今週の1枚(2011/04/04)



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Essay 509 : チュンチュン、、バタン!「成功」の罠  

 写真は、雨模様のWoolloomooloo。左上にハーバーブリッジとオペラハウスが見えます。



 「成功」という輝かしい言葉があります。誰もがそれを求めたりするわけですが、はて、成功して何か「良いこと」があるのだろうか?と考えてしまいました。成功するメリットは何か?何のために成功を目指さねばならないのか?本当にそれは良いことなのだろうか?

 「何をまた下らないことを」と失笑されるかもしれませんが、いや、考えていくと意外と分からなくなるんですよね。突き詰めていけば、成功のメリットというのは、「束の間、ちょっといい気分になれる」だけなのではないか?。同時に成功するデメリットもまた沢山あって、むしろそっちの方が多い。妙に成功しちゃうのも良し悪しだよな〜、と。

 僕は常々、成功君と失敗君とでは、どうも失敗君の方に感情的に肩入れしがちで、過去にもその種のことを書いています。エッセイでは「国民の基本的人権としての失敗権」やら、ワーホリ講座の「失敗の美味しすぎる効用」など沢山書いてますが、成功についてはあまり書いてません。失敗は面白いけど、成功ってあんまり面白くないのですね。他人の失敗談は面白いけど、成功話を聞かされてもあんまり面白くないのと一緒です。

 そのあたりをちょっと書いてみたいと思います。

ビギナーズラックの麻薬

 まず、失敗は非常に栄養分が豊かです。○○がダメだった、足りなかったなど敗因分析をすればするほど、明日の課題が見えてくる。課題というのは、要するにそれをクリアすればもっと素晴らしくなりうるということで、換言すれば「希望」です。失敗には希望の素が満ちています。精神的にはハードかもしれないけど、学ぶべきことは沢山あるし、もっともっとハッピーになるためのナビ情報を得られる絶好のチャンスです。

 しかし、成功するとこの種の分析がおろそかになりがちです。本来はあっさり失敗していたかも知れないのに、たまたまのラッキーで成功しちゃう場合も多い。だから本質的には失敗に分類されるべきなんだけど、結果オーライで、ついついそのあたりの分析がいい加減になります。過信したり、過度に希望的になって事に当り、失敗する。ラッキーなんてそうそう続くわけないですから、ラッキーに頼る戦略はもうその時点で失敗が約束されているようなものです。

 ヘビーに不幸になっていくパターンというのは、実は最初に成功しちゃったケースが多いと言います。競馬で身を持ち崩すパターンも、最初にビギナーズラックで万馬券とか当てちゃったような場合が多い。そんなの滅多に起きないけど、起きてしまった。それは嬉しいですよね。たった数分で資産100倍ですから、美味しすぎます。あまりにも強烈な快感を感じてしまうから、それが麻薬になってしまう。ヤクザが素人衆をバクチで食い物にするのもこの手口です。最初、適当に勝たせてその気にさせ、病みつきにさせる。

 人間の行動というのは、実はシンプルな快楽原則に支配されている場合が多く、一回それで強い快楽を味わったら、もう一度それを味わいたくなる。それが良い方向に向えば大きなモチベーションになるんだけど、悪い方向に向えば、破滅へのエンジンになります。頭では「こんなラッキー、もう一生ないぞ」とか思いつつも、「ちょっとだけなら、また夢見てもいいかも」と自分に言い訳して馬券を買い続け、当然のことながらハズレハズレの連続になる。そして「せっかく、ここまでやったんだから」「今更止められない、一発逆転だ」という別種のターボエンジンが起動しはじめ、加速度的にドボン。ついには借金したり、会社の金に手を付けたりして、最後は自己破産や業務上横領で手が後ろに回る。

 こんな使い古しの三流小説みたいなプロットが本当にあるのかといえば、実は結構あります。あまりにもありふれているのでイチイチ新聞ネタにならないだけです。このパターンの中核にあるのは人間の快楽原則です。これはもう本能的な行動様式だから、なかなか矯正しにくい。破産したり、塀の中に入っても、それでも尚もあの快感が忘れられず、立ち直ってからでも「もう一回くらい」と手を出し、またぞろ破滅する。何度も破産する人、再犯を繰り返す人も普通に沢山います。覚醒剤や痴漢行為を何度も何度も繰り返す芸能人もいます。ほかにも万引きなどの盗癖や放火なども習慣性が強い。もうDNAに組み込まれてしまったかのように、なっかなか断ち切れない。だからこそ麻薬なのだ。ガン以上に厄介です。

 僕らの生活や人生というのは、快楽本能という、びっくりするくらいシンプルな原理で組立てられて(壊されて)いる場合が多いです。快楽の話はとても大事なのでまた日を改めて書きます。今回は「成功」の話です。バクチの最初にビギナーズラックで大当たりをしてしまったという「快感」を味わってしまったら、かなり面倒臭いことになる可能性があるよ、ということでした。

成功パターンの恐怖

 そこまで極端ではなくても、何かのイトナミで成功らしきものを収めると、それが自分の成功パターンになります。これがクセモノなんですよね。一回それで成功したら、次もそれでやってみたくなります。で、また成功する。もともとが成功しやすい順当なパターンである場合も多いでしょうから、幾らか成功が続くことがあっても不思議ではないです。

 そうやって成功しているうちに寿命が尽きて死んでしまえばいいんですけど、ああ、でも人生は長い。いつかはその成功パターンが通じなくなるときがあります。世の中はそんなに単純ではなく、無数の因果の連鎖によってニット編みのようになってますから、常に一つのパターンが通用するわけでもない。イレギュラーな場合もあるし、パターンAもあればパターンBもあり、時代も変わる。従っていろいろな攻略パターンを知っていることが大事なのですが、一つのパターンでずっと成功しているとそのあたりが難しくなります。過去の成功パターンをいつまでも再現しようとする。ついには禁断の「自己模倣」というのをやりはじめる。こうなると泥沼です。

 よく挙げられる例で紹介するのも気恥ずかしいのですが、戦国武将の織田信長は天才と言われますが、何が天才かというと自己模倣をしなかった点だと言われます。彼が世間に知られるようになったのは、桶狭間の合戦ですが、圧倒的に少数(10分の1の兵力)で奇襲をかけて一気に勝ってしまった、戦国時代でも珍しいくらいに華々しい勝利でした。「寡兵をもって大軍を破る」というのは戦略家のロマンであり、まだ20代の若造の信長がこれだけの大勝利を収めたら有頂天になっても不思議ではない。しかし、信長という人間の凄味は、生涯にわたって二度とこのような戦法を使わなかったことです。常に相手よりも多数の兵力を集め、集めきれないときは屈辱的な外交交渉をやってでも時間を稼ぎ、「誰がやっても勝つ」というところまで辛抱強く態勢を築いていった。こんなことは普通の人間には出来ない。自分の最も誇らしく輝かしい過去を、自分で全否定するわけですからね。「あれはマグレ」「あんなラッキーは生涯に二度とない」と平明に見通していたわけで、天才とは徹底的なリアリストのことだと言われますが、なるほどそうかもしれません。

 その逆が、太平洋戦争のときの大本営の作戦だと言われます。負けても負けても過去の成功パターンにしがみついて、凝りもせずに同じ作戦を繰り返し、しまいには英米軍の参謀から失笑を買ったという。これは当時の日本人の頭が悪かったというよりも、愚劣にならざるを得ないシステム的な問題だと言われます。つまり、神格視されている先輩達の作戦ややり方に疑義を入れることは許されないという、閉鎖的な組織の論理(空気)です。だんだん神がかって、カルト宗教みたいになっていく。ただの極東の列島国家を「神州」とか「不滅」とか言いだした時点で、精神論を越えてオカルトがかっていったのでしょう。戦争とは(仕事でもなんでもそうだが)、ロマン無用の徹底的なクソリアリズムの世界であるべきで、どんなに信念が強かろうと、どんな正義を掲げようと、「弱い奴が負ける」という現実があるだけです。どこまでそれに徹しきれるかが勝負なのですが、その意味ではもう最初から負けている。日露戦争以来の日本軍の常勝パターンや「やり方」を踏襲することが自己目的化していってしまう。過去の成功パターンへの病的なまでの固執です。

 過去の成功パターンが神話化し、神話のためには現実すらも否定するという愚劣なパターンは今尚脈々と受け継がれているでしょう。官僚無謬神話のために、薬害エイズ訴訟では厚生省は証拠資料をひた隠しにしようとする。ちなみに当時官僚を一喝して郡司ファイルと呼ばれる決定的な資料を出させたのは、今ボロカスに叩かれている管首相(当時は厚生大臣)でした。あのときは国民の英雄だったのにね。あるいは「安全神話」のために、今回の原発でもひたすら事実を過小評価して報告するから対策が後手後手に回る。大本営の頃から変わってないです。神話を崇拝する体質が変わらない限り、これからも変わらないでしょう。

 はい、ここまではよくある歴史の設例であり、プレジデントとかダイヤモンドなどに良く載ってるパターンですね。この原理原型をいかに自分の日常生活に落とし込んで活性化させるか、そこがポイントになります。幾つかのケーススタディをしてみましょう。

アップグレード

 例えば「英語の勉強」の場合も、成功パターンの罠があります。何度も書いているように最初はとにかく量ですから、がむしゃらに量をこなす。沢山読み、沢山辞書をひき、沢山喋る。英語を身体に馴染ませていく。それが一定量に達すると、多少のことは結構喋れるようになりますし、読めるようにもなります。「成功」です。うれしいです。が、量を積上げていくに従って、今度は質への配慮が必要になっていきます。「とにかく通じる」というレベルから、より的確に、より豊かに、自分の感情の起伏や意思の強弱にビビットに対応した伸縮自在の英語表現を目指すようになります。こうなると量から質への転換ですから、とにかく量を積上げるという一本調子の勉強方法から、「質の研磨」という方法に転換する必要があります。しかし、これまでそれでやってきたという慣性もついちゃってるし、何よりもそれで上達してきたという快感もプライドもあるから、そこから離れられなくなる。「これでいいや」と小成に安んじてそれ以上伸びなくなったり、やたらボキャブラリは増えるけど、表現はシャープに、深くなっていかない。努力に応じた成果が得られないということになります。

 法律の勉強も、最初はひたすら量。「不真正連帯債務の絶対効」「超過的内心傾向」のような「なんじゃ、そりゃ?」という専門用語の嵐の海をひたすら航海します。次にそれらをアウトプットする段階になります。「共犯の従属性について論ぜよ」というどっから手を付けていいかの分からないような問題を前に、何度も何度も繰り返して答案を書く。頭にある知識を手際よく、短時間にプレゼン処理するという勉強方法になる。やがてそれらしい論文答案が書けるようになり、しまいには教科書を横に見て書いたかのような美しい答案が書けるようになる。しかし、それでは(僕の頃には)受からない。「借りてきた文章」「書き手の顔が見えない」「自分の頭を一回通せ」「光る答案を」と酷評される。かくして、同じようなことを書いても巧まずして自分の個性がにじみ出るような文章を目ざし、勉強方法はまた変わる。どんどん難易度も上がり、また勉強方法や成功パターンは変わっていくわけです。

 つまり、初期の成功パターンは第二期の成功パターンになりえず、常にヴァージョンアップを図っていかねばならない。一定レベルまではいくけど、そこから中々上に上がれない人は、この成功パターンの切り替えが巧く出来ていないのでしょう。これは言うは易く行うは難しで、これまで必死こいてやってきたパターンを変えろというのは、中々出来ることではないです。実際これまでそれで巧くいってきたんだから、手放したくない。惜しい。

 しかし、これは「レベルが上がるとやり方も変わる」ということで比較的分かりやすいし、周囲からのアドバイスもしやすい。もっと厄介なパターンは、同じレベルで全く同じことをやっているにも関わらずパターンが変わることです。

平均値への回帰

 就職でも、家(シェア)探しでも、恋人探しでも、買物でも、最初にわりと簡単にポンと決まってしまうと、あとで苦労します。「なんだ簡単じゃないか」という意識がどうしても抜けないからです。バブル時期に簡単に入社できてしまった人の悲劇ですね。何かを探す場合、平均的に30回に1回くらいの確率で見つかるものを、最初の2〜3回で当たりが来て決まってしまうとそれがその人のスタンダードになります。「そんなもんか」と思う。これが地獄の一丁目。

 平均30回に一回で、一度目にわずか2回目で当りクジをひいたら、二度目には58回目に当たりを引くことになります。それが確率ってものでしょう(2回で60回なんだから)。しかし、最初に簡単に成功しちゃうと、このギャップはかなり厳しいものがあります。もう悪夢のようにやってもやっても成功しない。かなり不愉快な思いもするでしょうし、心もボキボキに折れるでしょうし、自分自身に対する深刻な不安も抱くでしょう。相当に暗鬱な日々が続くことになります。自分ほど不幸な人間はこの世にいないんじゃないかとすら思うかもしれない。しかし、別に不幸でもなんでもなく、平均的なことが平均的に起きているに過ぎない。メチャクチャ普通なんだけど、そうは思えない。こうなると蟻地獄で、そのままガマンしてやってりゃいいものを、あれこれ奇妙なアレンジを施したり、どんどん方法論がズレていく。そうなるとますます成功率は下がる。しまいには神頼みに走ったり、新興宗教にいっちゃったりする。

 なぜそうなるかといえば、最初の成功パターンによって、事実と異なる固定観念が頭に入ってしまうからです。もっと言えば、最初のはただのラッキーパターンであって成功パターンでもなんでもないのだ。だけど結果が良いからすぐに誤解する。「チャッチャと決めればいいのだ」「遅効なるよりも拙速であれ」「いつまでもトライしてても無駄」などと間違った「必勝の戦略」を確立しちゃったりするのですよ。そしてまたそれを後輩に教えたりするのですな。

 そうそう僕も自分が合格者体験談を言うときは、絶対に批判的に聴け、鵜呑みにするなとは言いました。僕は○○はいい方法だと思い、それによって合格したと思ってるけど、それだって大間違いかも知れない。もしかして、そんな馬鹿な方法をやってなければもう一年早く合格していたかも知れないのだ。そしてそれは神のみぞ知る。

 さらに逆のパターンもあるのです。最初運が悪くて58回目にやっと成功した人が、二度目には2回目に成功したような場合です。これはかなり嬉しいですよね。だけど、喜んでるときには必ず足下に落とし穴がある。58回もダメだったのが、わずか2回で成功した!という事実を過大にとらえ、「俺はそれだけ急成長した」と思っちゃうんですよね。まあ、思いたくもなるよね。これも確率論でいう「平均値への回帰」という数学的な現象が起きているだけのことです。別に上手になったわけでも、エラくなったわけでもなく(それもあるかもしれんが)、単純に30回平均に近づいているだけのことです。しかし、そんなことにはついぞ思い至らず、ありもしない「急成長の秘訣」を発見したかのように思いこみ、そう喧伝する。

 ここで分かるのは成功というものがいかに人の冷静な判断を狂わせるか、です。
 だから、「勝って兜の緒を締めよ」とかいうのでしょう。勝っても慢心するなと。実際、スポーツの強豪校などでは、例え勝っても内容が悪かったら、猛烈な反省会をやって、「あのプレイはなんだ!」とクソミソに批判しあい、絶対に慢心しようとしない。だから強いのだろうけど。バンドでもそうですけど、シリアスになればなるほどミーティングでは喧嘩のように罵倒が飛び交う。

 

保守化と多様性の喪失

 初めての海外旅行でどこかのパックツアーに参加したらとても楽しかったとします。この次も行こうと思う。そして人によってここが別れ道になるのですが、前回と同じくパックツアーに申し込む人もいるでしょうし、逆にパックツアーでこれだけ面白かったんだから個人旅行だったらもっと面白いかもと思い、次は個人旅行に挑戦だと進んでいく人もいる。前回のパターンを踏襲するか、それとも新パターンにチャレンジするかです。

 この類例は日常的にも多く見られ、例えば、とある中華料理屋で八宝菜を頼んだらすごく美味しかった。だから次に行ったときも八宝菜を頼むか、今度は違うものを頼むか。最初の恋人が同年代でとても上手くいったので、以後同世代の人とばかり付き合おうとするか、それとも幅広く見ていくか。人材センターに頼んだら良い転職先を紹介して貰ったから、次回も紹介を依頼するか、今度は単独で動いてみるか。

 一つの成功パターンを発見すると、そのパターンを繰り返しがちな人と、常に新パターンを模索する人がいるでしょう。僕のオススメは断然後者です。確かに前者は確実に成功するでしょうし、後者は常に未知の要素がありますからリスキーです。しかし、前者には「もっと素晴らしいものを見逃す」という大きなリスクもあります。中華料理のケースでは、全品目食べてみたら、実は最初に食べた八宝菜が一番美味しくなかったということだってありうるわけです。もちろん八宝菜が一番美味しかったというケースもあり、一概には言えません。しかし後者の場合は展開していく可能性がある。前者のようにそこで止まってしまえば、それ以上良くなることもない。そしてどちらの確率もトントンだとしたら、なおも後者を薦めます。なぜなら、同じものを食べ続ける前者パターンは、回数を重ねるにつれマンネリになり、新鮮な感動が薄らいでいくという摩耗デメリットがあるからです。感動逓減の法則です。

 また、より大きな視座に昇格するという視点もあります。同じ店の違う料理にチャンレンジするだけではなく、他の中華料理屋にも行ってみるとか、中華に限らず今度はブラジル料理に挑戦するとか、そもそも食い道楽はこのくらいにして今度はスポーツをやってみるとか、どんどん広げていくに従って自分の視野や思考パターンも広がっていき、大きく物事が見えてきます。同年代の恋人から、異世代の恋人に広がるにつれ、人間関係の変幻自在な豊かさを感じるでしょうし、やがて世代など数ある個性のうちの一つに過ぎないと思えてくるでしょう。最終的にはこだわらなくなり、もっと大きくて深い視点でつきあうようになる。一人のオーストラリア人に知り合うと「オージーは○○である」と思うが、知り合う数が10人、100人と増えてくると、オーストラリア人という括りは殆ど大した意味は持たなくなり、要はその人の個性であり、自分の個性なのだと思えるようになる。

 「〜は○○に限る!」とか「○○は△△だ」とか断言している人がいますが、本当にそんなに断言できるほどあらゆるパターンを試してみているのだろうか。逆に断言しがちな人ほど経験範囲が狭いような気もします。というか、経験範囲が狭いからこそ気軽に断言出来るのかもしれない。一つの成功は、容易に保守化を招きます。まあ、失敗もトラウマ化すれば「もう二度とイヤだ」という保守化(態度の固定化)を招きますが、失敗は未だトラウマなど分析しやすいけど、成功による固着化はそうとは中々気づきにくいだけに厄介だと思います。

 特に保守化は回数を重ねるに連れ、より堅牢な、亀の甲羅のようにゴリゴリ保守になっていきます。一度の成功で二度目もそうしようと思う人なら、1000回同じパターンで成功したら1001回目もそのパターンで行こうと思うでしょう。これまで地道に勉強を重ね、周囲の足並みに合わせ、それなりの社会的立場に辿り着いた40代の人に、明日からフーテンの寅さんみたいに生きていけといっても無理でしょう。しかし現実は残酷であり、実直なサラリーマンが早期退職を強制されたり、会社が倒産したりするというのは、まさにそういうことでしょう。自分の得意パターンだけやっているうちに人生が終ってくれる保証なんか何処にもない。

 まあ、人の生き方などその人の勝手ですけど、終わり間際になって、「おお、俺の天職はこれだったのか!ああ、しかしもう時間がない」と気づくのは、僕としては避けたいです。死ぬ前日に八宝菜以外にも美味しいものがあることを発見し、ああ、もっと食っておけば良かった!とは思いたくはないです。

思考の固定

 先ほどの保守化と殆ど同じ事なんだけど、成功は確かに良いことなんだろうけど、同時に強力な足枷にもなります。
 「Masterキートン」「飢狼伝」という二つのマンガに期せずして似たようなこと書いてあったのですが、「相手にわざと強力な武器を渡す」という格闘のプロの極意です。不意に強力な武器(刃物とか拳銃)を手にした相手は、その絶対的な有利を活用しようとして、その武器を使おうとします。つまり武器を手にしたら使うしかなくなる。すると、相手の攻撃パターンが決まってきて迎撃しやすくなるという。技量互角なら、フリーハンドで向かい合った方が、どっから何が飛び出してくるか分からないから恐い。しかし、攻撃パターンが読めさえすれば、プロにとってはこれを迎撃することなどたやすい。武器を渡してもお釣りが来るくらいであると。

 頑張って勉強して医者になりました。それはそれでめでたいのですが、その人はもう医者しか出来なくなる。別に出来ないことはないんだけど、何となく心理的に、あるいは社会的にそうなってしまう。その人が医療に従事していてこの上もない充実感を感じているならそれで問題ないですけど、中には何となく馴染めないものを感じる人もいようし、もっと他にやってみたい事が出てきたりする人もいるでしょう。手塚治虫のように医学博士でありながら、別の分野に巨大な才能を持つ人だっているでしょう。あるいはお金が儲かるから医者になりましたといっても、確かに医者は収入には恵まれているけど、ビル・ゲイツのような億万長者になれるかといえばなれない。医師の収入など、金持ちリーグの中に入れば微々たるものです。権力にしても閉ざされた世界内部の「お山の大将」止まりだし、ロックスターのようにキャーキャー言われることもない。他のことがやってみたくなっても、なまじ医師になってしまったら、そう簡単に方向転換がきかない。つまり強力な武器を手にしてしまったから、逆に行動の自由が制限されてしまう。

 成功すればするほど、高収入・高ステイタスになればなるほど制限される。贅沢な悩みといえばそれまでだけど、でもね、実際結構キツいですよ、これは。例えば、皇太子妃の雅子さんを想起してください。ご本人の心情はご本人しか分からず、あれこれ外野が忖度することすら不敬だとは思うのだけど、あれだけの才能と努力と実績のある人が、位階人臣を極め皇族になったといっても、めでたしめでたし、大ハッピーという感じではないでしょう。高いところに登れば登るほど、逆に自由はなくなっていく。

 雅子さんに比べるのは恐縮の至りですけど、僕だって弁護士になって一面では鬱陶しかったもん。医者に比べれば社会的にはかなり自由だけど、会社作っちゃいけないとか、別のビジネスをしてはいけないとか、最近は大分規制もゆるくなったけど、弁護士になったら弁護士以外出来ないって感じです。日本でも別の形でAPLaCみたいなことやろうと思ったこともあったけど(例えば田舎で静かに暮したいという夢をどう実現するかのノウハウ産業とか)、資格が邪魔して出来ない。弁護士のままだと競業禁止義務にひっかかるし、辞めたら辞めたでなんか不祥事を起こして免許剥奪されたかのように受け取るのが日本の社会というものだしね。「うわ、たまらん」と思いました。武器をもってると動きが取れないのですよ。一回海外くらいに行って、そのへんのしがらみを遮断し、別の文脈に乗せないとやりにくい。それにですね、もとを質せば、17-8歳の頃という、社会的にろくに「まだ目も見えてない」時分に決めたこと、また猛勉強をしたといっても高々5年かそこらの期間で取れてしまった資格なんぞに、この先50年も60年も縛られているのは馬鹿馬鹿しいでしょう?冗談じゃないよって。

 そして、これは英語をかなりのレベルに修めた留学・ワーホリの方に申し上げたいのですが、まずやる以上は「英語でメシが食える」というところまでは這い上がってきてください。投下資本は回収しろ。語学くらいノーリスクで成功できる分野は社会には少ないです。ロックバンドで一発当てることを考えたら楽なもんです(^_^)。いろいろな資格試験は、年の試験回数が少ないし、回数制限があったりするし、合格したからといって大してイイコトもないし、逆に社会的身分が固定化したりするし。でも語学というのは、試験も多様で、回数も多いし、別に無くても構わんし、要は実力と営業力があればいい。そしてやればやった分だけ堅実に積み上がり、運の要素が少ないのが語学だから、かなり低リスクだといっていい。医者も弁護士も板前でも最低限使い物になるまで学校時代から勘定すれば軽く10年以上の勉強を要するけど、語学は学校1〜2年、実務1年もやればそこそこのところまでいく。世間の常識からしたら促成栽培に近い(本当の一流のプロを目指せば、他の業種と全く同じだけのハイレベルになりますけど)。だから、やるんだったらしっかりモトを取ってください。絶対取れるし。それにですね、医者や高級官僚が痴漢をやったら新聞に出るけど、単に「英語が上手な人」だけだったら新聞に出ない。つまりは一般人としての自由はキープされている。

 で、ある程度のレベル、そこそこ就職できてメシが食えるところまで行ったら、今度は英語とか海外ということを捨ててください。逆にあなたの首枷になるから。英語「も」出来るという具合に広げていって欲しいです。この世には星の数ほど仕事があり、人生があり、エリアがあります。たまたま英語が出来るようになったからといってそれに囚われないで欲しいです。上にも書いたように語学なんか、土に植えてコンスタントに水をやってればある程度のところまでは行く。だから英語力を活かしてそこそこの収入を得られるようになっても、それは「チューリップの球根を植えたら花が咲いた」程度の出来事が起きたに過ぎない。その成功体験を金科玉条のものにしないでほしいです。世間はもっともっと広く、あなたらしい生き方の旅はまだまだ続きますから。こんなところで足枷を設けてはいけない。

「成功」って何なのさ?

 ところで、成功って何なのでしょうね。
 なにがしか意図する物事を成就すること?でしょうか。

 それは成功しないよりはしたほうがいいですよ。それは絶対にそうでしょう。でも、本質的に考えたら、成功/失敗と区別しうる物事というのは、究極的には「目的」ではなく、「手段」である場合が圧倒的に多いと思います。例えば官僚になって日本を変えるんじゃあ!という青雲の志を持って東大入試に挑む場合、東大合格は一つの成功ですが、それ自体は手段に過ぎない。官僚世界でより権限の大きな地位に就くためには東大を出ていると何かと便利だからという「手段」です。永住権や安定的なビザが欲しいというのも、より自分らしいライフスタイルを築くための地盤を固めるという「手段」に過ぎない。しかし究極的な目的、例えば「幸せになる」とかいうのは、ゴールが見えにくい。入試のようにデジタルに白黒を付けにくく、成功してるのかどうかが分かりにくい。したがって、成功/失敗で論じられるケースというのは、大体において手段的場合が多いと思います。

 ところで「仮設目標」みたいなものもあります。手段も目的もあんまり詰めて考えていないことですね。例えば「金持ちになりたい」とか「女の子にモテたい!」というやつです。金持ちになってどうするの?とか、モテまくって、それでどうするの?というとあんまり考えてない。意地悪な悪魔が出てきて、「よし、お前の希望どおり沢山お金が稼げるようにしてやろう」といって、本当に億単位でお金が稼げるようになったとします。しかし、一日中馬車馬のように働かされ、全然使うヒマがない。で、悪魔が出てきて「誰が使えると言った?「稼ぐ」だけだよん」とケケケと笑うという。金持ちになっても使えなければ意味がない。じゃあ何に使うの?というと考えてない。「えーと、○○にいって特上ステーキ定食を食べて」とやたらイジこかったり、「と、とりあえず貯金かな」とか妙に現実的だったり。女の子にモテるのも、単にキャーキャー言われて、そっから一歩も先に進まなかったら欲求不満が溜まる。それこそ、とっかえひっかえ、よりどりみどり〜と言っても、世の中そんなに甘くない。アフターケアもメンテナンスもいるのだ。大変だぞ。だからこの種の欲求というのは、どうせ実現するわけないと思って、詰めて考えてないのですね。何が目的で何が手段かもいい加減。だから仮設目標。

 でも、仮設であれなんであれ目標に向って進んでいくのは楽しいです。「また一歩野望に近づいた」とグッと拳を固めて、人知れずガッツポーズを取るような快感があります。また夢を見ながら、毎日シコシコと裏庭で素振りをするような時間というのは、結構いいもんです。大変かもしれないけど、でも、楽しいですよ。

 僕もつくづく思いますが、登山と一緒で、結局、あれこれ準備したり、ヒーコラ登ってる最中が一番楽しいのですね。まだ成功も失敗もしていない過程が楽しいのです。何かを目指して走っていく一瞬一瞬が楽しい。デートの時間に合わせてダッシュで公園を走ってるときのような感じ。だとしたら、成功も失敗もヘチマもなく、「やった」というだけで既に果実はゲットできているのですね。その結果なんか、ある意味ではどうでもいいじゃないかと。

 確かに、分かりやすい手段的局面で失敗すると痛いです。「楽しい」なんて全然思えないでしょう。官僚になろうとして入試で失敗すれば、「こんなところでコケてる場合ではない」と手ひどい挫折感を味わうでしょう。しかし、それすらも山あり谷ありの冒険物語の一幕です。「主人公は必ずピンチなる原則」からして、どっかで凹まないといけないのだ。「勝負はまだ途中」とさえ思えたら、それなりにクリアできます。

 本当に問題なのは、最後の最後の山を登ってしまったときです。山頂を踏んでしまったとき。この楽しいゲームが終ってしまったときです。確かに「成功」、それも大成功といっていいんだけど、この虚脱感は何?って。まあ、その瞬間は嬉しいだろうし、その日ぐらいは打ち上げで楽しくやるでしょう。ですが、翌日、翌々日になるにつれ、平熱に戻っていく。以前、四苦八苦してオーストラリアの永住権を取られ、滞在12年の方をインタビューしたときも話しましたが、永住権を取るまでが楽しく、取ってしまった後はなんか平坦。僕も司法試験に受かるまでが楽しく、その後は、言葉は変なのですが、お義理でやってるような感じ。まあ合格しちゃったんだし弁護士やらなきゃね〜って運ばれていく感じ。いや、それなりに必死に仕事はしましたし、すごい充実感はあったのだけど、人生賭けて垂直の崖に宙ぶらりんになっているような感覚はなかった。その方とも意気投合しましたが、まあ永住権取れちゃったし、住まなきゃね〜って感じ。

 だから思うのですよ、「成功」って何なんだろう?って。
 成功まであと一歩というところまできて、ほぼ安泰になったら、もうあとは残務整理みたいになっちゃんですよね。山頂を踏んだ瞬間よりも、むしろ途中の難所を乗り越えた瞬間の方が嬉しい。僕も最終合格した瞬間よりも二次試験の論文試験を受かったときの方が10倍嬉しかったし。なんか成功する瞬間というのは、テープカットみたいに儀式めいて、実はそんなに嬉しくないのだ。まあ、そのときは全力でうれしがってはいるのだけどさ。

 あれこれ考えてみて、「成功」するメリットは何か、成功するとどういう「いいこと」があるのか?というと、これまでの努力が実を結んだということで、節目節目で「ちょっといい気分になれる」ことくらいかなと。むしろ「失敗のデメリットを避けられたこと」という消極的な果実の方が大きいでしょう。何かに失敗して、自己嫌悪になったり、自分を見失ったり、トラウマになって何事にもチャレンジ出来ない負け犬根性が身についたり、、というデメリットからは解放されたという点です。

 栄養分そのものでいえば、冒頭で述べたように失敗の方が遙かに豊かです。そして楽しい。失敗が楽しいなんて言うと妙に思われるかもしれませんが、実際そうですよ。成功するまでの過程こそが楽しいのですし、成功の過程は全て失敗という形で現れるわけです。ベスト8進出!といってもベスト4にはなれなかったんだから失敗っちゃ失敗だし、二次試験突破といっても三次試験で落ちてるんだから失敗です。銀メダルを取っても金メダルは取れなかったんだし。「くそお、今度こそ」でやっていく過程こそが楽しいとしたら、その楽しい過程はすなわち失敗の過程です。失敗を重ねていき最終的に成功に至るわけで、失敗とは「成功しつつある現在進行形」でもあるわけです。で、最後の最後に成功がくるのだけど、もうそのときには形骸化し、儀式化しているという。失敗こそが実質であり、成功は形式です。

 未だかつて人生で何一つ成功したと思えていない人は(実際にはそんなことないのだが)、何でもいいから一つ成功されるといいです。どんな小さな事でもいいから。そして、その過程を仔細に見ていくといいです。成功というのは、それまでの努力が報われたこと、つまり報われる実質は努力という過程であり、成功それ自体はちょっと晴れがましい表彰式に過ぎないのだと。その構造をしっかりつかんでください。

 なぜなら、何かに失敗したからといって、それを必要以上に気にする必要はないし、それによってネガティブな自己評価を下すのはまさに二次災害の愚を犯すことになるからです。結果に結びつかなかったという過程を吟味し、努力が足りなかったならばそれはそれで正当な結果が出ただけのことであり、もっと実力を付ければいいだけのことです。準々決勝には進めたけど準決勝にはいけなかっただけのこと。

 ただし、一つも成功していないと、なかなかそうは思えないのですよね。何をやってもダメな自分みたいに思ってしまう。成功イメージが湧かないから、何をどうやればいいのか分からないし、上手くいくような気がしない。だから一つ何でもいいから成功しておいて、サンプルケースを採取して、仔細に分析研究することです。でも繰り返しになりますが、この文章を読めるくらいの年に達していて「何も成功していない」なんてことないのだ。一人で服も着れたし、日本語覚えたし、自転車も乗れるようになったし、逆上がりもできるようになったでしょうが。成功だらけじゃん。

 逆に成功してしまったときは、気を引き締めてくださいまし。まずやるべきなのは、それが本当に「成功」なのか?です。ただのラッキーとか、確率的現象を成功と勘違いしてないか。次に成功だとわかっても、その成功パターンから距離を置いてください。ちょっとよそよそしく。でないと、これまでさんざん述べたように成功には多くの毒が入ってます。成功、成功で引きずり出して、最後にはドン底に叩き落とすのが意地悪な運命の神様のやり口です。
 
 イメージとしては、スズメを捕らえる仕掛けみたいなやつですね。米粒を適当に撒いておいて、スズメがチュンチュンついばんで、段々近づいてきたら、バタンとカゴを落として捕獲するという。個々の成功は、その米粒に該当するという。恐いです。




文責:田村




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