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今週の1枚(2011/03/14)



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Essay 506 : 意地でも「自粛」しないパワーノーマル  〜東日本大地震を受けて

 写真は、NorthのBalls HeadからBalmain(対岸)を望む。



パワーノーマルこそ最大の貢献

 先週金曜日の東日本大震災のニュースがネットでも、あるいはオーストラリアのメディアでも刻々と流れています。本当に刻々と変わるので、ついつい見てしまい、また今の自分に何が出来るわけでもないのについ気が急いてしまい、のんびりこんなエッセイなんか書く気にならなかったりするのですが。しかし、それでも敢えて書きます。というのは、被害や救済に直接関係していない立場の人間にとって、最大の貢献はいつもと同じように「ノーマルにやること」だと思うからです。それが一番被災者の援助になるのだと。

 現在も広範囲にわたって多くの人々が大変な思いをされています。しかし、尚、日本全体でいえば、ごくごく局所的なものです。12日(日)朝現在で死亡者・行方不明者数1700人と発表されていますが、今後も増え続け、もしかしたら万のオーダーに乗るかも知れない。しかしそれとて1億2800万人中の1万人、1280分の1です。0.1%にも満たない。今後なすべきは99.9%の力で0.1%を救うことでしょう。こんなことが出来ないわけはない。また、死亡ではなく負傷されたとか、家を流出した等の被災者の数はこの数十倍以上になるでしょうが、100倍だとしても17万人、仮に被災者が100万人にのぼったとしても尚も128分の1です。

 何が言いたいかというと、ここで残りの99が浮き足立ってしまって、本来の99のパワーを発揮できなかったら、救えるものも救えなくなってしまうということです。ただでさえ今の日本は経済的にも生計的にも青息吐息で、99が自らの99を養うことすら覚束ない状態であり、ここで腰が引けてパワーダウンしたら、1%と言えども手が廻らなくなる。助けたかったら、平常99を100にパワーアップして余剰の1を生み出すことです。ほんのちょっとでもいいからいつも以上にノーマルな日々を充実させること、いわばパワー・ノーマルともいうべき態度が求められているのではないかと思うわけです。

 起きてしまったことの原因究明は賢い人達にゆっくり研究してもらおう。現場のことは、僕なんかよりも遙かに優秀で忍耐強い人達の不眠不休の努力に任せ、深い敬意を抱こう。行政その他の批判は後で資料がしっかり固まってからゆっくり緻密にやろう。この件に関して特にやるべきことがある人は、それぞれの分野で既に猛烈にやっているでしょう。今取りたてて何もやることがない「後詰め部隊」である僕らの貢献は、彼らの「邪魔をしないこと」だと思います。野次馬が集まりすぎて消火活動が妨げられ、救える人も救えなくなってしまった、、などという愚かしい事態を避けること。それが第一でしょう。

 第二に、自分の「持ち場」をしっかり守ること、自分の日々の生活をしっかり充実させることでしょう。1%といえども被災エリアの大きさや経済的ダメージはハンパではない。精神的な衝撃もまたエリアを越えて伝播するでしょう。身体の一部分を怪我したようなもので、必要なのは血液であり、栄養です。つまりこれから猛烈にお金が足りなくなる、そして幸福が足りなくなる。皆のお金、皆の元気を100分の1づつ出し合って損傷箇所に集中させていかねばならない。もちろん直接的には義援金その他の寄付もいいでしょう。腕に覚えとノウハウがあり、現場にいっても足手まといにならない人は現地に行けばいいかもしれない。しかし、それより何より、いつもよりも日常をしっかりこなし、被災地に回せる余剰分の経済と元気を生み出すことが最も大事なことだと思います。

 ということで3月の卒業シーズンで謝恩会や卒業パーティーを予定している人は構わずガンガンやって欲しいなと思います。ここで妙に「自粛」ムードが広がり、取りやめが相次いだら経済が沈滞します。会場予定だったホテルやレストラン、居酒屋さんの売り上げが落ちます。そうなるとそこで働いているバイト君がクビになっちゃうかもしれない。そしてそのバイト君の故郷は岩手県で、被災した親戚の子を呼び寄せて一生懸命養わないとならない立場にあるかもしれないのだ。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果連鎖が数千万という単位で複雑にからみあっているのが経済です。景気とはすなわち「金遣いの荒さ」であり、特にこのような内需においてはそうです。こういう天変地異があると不安が広がり、逆に財布の紐も固くなりがちですが、日本全国で皆がそれをやったら日本の景気はまた一段と冷え込む。やっと今年に入ってから回復基調に乗り始めた日本経済が又しても腰折れしてしまう。その累積効果は計り知れないのだ。だからこそ、「いつもよりも1%金遣いを荒くする」ということが、僕らに課せられた「戦い」なのかもしれない。でも、ほんと、皆が1%余計に使ったら経済成長率1%になるんだから(まあ、そんな単純なものではないが原理としては)。

 ともすれば呑気に飲み会やったり、観劇やら旅行に行くと、「この非常時に不謹慎だ」という向きがあります。被災者の大変さを想う心情は尊いし、理解できます。しかし、敢えて言えば、事はそんな生やさしいレベルではないのだ。悲痛な、厳粛な顔をしてお悔やみを述べても、流された家は帰ってこない。今必要なのは物心両面のうちに、とくに「物」です。ずっと前に「同情するなら金をくれ」といって物議を醸したCFがありましたが、実際に物理的にハードな立場にある人にとって欲しいものは物資であり、ぶっちゃけた話、お金です。資金です。個々の寄付金に込められた想いは尊かろうとも、到底それだけでは賄えない。数兆単位のお金がいる。最も実現可能で最速な復興資金捻出方法は、経済を廻していくという王道です。腐っても鯛の日本のGDPは500兆円、1%増えただけでも5兆円になる。

 というわけで、今この瞬間からでも出来る貢献は、仕事においては、もう意地でも平常通り営業すること。だから僕も速報を見るのを止めてこうやって書いてるわけですけど、月曜日に出社されたあなたは、いつもに比べて101%頑張っちゃってください。まあ、職場でも地震の話題で持ちきりになるでしょうけど、それは別にいいのだけど、ちゃんと仕事はする、と。「いつもよりも多く(経済を)廻しています」状態にする。

 また、仕事以外、例えば何かの勉強をしている人は、しっかり勉強してください。なにかの練習をしている人は、ちゃんと練習しましょう。旅先の人はしっかり見聞・体験してきてください。まずは自分が、1ミリでも1ミクロンでも、より賢く、より強く、より上手になって、より「使える人材」になってください。日本と世界が使えるアナタを待ってます。地震や災害はこれからでも星の数ほど起きるでしょう。いつの日かあなたが現場のリーダー格として皆を励まさねばならないときが来るでしょう。またどこかで頑張っているあなたの姿を見て、多くの人が元気を貰うでしょう。戦後だって(リアルタイムでは知らないけど)、打ちひしがれた日本人を美空ひばりと力道山がどれだけ励ましたか、その効果は計り知れないといいます。どんな分野でも良いのです。世のため、人のために強くなって下さい。

 実際、すげー奴らがゴロゴロしている国はちょっとやそっとじゃコケません。でもヘタレばっかりの国はすぐポシャります。だから、まずは自分がすげー奴になってください。被災者や日本に対して何ほどか思うところがあるなら、それが一番の貢献だと僕は思う。だって、そこらへんの普通の奴が凄かったら、それって最強でしょ。一人の英雄が何でも仕切ってる国は、そいつが倒れたらそれで終わりだけど、普通の人が普通に凄かったら、皆殺しにでもしない限りその国は滅びない。一握りでも生き残ったら再生する。そしてその「最強普通」こそが、日本の本当の底力だと思います。常々書いてることだし、今回も世界中のメディアから奇跡レベルに賞賛されていることでもあります。

幾つか思うこと

   以下、散発的に思ったことを書いておきます。

被災状況をリアルに推測すること

 1995年の阪神大震災については、僕もリアルタイムで体験しています。でも「被災」なんかしてません。思いっきり被災したのはカミさんの方で閉じこめられたマンションの自室から脱出出来なかったそうですが、当時大阪市にいた僕は、被害といっても大型テレビがごろんと落ちたのと、寝ているところ本棚の書籍の雪崩によって埋まってしまったくらいです。今でも覚えてますが、朝5時46分の最初の一撃でいきなり起こされた僕の視界に入ってきたのは、空中を落下してくる書籍(それもクソ重たい百科事典みたいな書式集類)でした。びっくりしたな〜。しかし、こんなのは被災でも被害でもないです。30分で「復旧」です。

 何が言いたいかというと、まず第一に、被災の状況というのはかなりきめ細かく見ていかないと外すということです。神戸は戦場のように悲惨なことになってましたが、大阪市内はほとんど無傷(但し高槻市など神戸と京都を結ぶ線分上のエリアは被害アリ)。大阪市がピンシャンしてるということが、なんか東京あたりの人には通じなくて、何回説明しても「大阪は大変でしたね」「だから、大変じゃないって!全然普通だって!」と。大阪を気にしてくれる余裕があるなら神戸に集中してくれいって。しかし、このあたりの感覚は自分で体験しないと分かりにくいのでしょうね。

 他にも「深刻な被害ほど後になって判明する」という教訓も得ました。一番最初の被害報道は和歌山県で自宅の庭でお年寄りが転んで怪我をしたというものでした。「なんだその程度の地震だったのか」としばらくマジにそう思ってましたもん。というか、その日は神戸の中華街で晩飯を食べる約束があって、その相手と「神戸はダメそうだね、京都にしようか」とかいって京都で一杯のんびり飲んでいたという。震災当日にですよ。被災地の現実なんかそんなもんです。ちょっと離れたら何事もなかったかのようになる。

 マスコミ報道というのは、災害報道の性質上、またTVで「絵になる」という特質上、撮影可能でもっとも被害が凄そうなところばかり映します。では映ってないところ、報道されていないところはどうなのかといえば、そこは視聴者が自分の理屈や想像で埋めないとならないわけですが、その感覚が中々難しい。

 その意味でいえば、今の日本でその練習機会が一番少ないのはもしかしたら東京じゃないかなと、ちょっと思ってしまった。
 ここ20-30年の地震は、北海道、東北、日本海側、そして沖縄に多く起きています。今回の「三陸沖」などはもう常連といってもいい。現に今回の2日前の3月9日にも三陸沖で地震がM7.3で起きているように、宮城、岩手、三陸あたりは頻発しています。また、北海道も多く、十勝沖は一昨年(M7.1)、03年(M8.0)、あと68年、64年にも起きています。その他釧路、奥尻町など、とにかく北海道と東北には頻発してます。また新潟など日本海側も多く、記憶に新しいところでは2004年の新潟(震度7)があるし、鳥取、能登でもあります。沖縄も福岡もあります。関東の場合、千葉沖でちょこちょこあり、また駿河湾や伊豆群発地震もあって千葉・神奈川はそれなりに被災慣れしているけど、東京自体には大した被害がない。また、西南日本は、地震ではなく台風という自然災害の洗礼を毎年浴びてますし、北日本では白い悪魔の豪雪被害がある。東京以外の日本人は、なんだかんだで大災害を経験しているし、それは不幸なことでもあるのだけど、貴重な経験機会でもあった。東京は、日本で最もラッキーな場所なのかもしれないが、それがゆえに経験機会が少ない。

 かくいう僕も東京生まれの東京育ちで、70年代の大地震ブーム(そんなのがあった、漫画でも「バイオレンスジャック」や「サバイバル」など多数ある)を経ているので、地震に関する知識は相当仕入れた方です。けど、実際に大自然の被害に遭うと具体的に何がどうなるのかというのは、神戸地震で初めて分かった。予想していたのと全然違った。やっぱり体験する、しないは大きいんだなとおもった。

 例えば、今回も11日発生日に、どこかの優秀な中学生がiPhoneでNHKのTV報道画面をユーストリームで流していてくれるのを見てましたが、やってるのは「東京は鉄道が全部停まって帰宅できない人達があふれている」という類の事ばかり。なんか見てて、「そうじゃないだろ」という在京マスコミのピントのずれ方に違和感を抱きました。震源地が特定出来た時点で、この地震は宮城・岩手・福島地震、いわゆる三陸沖地震系だというのはすぐにも分かるし、そこをこそ知りたい。東京は幸運にも被災地になることから免れているにも関わらず、新宿駅あたりから「現場からお伝えしました」と言ってたりして、それって「現場」なんか?という。

 これまでの被災教訓を生かせば、本当にハードな被害は三陸エリアにある筈だし、ハードすぎて情報すらあがってこない、幸いなことに東京は電車が止まって帰れない程度のことで済んでいるけど、、、というトーンになっても良いはずなのに、あたかも東京が被災地であるかのような集中報道に辟易としました。そりゃ、ま、絶対人口数、困ってる人の数でいえば、首都圏で帰れない人の数の方が遙かに大きいだろうし、とりあえず手近から報道するのも悪くはないですよ。また、阪神大震災のときに冷静にニュースを読み上げたNHKのアナウンサーさんと個人的にお話したこともありますが、大命題は「パニック防止」で、ここでも「いかにノーマルに徹するか」の勝負だったそうです。だから、情報が揃ってない時点で、やたら憶測でハードな被害をいうのは避け、淡々と手近な状況を報道するのだ、というのもよく分かります。

 分かるんだけど、日本の中枢は東京にあるわけで、一番潰れて困るところが一番被害慣れしてないというのはいいのか?とか思ってしまった。なんせ指揮命令を下すのは中枢東京なわけで、万が一にもその種の感覚のズレがあったら、太平洋戦争の大本営みたいになっちゃうぞとか余計なことまで心配してしまったのでした。かといって、東京にドカンと来て貰ったらそれこそ日本がヤバいわけですし、じゃあ手頃な「練習台」がくればいいのかというとそれも違うような気がするし、痛し痒しです。

 じゃあどうすんの?といえば、色々な現場を知ってる人々がリアルな体験を寄せ合うしかないのかなと思います。つまり「こんなにすごかった」という耳に入りやすい情報だけではなく、同じくらい重要なのが「こんなに平気だった、すごくなかった」という情報です。そうやってバランスを取ってリアルに見ていく癖をつける。何もかも一緒くたにして悲惨一色に塗りつぶしてしまったら、真にリアルに有効なピンポイントな手が打てなくなってしまう。戦争でも事故でも不幸な犠牲者はおられるのですが、やっぱ尊い犠牲を無駄にしないこと、起きてしまったことから最大限学ぶべきものは学ぶこと、少しでも僕らが賢くなることではないか。それが最大の追悼になろうかと。

阪神大震災との違い

 既に皆さんご承知かとは思いますが、今回の地震と阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)とでは、何から何まで違うなと思います。阪神大震災は地震そのものはM7.3程度でした。マグニチュードが1違うとエネルギーが10倍違うそうだから、今回の8.8(後に9に修正)の180分の1(以下)と言われるくらい小さな地震であった。しかし、なぜ死者6500人弱に達する大震災になったかというと、震源地が神戸と淡路島の間という直近であり、深度が10キロと浅かったからです。だから至近距離にあった淡路と神戸や明石周辺では大災害になったけど、20数キロ離れた大阪市は何もなかった。今回の東日本大震災の場合は、震源地が宮城県沖130キロと遠いけど、複合震源でエネルギーはM8.8(→9) とマンモス級だった。つまり、神戸が「小さくて近い地震」だったのに対し、今回のものは「大きくて遠い」地震だということです。大きくて遠いだけに影響力の及ぶ範囲も広くなる。

 これが今後の救援や復旧に大きな差になって現れてくると思います。確かに阪神の場合、神戸という住宅も人口も密集していた大都市で起きたから被害も膨大なものになった。しかし被害範囲が比較的限定されていたので、普及も救援も集中的に出来た。また神戸という立地は四方八方からアクセス可能であり、直近に大阪という無傷の大都市があった。さらに、もともとが瀬戸内海という内海なので津波被害も殆どなかったので海上からの救援活動も可能でした(当初は港湾施設の破壊で接舷できなかったけど、すぐに応急措置が施された)。被害が比較的集中していたので復旧も集中的に出来た。

 ところが今回の場合は、被害エリアがべらぼうに広い。もっぱら海岸線の津波被害がメインだとは言え、その海岸線が長い。Google Mapで計って見たところ、南の福島県南相馬あたりから北の青森県八戸あたりまで道路距離で約500キロ弱、走行時間11時間弱とでました。つまりは東京から大阪くらいの距離が全部被災地の可能性があると。しかもまたアクセスが悪い。リアス式で有名な陸中海岸なだけに道路も頻繁に海岸に接しており、道路被害も激しいでしょう。鉄道は気仙沼線、南リアス線、山田線、北リアス線という、もう知ってる人しか知らないような(僕も知らない)ローカル線で、時刻表で見たら1時間に一本です。しかも鉄道もちょこちょこ海岸線に接しておりこの被害も予想される。一方、盛岡など内陸部からのアクセスは、これがまた北上山地という山塊に遮断され、いずれもどっかで峠越えをしなくてはならない。バイクのツーリングには良いかも知れないが物資輸送には厳しい。

 海岸線沿いに被害が広がっているのだから、海から救援すれば良さそうなものですが、いつ余震で大津波がやってくるか分からないから、迂闊に近づけないという。また近づいたところで接舷できるか?という問題もある。その意味で米国軍の空母などの協力は、素直にありがたいです。あのくらい頑丈に大きかったら多少の津波にも耐えるだろうし、何よりも救援基地になりうるというのが強い。近くまでいってそこからへりを飛ばしてピストン輸送をするなど有用性は極めて高い。海に囲まれている日本の場合、ああいう巨大な海上移動救援基地船みたいなものを作っても良いのではないかと思ってしまった。

 それはともかく、範囲が非常に広いうえにアクセスが悪いことから、正確な被害状況もなかなか上がってきません。大船渡、釜石、宮古くらいまでは報道されているけど、宮古と久慈市、八戸の間くらいになるとポチポチくらいにしか伝わってこない。でも地図で見ると、田老、小本、鳥越、田野畑、普代、白井海岸、堀内、野田玉川、陸中野田、久慈、夏井、中野、有家、八木、、、などなど、海岸に面した集落はいくらでもあります。徐々に震源地から遠ざかっているから被害も多少は逓減しているのではと希望的には思うのだけど。

 と書いてたら、13日の14時の報道では、大槌町という釜石と宮古を結ぶ集落では、町長をはじめ1万人が行方不明になっているそうです。ライフラインは全滅、生き残った人も二日間ろくに食べてないし、JR山田線上の橋は落下してしまったらしいです。それでも地元のお医者さんは懐中電灯で診察を続けているとか。おそらくは、この種の被害=ハードすぎて実情すらよく分からない遠隔エリアの救済が今後の焦点になっていくでしょうし、これから数日してから本当の被害の全貌が見えてくるでしょう。途方もない数字になるような気もしますが。

 

今後の復旧

 直近では、何を措いても被災者の救援。水、食糧、医療がありさえすれば助かる命は極力助ける。神戸のように至便な場所でさえ、尼崎の被災エリアに入った途端に道路は使いものにならず、瓦礫を避けてポリタンクの水を原チャリで運ぶとか、延々歩くという原始的な方法になってしまい、避難所のトイレも水で流せない状況でした。今回は500キロの海岸線、平時ですらアクセスが険しいエリアですから、個々人の努力でどうなるレベルでもない。現場ではヘリが欲しいでしょう。もう何千機あってもいいという。あとは内陸からの峠道の調査でしょうが、そのあたりになると僕がどういう言う話ではないでしょう。現場の方々に声援を送るしかないです。

 現場といえば、神戸のときも、さすが日本の現場は大したものだと思いました。それぞれの分野でそれぞれが頑張るわけですが、司法部門でも大阪弁護士会では徹夜の突貫作業で震災時の法律相談のマニュアルを作り上げ、会員にFAXで配布する一方、法務省でも徹夜作業で緊急時の法令整備がなされ、これも間髪入れず被災地周辺の弁護士会に配布されました。今回も既に全銀協などで実行されてますが、震災時以降に手形の満期が来るような場合に不渡りにするか?とか、一般契約の返済日についてどうするのか、公訴時効や民事時効は進行するのかとか、日本で数千ある全ての法律、条例、政令群の条文を人力でスキャン検討し、適切な解釈と緊急立法をするという。

 弁護士会で無料電話法律相談ホットラインを設置し、僕も「○日○時お願いします」で参加しました。また、被災地の無料法律相談にも出かけました。「現場」の端っこに参加させて貰った感想でいえば、日本の現場はやっぱすごいわということです。電話帳一冊を一晩で全部読めみたいな無茶苦茶なタスクでも完璧にこなすし、資料とエッセンス説明だけでも現場のプロ達はそれを正確に理解し、的確に実行に移す。神戸地震の2か月後に地下鉄サリン事件が起きましたが、あのときも中毒がサリンによるものといち早く看破した人が、そのことと治療法を合わせて現場に連絡し、粛々と現場ではそれを実行していますし。今回も同じように電気、ガス、道路、港湾、医療、種々の行政、金融、、、さまざまの領域のプロ達がやっていることでしょう。ボランティアについてもしかりで、ボランティア元年の神戸以来、数々の活動を経て磨かれてきた各ボランティア団体は、それ自体がプロの領域に達しているところも多いでしょう。

 だから、もう現場のことは現場に任せるしかないと思ってます。この種の現場というのは本当に殺気立ってるし、誰もが必死で走り回っているでしょう。サボってる奴なんか基本的にそんなに居ないと思うけどな。たとえ外野から見たら物事が進まず、チンタラやってるように見えたとしても、進まないのは進まないだけの現場の理由があるのだと。被害戸数の詳細が不明とかいっても、あの津波で流された映像現場に立って、正確に何軒流失したか数えろなんかできっこないです。それでも曲がりなりにもある程度の数字が上がってきているのだから、大したものだと思いますよ、ほんとに。なお、福島県の原発については、それこそあまりにも専門的すぎるので、今の段階で素人があれこれ言うことではないと思うので割愛します。溶融とか、メルトダウンとか、本当の知識もないのに専門用語だけが一人歩きしてもいいことないですし。

 中期的には、やっぱり日本経済でしょう。冒頭で述べたように、全体比率で言えば指一本分の怪我くらいに過ぎないけど、それでも指を怪我したら全身の動きが不活発になるように、日本本体の動きが鈍くなるでしょう。しかし、これも繰り返しになりますが、ここでまた経済がズルズルと後退したら、救えるものも救えなくなるし、招かなくてもよい二次、三次のダメージを招く。

 これまでの地元の企業誘致の努力や、各企業が新興生産拠点にしてきた結果、被災エリアにも多くの工場や企業が操業していました。今回のことで、被災地にある工場との連携が取れずに部品調達や組立てなど生産や流通など全体的に動きが止まってしまう形で波及しています。例えば日産は5つの工場の操業を止めていますし、トヨタは子会社の工場が岩手と宮城にあり、14日は全国的に操業を停止することを発表しています。ソニーは6つ、キャノンは7カ所の生産拠点があります。新日鉄は釜石、日本製紙は宮城と福島で操業を止めています。キリンもサッポロも仙台に工場がある、、と箇条書きしていてもキリがないのですが、復旧の目処と操業と流通の再編が待たれるところです。

 道路網や鉄道ネットワークが寸断され、しかも原発などで電力供給に不安が生じ、さらに余震や連動地震が懸念される現在、日本経済が大きな影響を受けるのは避けがたいでしょう。しかし、これで長期的な影響を及ぼすのか、一過性のものとしてクリアするかは今後のやり方次第だと思います。ここでネガティブな話ばっかり持ち寄って皆でダメダメ言ってると、さらに消費心理が冷え込んで、余計に傷口が拡大します。リーマンショックのときだって、実体的には殆ど大したことなかったのに、皆でダメダメ言ってて本当にダメにしてしまった教訓を生かし(教訓になってるかどうかも疑問だが)、こんなときだからこそ強気にいかなきゃと思うのでした。

 その意味では、お店もですね、棚が半分空っぽでも営業して欲しいです。無理は百も承知だけど。でも閉店ばっかりだと気力も萎えるし、ムードも暗くなる。その意味で、13日の午前から営業を再開した青森の百貨店、緊急物資を輸送しようというコンビニ各社はエラいと思います。

 実際、神戸のときも、まさかあんなに早く復興するとは思わなかったですよ、現地人の実感としては。ビルがぶっ倒れて、高速道路がジェットコースターになってた現場を見てる人間としては、あと10年はダメかなと思ったのですが、何のことはない2年もしたら「地震、あったの?」というところまで復興した。復興したどころか、いつのまにかちゃっかり沖合に空港まで作ってる。勿論、経済や精神の深いところで爪痕は残りますし、永久に残るでしょうけど、復興というのはダンドリと資材・資金が調えば、何となく思ってるよりもずっと迅速に出来る。

 また、尊い被害も出したけど、神戸地震で学んだことも数え切れないくらいあったし、それが今回の地震被害の最小化にも役に立っている。ボランティも市民権を得て広がったし、マイナスばかりではない。冷静に考えて、トータルで言えばプラスの方が大きいかも知れないのだ。それに、これも「不謹慎」呼ばわりされるのを恐れてのことかと思うけど、復興需要、復興景気というのも確かにあった。特にバブル崩壊後でへなへなになっていた土木建築業については追い風になった。今回だって、不況が一番厳しい建築土木業界にとってはいい需要になります。不謹慎とか言ってないで、「いい話」もガンガンすべきだと思うのでした。

 今回は神戸と比較にならないくらい広範囲だけど、一方では復興といっても、神戸のような稠密な都市を再構築するほど複雑なものではないでしょう。また神戸のような直下型は建物の基礎構造にダメージがくるから、パッと見た目は無事でも実は建て替えが必要だったりして、専門家が一軒一軒歩いて調査しなければならなかった。つまり被害の確定がえらく複雑で、それがゆえに大丈夫そうに見える自宅でも恐くて住めないという事態が生じた。その点、今回は地震というよりも津波という比較的シンプルな横方向の衝撃であること。余震が収まり、海上輸送もコンスタントに出来るようになれば、日本の土木建設技術&パワーからしたら、復興はそれほど難問というわけでもないと思う。おそらく一番複雑で厄介な建造物は原発でしょう。

 いずれにせよそれをやるにはお金がいる。それも莫大にいる。個々の善意の寄付では賄えないくらいの資金がいるけど、だからこそ経済という車輪を廻さねばならない。ということで冒頭に戻る。

 でも、本当に必要で、本当に考えねばならないのは長期的な問題でしょう。もう皆の記憶も薄れた1年後とか3年後。仙台のように本来がパワフルな都市についてはそれほど心配してないですけど、気になるのは名前も知らないような陸中海岸の町々です。もともとがお年寄りが多く、限界集落のようになっていたエリアもあるでしょうから、これを機に町そのものが廃れてしまうとか。また、今回泥縄で調べて分かったのですが岩手県の場合も「南北問題」があるそうで、県南と県北とで所得格差が広がっているらしいです。もともとそんなに豊かでないエリアにシビアなダメージがきたわけで、そこが気になります。神戸のときも、一番恵まれてない層が一番厳しい思いをしたし。

 流された家が再築されても、一見もっともらしく町が再生しても、それではまだ復興にならない。被災者の生活基盤や人生設計、被災地の産業基盤や構造が豊かに充実して、はじめて復興になるのだと思う。これを機会に町や人生がリセットされ、リニューアルされ、さらにパワーアップするような青写真を描けるか、実行できるかです。例えば三陸沖(三陸ばっかで悪いのですけど)は、日本屈指の漁場でありサンマが有名だとか、ワカメの養殖では国内70%のシェアを誇るとか。いずれ再興したら全国各地のデパートの海産物フェアで、鮭のちゃんちゃん焼を振る舞ったりして、それをメディアや流通がちょっとでも融通してあげるとか。また、観光においても、今回Google Mapの衛星写真をズームして見て廻ったら、アクセスが不便なだけに「あ、行ってみたい」という秘境的なエリアが多いのですね。かなり魅力的。

 なんというのかな、被災地というイメージは、長期的には地元にとってあんまり有り難いものではないでしょう。それよりもっとポジティブな感じで再生していけないもんかな?と。話が大袈裟になるかも知れないけど、もっともっと日本の地方をズームアップして、もともと魅力に溢れたところなんだから、それを正しく世間に広めることは出来ないものか。日本は国土面積の3%しかない大都市圏に総人口の70%が住むという無駄な国土の使い方をやってるんだから、この気に四方八方に皆がバラけて、日本人にとってのニューライフスタイルみたいな感じで展開していけんもんかなと。ボランティアにおいても、緊急時の戦場タイプだけではなく、グラミン銀行みたいに金融系のものもあるのだし。だから、「禍転じて福となす」というけど本当にそうで、被災地を助けるという視点からさらにパンして、この機会に日本をもっと楽しくするみたいな感じで取り組めないものかなとか思ったりします。そういう生産的な議論の方が、被害額がどうのとかいう話よりも、明日の希望につながっていき、本当の意味での復興につながるのではないかと。


 そうだ、カミさんと神戸のときの話をしていて思い出したのだが、ちょっとキツい話だけど、意外と盲点になりがちかもしれないから書き留めておきます。

 被災者の人々にとってマスコミやボランティアは必ずしも歓迎すべき存在ではなかったのです。これも一概に塗りつぶして聞いて貰っては困るし、実際はいろいろなマダラ模様なのだが、24時間いつまでも飛び続けるマスコミの取材ヘリが救援物資輸送の邪魔になったり、被災者の安眠を妨害したり、ささくれた神経をさらに逆立てたりした。実際、あのヘリの爆音というのは相当なもので、あんなものを何日も間断なく飛ばされたら気がおかしくなる。「なんだかんだゆうても要は高見の見物やないか」「撃墜したったらええねん」という半分本気とも冗談とも付かぬボヤキが現地ではありました。マスコミの現地取材も、人によるとは思うのだけど、やたらエラそげに「俺らが取材してやってるから救援物資が届くんだ」と言わんばかりの人もいたし、ヤラセ映像を取るために被災者にあれしろ、これしろと指図する者もいた。また殆ど皆弁当も持たずにやってきて、現地の貴重な水と食糧を食い散らかしていった。「また、高そうなええ弁当ばっか食いよんねん」とか笑って言ってた人もいたな。

 ボランティアについては、活躍してくれて本当に助かったという感謝を受ける人達も勿論いたが、何の役にも立たず、無駄メシ無駄水無駄トイレと無駄寝床ばかりで、人々の生活を圧迫するだけの者も相当いたそうです。ありがた迷惑どころか来て欲しくないと吐き捨てるように言う人もいた。また、テレビの地震情報も役に立つのは神戸新聞などのゴリゴリにソリッドな生活情報であり、政府がどうしたとか、解説がどうのとかいうのは要らんという人もいましたね。発生以来うんざりするほど地震と付き合ってきて、テレビを付けたらまた地震特番でげんなりしたという意見もあったな。それも「所詮は対岸の火事」的なニュアンスを感じるし、妙にピントがズレてるから見てると脱力する。こういうときこそ、ちょっとでもいいからノーマルな気分に戻りたい、連続ドラマや普通の番組が見たかったのに、どのチャンネルも示し合わせたように地震ばっかりで腹がたったと。特に子供は脅えきってるから、アニメとか楽しいものを見せてやりたかったけどやってなかったと。

 このあたりの話は、被災者本人がいうと角が立つので中々言いにくいし、また時間がたって風化してきているので、敢えて書いた次第です。 実際、マスコミに関して言えば、似たような報道が続くことからか、既に3日目くらいから「奇跡のなんたら」みたいにネタのためのネタみたいな記事、原発不安やら政府叩きやら、劣化が始まりつつあるような気がします。

 でもね、ほんと、心身共にヘトヘトになった人には、「頑張って」と言われることすらうざったいのだ。ありがたいとは理性で思えても、それに対応する気力と体力がないのだ。ましてや、お義理や体裁取り繕い、自己保身や自己満足という不純な動機でなされる言動は、受ける側はそれを敏感に見抜くのだ。目の前の瓦礫は、それがいかに破壊的に見えようとも物理的に取り除けばいい。それよりも頭の中を占めるのは、崩落してしまったマイホームの支払途中のローンの残高であったり、現在の雇用であったり、将来の人生設計なのだ。

 だから結局、金なのだ。こういったフィジカルな事柄、特に第三者からやれることといえば、金なのだ。そして何度も言うけど、そのためには本体である経済をガンガン廻していくしかないのだ。自粛とかいって止めてる場合ではないのだ。個々の寄付は尊いのだけど、それだけでは到底追いつかない。皆の善意を集めて〜というのは美しいけど、そこで思考を止めてはならない。それで本気で足りるのかと。実際幾ら必要なのかと。年収の100分の一とかまことしやかに言われているけど、そんな基準あってなきがごとしだし、寄付するとエラくてしないと人非人みたいな横並びファシズムはいい加減にしようぜ。寄付する余裕のない人だって沢山いるのだ。でも、寄付は出来なくても、いつもどおりお金を遣うということで、あるいはちゃんと操業するということで、つまりは自分のノーマルな日常で、より大きな貢献が出来るのだと僕は強く思うのだ。一回ポッキリの寄付よりも、そうやって頑張り続けることが意味があるとも思う。

 あの〜、だから寄付するなとかそんな話をしてるんじゃないのですよ。言うまでもないだろうけど。僕も神戸のときも引き出しひっかきまわして義捐金振り込みましたけど、なんか全然やったという気がしなかった。「それだけかい?」という意識はずっと尾を引いた。だから被災地法律相談とか行けたときはちょっと嬉しかったですね、ああやっと何かできるって。でも、もっとこう継続的に、生産的に何かが出来ないものかと思いました。一回(数回)お金を払うのと、現地でバケツリレー的な奮闘をすることとの間が開きすぎじゃないかと。それしかないんか?選択肢なさすぎ!と疑問でもあったのです。で、考え続けて辿り着いたのが冒頭の結論です。後詰め部隊は後詰めらしく、救援をしっかり支える強い本体にすることだと。だから経済それ自体を盛り上げていくしかないのだと。

 というわけで、どノーマルに、いつもよりも101%のパワーノーマルにということで。さあ、「持ち場」に帰ろう。



文責:田村




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