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今週の1枚(2011/04/11)



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Essay 510 : あるけど無い  〜大矛盾をそのままに

 写真は、Glebeの裏通り。是非大画面(1680*)でごらん下さい。「街路樹」なんてもんじゃないよね。シドニーが大都会なくせに意外と生活空間が心地良いのも、やたらデカい木があちこちにあるからだと思います。これで「都心から2キロ」の風景だもん。
 ただし、大木メンテも大変で、電線にひっかかるから年に一度は巡回で枝払いをしてます。また、根っこが水道管を破裂させたり、家の基礎構造を壊したりするから、切り倒すこともあります。庭にある木はオーナーの責任だから、伐採と根の除去で数百万円かかったと嘆いていたオージーもいました。それでも伐採せずに、お金をかけ続けてメンテしているわけで、なるほど快適な居住空間にはそれなりの根性がいるのだと思わされます。


女は「魔物」か?

 いきなりですが「女は魔物である」という言説があります。しかし他方では「女は天使である」という説もあります。どちらが正しいのでしょうか?

 すみません、いきなりすぎましたね。
 天使とか魔物など文学的に言ってしまうとリアリティないでしょうから、話をもう少し分かりやすくしましょう。

 「なんだかんだ言っても、結局、女は金のある男になびくんだよ」という見解があります。実際、統計をとっても高収入とか高ステイタスの男性の方が既婚率が高いという現実があります。生活力のない男性に女性はあまり心を惹かれない。しかし、他方では、ホストクラブに大金をつぎ込んでいる女性もいるし、女に金を貢がせる「ヒモ」という存在もある。全然生活力が無いにもかかわらずやたらモテている男性の存在は、「しょせん女は金」命題とは真っ向から矛盾します。矛盾するんだけど、どうしようもなく両方存在する。女はAでもあるし、Bでもあるということです。

 この場合、「そーゆー女性もいる」という考え方があります。女性の中にはA型とB型がいるというわけで、要するに「人種が違う」と。
 しかし、同じ女性であってもA的であり且つB的であったりもします。ウブな頃は一途に男に尽してきたけど、裏切られて馬鹿馬鹿しくなり、それ以降は「男は金よ」とガラリと方針転換をした場合。これは時期的に変化する場合で、分かりやすいですね。あるいは使い分けパターンなんてのもあります。ホストクラブに金を注ぎ込んでいる有閑マダムも、表向きの結婚においては高収入のダンナを選んでいるなど。お財布的男性とアバンチュール的男性とで用途別に分ける。このようなケースを考えれば、「女はAでもあるしBでもある」という命題が成立するでしょう。

 だけど、ここではそんなシンプルな話をするつもりはないです。同一時期に同一男性に対してAでもBでもありうるという複雑なパターン。
 莫大な相続遺産を目当てにリッチな男に近づいていく、いわゆる「ビッチ」系の女であっても、一緒にいるうちに情が移ってしまい、ゼニカネ抜きで惚れてしまったという場合はありうるでしょう。逆に、従順で貞淑な妻として振る舞いつつ、ダンナが定年退職金を手にしたら掌を返したように熟年離婚を切り出したり、ヒドいときには生命保険をかけてダンナを毒殺しちゃうとか。「外面如菩薩、内面如夜叉」ってやつですね。

 この場合、「AからBへ」「Aだと思ったら実はBだった」という単純な構造だけではなく、AとBが同時に混在するパターンもありうると思うのですね。ビッチ事例では「情が移る」ということはあるでしょう。相変わらず遺産は狙っているのだけど、でも「ダーリン、あたしのために長生きしてね」と嘘偽りなく思えてしまうという。Bの毒殺パターンでも、ゴルゴ13のように顔色一つ変えずに実行するわけではなく、何度も躊躇うのが実際でしょう。「なんて恐ろしいことを!」と自己嫌悪に震えたり、無防備な夫の寝顔を見て逡巡したり。仮に殺人に成功したとしても、夫の死体をかき抱いて泣きじゃくる涙はこれまた本心からのものだったりもする。つまりAとBが純粋に同時存在してしまうケースです。

 これらはかなり特殊なケースですが、話を分かりやすくするために設例を極端にしているだけで、僕にもあなたにもこういった矛盾する気持は常に持っていると思います。恋人だって、メチャクチャ好きだという気持ちと同時に、殺意を抱いてしまうくらい憎らしく思うこともある。愛と憎しみは表裏一体といいますが、僕も十代の頃から異性とつきあい始めて、瞬間的であれ人はここまで他人を憎く思えるものかと驚いたものです。今は驚きこそしないものの、この振幅の激しい現象は同じです。結婚生活ベテランの方には同意していただけると思いますが、「あーもー絶対ダメ!」と思えるときもあれば、「一緒にやっていこう」と素朴に思えるときもある。どっちも本当。目の中に入れても痛くないほど子供を盲愛する瞬間もあれば、このガキ、ブチ殺したろかと暗い炎が燃えさかる瞬間もあるのだ。

 別に対人関係だけではなく、なんだってそうです。仕事なんかクソだと思いつつも、その仕事を自分でもどこかで誇りにしていたり。「しょせんこんな仕事」とか思いつつも、目の前でいい加減に仕事をしてる奴をみると腹が立ってしまうとか。もの凄くハマっていた物事が、ある瞬間、急にくだらなく思えてみたり。一生懸命作り上げようという創造欲求もある反面、何もかもブチ壊したくなる破壊欲求もある。痛切に生きたいと思うときもあれば、死の安息を恋しく思う夜もある。

 なぜ相反するものがこんなにもポコポコ出てきて、場合によっては同時に存在したりするのでしょうか。AならA、BならBとハッキリせんかい!といっても、ぜーんぜんハッキリしない。世界も自分も矛盾しまくり。なぜなんだ?というのが、本稿のお話です。

真理は矛盾の中にある

 このエッセイでも常々書いてますが、「本当のこと」なんか中々分からない。Aかと思えばBだったり、Bだと思えばAだったり、そのくせAとBは真っ向から対立したりして、メチャクチャ矛盾している。

 コトワザでもそうですが、真逆な意味のものが山ほどあります。「触らぬ神に祟りなし(リスクは避けよ)」と言うかと思えば、「虎穴に入らずんば虎児を得ず(リスクは負え)」といったり、「渡る世間に鬼はなし」と言うかと思ったら、「人を見たら泥棒と思え」ともいう。「好きこそものの上手なれ」VS「下手の横好き」、「蛙の子は蛙」だと思ったら「とんびが鷹を産」んだりします。

 「どっちなんじゃ!?」と言いたくなるのですが、「どっちも本当」なのでしょう。
 これも先ほどと同じく、色々な理屈をつけて両立させることは可能です。例えば「ケースバイケース」といって、リスクを負って勝負すべき場合もあるし、くだらないリスクは避けた方が良い場合もあると説明することは出来るでしょう。あるいは好きだからこそ一生懸命練習するから上手になるのだということと、才能がなくて一定レベル以上に上手にならないけどそれでも好きな物事はあるということは、全然レベルの違う話をしているだとか。

 だが、そんな手際の良い説明で切り抜けるのではなく、ここはガチに矛盾は矛盾として受け止めたいところです。渡る世間に鬼がいないのか、鬼だらけなのか、どっちなのか?と。これは性善説、性悪説にも通じる究極命題で、人間、そして人間の集合体としての世間は善なのか、悪なのか。さあ、どっちなのか?しかし、いかに考えても、やっぱり「どっちでもある」としか言えない。例えば大きな災害があって全国から寄付金が集まる。その意味では人の本性は善なのだろうが、かといって破産覚悟で全財産を投げ打つ人はマレです。自分が出来る範囲、あんまり困らない範囲でしか善を施さないのだとしたら、それは本当に「善」なのか?という言い方もできる。クラスメートがいじめられている。いじめている奴が自分よりも弱そうな奴だったら止めるけど、自分よりも強くてヘタに止めたら却って自分までいじられそうになる場合は一緒になっていじめる。「出来る範囲」というのはそういうことで、それは善なのか。

 いや、それでも善は善だと思います。堂々と善だと言えばいいと思うし、せめて出来る範囲のことはすべきでしょう。だけど、「本性」とか「究極」になるとどうなのかは分からない。「出来る範囲」である以上、それはまだ究極にも本性にも達してない。仏教の捨身飼虎伝にように、我が身を飢えた虎の餌として差し出すような究極。ギリギリの生きるか死ぬかの局面で、善が出るか悪が出るかが性善説・性悪説、世間悪・世間善説の命題だとしたら、やはり分からないし、どちらでもあるとしか言えないと思うのです。タイタニック号が沈没するときのように、我が身を犠牲にしてまで他人を救う人間は確かにいる。でも、他人を蹴落としても自分だけが生き残ろうとする人間もまたいる。そして、同じ人間であっても、場合によっては別の行動を取るだろうし、一瞬の機微で左右に分かれるだろうとも思う。

 難しくて中々上手く言えないのですが、言いたいのは、この「どっちもある」ということを、この大矛盾を、もっと全身全霊で受け止めなければならないのではないかということです。「色々な場合があるからね」でスマートに切り抜けるのではなく、ゴチャゴチャの混沌のまま、斜面を転がってくる雪だるまをドーンと全身で受け止めるように受け止めねばならないのではないか。なぜなら、本当のこと、真理というのは常に矛盾の中にあり、矛盾こそが真理であるように思うからです。

聖と俗

   なぜ、「本当のこと」がこんなにややこしい構造をしているかといえば、よう分からんながらも、結局全部つながっているからなのだ、究極的には同じ事だからだと思います。直感的に。

 「聖を極めれば俗になり、俗を極めると聖になる」という発想があります。
 聖なるもの、混じりっけなしの純度100%のピュアなものを追い求めていると、まず最初に邪魔になるのは、聖なるふりしたニセモノです。青少年の反抗期と同じで、ピュアなるものを大事にしようとしているのに、それを大人に邪魔される。それも、もっともらしい正義(聖)を押しつけてくる。ニセモノがエラそうに弾圧する。その偽善性に反発する。心から信頼している仲のいい友達がいる。とってもいい奴だ。だけど親に禁止される。○○ちゃんはガラが悪いから、勉強が出来ないから、○○の子だから、「もうつきあっちゃいけません」とか言われる。「なんでだよ!」と強烈に反発する。「それがお前のためだから」と言われる。ふざけんじゃねえ!と怒る。結局てめーの保身じゃねえか、勉強して他人を蹴落として高収入を貰って安逸な生活を送るというモデルプラン以上に、人間として崇高なありかたを提示も実践もできないクソ俗物のくせしやがって、エラそうに説教こいてるんじゃねえと思う。

 かくして青少年はグレる。聖なるものを守るため、NOの意思表示をするために、勉強もせず、グレた格好をし、非行に走ったりする。非行に走ったからといって聖なるものは守れないのだけど、そこは世間知らず&社会的腕力のない青少年の限界だったりする。そこまで分かりやすくグレなくても、表面上は優等生を続けていても、そのときに感じた強烈な反発は、原発の燃料棒のようにいつまでも熱を放射し続ける。ささくれだった心を強烈な音楽で冷却しつつ、下らない大人どもをひれ伏せさせるだけの絶対権力を身につけてやろうと思ったりもする。よくあるパターンです。

 自己保身をモチベーションにしつつ、親は嘘をつき、先生は嘘をつき、官僚は嘘をつき、国家は嘘をつき、東電も嘘をつく。嘘ばっかじゃねーかと思う。それに反発すればするほど、また真っ正直にやろうとすればするほど、「正直者が馬鹿を見る」世の中のセオリー通り、どんどん零落していったり、社会的身分はあがっていかない。大学の非アカデミズム(権威性)に堂々と異を唱える硬骨漢は終生講師どまりで助教授にすらして貰えない。現場から本社の方針に異を唱える社員は、左遷や退職が待っている。ああ、JALの現場でも、東電の現場でも、そんなことが幾らでもあったのだろう。

 少年のようにピュアな心を持ち続ける人は、壮絶な戦いを経て、だいたいボロボロになっていく。ローティーンの頃に強烈に反発した子供達も、年頃になれば、圧倒的なまでの彼我の力の差に打ちのめされ、入試や就活で徐々に自己保身を覚えていき、いつまでも怒り続けている友達を、「もっと大人になれよ」「要領の悪い生き方」と尊敬しながらも軽蔑するようになる。いまや小学生ですら、いじめられっ子を救うために自分までいじめられているクラスメートを「馬鹿な奴」として冷笑する。そしてそういう「賢い生き方」が賞賛されるようになる。Fuck You!そう、世間なんかそんなものなのだ。だけど、Fuckin'な世の中にしている真犯人は、適当に要領カマして生きている自分自身でもあるのだ。その中指は自分をこそ指せ。

 さて、ここであくまでもピュアたらんとするものは、徹底的に世俗にまみれていきます。ニセモノのお綺麗な正義に背を向け、世間的には堕落の道を進んでいく。学校や世間の嘘くささに耐えきれず、あるいはドロップアウトし、あるいはベルトコンベア以外の道なきジャングルに活路を見いだそうとする。当然、収入や将来は約束されません。一方、もっと本気で怒って、もっと本気で世の中変えたい奴は、権力を目指してプロになったり、政治家になろうとする。最終的に叩き壊すために手を汚すこともいとわない。「力」を手に入れるため、下らない奴らを金で黙らせるために。

 まあ、いろいろなパターンがあるのですが、ここで注目すべきは、「聖」なる部分がモチベーションになると、「俗」的な方向にいってしまいがちだということです。極論すればヤクザになるか政治家になるかです。「サンクチュアリ」というマンガみたいだけど、彼らのもっている「聖」性がモデレートでお利口な生き方をさせてくれない。ここで、聖なるが故に俗になり、俗なるもののなかに聖があるという構造が出てきます。

 なお念の為に言っておくと(分かると思うけど)、全て俗なるもの(例えばヤクザや政治家)が聖たらんと欲したからそうなったと言うわけではないですよ。根っから俗だから俗になってる場合の方がずっと多いでしょう。また、聖たらんとして、つつましい聖職者などの道を選ばれる方も沢山います。聖俗常に逆転するなんてことを言ってるわけではないです。ただ、連続性、互換性があるよと。

 もひとつ念の為に書いておくと、親や教師や政府が絶対的に悪の偽善者で、子供があくまでもピュアな天使なんてシンプルな構図であるわけはありません。自分が親の年になれば、世の中がキレイゴトだけで廻っていないのはイヤというほど知っている。また個々人の力など微々たるものであることも骨身に染みている。好むと好まざるとに関わらず、濁流を渡るには技術が必要であり、それを我が子に教えようとする。それがゆえに子供から偽善者呼ばわりされ、嫌われることを百も承知で、ガキの甘っちょろい世界観を叩きつぶすのも、親の「聖」なる思いの発露でもあるわけです。一方、子供がピュアなんてのも大嘘で、クラスルームでは、友達から仲間はずれにされたくない一心で、興味もない話題に大袈裟に相づちなんぞを打ってたりして、親以上に自己保身のカタマリだったりもするのだ。でも、まあ、今はそれは論点ではない。

 聖なるものを求めて俗化、あるいは露悪化していく類例は古今東西山ほどあります。キリストにせよ、形骸化し偽善的に思えた当時の主流派(ユダヤ教司祭者)に対するプロテストをし、世俗なる民衆の中に分け入り、奇跡を求める癩病患者に取り囲まれ、最後は民衆に裏切られた。人一倍繊細で傷つきやすい文学者は、それがゆえに無頼放蕩を装い、堕落の道に走る。天才詩人ボードレールは準禁治産を受け、その作品は公序良俗に反するとして罰金刑すら受けた。当時の自国イギリスの偏見と偽善を痛烈に罵倒したロード・バイロンは放蕩の限りを尽し、異国の地で死ぬ。己の偽善性を「人間失格」で自虐的なまでに暴き立てた太宰治は、自殺未遂と心中未遂を繰り返した。

 そこまで劇的ではなくても、聖的なるものを求め、出世栄達に背を向け、市井の民衆の中に入っていった良寛さんのような僧侶は昔から沢山いるし、赤ひげのような医師もまた、今日にいたるも沢山います。結局、「聖」なるものを求めれば求めるほど「魂の潔癖性」のようになって、規制権威に馴染めないものを感じたりもするし、「聖」とは神棚に飾って拝むものではなく、人々の暮らしの中で実現しなければ意味がないと正しく理解し、そして実践する。そこまで大上段に思っていなくても、褒められも、報われもしないけど、黙々と誠実に仕事をしている多くの人々(あなたもそうでしょう)のなかにも「聖」は宿っているのだ。

 「聖」を突き詰めていけば限りなく俗に近くなり、殆どその区別がつかなくなる。他方では、世間的に見下げられている俗なるものに、聖が宿ることも多いです。たとえば「聖なる娼婦」という概念があります。もっとも卑しむべき職業とされている娼婦にこそ聖が宿るという発想であり、キリスト教におけるマグダラのマリアがそうだという見解もあります(史実や解釈によってかなり異なるが)。

 小松左京の郷愁ホラーともいうべき「写真の女」という小説の中にも、「聖なる娼婦」らしきモチーフが出てきます。家の困窮のために身売りされた(当時ではよくある話)若い娘と、旧制高校の学生さんとの束の間の恋ですが、無知無学なうえに多少頭が弱く、それがゆえに子供のようにあどけなく、「ことが終ったあと、相手が誰であれ、やさしい気持ちになれるのが好き」と呟いた娘に、観音様のような女性の聖性を見いだす。

 このように、聖も俗も突き詰めていけば渾然一体になっていくように思われるのです。

あらゆる矛盾

 相対立する物の混在や統合-------なにやら正反合の弁証法や、太極より陰陽が出でるという二元論のようなことを書いてますが、まあ、そうなんだけど、感覚的にはちょっと違います。二元論は、陰陽の図形のように陽の中に陰があり徐々に移り変わること、真冬には既に春の萌芽が息吹いており、、という、一種のサイクル論なんですけど、僕が感じているのは、もっと無秩序にゴチャゴチャと存在している感じ。あんまり体系立てられてなくて、Aでもあるし、Bでもある、AとBの区別自体がよく分からないという整理されていない感じ。

 日本はもうダメだという説もあれば、いやこれで中々捨てたもんじゃないという説もあり、大抵の場合、論者は同一人物です。誰もがその両方を幾分なりとも感じているでしょう。でも何処が良くて何処がダメなの?というと、これが結構曖昧です。勤勉で働き者で、秩序立っていてという良い面があり、仕事ばっかりで人生にゆとりが乏しく、他人の目ばっかり気にして自主性に欠けるというダメな面があったりするのだけど、勤勉で働き者だから仕事中毒になってるのだし、他人の目を気にするから秩序が生まれているとも言えるわけで、同じ事象を指して、そのときの文脈や気分で、良いとか悪いとか言ってるだけではないのか?という気もするわけです。つまり良い面と悪い面がキッチリ分かれるのではなく、もうごちゃ混ぜになっている。

 はたまた人間は自然なのか?という話もあります。大自然から生まれ出でた僕らは、それゆえに自然に存在的なシンパシーを感じる。海水が生理食塩水に似ているように、潮騒の音を聞いているとアルファ波がでるように、ナチュラルなものには人をゆったりと溶かしていくような安らぎがある。人為的な要素が少なければ少ないほど、尊い聖性があるような気がする。赤ん坊の無垢な笑顔に、動物達のたたずまいに、争えぬ真実が宿っているかのように思える。しかし、反面では自然は残酷である。弱肉強食の掟のとおり、軍隊アリに襲われたアリの集落は皆殺しにされ、最後に女王蟻が引き出され、ズタズタに八つ裂きにされる。弱き者は徹底的に虐げられ、そこには一片の救いも慈悲もない。公平も公正も正義もない。あまりも暴虐な自然に人間は馴染めないものを感じ、助け合い、支え合う道を選ぶ。それをこそ「人間的」であると感じる。だとしたら、いったい人間というのは、自然なのか反自然なのか?人類がダメなのは自然的だからなのか、反自然的だからなのか?これもまた答が出ない疑問であり、「どちらでもある」としか言えない。

 そして究極の生と死においても実はけっこう曖昧です。「生」を強烈に感じる瞬間、よりよく「生きた」と感じられる場合というのは、淡々と規則正しく節制した生活をしている平凡な日常ではなく、全速力で駆け抜けているようなときであり、それも限界ギリギリに挑んでいるようなときにこそ激しく「生」を燃焼している実感を抱く。突き詰めていけば、エベレストに登ったり、F1レーサーがコーナーに突っこんでいくような瞬間であり、一歩間違えれば即死するような場合。つまり、激しく「死」の匂いがするときです。強烈に「生」を感じたかったら、強烈に死を感じる場所まで行かねばならないのか。幕末の志士のように、ジャンヌダルクのように、いつ殺されるか分からないような激動の日々を駆け抜いているときにこそ生は強く、激しく輝く。

 さあ、もっともっとぶっ飛んで超究極に行きましょう。いったいこの世界は「ある」のか「ない」のか?

 仏陀が喝破したように、この世界は「あるんだけど無いんだよ(色即是空)」という、「有」と「無」すらが同時存在するのか?ンなわけねーだろ、と思いつつも、でも、量子力学なんぞをチラと囓ると(囓っただけで歯が折れそうなくらい超難解だが)、この世界の物質は、分子、原子、原子核や電子など小さく見ていくにつれ、「あるけど無い」という奇妙な世界になるといいます。そもそも「物体」ですらなく波動関数で表わされる「状態」であるとされます。この「あるけど無い」という無茶苦茶な発想に慣れないと量子力学は先に進めません。でもこの世界を作っている基本ピースが「あるけど無い」なら、その集合体である僕らも又「あるけど無い」ということになりますよね。激しく禅問答めいた量子力学ですが、しかしこれがあるから半導体技術が進み、僕らが安価なパソコンを使えていたりするそうです。

 しかし、あるのと無いのが同時存在していると言われてもねーって感じですよね。僕らの肉体が小刻みに付いたり消えたりしているというのはピンとこないし、何なんですかね、動画のように細かく見ていけば1秒30コマの紙芝居なんだけど、高速でやってるだけで連続しているように見え、興味のないフィルムの枠の部分は意識から除外している(見ている筈なのだが)のように、あるように思っているだけなのかもしれません。

 まあ、言われてみれば「生命」も「人生」も物体ではなく「状態」「現象」ですよね。波のように、風のように、地震のように。物そのものではなく、それが「ある特定の動きをする状態(=特定作用=波動関数)」です。自分の過去の人生だって、触ったり、持ち上げたり出来る「物」ではない。その意味では自分の人生などこの世のどこにも存在しないのだ。あるのはこうして書いたり読んだりしている一瞬だけであり、それも一瞬ごとに消滅していく。だとしたら僕らの人生とは、その一瞬を感じ続けることであり、「自分」とはそうして過去に感じた記憶を統合整理し、意味づけをするという作用を持つソフトウェアのようなものなのでしょうか。

 多分そうなんだろうな。僕とは、あなたとは、人とは「作用」なのでしょう。自分とは、特定の刺激Aがあったとき特徴的な反応Bをする作用の集合体である。ある状況に置かれたときに怒ったり、泣いたり、無視したりする作用であり、友人もまた「あいつだったらこう言うだろうな」と認知できる特定の偏向をもった作用なのだ。だから作用しなくなったとき、ウンともスンも言わなくなったとき、端的に死んだときには、その人は死んだ(もう存在しない)と感じる。また、人が死んだあと、ノートの端の落書きなどの遺品や、ふと空耳でその人の口癖が聞こえるなど、「その人らしさ(作用の特徴性)」を強烈に感じたときに、涙があふれ出るほどに近しく、懐かしく感じる。

 ところで僕らの肉体それ自体は、毎秒もの凄い速さで新陳代謝を繰り返しているといいます。僕らの肉体の中の細胞が死んで再生すること1日に50億個でしたっけ?3か月もしたら上から下まで全部総取っ替えになり、数ヶ月前の自分とは、物質的には完全に別物になっているといいます。ただ記憶だけが複製されるから同一性があるかのように感じているだけで、僕もあなたもコピーのコピーのコピー、、、、なのだといいます。だから肉体という物質によりどころを求めても、これまた虚しい。

 はあ〜、このあたりになってくると、本論からも離れて、宇宙の彼方にぶっ飛んでいきそうなのですが、この自分自身、そして世界そものものがある/無いが同時存在するとするなら、なるほど、それよりも下位にくる他の現象が同時存在していて不思議でも何でもないのでしょう。真理は矛盾の中にあり、矛盾こそが真理なのだという以上に、それが矛盾に思えること自体が間違っているということなんでしょうね〜。

とりあえず日々においては

 しかし、ここまで究極に行っちゃうと、夜空の流れ星のように「ふーん」で終っちゃいます。そこで、一気に百万光年くらい話を日常に戻しましょう。この「あるけど無い」原理を、なんらかの形に日常のノウハウ還元しようとするなら、こんな形になるでしょうか。

 @、「○○はAだ」と思うときは、まずそれと同じくらいの強さで真逆の結論もまた正しいと思っておく。くれぐれも何か一つに決めようとしないこと
 A、ある具体的な局面で方針を出せねばならない場合は、どのくらい局限された状況で、どの程度のレベルを想定しているか、その限界や枠組みをしっかり押えておくこと。

 あたりになろうかと思います。

 例えば「渡る世間に鬼はなし」と思うなら、同じくらいの強さで「鬼だらけ」だとも思っておくこと。矛盾するテーゼが同じ強さで両立していると思い、常に他方にも気を配る。そして、「鬼はない」という方向性でやっていく場合、「周囲の状況を考えて今回に限っていえば」という限定条件をキチンを確認すること。オーストラリアでシェア探しするくらいだったら「鬼はなし」でいいだろうけど、深夜の歌舞伎町を徘徊するなら「鬼だらけ」と思っていた方がいいだろうとか。さらに「鬼」の想定レベルを考えておくこと。「冷淡にあしらわれる」くらいだったら「鬼」とは呼ばず、犯罪レベルの被害を与えることをもって「鬼」とするのだとか。

 ある程度限定していけば確度99%くらいまでも絞り込めるでしょう。でも、残された1%はまだあるので、武道でいう「残心」のように、"anything could happen"の精神でいる。周囲から「仏の○○さん」と親しまれている人格高潔な人がいても、その人ですら「生涯ただ一度の過ち」なんぞを犯したりするものです。そのただ一度の被害者に自分がなったら、周囲の人がいかに仏と呼ぼうとも、自分にとっては鬼になるのだ。同一人物が鬼にも仏にもなりうる。

 まあ、考えてみれば当たり前の話で、心や性格が24時間/365日イッコも変わらず、常に同じ色に塗り固められているプラスチックみたいな人間などこの世にいません。人の心は絶えず揺れ動き、また性格も絶えず小刻みに変わっている。100%Aという人間もいなければ、100%Bという人もいない。レシピーとしてAがやや勝っている人がいるだけであり、そのレシピーも刻々と変化する。

 レシピーといえば料理ですが、鍋でグツグツ煮込むことを例にとっても、「加熱」という一つの刺激に対して、(A)煮汁が具に染みこむ、(B)具の旨味が煮汁にしみ出す、(C)具の組成が柔らかくなり煮くずれる、(D)そうしている間にも水分は湯気となって蒸発する、、などの複数の反応が同時に起きているわけです。

 さきに書いたように人間が「作用」だとしたら、おそらくその反応作用のパターンは、「Aは好きだがBはキライ」「Cのときには元気になりDになるとたそがれる」という具合に数千数万の単位であると思います。そしてまた外界からの刺激も無限のバリエーションがあり、一つの刺激の中に様々な情報が含まれているでしょう。恋人から何か言われたとしても、その内容、言い方、表情、スチュエーション、これまでの脈絡、、などなど多数の情報があります。同時に複数の刺激を受ければ、同時に自分の中に数多くの反応が生じるのは当然でしょう。「言ってくれている内容は優しいけど」「言い方がなんか他人行儀」「そういえば最近なんか変だよな」など同時に沢山のことを思い、嬉しいやら不安やら複数の感情反応が生じる。

 このように、ある人間がある状況において複数の感情を抱くこと、そしてそれぞれが相互に矛盾していることなど不思議でもなんでもないです。殺意と愛情を全く同時に抱いたとしても別に奇妙なことでもない。そもそもそれは矛盾ですらない。それは煮汁が染みこむことと湯気が立つことが矛盾しているわけではないのと同じことです。矛盾しているように見えるのは、「同一時点における人間の感情は、排他的な唯一のものしかありえない」という、誰が唱えたわけでもなく、証明されたわけでもない、いい加減な前提ドグマに立っているからです。「勝手な思いこみ」ってやつですな。そして瞬間瞬間の感情が複数乱立するなら、その集合的統合体系である性格・人格もまた複数乱立していても何の不思議もない。あるとき、ある局面において、同じくらいの力強さで聖女と悪女が強烈に立ち上がっていっても、それはそれでアリでしょう。

 などとツラツラ考えれば、「女はAである」等というシンプルな命題がいかに能天気な断言であることは明らかであり、ましてやそんな愚にも付かない「法則」をもとに現実世界に船出しようとしたら、難破するのは必定とすら言えます。もう外洋に出る前に、湾内のテトラポットにぶつかって沈没でしょう。気をつけたいものです。




文責:田村




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