?c?C?[?g


今週の1枚(2011/06/20)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 520 :日本は中年期鬱なのか

--平均(中位)年齢45歳、パワー弱者の発想と弊害


 写真は、Marrickvilleの住宅街。
 家の門のところに置いてあるのはフリーのコミュニティペーパー。これらを配り歩くバイトもあります。Walkingを日課にしている人などは一石二鳥では。”Flyer distribution jobs sydney”あたりのキーワードでGoogle Australiaで検索してみると出てきますよ。例えばこんな感じ(別窓)。



各国の平均(中位)年齢

 世界史シリーズを書いていたとき発見して驚いたのですが、インドの平均年齢は20代です。24歳とかそんなもんです。まあ、平均ではなく中位年齢だとか、統計年度や計算方法によって違うとか色々あるのですが、ざっくりとしたところでは、25歳弱であると。

 確かにインドの年齢構成を見ると、若い人ほど人数が多いというきれいなピラミッド構造になってます。だから子供が一番多い。これをネガティブに捉えれば、しょせんは「貧乏人の子だくさん」だとか、平均寿命が60代ですぐ死んでしまうからだとか言えるでしょう。しかし、どんなにあら探しをして論難しようとも、もうこの人口構成一点だけで、インドの潜在的パワーの凄さは否定できない。インドがどうこうというよりも、こういう人口構成の国は強いからです。

 なぜ強いかといえば、出費機会が多く、金遣いの荒い若年層が多いことは国内経済においては圧倒的に有利であることが一つ。パワフルで大量の若年層が少数の老年層を支えれば良いので、年金その他の運営が格段に楽であることが第二。また若年層は健康ですから医療費もそれほど財政に負担をかけないことが第三。今現在人口世界一は中国ですが、一人っ子政策によって人口は頭打ちになり、近未来的には途方もない高齢化社会を迎えます。一方インドは、富裕層や新中流層では少子化や非婚化が始まっているようですが、まだまだ人口は伸び続け、あと10年ちょいもすれば(2025年予想)、人口16億になり中国を追い抜くといわれています。

 しかし、こういった経済や国家システムの運営上の利点以上に、平均(中位)年齢が若いことには、大きなメリットがあると思います。メンタル、気質です。若さがもつ強さ。失うものも何もなく、失敗を恐れず、ときとして無鉄砲にガンガン突き進んでいく若さです。もちろん経験未熟でアチコチで壁にぶつかり、七転八倒したり、ロスが大きかったり、精神的に不安定だったりするというデメリットもあるのだけど、その分、精神に弾力があるから回復もまた早い。子供なんか典型的ですが「今泣いたカラスがもう笑った」というくらい、復元力が強い。

 この精神的特性が有利に働くのは、先行き不透明な時代です。多分10年後も100年後も同じようなことをしているんだろうな〜という、安定期(あるいは停滞期)、おじいちゃんがやっていたように田んぼ耕して死んでいく一生を自分も送り、また孫の世代も送るのだろうという見通しがかなりハッキリ見えている時期は、若さは必ずしも有利には働きません。同じようなパターンが続く場合には、過去の経験が何よりも力を持ちます。何十年に一度の冷害に見舞われるときは、その兆候を察知し、事前に準備をする経験豊富な長老の存在が不可欠です。だから社会変化の少ない古代社会においては、経験が重視され、自然に長老社会、年長者優遇のシステムや倫理になっていったのでしょう。

 ところが日本の幕末や敗戦後のように、前例が一切ないような激動期、一寸先は闇のような時代になると、過去の経験はむしろ邪魔になる場合が多い。勿論どんな経験も無駄にはならず、帰納演繹の濾過システムで賢くエッセンスを抽出して、柔軟に応用すれば、幾らでも対応できるでしょうが、そんな「賢者」は少ない。多くは「前例がない」というだけで消極的になったり、どうしていいのか分からないまま狭い身内世界にひきこもったりします。いわゆるオストリッチ症候群ですね。ダチョウが天敵に追い詰められると頭を砂の中に埋めて現実逃避する(=ほんとかどうか知らないけどそういわれている)というやつです。タイタニック号が沈没している最中に、テーブルの配置をめぐってスタッフ内部で口論になってるような状態。「まさに今の日本だ」というのは実は80年代から言われてましたね。

 このような激動期に役に立つのは、前例に囚われない、そして失敗を、場合によっては生命すら失うことを恐れない若い連中(の一部)です。遊び半分、面白半分に起業するとか。そのほとんどが箸にも棒にも〜でしょうが、そんな営みが数千数万という単位で積み重なれば、なかには突拍子もないアイデアも出てくるし、ありえないような獰猛な行動力を持っている人間も出てくる。町工場のお兄ちゃんが中国首脳部に会いに行って、ひょんなことから本当に会えてしまい仲良しになってしまったみたいな(坂本竜馬が本来顔も見られないくらい身分に隔たりがあった勝海舟や松平春嶽とほとんど友達のように付き合ってたように)。

 現在から近未来の世界情勢は、「激動」ってほどではないですが、先行きは不透明です。これだけ世界各地が緊密に結びつき、且つ軍事力で荒っぽく仕切られているわけでもなく、それぞれが比較的まっとーなシステムで経済的に伸びてきている情勢というのは、人類史的に未だかつて存在しなかったでしょう。ここから先は「人類の未知の領域」といってもいい。グローバリゼーションが大航海時代から始まったとすれば、これまでは過酷な植民地支配やら米ソ冷戦構造やらで、少数の強者が多数の弱者を理不尽に支配することで、それなりに「秩序」がありました。支配構造の奪い合いで戦争が起きるなど、それもまた一つのゲームのルールであった。しかし、BRICsをはじめ、かくも世界各地が順当に経済的に伸びてきたらどうなるのか?これは未だかつて一度も体験したことがない領域だといっていいと思う。

 このような情勢で要求されるのは、大激動期のような少壮なる「若気のいたりパワー」ではなく、ある程度従来の経験もありつつも、しかし尚も若年期のヤマっ気や冒険心を濃厚に残しているメンタルでしょう。年齢的な感じで言えば20代後半から30代前半で、身体もまだまだ動くし、ちょっとなことでは動じない経験もあり、しかし尚も野心や攻撃心こそが本領であるという年代。僕がオーストラリアに来たくらいの年齢ですが、一応当初の攻撃目標は制覇して、「おっしゃ、次!」ってな感じです。

 ところがここ10年ほどの日本は、あんまりこんな感じがしません。
 それもその筈というか、日本の平均(中位)年齢は、44歳とか50歳とか、これも統計年度や論者によって様々ですが、世界的な統計によると2010年段階で44.6歳だそうです。CIAの調査がメジャーな資料で、Wikipediaなんかもここから引っ張ってます

 日本の平均(中位)年齢は、事実上世界一位といってもいいでしょう。
 本当はモナコ公国が48.9歳でダントツ一位なのですが、モナコは人口わずか3万人の「町」といってもいい規模だし、そもそもタックスヘイブンの関係で世界中から億万長者が集まってくるなど特殊事情があるから同列に論じにくい。だから実質的に日本が世界一位でしょう。もっとも、僅差でイタリアやドイツが追いかけてきてますし、西欧先進国の多くは40代であり、そんなに大きな差があるわけでもないです。一方若いところでは、アフリカや第三世界の新興国はべらぼうに若くて、世界で一番若いウガンダなんか平均年齢が15歳、中学3年生です。平均年齢がティーンエイジャーの国は他にも数十あります。ちなみにオーストラリアやアメリカは37歳前後です。全世界平均は28歳。

 まあ、これだけだったら平均寿命の長さとある程度パラレルであり、日本が世界に冠たる長寿国家であるという喜ばしくも誇らしい事実とも言えます。

なにか気になる日本の「老化」

 が、なんとなく喜ばしくも、誇らしくもなる気にならないのは、日本の雰囲気が年齢相応というか、年齢以上に高齢化しているような気がするからです。

 老化してるんじゃ、、って思うのは、例えば以下のような特徴があるからです。思いつくまま、重複を恐れずにランダムに挙げてみると、

 @、変化することを面白がるよりも、不安に思うようになる
 A、トラブルを縮小均衡で処理しようとするその1=何でも禁止しようとする
 B、トラブルを縮小均衡で処理しようとするその2=「無かったこと」にしようとする
 C、何によらず管理コントロールしやすいものを好み、手に余るもの、規格外のものを好まない
 D、退屈ストレスよりも不安ストレスの方を強く感じる
 E、秩序(お行儀)倫理を重視し、男気などの心意気系の行動倫理が薄くなる
 F、未知の物事を可能性と捉えず、不安と捉える
 G、現象面としては有名人などの顔ぶれがあまり変わらないし、高齢化している
 H、「こうなりたい」という夢よりも、「こうなりたくない」という恐怖の方が強い
 I、行動の基準が面白いかどうかよりも、面倒臭いかどうか、楽かどうか、安全かどうかになる
 J、物忘れが激しい。ちょっと前まで大騒ぎしてたことでも、すぐに忘れる
 K、「明日は今日よりも成長している」という成長を信じられなくなる
 L、知らない人、特に自分とは意見や肌合いの違う人と接するのを鬱陶しく思い、さらには憎悪するようになる
 M、長期的展望に基づいた「大きな絵」が描けず、目先の損得にやたらこだわる
 N、いかに大きく稼ぐかではなく、いかに出費を減らすかという防衛的姿勢になる

 一つづつ詳述していたらそれぞれが一本くらいのボリュームになるので、以下ごちゃ混ぜに論じますが、それらがどうして老化に関連づけられるのか?というと、根っこにあるのは「エネルギーの衰退」だと思うからです。

 老化というのは、単純に身体機能面でいえば老化(衰弱化)していくことです。明日は今日よりも確実に衰退している、明日や10年後には今よりもずっと強壮で逞しくなっているとは思えない。これがメンタルにも波及して、パワーダウン基調の下り坂志向になる。来年は今年よりもお金持ちになっているとも思えない。簡単にいえば、「今日できないことは明日はもっと出来ない」と思ってるということです。そういう前提で物を見て、そういう前提で生きる。将来的に向上する可能性が乏しいとするなら、現在手に余る事態が発生したら、もう諦めるということになります。「いつか、見てろ」という将来の可能性に賭けられない。

 そうなると何かアンバランスな状態が生じると、比喩的にいえば二本の角があって左右の長さが違ってきた場合、伸びゆく側をまずまず勢いに乗らせてどんどん延ばし、あとで反対側も大きくしてバランスをとるという拡大均衡ではなく、とりあえず長い方をチョン切って左右の長さを合わせるという縮小均衡に走りたくなります。なんせ片方が「成長する」という可能性を信じられないのですから。

何でも禁止

 「とにかく出過ぎた部分、面倒な部分をチョン切る」という方法論は、日本ではやたら禁止規制が多すぎるという点で生じているように思われます。例えば、禁煙区域。区内全部禁煙とか、明らかにやりすぎじゃないか?てか意味分からない。携帯電話の車内通話禁止も、ペースメーカーがどうのというのは実害はほとんど無いらしいし、それがダメならメールもWifiもダメだろうに、なぜか禁止する。オーストラリアでは別に禁止してないし、それで何か問題が起きたということは聞かない。他人の会話がうるさいとかいうのも、外に出ればそんなもんだろうし、あまりにも露骨に迷惑になるのだったらその場で注意すればいい。でも日本ではその場で誰かに話しかけるという文化が衰退して久しい。「逆ギレされたら恐い」という恐怖感が先に立つ。もう「不愉快」とか「恐い」とか言ってる時点で老化してんじゃないかと思うわけです。何もテロリストが機関銃ぶっぱなしているわけでなし、普通の市民が普通に話しているのがなんでそんなに不愉快なのか、不愉快なのになんで何もしないのか?口は何のためについているのだ。気にくわなかったら戦え。でもそこで「戦えない」と思ってしまう時点で衰退している。全体にそうなってるというなら、社会から「むこうみず」なパワーが失われているということではないのか。

 喫煙禁止区域も意味なく広すぎです。千代田区が路上喫煙を禁止したと思ったら、あっという間に横並びで各地で追随する自治体が増えた。その内容はさまざまだけど、喫煙のメインの実害は受動喫煙であると思われるところ、まずもって建物内ような閉鎖空間を禁煙にすべきであり、開放空間を禁煙にするのは理屈が通ってない。オーストラリアは、子供じみてヒステリックなくらい禁煙国家です。タバコの値段が信じられないくらい高いし(一箱1500円くらいする)、かならずパッケージの半分は気色の悪い病気写真を付けないとならず、さらにタバコの売り場でもパッケージを明示することを禁止(紙に商品名を書いているだけ)、「阿呆か?」というくらいエキセントリックに禁煙政策をやってます。まあ、選挙対策って気もしますが。でも、その阿呆なオーストラリアですら、建物内は全館禁煙だけど、開放空間での禁煙はしてません。路上でも皆吸ってます。てか路上でしか吸えない。実際、深夜2時、半径100メートル誰一人いない路上で吸ってて、誰が実害を被るというのだ?誰も実害を被ってないのにもかからず、「とにかく禁止」という、禁止によって問題を解決しようという姿勢が、だんだん常軌を逸しているように思う。

 法学的にいえば、禁止規範というのは法の原点ではあるのだけど(殺すなかれ、盗むなかれの法三章など)、立法技術としては一番ヘタクソなものとされます。なぜなら、第一に実効性がない。本当に取り締まらなければならないような極悪な人達は、そんなこと全然気にしないから効果がない。普段から人に迷惑をかけないように気を使ってる善良な人達だけがキチンと守って窮屈な思いをするだけで、要するに意味がない。第二に、人々の活気を削ぎ、国力を衰退させる。これは因果関係の連鎖が長いのだけど、あれしちゃいけません、コレしちゃダメとばかり言われていると、それを守るのに汲々として、「俺は○○がしたいんだああ!」というエネルギッシュな部分まで去勢されていってしまう。人間がパワフルに活動しているときは、ガハハ!とばかりに多少は野卑な感じになるのであって、そのワイルドさを失えば、長期的に経済社会の発展を阻害するし、実際阻害されている。だから、禁止というのは一種のラストリゾート(最終手段)であり、上手な為政者は、いかに禁止しないで、上手に物事を組み合わせて目的を達成するかです。

 タバコのポイ捨てが美観風致をどうのことと言うなら、禁止ではなく、町のゴミを1キロ集めてきたら、市役所が100円で買い取るようにシステムを作ったらいい。いくら禁止したってポイ捨てする奴はする。それにタバコのポイ捨てよりもガムやビラ配りの方が実害高い。しかし、ビラ配りは、闘争手段や起業手段が限られている一般市民の大事な手段だからこれは絶対に禁止してはならない。それにゴミを散らかすのは倫理的にダメな人ばかりではなく、歩いていて突如体調が悪くなった人だっているし、徘徊老人など「気をつける」という方法がとれない人だっている。だからゴミはいずれにせよ出る。したがって清掃費用はかかる。だとしたら、ホームレスや失業対策、子供達の小遣い稼ぎに、道端のゴミを拾ってもらい、それを100円で買い取った方が、トータルでは安くなるでしょう。禁止を訴える立て看板やペイント費用、そのメンテ費用を考えれば、いい勝負なんじゃない?ちなみにオーストラリアでは非常に頻繁に町の掃除をします。シティなんか毎日やってる。公衆便所でもおよそ紙がないということはない。なぜかといえば、失業保険を出すバーターとして公共奉仕命令などもあるし、そもそも美観というのは大事だから、モラルに訴えるなんて曖昧な政治手法を使わず、きちんと予算として清掃費用を計上しているからです。

 さらに、これだけYouTubeその他でネット動画が普遍化しているにも関わらず、TV番組その他のネットで流すのを必死になって規制しようとしたり、いわゆる「有害図書」の規制を強化したり、禁止が強まっています。これも「禁止は最大の愚策」の原則に外れず、ネットとテレビを大きく融合させようというGoogleTVなどの世界趨勢を無視してガラパゴス化を進めるだけだし、今や日本で最も外資を稼げるアニメなどの二次元業界の自由さを殺してどうする?という、経済面に絞っただけでも、愚劣な方向性だと思います。また、禁止や規制は、TVの放送コードや放送禁止用語の増大、自粛ブーム、とにかく目立つのを恐れるという形でどんどん進行してきている。

 これら禁止増大の冢中の根底にあるメンタリティは、一言でいえば「老人の弱さ」だと思います。

老人の弱さ 

 老人の弱さは、自分の強さを信じられないことに基づきます。まずは無意識的に自分を弱者と規定します。無意識に、です。自分の強さを信じられない、将来的に強くなるとも信じられない、また手間暇とパワーのかかることを本能的に忌避しようとします。

 冗談でよく言うのですが、地下鉄のホームで改札に上がるとき、空いている階段をスタスタ登っていけるウチはまだ若いけど、多少混んでてもエスカレーターに乗ろうと思いはじめた時点で、既に「老化」が始まってます。子供なんかは元気があるから、じっとエスカレータを待ってるのが退屈でたまらず、二段飛ばしくらいでガンガン階段を走っていく。十代や20代前半もそうでしょう。しかし20代後半になるにつれて、だんだん階段が鬱陶しく思うようになる。だからちょっと待ってもエスカレーターで行こうと思う。

 しかし、よく考えれば階段を上るくらいのエネルギー消費量など何ほどのこともないし、日頃から健康を考えているなら階段を使った方がいいに決まってます。早く着けるし。これが子供の頃から虚弱体質だとかいうなら話は別です。だから、階段→エスカレーターに変わること、変わった時点で、人生の下り坂に入ったと考えていいと。無茶な理屈ですがエッセンスは分かると思います。あるいは旅行を企画するときに、珍しいものを見たい、楽しい思いをしたいという「体力のかかるものごと」をいつの間にかしんどく思うようになり、「ゆっくりしたい」「のんびりしたい」というのが旅のメイン目的になったら、もう老化です。つまり、行動の基準が「面白いかどうか」であるうちはまだ若いけど、「楽かどうか」で物事決めるようになったらもう老人だと。

 老人は省エネ志向というか、パワーがかかるものが生理的にイヤになる。うんざりする。パワフルな若者は、無駄に有り余ってるパワーの捨て場に困ってますから、省エネどころか意味なく騒いだりはね回ったりする。子供でも、じっと待ってられなくて、そこらへんですぐに追いかけっことかするし、別に急いでなくても走って移動する。生理的にパワーを使うと気持ちいいのでしょう。でも老人になると、パワーが少なくなっているので、出来るだけケチケチするようになる。このパワーの希少感、自分のパワーが有り余ってないのだという自己認識が、「無意識的に自分を弱者と規定する」、ということです。

 パワーケチの思考方法は、とにかく面倒臭いことはやりたくないし、ウンウン唸って素晴らしいアイディアをひねり出したり、複雑なデーターを突き合わせるような問題解決をイヤがります。そこで「禁止」です。だって簡単だもん。また、困難だけど正道な問題解決をしようとしても、それが出来るという自信もない。生徒を十分に私淑させる人間的強さに自信が持てない教師ほど、あれこれ細かな校則やら禁止事項を増やす。PTAに文句言われても、ガチで勝負して、24時間でも48時間でも延々白熱討論をして分かり合おうとしようとはしない。日本のTV局も、今はネットによって浮沈がかかってるくらいヤバい状況にあるのだから、積極的に自分からどんどんネットを取り込んでいけばいい。Googleに逆に話をもちかけるくらいにして取り組み、自分らの番組が世界中で見られるようにじゃんじゃんネット放映し、さらにそこに広告を載っけられるように新しい方式を開発して生き残りを図ればいい。それにメチャクチャ面白い番組を作れば、自分からプロモーションしなくてもクチコミでどんどん広がっていき世界から注目されるし、新しいビジネスチャンスも出てくるでしょう。でもそんな面倒なことをやる気力もパワーもないのでしょうか、著作権あたりに立て籠もって、「先生に言いつける」みたいな虚弱な対応しか取れない。

 パワーのある人間は、まずやりたいことをやろうとする。体内からマグマのようにエネルギーが満ちてくるから、早くなんかしないと爆発してしまいそうだし。思考も行動も、必然的にポジティブに、まず「やる!」という前提で話が進んでいく。だってやらないと死んじゃうんだから。どんな難題でも、どんな面倒臭いことでも、「おーし!」と取り組む。やる気満々。でもパワーが少ない人間は、「あ、めんどくさ」と最初に思う。出来るだけやらずに済ませる方法を考える。そうなると、どんな問題が出てきても、「自分の手に合うサイズ」にチョン切ってしまおうとする。問題を矮小化しようとする。つまりは旧態依然としたパターンの中に全部落とし込んで、それで済ませようとする。原発が事故れば、あれは「安全管理のミス」「一層の安全管理の徹底」という旧来路線で済ませようとして、ミスは絶対いつか起きるという前提で根本的にから原発そのものを考え直すという方向には行きたがらない。

 特にお役所の文章なんか、一見深刻そうに書きつつも、煎じ詰めれば問題を矮小化している場合が多いです。「今後一層の〜」なんて常套句がつくときは大体そうです。僕は以前、神戸市役所職員が意に反して福祉事務所に廻され、鬱状態になり、錯乱して自分の担当ケース(被保護者)を殺害してしまったという事件の弁護をやったことがあります。そこで見たのは福祉事務所の現状であり、かなりハードな職場であるだけにメンタル的に適性を備えた人でないと難しいという現実です。不幸な事件を将来に活かすべく問題提起して欲しいと心ある専門の方々からも言われました。だからポイントは市役所などの職場人事においける適性配置の問題であり、ハードな職場における適宜適切なサポート体制の構築だったのだけど、当局が発表したのは「今後は二人一組で行動するようにする」という、本質に根ざさぬ弥縫的なものでした。警察の不祥事でも、根本的なキャリア・ノンキャリ人事体制はどうよ?という問題に踏み込むことなく、「今後一層の綱紀の粛正に努め」みたいな美文で終る。マスコミの報道被害でも、特ダネ主義とか記者クラブ制度とか被害者保障制度とかそういうことには触れずに「今後一層、、」です。なんでもかんでも「今後一層」。要するに「これまでのようにやりますよ」「これまでの枠組みは壊したくありません」と言ってるにすぎない。

 手に余ることはやりたくない、やる自信もない。それがいかに必要なことだと思っていても、そう思わないように努め、根本的な大変革をしようとしない。ほとぼりが冷めるのを待ち、無かったことにしようとする。なぜか?弱いからでしょ。パワーがないからでしょ。他にも既得権保護とかいろいろな生臭い理由があるとは思うけど、「既得権」なんかにしがみつくのも弱体化した老人の証拠ですわ。強者の自負のある人間だったら、自分がもう奪ってしまった獲物なんかそんなに興味もないもん。頭の中には新しい構想が山のように積まれており、とにかく新しいことを作っていくのに忙しいし、興味はそちらに集中する。

 僕がヒトラーや信長のような無制限の権力を持ってたら、既得権にしがみついている連中は皆殺しにするか放逐しますわ。信長が中世の寺社の専売権を全否定して楽市楽座を開き、叡山の僧侶を皆殺しにしたように。なぜなら既得権にしがみつく者が居なくなっても国力減少にはならないからです。しがみつくのは新たにクリエイトする能力も気力もないってことなんだから、そんな連中が居なくても国としては構わないし、むしろ居ない方がいい。真にクリエイティブで実力のある人間だったら、ゼロに戻ってもまた自力で這い上がってきます。会社から追放されたスティーブ・ジョブスが返り咲いてiPodを作ったように。それが世の中を発展させる。

 というわけで、JALの体制刷新でも、東電の解体でも遅々として進まず、既得権者が堂々と居残っている現状は、国としての老化ではないかという所以です。どんなことでも矮小化し、あるいは「無かったこと」にしようとする傾向は、まさに老人のそれではないかと。

他人を受容できない 

 もう一つの特徴は、他人が自分と同じでないと生理的にイヤだと思うことです。これは性格もあるかもしれないけど、弱くて、パワーが少ない人間ほどそうなると思う。トレランス(寛容性)が乏しくなる。ここでいうパワーというのは肉体的なものではなく、精神的な、魂的なパワーです。

 満々と水をたたえた大きな湖なような自分だったら、他人が多少うるさかったり、自分と違う意見を言ったりしても、「ほう、元気あってよかよか」と鷹揚に構えていられます。余裕がある。あるいは、信念に照らして「それは間違ってる」と思うことがあれば、堂々とそれを開陳する。対話することをいとわないし、また必要があれば戦う。

 おそらく他人と接するのは非常にパワーが必要なのでしょう。病気でヘバってるときとか、あんまり人と会いたくないもんね。「気を使う」っていうけど、それは世間体を取り繕うというだけではなく、他人のパワーと拮抗しうるだけの気力を自分でも出さないといけないからでしょう。非常にパワフルな人と会ったりしたときは、終った後どっと疲れたりします。

 パワーが満ちている人は、他人に会うのを厭わないし、むしろ面白いから積極的に会おうとしたりします。江戸時代の人とか、わざわざ名声を聞きつけ、1か月も2ヶ月もトボトボと歩き続けて門を叩くということをやってます。途方もないパワーです。なんでそこまでやるのかといえば、とりあえずは「面白いから」です。面白いかどうかが行動の基準です。次に、その人と会うことによって自分がもっと強く、面白く、広がっていけるんじゃないかって期待がある。つまり、将来的に自分は右肩上がりに登っていくのだという、ナチュラルな上昇パターンが無意識にある。だから、人とも会うし、自分と違った奴ほど面白いから会うし、それで不愉快な思いをしようともそれよりも興味が勝つ。不愉快な思いをすれば、徹底的に議論したり、場合によっては殴り合ったりすることも辞さない。

 ところが、今以上に変わりたくないし、変われるとも思えない老人の場合は、自分に何らかの不快感をもたらしかねない人と会うのを避けようとします。自分が理解できない人間、意見の違う人間と会うのを恐れるようになる。いたくパワーを消耗しそうだし、とりあえず不愉快だし。未知の世界を知ったとて、それを自分の栄養にするだけの魂の消化能力に自信が持てない。かくして自分と違う人間の意見、行動、さらにはその存在すらをも憎むようになる。老人が若者を見て、チッと吐き捨てるように、「ああ、嘆かわしい」と悪態つくのと同じです。

 そうなると規制する方向も、どういう実害があるかではなく、そういう種類の「行為」や、そういう人間の「存在」すらをも否定しようとして、実害との関連なく広がっていく傾向になります。車内でも、飲み屋でも、自分の気にくわない連中が気にくわない話をしてられると、とりあえず腹が立つというのはあります。これは誰にでもある。でもそれはお互い様でしょう。相手だって自分が気にくわないと思ってたりするのだから。湘南で暴走族とサーファーが天敵関係にあるようなもので、それは自然界における「棲み分け」みたいなものです。そこでやってけなかったら、ありとあらゆる人種が入り乱れている世界になんか出て行けないよ。つか、だから出ていかないんだろうけど。

 で、そこでそれなりに我慢するのもパワーが要るし、そこで不愉快な接触をして不愉快なことになったり、あるいはそれを通り越えて理解しあっていい友達になったりするのはもっとパワーが要る。ほんでもって、人類はその不愉快なことを乗り越えてやってきたのだし、民主主義の根幹にあるのはその不愉快を乗り越えろということでしょう。あらゆる意見の多様性を認め、その多様性にこそ可能性を見いだす方法論なんだから、一色に染め上げるのは国家や組織の自殺行為ですらある。

 でも、老人はパワーがないから、こういうことを面倒くさがるんですよね。「けしからん」の一言で終り。「頭が固い」とかいうけど、それ以前にパワーがない場合が多いと思います。

 老人が老人的であるのは、まあ、自然の摂理だからいいんだけど、問題は老害(←この単語、僕のATOKで変換しないのは何故、これも自粛?)になる場合です。どういうことかというと、自分は弱者・パワー貧者と無意識に規定しておきながら、しかし扱いとしては強者並に優遇してほしいという理不尽な願望も持つことです。ひとことでいえばワガママであり、これを既得権やら政治力で押し通そうとする。

 そこで使われるのは、昔ならば「醇風美俗」であり、今ならば「青少年の健全な育成」でしょう。東京都条例の有害図書の規制なんか典型的ですが、漫画・アニメの「非実在少年」が性に関して「青少年の健全な人格形成に対して有害」だとなんとか。これも、「まだそんなこと言ってるのか」とちょっと唖然としました。でもそこで行われている議論はマジ?というくらい、議論内容がヤバ過ぎるだろうってくらい面白いです。ネットであちこち紹介されていますが、例えば、「差別発言、暴言、虚言、妄言の超連発に思わず爆笑」では、東京都青少年問題協議会の議事録から引用しているのですが、「酷い漫画の愛好者達はある障害を持っている」「彼らは認知障害を起こしているという見方を主流化する必要がある」「アニメ文化やロリコン文化が性犯罪を絶対に助長している」「細かい議論が沢山あると思うが、何で反論している人の事まで考えなきゃいけないのか」「漫画家団体に対して説明や調査データを示す必要も無いくらい規制は当たり前の事だ。正論でガンと言ってやれば良い。」「そうした創作物が性犯罪の発生と密接な因果関係があるかどうかを、必ずしも統計を示してまで立証する必要はなくて、逆に、関係がないという根拠もないわけなので、だから、統計的なデータがないから犯罪との因果関係がないとは別に言い切れないと突っぱねたらいい」「これはぜひ警視庁さんが、販売自粛ではなく、製造した人間自体を取り締まって頂きたい」などなど。笑えますよ。

 要するにこの人達は、アニメとか漫画やコミケとかやってる人達がキライなんでしょ。憎悪している、その存在自体が許せないくらいに感じている。ほとんどゴキブリ扱いであり、だから議論も大雑把になる。エロ系萌え系漫画読み描きしてるだけで他人を障害呼ばわりもするし、反論に耳を貸す必要もないし、証拠すら要らないと言い放つ。あたかもゴキブリ殺すには証拠も理屈も要らないというように。石原知事だってアニメイベントが中止になって「ざまあみろってんだ」と正直すぎる発言をしているし。

 結局これって、青少年をダシに使って、自分の嫌いな人種を抹殺したいんでしょう。キモチ悪い奴には居なくなって欲しいんでしょ。いや、言い過ぎだとは思わないよ。普通の議論じゃここまでの暴言は僕も言わないけど、あとで記録が残る公的な議事でここまでアホな発言をする人には、もう議論と言うよりは、ただの口喧嘩だもん。人権規制をするのに、それ相応の証拠なんか必要ないんだという意見が、先進国の首都の地方議会で語られているんだからさ。これは国辱レベルだとすら思いますよ。

 この話は幾らでも出来るけど、ここでは、嫌いな人間に対する許容性が乏しくなるということであり、その自分の趣味を権力で押しつけようとするという。この種のタイプの人は、老若問わず沢山いますが、総じていえば精神的パワーが弱いと思います。異物に対抗、受容、辛抱するパワーがない。「こらえ性がない」ってやつですね。また自分一人が裸の状態でいると弱く感じるからこそ、弱さをフォローする「鎧」みたいなものを沢山欲しがる。権威であるとか、ステイタスであるとか。異様に虚栄心が強く、世間体を気にするタイプ。なぜかといえば、自分の弱さを無意識的にも知ってるから、その種の鎧で武装してないと恐いんでしょ。本当に強い奴はそんなもので武装しないし、素の自分で勝負していける。

 弱さが狭量を生み、狭量は偏見や差別を生み、そして規制を生む。その規制に使われる大義名分は、大体において秩序倫理です。倫理=人間の美徳、あるべき姿に関するものは多数ありますが、大きく「お行儀系」と「行動系」に分かれると思う。前者は秩序を重んじ、ちゃんとお礼を言うとか、列があったらちゃんと並ぶとか、他人を迷惑をかけないというやつです。日本では非常に重視されます。しかし、倫理にはもう一つあり、「義を見てせざるは勇無きなり」という、社会や人間関係の義にしたがって断固として行動する美学です。困ってる人がいたらとにかく助ける、非道な振る舞いがあったら強大な敵に対しても断固NOを言い、戦いを挑むという戦闘的な美学です。西欧はこれが強い。イエーリングの「権利のための闘争」、憲法の抵抗権の規定、「権利の上に眠る者は法の保護に価しない」という厳しい教えがあります。

 後者は当然に個々人にかなりのパワーを求めます。しかし、前者の秩序・お行儀系はあんまりパワーを必要とはしません。基本的に「やるな」「するな」ですからね。そして日本ではこのパターンが多い。なんでもお行儀倫理にしちゃおうとする。携帯電話だって「マナー」モードって言いますからね。会議中に呼び出し音が邪魔になるから音をカットするだけの機能だったら、そして「モード」という英語表記をしたいなら、英語原文のまま「サイレント・モード」って言えばいいじゃん。なんでそんなところに「マナー」=「お行儀」が出てくるのよ?僕が日本に帰国したとき、マナーモードというのだと知って、「マナー?なんで?」と凄い違和感を覚えたぞ。そんなものがマナーなのか?でもって、電車の中でお行儀よくちんまり座って小声でぼそぼそ喋るのがイイコトなんだ。でも目の前で妙齢のご婦人が酔漢に絡まれていてもタヌキ寝入りしててもいいんだ。それがJapanese Manner(日本人のやり方)なんだ(mannerは礼法ではなく流儀という意味)。ほんとかよ。そんなもん外人さんにどうやって説明するんだ。

平均年齢の意味

 さて、長々と書いてしまいましたが、また冒頭の平均年齢に戻ります。 

 日本の平均年齢も、戦後は25歳くらいでした。それが段々と伸びていって、今45歳くらいです。全体に45歳くらいの、パワーもヘロヘロになってる頃の、そろそろ老化を実感しはじめた年齢になっている。だから世の中もそうなっている、、と言えるでしょう。

 だけど、ここで幾つも付言しておきたいことがあります。

 第一に、日本の平均年齢が45歳というのは、単純に45歳以上の人が相対的に増えた=老人が増えたから、老人の意見が幅を利かせている、ということには直ちにつながらないと思います。別に暦数年齢が高い人達のせいだけではない。いくら老人と呼ばれる年齢の人達が老害を撒き散らそうとも、若年〜中年世代がガンガン世の中を引っ張っていくことは可能ですし、そういう実例は日本の過去にも、世界にも幾らでもあります。だからといって、若い世代がだらしないとか、覇気がないとかいうだけのことでもないと思います。つまり、どっかの世代が主犯であるとか、そういう問題ではないということです。

 うまく言いにくいのだけど、その人が何歳であるかを問わず、社会全体がなんとなく45歳のメンタリティと行動原理で動いている、ということです。僕が思春期や青年期を過ごした頃の日本の平均年齢はまだ30代前半でしたし、仕事をしてる頃でも30代後半くらいでした。だからバブルみたいな馬鹿騒ぎも出来た。僕がハタチの頃の平均年齢は33歳ですから日本も全体として33歳的だったのでしょう。だから、今現在のハタチの人と、当時ハタチだった僕を比べてみると、当時の僕の方が何となく若いというか、青臭いというか、未熟というか、元気しかないというか、野心的というか、野良犬的だったと思います。

 つまり全体として老いていくという感じです。これがあと10年もしたら平均50歳を越えるでしょうから、10年後のハタチの人も50歳的なものの考え方になっていくんじゃないかな。また、僕は94年に日本を離脱してますので、僕の中での「日本時計」はそこで停まっており、その頃の平均年齢は39歳くらいの感じ。だから、今の日本を見てると、なんかジジ臭いというか、違和感を抱く。接する人が何歳であってもそう。世の中の物事の進み方そのものが「老いた」気がする。

 ところでこの平均年齢ですが、自分も年をとるし、日本も年を取る。大体、平均年齢は暦数年齢の進み方の40%くらいのスピードで上がっていくので、ここ10年くらいは自分の年齢と日本の年齢がニアリーな時期が続いて、自分が年をとったからそう思うのか、日本がそうなったのか、中々分かりづらいです。ただ、自分があのまま日本におったら、昔思ってたよりも年をとっても居心地は悪くならなかっただろうなってのは思います。昔は、年を取ったら居場所なし!みたいな感じで、もう若い連中のことはさっぱり分からんし、意思疎通も出来ないし、TVつけても知らない人ばっかりだし、世の中の流れにだんだん取り残されていくんだろうなって思ってたのですが、実際にはあんまり変わってない。玉置浩二&青田典子(旧CCガールズ)なんて、2011年になってもまだニュースになるなんて夢にも思わなかった。いやあ、年長者には住み心地が良さそうですな。

 しかし、そんなところで住み心地が良くなってもしょうがないじゃんって気がしますね。年長者がどんどん取り残されていく位の方が、寂しくはあるけど、本質的にはうれしいです。

大人になることの意味

 もう一点は、これが肝心な点なのですけど、同じ45歳でも質が違うということです。というか、45歳にしては老けすぎてないか?パワーダウンしすぎてないか?と。

 本来45歳というのはそれほど落ち込む年齢ではないです。むしろ、実業家など「脂の乗った」年齢であり、もっとも戦闘的、攻撃的になってたって不思議ではない。やや年をとってるキライはありつつも、冒頭で書いた世界の混沌情勢に対するには相応しい年齢であるとも言えます。

 ところが何か、見てたら「中年期鬱」というか、更年期障害というか、年齢のネガティブな面ばかりが出ている。出過ぎってくらいで、なんでじゃ?と。

 ここで又あれこれ思うのですが、一つには「年の取り方」を間違ってないか?ということです。なぜそういうパワーダウンする方向で年を取っていくのだろう?なぜそこまで老け込むのだろうか?と。老け込ませるような何かがあるのだろうか。一つは、これは良く書いていることですが、西欧と違って日本では若さを尊ぶ文化、お稚児さん文化というか「鬼も一八番茶も出花」的な若いことに凄い価値を見いだす文化があり、老いていくことに関してはあまり美しく語られない。「年寄りの冷や水」とかね。長幼の礼はあるんだけど、年長者こそが「カッコいい!」という文化やロールモデルが少なかったことがあります。

 これは伝統的な側面ですが、戦後の歩みを見ても、「いちご白書をもう一度」という大昔に流行ったユーミンの曲でも、「(就職が決まって髪を切ってきたとき)もう若くないさと、君にいいわけしたね」という歌詞が出てきます。「若くない」「大人になる」ことが、何やら自分を殺すこと、体制に順応することであるかのように捉えられ、まあ実際にそういう側面も強かった。自我を殺して会社人間になりきっていれば、それなりに人生は保証されましたから。つまり「若さ」と「大人」は二者択一で、若いままだと大人になれないみたいな妙な意識がある。

 なんでそう思うのかな?って、日本にいるときは自分もなんとなくそう思ってたし、それがケッタクソ悪かったけど、こちらに来てからはそんなジレンマは一つもない。大人になるということは、若さという芯はそのままで「より強く、成熟すること」ですから。エネルギーやパワーは殺さない。むしろ増強させつつ、その表現方法を洗練させる、その洗練度や熟練度を「大人」と呼ぶのだと。何かを諦めることが大人になることではなく、より一層強い心で「絶対に諦めないぞ」と思い続けるのが大人になることなのだと。

 まるでタケノコのように外皮がどんどん増えてきて、十二単のようになっていくのが、本当の年の取り方ではないのか。芯の部分は子供の心のままでいること。だから、若さというのは暦数年齢とは関係がない。若さの本質とは、自分が成長していけると思うこと、明日は今日よりも自分が素晴らしくなっている、そうしようと思うことでしょう。幾ら成長しても芯の部分は同じであり、少年のようなキラキラ瞳を持ったお茶目なおじいちゃんとか、童女のように健やかな心をもつおばあちゃんとか実際に幾らでもいるし、彼らは本質的には若いですし、すっごいチャーミングです。皆そうなればいいのに。

 また、若さというのは、また単純に見た目がどうとかいうこととも関係がないです。というか、そんな見た目の若さを尊ぶ時点で、既に老人の発想ですよね。若い頃は自分の若さを尊いことだとは全然思わないもん。未熟さと弱さに歯がみをするような思いでいるのが普通でしょ。

 もし、大人になること・年をとることが、何かを諦めることとほとんど同義であり、45歳という年齢が「何かを諦めてから20周年」みたいに感じられるのなら、それはヘタってきても無理はないように思います。特にイヤイヤ髪を切って、自分を殺して会社に入って、それでも生涯が保証されるならまだしも、リストラされるわ、お先真っ暗だわだったら、我慢するだけ損というか、この「報われない忍従」こそが人生そのものになっていく。やってらんないですよ。もしそんな20年を経て45歳になったとしたら、そりゃあ疲れるでしょうし、鬱にもなるでしょうし、45歳なのに65歳くらいのメンタリティを備えても不思議ではない。

 そういえば「癒し」とかここ10年以上ブームになってて、20代の人でも普通に癒しを求めたりするけど、僕の20代は「癒し」なんて言葉が流行ってなかったのは勿論ながら、その種の感覚を求めることもなかったです。今冷静に振り返っても、無かったと思うぞ。そりゃ仕事はしんどいし、疲れたけど、だから「癒し」ではなく、だから「遊び」と「睡眠」を求めました。ドンチャン騒ぎもやったし、やたら色んな人と会ったりしたし、そしてとにかく眠かった。十代二十代の主旋律は何か?と聞かれたら「眠い!」ですね。仕事してても眠かったし、電車乗ったら墜落睡眠でしたもん。逆にいえば、寝れば大抵のことはクリアしてましたね。どんなイヤなこと、疲れることがあっても寝たら大丈夫という。そして今でも同じで、別に癒しなんか要らないし、「寝てさえいれば」と思います。ああ、そうだ、だからこそ、好きなときに好きなだけ眠れるライフスタイルに高校生の頃に激しく憧れ、今、結構いいセンにそうなってます。いやあ、昼寝はマストですよ。

 それはさておき、でも、ホントにそうなん?そんなに人生が意味のない忍従に満ちており、成長する喜びなんか感じられないのか?
 もし、これをお読みになってるあなたが、なんか世の中面白くないな、なんか人生つまらんなと思えたら、それはヘンだと思った方がいいっす。日本をなんとなくすっぽり包む中年期鬱みたいなものに感染してませんか?なぜなら、僕が若い頃に面白いと思えた物事は、今も寸分違わず日本にあるもん。文化も、サブカルも、そして色々な仕事をしている人達も、日本の山河も。これが富士山が爆発して平になっちゃったり、共産国になって全員がダサい人民服を着せられて、個人の意向を無視して人民公社に働かされているというなら、「なんか最近つまらんな」というのも分かるけど、別にそうなってないでしょ?

 人や社会は無限に成長していけます。これはもうあっけらか〜んと断言できます。
 だって、これまでも人類はそうしてきたし、多くの失敗を繰り返しながらも、ヨタヨタした歩みながらも、少しづつでも進んできた。成長というのは、何も高度成長時期の物質的・経済的成長だけを言うのではない。そんなのは数ある成長のなかのほんの一部に過ぎないし、それも比較的レベルの低いものでしかない。それなのに「戦後日本の成長神話の終焉」とかいったりして、「神話」にしちゃダメでしょう。成長パターンの重層化、多極化、本質化、個人化、、とか、幾らでも表現のしようはあると思うのだけど、そうは思えないところが、やっぱ老化なんですかね。



文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る