今週の1枚(2010/11/08)




写真をクリックすると大画面になります



Essay 488 : 「損得勘定」の計算ルール 

 写真は、Wynyard駅のホームにあった広告。こっちの広告、しょーもないのもあるけど、日本にはちょっと無いような面白いのもあります。これなんかそうで、ちょっと日本ではありえないじゃなかろか。

 これは英語圏カルチャーの総合試験みたいです。僕もこれを機会に「ほお、そうだったのか」と知識が増えました。まず広告主のAlcoholics Anonymousというのは、「名もないアル中者達」という団体です。NPOの走りみたいなものですが、1935年に発足、世界160カ国、会員推定220万人。酒をやめたいと思う飲酒者達の集いで、決して組織化しようとないユニークな活動です。団体というよりはムーブメントみたいな感じですね。そこが広告主になって、問題飲酒癖のある人に呼びかけているものです。
 手の皺からいってどこぞのお爺ちゃんらしき人が、ベネッサという姪の結婚式の「不」招待状を受け取ってガビーンとなってワナワナと手が震えている写真です。不招待状の内容は、「なぜなら貴方は結婚式場で神父さんに「二人の尼さんが風呂に入って、、」流の下品なジョークを飛ばし、幾度となくダンスフロアで昏倒し、新婦の母親の身体をまさぐったりするからです。我々がこのように言うのも、貴方が過去にそういうことをやったからです」とキツイ言葉が書かれています。最後に、「アルコールは単に楽しめばいいってもんじゃないんじゃない?」と結んであるという。

 さて、ここで「二人の修道尼」(two nuns in the bath)のジョークの意味がイマイチ分からず、ネットで検索してみたら、なるほど、これはちょっと書けんわ。英語で誰か書いてくれていたけど、ジョークの全文は「Two nuns in a bath. The first one says "Where's the soap"; the second one replies "Yes it does, doesn't it"」です。そして、「The first nun says "Wheres the soap?" but the other nun hears it as "wears the soap" as in to wear down... Get it?」ということです。whereとwearを聞き間違えて、そしてwearというのは「着る」という意味じゃなくて、「すり減る」という意味だから、、、もうわかるよね。Get it?これ以上は書けんわ。これ、英語圏では昔っからあるコテコテの下ネタジョークらしいです。

 ということで、やっぱりここまで際どい広告は日本じゃちょっとないんじゃなかろか。というか、これだけ真面目な団体が、これだけ微妙にユーモラスな広告をするという点で面白いなと。




計算方法の複雑さ


 ブラックジャックやオイチョカブというゲーム(ギャンブル)があります。どちらも似たようなルールで、手持ち札の合算数の大きい方が勝つのだけど、ある地点(21とか10)を超えたらドボンになって一気に全てパーになる。1よりは2の方が強い、3よりは5の方が良いのだけど、どっかで境界線があって、それを超えると1にも劣ることになる。

 このルール、結構深いです。
 「損して得取れ」といいますが、その逆の「得して損する」もあって、一見得に見えるようなことを積み重ねていくと、結局トータルでは大きく損をする。

 つまりは損得の「勘定」の難しさです。
 損得を勘定するルールは一種類ではなく、いろいろな計算方法が同時に走っていて、一つだけにとらわれていると別のルールにひっかかってドカンとなるという。

 これはゲームだけの話ではなく、実社会も同じように動いているのでしょう。むしろ現実社会がそうだからこそ、ゲームにその発想を取り入れただけなのかもしれません。

 日本昔話に、花咲爺さんとかコブ取り爺さんなど、○○爺さんシリーズがあります。「おむすびころりん」なんてのもありますね。爺さんだけではなく「舌切り雀」の強欲婆さんもいます。これもプロットや教訓は似ていて、善良な正直爺さんと、邪悪な強欲な爺さんが出てきて、後者は悲惨な最期を遂げます。その強欲さに身を滅ぼす。この種の話は日本だけではなく、西欧にも「湖と金の斧」の話やら、シンデレラの強欲姉さんの話やらがあります。これも深くて、「欲をかくとロクなことにならないぞよ」という教訓と同時に、他方では「ザマーみろ」という残酷なカタルシスがあります。

 強欲爺さん達の行動は、「利益の極大化」という意味ではそれなりに合理性はあるのですが、それが積み重なるとプラスとマイナスが大逆転して、大きなしっぺ返しを食らいます。ブラックジャックで19でやめておけばいいのに、もう一枚頼んで23になってドボン!みたいな話です。

 では、そういった「おはなし」だけではなく、本当の僕らの日常社会もそういった「複数の損得計算ルール」があるのでしょうか?僕はあると思います。

 まずものすごくシンプルな例で言えば、家が火事になって、急いで避難する際に、あれも持って行こう、これも持ち出さねばと欲にかられてグズグズしてると、結局逃げ遅れて焼け死んでしまう、ということです。

 このパターンは利益とリスクが同時並行で走っているパターンといっていいでしょう。利益を追求すればするほどリスクもまた高まるというシンプルな方程式で表わされます。犯罪などが分かりやすいのですが、泥棒に入って、あれもこれも持ち出そうとしているうちに手間取ったり荷物が重くなったりして、逃げ遅れて逮捕されてしまう。あるいは、何度も恐喝をしようとして被害者を追い込んでしまった挙句、警察に駆け込まれて逮捕、とか。この場合、利益とリスクが同時に高まることは頭では分かっているのでしょうけど、実際に目の前に利益があると、ついつい冷静な損得勘定(リスク計算)が出来なくなって破綻するパターンだと言ってもいいでしょう。

 第二のパターンは、ショートレンジです。一見ゴージャスで安いレストランのようなもので、見た目につられて客は入るけど、不味いからリピーターがつかず、一巡したら倒産というパターン。誰彼かまわず物をねだったり、貰いタバコばっかりやって、あまりにも乞食まがいだと、誰からも敬遠され、人間関係が一巡したら終わりという。継続的、循環的な利潤サイクルを構築することが出来ないパターン。

 第三のパターンは、一線を越えてしまうパターンです。誇大広告でも詐欺商法でも、ある程度は社会的にも許容されます。大した品質ではなくても「最高級!」とか書きますし、美味しくなくても美味しいと言います。それはもうお約束のようなもので、いちいち詐欺だと騒がれることもない。しかしこれもやり過ぎてしまうと、犯罪の領域に入っていきます。厚かましく他人に物をねだる行為も、一線を越えたら恐喝になる。押しの一手で女性を口説いているうちに一線を踏み越えたら、強要罪や強制猥褻になってしまう。

 このくらいにしておきますが、要は強欲一直線でやっていけば良い、というほどシンプルはないということです。欲にかられて突っ走っていると、どっかでドボンとなってしまう。よい子の損得勘定講座の第一条は、損得の計算ルールは複数ある、ということです。

リターンの不確定性と互助システム


 世の中にはセコい人がいます。
 割り勘のときにトイレに行って逃げようとする人とか。本当にそんな古典的にセコい人がいるのかどうか分かりませんが(僕はまだ実例にぶち当たったことはないのですが)、仮に居るとします。そうすると一回当たり数千円かそこら安く済みます。無料で飲み食いできるわけで「得」です。他にもここまでヒドクはないけど、微妙にセコい人はいます。ワン切りをして、かけ直して貰い電話代を浮かせようとする人とかね。

 しかし、そればっかりやってると、見てないようで他人はしっかり見てますから、あなたは「そーゆー奴」だという思われます。そーゆー奴に対する世間や友人の態度は必ずしも温かくはないでしょう。ド厚かましい奴だということで警戒するでしょうし、普通だったらただで上げるようなものも上げない、いろいろ善意のことをしてやろうという気にならない。金も貸したくないし、良い人脈に紹介しようという気にもならない。だから、トータルでいえば大損ではないかと。

 さて、ここでちょっと寄り道して、リターンの不確定性という問題を考えます。

 時給1000円で10時間働いたら1万円貰える、、、という定量的なものは、単純な足し算掛け算の世界ですから予測がバッチリ立てられます。しかし100万円の資金で1000万円儲けようとかになると、話は一気に複雑になります。そもそも成功するかどうかすら分からない、半分だけ成功したり、あるいは話が二転三転して妙な方向に進んでいってしまうかもしれないとなると、単純な四則計算では追いつきません。さらに、新しいビジネスパターンや社会のシステムを開発するように、質的に変化させたり、飛躍しようとすると、錬金術のように一種の化学変化を起こさないとならない。ここまで複雑になってしまうと、四則計算どころか常用定数とか微分とかワケのわからん高度に複雑なプロセスを経ます。というかどんな高等数学を駆使しても解析できないでしょう。

 それだけ複雑になるということは、それだけ先が読みにくいことでもあります。全知全能を振り絞って努力をするけど、最後には時の運とか巡り合わせという不可解な要素が入ってくる。大きく儲ける、大きく伸びるためには偶然要素が強くなり、リターンの不確定性もまた強くなる。

 経営者や組織のリーダーなど、大きなお金を扱い、高いレベルで経営をやっている人達は、リターンの不確定性をイヤというほど思い知らされています。100の努力をしたから100のリターンが得られるというものではない。そんなに数学的にキッチリしたリターンなどこの世には無い。あったとしても利幅は薄い。例えば、100億円を投資して新業務に挑戦し、当れば200億、300億になって返ってきますけど、全然ダメで100億丸損ということもあります。

 それは「何が売れるか分からない」「世の中何が起るか分からない」という不確定性によります。ブラックボックスを通さないとならない。大きな仕事、大きなお金をゲットしようと思えば思うほど、このブラックボックスを通らないとならない。これは個々人の人生においても同じで、大きく自分の人生を広げていこうと思ったら、どうしても偶然というブラックボックスの要素が入ってきます。例えば「出会い」です。どんな人に出会うか、またどんなチャンスが巡ってくるか。

 ところで商売の世界では「恩義の貸し借り」があります。ドツボにはまって誰からも見捨てられているときに、それでも援助してくれる人はありがたいです。もう涙が出るくらいありがたい。だから、どんなことがあってもこの人には恩を返そうという気になり、次に立場が逆転したら無償の援助をしようとします。これはキレイゴトや義理人情話ではなく、偶然の嵐を航海する人間達が考え出した究極の互助システムなのだと思います。いくら完璧に準備しようが、いくらズル賢く立ち回ろうが、結局は偶然の荒々しい手に翻弄されてしまう。良いときもあれば悪いときもある。当るときもあれば、外れるときもある。これはもう絶対に避けられない。だとしたらどうしたらいい?助け合えばいい。「困ってるときはお互いさま」です。それが例えば「恩義の貸し借り」です。

 また、日本ではあまりポピュラーではありませんが、「人に投資する」という行為があります。西欧では普通にありますし、ユダヤ商人や華僑ネットワークにもあるといいます。優秀で熱意があり、人間的にも信用できる若い人に、上の連中が資金援助をし、便宜を図ってあげて大きく成功して貰う。そして利息をつけて返して貰う。投資する側は銀行に預けておくよりも運用率が良いし、される人は自分の才能を力一杯試すことが出来る。これも一種の世代間の互助システムです。そこでは「これだけの才能を埋もれさせるのは惜しい」「この人物だけは助けたい」と周囲の力ある人々に認められるかどうかがキーポイントになります。力のある人々に認められれば援助も強力ですし、金銭的にも数千万から億のレベルで力強く助けてくれます。

 偶然の海を航海するに際して何よりも大切なこと、頼もしい味方は人間です。高波で転覆したり、渦に引きずり込まれても、四方から手が伸びて救い上げてくれる。そうやって助け合って人々は生きている。何万年も前から、そしてこの先もずっと。

 さて、話を「損得」に回帰させてゆくと、目先の損得にとらわれている人はこういう互助システムに乗れるでしょうか?乗れないと思います。セコい損得だけで動いている人というのは、要するに自分の欲得しか考えられない人、つまりはエゴイスティックで自己中な人なので、「互助」=Give and Take という論理で動くシステムには原理的に馴染まない。

 割り勘逃れなんかよりも大きな「得」、例えば良い就職先を紹介してもらう、大口の顧客を紹介してもらう、出資をしてもらう等、損得における「得」のボリュームが大きくなればなるほど、巨大な助力が必要です。そして大きなチャンスや利益をもたらしてくれる人々は、それだけの「力」を持っている人々です。業界の大物であるとか、関係者にコネがあるとか、企業組織においては就職の採用権限、契約の決裁権限がある人、、あなたに大きな利益を与えてくれる福の神のような人は、それだけ大きな力を持っている人でもあります。

 それだけの力を持っている福の神的な人々は、偶然の海、不確定性の嵐の中を頑張って航海してきた人でしょう。これまでに幾つものブラックボックスの修羅場を乗り越え、生き残ってきたからこそ、それだけの「力」を得ることが出来たのです。それだけに彼らは人間同士の互助システムには精通していますし、他人を見抜く目もあります。いざというときにどれだけ信頼できるかどうかも見ている。

 さて、そのとき確実だけどセコいリターンだけを狙ってる人は選外になりやすい。なぜなら信頼も期待もできないからです。目先の利益しか考えられない人は、逆境になったらすぐに逃げるだろうから期待も出来ない。部下として抜擢し大きな仕事を任せようにも、その程度の器では信頼できませんからね。それは僕のような凡人ですらそうですし、誰だってそうだと思うのですよ。あなただって、自分のことしか考えてない奴に自分の金庫の鍵を預けたくはないでしょう?

 ということは、セコくやってると、あらゆる人生の局面、あらゆる人的要素が介在した場合の勝率が劇的に下がるということです。他者に認められる/助けられるという局面になる都度、常に常に失敗するということです。しかも、巨大な利得を求めれば求めるほど、より人間的な部分がシビアに問われるので成功率は一段と低くなる。結局、累積トータルの損得勘定では大損をする、ということになります。

 以上、よい子の損得勘定講座の第二条は、不確定性を知り、互助システムに乗ることです。

大欲は無欲に似たり。小欲は強欲に見える


 「大欲は無欲に似たり」という言葉があります。欲求が巨大であればあるほど、セコい目先の利益には無頓着になるから、パッと見には無欲に見えるという。出典は徒然草らしいのですが、これは確かにそうだと思うのですね。「日本のドンになる」というくらい巨大な欲望を持っていたら、割り勘を逃げ回って数千円得するようなことを幾ら積み上げても意味がない。むしろそんなことで人望を失ったら大損ですから、逆に大盤振る舞いをして人気を博そうとするでしょう。なぜ大欲が無欲に見えるのかというと、大欲というのは実現するまでのプロセスが長く、スケールが大きいから他人からは分かりにくいという点があるでしょう。つまりは「損得の論理レベル」が違うのでしょう。

 逆に、ささやかで、慎ましい欲求の場合は、論理レベルが低次元なだけに非常に分かりやすい。行列の割り込みだとか、後出しジャンケンとか、飲み会の割り勘でも「俺は後から来たからそんなに食ってない」と強硬に主張して負けて貰おうとしたり、、、こういった行動は、めちゃくちゃ分かりやすい。分かりやすいだけに、ものすごく「強欲」なイメージを周囲に振りまきます。あいつはそーゆー奴というレッテルをべったりと貼られる。大欲は無欲に似たりの裏返しとして、小欲は実際以上に強欲に見える、ということなのでしょう。

 これやってると人生キビシーです。誰もが「こいつとは関わらないでおこう」と距離を置くから、上に述べた互助システムに参加できない。参加できないから、飛躍のためのブラックボックスを乗り越えられない。一定比率で確実に起きる失敗局面で、誰も助けてくれない。その都度チャラリセットされちゃうから全然前に進めない。また福の神のような実力者からは卑しい人品を見抜かれちゃうから、一発逆転ホームランも狙えない。もうオートマティックにジリ貧パターンに陥るという。

 これは損です。損得で言えばこんな損はない。セコく振舞ったペナルティとして同程度の不利益を被るならまだ分かります。セコく10得して後で10失うんだったらトントンです。でも、実際にみてると10得したら30くらいしっぺ返しを食らってるような感じです。リターン率がマイナス300%というのは、やはり損なのではなかろうか。

 小欲=強欲者に対する世間の目は厳しいです。これはもう「厳しい」というよりも「憎悪」に近い。冒頭で述べた昔話でも、「そこまでせんでも」というくらい強欲爺さんはヒドイ目に遭ってます。「ここ掘れワンワン」の花咲爺さん物語でも、犬を拉致した隣の強欲爺さんは掘ってもガラクタしか出ないし、臼を盗んでも金銀どころか汚物しか出てこないし、灰をまいても桜が咲くどころか大名の目に入って処罰されてしまいます。要するに色々やるけどイッコもいいことがない。コブ取り強欲爺さんは鬼にコブを沢山つけられてしまうし、おむすびころりんの爺さんは暗黒の地下迷宮を永遠にさまようハメになるし、舌切り雀の強欲婆さんは鬼や魔物に取り殺されてしまいます。

 いくら勧善懲悪にしても、度を超えたペナルティであり、万引きで死刑になるようなものです。しかし、この度を過ぎた話が何百年も庶民の間に伝えられてきたということは、そのくらい峻厳な罰が好まれてきたことであり、我々の強欲者に対する憎悪や怨恨はそれだけ強かったということでもあります。考えてみれば、冒頭で述べたように強欲が過ぎて一線を越えれば犯罪になるのですから、強欲さに対する僕らの視線というのは、「まだ一線を越えてない犯罪」「準犯罪」レベルに見るのかもしれません。

 ということで、小さなレベルで得しようとすると、構造的に大きく得が出来なくなるどころか、ヘタをすればその何倍も損をするという計算ルールがあるように思います。損得勘定道は深いですね。第3条は、セコい小欲は実際以上に強欲に見える、ということです。

補足


 さて、本当はここからテーマをひねっていくのですが、今回も軽く終らせましょう。読むの大変だろうし。
 ただポイントだけ。

 @、西欧社会における「権利主張」と、「強欲」というのは違うのか?一見似てるし、局面においては同じにもなると思います。しかし、権利というのは、自分の欲得を主張することが「正当である」と皆が認めた範囲内にあることであり、それは欲ではあっても、非難されるべき強欲ではないのでしょう。ただし、日本社会においては、正当な権利(欲)すらも、主張したら強欲扱いされる部分もあり、それはもう昔っから議論になってますね。サービス残業とか。

 A、うがった見方をすれば、こんな怨恨カタルシスのような昔話が語り継がれてきたということは、逆に現実はそうなってないからだとも言えます。現実社会ではやはり強欲者の勝ち、やったもん勝ちで、それを見せつけられている善男善女達は「くそお」と奥歯をキリキリ噛みしめ、そのウップンを晴らすかのように昔話が伝えられた、、、つまりは現実とは違う妄想カタルシスなのだとは言えないだろうか?つまり、損得勘定ではやはり小欲だろうが欲が深く、アクティブな奴の勝ちであり、回りまわって結局大損をするワケではないのでは?という批判もあるでしょう。

 B、これはAへの答にもなるのですが、オーストラリアなどでは福祉が手厚いです。その気になったら失業保険だの障害者手当(適用範囲が広い)などでズルしてお金を貰うことも結構可能だったりします。そうする人もいるでしょう。これに対して「ズルい」という、強欲さに対する非難も勿論あります。あるのだけど日本ほど強くはないし、日本に比べたらかなり気前がいい。社会の態度もそういうことを結構許します。以前書いた性善説的な社会体制です。

 しかし性善説以上に、もう一つ深い理由がありそうです。それは、ズルをして小さな得を積み上げて生きている人、セコいことをやって細かく得して生きている人、そういう人々に対しては、憎悪よりもむしろ憐憫の方が強いのではないかと。「許せない」と怒るのではなく、「可哀想だな」と思う。人と人とが助け合う豊かな互助システムに乗り切れず、自己中にガツガツ小銭を求めて生きていく生き方それ自体が十分な「罰」になっているという。そんな低次元の生き方をしているということ自体が、刑務所に入るのと同じくらい惨めなライフスタイルであり、だから「もう十分に罰は受けている」と。

 勘違いしないで欲しいのは、福祉手当を受ける人がミジメなのではないです。それは受けるべき正当な理由があり、人生山あり谷ありだから、たまたま谷底に落ちたなら手当を受ける権利がある。それは恥ずかしいことでも何でもない。掛けている保険の保険金を貰うようなものだから、誰恥じることなく堂々と貰えばいいし、実際に貰ってる人も恥ずかしいとは思ってない。周囲の人もそうは思わない。ミジメなのは、正当ではないにもかかわらずセコい嘘をついて貰う行為です。ここは@にも関連するけど天地の差があります。

 だからオーストラリアでは強欲爺さんはそんなに日本ほど厳しく憎悪非難されたりはしないのだろうけど、それは強欲爺さんであるということ自体が、これ以上もなく惨めな生き方であり、可哀想なのだということでしょう。見方によっては、こっちの方が相当に辛辣ですよ。かなりキツイです。憎まれるのはまだ我慢できても、哀れみを受けるのは我慢できないという人もいるでしょうしね。

 そして、これを書いててふと思い出したことがあります。僕が司法修習で検察庁にいたころ、無銭飲食の男性の取り調べをしたことがあります。食い逃げは詐欺罪になります。しかしこの人もう50代を大きく廻っていて、その年になってまだ食い逃げなんかやってるのか、、という。普段はどうやって暮らしているのかというと、日本全国を流れ流れて、選挙がある地域に行きます。そこには選挙事務所があり、活動員や応援に来る一般市民の為に寿司だの飲み物だのが食べ放題状態で常設されています。で、行く先々で支持者のような顔をしてちゃっかり食べられるのですね。場合によっては買収されたりして。で、選挙がない時期になると、置き引きやったり、無銭飲食やったり。僕も法曹界に入って知ったのですけど、こういう人って結構多いのです。

 しかし、選挙事務所ね〜。まあ、賢いっちゃ賢いのかもしれないけど、しかし、、、。だからセコい強欲って、結局のところこんな感じなんでしょうね。そして、そうやってセコく生きていること自体、その人生のあり方自体が、なによりも痛烈な「罰」になっているというのは、何となく分かるような気がしました。



文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る