今週の1枚(2011/01/03)


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Essay 495 :紅白とテレビとカレンダーの話 

 
 写真は、年末に撮ったLeichhardt(ライカード)。
 場所がどうとかいうよりも、これがオーストラリアの年末年始風景だということです。そのココロは、ほけ〜とした気だるい夏休みってことです。撮影時刻は夕方の7時前後ですが、夏至(日本では冬至)に近いのでまだこの明るさ。


元旦のシドニーは暑かったです。といっても今年は比較的冷夏で、とてもしのぎやすい日々が続いています。

さて、直近二回続いた「ひとりぼっち」シリーズですが、折しも朝日新聞で「孤族の国」という特集が始まったことだし、2011年にはかなり日本人のスタンダードな意識になっていくと予想されます。といっても、クッキリ明白に印象づけられるというのではなく、徐々に、静かに、次第と「そういうもの」という意識/無意識が浸透していくという感じでしょう。

が、今週はもっとホワワンとした、どーでもいいしょーもな話をします。なんせ正月ボケと夏休みボケでダブルでボケてますので、そのくらいが丁度いいかと。

テレビは見ない

新年になると、「今年の紅白はどっちが勝った?」というしょーもなギャグがありますが、今年(新年)の紅白はまだやってませんというのがオチなんだけど、まだ言ってる人いるのでしょうか? そもそも今どき紅白なんか見ている人いるのか?というと、これが結構いたりします。調べてみたら、視聴率という数字が出てくる1962年以降、62年、63年、72年には何と80%以上を記録しています。1986年には初めて60%を割りこみ(59.4%)、89年から二部編成になるわけですが、89年の第一部では38.5%になります。以後第一部はおおむね30%台で推移し、2006年に30.6%という最低記録になり、また復調して2009年には37.1%。第二部は99年までは50%を堅持しつつも、2000年以降40%台に転落、2007年には最低の37.5%を記録しています。直近の2010年は、関東地区で第一部35.7%、第二部41.7%だそうです。

簡単に要約すれば、80%を誇った60年代から40%前後の現在まで、「半世紀かけて約半減」という長期低落傾向にあるということでしょう。そうだとしても、それでもまだ3〜4割の人が見ているという。スゴイですよね。ちなみに2010年の連続ドラマの最高視聴率と言われる「相棒season9」や「龍馬伝」やらでも20%いってないんですから。約二倍。

もっとも、視聴率の統計というのは、数ある統計の中でもかなりいい加減なものであることは周知の通りです。ごく一握りのサンプルケースを対象(多くてもわずか数百程度だという)に、TVに備え付けられた機械で測定しているだけで、TVを消し忘れていても「視聴」したとみなされるという。しかもビデオリサーチ社の独占状態で比較検証ができない上、同社も調査の詳細を公開していないのでデーターの信憑性の検証もできないらしいです。

でも、まあ、見るかどうかは別としても、紅白のやってる時間にNHKに日本人の3−4割がチャンネルを合わせていたらしいというのは、やっぱりすごいよな〜って思っちゃいます。

さっきから何をすごがっているのかというと、こんなにもTVを見る人がいるということです。本当に見てるの?という。もっと言えば、他にすることはないの?という。

かくいうワタクシは、TVは殆ど見てなかったです。小学校の頃までは激しくTVアニメとか見てたし、客観的に=当時の文化水準と娯楽のバラエティと番組の斬新さを考えても、それなりに面白かったとは思います。それでも、小学校でも高学年、さらには中学以降になるとぱたっと見なくなります。1ヶ月の視聴時間ゼロというのもマジに普通にあった。

まあ、これには注釈が必要で、大体男の子の中学高校時代、思春期時代というのは、自宅にいること自体が気恥ずかしいというか、息が詰まるのですね。ましてや当時はTVなんか一家に一台だから、TVを見てれば否応なく家族と接触するわけで、そんなことが出来るか!みたいな感じ。だからTVも見なかったという。TVというのは中毒性があって、連ドラでも見てしまうと何となく見続けてしまうけど、一旦禁断症状をクリアしたらどってことなくなるという。僕の場合は、中学前後にクリアしてしまったので、あとは多少の例外時期はあれど、殆ど見ていません。

なぜ見ないのか

僕のような人間は、日本社会においては少数派でしょう。だって、3−4割の人が紅白見てるんだもんね。僕の素直な感覚では「ありえない!」ですけど、でも現実はそうだと。いうことは、いかに自分が世間から外れているかです。もっとも、ちょっと前にも書いたけど、僕は世間から外れている方が嬉しいタイプ、「そんな奴は日本でも俺だけ」みたいな状況が好ましいという天邪鬼ですから、「テレビなんか見てる奴の気が知れない」等という、言った瞬間にアウトになりそうな暴言も平気で出来ちゃったりするのですが、、、でもなあ、、、ほんと、なんでテレビなんか見るの?と。

こんな問い掛けをしても空しいので、逆に、じゃあ何で僕は見ないの?というこちらの事情を書いた方がいいでしょう。なぜ見ないか?思春期的な理由は既に触れたから、それ以外の理由。

完全受身がイヤ〜精神的なアイドリング

一つには自分でコントロールできないという完全受身システムがイヤです。番組が始まる時間にテレビの前にいなきゃいかんし、詰まらんCMにもつきあい、面白くないシーンもスキップできず、チンタラつきあっていなければならないという。生来的にイラチ(せっかち)な人間、また自分で仕切らないと気が済まないワガママな人間としては、これが生理的にツライのですね。

ちなみに同じ理由でテレビ以外でも映画もライブも演劇も本当は好きではないです。ただし、映画館は途方もなくスクリーンがデカいし、映画の水準はそれなりに高いし、ライブも演劇もやっぱり人に見せるだけのレベルをクリアしているものが多いのでそれほど不満はないです。同様に一方通行の授業とか講義は苦手。弁護士時代、弁護士会主催の研修とかに出たりするんですが、日頃の疲れもあってほとんど寝ていたということもよくありました。有意義な内容だとは思うのだけど、マブタが重くなってきてしまう。思うに精神的活動にもアイドリングというのがあって、一定レベルよりも回転数が下がるとエンストしてしまうのかもしれませんね。体質ですね。だから、多くのテレビの場合精神的にエンストしてしまう。

なお、時間的制約や受身問題だったら録画という手があります。実際、出始めの頃からビデオは買いこんで録画とかしたのですが、次第に飽きてしまいました。なぜかというと、あれって録画するとか、ダビングして綺麗に編集するとか、その種の作業の面白さでやってるだけで、そのテの興味ってある日突然醒めるのですね。そうすると、録画というダンドリ自体が面倒臭くなる。そこまでしてまで見たい番組ってあるのか?というと少ない。探せばあるのでしょうけど、探さなくなるし。

録画してたのは主としてMTV系です。80年代後半のMTVが出てきた当初は結構ハマってました。子供の頃から、歌謡番組が全く面白いと思えなかった僕としては、中学くらいからロックに走ってたわけですが、当然テレビでロックなんかやってなかった。「不良のやること」だったし。したがってロックの映像というのは裏ビデオ以上に貴重だった時期があります。自分でライブにいくしか「動いているところ」は見れないと。それがMTVが出てきて、音楽系のビデオも盛んに売り出されるようになり、この時期はかなり見てましたねえ。しかし、これもしばらくやってると飽きちゃうんですよね。出てきた当初は斬新だったけど、長いことやってりゃマンネリになるし、そもそもそんなに何もかも新しい!というバンドも出てこなくなるし、好きなアーティストのライブ映像も一通り集めたらもういいやって。物珍しさで始めたものは珍しくなくなったら終わりだという。で、「やっぱライブでなきゃダメだわ」とか、「曲を真剣に聞き込んだ方が刺激的だわ」という原点回帰してしまう。ま、しょせんはCMなんだってのが分かって来ちゃうという。

質的な問題〜「作品」と呼べるクオリティ

第二に質的な問題です。好みに合わないとか、低次元すぎるという問題です。当たり前かも知れないけど、良い作品というのはやっぱり少ない。

普通にテレビを見ていても、どのチャンネルに合わせてもおよそ自分の趣味に合う番組はやっていない。まだ日本にいた頃(90年代前半時点)ですらそうでしたし、今たまに帰省してテレビをつけたり、あるいはYouTubeなどでたまたま見たりしても、ムカムカすることはあっても、面白いなあって思うことはマレです。

まずワイドショーは論外。僕は死刑に対しては慎重な方ですが、ワイドショーに関しては関係者(視聴者を含む)は全員死刑にしろと思うくらい嫌い。同じくバラエティとか企画モノも嫌い。死刑レベルではないけど興味がない。その昔の(今でもやってるか)徹子の部屋とか、スター千一夜(やってないか)とか、ひな壇芸人がズララと並んで何か感想言ってるやつともダメですね。ツッコミが予定調和から出てこないので詰まらない。

そもそもスターへの憧憬やファン心理というものが自分にはない。
もっと言えば、何で「ファン」になれるのか不思議だったりします。会ったこともない人なんか好きになれるわけ無い!とか思っちゃう。もちろん好きなアーティストはいるけど、それはその人の作品や仕事が好きなだけで、人間そのものにはそーんなに興味はないです。凄いなと尊敬する人は沢山いるけど、それも一種のケーススタディとして学んだり、パクったり、励みにしたりという実用面が強い。だから「生きざまの記録」としての回顧録や伝記レベルに掘り下げてリポートしてくれたらいいけど、そこまで深いものは非常に少ない。一人の人間が生きる質量というのは途方もなくデカいです。それは真剣に刑事弁護をやってみたら分かります。何十時間も本人と向かい合い、生まれ育ったところや現場を歩いたりというフォローワークをしないと分からない。いや、それでも分からない。「一見そう思いがちだけど、実は違う」ってことが良くある。だから、マジに番組という形でやろうと思ったら到底尺(長さ)が足りないでしょう。本気でやったら司馬遼太郎原作の大河ドラマのように1年がかりでやるくらいの勢いが無いとその人の本当の生き様なんかわからんでしょ。対談座談で面白い発言とかあるかもしれないけど、それだけのことだしね。参考にならんし。よく取材して練られた書籍を読んだ方がいい。

そうそう、色気づいた男子がアイドルに夢中になるとか、AKB48で好きな女の子を応援するとかそういう心理も皆無です。これも、会ってもいない人を〜、、です。会っていてさえ、それも毎日のように会っていてさえ、ある日突然自殺されたり、裏切られたりするのが人間でしょ。わっかるわけない。マスコミ経由の像なんか、いわゆる「虚像」であることはお約束でしょう。虚像やペルソナという言葉は知らなくても、その存在は自分自身が親や先生に対して猫をかぶったりして虚像を作るのだから5歳の頃からイヤというほど知っている。それに普通に考えても、一介のファンがアイドルとプライベートに親密になる確率なんかゼロです。100%外れる宝くじなんか買う気になれん。素敵な異性と知り合いたいとか、エッチなコトしたいというのは誰にもある本能だから、現実世界で粛々と実行すればいいじゃん。リビドーだけが問題なら風俗行けばいいだろうし、プラトニックが好きならそれこそ日々そういう気持ちで生きてればいいじゃん。これはイケメン追っかけてるオバハンについても同じ事で、要するにこれもちょっと前に紹介したARの熱海ラブプラス現象(まつり)と同じじゃん。まあ、人それぞれだから非難はせんし、皆がそうなったら古くから連綿とつづくアイドル・スター産業は崩壊するだろうけどさ、自分がやりたいとは全然思わないだけです。

かくしてテレビから人間的興味というのをさっ引いてしまったら、本当に残るモノが少ないです。報道番組などでたまに良いモノがありますが、多くは趣味に合いません。ニュースはテンポが致命的に遅いのでダメ。お経を聞いてるみたいで生理的に耐えられない。サンデープロジェクトのようなニュースショーも、ツッコミが浅くて欲求不満が溜りすぎる。そもそもマスコミ自身が劣化しているので(もとからか)、表面的なことしかやらない。もっと大人が見るに耐える、本気のプレゼンをして欲しいです。放映時間無制限で、各論者が2時間づつ徹底的にノーカットでプレゼンして欲しい。司会者なんかいらん。多種多様な意見、そのままナマでぶつけてほしい。

かといって、テレビで放映されているモノが全てダメだとは言いません。良いモノも沢山あるでしょうし、実際あります。ちょっと前に紹介したアニメの「蟲師」などもそうです。報道特集にせよ、ドラマ、アニメ、、「作品」と称して差し支えないレベルのものは多々あります。だけどそういう作品って、別にリアルタイムに放映されているときに見なくても、あとでまとめて「作品」として鑑賞することは可能だし、その方が効率的だし、場合によってはまとめて見ないと意味が分かりにくくさえあります(リアルタイムで見てると数ヶ月前の伏線など忘れてしまう)。だもんで、「作品」単位で入手し、好きな時間に好きな態勢で楽しむと。だからいわゆる「テレビ視聴」という形ではなくなる。

ちなみに今僕が本当に見たいのは、実際の企業の企画会議などです。覆面でもいいから、ヤラセなしの。「どうせ消費者なんか馬鹿なんだから、こう謳っておけば騙されるさ」「それはちょっとコケにし過ぎてるよ、もっと上手に騙してやらなきゃ」とかやってる現場を見たい。金融機関で「1000万円以下の顧客はゴミ扱い」されている現場とか。警察の捜査会議とか、裁判官の合議の現場(これはナマで見たことありますが)とか、官僚の会議とか。本当に面白いモノは世間にいくらでもゴロゴロしているのだけど、なぜかテレビではやらない。まあ出来るわけないけど、その「出来るわけがない」部分がテレビの限界であり、僕がテレビを見ない理由でもあります。

だってさ、社会にでたら「本物」を見てしまうわけでしょ?本物の面白さに比べたら、公共電波に乗るモノは何重にもフィルターがかかって無毒化してるものじゃん。つかみ合いの喧嘩をするくらい白熱した議論だって、弁護士や警察の仕事してたら、いっくらでも現場で見ますもん。家庭裁判所とか結構シリアスですしね(そういえば家事事件で殺された弁護士さんがいましたね)。もう倒産処理とか離婚とか、自分自身が命懸けでリングの上に登って「本物」を見てたら、テレビなんかみてらんないです。そういや、法廷ものは嘘も多いし。

本当に面白いものは画面の外にある〜やっぱ現実が一番面白い

第三に、他にやることがあるという点です。とりあえずネット。インターネットが流行る前のパソコン通信時代から異業種交流などをやってたわけですが、あれは面白かったです。各業界のナマの声が聴けるし、実際に会って酒飲んだりできるし。仕事がらみで薬剤師フォーラムに遊びにいって、現役薬剤師さん達の飲み会に呼んでいただきましたが、彼らの業界の本音や真摯さというのがよくわかってメチャクチャ貴重でした。ほんと面白かった。

本当に面白いモノは画面の外にあります。面白さに対する欲求がエスカレートしていくと、画面(ディスプレイ)というのは、他の現実世界への「接点」という点にのみ意味が出てきます。ドラえもんの「どこでもドア」みたいに、他の現実につながってないと意味がない。そして実際に自分がその現実にコミットしていかないと意味がない。まあ、「ない」ってことはないかもしれないけど、面白さで言えば格段に違う。だから当然インタラクティブなものがいい。テレビみたいな一方通行はあまり使えない。傍観者はしょせん傍観者ですよ。詰まらんです。

インターネットだって、百科事典的な使い方以外としては、ほんと「ドア」としての意味しかないと思います。これはネット(だけ)を使って、実際に十何年も商売して、累積で言えば数千万円稼いでいる(って仮に年収200万でも10年やってりゃ2000万でしょ)僕が言うのですが、ネットで何が分かると言うものではないです。APLaCでこれだけシドニーのいわゆる「情報」を流していても、本当の現場の面白さはその数百倍あります。比べることすら愚かしい。あの〜、色恋沙汰ってあるでしょ。天国をみたり地獄をみたり、泣いたり笑ったり、個人の生活において物凄い質量をもつものですが、あれが現実だとして、ネットの「情報」なんて、国語辞典で「恋愛」とひいてるようなものです。ぜーんぜん違う。まーね、しょせん平べったい板(ディスプレイ)に過ぎないんだから当然ちゃ当然だけど。「恋愛」の語義がどう説明されようが、「抱きしめた細い肩の震え」「ぎゅっと握った手の平の汗ばみ」という現実と比べものになるわけがないのだ。

もっともっと面白いものを!現実に触れなきゃ意味がない!という欲求が嵩じて、30代前半で日本を出てオーストラリアにやってきたわけですけど、いやあ、世界は面白いですよ。笑っちゃうくらい。普通にバス乗ってたら人数の数だけ民族が違うという現実がメチャクチャ面白い。かくしてそっちの面白さにのめりこんでいけばいくほど、相対的にどんどんテレビの地位が低下していくのでした。そういえばテレビってあったよな、てな感じです。

ところで、オーストラリアのテレビも詰まらないです。最初は英語が出来ないから面白くないだけかと思ったけど、今でも出来ないけど、それでも実体として面白くないということくらいは分かるようになった。オージーもまたようテレビみるんですよ。スポーツ番組や、ベタな定番企画(Australian Idleとか、Big Brother系とか)が多いけど。まあ、ワイドショーがないだけ救いですけど(らしきものはあるけど、あそこまで下品ではない)。

ただし、SBSのいかにも視聴率がゼロに近そうな番組は面白いです。世界各国から買ってきて、そのままノーカットで放映しているもの。いつだったか、ソ連崩壊後、それでも中央の強権支配をうけているシベリアの少数民族の政治家のドキュメントをやっていたけど、あれは印象に残ってます。ロシア以外のメディアだったと思うけど、よくこんな取材できたなって思うくらいで、「ああ、ジャーナリズムってこういうことなんだよな」って再確認するような。殆ど可能性ゼロに等しいけど、それでも頑張って、ヘリに乗ったり、雪上車でブリザードのシベリアを突っ切ったりして、住民へ戸別訪問を黙々と続ける地元の若手政治家の姿でした。なんというか、いかに民主主義というのが戦って勝ち取るものなのか、そしてその闘いというのがいかに絶望的なものなのか、そしてそれでもやってる人達が世界にはワンサといるという現実が面白いです。見てて力が出るというか、魂に火をともされるというか。

あと、これも過去に紹介しましたが、安楽死を認めていないオーストラリアで、安楽死を求めるオージーが中南米まで薬を買いに行ったり、仲間同士で私有地で実験室を作って調合してたりという報道番組も面白かったな。こうやって、何年経っても思い出せるような番組を良い番組だと思うのですが、それって少ないです。

以上、「他にやること=現実にコミットすること」があるので、テレビという「板っきれ」に関わってるヒマがないということです。ネットも同じく、現実にコミットするドア的機能があるだけ実用性がありますが、あくまでドア的機能に過ぎない。ドアだけじっと見つめててもしょーがない。ドアは開けて、通って、なんぼでしょう。

なんとなくBGMテレビ

そうは言っても、実際にテレビを見てる人は、別に「見ている」わけではなく、なんとなく寂しいから付けっぱなしにしておくだけだといいますよね。その気持ちは僕もわかる。家に帰って一人でメシを食ってるときとか、TVで人の声が流れてくると気持ちがなごむという。まあ、BGMですよね。

その気持ちは自分もそうだっただけに分かるのだけど、でもでも、あれって結局誤魔化しじゃん、トイレの芳香剤みたいなものじゃないですか。僕もふとそれに思い至って、テレビ消しました。とたんにシーンというか、ツーンという妙な音がして、わびしさが襲ってきますよね。また天井の蛍光灯がなんか白々しいんだわ。でも、それが現実だろ、受け止めようぜと。しょーもないメシを食ってるから、それを忘れるためにテレビ付けるとか、マンガ読むとかいうのも止める。わびしいメシだったらわびしいメシをまじまじと見つめる。すると「なんでこんなモン食ってんだ、俺」って結構真面目に自分と向かい合えたりします。現実逃避はやめようって。逃げて逃げ切れるものならそれでもいいけど、逃げ切れるわけ無いんだから意味ねーよなと。同じように、通勤時間にやってたウォークマン(今ならiPodかな)も止めました。このクソみたいな現実を見つめようと。

最初は手持ちぶさただし、違和感あるけど、やってるとすぐに慣れます。とりあえず、テレビを消すと自分の脳細胞が復活して動き出すのがわかります。いきなり自分でもの考えるようになります。じっと現実を見てると、別に逃避しなきゃいけないくらいしょーもない現実なんか?ってのも分かります。それもデカい。満員電車や渋滞というのはクソみたいなものだけど、それでも赤ん坊のような目で見てたら、面白いんですよね。なんでこの人こんなカッコしてるのかなあとか、詰まらなそうだなあとか、なんで○○ナンバーの車がこんなところを走ってるんだろうとか。そもそも、なんで俺はこんな所でこんな事やってるんだろうって。

結局、現実しかないんだから、現実でやっていくしない。現実がイヤなら、その現実を変えていくない。世界の全てを変えることは出来ないし、周囲の他人も変えることは出来ないけど、でもちっぽけな自分程度だったら変えられるだろう。じゃあ、何をどう変えたらいいのか?そもそも何がモンダイなのか?何がイヤなのか、どうなりたいのか。考えてみれば、結構時間ないよな、ヤバイよな、、、そうだよなあ、家が火事になっているのにテレビなんか見てるヒマないよなって。

でも、この考え方を他人に押しつけるつもりはありません。これは現実にまだまだやることがあると思える人向きです。何をどうしても到底ダメ、絶対無理と、人生に心底絶望した人は、せっせと逃避すべきでしょう。精神が壊れないうちに、自己保存本能の赴くまま現実から逃げるべし。逆に、現実で精一杯戦っている人が、一日の終わりに疲れを癒すために、頭がほけーっとなるお馬鹿なテレビをみるのも大いに結構だと思います。お馬鹿であればあるほど癒されるってのはあります。しかし、そのどちらでもない、僕のようにまだまだ人生に絶望しておらず、そして精も根も尽き果てるというほど現実で戦いまくっているわけでもない人は、もっと他にやることがあるんじゃないかって。

紅白と元旦というカレンダーの話

話を紅白に戻すと、紅白というのは一種の風物詩なのでしょう。「一年が終ったという気がする」ための儀式的なものです。儀式というのはカルチャーであり、カルチャーというのは本質的に非論理的で、場合によっては滑稽なものです。なんで他人が歌うたってるのを見ると一年が終ったような気がするのか?不思議といえば不思議だし、非論理的で滑稽な思いこみなんだけど、カルチャーというのは滑稽なことを神聖なレベルにまで引きあげる魔法ですからねえ。

そもそもですね、「年末」とか「新年」とかいっても意味あんのか?って気もしますね。
要は太陽の公転軌道を一周しただけの話ですが、日頃ろくすっぽ天体運行に興味もないクセに、このときばかり公転周期性を言うのもヘンです。それに厳密に天文学的に言えば1年は365日と6時間弱ですから、毎年6時間ズレている。だから4年に一回閏年がある。6時間(×○年)分ズレているんだから、カウントダウンとか嬉しそうにやっても、客観的には間違ってるわけで、空しいっちゃ空しいです。

ところで、なんでこの日が元旦なのか?という根拠が不明です。言うまでもなく暦というのは天体の運行を基準にしてます。地球と太陽との公転軌道の位置や角度によって日照時間が増えたり減ったり、それによって四季が出来、農耕社会では格別に重要な意味を持っていました。だから暦を作った。だったら分かりやすい日、つまり公転周期上ピンポイントな日=春秋分・夏至冬至にすればいいのに、なんでこんなハンパな日を元旦にしたのか?

で、調べてみたら、これがディープで、究極的には分からないようです。紀元前700年まで遡っても分からないという。今のグレゴリオ暦の下敷きになったのは紀元前45年にシーザーが作ったユリウス暦だといいます。当時ローマは太陰太陽暦(月齢を基準とし、閏月を入れて帳尻を合わせる、日本古来の旧暦と同じ)だったのですが、最初から太陽暦をやっていたエジプトを征服してから、太陽暦を取り入れました。が、古代ローマもいい加減で、閏月を入れなきゃならないのに政敵を早く任期満了にさせたいから閏月を入れないとか滅茶苦茶やっていたので累積債務ならぬ累積閏月が3か月もあったそうです。シーザーはしょうことなしにこの債務消化をしたため紀元前45年は1年が445日もあったという!そして、当時新年は3月1日だったそうです。面白いですね、1月1日を新年にしないのですね。まあ、春の訪れを元旦にしたい気分はよく分かりますが、だったらそれを1月にしてしまえば良いのだけど、「正月が一月なんて気分が出ない」という当時の人々の慣習を重んじたのでしょう。それに加えて「春分の日は3月25日に決まっとる!」という頑固な意識があったそうです。

じゃあなんで春分が3月25日なのよ?というと、王政ローマ初期のロムルス暦では、スゴイことに3月から12月までしか暦がなかったそうです。1月と2月は日付ナシという。まあ、農耕に関係するなら農閑期であるこの時期に日付は要らないだろうけど、すごいな。で、やっぱり無いと不味いでしょうということで紀元前713年にヌマ暦で1月と2月が新設されました。今日でも2月が28日とハンパなのは、2月というのは本来「年末」であり、あれは一種の「年末調整」だからみたいです。また、「1月2月が無くて3月があるとは何事か」と思うけど、別に月名を数で言ってたわけではなく、3月だったらマルチウスとか呼んでたので(日本だったら「弥生」)違和感はなかったのでしょう。で、春分がなぜ3月25日か問題は「もっと昔からそうなっていた」としか分からんようです。諸説あるようですが決定打がない。曰わく、紀元前153年に改暦のとき、「冬至から最初の新月の日を1月1日に」したのだ、そこから自動的に3月25日が春分になったのだという説もあるし、シーザーが3月25日を春分にしたから自動的に今の1月1日が決まったのだという説もあるそうです。よう分からん。ちなみに3月25日の春分がどうして21日になっているかというと、公転周期が365.2422日なので128年に一日の割合でズレる。これを325年のニケア公会議、そして現在のグレゴリー暦採用の1528年に修正したからだそうです。

ともあれ感じとしては、春分のあたりを3月にしなきゃいけないという不文律があり、またそこから遡って1月が出てくる。そして1月あたりには冬至があり、冬至にはまた冬のお祭りがあり、それが元旦やクリスマスになったという。だからこの問題は、春分近辺のお祭り慣習と冬至近辺のお祭り慣習に引っ張られて暦が出来、それが長い年月でズレたり修正したりしながら今日に至ったという感じですね。けっこうムニュムニャしてます。参考にしたのは暦と天文の雑学別窓)と1月1日に一年が始まる理由別窓)です。

そしてそんな古代ローマのムニャムニャを極東の島国の日本が引きずっているというのが面白いです。日本で太陽暦を採用したのは明治5年らしいですが、これも調べたらムチャクチャな話で、「この次の12月3日を元旦にするからよろしく!」と太政官布告337号を出したのですが、出した日がなんと11月9日だったというから実施まで1ヶ月も余裕がなかったという。カレンダー業者は大損害だったそうです。しかも、なんでこんなに急いだかというと「金がないから」らしいです。つまり変更しないと翌年は閏年で13か月もあるから給料を13回払わないとならない、それが惜しい。また12月も事実上2日しかないから12月分も払わないで済むという、涙がチョチョ切れるような理由だったという。今の日本政府もお金に困ってますが、明治政府も大変だったようですね。

ちなみに世界の暦はいろいろあって、ユダヤ教でも、中東のペルシャ暦でも大体3-4月に元旦がくるようです。古代バビロニア暦の影響を受けているようで、春分の日に最も近い新月を元旦とするという意味では、古代ローマのローカル慣習の縛りを受けているグレゴリー暦よりも、こちらの方が明快だと思いますね。ただし、それぞれに宗教的な粉飾は付されていますが。

ということで、そもそもなんで今が正月なのかという根本的なところがムニャムニャしてるわけで、暦と言ってもやっぱりカルチャーなんですね。よく考えると不思議であり、もっと考えると大した根拠もなかったりします。

そして、そんな曖昧な年末年始を感じるための紅白もまた、なんで年末のクソ忙しいときに呑気に歌なんか見てないといけないのかというとよう分からんし、まあ儀式であり、カルチャーですよね。その昔、娯楽が少なく、美空ひばりが天皇のようなカリスマをもっていた頃、皆で力を合わせて一歩づつ復興していた日本において、紅白というのは日本国民統合の象徴のような、まさに天皇的な番組だったのでしょう。だからもうこれはテレビがどうのとかそんなレベルの問題じゃないのかもしれませんね。だからこそ今も尚、形骸化しつつもそれを引きずっているという。形骸化したカルチャーが延々続くことは珍しくありません。なんせ紀元前700年の古代ローマのカルチャーを未だにカレンダーで引きずってるくらいですから、2000年後も紅白やってるかもしれません。まあ、その頃には原型を留めておらず、なぜか「赤福餅の歌を合唱する」という風習に変じているかも知れませんが。

まあ、でも、暦とか正月とかいっても便宜的なもので、カルチャーの魔術が解けてしまえば嘘みたいに気分が出ません。冒頭で書いたように、オーストラリアでは元旦が夏です。暑いです。もうこれだけで正月気分なんか吹き飛ぶもんね。蝉が鳴いてるし。「全然師走/正月だという気がしない」というのは、日本人だけではなく多くの人々(北半球から来るから)が言っているでしょう。まあ、タイとかインドの人は年中暑いから暑さによる違和感はないかしらんけど。ご苦労なことにオーストラリア人も、クソ暑いのにサンタさんの衣装を着て商戦を戦ってたりします。何やってんだか、って気もしますね。




文責:田村




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