勇気があります。彼らは自分が信じることを口に出すのを躊躇ったりしません。彼らはとても勤勉だけど、お金のためにやってるわけではない。それが素晴らしいんです」

ハントレーさんによると、「もし人々がスポーツ選手の乱行に時として寛容であるとしたら、それは過去20年間において、オーストラリア人が余暇時間のダークサイドを認識してきたからでしょう。つまり飲酒による健康被害などです」

バーベキューとビールは相変わらずオーストラリア人のライフスタイルの根幹にあり、人々はそれを好み、またビールはオーストラリア人の平等主義の象徴的なイメージではあるが、調査によると過度の飲酒が社会を損ねていくという認識が徐々に広まっていることを示している。

 ある参加者は「確かに飲酒はオーストラリアのアイデンティティの一部だよ。18歳になったら、まずはパーティだよね。何か月も。時には徹夜でも飲むよ。でもちょっと飲み過ぎだよな」というと、他の参加者は「いやいや飲酒そのものは別に悪い事じゃないんだよ、誤解しないでくれよ。それは拳銃そのものは悪い事じゃないと言うのと同じさ、それが自分に向って撃つまではね」。そして又他の者が続ける「いやあ、オーストラリアの生活において飲酒は大きな悪とも言えるよ。アルコールってやつは、すぐには来なくても、徐々に悪い方向に向っていくものだし、いずれコントロール出来なくなったりするんだ」

ハントレーさんによると、1988年調査と2011年調査との顕著な類似点は、オーストラリア人がどんどん成熟してきているということだ。1988年の調査時、ハントレーさんの前任者であるヒュー・マッケイ氏は、オーストラリアを西欧植民地から独立して200年を迎え、「ティーンエイジャーのメンタリティ」を持つようになったと記している。そして数十年後である今、オーストラリア人はより経済的に裕福になり、また彼らが抱いていた愛国心にある種の矛盾を抱くようになってきている。

今回の調査の参加者達は、現在のオーストラリアの好景気を支えているのが鉱山ブームによるものであり、それが長くは続かないことを正確に理解している。このブームは、あと20年や30年は続くかもしれないけどけど、近未来においてオーストラリアの運命を中国やインドが握るようになることは、参加者達がハーバード大学の研究員でなくても、容易に理解されているのだ。

一方においては、参加者達は''oi, oi, oi''(オイ!オイ!オイ!という掛け声)的な荒っぽい愛国的なメンタリティが増加していると述べている(仮にその掛け声がオーストラリアオリジナルなものでなく、イギリスのサッカーファンから由来しているものだとしても)。2000年のシドニーオリンピック以来、オーストラリア人は、タトゥーとか、ボディペインティングによって、より容易に国旗を用いるようになった。「オーストラリア建国記念日では、この数年のことだけど、生まれて初めて人々が車や家に国旗を掲げているのを見たわ。あれは中々いいものよ」と一人の女性参加者は言った。

しかし、矛盾するようだが、今回の調査では、人々の間に過剰なナショナリズムに対する警戒感が流れていることも明らかになっている。ある参加者は、アメリカ流の愛国心がオーストラリアに増加していることに懸念を感じているし、他の参加者は、アボリジニーの人達にしてみれば建国記念日は「侵略記念日」だと言う。また他の者はアンザックストーリーに関する政治的な粉飾に疑問を投げかけている。「どうして、ANZACはオーストラリアを形作ったときだなんて言えるんだい?あんな破滅的な軍隊派遣をしてさ。2万人も死傷者が出たというのに。最初から海岸から進めてもいないのに。この悲惨な事実と、現在の認識をいったいどうやって整合させようというのさ」

ハントレーさんは、抽象的なマルチカルチャリズムという概念は時として混乱を招くし、人々を困惑させる場合もあるが、現実においてオーストラリア人はこれを受け入れているという。「人々の移民やマルチカルチャリズムに対する根強い敵意は時として強力にへばりついているように見えます。しかし、救いはそれが恐怖や懸念という心情を越えることは滅多にないということです。彼らは滅多にレイシスト的な行動に出ることはありません」

マルチカルチャリズムに対する何らかの敵意が存在する場面でも、レイシズムや民族的な行動になるようなことは徐々に減ってきてる反面、特定のカルチャーに対する疑念が高まるという形では現われている(通常、イスラム教徒の女性のヴェールについて言及されるのが常である)。

また調査結果は、憲法改正(共和制移行)に対する関心の薄らぎが示している。「共和制とか新しい国旗とか、あんまり興味ないね」と。そういう事柄に対しては、参加者は総じて無関心なのである。

ハントレーさんと共同研究者達が、3月に洪水やサイクロン・ヤシが直撃したQLD州にフィールドワークを実施したとき、彼らは、オーストラリア人のアイデンティティが見かけ以上に複雑になっていることに気づいた。

参加者達が「不屈の精神」とかマイトシップ、さらに人情の厚いオーストラリア人の特性を語るのを好む一方で、多くの人達は、そういった価値観というのは世界共通のものであることも自覚していたのだった。

実際問題、20年経過しての今回のレポートは、オーストラリア人は今尚この多民族国家のアンデンティティ探しに四苦八苦している。「オーストラリア人の自分探し」は、とある参加者が「オーストラリアのユニークさ」について茶目っ気たっぷりに語ってくれたことに要約されるかもしれない。

「肝心なことは、人間の価値観が同じだという事なんだよね。どうやって他と違わせたり出来るんだい?他の誰かと自分達は違うんだとするだけの価値というものを、どうやって得るかなんだ。僕らは「われわれオーストラリア人は〜」とか言ってるけどさ、他の国の人とどこがどれだけ違うのさ?スポーツを愛する?そんなのどこの国だってそうだろ?飲酒?オーストラリアは大酒飲みで、パブと大の仲良しで、、、そんなことは世界のどこに行ったってそうなんだよな。( Shit, that happens everywhere.)」

思うこと

 一読してみて思うのが、日本との類似点は幾つもあることです。

 @、グローバリゼーションの進展や大企業のアグレッシブな利潤追求によって、一般市民の生活が徐々に窮屈になっていってること。特に雇用に関する不満や不安が高まっていること
 A、それに伴い、大企業や政府などに対する不信感や敵意が以前に増して醸成されつつあること
 B、un-Australian(非オーストラリア的)といわれる行動類型は、un-japanese(非日本人的)と思われるものと似ていること。特にオーストラリアのtall-poppyシンドロームと、日本の「出る杭は打たれる」メンタリティは似ている
 C、社会民主的政党が政権をとっているのだが、その支持率はボロボロであること。しかし皆なんだかんだ政府に文句を言うのだが、根っこにあるのは社会福祉的なニーズであること
 D、そう遠くない将来、自分達の運命を中国やインドが握るようになるだろうと、なかば諦念にも似た思いがあること
 E、スポーツ選手や有名人などヒーローを昔ほど無邪気に崇拝できなくなっていること
 E、健康被害その他を色々と考えるようになり、これまでの伝統カルチャーを無邪気に支持できなくなっていること
 F、憲法改正とか「国家の飾りつけ」のようなものには関心を持たなくなってきていること
 G、ナショナリズムの高揚とそれに対する警戒感がないまぜになっていること
 H、民族的なアイデンティティがよく分からなくなっていること

 ある意味では、「全部おんなじ」と言ってもいいくらいです。
 細かく論じていると膨大な量になりそうなので、雑駁に書きつらねておきます。

 パッと見には、日本とオーストラリアでは全てが真逆に思えたりします。資源のない島国と資源(しか)ない大陸的な国家、古い伝統を持つ国家と植民地あがりで若い国、モノカルチャー・民族的な国と多文化主義の国、引っ込み思案でオタク的に凝りまくるのが好きな民族性と陽気でアバウトで逞しい民族性、、、、数え上げていけば、なにもかもが真逆に思えるでしょう。

 しかし、それって表面的なことに過ぎないと僕は思います。確かに、オーストラリア人と日本人が接触したときには、「うわ、こいつら全然違うわ!」と思うでしょう。しかし、「オーストラリアで暮しているオーストラリア人のリアルタイムの深層心理」と日本に暮している日本人のそれとは、驚くほどの類似性があると思います。

 一つは民族的な類似性、もう一つは現在の状況における類似性です。
 前者ですが、オーストラリア人と日本はやっぱ似てると思いますね。何が似てるかというと、オーストラリア人って意外と「なあなあの解決を好む」とか「あからさまにNO!と言わない」あたりです。そりゃ日豪「だけ」を比べてたら、喧嘩してナンボの西欧カルチャーの系譜をひくオーストラリアの方が、日本人よりもはるかに明瞭にYES/NOを言うのだけど、それでも西欧圏のなか、あるいは世界全体でいえば、「他人とうまくやっていく/波風を立てないのを好む」度合いは日本人に近いと思います。あまり感情的に激発するのを好まない点も同じです。

 日本人には信じられないかもしれないけど、オーストラリア人にも「勤労の美徳」はあり、「ちゃんと働いていることを誇らしく思う気持ち」は十二分にあります。僕らにしたら「あれで?」と思う部分もあるけど、彼らは彼らなりにそう思っている。また騙してでも他人から金をふんだくった方が良いとは全然思っておらず、金に汚いことを嫌悪する気持ちも同じ。

 ええカッコしいが大嫌いで、エラそにしてる人を嫌悪するオーストラリア人の特性は、出る杭を打つ日本カルチャーに似てる。もっと言えば日本の中でも大阪人の反権威意識により近い。権力や権威を屁とも思わず、その点に自分らの誇らしいアイデンティティを見いだす大阪人気質は、ともすればお上意識や権威主義に陥りがちな東京をはじめとする日本の諸地方とはかなり違いますよね。だから大阪人とオーストラリア人が似てるといってもいい。

 宗教や思想、民族意識によって全てが塗りつぶされるということを嫌う意識、ある程度客観的にニュートラルでいたいという意識も、日豪は似てると思います。世界的にみれば、何もかもが宗教的価値観で統一されたり、強力な民族意識、あるいは思想によって社会を作っていこうという国々からすれば、日本もオーストラリアもまだまだニュートラルであり、ニュートラルであろうとする傾向がある。この点、北朝鮮などは別格としても、アメリカにおける「アメリカという価値体系」、中国人の中華思想、韓国人の民族的自意識などに比べてみれば、日豪の方が何らかのドグマに囚われない部分は大きいと思われます。

 総じて言えば、日本もオーストラリアもいい意味で「中産階級的」なんだと思います。「温厚」なんだわ。歴史的にも国を挙げて辛酸を舐め尽したという経験も少ないですから。そりゃどちらも戦争はあるし、天災はあるけど、そんなの世界中どこでもあるのであって、長い間他国の抑圧を受け続けてきたとか、不倶戴天の天敵同士みたいなグループを国内に抱えて年中ドンパチやってる国に比べれば、日本もオーストラリアも苦労知らずであり、「育ちがいい」んだと思う。

 だから感情的にガキガキやったり、金銭的にガツガツするのを遠慮したいという気分があり、また何か一つの色にどっぷり染まることを生理的に嫌う面もある。これはある程度インテリジェンスのある国だったらどこでもそうなのだが、しかし、アメリカのように異なる価値観を自由&激しくぶつけあって、それでトータルとして大きくバランスを取っていこうというよりは、一人一人の個々人が中庸をとっていって、ほんわかと落ち着くところに落ち着きたいという感覚は、日本もオーストラリアも似てると思う。

 だから、オーストラリア人が日本人を好むというのは、分かる気がするのですね。シェアでもホームステイでも日本人というと、多くの場合歓迎されるのもそうだし、"Are you japanese?"と言われてイエスと答えると、心なしかホッとした表情を浮かべるオーストラリア人も多い。あんまり構えなくてもいい、そんなに緊張しなくてもいい相手、話の分かるやつだと思って貰っているフシがあります。これはヴァイス・ヴァーサ(その逆もしかり)で、日本人にとってはオーストラリア人と付き合うのが合っているとも思います。もっとも、日本人の場合、そう多くの民族と付き合った経験がないので「ガイジンはガイジン」で一色に塗りつぶされていたりするけど、細かく見ていくと波長は合う方だと思いますね。

 ただし、これらは大きく見ての話ですよ。個々の日本人とオーストラリア人が接近遭遇したら「うわ、全然違う」と思うでしょう。それでも、その違いは、同一民族内部のキャラの違いレベルでしかないと思うのですよ。例えば、○○市立○○中学校2年1組の連中と、2組の連中はキャラが違うとか、雰囲気が違うとか、カルチャーが違ったりするけど、いわばその程度じゃないかと。差異というのは、スケールをどのへんに持って行くかで全然結論が真逆になりますからね。はたから見てれば同じような集団であっても、ミクロに見ていけばどこまでも細分化できる。大体同じ家族でもキャラが違うんだし。逆に、スケールを一気にパンして、異星人からみたら地球人は地球人で皆同じでしょう。だからこの話は、世界レベルで客観的に比べてみたらというスケールでの話です。

 第二に、昨今の状況における類似性ですが、これがさらに激しく似てますね。もう、「同志よ!」と握手したくなるくらい。もうかなり紙幅を費やしたから、細かく言うのは避けますが、ある意味では当たり前の話だと思うのです。グローバリゼーションは文字通り世界的な現象だから、温暖化みたいなもので、世界のどこであれそれなりに影響は受けます。これまでの国家単位の社会の仕切りが、経済の世界化によってズタズタになってきているのも同じでしょう。

 それまでの各企業は、大企業といえども土着ローカル色があり、その国やその地方のシキタリに適合するようにやっていたのだけど、グローバリゼーションになれば、そんなローカルールに縛られてもいられないです。人件費も含めて物資の安い国で生産し、世界中の市場で広く売ろうとするようになる。そうなれば世界的な統一ルールというか、世界的に通用する普遍的な形態になっていく。そして、資本主義における企業を徹底的に純化していけば、要するに血も涙もない金儲けマシンであるから、資本主義的なキシミをあちこちに撒き散らすようになる。

 オーストラリアの各企業が、こういった世界的なルールで動こうとすれば、それまでのオーストラリア的な労働観や価値観にそぐわない部分が出てくるのも当然です。「週末は家族と一緒にビールとバーベキュー、これだけは絶対死守!」みたいなオーストラリアの伝統的価値観も平気でバキバキと踏みつぶす。日本における「会社は家族。一生面倒みてなんぼ」というカルチャーがバキバキと踏みにじられているのと一緒です。こういった傾向は、一般市民にとっては雇用不安という形で現われます。雇用不安は、人生の計画をうまいこと立てられないという人生不安にもつながります。

 これも細かに見れば日豪で幾らでも違いはありますよ。バブル崩壊以来20年間パッとしない日本経済と、一貫してインフレが進行しているオーストラリアは天地の差があるように見えます。しかしオーストラリアだってこの繁栄が鉱山+中国ブームという薄氷の上での繁栄だということはよく知っているし、近い将来には経済大国になった中印によって翻弄されることも知っているから無邪気に喜んでないです。オーストラリアの労働超過ぶりは、日本における地獄労働からみたら屁みたいなものですし、労働流動性(転職が基本だという社会)や社会保障の厚さなどかなり日豪間で開きはあります。絶対レベルでは違うのだけど、向っている方向性は同じであり、方向性が同じならば、個々人のメンタリティも又似通ってきて当然だと思う。

 日本の民主党、オーストラリアの労働党は同じような系列=中道左派に立つ政党です。アメリカのデモクラッツもそうですね。今の世界情勢からしたら、国家主義(右)VS社会主義(左)という図式なんか何の役にも立たず、巨大怪獣のような国際企業と個々人の生活という関係に立つと思います。今国家レベルで皆が求めているのは、とかくドラスティックになりがちなグローバル経済の影響を、各国内部においてどう中和し、どう補完していくかでしょう。グローバル企業が賃金の安い第三国にどんどん行ってしまって国内失業率が高まれば、失業手当やら、生活保護やら、国内産業の活性化を図るというのが政府の役目として期待される。

 思えば2000年代の10年は、アメリカの911テロが典型的ですが、国家主義的・軍事的な覇権という19世紀的なことがいっときブームになったし、日本でもオーストラリアでもナショナリスティックな物言いが増えた。しかし、国家主義でやってもメシが食えないということを皆は学んでしまった。もう今となってはなんでアフガンに進駐しているのかすら良く覚えていないという。要はメシが食えてなんぼ、自分の人生を成り立たせてなんぼだという話になるので、日豪米でも大きな国家的な左派政権になったのでしょう。生活のしんどさにカウンターを当てることが望まれている。しかし、そんな矢先にリーマンショックが起きてボロボロになったという間の悪さから、どんな政策をやっても画期的に状況が打開されることはない。まあ、グローバル化に棹さすのが至難の業である上に、修正資本主義というのは後手後手に回らざるを得ない側面もあるから当然の話なのですが、不安にかられた民衆は政府をボロクソいい、今は日米豪どの政府の支持率も泥沼状態です。

 しかしそうかといって、皆がまた国家主義的になったかというと、別にそんなこともない。イラクやアフガンを占領しても人々の雇用は変わらない。北朝鮮に強い物言いをしたところで失業率の改善とは関係ないし、君が代歌ってれば給料が増えるという感じもしない。不安にかられれば、国家という拠り所に集まって、束の間での連帯感を感じたいという部分はあるでしょう。だけど、根っからそれに燃えまくるかというと、そんな雰囲気でもない。そんなことしても給料上がらないもんね。このあたりが各国の政治情勢の共通点だと思います。

 そしてこういった状況は、さらに人々の深い心理に影を投げかけていると思います。
 これから死ぬまでバラ色だ、イケイケだって時代だったら、なにをするにも無邪気になれます。しかし、先行き不透明、人生に関する漠たる不安を抱え、自分の人生を自分でコントロールする自信を失ってきた個々人はどうするか?これは以前もエッセイで書いたのですが、コントロール症候群みたいな心情になる。戦線を縮小して、とにかく自分でコントロール可能な範囲を確保しようとする。それが、食生活に関する意識の高まり、健康意識の増進であったりします。天下というキャンバスに巨大な絵を描くのが男子一生の仕事であるとは無邪気に思えないから、自分の肉体と生活スタイルを盆栽のように手間暇かけて整えようとする。日本もオーストラリアも、ほぼ同じ頃にオーガニックブームが起き、ヒーリングブームが起きています。あのオージーが「やっぱ飲み過ぎは健康に良くないよね」とかのたまうようになる。そしてこれは、原因が世界共通のもの(グローバリゼーション)である以上、日豪に限らず世界のどこでも(同じような中産階級においては)同じような現象が生じていると思います。

 で、どこもかしこも同じような感じだから、オーストラリア人としても自分らのユニークさの確立や、自分探しに窮するようになる。「そんなのどこでも同じじゃん」みたいな意識。特に記事の最後の一文、"Shit, that happens everywhere."というのは名言だな。

 このあたり考えていくと幾らでも広がっていきそうで、だから面白いのですね。興味は尽きない。

 最後に一つだけ言うとするなら、上記のように日本人もオーストラリア人も組成や資質においてそう大きな違いがないとするなら、日本においてもオーストラリアみたいな社会を構築することは十分に可能であるということです。日本人がこちらに来て「いいな」と思うようなこと、人に優しくするとか、自然や家族を大切にするとか、わりと透明度の高い社会システムであるとか、ぜーんぶ日本において実現可能だと思ってます。似たような連中がやってるんだから日本で出来ない筈はないと。

 これが、骨の髄まで宗教原理主義者になれとか、ぜーんぜん空気を読まない天然ラテン系になれというなら、日本人には生理的に無理だと思うのです。が、逆にそういうのは、日本人としてもあまり「ああなりたい!」とは強く思わないんじゃないかしら。僕らが「いいな」と思うようなことは、自分らとそうかけ離れていないからこそ、換言すれば、手の届く改善レベル、実現可能だからこそそう感じるんじゃないかな。


文責:田村




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