今週の1枚(2011/04/25)



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Essay 512 :メンタルの弱さとタテマエ〜「そのときはそのとき」   〜東日本大震災から一ヶ月(2)

 写真は、Wynyard駅。こうして見るとなかなか立派な樹木が生えてますねえ。なんか一瞬、日比谷公園ぽっかったりして。似たような時期に作られたのかな。



 (承前)

原発論議における僕ら凡俗派の役割


 原発論議は昔から盛んでしたが、「とても理性的な議論ができる状況ではない」と言われていました。これは反原発論派にも責任の一半はあると思うのですが、ともすれば「絶対安全でないと認めない」という半ば宗教的な姿勢に陥りがちです。しかし、およそ「絶対安全」などこの世に存在しません。そんなありえない基準に議論をすれば、事故を想定して対策を取ろうとしても「ほら、危険じゃないか」と突っこまれるから、当局としても合わせ鏡のように意固地になって「絶対安全です!」と宗教的になり、「教義」に反する不都合なデータは隠すようになる。かくして宗教的プロパガンダ合戦や神学論争みたいになって、結果として安全対策が取りにくくなり、危険値はどんどん増すという滑稽な現象です。

 原発論議に日頃から関わっている人は日本の人口の1%(128万人)もいないでしょう。いわば専門家や関係者であり、学界ですらまっぷたつに分かれて川の両岸から石を投げ合っているようにみえる。そして、99%のマジョリティの我々に対して広報合戦を仕掛ける。そのため僕らの頭の中の原発は、「危険だけど安全」という何だかよく分からない像が結ばれている。なぜこうなるかといえば、第一に話が高度に専門的だからでしょう。本格的に数年間学ばないと全体像がよく分からないから、双方から断片的に「実は○○」と言われると「そ、そうだったのか」とたやすく動揺する。要するに僕らの意見は、たまたまどっちの情報をどれだけ多く接したかという偶然の事情で決まったりする。かくして建設的な議論というよりは、大統領選みたいなキャンペーン合戦になり、過激なキャッチフレーズが乱れ飛ぶことになる。

 思うにこの1%以下の関係者の皆さんは、僕ら凡俗な平均人よりもよっぽど勉強され、また根底にあるのは「日本をよくしたい」という想いでしょう。まあ現実には、会社の利潤追求やら、立場やら、あるいは活動が「生き甲斐」になっている等のモチベーションもあるだろうから、一概に賛美は出来ないまでも、それでもベーシックには、推進派は日本のエネルギー資源の将来を憂い、反対派は安全な環境を願ってのことでしょう。どちらも僕らのためにやっていただいているわけで、本来は感謝こそすれ、神学論争などとと茶化して良いことではない。しかし、今は、NOを言った方がいいと思います。

 なぜなら、僕ら99%の凡俗の役割は、議論の内容を正確に理解し、正しくジャッジすることではないと思うからです。そんなことは、彼ら以上に豊富な経験知識を持ってないとできっこない。だから僕らの役目は、判断することではない。むしろ議論の「やり方」や「場所」の設定だと思う。専門的なことは結局は専門家に任せるしかない。しかし専門家というのは棲息領域が狭いから、どうしてもシガラミだらけになるし(医師会など)、権力や利権に取り込まれやすく、公正が保てない。公的機関としては現在でも保安院などがありますが、ありていにいって政官財の「原発村」のイチ部局というのが実際でしょうから、その公正を担保するシステム的保証を考える。例えば、反対派の論客も同数出席させ、同数の議決権を行使させる。また、全くのド素人、これまで原発なんか大した興味もなく、それでいて知的・現実判断力は優れており、シガラミがない委員を選出する。でも、一歩間違えれば官僚のお得意の諮問委員会方式に成り下がり、これだと結局牛耳られるのが目に見えているから、さらに担保手段として、ド素人委員の選出経過を透明にする。「シガラミ度チェックリスト」とか。また一切の過程をネット中継するなど。それに加えて、海外からも委員を招く。最新の原子力科学の精鋭や国際機関からも招聘する。日本国内のシガラミを遮断するためです。このような議論の場とルールの設定をすることが、僕ら凡俗派の役割ではないかと思います。

 しかし、それでも尚、僕らに足りない部分があると思います。何かというとメンタルの強さです。論理的&現実的にベストであろうと思われる結論を受け入れられるだけのメンタルの強さ。言い換えるなら不都合な現実をありのままに受け入れられる精神の剛毅さ。

リスク管理の本質 〜腹を括ること

 何を言っているかというと、「原発はいつか絶対どこかで事故を起こす」という前提で話を組立てていった方が良いということです。いつか事故になると分かっていながらそれでも原発を使うのか?といえば、堂々と「そうだよ」と言えばいいのだ。でも、そんな議論は今の日本ではおよそ「ありえない」でしょう。なぜありえないのか?そんなに変な話なのか?

 根本にある問題は「絶対安全」を基軸にする点だと僕は思う。絶対安全を求めて悪いのか?といえば、「ああ悪いよ」と答えます。その非現実性が悪いのだと。ありえない安全に固執するがあまり、宗教的に陶酔し、結果としてリスク値を上げてしまう逆効果性が「悪い」のだと。「角を矯めて牛を殺す」愚かさが悪いのだ。叫ぶことに意味があるのではなく、「結果」を出してなんぼでしょう。結果を出せない正義は自己満足に過ぎないということは、僕自身法廷闘争などを経てイヤというほど身に染みてます。

 そもそも原発に限ってなんでそんなに「絶対安全」にこだわるのだ?結果が重大なのは分かるが、それは何も原発に限ったものではない。チェルノブイリですら死者は4000〜4万くらいの規模だが、第二次大戦での全世界の死者は2000万人、日本人だって300万人死んでいる。結果の重大性だけでいうなら、原発の数千倍の実害を発生させるのが戦争であり、しかも戦争は100%人災。原発は放射能という長期にわたる環境破壊をもたらすから戦争より深刻だという意見もあろうが、戦争だって核兵器もあれば、ベトナム戦争の枯葉剤などBC兵器もある。だいたい原子力の「平和利用」VS「軍事利用」なのだから、軍事の方が遙かに深刻なのは言うまでもない。米ソの核実験によって世界に撒き散らされた放射能量は、一説によればチェルノブイリの千倍とも言われている。戦争の「準備」だけでこれだけの実害がある。

 何も戦争まで持ち出さなくても実害が巨大なものは他にも幾らでもある。例えば、今回の地震で既に1万人以上亡くなっていますが、年間の交通事故死者も1万人います。今回の地震規模は千年に一度らしいけど、交通事故はコンスタントに毎年1万人殺している。リスク頻度でいえば車の方がはるかに恐いとも言えます。クルマもまた100%人災。ちなみに自殺者は年間3万人以上いるから、数だけでいうなら原発やクルマよりも自殺の方が重大だといえる。「絶対安全」を求め、その理由を実害の巨大性に求めるならば、原発よりも車両を全面禁止にしたほうがいいです。毎年1万人=単純計算で一世紀で100万人ものを命を奪う「走る凶器」を野放しにしつつ、具体的に未だ一人も死んでいない原発を絶対禁止にするのも片手落ちではないか。

 ここでクールになって考えるならば、およそリスク管理というものは、「ない」という前提で組立てのではなく「ある」という前提で組立てるものです。考えたくない事故を出来るだけリアルに想像するところ出発します。目を背けてはならない。ボクサーがそうであるように、顔面にパンチを貰いつつも目は絶対に閉じてはならない。なぜなら目を閉じた瞬間、防御力は激減し、さらに第二第三のパンチを浴びることになる。足を止めたり手を止めたら、それで終わりなのだ。僕が日々の仕事で、オーストラリアに着いたばかりの皆さんに、出かける朝にいつも言うのは、「今日、財布や携帯を無くすと思え」ということです。リスクというのはそれを認識するだけでもかなり低減されます。考えたくないことを考えるからこそ、じゃあどうすればいい?という現実的手段を考えるようになる。具体的にやるべき物事が見えてくる。

 「リスクはある、それを受け入れる」という前提で話をする。つまりは 腹を括る というメンタル面での強さです。先ほどの車のケースは「野放し」ではなく、免許制度があり、免許の更新の時には見たくもない事故写真をスライドで見させられる。メーカーもエアバッグなど安全装備を高めていく。これらは「リスクは常にある」という前提にシステムが組まれているからであり、リスク管理というのはそういうことでしょう。すなわち「絶対安全ではない厳しい現実」を受け止め、目を逸らさず、ではどうしたらいいかを一つ一つ積上げていくことです。戦争にしても、「ある」という前提で、いかにそれを未然に防ぐか、あるいは最小限度に留めるかで世界中がギリギリのせめぎ合いの努力をしている。

 もちろん一人でも死者がいる限り、クルマは原則禁止にしてもいい。しかしそうなると経済が廻っていかないし、特に地方における生活が成り立たない。かくしてクルマに伴う利益と害悪を天秤をかけて利益衡量しつつ、天秤が出来るだけベネフィット側に傾くように最大の努力をする、ということです。このように自動車に関して言えば、僕らは腹を括っているわけです。事故はある、どんなに気をつけていてもそれは起りうる、と。それを受け入れた上で、いかに最小限の被害で済ませるかを考える。

 自動車に関しては出来ている普通のリスク管理と利益衡量が、なぜに原発に限っては出来ないのだろう?

原発の利益衡量とニューエネルギーの戦略的可能性

 原発のメリット・デメリットの利益衡量をすれば次のようになるでしょう。

 メリットは言うまでもなく電力です。だから脱原発の視点から今は皆が節電を真剣に考えている。イイコトです。しかし、いくら頑張っても30%も節電できない。今は「羮(あつもの)に懲りて」の時期だからモチベーションも高いけど、そんなのすぐに「喉元過ぎたら」で忘れるでしょう。「いや、俺は頑張るぞ」という人も勿論いるし、実際頑張る人もいるでしょう。しかし、今回の買い占め騒ぎや風評被害からクールに予測すれば、「一般大衆」とやらにそこまで多くを期待すべきではない。期待したい気持ちは山々だけど、期待と現実は違う。今年の夏が去年以上の酷暑になっても、それでもクーラーを付けずに汗ダラダラ流し夜に一睡も出来ないまま、それでも皆がガマンするとは思えない。

 仮に何らかのミラクルが起きて30%節電できたとしても、電力需要の大半は産業需要であるから、そうなったときには日本経済は大幅な縮小をしている恐れがある。豊富な電力と安定操業を求めて企業や工場が海外に出て行くかもしれない。これが失業率と景気の悪循環に拍車をかける。ネオンや深夜営業がやり玉にあげられたりするけど、それらを禁止したらそれだけ減給や失業も生じて景気に跳ね返っていくのだ。また、火力による温暖化は進みます。現に柏崎原発事故の操業停止の間に日本の温暖ガスは2%も上昇したとされる。一方、風力その他の代替エネルギーも前に書いたように非現実的な現状がある。したがって反原発を言うなら、これらの問題をいかにしてクリアするかの実行可能な政策を詰めるべきであり、それなくしてこの宗教論争を続けていても無益どころか有害であり、現に被害は出ている。

 次にデメリット(災厄)とその安全性についてですが、今後どんなにガチガチに安全対策を講じようが、ミサイルや巨大隕石が原発を直撃したらどうしようもないのだ。そしてその可能性はゼロではない限り、もうこの時点で「絶対」はないです。巨大隕石まで持ち出すのは行きすぎだと思うかも知れないけど、じゃあ本当にそうなったら「想定外」で許してくれますか?「想定外の抗弁」は今回を機に許されない雰囲気になってるし、そもそも「絶対」を標榜するなら想定外なんか言っちゃダメでしょう。隕石どころか、宇宙人の侵略すら想定してもいいくらいだ。世の中何が起るかわからんのだ。要するにもうこの時点で「絶対安全」なんてことはない。もう諦めろ、ということです。

 「絶対」がなくなった時点で、次に出てくる選択は原発の要否ですが、現在の段階で「無」という選択が難しいのは前述のとおり。火力偏重による温暖化や化石燃料資源の問題もそうですが、節電や停電による操業不安などに伴う景気悪化を僕は懸念します。景気というと単にゼニカネ問題で、健康被害には替えられないとお考えの方もいるでしょうが、それは違う。なぜなら、自殺者3万人のうちお金で行き詰まって自殺される方も相当多数いるからです。だから景気の問題というのは人の命がかかってると思うべきだと。

 終局的には徹底的な省エネ社会ないしクリーン社会に持っていくべきだと思います。しかし、これには途方もない時間と費用がかかる。essay507でも引用しましたが、年間電力需要と現在の風力発電量の比率は、なんと1兆0000億0000万KW:218万KWです。クリーンエナジーは何も風力に限ったことではなく、地熱も太陽光もありますが、それにしても凄まじいハードルです。だから、すぐには出来ない。でも、やるっきゃないでしょ。

 そうなると実現するまでの間どうするか?というツナギ問題がさらに出てくる。この現実的な処方箋が一番の課題であり、ここをこそ真剣に議論すべきだと思います。経済を盛り上げ、人々が幸せに暮らせるだけの富を継続的に産み、さらに税収を増やして代替エネルギー設備(風力発電所など)を急ピッチで建造する。どんなに急いでも50年か100年くらいかかるかもしれないが、逆に言えば50〜100年あれば出来ないことはないとする。だとしたら、その50年間なりをいかに騙し騙し続けていくか、絶対安全は無理にせよ可能な限りリスク値を減らしながら原発を操業するか論になります。時限つきならかなりの成功率が見込めるでしょう。「とにかく50年(代替完成まで)持ちこたえろ」と。

 まあ、こんなことを言うと「お前が一番非現実的だ」と言われるかもしれませんけど、でもさ、東西南北どっちを向いても非現実的でしょう?未来永劫原発を使うというのも非現実的だし、未来永劫化石燃料に頼るというのも同じく非現実的でしょう?ここで妙に「現実的」になるのは、要は問題は先送りにしているだけの話です。住専処理の二の舞。電気は明日にも100年後にも必要だとするなら、明日の電力と100年後の電力を切り離して考えた方が現実的じゃないか。最終目標とそれまでのツナギです。

 しかし、それだけじゃなくて、あれこれ考えていくうちに、クリーンエネルギーの経済効果というのがあると思ったのです。これ以上は今回の趣旨から外れるので、例によって興味の(読む体力と時間の)ある人だけけ。

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 ちなみに、僕がヒトラーのような絶対権力を持ってたら、やっぱり東京に原発を作ります。それも皇居に。皇族には京都御所に「里帰り」していただきます。本来雅やかな皇家は伝統の京都こそが相応しい。また外国の賓客も来日したら京都には行きたいだろうから喜ぶでしょう。京都の人はもっと大喜びでしょう。日本の誇る伝統文化については、政治経済とはまた違った巨大な「文化首都」があった方がいいのだ。でもって、皇居の敷地(もともとはただの江戸城なんだから)にドーンと原発を作る。そうなったら皆も安全対策も超必死でやると思う。大体このところ全国を見てたら東京が一番地震被害が少なく、一番安全とも言える。また首都直下地震があったらハンパないから、いきおいさらに必死に地震対策もする。首相官邸も野党本部も東電役員の社宅も全部原発の隣に作る。何かあったら一番最初に死ぬのが最高責任者にすればいい。日本は英雄型リーダーは不要な社会だから、トップが死んでも幾らでも代わりはいるのだ。予め死んだあとの指揮命令系統だけ定めておけばいいだけだ。それでもトップに就きたい奴がつけばいい。また、東京に住むのは自殺行為だと思う人が増えれば、首都圏の人口は減少し、長年の宿願であった首都圏一極集中解消と地方の活性化が図られる。良いことずくめではないか。

 それでも、そのツナギ操業中に原発事故があったらどうするか?
 もうそのときはそのときですわ。

 要は「腹を括れ」ということです。無責任なようだけど、これが一番無責任ではないのだ。
 経済的効率性や実行可能性を睨みながら、ギリギリマックスまでリスクを最小限に抑える、それ以外の何が出来ると言うのだ?運悪く、それ以上の事態が生じたとしても、それはもう天命だと思うしかない。僕ら卑小な人間に、人事を尽くして天命を待つ以外の何が出来るのだ?やるだけやってダメだったら、もう納得しようぜ。
 

メンタルとタテマエ

 だが、ああ、しかし、こんなことを首相やら誰かが口走ろうものなら世論の集中砲火を浴びるのでしょうね。暴言だとか、無責任とかなんだとか。何なんだろうな、嘘でもいいから「絶対安全です」と言って欲しいのかな。「絶対安全なんか、あるわけないでしょ」という当たり前の発言が許されなかったら、どんな施策も講ぜないでしょう。「絶対安全じゃないとダメ」という心理には、何かあったときには対処しきれない、考えるだに身の毛がよだつようなことは考えたくない、というメンタルの弱さがあると思うのです。しかし、前述のように、リスク管理というのは「トラブルはある」という前提で、身の毛のよだつようなことをリアルに想像するところから始まります。そこで「いや、考えたくもない!」で拒絶しちゃったら、話が始まらないのだ。だから、政府も官僚も反対派も、そしてメディアも大衆も、皆揃って絶対安全教の信者になって、仲良くマントラを呪唱するという今日の構図があるのだと思う。

 どのようなビジョン、政策を掲げようが、「安全じゃないから頑張ろう」という当たり前のことが当たり前に通らなかったら、何をするにも絵に描いた餅です。思うに最大のネックがココなのではないかと。

 そしてこのメンタルの弱さは、原発安全だけではない。なんか最近、ものすごく発言に細心に注意を払わないとならないようになっていて、これって、はっきり言って下らない風潮だと思います。今回も、石原知事の「天罰」発言が問題になってました。僕はこの人大嫌いだけど、でもあの発言はアリだと思いますよ。全体の文脈からしたら、ゼニカネや消費社会にうつつを抜かしている今の日本人に、「もうちょっと考えなはれ」という天の声だということ、これを機会に根本的に考え直そうという言い分それ自体に異論はないです。でも、「被災地の人々の感情を逆撫でする」とか皆さんは非難するわけで、そうなのか?と。別に被災地の人達だけが悪行三昧をやってきたから天の怒りに触れたとかそんな話ではないのは、文脈上明らかであり、それを曲解する人には、"Do you speak Japanse?"と聞きたいですわ。

 他にも幾らでもあるけど、もう「なんなのそれ?」って感じです。この予兆は既に70年代〜80年代からありました。「ココロが傷ついた」みたいな言い方。昔の日本はもっと荒っぽくて、鉄拳制裁が当たり前で、心以前にわかりやすく身体が傷ついた。血が出てても、「唾つけときゃ治る」みたいなバーバリアンぶりでした。別に暴力礼賛するわけではないけど、何かというと「傷ついた」という傾向は年をおって激しくなり、今では会社でも「もっと私を褒めてください」と堂々という社員もいるとかで、先輩上司は頭を抱えているという。いや、これ笑い話ではなく、本当にそういう実例にぶち当たったという人を僕は知っている。

 なんか「やさしくしてほしい」の?しっかり抱きしめられて、耳元でやさしく囁いてほしいの?それ以外はNGなの?「逆撫で」したら死刑なの?なんか、もう、つきあってて面倒臭い女みたいだ。これが原発になると、安全神話にぬくぬく包まれているのを破られたくないわけ?かつては「貧乏人は麦を食え」といった首相もいたのに。

 それは「デリカシー」という美名で表現されているけど、端的にいえば「嘘つき」であり「おべんちゃら」でしょ。やたらデリカシーがないのも問題だと思うけど、行きすぎてないか?僕らがガキンチョの頃は、ブスでもハゲでもデブでも何でもアリでした。およそ禁句というものがなかった。とりあえず女子は全員ブスと呼ぶことになっていた。男子は原則として「バカな男子」といわれた。だから慣れっこになって誰も大して気にしなかった。面白い四コマ漫画があって、高校に入学して仲良しグループが出来た、皆で仇名を考えようとかいって、そいつは五円ハゲだらけで、誰が考えたってそいつの仇名は「ハゲ」だろうと思うのだが、新しい仲間達は「○○は物知りだからハカセね」と言う。4コマ目で中学時代の親友から「よう、ハゲ、友達出来たか?」と聞かれた彼は、「友達なのはお前だけだよ」と寂しげに答えるという。こんなマンガが既に80年代か90年代初頭にあったのだ。

 まあ悪口を言えばいいってもんじゃないけど、でもデリカシーとやらで真実人の心が温順になったかというと、全然そんなことないじゃないか。デリカシーが浸透するのと比例するように、タテマエばかりが重視されるようになり、本音で人は語らなくなった。隠れてしまった本音は、心の中に抑圧され、サイホンのように一滴一滴悪意が煮詰ってないか?ネットの掲示板でも、匿名だと(タテマエを言わなくてもよくなると)、罵倒の嵐だし、ツィッターでも読むに耐えないような罵倒が幅をきかしている。これ、本当に面と向ってその人に言えるのか?僕の倫理観は、面と向って言えないことは陰でも言うなってことなんだけど、そういうのって流行らないのかしらね。そうそう、イジメなど力関係が固定され、絶対に反撃されず、したがってタテマエを言わなくてもいいような場合は、凄まじい罵倒を浴びせるし。

 だからデリカシーが広まっても、そんなものは表面上のことだけであって、全然温順にもなってなくて、むしろ前よりも「性悪」になってるような気がする。要は「嘘が上手になってるだけ」だと。嘘ばっかついているのは政府や東電だけではないのだ。そして嘘ばかりついてるから、人と人との距離が広がっていき、鬱病が広がり、何やってんだか?って感じです。

 そういえば、オーストラリアに慣れた感覚でいえば、日本では滑稽なくらい年齢を気にするんだけど、そのくせメディアなどで誰かを紹介するとき必ず年齢が載る。あれは何故なの?単に通りすがりの人のインタビューなんかでも「山田花子さん(67歳)」とかさ。要らないんじゃないの?デリカシーがあるなら、それこそ言わなきゃいいのにって思うんだけど。まあ、全く年齢を示唆するものがないと、5歳の幼女か90歳のおばあちゃんか分からないって不便さがあるなら、それとなく年齢「層」を示すのも出来るでしょう。「昨年初孫に恵まれた山田さんは」とか、美しく表現する日本語はいくらでもあるのに。このあたりもデリカシーとかいいつつ、全然魂がこもってないこと、要するに「変なこといって他人から恨まれたくない」「周囲から浮きたくない」という小心翼々たる自己保身でしかないんじゃない?ってことです。

 こうやって意地悪くネチネチ書いている僕も僕だけど、でもこのメンタルの弱さは、そろそろ自覚的になった方がいいと思うのだ。タテマエが重視されるのは、他者と衝突するのを避けたいという弱さの裏返しでしょ?海外が住みやすいのは、その種のタテマエが少ないからです。日本を一歩出れば、韓国だろうが中国だろうが、アメリカだろうが、喧嘩上等的な文化があります。目の前の人に異論を言うのにそんなに躊躇いがないし、すぐに怒るし。だから楽ってのはあります。その意味でいえばオーストラリアの方がまだしも日本に近い。一見陽気にやってるけど結構気を使ってる部分もある。でも、日本に比べれば全然。やっぱりすぐに怒ったりするし、ほんと動物的で面白いです。嘘が少ない。

 余談ながら、これを書いていて思ったのだが、日本で弁護士をやって、オーストラリアでワーホリさん達の最初の一歩をお世話するのは実はつながってるなと。なぜなら、どちらも一種の極限状況にあるわけで、目の前のハードな現実を何とかしなければならないという状況が、人から虚飾やタテマエを奪い去る。生あたっかい嘘ばっかりの優雅な貴族遊びをやってる余裕はない。なんせ裁判沙汰も最初の海外も、主観的には被災地みたいなものですから、適当に言葉で誤魔化せないし、ギリギリだから本音も出る。つまり人とつきあってて気持ちがいいんですよね。だからこそ、逆説的に人とつながれる、やさしい、あたたかい気持ちにもなれる。それがいいのでしょう。

 話を戻すと、このタテマエ主義(嘘つき)&イヤな現実に向き合うメンタルの弱さが、原発論議でも宗教まがいの非論理性を生むのだと思う。そしてメディアにおける下らない揚げ足取りやポピュリズムにつながり、さらには風評被害の源泉にもなると思うのです。福島県からゴミが来たというだけでも、もう絶対NO!そこでどれだけの人々が、動画のスーパーのように日常生活を送っていたとしても、ちょっとでも安全を汚す(気がする)ものがあったら排除!もう、絶対排除。心の弱さは、理性を減退させ感情を強くする。「あーもー、イヤ!」でキレて一種のヒステリーになり、感情論ばかりが先行するようになる。でもって風評被害は、さらに日本人独特の神道的なケガレ思想につながり、エタ・ヒミン(←これが辞書変換しないあたりもタテマエ的な現象のひとつ)のかつての部落差別につながるという、日本社会の最も醜悪な暗部=エッチ切った社会=につながっていくけど、もう長くなるから割愛します。

 いずれにせよ、ここでは、原発論議をしようとするなら「絶対安全」という呪縛を壊しておいた方がいい、そしてある種のメンタルの弱さ、「言っちゃイケナイ」みたいな変な領域をバキバキ踏み破るくらいでいいと思います。でないと、本格的な政策論議も実行もできないでしょう。特にこういう非常時においては、精神の剛毅さみたいなものがキモになりますし。


 そしてこの「メンタルの弱さ」はさらにあらゆる方向に進み、あちこちで腐食が進行し、それがさらに他の要素と連結し、、という具合になっていってるように思います。

 ここから先は話が拡散するのでまとめきれずにいるのですが、要旨だけ箇条書きしておきます。

 ★メンタルの弱さ→ヒステリックな事大主義を生み、そのカウンター的副産物として事なかれ主義を生む。事大主義と事なかれ主義は、拡大/縮小コピーのように、物事の正確なスケールを歪曲する双生児のようなもの。

 ★この両者が議論すると神学論争になり、頭から理解する気がない人間に何を言ってもムダ、「言葉は通じない」という不毛さになる。論戦はいつしか将棋の定跡のようにパターン化される。誠実に両者の橋渡しを試みる人は、双方から「裏切り者」呼ばわりされる。

 ★メンタルの弱さ→イヤな物事(話、出来事)には触れたくないので、崖っぷちまで歩いていって正確にその崖の深さを測定する行動を躊躇わせる。しかしリスク管理は「イヤなこと」を考えるところから始まるので、それを嫌がっていたらリスク管理はできない。このリスク査定の杜撰さこそが、事大主義と事なかれ主義の根底にある。

 ★イヤな話は聞きたくないメンタリティが組織内部に蔓延する。イヤな話を上司に持って行く部下は嫌われる。大袈裟な奴として煙たがられ、「大丈夫、安心」を連発する部下が出世する。かくして現場の危機的状況を上に伝える各段階で握りつぶされる。

 ★事なかれ主義は一種の願望だから、事が起きても自分の願望に合わせて矮小化しようと試みる。自分の手に負えるレベルまで引き下げて考えようとする。あるいは「なかったこと」にしようとする。学校内のイジメも、HIV訴訟の省内資料も「なかったこと」にしようとする。

 ★要するに事柄が大きくなったら対処できないような人材が組織の上層に出世するという枠組みが出来ている。タテマエが上手で、空気が読めて、皆の弱さをやさしく許すような人間が皆から支持されるわけで、一言でいえばヘナチョコ社会になっている。

 ★一方、事大主義は必ず自分以外の誰かに対して行う。メンタルの弱さは自分に甘く、他者に対して激しく求めるようになる。「褒めて」願望やら、「ママ(政府)のせいだよ」という他罰傾向になる。自分が痛くないので他罰には際限がない。

 ★これらは平和の代償のようなもので、治においては治のマネージメント、乱においては乱のマネージメントがある。乱が得意な人は創業者に向いているが、サラリーマン社会では弾き出される。

 ★しかし社会がこうなってくると乱マネージメントこそが求められるようになる。事を荒立てるのが大好きで、トラブルがあると水を得た魚のようにワクワクする精神傾向をもった人材の方が向いている。「15メートルの津波まで大丈夫です」と言われたら「なるほど、じゃあ安心ですね」とは言わずに、「じゃ、16メートルが来たらダメじゃん」と平然と場の雰囲気をぶち壊せるような人。でもトラブル処理にはこの感覚が大事。事が収まらなくても、乱れたまんまでも全然平気、自分の老後の安定なんかおよそ考えたこともないような人。

 ★乱的人材は一般にレアではあるが、いないわけではない。現在でもかなりの規模で居ると思われる。しかし実権がなかったり、あるいはそれを孵化・羽化させる社会的環境にない。

 ★結局経済の問題に回帰するのであるが、「妙なことを進言してクビになったら再就職できない」という雇用環境の厳しさが、乱的人材の孵化を阻害する。納得できない仕事はせず、辞表をバーンと叩きつけられるような雇用環境になることが必要だと思われる。真に乱人材はそんなことを気にしないが、彼を補佐する”準”乱的人材もその100倍規模で必要。

 ★かくして話は経済になるのであるが、経済をいきなり好転させるのは無理だとしても、人材の流動化をもっと活性化させるなどポイントはある。また旧来のガチガチの組織を刷新するのは難しいので、新しい組織と方法論をもった新しいフィールドでやった方が早い。例えば政官財学とNPOとの相互乗り入れであったり、クリーンエネルギー領域など、まだろくすっぽ利権構造が出来上がってないエリア。

 ★皮肉なことに雇用環境の悪化と自然災害による世の乱れが、変化の促進剤になっている部分がある。幾ら頑張っても雇用されないのであれば、人は新たにやり方を考えるし、靴磨きでもなんでも「起業」を考えるようになるし、また人生の意味も問い直すでしょう。船酔いするぐらい世の中が揺れれば、幻想のような基準もまた揺らぎ、原点回帰するかもしれない。

 ★願わくば、今回のことで国家の聖域だった基幹部分にまで揺れが及び、亀裂が走り、前回書いた「ゲームの初期設定」が崩れることを望みます。坩堝のようなカオスから新しいものを産み出していく。その点に関しては僕は楽観的です。こういう状況に日本は結構強いと思う。明治の頃も、いざ世の中が改まれば、「今までどこにいたんだ?」というくらい、全国各地から人材が澎湃と出現したし。トヨタもソニーも国策で生まれたわけではない。

 ★まあそうはいっても直ちにそうなるものではなく、ここ当面は、風前の灯のようになっている「安定志向」と、変化新生願望という二つの矛盾するうねりが絡み合うでしょう。

 ★この矛盾は個々人の中にあり、日本人というDNAの中にあると思います。やたら几帳面にキチキチしているくせに、いざ弾けるととんでもない馬鹿パワーを発揮する二重人格性があると思うから。日頃はつましく暮らしているくせに、いざ季節になると、死者がでるような暴力的なお祭りに嬉々として興じているというジキル&ハイドが僕らの正体でしょう。乱的なソフトウェアはデフォルトで持っている。ただしまだ起動されていない。

 ★その意味で言えば、原発の「絶対安全」も「言ってるだけ」という気がしますね。穿ち過ぎかもしれないけど、僕ら庶民は、原発であれ地震であれ何であれ、ドカンときたら「そのときはそのとき」と、実は心の奥底で、とっくの昔に腹を括っているような気がします。でも、それを表に出したらヤバいので誰もいわないという。なんか経験してないけど、終戦時もこうだったんじゃないかな?皆も薄々「勝てるわけないだろ」と思っていながら、誰も口にしない。で、やっぱりダメだったら、「あっそ」「だと思った」みたいなクールな受け取め方をする。だとしたら、何なの、このタテマエゲームは?という気もしますね。



文責:田村




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