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今週の1枚(2011/05/09)



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Essay 514 :お利口さんの袋小路  〜馬鹿をやらないと選択肢は増えない

 写真は、Willoughby。Chatswoodの東隣、Victoria AveとPenshurst Stの角っちょは、微妙にうらぶれた感じでありつつも、実は中東系(特にペルシャ系)の店が集まってたりします。ラブリーな猫ちゃんショップの右隣はよく見るとレバノン系の食料品店、その隣はペルシャ料理屋さん。他にもペルシャ系のスーパーがあったりします。ずっと前に挑戦して、なにか記念に買って帰ろうと思ったのですが、攻めあぐねましたね。ナッツ系は定番過ぎるし。ローズウォーターを買ったかな。



BAKUMAN

 「BAKUMAN/バクマン。」という漫画があります。ご存知の方も多いと思います。観たことないけど、ついこの間までTVもアニメ放映されていたようです。中学生の二人組が漫画家を目指して、少年ジャンプで連載を勝ち取っていくというサクセスストーリーなのですが、出色なのが「ここまで書いていいの?」というぐらい漫画雑誌の編集現場(というか少年ジャンプの現場)をリアルに描いている点です。ジャンプ独特のアンケート方式に速報と本チャンがあるとか、新連載や打ち切りというシビアな編集会議の詳細とか、担当制度とか、原稿料とか、漫画作成の技術論とかマーケ論とか。

 大場つぐみ×小畑健の原作・画コンビは、これも有名な「デス・ノート」という作品を発表していますが、あれもメチャクチャ凝り倒したもので、裏の裏の裏の裏をかく騙し合いが凄く、まるで難解な知能パズルのような漫画でした。この「バクマン」も、設定やテイストはかなり違うものの、その知的深度はデスノートに匹敵するものがあります。最初の1〜2巻は読んでてちょっと引いてしまうくらい主人公達が怜悧で計算高いのですが、徐々に体温の高い、古典的王道のウルトラど根性ストーリーになっていきます。えらくリアルな部分と、ありえないくらい荒唐無稽な設定(夢が叶うまで会わないと約束する古典純愛や、宿命的人間関係設定や、どう考えても精神年齢が10歳以上高い部分とか)がゴッタ煮になっているのですが、そんなことよりも「あちらを立てればこちらが立たない」という実社会の仕組みがよく描かれています。

 サクセスストーリーというのは、どれだけ魅力的に成功するかではなく、どれだけ魅力的に挫折するか、その構造や必然性をいかに説得的に、しかも正しく描かれているかにかかっていると思うのですが、その意味でこの「バクマン」はいいです。主人公達はいちいち挫折しており、その挫折が実社会において非常に「ありがち」なパターンなのが知的に深いなと思うところです。実社会では絶対にある「運」の要素に翻弄されるところもいい。サブキャラもデフォルメされつつも魅力的で、特に編集部内部の、サラリーマン的に普通に事なかれ的だったり、職業人的に普通に野心的だったりするあたりが面白いです。連載を立ち上げて手柄にしたい担当者の野心が空回りして主人公達と対立し、しだいに人間関係が煮詰るあたりとか。それを「”描かせてもらえない”は才能のないやつの言い訳」と一段上の視点から一喝されちゃったり、結局は「面白かったらそれでいいんだ」という実力主義の大原則に立ち戻ったり。小手先の戦略でやっていこうとして袋小路に入り込み、「これじゃダメだ」と気づき、背負いきれないくらいのリスクを背負ってでも王道原点に回帰していく。

 だからこの漫画は、漫画出版業界の台所事情の暴露本ではなく、また色々なテイストが散りばめられつつも、実社会でなにごとかにトライしていくプロセス、その泣きたくなるほどの難しさ、切なさ、そして楽しさを描いているのでしょう。いい「おはなし」だと思います。

 で、今回はこの漫画の紹介がテーマではなく、この漫画でいみじくも示されている「売れるための計算」についてです。

ジャンプ・アンケート方式の功罪

 「バクマン」の初期の方でも厳しく批判されていますが、少年ジャンプのアンケート方式ってどうなの?という問題があります。連載を解するか打ち切るかを読者アンケートの票数や順位によって決めていく。それはマンガ民主主義というか、CS(顧客満足)というマーケティングの原則に則っているようだけど、本当にそれでいいのか?と。読者の生の声に謙虚に耳を傾けるという意味では良いことだけど、あまりにも短期的な読者の反応に左右されがちであり、じっくりいい物を作っていくという姿勢に事欠くようになる。あるいは余りにも凄すぎて読者が理解できない or 読者がその良さを認識するまでに時間がかかるような作品は、連載されないか早々に打ち切られてしまって世に残らない。

 しかし、最初はブーイングの嵐だったのが、徐々に理解者が増え、最後は大ブームということだって実際にはある。というか大ヒットするものというのは、そのパターンが実は多い。かつて「宇宙戦艦ヤマト」がヒットしましたが、一番最初のアニメ放映のときは、目を覆わんばかりの低視聴率だったそうです。ところがしばらくして夕方5時半からの再放送でブームになった。僕もリアルタイムで再放送で「うわ、おもしれ〜」とファンになったクチですが、当時としては珍しいじっくり理解させるストーリー展開は、毎日放映される再放送の方がテンポが良く、入っていきやすかったのですね。それに、当時に一家に一台しかTVが無く、7時半放映よりも夕方の方が中高生がTVを見やすかったという点もあったでしょう(少なくとも僕はそう)。中高にもなって親と一緒に茶の間でアニメを見るのは気恥ずかしいけど、夕飯の支度やなんたらでTVの前に誰もいない夕方の方が見やすかったという。それはともかく、本チャンの放送だけだったら大惨敗といってもいい成績だったのが、再放送で火が付き、大ブームになり、映画も続編、続々編と作られていった。

 音楽でも同じことで、これも古い話で恐縮なのだけど、尾崎豊がソニーでデビューするときも、「いまさらフォークもないだろう」とさんざん冷笑されていたらしいし、Xがデビューするときも、あそこまでハードロックなのは絶対に売れないと言われ、殆どお笑い芸人や奇人変人ののノリでTV出演させられたように、「絶対売れるわけはない!」と業界を知るほど確信的に言ってたりするわけです。ほんとよくある話だと思います。

 「バクマン」でも、何がヒットするか分かれば苦労はないし、プロのベテラン編集者でもそれは分からない。また、ヒットするのは、天然で描きたいものを描いているパターンの方が実は圧倒的に多く、売れる計算で描いている作品の勝率はかなり低いらしいです。そこが商売の難しさ、プロとして成立することの難しさなのでしょうが、そこで問題が出てきます。

 「分からない」んだったら、もう片端からデビューさせて、あとは自然に淘汰させるという方法も理屈の上ではありうるでしょうが、それは実際上無理でしょう。希望作品を無差別に掲載してたら、毎日毎日電話帳みたいな雑誌を発行しないとスペースが足りないし、そんなものを全部読む人もいない。やっぱり一定の選別は必要。選別といっても、あからさまにレベルが低いのを切り捨てるのはまだ簡単でしょうが、それだけでは絞りきれない。どっかでより一段深い選択をしなければならないのだけど、さてどうする?と。編集者が「良い」と思った順にデビューさせるのはいいのでしょうが、そうなってくると編集者という個人の好みが強すぎてしまって、いわゆる玄人受けするけど素人受けしない作品ばかりになったり、作家や編集者の自己満足に陥ってしまいがち。だから結果として売れない。同人誌だったらそれもアリだけど、商業誌として成り立つほどの利潤は得にくい。

 したがって編集者の趣味以外の要素を求めざるを得ず、それがすなわち読者アンケートであり、マーケティングになるのでしょう。「売る」という点からすれば至極当然のことでしょう。しかし、それが行きすぎると、大きな弊害も出てくる。「バクマン」で指摘されていたように、とにかくアンケート順位を上げることが至上目的になるから、どのマンガも「読み味」が似通ってくる。毎回ヤマをもってきて、毎回最後は「引き」をつくるという方程式になったり、売るための要素(可愛いヒロインとか)をあれこれ取り入れるから骨格がボケたり、テンポの良さにこだわる余り薄っぺらな作品になってみたり、売るために無理にでも引き延ばし、作品の世界観を整合性を犠牲にしてみたり。

 確かにこの傾向はあると思います。特に「リングにかけろ」や「ドラゴンボール」以降のジャンプ作品にはその傾向が強い。どこからともなく強大な敵が順序よく(しかし無理矢理)登場してくる「敵キャラエスカレートの法則」もそうだし、とっくに終ってて良い作品が延々続いているというのもそう。ジャンプが最盛期を迎えるのは1994年末の653万部だそうですが、68年創刊からの読者としては、70年代後半くらいが一番面白く、80年代前半にピークがきていたように思います。80年代にはヤングジャンプなどの年齢層による棲み分けマーケティングが出てきたので、そちらに読者層が分離・移行したというのもあるけど、80年代中期くらいになったら、個人的にはもう「北斗の拳」を惰性で読んでたくらいだし、ドラゴンボールも面白いのは最初だけで、パターン化されてきたのが見えてきたらもう読まなくなったし。

 まあ、そうはいってもこの手法で販売部数を伸ばしたきたのだからビジネスモデルとしては大成功になるのでしょう。しかし、90年代にピークを迎えたジャンプの商業成績は、以後2年間で急降下して400万部を切り、今は300万部といったあたりらしいです。まあ、これは雑誌媒体や出版不況も絡んでいるから一概には言えないものの、マーケティング方式が煮詰ったというのはあると思います。

 僕自身はピーク時点の94年でオーストラリアに来ちゃったから、その後にコマメに読む機会もないのだけど、2000年頃だったかな、帰国した際に久しぶりに手にとってみて、あまりの詰まらなさに愕然とした記憶があります。マンガは好きだから、結構ちょこちょこチェックしてるのですけど、なかなか「バガボンド(ジャンプじゃないけど)」みたいにピンとくるのは少ないです。大ヒットしたといわれるワンピースも、HUNTER X HUNTERも、銀魂も読んでみたけど、1巻の途中で方程式や基礎構造みたなのが透けて見えたら、もう興味が失せてしまって。別に見えてもいいし、ベタでもいいし、使い古されたネタでもいいんだけど、「食感」がちょっと。

マーケティングの食感

 でも、これ、ジャンプやマンガに限らず、音楽だってそうだし、また日本に限った話でもないと思うのですね。なんというのか、過剰なマーケティングによって食感が似てきてしまって、ファーストフードみたいな味になってるというか。あるいはプラスティックみたいな工業製品的な感じ、ハリウッドの娯楽大作みたいな感じというか。

 こういう話って危ないですよね。
 よくある「昔は良かった」的なオヤジのボヤキみたいで。

 でも、単にその種の懐古談でないのは、自分でも徐々に確信が出てきました。前までは、「そんなこと言うようになったら終わりだよな」とか自重していた部分もあるのですが、そうやって自重すること自体が既にセコいというか、保身的でダサいし。それに、ベタだろうが、最近の作品だろうが、面白い作品は面白いですから。「ハチワンダイバー」なんか馬鹿パワー一発だし、「はじめの一歩」はドがつくくらいベタだし、「ホムンクルス」なんかわざわざ気持ち悪い絵を描いて、テーマも陳腐なんだけど引っ張り込む力があるし、バガボンドだって要するに昔からあるベタなチャンバラだし。あ、煮えきらない展開の「リアル」もいいですね。

 クリエイターやエディターの腕や資質が劣化してる、、ということは、実はあんまり無いと思います。生物的にそんな数十年かそこらで変わるわきゃないし。過去のお手本が多くなった分だけ客観的な技術や批評眼はむしろ高くなっているでしょう。ネットその他で娯楽が増えたとか、多様化とかいう言い方もよくされるのだけど、本当かなあ?って気もします。娯楽は昔からあったし、人間というのは遊んでなんぼの生き物だから、いつの時代も遊びには事欠いてなかったんじゃないかな。ネットやゲームなどのライバルが増えたというけど、昔はその代わり「空き地」が必ずあって、鉄条網をくぐって侵入して、基地作ったり、三角ベースやったりしてたし。子供はそんなに家にいなかったもんね。「商品」という意味では多様化したかもしれないけど、非商品的な娯楽も含めての時間の割り振りという意味では似たり寄ったりじゃないかと思う。

 結局何が違ってきてるのかといえば、やっぱり「売る」ということに汲々としてきたって部分だと思います。マーティングとか販売戦略が突き詰められていって、パターン化されていった部分です。これがちょっとアカンのではないかと。

 面白いマンガ作品や音楽などは、今この瞬間にも、日本にも世界にも山のようにあると思うのですね。もううなりを上げているくらいにあるのだろう。人が100万人もいたら、ワケわかんない素っ頓狂なことをやってる奴は絶対に何人かいると思うのですね。本人にもよく分からないような盲目的な創作衝動で作品が出来ちゃったという。だけどその作品が世の中に出てくる過程、つまり流通過程ですが、これがキレイに整備されちゃったので、逆に流通しにくくなっているのではないか。

 経営学とかマーケティングって煎じ詰めれば「お金儲けの理論と技術」でしょう。お金儲け工学みたいな。それはそれでガンガンやってくれればいいし、資本主義なんだからそれをやるのは当たり前だとは思うのだけど、別にそれしかないわけじゃないでしょう?こんな数字にあんまり意味なんかないんだけど、経営的視点で動くのは、仕事全体の7−8割位でいいんじゃないか。あとの2−3割はお金儲けじゃないモチベーション、つまりはロマンであったり、男気であったり、単純に面白いからであったり、そういう非生産的というか、非経営的なモチベーションで動いたらといいと。

 例えば、とある衝撃的な作品が出来ちゃったとします。それを製作者が出版社や音楽会社に持ち込み、さらに編集者や社員もガビーンとなったとします。しかし、彼らもプロだから「絶対に売れない」というのはすぐに分かる。「いいけど、、売れるわけないよなあ、、」と。例えば音楽だったら、一曲300分とか一曲5秒とかいう曲を作られても、普通の媒体には載せにくいし。もう現代芸術みたいなものなんだけど、でもやたらポップで有無を言わせぬ説得力がある。しかし、売れない。売りようがない。そういう場合、「儲かってナンボ」原理に100%支配されていたら、ボツですよね、当然。でも、2−3割くらい、せめて数%でもいいから「儲からなくてもやる」という原理で動けたら=「これを世に出したい」「世に問うてみたい」というある意味健全な編集者意識で動けたら、世に出ることになりますよね。で、まあ、十中八九売れないで終るでしょうけど、それでも平均確率1%でもあれば、100本だせば1本は世に浸透する。「なんじゃあ、こりゃああ!」という画期的で革命的な作品が出る。世の中が面白くなります。

 昔は、多分そんなにお金儲けの理論が精密じゃなかったから、編集者の「カン」や勝手な思いこみで「ヘンな作品」もかなり多く世に出ていたんじゃないでしょうか。だから面白い作品も出てきたと。

洗練するほど尻すぼみになる縮小再生産

 例えばですね、少年ジャンプに話を戻すと、僕的に黄金だった70年代(単に自分がガキだったからだとも思うけど)というのは、「ど根性ガエル」「トイレット博士」「侍ジャイアンツ」「荒野の少年イサム」「アストロ球団」「マジンガーZ」「包丁人味平」「プレイボール」「東大一直線」「すすめ!!パイレーツ」「キン肉マン」「サーキットの狼」「リングにかけろ」「コブラ」「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が登場してきた年代です。かなり個性的な作品群だと思いませんか?前例なし、お手本なしという。いや設定は学園、スポーツものとかベタなものもありますけど、発想がぶっ飛んでるでしょう。Tシャツにカエルがペッタンコと貼り付いてしかも生きてるとか。野球モノでもアストロ球団の荒唐無稽ぶりは宇宙的ですらある。逆に「プレイボール」のドラマ性を極端に殺したリアルな日常展開とか。また、これまでおよそ主人公になりえそうもないガリ勉(東大一直線)、警官(こち亀)、西部のアウトロー(イサム)とか。「トイレット博士」なんか子供のウンコチンコネタだけで成り立ってるという、もう前衛的ですらある作品ですよね。これ、当時の「常識」からしたも「ありえない」でしょう。でも平然と載せている。すごいなと思うのですよ。「サーキットの狼」だって、誰も知らないロータスヨーロッパなんてマニアックな車を出して最初はおっそろしいほど低人気でしたもん。それでも強引にやってるちにスーパーカーブームになったという。

 これだけの「バクチ」を今は打てるのかな?って。これってマーケティングがあんまり浸透していなかった、緻密に販売戦略を考えてなかった牧歌的な時代だからこそ、やれたという気もします。ヒットはしなかったのかもしれないが、諸星大二郎や星野之宣という作家を発掘しただけでも功績大です。「暗黒神話」「孔子暗黒伝」などという民俗学やインド哲学科の卒論みたいな作品、よくぞ連載してました。30年がかりで咀嚼しないと理解できないくらい味が深い。

 発行部数的な黄金期よりもさらに10年ほど前の80年代前半から中期は、「Dr.スランプ」「キャッツアイ」「キャプテン翼」「風魔の小次郎」「北斗の拳」「ドラゴンボール」「魁!!男塾」「シティーハンター」「聖闘士星矢」が出てきてますが、もうこの時点でかなり「揃って」きている感じがします。パターンが似通ってきて、冒険的作品が減り、破天荒ではなくなっている。「Dr.スランプ」は、日本では絶対に受けないといわれていたアメコミ画風を敢えて出してるところが冒険でしたし、北斗の拳は中国+Mad Maxという無茶な取り合わせに、斬新な暴力描写をしている点で冒険です。でも、風魔も星矢も「リンかけ」の延長線だし、ドラゴンボールもスランプに画力を活かしたバトルシーンが付加され、あとは敵キャラインフレで延々続いただけでしょう。80年代後半から90年代中盤の売り上げ的にはピーク時点は、もう過去の遺産と惰性という気もするのですよ。

 確かにビジネス的には隆盛を迎えると思います。アニメや映画、さらにキャラクターグッズやフィギア販売というメディアミックス戦略からしたら、魅力的な敵キャラ・サブキャラが豊富にでてくる展開の方がいいに決まっているし、ドラクエみたいに独自の世界観でロールプレイングやっていった方が続かせ易い。ロード・オブ・ザ・リングスやドラゴンボール的な独自の世界観×迫力のあるバトルシーンこそが「王道」であると「バクマン」でも描かれている。しかし、60年代からマンガ読んでる人達からしたら、あるいはジャンプ以外の青年誌も含めたマンガ一般でいえば、世界観×バトルは別に王道でもなんでもないです。「最近の流行かな」くらいのものでしかない。それが「王道」になってしまうあたりがまさにジャンプ的な問題であり、この問題は、マーケティングを進めていくと尻すぼみになっていくという縮小再生産の問題なのでしょう。

 完成度が高くなるにつれて可能性が減っていく法則とでもいうのでしょうか。マンガでもなんでも商業的な隆盛を迎えて、巨大な集金マシンとして業界が出来ていくにしたがって、システムやらセオリーがキッチリ固まっていく。企業なんだからお金を儲けるために努力をするのは当たり前だし、そのために過去のデーターや資料を集めて売れるものと売れないものをより正確に予想するという手堅い商売もまた当たり前でしょう。「面白かったらそれでよしの原則」ばかりに忠実になって赤字を垂れ流していたら倒産ですからね。まあ、わかります。

 わかるんだけど、システム化が進むにつれて、だんだんと「遊び」の部分が少なくなっていく。そうなると、どうしてもパターン化されざるをえないし、「売れそうもないけど、面白いから世に出す」ということのハードルが高くなっていく。しまいには自殺行為まがいに忌避されるようになる。でも、隆盛のモトを築いた草創期は、まさにその自殺行為を数多くやっている(本人達は売れると思ってたのだろうが、今の基準に照らせば)。

 かくしてシステム的に洗練させていけばいくほど、逆にオプションが少なくなる。「こういうのは売れない」というデータが増えるほどに選択肢が減る。また「過去これで売れた」というデーターから起こしていけば、どうしても二番煎じ、三番煎じ的なものが増えて怒濤のパワーが減っていくのも理の当然。かくして、幅も狭まり、出力も落ちるという縮小再生産になっていくのではないか、ということです。

この世を救うのは「馬鹿」な人&行動

 だから思うのですが、世の中を発展させるのは実は「馬鹿」なのではないか。
 それはもっとカッコよく「チャレンジ精神/冒険心」とか「遊び心」とか「創造力」とか「イノベーション」とか言えるのでしょうが、ぶっちゃけた話、ドンキホーテ的な、馬鹿なイトナミです。99%失敗するだろうなと予想が付き、99%本当に失敗してしまうことを、それでもやるという。だからやっぱり「お利口」ではないですよね。お利口さんにはそういった行動は出来ないでしょう。というか、やった時点で「お利口」ではないですよね。

 それでもそんな馬鹿なことをやっちゃう人達が常に一定数います。というか、人は誰でも、僕もあなたも、時と場合によっては敢えて馬鹿な行動に走ったりするものだと思います。お利口なソロバンはあんまりはじかない、あるいは考えてはいるんだけど「面白いんだったら失敗してもいい」くらいの気分、すなわち「馬鹿」になってやったときにこそ、これまでの常識を打ち破ったものを作り上げ、幅を広げていくようにも思うのですね。

 あ、ここでいう「馬鹿」というのは最大級の誉め言葉としての「馬鹿」ですね。空手バカ一代の”バカ”ですね。好きが嵩じて、怜悧な計算が出来なくなっている状態のこと。知能や知性が劣るという意味でのバカではないです。言うまでもないでしょうけど。

 お利口さんがシステムを洗練させて先鋭にする。先鋭にするからツンツンに尖ってしまって幅が狭くなる。かくして縮小サイクルに入ってしまいます(その意味では真に「利口」ではないのかもしれないが)。お利口さんが減らしていってくれた未来の可能性と楽しさを、怒濤の馬鹿軍団がまたバキバキと開墾して広げていく、と。そういう関係になっているのではないかと思ったりするわけです。

 なんかしょーもないこと書いているようですが、でも、いろいろと思い当たるところもあるのですね。
 既に70年代から「ハウツー本」や「マニュアル世代」なんて言葉も出てきたように記憶していますが、マニュアルは真に豊かな創造性を殺すのでけしからんという論調が多かったように思います。デートですらマニュアル化している、ああ、嘆かわしいと、そういう論調ですね。あれから30年以上。かなり煮詰ってるような気もしますね。なんせ、社会を動かしている50代、60代もまたマニュアル世代ですから。

 たしかに、帰納・演繹を繰り返して一つの法則性を発見するのは人類の「知恵」のひとつのありようであり、後進のためにマニュアルを作るのは悪いことだとは思いません。しかし、マニュアルを作る/読むにあたっては大事な大前提があると思うのですね。「マニュアルで処理できるのは雑事だけ」だという。本質はマニュアル化しえないし、マニュアル化出来た時点でそれは本質ではないか、あるいは本質を誤解(矮小化)していると。賢い人はそのあたりはよく分かっているのでしょうけど、皆が賢いわけでもないし、まあとりあえず簡単だからマニュアル的なものに走ると。

 するとどうなるかというと、大学進学も就職もマニュアル化していく。デートどころか結婚までも婚活というマニュアル化してしまう。マニュアル化というのは、くどいようですが、本質的なものを雑事レベルまで引き下げる毒素を持ってます。この毒素は人体にどう作用するかというと、「あんまり面白くない」「燃えない」という致命的な症状を引き起こします。そりゃ面白いわけないじゃん。「AをBに取り付けてください」みたいな感じでやってたって面白いわけない。事務作業じゃあるまいし。

 そんでもって「売れる商業雑誌や音楽の作り方」「TV番組の作り方」やら「商売のやり方」もマニュアル化し、「銀行の融資の仕方」もマニュアル化し、しまいには「政治の仕方」もマニュアル化していってるような気もします。

お利口さんの縮小再生産

 この傾向というのは、お利口さんの多いエリアほど激しいような気がします。

 銀行でも、担保物権が十分にあって、融資のための審査をクリアしないと金を貸さないですよね。これを「当たり前じゃん」なんて思うこと自体おかしなことです。銀行の社会的使命というのは、社会の血液たるお金を有意義に回転させ、もって社会を発展させる点にあります。ここにお金は持ってるけど才能もアイディアもないAさんがいる。ここにアイディアも才能もあるけど資金がないから開業できないBさんがいる。だったらAさんのお金を利息を払って預かり、Bさんに融資して成功して貰うと。したがって銀行家は、「この人は成功する」という透徹した人物洞察力を持たねばならないし、「この事業は成功する」という社会経済に対する深い理解が必要です。それが出来るからこそ、銀行員はただのサラリーマンではなく、芸術「家」や法律「家」のように銀行「家」(バンカー)という尊称を与えられてきた。全てはそのプロフェッショナルな洞察力であり、社会に対する貢献度の高さによります。

 しかし、審査のチェック項目を守って融資するだけだったら誰にでも出来る。はっきりいってマシンで十分とも言える。銀行がマニュアル仕事をするようになってどうなったかといえば、バブルのイケイケ融資と破裂後の巨額な税金での尻ぬぐいであり、不況期における貸し渋り&貸し剥がしによる日本経済の停滞です。今では、預金分ほども貸し付けることができず(融資先を見出せず)、せっせと国債ばっかり買ってるそうですが、国債がコケたらまた税金で助けて貰おうと思ってるのかしらん。

 テレビ局でも、その昔の黄金時代(草創期)はおよそ「男子一生の仕事」ではなく、キャバレーの呼び込みよりはちょっとマシくらいに思われた時期があったそうです。大体全共闘世代が学生時代に暴れすぎて卒業もできず、今更普通の就職もできずで吹きだまりのように集まっていて、ほとんど無法者集団みたいだったとか。だからこそ、あの頃のテレビは面白かったといえます。「どーせ俺たちは社会のはみだし者さ」という開き直った根性で番組を作っていたから、恐い物知らずでやっていた。田原総一朗氏などは典型的ですが、ヒッピー連中の全裸結婚式で余興で花嫁が全員とセックスするのを取材し、田原自らも相手になり、そのシーンを撮影させてゴールデンタイムに堂々と放映したとか。メチャクチャやってますよね。

 ところが、テレビ局もいい大学を出たエリートさん達の就職先になっていった。それに連れて馬鹿パワーも落ちていった。「売れるマニュアル」を踏襲するから、どの番組も似たりよったりになるし、そうでなければ上がOKしなくなる。もちろん全てがそうだと言うつもりはないし、面白い番組は今尚あるでしょう。でも、僕が17年前に日本出てきた頃と番組の構成やら、出演者の顔ぶれがそんなに変わってないところが凄いです。明石屋さんまとか伸助とか、時間が止まってるのかというくらい。偏差値進路指導みたいな感じで番組作ってるんじゃないかな。その意味では、マンガやジャンプの方がまだまだ新陳代謝が激しいし、健全だと思います。

 これ、銀行とかマスコミとか分かりやすい業界だからまだ指摘が出来るのですが、もっとお利口さんがいく業界で、もっと見えにくい業界、例えば、今回の電力業界とか、多分もっとヒドいことになってるんじゃないかという気がしますね。

 じゃあ、どうしたらいいの?というと、やっぱり「バクマン」のように、「リスクを背負って原点回帰」でしょう。
 「原点」って何かといえば、マンガは「描きたいものを描く」です。さんざんあの手この手の戦略を駆使した挙句、彼らが辿りついたのはその結論で、それが「一番面白い」し「最も商業的に成功しやすい」と。

 これを普遍化すれば、人間の行動というのは「面白いからやる」「やりたいからやる」「それ以外は全部邪道」ってことです。お金が儲かるとか、生活が安定するとか、老後が安心とか、ステイタスが築けるとかいうのは、全部邪道。そーゆー邪道は、やりたいことが見つからないという世にも可哀想な人が、せめてもの慰めに銀行の預金通帳の数字が上がることを生き甲斐にするとか、その種の救済策としてあるのであって、健康な善男善女がメインに目指すようなものであってはならないと。

 しかし、今、この厳しい経済環境でそんなこと言ってたら、それこそ「馬鹿」ですよね。バブルがはじけた直後、まだ経済的に余裕のあるうちに馬鹿をやっていられるようなシステムやカルチャーを温存しておくべきだったのかもしれませんね。しかし、遅まきながらも、というか今だからこそ、そういう「馬鹿」が必要なのだという気がしますし、他人に期待しないで僕もせっせと馬鹿やりたいと思います。あなたも頑張って馬鹿になってください。いいですか、やりたいことをやる、それ以外は全部邪道ね(^_^)。

 まあ、そんなにすぐには「馬鹿」になれないでしょうが、100%お利口にやってると本当に道が狭くなっていくので、そのあたりはお気をつけを。日々の日常やら仕事においては、せめて10%、それが無理なら1%くらい「馬鹿」なことをやりませう。みすみす失敗するのを百も承知しつつ「やりたいから」だけでやってみるとか、あとで後悔するに決まってるヘンな物をわざわざ買ってみるとか、「ほんと意味ないよな、でも面白いよな」でちょっと燃えるとか、何の必然性もない場所にわざわざ行ってみるとか。そのくらいなら出来るんじゃないかな。って、馬鹿をやるのまでマニュアル化したら世も末ですのでこのくらいにしておきます。でも、新しい選択肢というのは、そういう馬鹿をやらないと増えていかないような気がするのですが、あなたはどう思いますか?



文責:田村




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