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今週の1枚(2010/11/29)




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Essay 491 : 短命政権と支持率政局の弊害 

 
 写真は、CityのMartin Placeでたまたま見かけたThe Scottish Australian Heritage Councilのイベントの模様。オーストラリアにおける”スコットランド伝統保存会”みたいなものでしょう。
 僕らは「イギリス人」とか簡単に言ってますが、日本人同士で言うなら良いのですが、ステイ先とかそのへんのオージーに言うときは微妙に注意が必要かも。そもそも「イギリス人」に相当する英語があるんだかないんだか微妙。あれは「連合王国(UK)」であり、構成ピースは、イングランド+ウェールズ+スコットランド(以上が大ブリテン島民)+北アイルランドですので、イングリッシュといえばイングランド人に過ぎず、ブリティッシュといえばブリテン島民(北アイルランドが抜け落ちる)だし。「イギリス人ですか(English?)」と迂闊に聞くと、"No! Scottish!"とギロリと睨まれたりします(僕も経験がある)。分からなかったら「ゆうけい」って言っておいた方が無難。まあそんなナーバスになることはないですけど、常識として。スコットランドは、イギリスの中のイチ地方自治体ではなく、あれ自体が立派な「国」です。独自の法律、司法、教育制度を持ってます。だけど「独立国家」ではないという(国があつまって連合王国になる)。もうこの時点でシンプルな日本人の国家観を超えます。
 スコットランドといえば、タータンチェックとスカート(キルト)、バグパイプ、スコッチウィスキー。このイベントでもバグパイプ持ってキルト着ていたおっちゃん達が並んでました。メルギブソンが主演した映画の「ブレイブハート」もスコットランドを舞台としてましたね。




なぜこうも短命政権が続くのか


 最近の日本を見てると、なんだか菅首相の任期もほんとど秒読みレベルになるくらい支持率が落ちていますな。1年保つのだろうか?ってくらいです。もしこれで1年でまた交替ということになると、安倍首相から、福田、麻生、鳩山と5代続けて1年そこそこの短命政権が続くことになります。今日本で一番労働流動性が高いのは総理職で、1年で任期満了だったら高校野球のキャプテンみたいですな。

 当然ここで、「○○首相はダメだ」とか、「今の日本には本当に人材がいない」とか、あれこれ辛辣な非難が飛び交ったりするわけですけど、「本当にそうか?」という気もしますね。ましてや政治家がダメだから今の日本のテイタラクになっているのだというのも、「そうなんかな?」って思います。少なくともそれだけではないだろうと。

 なぜなら5人続けてこうもボロボロになるのだったら、これはもう偶然ではないでしょう。こうもダメダメな人間が国政のトップに5回も連続で選ばれるという確率は、普通に考えたらちょっとありえない。何かもっと別の現象が起きていると思った方がいいんじゃないでしょうか?

 過去においても短命政権はありました。宇野内閣、羽田内閣はわずか2か月の超短命政権でした。短命でいえば鮮烈なイメージがあった細川内閣も9か月でしかない。しかし、それでもその前後には竹下、宮沢、橋本内閣などがあり、5代(少なくとも4代)続けて短いってことはなかった。

 また、過去においては「なぜ、この人が?」という「首相になってから初めてその人の存在を知った」というケースも多々ありました。鈴木善幸首相のときも、「え、誰?」と思ったし、宇野首相、海部首相のときもそうです。自民党内の派閥の微妙な力学から、最も実力があるというよりは、最もどこからも文句が出ないという複雑なメカニズムで「白羽の矢が立つ」という奇妙な現象。自民と社会がまさかの連立を組んで、村山首相が選ばれたときも同じような政治力学でしょう。その意味で言えば、ポスト小泉以降の誰もが「次は○○」という下馬評通りに進んでおり、そういった意外性はありません。それぞれにリーダー格です。これは良いか悪いかでいえばイイコトで、永田町&料亭の奥座敷で首相が決まって、「派閥政治の解消」が叫ばれていた頃からしたら、理想的な状況になっているといっていい。

 にも関わらず、なんでこんなにコロコロ変わるのか?仮にも一国の首相であり、そこに上り詰めるためにはそれ相応の年月、人脈、実力をつけないとなれないでしょう。なのにすぐ終ってしまう。それも政敵に引きずり下ろされたというよりは自ら進んでの辞任が多い。まあ、麻生さんは辞任以前に政権党ではなくなってしまったし、鳩山さんは半分差し違え気味で、引きずり下ろされた感はありますが。

 いくつか仮説は考えられるのですが、@置かれている状況が悪すぎて誰が総理になってもボロカス言われる、A国民やマスコミの側に「じっくりやらせてみる」という姿勢が徐々に乏しくなり、寛容性やストレス耐性が減っている、Bその結果として批判というよりは非難、さらには単なる悪口のように質が劣化している、C一国の首相が権力を振るうという土壌が減ってきている(&首相をやっても美味しくなくなってる)、、などなど

 この中で@の八方塞がりは、何も今始まったことではなく、振り返れば過去の局面局面いずれもそうだったと言えなくもないです。今となってはいかにも「古き良き時代」だったように思える高度成長時期でも、やれドルショックがありーの、オイルショックがありーの、公害はありーのでリアルタイムでみれば七転八倒してました。それでもケナゲに省エネと技術力でそれらをクリアしたら、今度はやれ仕事中毒ということで、家庭は崩壊し、息子に金属バットで撲殺され、優秀な企業戦士への選別システムとなっていた詰め込み教育は多くの「落ちこぼれ」を輩出して校内暴力がはびこってたわけです。バブルが良かったというけど、あの頃は過労死もまた多かっただろうし、不動産価格の急騰でマイホームの最後の夢が打ち砕かれた時期でもあったのです。そういえば「やけくそリッチ」とか呼んでたもんな(どうせマイホームなんか買えっこないんだ!とヤケクソになって遊んでいたという)。その意味でいえば楽な時代なんか一秒もなかったといってもいい。

 しかし、昔は皆さん権力に執着していたのですが、最近はそうでもない。すぐに投げ出す。「やってやれっか」って感じなんだけど、それを個々人の人間的個性に帰着させて良いものかどうか。あるいは世代的に「最近の子は根性がない」として括っていいのか。「子」っつったって60代とかそのくらいなんだから、その世代でダメだったら後はもっとダメでしょ。まあ、確かに清濁合わせて飲み干すモンスターじみた人間力は日本人から失われているとは思います。岸信介なんか「昭和の妖怪」と呼ばれてたくらいバケモノチックだったし、あの頃の政治家は、人の5人や10人殺していても不思議ではないくらいの恐さがあった。暴力団の首領みたいに恐かった。その意味で言えば、安倍さん以降は、良い意味でも悪い意味でも普通の常識人ですし、日本人全体の傾向として、キレイに清潔にマトモになってきたのでしょう。僕ら自身もそれを望んだし、ああいう怪物政治がいいかどうかは別問題でしょう。

 でも、これは面白いポイントで、政治、ひいては僕らの社会から「泥臭さ」「おどろおどろしさ」が抜けてくるにしたがって、ナニゴトも進まなくなったような気もします。格段に明るく清潔な社会になったんだけど、その分、皆でウジウジ議論するだけでドン!と行動できなくなってる。赤鬼みたいな恐ろしげな人間が、「じゃあかしい!つべこべ抜かすな!」と一喝して物事が決まるという感じではない。そーゆー非民主的なことは流行らないんだけど、でもそーゆー非民主的なことって場合によっては必要なのかも?って気もしてきました。また明るくなったら皆健康になったかというと、かえってアレルギーだらけの不健康になって、特に精神面で病んできて、「明るい陰湿さ」みたいなのが蔓延する、と。喧嘩のズバ抜けて強い「番長」がクラスを仕切るのではなく、普通の子供達が普通に陰湿にイジメをしてるって感じ。こうなると、何が良いのか分からんな。

   しかし、それだけではなく、政治家に対する批判も以前よりも激しくなってきているような気がします。いや、こう書くと違うな。批判が激しくなるのは悪いことではない。正しい批判は幾らでもすべきです。そうではなく、批判の体をなしてない、ないものねだりで、殆ど難癖や中傷に近いような言説が目立つ。政治家にしたって昔の方がスケールが大きく滅茶苦茶やってたし、金権汚職にしたって当たり前にやってた。今の方が遙かにスケールが小さくなっているにもかかわらずボロカス言われる。学校の先生でいえば、けっこう理不尽で無茶苦茶ななんだけど、見るからに恐そうな先生の授業のときはシンとして誰も騒がないけど、妙に理解があって優しい先生のときは、注意されても私語はするし、あれこれ文句は言うし、、というのと似てるような気がする。

 総じて言えば、日本社会の精神的な土壌の質が変わってきているような気がします。他罰的であり、他人に対して攻撃的になっているような。ゆとり教育が諸悪の根源のように叩かれているのと並行して社会や人々に「ゆとり」がなくなっていて、「はっはっは、まあ、よかよか」と笑いながら他人をミスを許すという鷹揚さが影を潜めている。まあ、ね、今の日本の状況を見れば「ゆとり」なんてぶっこいていられないのでしょう。失われた20年といいますが、20年もぐずついた天気が続くのは、明治以来初めてのことかもしれません。20年スパンで見てれば、適当に一回か二回かはイイコトがあった。まあ、本当は数年前まで史上最長の好景気であり、企業利益も膨らんだのだけど、それが一般市民レベルに降りてきてない。20年間給料が殆ど上がらないという「超」がつくくらいの異常事態が続いてます。これじゃあ「よかよか」なんて言ってられんでしょう。イライラもしようし、目も血走ってこようし、何を見ても聞いてもムカつくことばかりでしょう。ヘタに声をかけたら、「あ?」と振り返りざま敵意のこもった目で見られたりもするでしょう。

 でも、環境的にストレス限界に来ているだけではなく、ストレス耐性そのものが減ってきているような気もします。気に入らないことがあっても我慢せずに、あーだこーだ文句を垂れる。そして、その文句の質が劣悪である。正当な批判でもなければ、生産的な改善提案でもなく、過保護に育てられたクソガキがキーキー泣いてるような感じ。もちろん誰も彼もがそうだというわけではないですよ。圧倒的多数の日本人はマトモだと思います。でも、これまではそんな愚劣なことを言える雰囲気ではなかったのが、言える雰囲気になってしまっているという。そして、一部の例外的なアホンダラだけではなく、知らず知らずのうちにマトモであろうと努めている僕や貴方にも感染していて、どうかするとついつけ上がってしまったり、甘ったれた発想に走る。それがちょっとひっかかっているのです。

支持率について

 前にもちょっと書いたけど、ここ数年、支持率支持率って言い過ぎてると思います。日本だけの傾向じゃないけど。
 だって、支持率っていい加減じゃないですか。それこそ「超」を付けたくなるくらいいい加減じゃないですか。ついこないだまで70%とかいてったのが、数ヶ月で数十パーセント変動するなんて、マトモに物を考えているのか?って。それって雰囲気的な好き嫌い、もう反射的な好悪でしかない。大体その政治家の政策とか、政権基盤であるとか、進捗状況であるとか、そのあたりを知ってるのか?といえば知らないでしょうし、報道もされない。見た目で「何となく爽やかに見え」たら支持率が上がり、何らかのスキャンダルがあったり「腹黒そうに見え」たら急降下するみたいな感じでしょう。

 なぜそうなるか?といえば、これは単純に言ってしまえば、僕ら国民が政治については無知無能だからでしょう。敢えて刺激的な言葉を使ってますが、無能は無能ですよ。そこを誤魔化したら、全てが曖昧になるから敢えて書きます。俺やあなたに、政治のことがどれだけ本気で分かっているのか。今国会で上程された法案が幾つあり、何をどう審議され、その眼目は何なのか知ってますか?そんな基本的なことを知りもしないで、何を語るというのだ。何をどう判断するというのだ。

 政治家だってプロなんだから、プロに相応しいだけの膨大な技術や知識が必要です。それは医療やら、原子力技術と変わらない。先端医療の手術現場で、あそこで○○を○ミリグラム注入したのは不味かったとか素人には分からない。訴訟技術であそこで独立当事者参加ではなく補助参加にすべきだったとかそのあたりの技術的なことは素人には分からない。どんな専門分野でも、ある程度の専門知識がなければその人が有能かどうかなど素人には判別がつかない。政治家でも同じ事で、Aという法案を通すためには、その障害になりそうな省庁や野党と水面下で折衝し、どこを譲ってどこを取るか、どのタイミングで誰にあって、どう話を切り出すかという技術がある。見える人にはそこが見えるだろうし、分る人にはそこがキッチリ分かる。そういう人ならキチンと採点もできるでしょう。しかし、分からなければ採点のしようがない。僕らが個々の医師の診断や投薬の的確さが分からないのと同じように分からない。無能だというのは素人だということで、別段悪いことでは全然ないです。ただ能力不足は不足でちゃんと自覚しないと火傷するぞということです。

 ちなみに、こと政治については、僕らは医療のようなレベルで無知無能なわけではないです。ちょっと前に書いたけど、僕らが社会生活を営むこと自体が既に「政治」そのものであり、それは仲良しグループ内部の意思決定においても、家族内部においても、職場での部下の掌握、マンションの自治会での決議、、、人間集団の中で物事を決め、進めていくことに難しさは、イヤというほど思いしらされている筈です。たかが数百人規模のマンション自治会ですら泥沼的に大変なのに、これが1億人以上になったらハンパじゃない。当然のことながら、闇から闇に消えていくダークな側面もあろうし、その陰で人が死んでたりもするだろう。大の大人が命がけで欲得突っ張らせ、生活を守るためにギャンギャンやっているわけで、そんな簡単に物事進むわけがない、、というのは、普通に考えてたら誰だって容易に分かるはずです。

 さて、ろくすっぽ専門知識もない上に、政治という事柄のしんどさはこれまでの経験で推測できる、、という状況で、どうしてそんなに簡単に政権の採点ができるのか、どうしてそんなに簡単に支持、不支持を言えるのか。支持しますか?という質問に対して、平均的な知能と社会経験がある大人が誠実に考えれば考えるほど「分からない」となるんじゃないか。僕だったら「わからん」と答えるし、「わかるわけねーだろ」と答えるし、さらに進んで「くだらない事をきくんじゃねーよ」と怒ります。

 なんでこんな愚問を、こうも頻繁に問いかけるかね、マスコミは?と不思議なんですよ。採点できるわけもないのに聞く。それって単に「雰囲気調査」の域を出ない。何となく新鮮味があって、なにかをやってくれそうな気がしたら「支持する」といい、あれこれ批判じみたメディア報道を聞かせられ続けたら「失望した」という。そんな「意見」とすら言えないような、雰囲気的な「感想」を寄せ集めて意味あんのか?

 それに、今何がどう進捗しているかの客観的な報道も少ないでしょう。これは昔っからそうだけど、ここ10年ばかり特に顕著だと思います。やれ失言がどうしたとか、仕分けがどうしたとか、そういう分かりやすいことしか報道しない。ワイドショーみたいだ。日本の行政は、リアルタイムで数千という局面で動いています。直ちに政治的な解決が求められる案件だけでも数百あるでしょう。だから一つの国会会期で数十という大量の法案が可決されている。政治家のメインの仕事はそこでしょう。でも地味すぎて話題にならない。

 ちなみに直近の本(臨時ではない)国会(174回国会)では提出法案63本、可決されたのは35本です。もう一つちなみに法案を眺め、そこから調べていくと元プロレスラーの馳浩氏が児童や障害者への虐待防止法案など10年以上地道に活動を続けているのが分かりました。とても地味なんだけど、こういうことが本当に大事なことなのでしょう。企業でもサークルでも何でもそうだと思うけど、必要なことをきめ細かく丁寧に実行していく人、全体への目配りが出来ている人が貴重な戦力になるのであって、見た目はハデだけど所詮は突発的で例外的な出来事がどうしたというようなことだけでその人の実力を計るべきではないでしょう。

 しかし、一方では、そんな地道な活動に興味を持てというのが最初から無理難題なのです。日々忙しく仕事してたらそんなの研究している時間はないです。だから国政というのは、基本的に「丸投げ」でしょう。「よう分からんし、適当に頼むわ」と丸投げするものでしょう。選挙というのはそーゆーもんでしょ。4年に一度の○×でしか意思表明が出来ないのが国民一人あたりの平均的な発言力です。しょせん国民一人あたりの政治的「力量」なんてそんなもんです。その程度の存在でしかない。その程度の存在でしかないにもかかわらず、「国民の皆様」とか美辞麗句を並べ立てられおだてられてるとバカ殿みたいにその気になってる部分が「つけ上がって」ないか?と思うのですね。

 自分ひとりの力量がその程度でしかないのは、それは人数多いんだからそうするしかないし、何ら不公平でも不正義でもない。それがイヤなら自分が政治家になればいいのだ。被選挙権だって保証されているのだし、誰にだって条件は同じ。だから丸投げシステムなんだから、丸投げでいいじゃん。その代わり選挙のときに綿密に査定すればいい。丸投げしておきながら、1か月単位でやれあれがダメとかツベコベ言うのはどんなもんか?と思う。大体、投票率50〜60%かそこらの国で支持率70%にどんな意味があるというのだ。

 もちろん、国民による「不断の監視」は大事ですよ。でも、そんな一片の美名に誤魔化されちゃダメだと思う。本気で監視している人は、市民オンブズマンにせよ、NPOにせよ、仕事の時間を都合して傍聴に行ったり、実地で調査したりしています。僕の知り合いの弁護士も、その種の活動をしてて、大阪市役所のカラ出張や接待経費の裏付け調査で、飲み屋に足を運んで一つづつリストを潰して調査していました。「不断の監視」ってのはこういうことを言うのであって、マスコミがワイドショー的に騒ぐ片言隻句で○だの×だの、一杯飲み屋でオダをあげている頭の悪そうなオヤジみたいに吠えたくることではない。あるいは、国政全般では分からなくても、自分の専門領域だったら分かる。医療関係者だったら医療行政の良し悪しが身に染みて分かるだろうし、港湾関係で働いていれば港湾行政の良し悪しが分かる。その自分らの領域で意思表明をし、それを知らない他の業界の友達に機会があったら教えてあげ、相互に識見を深めるというやり方もあります。実のあることをしなければ、実はつかない。当然じゃん。

支持率政局の弊害

 なんでこんなにこだわっているのかというと、「民意を反映」の美名のもとに支持率という、せいぜいが数千人規模=日本人の10万人に一人くらいの母数での調査で、しかも本質的に回答可能かどうか、意味があるのかどうかも疑わしいようなもので、国政が右に行ったり左に行ったりしたら困るからです。この弊害は巨大だと思う。

 第一に、ありえないくらい現実を単純化してしまうので、国政の実相がついつい忘れられる。なんか魔法の杖の一振りで世の中が良くなったり悪くなったりするような馬鹿馬鹿しい錯覚に陥らせる。こんな馬鹿みたいな錯覚、誰がダマされるのか?といえば、意外と結構騙されているような気がしますね。しかもスパンも短く、振幅も激しくなってきている。ということは目先の出来事でコロコロ意見が変わっているという、「ものを深く考えない」人達が増えている。より正確に言えば、物事を深く考えようとはしなくなっている。地味で実直な部分を真っ直ぐ見ようとはしなくなる。

 余談ながら、汚職とか失言とかがあると国会で証人喚問したり、それが論戦の焦点になったりしてるのですが、僕は昔からあれは禁止すべきじゃないかと思ってます。子供の頃から不思議だったのですが、今でもその気持ちに変わりはないので書いておきます。某国会議員の言動や資質に問題があるんだったら、本会議や委員会ではなく、別途調査委員会を発足して徹底的に調べれば足りるでしょう。なぜかというと、国民にとって国会議員など所詮は「道具」であり、技術者に過ぎず、仕事をキチンとやってくれればそれでよい。別に人生を導いて貰う師匠ではないのだから、人格的に立派でなくても構わん。人間的にはゲスな奴でも腕が立つならそれでいい。腹が痛くてのたうち廻っており、一刻も早く治療をして欲しいのに、医者同士が「お前は医者として間違ってる」とか「教授選挙でワイロを送った」とかなど手術そっちのけで議論が始まったら、「ええ加減にせい!」って怒りますよ。水道管の修理に来て貰ったら、配管工同士で「お前の言い方はお客様に対して不謹慎だ」とか喧嘩してるようなものです。その人間の適格性は大事かもしれないけど、どうでもいいから早く仕事をしろってことです。

 なんで議会制民主主義でここに制約を付けないのか疑問なんだけど、スキャンダルとか失言とか進退問題とか、国政の本体に関係ないところで揉めるのは止めて欲しいですな。国民にとっては誰が政治家であろうが別にいいのだ。プロ野球のオールスターの投票をやってるんじゃないんだから、そんなの誰でもいいのだ。でも、その種のスキャンダルというのは、与野党間の駆け引きの道具、政争の道具に利用される。次の選挙のイメージ戦略にも役に立つからもう徹底的に利用しようとする。患者そっちのけ、破れた水道管そっちのけでケンケンガクガクやってる。政治が下らないパワーゲームに堕落する。どうかすると会期中そればっかりやってる。マスコミも地味な政策検討なんかよりもよっぽど面白いからそっちばっかり報道する。ワイドショー化する。これは日本だけではないけど、ほんと下らんことやってるなと思うのですよ。この種のスキャンダルとか泥沼合戦で、これまでどれだけの政策実行機会をミスってきたか。今国会でやっと通りそうだった法案も、下らない喧嘩で本会議が潰され、後回しになって、挙句の果てに又しても継続審議。法案成立(救済)を待ち望んでいる国民だって沢山いるんです。いつになったら政策が実行できるのか。訴訟もそうですけど、両陣営に分かれて一定のルールで何かを争うと必ずスポーツ化、ゲーム化しがちです。で、それは本質に関係がない、むしろ場合によっては本質をスポイルさえする愚劣な傾向だと思うのです。皆はそのあたり疑問に思わないのだろうか。

 第二に、そういった「印象点」が全てみたいな局面になってくると、マスコミの力が以前にも増して強大になっていく。マスコミの劣化は既に多くの人が感じているし、そういう意見も多いのだけど、現実には逆に影響力が高まっている。良く書くも悪く書くも、舌先三寸、筆先三寸ですよ。例えば尖閣諸島での中国との対応で方針が小刻みに変わったことを、「右往左往」と悪くも書けるし、麗しく書こうと思えば「機敏に対応」とも書ける。こんなもんは「巨人快勝」と書くか「阪神惜敗」と書くかみたいなものです。でもそれはイメージであり、イメージの方向付けでしょ。サッカーのワールドカップでも開戦前はあれだけ酷評しておきながら、いざ意外に善戦したら手の平返したように本田様々だもんね。そんな連中ののたまうイメージの水路付けにホイホイ乗っていいんかい。

 第三に、国家を人体に例えれば、良策であればあるほど遅効性である。いわば生活習慣を改善し、自然治癒力を高めて直していくのが最も自然で最も効率的。それは健康ブームの波を幾つか過ぎて、今となっては日本人の常識になっているでしょう。国家社会だって同じ事です。良い政策であればあるほどすぐには効果が出ない。例えば日本はやはり技術立国でやっていくんだとなれば、研究教育関係の政策になるでしょう。そしてそれが実を結ぶのは、実行されてその政策を享受できた世代、その時点で5-6歳くらいだった人達が成長し、大学や企業の研究室で画期的な仕事をするようになってからだから、少なく見積もっても20年はかかる。でも、長い目で見ればそれはすべきである。ただし、ウケは悪い。ただでさえ火の車の国家予算なんだから、短期的な、それも数日規模の為替対応などに使えと国民、特に財界は言う。そんな20年先なんて悠長なこと言ってる政権は潰されます。つまり、良い政策を実行している政権ほど、すぐに潰れる。

 第四に、第三の点を見抜いて、地味だけど素晴らしい政策をしてたら、そこにスポットライトを当てるのが、本来の優秀なメディアの役割だけど、あんまりそういう動きになってない。尖閣諸島問題にしても、論点は二つ、あそこで逮捕すべきかすべきでなかったのか、中国とどこまでメンチ切って喧嘩すべきかその見極めをどこにするかだと思います。僕が知りたいのは、これまで腫れ物として「無かったことにしようね」と暗黙の了解だったあの領域で、何でわざわざ逮捕なんかしたのか?です。どういう見通しがあったのか、その根拠は何か、その意見はどこから出てきているのか、その国家意思形成過程に反省点はないかです。中国に対してどの程度のスタンスで臨むか、「ちょっと試してみた」というんだったら、それはそれでいいですけど。外務省内部の権力闘争(北米局とアジア局)も絡んでそうで、よう分からん事件です。ビデオ流出なんか枝葉末節でしょう。でもそのあたり、よく分かるような記事は見あたらなかったです。

 まあ、余談でいえば、逮捕するくらいなら避ける振りして巧妙に腹にぶつけて沈没させちゃえば良かったのにって気もしますが(^_^)。そうすれば逮捕ではなく「救助」できるのにね。身柄拘束という意味では同じだし。ついでにドサクサまぎれにボコれるし。でも、リアルタイムの外交問題について、全ての事情が国民に公開されるわけないです。そんなの常識でしょう。右手で握手し、左手で剣を持つ外交の虚々実々の駆け引きにおいて、一般国民なんか本質的には蚊帳の外ですわ。本質部分はボス同志の密室会談で決まり、永遠に歴史のミステリーになるようなものでしょ。また、そのくらいの力量がある政府でないと信頼できん。したがってこの問題について世論レベルであれこれ言っていても、本質的には不毛ではないかと思われるのだが。

 第五に、これらが積み重なっているうちに母屋が炎上することです。どうでもいいような些細な出来事ばかりに一喜一憂し、支持率とやらが上がったり下がったりして、それで国民がまた興奮し、政府がうろたえ、、なんてこと、ひっくるめていえば「遊んでる」としか価値的に思えないのだが、ンなことやってる間に本家の母屋の火が燃え広がってしまうという。大体高齢化は昔から言われていたことですし、こればっかりは旧大蔵省が正しく「金が無くなる」と警鐘を乱打しまくってたと思うのだけど、ぶらさがり体質になってる中央財界や地方財界が際限なくおねだりをするから今日のドツボ状況を迎えているのでしょう。冗談だけど、「目先のことを議論したら死刑」くらいにして、この先50年くらいのことをやらなならんのと違うのでしょうか。

 第六に、それらの総合として最悪の段階を迎えかねない。カリスマ性を備えたポピュリストが出てきてしまうことです。ヒトラーみたい人物。ヒトラーも当初の国民支持率はべらぼうに凄かったですからね。マスコミも賛美一色だし。あのドツボのドイツ経済を救った大英雄でしたし(そりゃユダヤ人の殺して財産を奪えば国庫も潤うでしょうが)。まあ、日本人ってカリスマが好きなようで、実はそんなに好きではないんじゃないかって気もするので、そうはならないと祈りたいのですが。戦時中も別に東条英機がカリスマになったわけではないし、カリスマは天皇だったけど率先して戦争したわけでもないし。2.26事件が失敗するようなお国柄ですから、そこは安心したいのですが。


 支持率調査が全てダメだというつもりはありません。一定有用な部分もあるでしょう。しかし、こうも頻繁にやる必要があるのか?という気がしますし、上記の懸念を考えると今や弊害の方が大きい気がします。

 はい、ここで唐突に切ります。
 本当のこの倍くらい書いてしまい(いつもの事だが)、後半部分に本論があるのですが、さすがに長すぎるので。



文責:田村




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