今週の1枚(2011/01/24)



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Essay 499 : サイコロ的人間関係論 

 
 写真は、Drummoyne(ドラモイン)。真夏の昼下がりのゆる〜く、気だるい感じを楽しんでいただければ。



 「ひとりぼっち」シリーズも長くなったので、今回はぜーんぜん関係ない話をしましょう。

人格の多面性

 よく「いい人」とか「イヤな奴」とか言いますが、人間というのは善玉・悪玉100%なんてコレストテロールみたいなことはなく、誰しもそれぞれにいい人だったり、場合によっては悪い人になったりするのでしょう。人によってレシピーは様々でしょうが、純粋な悪の権化みたいな人は、普通にはまず居ないと思われます。特段目新しい発想でもありませんが。

 訴追・糾弾され、世間的にはボロカス叩かれているような人でも、部下から見たら頼りがいのあるボスであったり、愛娘から見たら「いいお父さん」だったりするということは、良くありますよね。そういえば、さきの検察の証拠捏造事件の渦中の検事も、部下や身近な人からは滅茶苦茶いい検事さんだったらしいですね(ちなみにあの事件は何やら内部権力闘争のチクリ合戦とか裏があり過ぎるような感じがしますが)。

 ついつい忘れてしまいがちですが、人間というのは100%均質なプラスティック製品ではありません。角をサクッと切り取った断面を顕微鏡で調べたら、あとの大部分の組成も分かる、というものではない。ある部分は赤いけど、ちょっと離れた部分はオレンジで、さらに離れるとちょっと青みがかっていて、反対側は実は緑色で、内部はほんのり桜色、、なんて感じだったりするのでしょう。あるいはすき焼き鍋みたいなもので、鍋の2時方向をつつくとネギがあり、7時方向には焼き豆腐があり、11時には肉がある、、という。

 自分自身を省みても分かるのですが、やたら「いい人」になってる自分もいれば、邪悪な自分もいたりします。人に親切にしている自分もいれば、人間そのものを疎ましく感じている自分もいる。イケイケ進軍モードになってるときもあれば、ズーンとち込んでるときもある。真剣にやってるときもあれば、怠けまくっているときもある。まるで流れる雲のように常に形を変えている。まるで生き物のようです。って、生き物なんだけど。

 こんな変幻自在な存在に対して、「いい人」「悪い人」のマークシートの○×判定をやってたら、そりゃあ外しますよね。「いい雲」「悪い雲」みたいなもんなんだから。

 かといって、僕は「根っからの悪い人はいない」とか、「人は究極的にはみな同じ」と突き詰めた結論を出そうというわけではありません。そう言いきれるには、僕はまだまだ修行が足りないです。

 では、何が言いたいのかというと、サイコロです。
 人間って、なんかサイコロみたいなもんじゃないか?と。

 別にサイコロにように幾何学的にキッチリ正六面体であるわけでもないし、「6」という数字に意味はないのだけど、わかりやすい比喩でいえばサイコロだと。コロコロ転がって1が出るときもあれば、6が出るときもある。山内さんは昨日は2だったけど今日は6だよね、木下さんはコンスタントに3〜4に揃えてくるよね、かくいう自分はムラあり過ぎで今日は1でサイテーだけど、明日は一発6を狙いたいなとか。

 もちろん、人の人格に1〜6の通信簿みたいな統一的な基準があるわけでもないし、数字的に並べられる筈もない。人によっては全部の面が2と3だったり、刻まれている数も1.15と1.26とかやたら微細だったりする人もいるでしょう。1と78とか突拍子もないものだったりするでしょう。なぜかある面だけ麻雀みたいに「中」とか書いてあるかもしれない。正確な六面体ではなく23面面体だったり、形がピラミッド型をしていたり、平べったくて中々転がらなかったり、逆に球体に近くて年柄年中転がっていたりもするでしょう。つまり、とてもイヤな奴とまあまあイヤな奴の二種類しかない人とか、ほとんど変化が分からない人とか、平素は凡庸だけどいったん何かにハマると人格が豹変して天使か悪魔になる人とか、やたら性格が複雑すぎる人とか、滅多に態度が変わらないんだけどそれでもペッタンとどんでん返しがある人とか、常に微妙にゆらゆら揺れている人か、、、

 という複雑怪奇な現実を十分に承知しつつ、それでもサイコロという比喩で書いていきます。

自分のサイコロに何を刻むか?

 さて、他人はともかく自分のサイコロです。あなたには「6つの顔・人格」があるとします。6でなくても構わんけど、とりあえずは6ということで。さて、どんな人格ですか?

 仮に人間的魅力度や完成度を1〜6に等級分け出来るとして、「カッコいい俺」「素敵な私」になろうと思ったら、サイコロの全ての面に6を刻めばいいわけです。どんなに転がってもいつも出るのは6。安定してます。別にサイコロだからって、1〜6を均等に一回づつ使わなくても良いのです。同じ6でもタイプを変えて、「ワイルドでカッコいい俺」「クールでカッコいい俺」という感じに割り振ることも可能。

 逆に、どの面も1というトホホなパターンもあると思います。「サイテーな俺」ですね。そして1の種類も違っていて、「卑怯な俺」「飽きっぽくて何をやってもモノにならない俺」「他人にすぐ迎合する俺」「見栄ばかり張って嘘つきな俺」と、トホホその1〜その6という感じになってる人もいるでしょう。

 なんでこんな妙なことを思いついたのかと言えば、こう考えると「わかりやすい」「やりやすい」からです。自分を良くしたい、高めたい、修行だ!とかいってもですね、1面しかなかったらダメ俺→イケ俺にするのは、全面的に変えていかねばならないから何か大変そうです。でも6面あって全部1だとしても、せめて1面だけでも2にしようぜというのは、まだしも取っつきやすいし、成功しやすいと思うのですよ。仕事方面ダメ、友達いない、親とも不和、喧嘩も弱い、趣味ナシ、、、な俺だけど、せめて飼ってる猫には優しくしようと。ミもフタもなくダメダメなのを、せめてもう少し他人の共感を呼ぶ程度のダメ度に引き揚げるとか。失敗するのはしょうがないけど、それを誤魔化すために他人のせいにするのだけは止めるとか。

 6つある人格うち、一つでも二つでも、マイナーではあってはヴァージョンアップしていこうという。あるいはダメ面を上昇させるのは難しいけど、良い面をより深化させていくことも出来ます。天才的芸術家なんかこの典型なのかもしれなません。協調性ゼロ、蓄財力ゼロ、社会常識度ゼロ、だけど独創性だけ100あるという。マイナスをプラスに転じるというパターンもあります。只の「悪口」も極めていけば「毒舌」になり、「辛辣な批評」になり、さらには「的確な評論」になる。単に他人をこき下ろしているだけで変わらなくてもそのレベルを上げると質が変わってくる(ただしこれは難しいけど)。

 また「変える」といっても、単純に1→2という数的変化でなくても、数字の代わりに文字や絵を描くとか、背景色を塗るとか。つまり人格や格好の良い/悪いとは別次元に展開していくという方向性もアリだと思います。もう良いんだか悪いんだかよう分からんという。僕の大学時代の級友は、普段は物静かで小難しい哲学書を読んでるような人だったけど、コンパで酒が入ると、いきなりハイパーテンションになって、誰も頼んでないのに競艇の実況中継を始めてました。もう気味悪いやら面白いやら。なんだか分からんけど「一癖も二クセもある奴」になるという。酔っぱらうと「にゃあ?」と意味不明なワイルドカード的な人格が出てくるとか。ちょっと引かれると思うけど、単なるダメよりは面白いです。

転がり方、転がし方

 次に色々な顔を持っている僕らですが、出来ればいい目を出しておきたい。無用に他人を傷つけないように、みすみす愚かな過ちを犯さぬように、1〜6あるなら常に6を出しておきたいところです。が、ママならぬのは世の常で、ここ一番というときに1が出る。それもさっきまで6だったに、本番直前になってコロンと転がって1になってしまって、きゃ〜!みたいなことが、無いわけでもない。てか良くある。

 「転がり方」というポイントがあります。自分の中には美点も欠点もある。だとしたら常時は無理でも大事なところでは美点が出るようにしたい。彼氏彼女との勝負デートでは、いい面を出したい。というわけで思ったように目を出すようにする技術があります。

 同時に「安定性」という問題もあります。いよいよ本番、カウントダウンになったら、心が波立ってころんと出目が変わってしまう。また、自分でも思いもつかないときに思いもつかない転がり方をしてしまう。あるいは転がりたくても全然転がらなくなる。喧嘩になって、もうこのへんで止めておけばいいと思うのだけど、もうそのときはサディスティックモード全開になって、心にもないキツイ言葉をバルカン砲のように連射してしまう。落ち込んでて、何とか気分転換をして元気な私に回帰したいけど、もう接着剤で貼り付けたようにサイコロが動かない。あーもー、転がって欲しくないときに限ってコロコロ転がり、転がって欲しいときにはビタ〜っと静止。なんてママならないんだあ!という諸兄もおられるでしょう。

 ということで、この出目コントロールが大事なことになります。別の言葉でいえばメンタル管理ですね。これは書き出すと長くなるので割愛。先を急ぎます。

他人のサイコロのコントロール

 もっと大事な、しかしあんまり語られていないことは、他人のサイコロの目のコントロールです。いろいろな顔を持っている他人をして、良い面を出させるように仕向けるという。

 自分の出目ですらままならずに苦労しているのに、他人の出目なんかどうしようもないわ!と思われるでしょう。でも、意外と他人の方が何とかやりやすい場合も多いように思います。それに24時間全面的に管理しなくてもいいんだし。

 対外的には恐れられている番長みたいな人でも、幼なじみの自分にだけは優しいとか、そーゆーことってありますよね。今書いてて思い出したけど、僕の中学時代の級友が言ってました。高校に進学した後のこと、ある晩自宅にいたら、暴走族の大集団が家の前にやってきたそうです。「わわ、何事だ!」と思ったら、「○○〜!」って聞き覚えのある声がして、外に出てみたら、中学時代の別の級友だった。そいつは滅茶苦茶強くて高校に入った初日で番を張り(そんなマンガみたいなコトが本当にあるのだ)、その頃は結構大きな暴走族のアタマになってたのですね。で、何をしに来たかというと、「ごめ〜ん、借りてた本、返しに来たよ」と。もう昔のまんま全然タメで自然に付き合えたという。

 このように、いくら他人や世間に対して極悪非道であったりしても、自分に対してはいい人でいてくれるというパターン、ありますよね。まあ、その逆もありますけど。

 ここで、なんでそうなるのか?ですが、それは「他の出目を知っている」からだと思います。例えば、ある人に世間的なAという顔と、Bというプライベートな顔があった場合、Aという世間的な顔から知り合っていった人間とは、どうしてもAの顔で接するようになります。ところが、別の面であるBという顔を知ってる、Bしか知らない人と接すると、自然にサイコロが転がってBという顔が出てくるのだと。よくあるじゃないですか、社員全員がビビリまくってる大会長がいて、社員に接するときは閻魔大王にみたいに振舞うクセに、孫が「おじいちゃ〜ん」と入ってきたら、途端に相好を崩して「おうおう」とただの好々爺になってしまうという。

 ここまでは分かりますよね。ではもう一歩突っ込んでみたらどうでしょう?  ある人と付き合うのにAという顔から入ったけど、もしかしてこの人にはBとかCの顔もあるんじゃないか?と思うことです。つまり、その人のことを理解しようとするわけです。Aという顔がやたらイヤミであったとしても、この人にはもっと違う顔があるんじゃないかと探してあげる。探すと結構出てくるのですね。「なんだ、このオヤジ!」と最初はむかっ腹が立ったとしても、注意深く見ていると、この人は他人に厳しいし、口も悪いけど、でも自分に対してはもっと厳しいよなとか、絶対手抜きはしないよなとか、エコヒイキだけはしたことがないよなとか見えてきたりもするもんです。

 また、仕事面では非常に厳しくても、趣味の世界になるとまるで別人格になる人もいます。釣りバカ日誌の世界です。誰にでもスィートスポットみたいなところがあって、話題がそこになると一転して饒舌になったり、ほがらかになったりします。

 社会に出ると営業や接待をやらされたりしますが、日本の伝統的な営業手法は、最初の数回は仕事の話は全然せずに、どうでもいい世間話ばっかりして帰ります。これを愚劣で迂遠な日本的旧弊だと思っている人は再考の余地ありです。僕が思うに、これは色々な話をすることで、その人のいろいろな顔を引き出して、より深く理解しようとすることでしょう。どーでもいいような世間話でも、そこからたまたま共通の趣味があって意気投合することもあるでしょう。あるいは趣味は違うけど謙虚に教えてもらうという姿勢でいれば、誰だってそんなに悪い気はしないものです。すると、「こいつと居ると愉快な気分になる」ということになり、よりフランクな、より人間的な顔を出してくれるようになり、商談なんかでも割と好意的に進めてくれると。なんだかズルくて打算的なようだけど、別にズルではなくて、人間って元々そういう生き物だと思うのですよ。幾つかの顔を知ることで、より安定的、友好的な人間関係を築くという。

 これがいわゆる他人の出目コントロールですが、別に催眠術を使うとか、卑劣な手段を使うのではなく、ちゃんと見て、ちゃんと理解して、ちゃんと好きになるということです。すなわちド王道です。他人を好きになれない奴は、他人からも好かれませんからね。

コンビネーション

 コンビネーションという視点もあります。サイコロが二つ以上ある場合の出目の組み合わせです。
 カンの良い方は「ああ、なるほど」で既にご明察のように、これが結婚生活やら恋愛論、さらに職場や家族など恒常的な人間関係論につながるわけです。

 AさんとBさんの二人がいます。サイコロの目が好感度1から好感度6あるとして、Aさんが6のときにBさんも6だったとしたら最高のナイス度になり、AB両者とも1だったら最悪の組み合わせになります。したがって両者のナイス度は両者のサイコロの目の合算になり、最低2から最高12まであることになります。数が大きい方が良いということで、チンチロリンやオイチョカブみたいなものです。もちろん人間の相性がこんな簡単なサイコロ合算値になるわけもないのですが、とりあえず説明の便宜として聞いてください。

 上の両者の合算を基本形として、以下種々の応用パターンがあります。

出目は刻々と変わる

 まず、サイコロの出目は刻々と変わるということです。極端な話、さっきまで6+6で最高12を叩きだしていたのに、わずか数分後には1+1の2の最低値に急降下することもありえます。恋愛カップルでいえば、つい先ほどまで見ていられないほどイチャイチャしていたのに、ちょっと目を離したらいきなり大喧嘩をしているような状態です。実際の人間関係というのは、バクチのように一回サイコロ振ったらそれで確定というわけではなく、毎秒毎秒サイコロを振り続けているようなものです。絶えず変わると。

組み合わせの妙味

 次に、合算数値の多寡だけが全てではなく、数の組み合わせの妙があるということです。
 丁半バクチでは、合算数値が割り切れる丁(偶数)と割り切れない半(奇数)という二種類に分けますよね。1+1で「ピンゾロの丁」とか、5+2で「グニの半」とか。英語でいえばイーブンかオッドかです。ちなみに1のことを「ピン」というのはポルトガル語から来ているらしいです。カステラや天麩羅のようなものなのでしょう。ピンキリのピンでもあります(一位から最下位)。

 そしてここが人間関係の妙味なのですが、仮にイーブン偶数の場合が安定、奇数の場合に不安定になるとしたら、「しっくりいく」というのはイーブンの場合でしょう。絶対レベルは3+1=4で低くとも、しっくり度は5+6+11よりも高いこともありえます。両方ともナイスな態度でいながら、なんかしっくりこない人間関係もありますし、両者とも結構無愛想でありながら、なんとなく上手くいってる場合もあるわけです。無愛想なりに心が落ち着いて安定しているという。

 すべからく人間関係は安定的な丁を目指すべきかというと、必ずしもそうではないのが面白いところで、例えば只の知り合いであった男女が何かの拍子に男女を意識するとか、一線を越えるとかいうときって、大体「半」的状態だと思います。不安定でグラグラしている。腰が浮いて、浮動状態なので変わりやすいという。ドーンとイーブンが続いてしまい、しかも5+5の10などのハイスコアで安定しているときというのは、要するにお互いが「いい人」でニコニコ博愛的に進んでいってしまい、なっかなかスリリングにヤバくなってくれなったりします。結局、いつまでも「いい友達」で居続けたりします。それはそれで良いことなのですが、それでは本意に反する!という方は、「半」的な浮動状態に留意されるといいですね。柔道でいえば、技をかける前には必ず「崩し」と呼ばれる行為=重心を不安定させることをしますが、それと同じ事ですね。なんか青少年に悪いこと教えている親戚のオジサンみたいですが。

 逆に人間関係を険悪化させないためには、相手の出目が動いて、これまで丁だったのが半になってしまうようなときに、こちらも動いてまた丁に戻せばいいわけですね。これまで4+6(10)だったのが、相手が3になったので9の半になりそうなときは、こちらも7なり5に変えて合算を丁に戻す。会話の言葉尻にひっかかって相手が「え、それってどういう意味?」とちょっとムクレかけたときは、「あ、いや、変な意味でいってるじゃないだ」とこちらがナイス度を上げて丁にする場合もあれば、「なんでそんな細かいこと気にするんだよ?お前、今日ちょっとヘンだぞ」とこちらもちょっと戦闘モードになりつつバランスを取った方がいい場合もあります。まあ、わかりますよね。

相性と触媒

 さらに「相性」というモノがあります。
 磁石のSとSが反発し合うように、AさんもBさんも単独ではナイスな人柄なのですが、なぜか両者が一緒になると角を突き合わせてしまう。意見や価値観がそう違うわけでもないし、何が悪いわけでもないのだけど、一緒にいると何故かお互いのサイコロがコロンと変わって出目が半になってしまう。ギスギスしてくるという。日頃自分が思っている意見を相手が言うとき、普通だったら「そうそう!」で意気投合するのだけど、なぜかその人に言われると、「いや、そうとも限らないよ」と妙に反対の意見を言いたくなってしまうとか。これは相性ですよね。

 なぜこういう不思議な相性が生じるかは僕もよく分からないのですが、「触媒」ということを考えたりもします。なにかの変化を引き起こすキッカケ的要素です。人は誰しもS気とM気があるといいますが、なぜかAさんはBさんのS気を引き出してしまうようなことがあります。いじめられっ子によくあるパターンで、「なんか知らんけど、あいつの顔見てるとムカムカしてきて、無性にいじめたくなっちゃう」という。よく「いじめてオーラ」とか言いますが、いじめてるBさん本人も「こんなコトしちゃいけないな」と自戒しつつも、Aさんのオドオドした態度や、卑屈なしゃべり方、そのくせ言ってる内容がえらく傲慢だったりして、もうやることなすことが攻撃本能をツボをついてくるという。ご経験あると思いますが、「触媒」というのはそういうことです。

 その逆のパターン、どんなに迷惑をかけられても、どんなに約束を破られても、なぜか顔をみてると憎めなくなって、怒っていてもついには笑って許してしまうという。この場合は、その人の「いい人」性を引き出す触媒を持っているのでしょうね。ちなみに、最強の触媒は子供でしょう。人間でも動物でも赤ちゃんは可愛いですからね。時として暴力的なまでにラブリーですからねえ、もう本能的に可愛がりたくなってしまう、だからか弱い赤ちゃんも生き延びられるという。これはもう幼体の造形をデザインした造物主の思し召しであり、さすが「神の仕事」って気がします。

 人間と人間が接触したら、大なり小なりそういう化学反応はあるのでしょう。反応が微弱でほとんど感知しえない場合もあろうし、バチバチと火花が飛ぶ場合もあるでしょう。ある特定に人間との間でのみ反応する場合もあるし、ほとんど全ての人との間で反応する場合もあるでしょう。後者の場合、プラスに振れれば「得な性格」とか言われ、マイナスに振れれば「損なタイプ」にもなるでしょう。

結婚生活サイコロ論

 それはそうと、結婚生活のように長いつきあいになる場合、お互いのサイコロの出目の組み合わせで、ハイスコアを叩き出す場合もあれば、全然ダメダメなときもあるでしょう。何かの拍子にローが続くような場合は、このまま結婚してもいいのか?とか、離婚すべきでは?とか思い悩む場合もあるでしょう。もちろんそれは個々人の判断なのですが、僕が思うに、こういうことって平均点を出しても無意味で、ハイがどこまでハイか、ローがどこまでローかによって決まるような気がします。

 どんなカップルでも、時には険悪なムードになったりもするでしょう。常に常に100%ハッピーなんてことは、まあ、普通ないよね。夫婦生活10日間のうち、3日は気まずく7日はニコニコで勝率7割だから、まずまずというのは分かるのですが、常にそういうものでもないです。勝率2割というダメダメな戦績でありながらも、それでも別れない夫婦やカップルもいます。なぜかというと、年がら年中言い争いをして、ほとんど常に険悪になっていながらも、それでも「いい感じ」になるときもある。そして、その「いい感じ」のレベルが高い。「ものすごくいい感じ」になれる。それがスゴイから日常的なゴタゴタは我慢できるという場合もあるのではないかと。

 実際問題そういう場合の方が多いんじゃないですかね。「喧嘩するほど仲がいい」と言いますけど、夫婦なんか喧嘩してなんぼだと僕は思ってます。個性のある人間と人間が付き合ってるんだから、歯車が噛み合わずガキガキいうことだってあって当たり前です。それに男女の性差というのは、あらゆる人種、世代差以上にデカいと言われるんだから、うまくいく方がむしろ不思議です。そして双方がリラックスして生の自分を出せば出すほどぶつかって当たり前です。"10 Things I Hate About You"(10ヶ条のアナタのココが嫌い!)という映画があり(邦題は「恋のから騒ぎ」)、実際に結婚したら10 things どころか、100thingsくらいあったりして、もうそれだけで一冊本が書けるくらい出てきたりします。

 かくして理屈からいえば離婚率100%になっても不思議でもなさそうなのに、なぜか続いている。それは諦めとか世間体とかもあるでしょうが、やっぱり「いいとき」があるからなのだと思います。お互いのサイコロの出目が重なり合い、かなりミラクルにナイスになれるときがある。それはごくたまーにそうなるだけ、勝率2割どころか、1割を遙かに下回るくらいの低率であっても、それでもトータルでもお釣りが来るくらい抜群にナイスである。そして、それは抱き合って泣いたり、歓喜天をつくようなドラマチックなものでもなく、ごく平凡な時間だったりします。チャポチャポお茶を入れて二人で啜ってるだけだったりとか。だけどその空気感がいい。時間と空間の居心地がスペシャルだったりします。鮮烈な感動とかではなくて、丁度自分の身体の形に添ってオーダーメイドしたような空間。この摩訶不思議な時空間と化学反応は、他の誰とも生じない。だからこそミラクルであり、だからこそポイントが最強に高い。

 考えてみれば、夫婦や恋愛に限らず、仕事だって趣味だって、似たようなものだと思います。圧倒的大部分の時間は、詰まらんわ、疲れるわ、ストレス溜るわでいいことないのだけど、ごくマレに「ああ、やって良かったなあ」と思える瞬間があり、だからやっているという。登山でも、喜びを得られるのは頂上に達する一瞬くらいで、あとは黙々と重い荷物を運んでヒーコラ歩くだけです。仕事なんかまさにそうだと思いますね。最近とくに仕事をする機会を得られず、頭でっかちになって、やりもしないうちからもう仕事が嫌いになってる人も多いと思います。まあ、無理ないですよ。どの業界も、こんなに大変、こんなに悲惨、、という話ばっかり聞こえてきますから。まあ、世間話としてはそういう不幸系の話が面白いからついついやるし、マスコミにしてもニュースになりやすいからそればっか報道するけど。でも、仕事をしている人達は、後の世代に対して、もうちょっと仕事の良さを伝えた方がいいかもしれないなって思います。はたから見たらしょーもなさそうな仕事に見えても、そこにはやっぱり何らかの喜びがあったり、感動があったりするもんです。ごくマレだったりしますが、99の労苦と理不尽をリカバーしうる「ミラクル1」があるのだと。だからやってられるという。

 逆に、勝率9割9分であっても、1分のダメで離婚するケースはありえます。逆ミラクル1です。ダンナは真面目に仕事するし、生活も裕福だし、浮気もしないし、優しいし、、、何が不満なのか?というような家庭で離婚が持ち上がったりします。はたからみたら「なぜ?」と思うのだけど、当人にとってみたら全てが崩壊するくらいの深い深いクレバスを覗いてしまったという。いくら優しかろうとも、その優しさの原点にあるのがただの自己満足であったり、憐れみであったり。要はペットでも飼うように可愛がってるだけであり、その根底にはどうにもならない差別意識と蔑視があることに気づいてしまった、、とかね。そんなんだったら喧嘩してる方がまだしもマシで、少なくとも対等にやりやってるわけなんだから。仕事柄いろいろな修羅場を見ましたけど、ダンナがヤクザだわ、飲んだくれだわ、肋骨を蹴り折るくらい激しい暴力は振るうわでありながら何故か別れずにやっている夫婦もあれば、一度も喧嘩らしい喧嘩をしないまま離婚になる夫婦もある。

 ということで夫婦生活やら仕事やらで、平均的不幸度や勝率を出しても意味がないのでしょう。いかにハイか、いかにローか。ミラクルがあるかどうかが結構重要なポイントになるような気がします。

 さて、サイコロの話に戻ります。
 結婚生活の帰趨というのは、まずもって最高の出目と最低の出目によって決まっていくのでしょう。
 お互いの目が重なり合って、(マレではあっても)突出して素晴らしい時間を共有できるかどうか、あるいは奈落の底に落ちていくような深い哀しみがあるかどうか。そして、そのどちらでもない大部分の日常においては、いかに相手に良い面を出させるか、そして両者合算して「丁」的安定になるように自分を目を上げたり下げたりしてコントロールするかということになるでしょう。

 後者は技術であり、長年連れ添った夫婦だったら誰でも体得しているでしょう。「また始まった、、」とか言ってね。でも前者(最高/最低)は技術ではない。これこそまさに「天の配剤」であり、これこそが結婚(離婚)に至る核心部分だと思います。だから総合点とか付けて結婚相手を探していても、あんまり効率良くないような気もします。私見ですけど。



文責:田村




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