今週の1枚(2011/03/28)



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Essay 508 : 魚眼レンズの罠  〜同じ字を何度も書いてると字とは思えなくなるのはなぜか

 写真は、Crows Nestの商店街。昼下がりにカフェでぼけーっとしているときに撮影。でも環境意識のせいか、シドニーにもバイクが増えました。



「意味」の解体

 同じ字を何度も書いていたり、じーっと見ていると、段々とそれが「字」に思えず、なにかの図形や記号、ひいては意味のない筆の痕のようにすら思えてきます。そういう経験をなさった方は多いでしょう。

 なぜそうなるのか?

 思うに、じーっと見ているうちに「文字」という意味性が失われていくのでしょう。「意味」というものは、そのもの自体にだけ宿るのではなく、他の多くのものごととの関連によって成り立っています。夜空の星が幾つかのまとまって初めて「星座」という「意味」を持つように。

 ここに○が一つあります。これだけだったらただの白丸ですが、「●●●●●●●●●●●●●●●○」と置いてみると、例えば「紅一点」的な意味を持ったりします。あるいは「連敗ストップ」「スランプ脱出!」という希望の転換点を意味するかもしれません。物事というのは他との関連で意味を持つ場合が多い。

 文字にしても同じ事だと思います。図形がシンプルな平仮名なんか特にそうですが、「し」が平仮名の「し」として認識されるためには、「これは文字なんだ」「これは平仮名なのだ」という「お約束」あってのことです。そういうお約束=意識のフィルターを通してみるから、平仮名の「し」として認識される。しかし、これだけ見てると、段々とそういうお約束を忘れていって、ただの記号のようにも見えてきます。「し」なのかカタカナの「レ」なのか曖昧になり、英語の「L」にも、チェック記号にも似てきたりして、しまいにはただの模様、デザイン、ついには何の意味もない鉛筆による紙の汚損にすら思えてくる。

 このあたりは突っ込み出すと、人間の認知論という心理学や大脳生理学やらの話になりそうですし、哲学的には「意味の解体論」とかになりそうです。ボロがでないうちにこのくらいで止めておくのが無難でしょう。

 ここで僕がピックアップしたい原理らしきものは、一つのことだけ考えていると、知らないうちに他との関連を遮断してしまい、意味性を見失ってしまうことがある、ということです。
 これを、もう少し世俗的に言い直すと、悩み事など、一つのことを突き詰めて考えていると、段々とバランスが崩れてきて物事がよく見えなくなって良くないよということです。さらに世間で良くある言い方に翻訳して言えば、「まあ、あんまり思い詰めるなよ」というです。よく聞くフレーズですが、これって、気休めでも、テキトーななぐさめでもなく、実は鋭い真理を含んでいるんじゃないか。

心の魚眼レンズ 〜自分が自分であること

 大きな試験を前にすると誰でもプレッシャーかかります。僕の場合もそうでした。頭の中はそればっかりになり、試験がものすごく巨大に感じる。人生がガラリと変ってしまい、天国と地獄の分かれ目くらいに感じる。どうかすると「不合格=世界のおわり」にくらいにすら思えてくる。しかし、言うまでもなく、それは錯覚です。「あんまり思い詰めるなよ」です。

 大人になってから思い返せば、あの程度の「小事」に何を取り乱していたかと我ながらクスリと笑えてきたり、いわゆる「青春のほろ苦さ」みたいなものを感じたりもします。ほんと、今になって思えば、別にどの大学に行くとか行かないとか、「大差ねーよな」とか思っちゃいます。司法試験だって、やってるときは命がけな気分だったけど、結局、合格してもオーストラリアに来て、ぜーんぜん関係ない生活をしているわけですからね〜。「あんま関係ねーよな」です。

 まあ、そんな余裕めいたことが言えるのも合格したからこそなのかもしれません。あそこで挫折してたらやっぱり多少は人生も変わったり、人格だって変わっていたかもしれませんよね。

 でも、本当に変わってたのかな?というと実は疑問なんです。

 海外で環境が360度激変するようなこと、前職と全く関連性のない仕事なんだか趣味なんだかみたいなことを十数年もやってきて、それでつくづく思うのは、「結局、俺は俺だろ?」ということです。高校生のときも、弁護士やってるときも、オーストラリアで暮しているときも、自分の部屋のありよう、寝る前に読んだ本がそこらにとっ散らかっている様子とか、着ているものとか、ヘアスタイルとか、ほとんど高校生の頃から変ってないのですよ。てか、主観的には高校の時の自分と同じ。ピシリと四隅が合うくらい同じです。だから、弁護士になるとか海外移住とか、一見すると大きな出来事のようでありながら、「自分が自分であること」に関して言えば、ほとんど微震以下の影響力しかなかった。どこで何をしてようと、自分は自分、それ以外になりようもない。当たり前のことなんだけど、それが段々と腑に落ちてくる。

 試験や就職を前にして大きなプレッシャーに晒されている方、もしダメだったら「俺はどうなってしまうんだああ!」とお悩みの貴兄に率直に申し上げるとしたら、「どーもならんよ」ということです。受かろうが落ちようが、あなたがあなたであることに何の変化もない。1ミリも動かん。そりゃ右に行くか左に行くかで、多少の金回りや他人の視線は変わるかもしれんけど、その程度ですわ。それだって約束されたものでもないし、約束が果される保障もない。どの道に行っても、この先も相変わらず滑った転んだでドタバタやっていかなきゃいかんことは変わらんしね。あなたがあなたであることは変わりようがない、やってることも究極的には変わらん、だから何も変わらんよ。せいぜい舞台が多少違うくらいです。

 そのときはもの凄く巨大に思えるようなことでも、過ぎてみれば「別に大したこたなかったな」になる。そんなことを繰り返していれば、僕のような馬鹿にも少しは法則性らしきものが見えてきます。小さな出来事が大きく映るようなことも少なくなり、過ぎてみれば尚のこと等身大に見えるようになる。道が二つに別れていて、どちらに進むかでメチャクチャ悩む。その挙句にどちらかを選んで進むんだけど、しばらく(ほんの20-30年ほど)歩くとさっきの道といつのまにか合流していて「なあんだ」になる。自分が自分である限り、何をどうやっても結局は自分らしい生き方になっちゃうんですよね。だから大差ないよな、悩んで損した、と(^_^)。

 はい、何の話をしているかといえば、
 第一に、「思い詰めると小さな物が大きく見える」という話です。ある物事だけに過度に集中していると、まるで魚眼レンズで覗いているように、バランスや遠近感が狂って見える。
 第二に、そんなのは「一過性のものに過ぎない」ということです。

 一番恐いのは、このココロの魚眼レンズに騙されて、自分を見失うことです。
 本来が小石程度の物事を、巨岩のように見誤るから、それによって心が激しく動く。試験も落ちたらシリアスな自己嫌悪や無力に苛まれたりするし、受かったら受かったで大したことでもないのに自分をエリートと勘違いする。どちらも危険。かといって「そーだ、別に必死にならなくてもいいよね」と思いこませて手を抜くと、そこで「俺は逃げた」という無意識の呪縛が知らないうちに自分を苛(さいな)む。

 「やりたいことをやる」「ベストを尽す」「頑張りたいから頑張る」と、普通にやってりゃいいものを、ピョンピョン心があっちゃこっちゃに跳ねるから収拾がつかなくなる。これが恐いところです。なんでそうなるの?というと、元をただせば、小石が岩に見えているからでしょう。魚眼レンズで物をみてるから、遠近感や縮尺がメチャクチャになってる。魚眼レンズの眼鏡をかけて車を運転しているようなものです。そりゃあ、いつかは事故るでしょう。

数十年スパン〜数秒スパン

 いきなり全人生スパンで語ってしまいましたが、この魚眼レンズ的なバランス失調は、数十年スパンでもいえるし、逆に数分 or 数秒スパンでも言えます。

 今度はもっと短期スパンの例を挙げます。例えば「歯が痛い」。
 これは強烈ですよね。僕も経験あるけど、シクシク痛くて、夜も眠れないという。もうこうなると歯痛が生活の中心にデーンと鎮座ましまして、巨大なテーマになります。ひいては歯痛こそが我が人生のテーマ、世界の中心くらいに思えてきます。すると、ふとサトリが開け、そうか世の中には二種類の人間がいるんだ、歯が痛い人と、痛くない人だ、、、みたいに。

 読んでて笑ってるかもしれないけど、でも、この種のことは、あなただってやってると思いますよ。もっと例を挙げましょう。

 もっとスパンが短い、数十分とか数分レベルのものもあります。例えば料理を作っていて、なんか知らんけどどーでもいいことに気を取られて、判断を誤るとか。家で皆でスキヤキをやろうと思って買い出しに出かけたけど、シラタキを買うのを忘れてしまい、もうそれが異様に気になってしまい、「シラタキのないスキヤキなんかありえない!(ありえるのだが)」と思いこんで、もう今日のパーティは中止!と叫んだり。女性でもここ一番でお気に入りの服を着ていこうと思ったら、シワが寄ってたり、かすかな汚れに気づいてしまい、「もう、これが着れないなら出席しない!」と叫んだり。勉強しようとしたら、お気に入りのペンが壊れてしまって、「これがないと勉強できない!」という(言い訳だって)。

 数分レベルの物事でいえば、将棋をやってて、ついつい自分の都合ばかり優先して(いかに王手飛車をかけるかとか)大局を見誤り、ボロ負けする。「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がり」って言いますもんね。数秒レベルでいえば、剣道や柔道で、相手の得意技や先入観に心を奪われ、「籠手がくるぞ」「出足払いだ」と思い過ぎて、ミエミエの面や一本背負をスカーッと食らってしまう。一瞬のタメライ、刹那の逡巡。「とらわれるな」「融通無碍」は武道をやってる人ならご存知でしょう。


 まあ、こういう短いスパンで勝負が早くつくのは分かりやすいですが、厄介なのは数年〜十数年もののスパンです。

 僕は子供の頃から目が非常に悪かったので、目がいい人が羨ましかったです。もう目が悪いというだけで水系のスポーツや視力を要する球技はダメだし、分厚いレンズをつけなきゃいけないからルックス的には最悪だし、もう「俺の人生は終った」くらいに思いましたもんね。中坊の頃とかさ。もうそれだけで二級市民というか、準人間というか、「早く人間になりたい」の妖怪人間ベム(知らんよな)になった気分です。コンタクトレンズ一発で解消するのに。で、コンタクトつけたからって、結局人生変わらないんだし。だからもう、ぜーんぶ錯覚。大嘘。

 こんなのいっくらでもあるのですよ。モテる/モテないなんか典型的だし、結婚する/しない、子供いる/いない、就職できた/出来ないで、いちいち「早く人間になりたい症候群」が襲ったりします。こちらに来れば「英語さえ出来るようになれば」と思ってしまう。英語がダメならもう半魚人みたいなもので、早く人間になりたいと思う。はたまた「くそお、永住権さえとれたらなあ」と思う。もうそれさえクリアすれば人生バラ色、クリアできなければドヨヨンの灰色地獄で一生さまようかのように思える。思い過ごしだって。

 このあたりの機微は、過去のエッセイESSAY 464/確認の旅、「なるほど」の旅(別窓)でも述べたところとニアリーですね。激しい願望に突き動かされ、垂直の崖をよじ登り、頂上に達してみたら何もないのに愕然とするやら納得するやら。

 あるいは、よくある「手段の目的化」や、これも過去に書いた「脳の作業性興奮」の話にも通底します。前者は多くを説明する必要はないでしょう。勉強のためにノートを作っているのだけど段々と美しいノートを作り上げることが自己目的化してしまう。幸せになるためにお金を稼いでいたはずなのに、お金を稼ぐこと自体に夢中になってしまう。後者(作業性興奮)は、人間の大脳の特性から説明したもので、何かをやり始めると人の脳というのは興奮しやすく、ムキになる傾向があるということです。ちょっと部屋を片付けるつもりが、やってるうちに「徹底的にやるんだ」と盛り上がってしまうとか、暇つぶしにやってた筈のパズルにムキになってしまい「これをやらないと寝れない」くらいにのめり込んでしまうとか。

 人間というのは囚われやすい生き物であるということですね。ひらたくいえば、すぐムキになる/何のために何をやっているのかすぐに分からなくなる特徴があるということで、気をつけたいものです。


 いずれにせよ、一つのことにとらわれると全体が見えなくなりがちです。
 じーっとそればっか見ていると、それが実際の縮尺を越えて非常に巨大に見えるようになる。心の遠近法とでも言いましょうか、真実のスケールを越えてバランスが歪んでくるのですね。それは多くの場合は「微苦笑を誘う、bitter-sweetな青春のひととき」であるかもしれない。だけど、マイナスを10倍くらいに拡大してみるから、何もかもがダメに思えてしまったり、ヤバい場合には「死に至る病」になるかもしれない。笑ってられるうちはいいけど、笑えない局面もあり、面白い反面、非常に恐くもあります。

致命的な場合〜視野の狭さ

 否応なく何かの事柄に関わってしまい、それゆえに心のバランスが崩れかけるときもあります。例えば重要な宅急便が来ないのでイライラして待ってるときは、それがかなり大きなテーマになります(先週の僕がそうでした。くそお、DHL)。クルマのバッテリーがあがって立ち往生したときも、そればっかり考えます。風邪引いてフラフラなときも、体調こそが最大のテーマになります。でも、これらは比較的短時間で解消しますから、過ぎてしまえば嘘のようにもとの視界に戻ります。

 しかし、ある程度長く続いたり、もともとの視野が狭すぎる場合には悲劇が起きたりします。

 例えば子供です。思い起こせば小学生の頃、家を出て学校に向う途中、給食費を持ってくるのを忘れたことに気づきます。今から取りに帰ったら遅刻して先生に怒られる、大恥をかく、それだけはイヤだ!でも、取りに帰らずそのまま行けば忘れたとして又怒られる。進むも地獄、退くも地獄。前門の虎、後門の狼。いよいよ進退窮まった幼い心に「死んじゃおっかなあ」という気持ちがふとよぎったりします。僕も経験あるのですけど、どうしていいのか分からなくなった挙句に、「失踪」しました。もう学校にも行かず、家にも帰らずという。近くの公園の茂みに潜んで時間を潰し、下校時刻になると何事もなかったように家に帰るという。でもって、クラスメートが給食のパンとか届けに来てバレてしまうという。でも、ドキドキでしたね〜。スリリングでしたわ。会社の帳簿誤魔化して横領して、ドキドキもので日々を過ごしている人の気持ちが今でも少しは分かる気がしますね。

 しかし、まあ、給食費500円かそこらで死なないで良かったと思いますよ。あそこで死んでたら、天国にいったあと死ぬほど(もう死んでるけど)後悔したでしょう。「お前、そんなことで死んだの?」と周囲に呆れられたりして。でもね、給食費はともかく、イジメその他を苦にして自殺する子供とか聞くと胸が痛いです。「あああ」と思ってしまう。大人から見たら、いくらでもやりようはあるし、死ぬことはないのだけど、子供は視野が狭いから絶望してしまう。でも、大人が自殺したときだって同じなんですよね。事情はそれなりに社会的に大きくなっているかもしれないけど、より大きな視点でみれば、「別にそんなことで、、」なんだと思います。

 そういえば、ウィルスなどでパソコンの中身が流出し、エッチな写真がネットに出回ってしまったというような場合、それを苦にして自殺される方がいます。特に若い女性などは生きていく気力すら打ち砕かれるかもしれない。でも、でも、「そんなこと」で死んではいけないと敢えて言いたいです。他人事だと思って軽く言ってると思われるでしょうが、他人事だからこそ分かることもあるし、言わねばならないこともある。それとも何か、「そりゃあ死ぬしかないわなあ」とでも言えばいいのか?万が一、似たような立場の人がこれを読んでるかもしれないから書くけど、エッチ写真ごときどうということはない。皆すぐ忘れる。てか知らん。仮に知られても、それがどうしたというのだ。恥ずかしいかもしれないけど、恥ではない。エッチなんか誰でもやってることなんだから、恥に思うことはないのだ。そんなこと言ったらAV女優さんの立場はどうなるのだ。何ら過ちを犯したわけでもない。恥ずべきなのは、そんなハッキング行為をして他人のプライバシーを覗いた奴なのだ。そいつには何の弁明も通らない。九度死んで地獄に堕ちろです。だから騙されたと思ってあと50年生きてみたらいいです。しわしわのおばあちゃんになってから、判断したらいい。私にもこんなに綺麗なときがあったのよと思えるから。

 ああ、ただ、死にゆく人にはどんな説得も無益かも知れない。自殺を試みる段階で、すでに精神の平衡状態を失い、鬱状態になっているといいます。では何故、平衡状態(バランス)を失い、死に傾くかといえば、一つのことが実際のスケールを越えて巨大に見えてしまうという遠近感のなせる技だと思うのです。ここでも一つのことだけじっと考えていくと、バランスが狂ってくる。

 そして、やはり視野の広さは、場合によっては人命に関わるくらい大事なことなのだ、と強調したくなります。

 なぜかといえば、生きていれば不可避的に陥ってしまう「魚眼レンズの罠」から抜け出すために、それに騙されないためには、視野の広さが最も強力な武器になるからです。小学生の給食費事例でもわかるように、全体の視野が狭かったら、小さなことでも大きく見えたままです。だから視野は常日頃から広くしておくべき。もう絶対そう。

 就職したり、海外に武者修行に出かける最大のメリットは、視野の拡大だと思います。給料やステイタス、英語力なんか本当はオマケ程度の付録に過ぎない。今までの人生からはおよそ考えられないような色々な出来事、人物に出会う。「そんなんアリかよ?」というようなハカクなものに巡り会う。その度に視野が広くなる。そして囚われなくなればなるほど、魚眼レンズに騙されなくなる。

 例えば、僕も仕事柄いろいろなケースを見ましたけど、借金でいえば、最高で個人負債3000億円という人がいました。3000万円じゃないですよ、3000億円です。もうこうなると笑うしかないよねという。一日の利息が幾らだっけな、8000万円だったかな。日給8000万の仕事をしても利息で消えるという。本人も、「もう私がマイケルジャクソンでも無理ですわ、あはは」と笑ってましたね。暴力団にしたって、生命保険かけて殺したところで1億円ぽっちしか入らない。わずか利息1−2日分回収するために殺人リスクを犯すのは損だから手を出さないという。だからよく言われるのですが、借金って一定限度を超えると無いも同じですな。折しもバブル崩壊直後だったら、こういう豪傑君はゴロゴロいました。あんなの見てたら視野は広がるし、考え方は変わりますよ。負債3000億円で笑ってる人がいるなら、3000万円ぽっちで自殺するこたあないし、そもそもゼニカネなんか自殺の理由になりえないです。それこそ意味性をぶっ壊してみれば、ただの紙切れ、ただの数字、ただのお約束。

 これが世界にでていくと、もっと普通に常識ぶっ壊されます。聞いた話だけど世界一周じゃなくて世界6周したおっちゃんとか。ある人はブルガリア人の親友が出来て、こいつが行動力あふれる奴で、とある田舎町にいったら、いきなり本国に貯めてあった貯金をはたいて中古家具屋を買って、半年くらい操業して、「詰まらん」とかいってまた売り飛ばして、でもその街で知り合った娘と二人でオンボロ車で放浪をはじめる。「あと5年か10年は世界中を見て回るつもりさ。どこが一番住み心地がいいか見ないとわからないだろ?いいところがあったら落ち着くよ」で地球単位で「自分の居場所」探しに10年かけるとケラケラ笑ってたそうです。あるNZ人はITバブルの頃に大学時代から会社を興して、アメリカに渡り、たちまちのうちに成功して自社ビルぶったてるまでいったけど、入国時の書類がダメだったとからとかで不法滞在者として財産全部没収された上で強制退去させられたそうな。でも本人はケロリとしていて「またやりゃいいじゃん」と呑気なもの。その時点で未だ25歳かそこらだという。あるいは昔CNNのトピックを見てたら「世界で一番不幸な男」というのがあって、刻苦勉励して学校を出て起業、成功したと思った瞬間思わぬ不幸な事故で潰れる。以後その繰り返しで、破産すること7回。全然メゲずにまた大成功し、これも自社ビルを建てるとこまでいったと思ったらロサンゼルス大地震で全てパー。本人にインタビューしたら、「いや、もう慣れっこだよ」とニコニコしていたという。

 こんな奴らが本当に世界にはいるのだ。実は日本にも結構いるし、オーストラリアにもゴロゴロいるのだ。生粋のオージーだって、あるいはこっちに生まれ育った日本人の若者だって、高校卒業したら当たり前のように世界一周にでたりする。こちらはビジネスの売買が盛んだから、3年に一回だけ潰れかけたカフェを買って、半年から一年思いっきり働いて繁昌させ、資産価値を増やしてから転売し、その金でまた3年間ヨット三昧で遊んでいるオージーの話も先日聞いたぞ。10年ごとにいきなり仕事を変えている人、それも超エリートのトレーダーからいきなりイタリア料理のシェフ(転身当時はド素人)になったり、激しく変わる人もいる。理由は「飽きた」。とにかく「お前、人生舐めてるんか?」と絶句するくらい自由奔放に生きている人がうじゃうじゃいる。金がないとか破産というのは、「パチンコに負けた」位のありふれたイベントに過ぎないんじゃないかと思えるくらいです。


 視野は広げてください。オススメです。いいことあります。小さなことが小さいと正しく分かります。もう、それだけでも全然違う。

 ある人が自殺するほど苦にする出来事も、他の人にとっては「よくあること」で鼻歌混じりにこなしてしまう。あなたにとっては「死ぬしかない」ような出来事でも、他の人にとっては「給食費」程度のことにしか感じられない。その差は何処にあるのか?といえば、これまで書いてきたように、視野の差でしょう。狭い視野で、一つのことだけ思い詰めるから「些細なこと」が巨大に見え、ココロが動揺し、最悪の場合には命すら奪う。


 ということで、魚眼レンズの罠に落ちて、物事の本当のありようが見えなくなったら勿体ないです。思い詰めすぎて、視界のバランスが崩れ、本当の意味を見失わないように。文字が文字に思えなくなるように、家族が家族に思えない、人間が人間に思えない、命が命に思えなくならないように。そして何より、自分が自分に思えなくならないように。




文責:田村




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