今週の1枚(2010/12/06)




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Essay 492 :ココロの「受身」 

 
 写真は、ベタ過ぎるけど、オペラハウスですね。この年末年始ホリデーにオーストラリアに観光に来られる方もいらっしゃるでしょう。楽しんでいってくださいまし。どこに国から来られたのか分からないけど(見た目、東欧系かな)、いい感じの熟年カップルでした。

 なお、この写真は望遠レンズで撮っているので遠近感が面白く誇張されています。実際にはこんなに巨大に見えません。
 

受身という技術

 「受身(うけみ)」という格闘技の技術をご存知でしょうか。
 受身とは、相手の攻撃を受けた場合に致命的なダメージを負わないように身体を守る技術であり、ダメージ吸収技術ですのことです。 日本ではもっぱら柔道の受身が有名ですが、柔道に限らず多くの格闘技、さらには高位置からの落下が予想される馬術などにも取り入れられたりしているそうです。

 柔道をやり始めると、まずは徹底的に受身の練習をさせられますし、以後日常の練習においても柔軟体操や筋力トレと共にルーティンの練習メニューに入っています。初段試験の科目にもなってます。最初の頃は、僕も教えられたとおり、ワケも分らず型をなぞって身体を動かしていただけですが、段々と「なるほど、よく出来ているな」と感心するようになりました。

 ご存知の方には釈迦に説法でしょうが、知らない人もこの際知っておいて損はないので(事故に遭ったときの死傷率が激減するし)、ちょっと「よい子の柔道教室」をやりましょう。

前受身
 まず、やらされるのが前受身です。膝立ちになって、そのまま前にビッタンと倒れます。そのときに両肘を曲げ、且つ手の平を地面に向けます。肘から手の平までを一枚の板のように考えます。両腕二本ですからスキー板みたいな感じになりますが、そのスキー板で着地します。手の平の柔らかいところがクッションになりますから、畳の上でやる分にはそんなに痛くないです。はい、じゃこれを10本やりましょう(^_^)。

 やってる頃はなにやら儀式めいていて、皆そろってビッタンバッタンやってるのが多少滑稽でもあり、「こんなの何か意味あるんか?」と不思議だったのですが、今から思うとバリバリ意味があります。重心を崩して前方にすっ転ぶ場合を考えてください。道で蹴躓く場合が典型ですが、自転車、スケート、馬術、乗車・乗船中の揺れ、、など、意外とそういうケースは多いです。

 この場合、最もやってはいけないミスは「腕ツッパリ」です。腕を前方にピンと伸ばして地面と接地させ、身体のダメージを防ぐというやり方です。これは柔道の最初の頃に徹底的に矯正させられます。「手を突っ張るのはやめろ!」と。腕が折れるからです。なにしろ自分の体重を腕一本で支えるのですから、その衝撃はハンパではないです。全体重が掛かるのならば片腕逆立ちと同じくらい、体重の一部であったとしても片手腕立て伏せが出来るくらいの腕力が必要です。ましてやそ〜っと転ぶなんてことはなく、通常勢いよくすっ転びますから加速度がついており、瞬間的な衝撃は静止時の数倍から十数倍でしょう。柔道の一本背負いで投げられるときも、体重の14〜5倍の負荷がかかると聞いたことがあります。ということは、勢いよく転ぶときというのは、一瞬であったとしても数百キロの負荷が腕一本にかかりますから、かなり厳しい。

 さらに方向やタイミングがあります。肘関節は一方向にしか動きません。腕を突っ張る方向や角度をちょっと間違っただけで、全体重が肘関節の逆方向にかかったりします。そうなると全体重(の数倍)の勢いで肘を「へし折る」ことになります。逆方向にベキッと折れます。関節は壊すと治りにくいので面倒臭いです。てか、それ以前に想像するだけで脳内に激痛が走るでしょ?すっ転んでるほんの一瞬に、正しい方向でポンと&しっかりと腕を伸ばし、グワシと大地に接地し、全体重を支えきる、、、なんてのはかなり高等技術です。また、タイミングが狂ったり、足場(腕場)が悪くてツルッ滑ったりしたら、今度は手首骨折だし、さらに悲惨なのはつっかえ棒が無力になってモロに顔面激突することです。ぶつかった地面にとんがった木の枝や石があり、それで目玉を突いたら失明ですし、当たり所が悪ければ頭骨骨折や脳挫傷もあり得ます。「転ぶ」というありふれた行為でも意外とデンジャラスであり、運の悪い人は転んだだけで死ぬこともあります。だから、腕ツッパリでクリアするのは、それこそプロレスラーのように腕力を鍛えている人くらいでしょう。彼らの鍛え方はハンパではないし、身体能力も技術もあるから、投げられている最中に腕で地面をついて勢いを殺すなんて高等技術も出来るのですが、素人は止めた方が無難です。

 この点、前受身は合理的に出来てます。「はあ〜」と感心するくらいよく出来ている。まず、最初から腕(肘関節)を折り畳んでますから、逆方向に負荷が掛かって腕が折れるということは無い。また、両腕の他、両手の平も広げていますから接地面積が広い。衝撃は接地面積に分散されますから、点で接地すると全体重が一点にかかるけど、面で受ければそれだけ単位あたりのダメージは激的に減ります。さらに両手の平を広げているので指が変な風に重なって骨折することもないし、突き指もしにくい。最後に、折畳んだ肘という伸縮可能なサスペンションと肩&腕の筋肉と肘のクッションで衝撃を吸収できます。そして人体の枢要部になる顔面(特に眼)の前には両手の平が、心臓の前には腕があるのでプロテクトできます。特に心臓前は、脇を締めていれば折畳んだ前腕と上腕の二重のクッションで防御されることになります。その結果、かなり激しくすっころんでも、全くの無傷、あるいは傷ついたとしても、手の平が赤くなるくらいでしょう。事故のようにかなり衝撃が強い場合は、両腕の橈骨や尺骨を骨折する場合もあるでしょうが、それでも肘関節にダメージを受ける(関節の複雑骨折と靱帯破壊)よりは遙かにマシですし、完治しやすい。また肘関節をやられるような時はツッパリがきかなくなったということですから、そのまま頭部を激突する可能性が高い。

 でもでもでも!普通にしてたら、やっちゃいけない腕ツッパリを十中八九やってしまうのですよ。なぜか?恐いからです。急速に地面が迫ってくる状況では、一刻も早く地面に手を突きたくなるのです。前受身のように腕を畳んでいると、それだけ着地が遅くなるし、その分加速度はつくし、顔面に地面が迫ってくるからとりあえず恐い。恐いから後先考えずに腕を伸ばす。で、肘骨折とか靱帯破壊とか大怪我になる。

 受身の練習の真髄は、恐怖感に逆らって、あえて不自然な(でも最大に安全な)態勢が取れるように反復練習する点にあります。何度も何度も同じ動作をして、神経と筋肉のセットの動きを身体に叩き込むことにあります。とっさの事故や、転ぶときというのは前もって予想してませんから、ほとんど頭では何も考えていられません。本能的な「頭部をかばう」みたいな動きしか出来ない。そこを徹底反復することで「反射的な動きを上書きしてしまう」わけです。無意識にでもちゃんと動けるようにする。寝ているときでも、夢遊病でも、泥酔時でもそれが出来るようにしておく。大体において転ぶときって酔っぱらってたり、正常でない場合が多いですからね。

 以上が前受身です。

 わお、前受身だけでこんなに行数がかかってしまった。まだ前フリなのに。以下、後受身、横受身、回転受身、飛び受身、、、などありますが、やってたらそれだけで終っちゃうので割愛します。ネットで幾らでも調べられますので、ご興味のある人はどうぞ。一番役に立つ「護身術」です。これから死ぬまでの長い人生、「暴漢に襲われる確率」と「転ぶ確率」とでどっちが高いと思われますか?1年に一回くらいは転んでるんじゃないですかね。でも1年一回コンスタントに襲われるってことは(その種の仕事をしてれば別ですが)、普通はないでしょう。

 あ、でも、大事なこと一点だけ書いておくと、前受身以外の受身の場合、最大の眼目になるのは「後頭部を打たない」ことです。そのためには「顎を強く締めて、首を前方に縮めて固定すること」であり、ひいては「首と顎の筋トレ」です。なにしろ頭から接地したら即死 or ハンパではない重傷を負いますから、絶対に頭部を守ること。そのためには強靱な筋力で首(ひいては頭部)を前に固定することです。だから柔道では(レスリングやプロレスでも)ブリッジなどの「首トレ」は受身と一体となるもので絶対必須教程です。「柔道やってた人は自動車事故でもむち打ち症にならない」と言いますが、「絶対」ということはないにしても、一般人に比べたらかなり確率は低いでしょう。とにかく何かあったら反射的に首をぐっと固定することが身体に染みついてますから。僕も高校の時に自転車で車にぶつかって2−3メートル後方にすっ飛ばされたことがありました。でも当時は現役柔道部だったこともあり、全くの無傷でした。目の前が真っ暗になりながらも、知らない間に受身をとってたのですね。あのときはほんと柔道やってて良かったと思います。ヘタしたら脳内障害を受けてたかもしれないし、くも膜下で3日後に死んでたかもしれませんから。

 さて、この前振りだけで終えても良いのですが、もう一歩「応用」をします。
 心にも受身があるんじゃないかという話です。「心の受身」です。

心の受身

 受身の本質は、
 @、一定のダメージが予想される場合、そのパターンを研究し、
 A、もっとも安全にそのダメージを吸収しうる方法や態勢を考案し、
 B、徹底反復してその態勢を身体に染みこませる
 ことだと思います。
 これらに加えて、 C反射的にやってしまう態勢が実は一番危険だったりする、という属性を入れておいてもいいでしょう。

 そして、「傷=ダメージ」は肉体と同時に「精神」にもありえます。「心が傷ついた」というのは単なるブンガク的な表現に留まるものではなく、日常的に経験されることです。というか、戦国時代ならいざ知らず、現代人の日常生活を考えたら、肉体的ダメージを受ける機会よりも精神的なダメージを受ける場合の方が多いでしょう。

 だとしたら、@一定のダメージが予想される場合、に該当するじゃないですか。心にも受身技術があってもおかしくないでしょう。

 受身という技術は一見防衛的なものです。しかし、その効用は極めて活動的、積極的なものです。なぜなら、本家である柔道においては、受身がちゃんと出来ていたら、何をどう投げられても大怪我をする確率が劇的に減っており、したがってどんどんチャレンジできる。ワザの習得は、まず自分がかけられてみて身体で覚えるものです。上級者に「お願いします!」で乱取りを申し込み、ポンポンコロコロ投げられる。場合によっては1日に100回も200回も天地が逆転する経験をします。うんざりするほど投げられる。でも無傷。こういう「たくさん体験をし、経験値はどんどん積み上がるけど、ダメージはゼロのまま」という美味しい状況が作れるわけです。「攻撃は最大の防御」と言われますが、これは表裏一体で、「防御は最大の攻撃」でもあります。キチンと防御できるからこそ、心おきなく積極果敢にチャレンジできる。だから受身は守備的、消極的なもの見えるけど、その本当の効用は積極性や攻撃性にあるのだ、と。

 では、心の受身とはどういうことでしょうか?
 それは「○○でーす!」って、一言でいえるほど簡単なものではないし、僕もまだ考えきれてません。しかし、柔道受身のアナロジー(比較比喩)で結構なところまでは分かるのではないでしょうか。すなわち、(1)どのようなパターンのダメージが考えられるか、(2)その場合最大に守らねばならない部位はどこか、(3)どういう態勢&動作をすると被害を最小限に抑えられるか、(4)反復練習、、という感じでしょうか。

 では、まず「ダメージを受けるパターン分析」です。
 ランダムに列挙すれば、他人にイヤなことを言われる、信頼していた友達に裏切られる、失職する、フラれる、犯罪の被害に遭う、事故や災害に巻き込まれる、自分の大事な人が死傷する、悲惨な場面に遭遇・目撃する、、etc、総じていえば「イヤなこと」「不幸」ですね。とんでもなく不愉快なメにあって心が傷つく、トラウマになることです。

 そのパターンは千差万別なのですが、ここで大事なのは、なぜそれをイヤだと思うか?なぜそれで精神がダメージを受けるのか?でしょう。「そんなもん、当たり前だろうが!」と言われそうだけど、そこが分からないと対策も立てられない。心が折れるとか壊れるとかいいますが、それって具体的にどういうことなのか?ココロは物体ではないので、コップが割れるように物理的に何かが欠損するわけではない。しかし、あたかも物質のような比喩で「壊れる」と言われる。ふむ。物質でもないものがなぜ壊れたりするのだ?何がいけないのだ。ダメージの本体はなにか。何が何にどうするのか?

 思うに、誰にでも、自分を自分として成り立せて、生きていこうという気にさせている世界観があります。それはサーカスのテントのように幾つかの柱で支えられているのでしょう。ところが何かの事情でその重要な柱が折れてしまったら、テント全体が崩壊するような感じなのでしょうか。例えば、自分がこういう容貌、知能、身分に生まれ、社会的にもこの程度の評価と地位を得ているという自分に関する認識。この世界はこういう原理で動いており、このくらい何かをするとこのくらいの反作用があるという環境認識。この両者を併せて、じゃあこのくらいの自分だったらこのくらい○○をすれば○○になるだろうという将来展望(生きていく希望)。こういった幾つかの前提認識の上に立って僕らは日々生きているわけです。ところが、その前提条件が壊れてしまったらどうなるか?自分のライフスタイル、自分の未来、自分が自分であることが危機に瀕します。その主観世界の再構築を迫られる痛みこそが心の痛みなのではないでしょうか。

 例えば、美貌に生まれつき、周囲からも賞賛され、モデルや女優業で社会的地位を得ている人が、何かの事故で顔に傷を負ってしまったとします。かなりヘビーな体験でしょう。「わたしは美人」というアイデンティティ(自己認識)がガラガラと崩壊し、ひいては社会的地位や生計資本まで崩壊するように感じられ、これは将来展望(生きる希望)に大きな影を投げかけます。これまでやってきた世界観に大々的な修復が迫られ、それが心の痛みになるのでしょう。

 あるいは子供の頃から成績優秀でエリート街道をまっしぐらで進んでいた人が、派閥抗争やスキャンダルに巻き込まれて失職、全て失ってしまった場合、やはりココロは傷つくでしょう。はたまた誰かに手ひどく裏切られた場合、誰を信じていいのかわからず極度の人間不信に陥るかもしれない。異性にキツイことを言われたり、暴行を受けたりしたら異性に対する不信感や恐怖感は募るでしょう。つまり、「自分はこういう人間」「この世はこうなってる」「自分の人生はこう成り立っている」という全体を支える大きな柱が崩壊したら、全体がガラガラと崩壊し、大いなる修正を余儀なくされ、その分だけココロも傷つくということです。

 さて、ここで大事なのは本人がどう思うかです。実際それほど大した傷でもなく、また別に美貌だけで売れてるわけでもない(演技力や才能が高く評価されている)ので、客観的には実はそれほど大きなダメージが無かったとしても、本人がそう思いこんでたらココロは激しいダメージを受けるでしょうし、場合によっては自殺に至るかもしれない。ある程度までは客観と主観はパラレルですけど、しかし完全に一致しているわけでもなく、多くの場合、主観が客観にフィットしていない。過剰に思いすぎたり、認識不足だったりする。しかし、ことココロに関しては主観が全てですから、「そう思いこむ」かどうかが全てです。

 ははあ、段々見えてきましたね。客観的になんらかの出来事が生じた場合、それがその人の主観世界でどう評価されるかこそが問題である。それが「イヤ」なものとして感じられるのは、これまでの主観世界を修正しなければならない部分がイヤなのであり、その「イヤ」さ度は改築工事の規模に比例する。大きく修正しなければならないほど心の痛みは激しくなる。

思いこみの少ない「柔構造」

 段々紙幅が足りなくなってきたので結論を急ぎますが、心の受身に相当するのは、常に修正があると思い、対応できるようにしておくことなのでしょう。建築でいえば、地震や改築の可能性を念頭においた柔構造&解体組み立てが簡単な構造にしておくことだと思います。最初からガチガチの固定構造にしておくと、いざポッキンと折れたら修復しにくいし、全てがガラガラと崩れ落ちる危険もある。そこを法隆寺みたいに地震に強い柔構造にしておけば衝撃は緩和吸収されますし、組み立て式テントみたいにシンプル構造にしておいたら再構築も簡単です。ゆえに心のダメージも少なくて済む。

 これをもう少し現実に即して平たい言葉でいえば、何によらず 思いこみをやめる、ということでしょう。自分はこういう人間だ、自分は美人だ、エリートだ、ヘタレだ、ダメ人間だ、、というのも単なる「思いこみ」です。特に20代、30代のガキンチョ(敢えてそう言って差し上げます)が、ろくすっぽ人生経験もしてない段階で、「俺は○○」なんて思いこむ方が僭越です。「お前なんかに何がわかる?」ってなもんです。ここでもう一つの原理=経験値が少ないほど思いこみが激しくなる法則=があります。だから経験値の少ない若い人ほど、些細な、殆ど根拠にも何もなりえないような小さな経験ひとつで広い世界をキメ打ちしようとする。強く、固く、激しく思いこもうとする。そして第二原理=固いものほどよく折れるの法則=によって、固く激しい思いこんだ主観世界の柱が折れる。もうボキボキ折れる。でも固いから修復しにくい、ゆえに激しく心は傷つくし、癒されにくい。

 若い人ほどよく悩み、よく傷つくのは、このようなメカニズムがあるからでしょう。恋いこがれている女性がいる。向うもまんざらではなさそうだ。教室で熱い視線で見つめていたら、ふと目が合ってしまった。ここで相手がにっこり微笑んだら、「やったぜ!」なんだけど、案の相違して彼女は思いっきり顔をしかめた!それこそ汚物を見るような、嫌悪の情をあからさまにして顔を歪めた、、ああ、俺は嫌われているんだ、バカにされているんだ、あの虫けらを見るような視線、、、となって夜も寝れなくなるわけですね。しかし、真実は違うかもしれんのですよ。顔を歪めたのは折からの花粉症でくしゃみが出そうになったのを必死にこらえていただけかもしれないのだ。そもそも目なんか合ってもおらず、見てすらいなかったのかもしれない。でも、思いこみが激しいと、もうそれだけで「死んじゃおっかなあ」になるわけです。

  ああ、なんて愛らしいアホさ加減でしょう。「子供叱るな来た道だ」って言うけど、僕もそうだったからよう分かる。特に中高思春期の頃は、笑っちゃうくらい自意識過剰だから、常に世間に嘲笑われているような気がしたりするもんです。真実は、自分が思うほど誰も見てないし、気にしてないのだ。そんなにVIPじゃないのだ。でもワケもわからずガンガン固い柱を手当たり次第にぶっ立て、立てるそばからボキボキ折れるから、「あああ!」になってるだけだという。なんてアホなんでしょう。なんて可愛いんでしょう。でも、今だってそうなんだよね。今の自分よりも上の視点から見てたら、今の自分だって同じ事やってるんだわ。100歳になってやっと「分かった!」と思ったとしても、さらに上から見てたら「ぷ!」と微笑まれているのだろう。そんなもんです。

 したがって、心の受身の第一条は、思いこみをやめる!
 自分が美貌であるとか、頭脳明晰であるなんてことは、その人のパーソナリティのほんの一部分しか占めない。実際には5%くらいしか占めないといってもいい。嘘だと思ったら結婚しなはれ。配偶者の美貌やら知能やらの長所が、すぐに大した加点事由としてカウントされなくなり、逆にうざったく思えてきたりするから。そんなどーでもいい自己規定や自意識なんかまだ無かった子供の頃、それでも楽しかったでしょうが。ということは美貌が失われようが、多少頭が悪くなろうが、そんなこととはお構いなく人生は楽しくなりうるのだ。ちょっと前の友達エッセイでも書いたけど、自分と同程度の美貌や知能を持ってる仲間内では、そういうことは自慢にも特徴にもならないからこそ、フラットな付き合いが出来てそれが楽しい。ということは、そんなものを失ったところで本当のことをいえば大した問題ではなかったりするのだ。それを大問題にしていくのは、ひとえに自分自身の思いこみです。

 就職や昇進できなければ自分の全存在を否定されたように感じるとかいうのも等しく思いこみであるし、自分はヘタレであるとか、勇気がないとか、何をやってもダメとか思うのも、同じくネガティブな思いこみです。「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに等しい」と言ったのは誰だっけな、ニーチェだっけ魯迅だっけ、ま、そーゆーことですわ。ぜーんぶ虚構、かりそめ、「そんな風に見える」だけ。

 自分はダメだ、自分に自信が持てないという人に限って、そういう自画像が正しいという「自信」だけはやたらたっぷりあるという。なんたる矛盾。そんなダメダメな自分だったら、自己認識だって間違ってるかもしれないじゃん、てか正しい自己認識くらい難しいものはないから、まず間違いなくミスってると思うぞ。

 これを「受身」になぞらえていえば、常に身体を柔軟に、自然にしておくことです。前後左右に身体が揺さぶられても、ふわっと対応できるだけの自然体でいろと。そこをあれこれ力み返って硬直してるから、こけるときもビッタンと棒が倒れるようにコケて、顔面を強打するのだ。

 さらに受身のアナロジーでいえば、「やってはいけない腕ツッパリ」に相当するのは、既に間違っていることが発覚した主観世界にしがみつき、「こ、こんな筈はない!」と意地になってで硬く思いもうとすることでしょう。でも幾らそう突っ張っても、腕一本で全体重の数倍の重さが支えきれるとは限らず、より激しくポッキリ折れる。

 ここで、頭部や心臓のように守らねばならない人体の枢要部は、心においては何処に相当するかというと、「自分が自分であること」という原自我みたいなものだと思います。5歳の頃の自分の意識です。「大学教授の山田さん」「イケメンの鈴木さん」「自治会の会長の田中さん」という「○○の」というカンムリがつかない、原石のような自分。何処に行くにも持って行くオキニの人形を握りしめて砂浜でボケーッと海を見ていた3歳の自分、砂場に座り込んでペタペタと無心で遊んでいた5歳の自分。これだけは生まれてから死ぬまで同じです。てか最初から最後までそれしかないんだけどね。社会的身分やステイタスなど石の上にまとわえた着せ替え人形の衣服のようなものでしょ。ですので、自分が自分であるという部分こそが一番大事であり、守るべき枢要部分だと思います。

 次に大事なのは自分を自分らしくしている生来的な良きパーソナリティです。心が優しいとか、思慮が深いとか。その証拠に、自分に親しい友達がエラくなったりして変わっちゃったら寂しいでしょう。「昔はあんな奴じゃなかったんだけどな」「子供の頃の○○クンはこんなんじゃなかった」って。それに大犯罪を犯して世間から糾弾されても実の母親だけは「あの子は本当は優しい子なんです」と言う。そういったもともとの自分、もともとの自分らしさ。本当に守るべきものはそれだけでしょ。

 にも関わらず下らないプライドやら、どうでもいい社会的デコレーションを守ろうとする。よせばいいのに腕をピンと突っ張っろうとする。挙句の果てに支えきれなくなり、肘関節は破壊され、枢要部である顔面や頭部を強打する。つまりは激しく心が傷つき、原人格まで変わる。どうでもいいものを守るために一番大事なものを壊してしまう。この愚かさを防ぐことこそが心の受身の本質なのだと僕は思います。

 今回は以上です。
 以下補足、、を書いたのですが、これがまた長いので、サワリだけ書いておきます。

 @受身以前に基礎体力が必要なこと。受身を取るたびに腕を骨折してたら話になりません。これは技術以前の基礎体力や栄養部分です。もっとカルシウムを取れと。

 A罵倒耐性。ココロの基礎体力に相当するには、子供の頃から適当にイヤな思いをしておいて免疫を付けておくことです。それもバランス良く、予防接種のように。無菌室で育てたラットは自然環境に戻したらあっという間に死ぬと言いますが、適当に雑菌に触れさせ免疫抗体をつけておかないと、基礎体力がないので受身も取れません。ココロに関して言えば、多少罵倒を受けてもヘラヘラしてられるくらいのタフさが必要でしょう。「過保護」というのは一種の虐待なんだと僕は思う。「3年殺し」のような。北斗の拳でいえば、とんでもなく遅効性の秘孔。「お前は、あと20年後に死ぬ」と。

 B主観世界の再構築は、痛みを別とすれば本来喜ばしいことです。アホな主観が正しく修正されるのですから、痛いけど我慢しろ、むしろ喜べと。それは注射のような医療行為が痛みを伴うのと似ている。No pain, no gain だって。

 C傷ついてもいいもの。本当に魂が壊れるような厳しい体験は、交通事故がそうであるように一生にそう何度もあるものではないです。他人に悪口言われたとか、失業したとか、その程度のことは「傷」のうちにも入らない。もっとも、そうであっても取りあえずは不愉快だし、落ち込むし、「傷ついた」と感じるだろうけど、そこで傷ついているのは枢要部(原自我)ではなく、虚栄心であり、見栄であり、ペルソナ(社会的な仮面)に過ぎない。日本人によくある「世間体」なんかもそうだけど、要は「見栄張りプロジェクト」が計画通り進まなくてカリカリきてるだけじゃん。そんなもん傷ついてもよろし。てか、ユンボ使ってガンガンぶっ壊して、ローラーですり潰して更地にしちゃった方がいいっす。下らない見栄は、あなたの将来の幸福の最大の障害になるガン細胞のようなもので、ほっとけばどんどん原自我を侵食する。世間体でとりつくろった不細工な泥人形を片手に腹話術師のように喋らせるのがあなたの「人生」なんかい?と。死ぬ前にそのことに気づいたときの絶望の暗黒さは、、、想像したくもないです。

 Dヘタレだと思ってる人こそ神の祝福を。最初から自分をダメだと思ってる人は、いわば受身態勢バッチリです。いくらひどい目にあっても、これ以上自己評価は下がらんだろうし、主観世界の修正はないから本質的な「痛み」はない筈です。僕がお世話をしている皆さんは、口を揃えて、「いやあ、英語は、、、」と言う。やってこなかったと。少なくとも胸張って言えるほどではない。だとしたら、英語が出来なくて恥をかいたとしても落ち込む理由は何もないです。てか落ち込む「資格」もない。あなたはマイクタイソンとボクシングで負けて落ち込むか?イアンソープに水泳で負けて傷つきますか?そんなのセンエツ、百年早い、何様?でしょう。傷つくのは、タイソンやソープレベルの実力のある人だけに許された特権であり、やってこなかった人間が出来なかったとしても当然過ぎるほど当然。何も失ってないし、主観世界になんの修正もない。例えていえば、受験もしてない、そもそも願書も出してないにも関わらず、合格発表に自分の名前がない!といって傷ついているようなものです。

 そして、さきに述べたように、受身というのは防御のためのものだけど、その最大の効能は攻撃と成長にあります。重大なダメージは受けない!という態勢が取れるということは、積極果敢にチャレンジでき、たくさんの経験値を積むことが出来るということです。ダメでもともと、いくらダメでも傷つかないというのは最強なのだ。持たざる者こそ最強にアグレッシブになりうる。だいたい持ってもいないのに何を守るのというのだ?

 唯一守るべきは、何度も言ってるように、砂場ペタペタの原自我だけでしょう。嘘いつわりのない本当の自分だけでしょ。受身の本質は、その潜在的な攻撃性であると同時に、何を守り何を守るべきではないのかの優先順位を見極めることなんだと思います。



文責:田村




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