今週の1枚(2010/12/20)




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Essay 494 :ひとりぼっち 〜「個人化」の不安 

 
 写真は、EnmoreとMarrickvilleの間あたり。


 微妙に前回(essay493/A型定食とB型アラカルト)と関連します。
 前回は、世界&日本の潮流として、「これさえやっておけば大丈夫」的な定食的人生(A型)から、個々人が自分で人生を開拓していかねばならないアラカルト型(B型)になりつつあることを書きました。

 前回はもっぱら経済的な視点からですが、今週は社会学的な視点からです。


U.ベック氏、来日の記事

 「個人化」の不安、日本にも〜社会学者ベック氏、初来日という朝日新聞の記事(2010年11月11日)をみつけました。この報道はそこそこ注目されているようで、関連するブログやツィッターがネットでも散見されました。何か皆の琴線に触れるものがあるのでしょう。

(記事の要旨抜粋)

 氏が今回自ら力説したのは、リスク社会論ではなく「個人化」だった。
 男女平等化などが進んだ結果、家族や階級といった「集合的カテゴリー」から個人が解放されると同時に、個々人が裸の個人として自らの人生を運営するよう迫られもする。近代後期の、そんな新現象だ。 「たとえば日本では企業が個人に保障を与えてきた。個人化とはそうした保障の外へ出て自由になることだが、新たな不安定も発生する

 個人化という概念自体は、西ドイツ(当時)の観察を踏まえて『危険社会』ですでに提起されていた。だがいま日本で聞くと、言説に、より切迫性が宿るように響く。

 「昔、(近代の核)家族は、寒い資本主義社会での心のよりどころだった。だが個人化により、家族はリスクの場に変わりつつある

 失業や雇用の臨時化が個人に直接打撃を与え、女性が家庭にいるという核家族の前提も崩れる中で、「対策」が個々人に強いられる。今世紀初頭以来、そうした傾向が多くの国々で認識されているというのが氏の見立てだった。

 「リスク社会化と個人化が同時に起きていることに着目してほしい。グローバル化のもとで、保護されることなく責任の持ちようもない状況が、広がっているのだ」

 これをもう少し専門的にまとめてあったのが、個人化する日本社会のゆくえーーベック理論の可能性ーー(シンポジウム実行委員会)のページでした。
 やや学術的な表現なので読みにくいかもしれませんが、ばーっと斜め読みせずに、時間をかけてゆっくりとお読み下さい。一行あたりの情報密度が非常に高く、丁寧に展開すれば一行でこのエッセイ一本分くらいの内容があります。

 (前略)
 「個人化」は、日本においても近年とくに注目されている概念である。経済が長期にわたって低迷するなか、個人の生活/人生がリスク化し、リスクに個人的に対処することが強いられるようになっている。これは単なる景気循環の問題ではなく、社会学が固有に研究対象とすべき構造変動をともなった問題である。すなわち、日本では00年代に入ってから、家族形態の多様化と個人化、キャリア形成を含むライフコースの個人化、教育や労働における心理学主義の浸透、人間関係の選択化、そしてアイデンティティの再帰化といった現象が、とくに集中的に現れている。これは、従来、リスクを縮減する役割を担っていた制度や中間集団が、機能不全ないし崩壊の危機に瀕しているからである。こうした意味で、日本社会の危機をとらえる概念として「個人化」はきわめて有効であり、その検討は緊急の課題であると言える。(中略)

 日本の場合は、グローバル化と新自由主義改革の急速な進行のあと、初めて個人化に注目が集まったが、欧州では“福祉国家の危機”がおとずれる以前から個人化は始まっているとされる。かつての日本では、終身雇用と年功型賃金、企業内福利厚生の制度が、生活の長期的安定を保障していた。すなわち、公共事業による雇用創出効果も含め、雇用保障のメカニズムが公的な社会保障を代替していたと言える。また、こうした企業中心主義は家族の全成員の生活を保障し、社会を統合する役割をも担っていた。こうした特徴的な制度が崩壊しつつあるいま、生活/人生上のリスクを安定化する装置は、どのようなものであるべきだろうか。「個人化」の経験的現実と理論的可能性を探究するにあたって、欧州と日本、そして東アジアを比較しながら考えてみたい。

 欧州と同様、日本社会もまた、すでに「第二の近代」の段階に入っていると考えた場合、「第一の近代」から「第二の近代」への移行の時期と変化の規模、そしてその原因については、欧州・日本・東アジアの間に差異がみられるはずである。また、「第一の近代」におけるリスク縮減のメカニズムや、グローバル化や新自由主義など近年の社会変動との関係についても、比較の視座から検討されなければならない。また、新たな「自己」や「アイデンティティ」といった問題圏についても、地域ごとの差異を視野に入れた上で、個人と社会といった基礎概念の再定義から始めなければならない状況が生まれている。さらに、「個人化」の肯定的な側面と否定的な側面の関係、「個人化」の進行が第一の近代の必然的な帰結であると言えるかどうか、「個人化」とサブ政治やコスモポリタンな連帯との関係についてなど、ベック理論のなかで検証を要する論点は多岐にわたっている。


 ということです。「ああ、なるほどねえ」って感心しました。どなたがお書きになったのか存じませんが、簡潔によくまとまってますよね。

個人化、再帰的、第二の近代など

 さて、ここで僕一人が、「へへ、面白れ〜」と喜んでるだけでは芸がないので、ベック氏の所論に関する上の記述を僕なりに咀嚼してみました。あくまで僕の主観ですし、かなり乱暴に意訳してますので、よい子の皆さんは話半分に読んでくださいまし。

 ここで問題とされる「個人化」というのは、僕が乱暴に(間違っているのを恐れず)要約すれば、ひとりぼっちになるってことです。最近、誰も彼もが一人ぼっちになりつつあると。「おひとりさま」とか言われているくらいだから、もうなってますよね。あれって「ひとりぼっち」ってことでしょ?ミもフタもなく言ってしまえば。そして、それは日本だけの傾向ではなく、欧州においてはかなり前から見られた現象であり、また単なる不景気により一過性のものでもなく、社会構造そのものの変化としてそうなっている、と。

第二の近代化

 さて、ここで「第一の近代」と「第二の近代」と書かれてます。なんのこっちゃ?と思って調べていくと、結局こういうことだと思います。
 まず「近代化」というのがあります。世の中の基本原理、デフォルトルールが近代化したこと、つまり民主主義であるとか、資本主義であるとか、科学主義であるとか、そういうものにチェンジしたと。これって、現在あまりにも当たり前になっているので、今更そうと認識しにくいけど、江戸時代や明治時代の家父長制バリバリの封建的な時代からしたら明らかにルールや根本原理が変わりました。社会のメインプレーヤーも、それまでは武士とか軍人であったのが、商人と商業の時代(資本主義)になりました。儒教的忠孝や皇国ドグマから、個人の尊厳を原理とする社会秩序(法治主義、民主主義)に変わった。個々人のライフスタイルも大きく変容し、先祖伝来の田畑を耕して一生を終えるというスタイルから、企業に雇用されサラリーを得て生計を立て、老後は公的年金によって成り立たせるというパターンになった。そのあたりのひっくるめて近代化というのでしょう。これも幾らでも細かい議論はできるのでしょうが、まずは大雑把に。

 じゃあ「第二」って何なの?というと、アップグレード、ヴァージョンアップであり、近代化2.0です。
 近代化が進むにつれ、予想外の副産物(弊害)が生じたり、理想的だと思われていたシステムが実は十分ではないのが分かってきたので、これをさらに修正させていこうということでしょう。それも小手先の修正ではなく、根本的なもの。Ver1.0がVer1.1になるようなものではなく、Ver2.0になるようなもの。なお「再帰的」というキーワードが良く出てきますが、フィードバックですね。壁にぶつけたボールが跳ね返ってくることです。やってみて上手くいくかどうかモニタリングして、不具合やバグを体感・自覚することでしょう。何かを変えると、変えた結果は自分に跳ね返ってきます。その跳ね返り具合を見てさらに修正する。

 もうちょい具体的に書きます。
 昔の封建主義の時代に比べれば、近代ははるかに住み心地は良くなりました。だけど必ずしも万全ではない。あれこれと不都合も出てくる。例えば、江戸時代は幕府や大名(エリート武士階級)だけが専制的な政治権力を持っており、一般庶民は政治に口出しすることなど全く許さず、百姓一揆で直訴でもしようものなら、「御政道に意見する不届きな輩」として殺されるのが基本。税金(年貢)に控除なんて生ぬるいものはなく、一家餓死しようが税金を払わされ、そんなヒドい状況を改善する手段は(暴動以外は)ゼロ。それが封建社会というものです。それに比べれば普通選挙の民主主義ははるかに進化してます。しかし、今の議会制民主主義と行政だけで大丈夫か?というと、必ずしもそんなことはないのは周知の通り。だからこそ様々な分野でNPOが組織され、社会の問題についてダイレクトに手を伸ばして改善していこうという動きにもなる。また、リコールや住民運動も活発に展開されるようになってきます。リアルタイムでも阿久根市や名古屋市がホットですね。つまり選挙だけやってればバッチリさ!とは言えない現実があるわけで、第一の近代化の功績を認めつつ、そのバグもまた認め、さらに良くしていこうという「第二の近代」が起きる、と。

再帰的アイデンティティ、リスクとしての家族

 個々人レベルでの「再帰的アイデンティティ」というのも、「○○家の長男」とか「武士の子」という集団的アイデンティティが、近代化によって「○○国民」になったり、「○○社の社員」になったり、核家族におけるパパママ子供というアンデンティティになる。しかし、グローバル資本主義のコスト競争の結果、リストラと非正規雇用が進むにつれ、昔ほど「社員」というアイデンティティを感じることもなくなった。「家族」もまた徐々に解体され、あるいは晩婚・非婚・少子化で「家族」そのものを形成しない人々も増えてきた。第一の近代化によって与えられたはずの個々人のアイデンティティやライフスタイル=企業の一員&核家族の一員=が、資本主義が進化するにつれてどんどん希薄になっていく。そもそも就職も結婚もしたことがない層も増えていく。このように所属組織や中間団体からはじき出された個人は、結局誰でもない裸の自分に還元されていく。そしてダメ押しするかのように、「自己責任」が念仏のように唱えられる。これが近代化のプロセスをブーメランのようにグルリと廻って帰ってきた(再帰的)アイデンティであり、かくして誰も彼もが解体され「ひとりぼっち」になっていく。これらを総じて「個人化」と言うのでしょう。

 「癒しの場であった家族は、いまやリスクの場になっている」という一節がありましたが、確かに。一人でいるエゴ充足の心地よさになれてしまえば、24時間やることなすこと文句を言われ、他者のエゴに晒される結婚共同生活は、癒しというよりは「リスク」かもしれんし、子供は宝であると同時に、多額の教育費がかかり、育児ストレスを惹起させる「リスク」かもしれない。そういったことって別に昔から変わらないのだけど、近年になればなるほど、「しんどいこと=リスク」として認識される度合いが高くなっている。だからこそ、結婚に二の足を踏んだりして晩婚非婚化が進む。

心理学主義

 えーと、それから、「特に日本の場合2000年代に入ってから、キャリア形成を含むライフコースの個人化、教育や労働における心理学主義の浸透、人間関係の選択化、そしてアイデンティティの再帰化といった現象がとくに集中的に現れている」という一節がありましたよね。ここも論点豊富な箇所です。「アイデンティティの再帰化」は今書いたばかりだからよしとして、「キャリア形成を含むライフコースの個人化」は前回書いた就職の困難化、非万能化(大企業に入りさえすれば人生OKさ!は言えなくなること)によって、否が応でもB型アラカルト的に人生を組立てざるを得なくなることですね。「人間関係の選択化」は、問答無用で集団の中に押し込められ、そこで誰とでも上手くやっていくように強制された時代(例えば徴兵や集団就職)とは違い、選択的に付き合う人々や居場所を決められるようになったということででしょう。それは一見快適で良さげに思えるのですが、気の合った小集団とだけタコツボ的につきあうことは、自分の周囲の人間関係に厚みが無くなることでもあり、社会的な居場所が限定されていくことでもあり、それは生活保障という観点からすればむしろマイナス的な要素の方が強いということでしょうか。

 「心理学主義」というのは、僕も確定的に言い切れないけど、多分こういうことでしょう。
 世間で何か問題や事件があった場合、かつては政治や社会制度の問題として語られてました。社会に貧困があったら、それは社会の仕組みがおかしいんだ、やれ階級闘争だ、福祉の充実だというシステム論で語られた。でも、2000年代(もっと前からだと思うけど)、これを社会の問題として捉えるよりも個人のココロの問題として捉える傾向が出てきましたよね。職場であれこれ悩むのは昔からあったけど、それを「鬱」とネーミングしたり、心理学的解説や対策が語られるようになる。「働いても働いても生活が楽にならない」というのは、「じっと手を見る」という歌を詠んだ石川啄木の昔から、あるいは遠く万葉時代の山上憶良の「貧窮問答歌」からあるありふれた現象だけど、ワープアだ、ニートだ、ひきこもりだとレッテルを貼り、あたかも個人の精神的資質の問題であるかのように語られる。

 職場における労働の疎外はマルクスによって熱く語られていたし、職場環境の非人間性があるからこそ労働三法が作られたわけだし、就職機会の少なさは雇用対策という国家政策の問題として語られた。でも、だんだん個々人のココロの問題であるとする傾向が、なぜだか知らないけど強くなった。結果として、社会の問題を個人(の弱さ、無能さ)に押しつけているような観もなきにしにあらず(「自己責任」論との絶妙なカップリングもあり)。まあ、本当のところはマダラ模様というか、「あれもあるし、これもある」で、どんな要素もそれぞれに含むのでしょう。何もかもも政治社会のせいにはできないけど、何もかも「甘えてる」とか「根性がない」という個人の精神資質の問題に帰責させるのも同じくらい乱暴な話なのでしょう。また、誰にでもあるちょっとした気分のヘコみを「心の病」として扱うことで却って状況を悪化させているキライもある。このように、全てを心理学で解き明かそうという過剰な傾向を心理学主義というのでないかと。別に心理学が悪いわけでも、その有用性を否定するわけでもないけど、概してトゥーマッチな部分があるのではないか、、、ってことを言うのでしょう。「個人化」の文脈でいえば、社会の問題を個人に押しつけること、その個人を社会から切り捨てようとする一連の流れによって、個人がどんどんバラバラになって「ひとりぼっち化」が進む、ということなのでしょうね。

 例えば---、同じ朝日新聞の記事(2010年8月21日)に「「従業員に心の病」増加傾向は44% 上場企業調査」というのがあり、「日本生産性本部メンタル・ヘルス研究所の今井保次副所長は、「早期発見や治療に向けた企業の取り組みが充実してきたことで、増加は食い止められつつある。減少に転じさせるには、職場の雰囲気を改善するなど、予防的な取り組みの強化が欠かせない」と指摘する。うつ病などの対策では、厚生労働省が2011年度から、定期健康診断の問診で不眠や倦怠(けんたい)感など精神疾患の兆候をチェックすることを検討している 」というのがありました。

 「ふーん」と読み流してしまいそうだけど、よく考えるとちょっとヘンなんですよね。普通に働いていて精神状態がおかしくなるというのは、まずもってその職場環境が健康被害をもたらすほどに異常だということではないのか?素朴に考えたらそれって労基法や労働安全衛生法違反ではないのか?工場で常時有毒ガスが発生していて労働者が○○病にかかってますというのと同じ事ではないのか。リストラや派遣切りをチラつかされて、違法労働を強制されたり、本来の権利である休暇を取りにくくさせられているとか、システム的な部分に問題があるのではないのか。にも関わらず「予防的な取り組み」「定期検診」とか、あたかも風邪とか成人病みたいに、職場とは関係ない純粋にパーソナルな健康問題という領域に押し込められているのではないか。もちろん職場が原因でないケースも多々あるでしょう。でも、とある職場で食中毒が発生したら、とりあえず社員食堂の定食や弁当を検査するように、直近環境である職場にも原因があるとは思わないのだろうか。思わないんだよね。少なくともこの記事ではそうだし、もっと恐いのはそれを僕らが疑問に思わず「ふーん」と読み飛ばしてしまうことです。それがすなわち「心理学化」なのでしょう。

個人化

 近代化(資本主義など)が進展すれば、企業の利潤追求主義から個々の労働者が割を食ったり、生活破綻に追い込まれたりするのであり、それは資本主義勃興当時のイギリス炭坑から当たり前のように存在していました。だからこそ、これを軽減緩和するための制度や集団があったのだけど、それが「機能不全ないし崩壊の危機」に瀕しているといいます。「かつての日本では、終身雇用と年功型賃金、企業内福利厚生の制度が、生活の長期的安定を保障していた」というのは確かにそうで、前回のエッセイの最後にちらっと書いた「小さな政府、大きな企業」ですよね。従業員の人生は、企業が責任を持って最後まで面倒をみるという家族主義です。また国家においても「公共事業による雇用創出効果も含め、雇用保障のメカニズムが公的な社会保障を代替していたと言える。また、こうした企業中心主義は家族の全成員の生活を保障し、社会を統合する役割をも担っていた」と。景気がヤバくなったら、ムダを承知で公共投資をし、無駄な高速道路を造ったりしたのだけど、それによって職が増え、人々の生活、ひいては家族がとりあえずは廻っていた。が、企業はリストラで人減らしをし、終身雇用どころか早期退職勧奨に血道をあげ、政府は政府で財政火ダルマだから大盤振る舞いもできない。こういった日本独自のサスペンションシステム、クッション材がどんどん薄っぺらくなっていくと、個々人の生活や人生は、本当に何の保証もなく、見通しもなく、ポーンと放り出されることになる。「保護されることなく責任の持ちようもない状況が広がっている」というのは、そういうことなのでしょう。

 これまたついでに挙げておくと、朝日新聞の2010年11月20日付記事に、「今後1年で失業する不安」20代で3割超す 連合総研というのがありました。「「今後1年間に失業する不安を感じる」という人の割合が20代で32.9%になり、過去最高になった(中略)。20代は前回の4月調査より10.3ポイントも上がった。(中略)連合総研は「昨秋までは早期退職を促される中高年に失業の危機感があったが、新卒採用抑制での雇用調整が進み、不安定な立場で働く20代が増えて将来への希望が持ちにくくなっている」とみる。」ということです。ちなみに、先に挙げた「心の病」では、「30歳代が58.2%で最も多く、40歳代が22.3%で続いた」となっており、二つの記事を乱暴にジョイントして考えると、20代は失業「不安」くらいだけど、これが30代、40代になると「心の病」に進化するということかな。ブリークな(荒涼とした)風景が浮かんできそうですね。


 じゃあどうするの?第二の近代化で我々は何を修正し、何を再構築すべきなのか?というのが、ベック先生の問題提起であり、地域差を考えつつ日本の皆さんと討論しましょうというのが、今回の(終っちゃったけど)シンポジウムの目的だということですね。なんか、文章の咀嚼だけで終ってしまいそうですが(^_^)。でも、非常にサジェスチョンに富む問題提起だと思います。

社会科学というサイエンス

 さて、こういう社会科学の議論って、「そ、そ、そうだったのかあ!」とズガーンと脳天撃ち抜かれるようなショックに見舞われることはマレで、大体は「ふーん、そういえばそうかな」「え、そんなの皆知ってるんじゃないの」「まあ、何とでも言えるよな」という鈍〜い反応になったりしがちです。僕も一瞬、「ふーん、何を今さら、、」というニュアンスの感想が心をよぎりました。

 しかし、反応が鈍いのは所論が陳腐だからというよりも、自分が鈍いからという場合もまた多いです。むしろ反応が鈍いくらいの方がスゴイ場合が多い。よい例がニュートンの万有引力の発見です。リンゴが木から落ちて、、ってアレです。モノが下に落ちるなんてことは、改めてニュートンに言って貰わなくても、誰でも知ってます。およそ知らない人なんか一人もいないでしょう。でも、その現象に注目して、独自の理論体系を考えようとするところがサイエンスとしての非凡さなのでしょう。対象も結論も平凡なんだけど、ただ着想と理論構成が非凡であるという。

 トリビアかもしれんけど、ニュートンが発見したのは重力ではないです。モノが下に落ちるいわゆる重力は、それ以前から知られてました。ニュートンがやったのはリンゴ重力とケプラーの法則(天体運行の法則)をドッキングさせたことです。ニュートンが天才的なのは、リンゴが木から落ちる力と、太陽の周囲をグルグル廻っている惑星を動かしている力は、本質的には同じモノなんじゃないか?という着想を得た点です(だからこそ”万有”引力なのだ)。夜空の星も庭のリンゴも同じ原理で動いており、世界を統べる共通の運動法則というのがあるんだという発想です。これにより「なんで火星はああいう動き方をするのか」ということが力学的に説明できるようになり、近代科学が一気に花開くようになる。要は発想であり、モノの見方なのですね。一見クソ当たり前に見えること、言われてみてもピンとこないような当たり前のこと(リンゴが落ちる、星が動く)に実は大きな鍵が隠されており、それに気づくかどうか。

 社会科学でも同じ事だと思います。見慣れている、ありふれている、クソ当たり前に思いがちな物事から、鋭い視点で一つの傾向なり法則性を導き出す。その発想、着眼点。

 一方、社会科学がサイエンス(科学)であるというのが、中々ピンとこなかったりします。僕もそうでした。「サイエンス」のイメージは、白衣着て試験管振ってるSFみたいなイメージに陥りがちだからです。自然現象の法則性を解明する自然科学はサイエンスイメージに馴染みやすいけど、人間集団の法則性を考える社会科学がサイエンスであるというのは分かりにくい。なんか見る人によっても違うし、言い方一つで右にも左にもいきそうだし。つまりは「好き勝手にあれこれ言ってるだけ」じゃないか?と。そんなの俳句を詠んだり作曲したりしてるのと同じで、「真理」とか「科学」と言われても違うよな気がする、と。

 でも、社会科学もサイエンスなんですよね(ついでに言えば文学なども人文科学です)。論理性、実証性というルールで、一つ一つレンガを積むように堅牢さで一歩いっぽ真理に近づいていくという認識方法論は、まさしくサイエンスです。ただし自然科学のように実験室で実験するという再現性や証明性に欠けるので、何となく「言ってるだけ」っぽく見えるんですわね。わかりにくい。それでもその「モノの見方」が、どれだけ筋道通っているか、どれだけ応用範囲が広いかという検証は出来ます。

 社会現象というのは誰でも日常的にも体験しているから、どんな人でもある程度の見解はあります。「最近の若い者は根性がない」「政治家がだらしないから日本がダメになっている」なんてのも、一つの社会学的な見解でしょう。それが単なるおっちゃん、おばちゃんの感想レベルなのか、それともサイエンスとして一つの見識としてのレベルになるか、その差はどこにあるのか?といえば、どれだけ緻密な調査をしたか、どれだけのデーターがあるか、個々の概念定義がキッチリできているか、歴史的な流れとして合致するか、そして、なぜそうなるかの仮説と独自の理論体系があるかどうか。あるいは、よく知られている科学の公理=「より広範な対象を、より単純に説明できる理論がより真理である」=に照らしてクリアするか。

 例えば、「今年自分の部下になった新入社員がクソ甘ったれていて使い物にならない」という一つの事例だけから、「最近の若者は〜」という結論を導き出すのはやっぱり無理があるでしょう。たまたまそういう人物が配属されたかもしれないし、対象事例が少なすぎ。1000人単位の調査を10年がかりで地道にやり続け、蓄積されたデーターを緻密に解析しているわけでもない。また、「最近」っていつ頃からいつ頃までか、「若者」というのは何歳から何歳までか、「根性」の具体的な意味は何か?「無くなった」というのはどういう点でどのくらい差があるというのか?という個々の概念もいい加減、、、という具合に厳密に検証していけばボロボロであり、そんなレベルのモノを学会で発表したら、激しい集中砲火を浴びて「とうてい批判に耐えられない」ものとして葬り去られるわけです。逆に言えば葬り去られないだけの強靱な所見、せっせと歩いて、調べて、データーを積み重ね、毎日毎晩考えて考えて考え抜いて、研磨し抜いた所論だけが、何となくの感想とか、思いつきではないサイエンスになりうるという。今回のベックさんも、別にシンポジウムをやりにきたのではなく、自分の理論が各国各社会においてどのように差異的に発現しているかというフィールドワークに来たそうです。

 サイエンティフィックに一つの説を打ち立てるというのは、途方もない労力を要します。しかし、超々大変な作業な割には、出てきた結論はいたって平凡だったりします。でも平凡でいいと思うのですね。科学というのは妙にクリエティブであってはならない。あまりにもありふれた結論だから詰まらないといって、結論をねじ曲げることは許されませんから。

 さて、この「個人化」議論も、言われても「ふーん、そうかな」くらいで、そんなにガビーンとくるような指摘ではありません。どうしてこの程度のことで、外国の研究者達が大騒ぎしてシンポジウムをやったり、新聞に載ったりするのかよう分らん、というのが正直なところかもしれません。単に外国の高名な学者という権威主義的な空騒ぎじゃないの?とか思う人もいるでしょう。

 でも、この所論は、言われてみたら「ああ、なるほど」なんですね、僕的には。言われてみたらスッと腑に落ちる、だけど言われるまで気づかないというのがニュートンさんのように良い仕事だと思うのです。「個人化」というのは、思いつきそうで思いつかなかったわ。そういう視点で物事を見ていくと、また色々と考えが広がっていくという意味でも良い指摘でしょう。

ひとりぼっち


 所論は要するに、「人類はどんどんひとりぼっちになっている」ということであり、日本人は日本独特の環境のもと、日本独自のメカニズムでまたひとりぼっちになりつつある、ということです。

 さあ、これから「この所見について思うところを論ぜよ」という楽しいコーナーになるのですが、丁度紙幅が尽きました。これ、書きだしたら死ぬほど長くなりそうな予感がアリアリなんです。ヘタに書いたら収拾がつかない。だから今回は基本的にネタフリだけで留めておきます。以下、いくつかの視点をメモ書きしておきます。

 ・いわゆる西洋流の個人主義と今回の「個人化」は、歴史的、理論的、構造的に何がどう違うか?いわゆるインディビジュアリズムとインディビジュアライゼーションの違い(カタカナで書くとややこしいですね)。個人の尊厳を根本ドグマとする西欧流の近代民主主義において、個々人が個人化していくのは当然ではないか。何を今さら個人化云々と騒いでおるか、と。

 ・この個人化は、グローバル資本主義という最先端の経済状況と不可分の関係にあるように見える。本当にそうか。するとこれは経済によって引っ張られている社会現象なのか。だとしたら、今後の予想や対策を考えるにしても、結局のところ経済を考えることと帰一するのではないか。

 ・個人化がある程度進展しているのは認めるにしても、全員がそうなっているわけではない。というか絶対数で言えば未だ少数派であろう。ということは大勢はこれまでと変化はなく、一部において多少の変化が生じているという程度のものなのか。それとも、分かりやすく顕在化しているのが一部なのであって、潜在的には一人残らずその影響を受けているという根本的・全体的変化なのか。

 ・今後、さらに個人化が進展するとして、ある程度のところまでいったら自然に歯止めがかかるのか。それとも一人残らずひとりぼっちの完全原子化、全員孤立化という凄いレベルまでいってしまうのか。YESにせよNOにせよ、その論拠はなにか。

 ・国家と企業による雇用保障、職場集団や家族という安定的な中間団体に個人が保護されてきたというが、本当にそうか。家族がリスクになるのと同じ理屈で、これまでの職場や家族もまたリスクだったのではないか。周囲に親しい仲間が居なくなる→守ってくれる人が居なくなるという理屈はわかるが、周囲にいる人間が必ずしも好意的で親密であるとは限らず、周囲の人間から攻撃されることもある。つまり、緊密な職場の人間関係は、ぬくぬくした保護環境である場合もあろうが、逆にイジメの温床やら鬱陶しい人間関係の巣窟でもある。家族についてもしかり。個人が職場や家族によって保護されているというのは、囚人が刑務所によって保護されていると言うようなもので、プラマイ両方の意味があるのではないか。

 ・家族や職場という、一種宿命的・運命的な人間集団だけがひとりぼっち化を救うわけでもない。趣味の仲間やら、SNSやフェイスブックなど選択的・自発的な仲間だってありうるではないか。だとしたらひとりぼっち化するのではなく、ひとりぼっちでない形態(集団形態)が変化するだけのことではないかという指摘もありうるだろう。しかし、趣味的でカジュアルな友人関係だったら昔からあるわけで、そーゆーレベルの問題ではないのだろう。ポイントは、その人間集団があなたの生計や老後を保障してくれるかどうかである。仮にフェイスブックに1万人友達が居ようとも、それが生計や老後を保障しないのであれば本質的には無関係である。「ひとりぼっち」化の不安は、単なるメンタル的なロンリネスだけではなく、経済的・人生的な無保証性にあるのだ。

 ・一方、家族・職場という宿命的な集団から選択的な仲良しグループに移行すること自体にも問題はないか。すなわち、それが選択的である以上、類友的な近似性を帯び、タコツボ化、視野狭窄化するのではないか。旧来の宿命的人間集団はそれが宿命的であるがゆえに、個々人のスキキライなんかお構いなしにあらゆるタイプの人間と付き合うことを強制した。しかし、それが人々の視野を広め、結果的に日本人全体としての均一性や「常識」を育んできたのではないか。これが類友仲良しタコツボ社会になると、行きつく先は未開時代の部族社会のように、部族が違えば人種が違う、意思疎通不能というくらいかけ離れていく。だとしたら日本人という共通基盤(幻想)は徐々に空洞化していくのか。

 ・思うに、人間は周囲に他人が多すぎると「鬱陶しいストレス」を感じ、周囲に他人が少なすぎると「寂しいストレス」を感じるものではないか。今は、「鬱陶しいストレス」の方が比較的強いから、人々はむしろ「ひとりぼっち」になることを望んでいるが、これもある程度進んでいって「寂しいストレス」が「鬱陶しいストレス」を超えるようになれば、またくっつき出すのではないか。それは例えば、20〜30代の頃は自由勝手に振舞える独身環境の方を好ましく思い、結婚にストレスを感じたりもするが、40歳を過ぎ老後が徐々に視界に入り、孤独死などの記事を見るにつれ「寂しいストレス」が徐々に高まり、結婚を強く希望するようになるようなものか。

 などなど、、、あー、こんなのいくらでも思いつきますよね。
 ところであなたはどう思いますか?あなたは、今後死ぬまで、自分がどんどん「ひとりぼっち化」していくとお思いですか?YESにせよNOにせよ、なぜそう思うのですか。それはあなたにとって良いことですが、悪いことですか、良くも悪くもなくただありのまま受け入れるべきものですか。もし悪いこととして捉えている場合、あるいは悪しき側面があると思われる場合、それを避けるために具体的にどのような方策を講じておられますか。そしてそれは成功しそうですか?



文責:田村




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