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今週の1枚(2010/10/25)




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Essay 486 : 「ダンドリ教」と「たまたま教」 

 写真は、シドニー郊外のMooney Mooneyの夕暮れどき。同じ時に撮った写真にEssay113もあります。



 今週は、皆さんに「たまたま教」を布教したいと思います(^_^)。

 読んで字のごとく「たまたま」=偶然を信じることです。したがって教義は、偉大なる偶然の力を信じることです。それだけ。とってもにシンプル。だけど奥は深いぞ。

 まあ、「宗教」というのは冗談ですけど、古来から「何となくそーゆーもんだと誰もが思っている」「根拠はないけどそう思ってる」という意味で宗教に近い。漠然とした確信というか、集合的無意識というか。僕は、特にたまたま教の熱烈な信者でもないのですが、最近世間で「信仰」が薄れてきたと思うので、敢えて書いてみようかと思った次第です。

ダンドリ教とたまたま教

 何でこんなヘンテコなことを思い至ったかというと、ハウツーとか、マニュアルとか、カリキュラムとか、スケジュールとか、その種のダンドリ系&ノウハウ系情報の氾濫です。過剰といってもいい。まあ、そんなこと言えば、このサイトだって、その種のノウハウを山盛り書いてますし、分量からいったらダントツに多いかもしれないけど、だからこそ書きたいというのがあります。

 確かにダンドリも大事です。「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂いなし」とも言いますしね。
 偶然が宗教なら、ダンドリもまた宗教の一種でしょうし、僕自身その「ダンドリ教」の信者です。どっちか言えばそちらの方が近いくらいです。仕事でやってる一括パックも、実は数十ステップに及ぶ、かーなり綿密なカリキュラムを作ってます。難しいスキルも、丁寧に細かくステップ分解していけば、どんな人でも習得可能というところまで落ちてきます。法律実務における破産処理やら、訴訟戦略やらも、あらゆる自体を想定して数十ステップに及ぶフローチャートを作り、詰め切れるところはきっちり詰め切っておきます。もともと独学好きな性格もあり、「なぜそうなるか」という物事のメカニズムを考え、ダンドリを組み上げていくのは大好きです。ダンドリというのは宗教でもあるし、同時に一種のサイエンスでもあると思ってます。すっごい大事。

 しかし、ダンドリを極めるのは当然だとしても、それだけでは全然足りない。
 どんなに大量にデーターを収集し、どんなに綿密にそれらを分析し、どんなに水も漏らさぬダンドリを組んでも、それでも物事成就の半分でしかない。あとの半分は、偉大なる偶然、「たまたま様」の掌の中。それはもうバベルの塔のようなもので、いくら高層ビルを積み上げようが天には達しない。予定はしょせん予定。そんなに世の中うまくいってたまるか、という。

 「AをすればBになる」なんてことはこの世に少ないです。勿論あるにはありますよ。「自動販売機にコインを入れてボタンを押すと選んだ商品が出てくる」とか、「高層マンションの屋上から飛び降りたら死ぬ」なんてのはそうですよ。しかし「○○をすると幸福な人生を得られる」なんてのは無い。

 ダンドリに関する法則性らしきものを導き出せば、ダンドリを行う対象が

 @、限定されているほど
 A、直近未来であるほど、
 B、明確で単純な構造をもつ(or 明確で単純な元素に分解できる)ほど、
 C、変数X(特に人間的要素)が少なければ少ないほど、

 難易度が低くなり、ダンドリの有効性が高まります。

 例えば、難易度の低いイージーな事例としては「家の近所でタバコを買う」という行為がありまます。これはかなりの精度でダンドリをつけられる。しかし、これもA未来性が遠くなると、来年には値上がりしてるかもしれないし、あった筈の自販機が撤去されているかもしれないし、証明カードがないとタバコも買えないということもありえます。50年後にはタバコが麻薬並みに禁止されているかもしれない。先になればなるほど予想外の事態が出てくる。Cの人間的要素でも、村のタバコ屋で買おうとしたら、「お前は村八分だから売ってやらん」と言われてしまうかもしれない。

 もうちょっと難易度の高いケース、「来週の火曜日の朝10時、札幌で行われる会議に出席する」という場合、要するにそこに移動するためのダンドリを立てればいいのだから、時刻表を調べて、チケットを取って、、、という、シンプルな要素に分解できます(B)から、かなりの確度で実行可能です。「来年の入試で志望校に合格する」なんてのも、より漠然とはしますがダンドリを立てるのは可能です。時期も対象学校も限定され、且つペーパーテストのように人的要素が少ない(合格点さえとればいい)場合、「合格点が取れるように学力をつける」というタスクに翻訳され、あとは出題傾向やら、各教科の勉強を合理的に進めればいいだけです。

 さらに難しいケース、「希望する企業に就職する」を考えてみた場合、入試よりもダンドリがきかなくなります。なぜかというと成功(合格)するための条件が、より曖昧だからです。一般論的には学歴や資格、年齢など基準はあるでしょう。しかし、それはあくまで一般論であり、それがなければ絶対ダメなわけでもなく、又それが揃えれば誰でも合格するわけでもない。特に面接については、あれこれノウハウ本は出ていつつも、ノウハウ通りやったからといって成功する保証はない。試験官の印象や評価という人間的要素が入ってくるからです。それでも「希望する企業」と限定をしているだけ対策は立てやすい。これがもっと漠然とした「良い就職」となると、一層ダンドリは立てにくくなります。何をもって「良い」とするかにしても、世間的な評価だけではなく、本人の適性や好き嫌いもあります。また、就職はある程度の期間続きますので、A直近未来という点でも問題になります。入社時点では花形産業であっても、20年後には構造不況業種になっているかもしれない。

 さらにさらに難易度の高い、「幸福な結婚」なんぞになると、もうダンドリといっても途方に暮れますよね。なぜなら、100%相手の気持ち次第であり、人間という最強の変数・ワイルドカードが全面に出てくるからです。「こうすれば成功する」という基準なんかあってなきがごとしです。そういえばバブルの昔に三高(高収入、高学歴、高身長)とか言われてましたが、今は「三低」(低姿勢(亭主関白ではない)、低リスク(安定した職業)、低依存(互いの生活を尊重)」、あるいは「三手」(家事育児を手伝う、手を取り合う(相互理解)、手をつなぐ(愛情)」らしいですね。はるか昔には「家付き、カー付き、ババー抜き」なんてのもありました。しかし、こんなの単に「言ってみただけ」でしょ。ダンドリでどうにかなる種類のことではない。それに仮に結婚できたとしても、そんなのは何十年も続く夫婦修羅道のほんの始まりでしかない。

 究極に難しいのは、「幸福な人生」ってやつです。もう「幸福ってなに?」というレベルからはじまって、何をもって面白いと感じるかは人それぞれ、時期それぞれであるうえ、それが一生続きます。無限定で、遠未来で、漠然としてて、人的要素という変数ばかりです。そもそも東西南北上下左右どちらに行けばいいのかすら分からないのだからダンドリのたてようがない。

 以上、冗談めかして書いてますが、要するにダンドリが効力を発揮するのは、極めて限定された、客観的で明確で近未来の一角に過ぎないということです。大草原の中の一軒家の敷地分くらいには有効だと。大草原全体に適用可能なものといえば、「人間辛抱だ」みたいな戦略やダンドリというよりは、日めくりカレンダーの人生訓みたいなものくらいになってしまいます。つまり、対象が広範囲で漠然としてくればしてくるほど、ダンドリも漠然としてくるということです。「漠然としたダンドリ」なんか形容矛盾であり、それはもうダンドリではないよ。

 つまりは計画を立てきれない、詰め切れない。いくら情報武装しようが、いくら綿密に分析検討しようが、結局は分からない。プトレマイオス王朝からの人類数千年の英知を結集し、莫大な資本を投じて人工衛星をはじめとする諸設備を整え、優秀な人材を揃えて全力で頑張っていても、それでも天気予報は外れたりするのだ。

 もう一点、これらから分かることがあります。それは大事なことほどダンドリが立てられない、ということです。どーでもいいような細かなこと、例えば「先にコンビニに行って千円札をくずしてから、自動販売機に行く」というようなことはバッチリ段取りが立てられるのだけど、「運命の出会い」なんてのは段取りの立てようがありません。立てようがないから「運命」なのだけど。

 では、ダンドリが立てられない領域はどういう原理で動いているのでしょうか?だからそれが偶然です。それはもう偶然と呼ぼうが、運命と呼ぼうが、成り行きと呼ぼうが、なんでもいいですけど。「たまたま」教の教えは、この偶然の偉大な力に敬意を払おう、ということです。

 しかし、ダンドリ教とたまたま教は敵対するものではありません。
 むしろ相互補完の関係に立つと思います。たまたま教を正しく敬うことで、ダンドリ教もその本義に達する。

 つまり、ダンドリをたてるときには、偶然の要素を十二分に考慮しておけ、ということです。考えてもしょうがないことは考えない。場合によっては、ダンドリを立てないというのが、もっとも正しいダンドリの立て方である場合もあります。同時に、ダンドリをたてるのが面倒臭いから、その言い訳として偶然の要素を強調するのもダメです。「入試なんかしょせん運だよ、運」と言って全然勉強しないとか。「でたとこ勝負じゃあ」といいながら、ごく初歩的な確認を怠って列車を乗り間違えるとか、台風欠航してるのを知らずに飛行場まで行くとか。これは、たまたま様の威を借るキツネです。ダンドリは立てるところは立てる、立てないところは立てない、そのメリハリが大事。

 さて、以下、実はこの2倍くらい書いたのですが、話がディープになりすぎたので全部バッサリ削りました。今回は軽く終らせます。ディープなネタはまた別の機会に取っておこう。
 ということで、起承転結の「承転」をワープして、あっさり結論部分に向います。


たまたま様を「うやまう」という意味

 「たまたま様」を敬えということですが、「偶然をうやまう」というのはどういうことか?について書いておきます。

 たまたま=偶然というのは、自分の手の届かないところで事情が変わることです。日常生活において、そして日常生活の積み重ねである人生においては、自分がコントロール出来ない事で決まってしまう部分がかなり多い、ということです。なにごとも「たまたま」そうなっているという。

 昔は「たまたま」の強さが分かりやすかったと思います。典型的なのは戦争です。戦場の前線で、敵方の砲弾が「たまたま」自分のところに落ちたら死んでしまい、たまたま自分を外れたら生き残る。そこには努力も、計画も、情報もクソもないです。死ぬときは死ぬ、それだけです。もう純粋にそれだけです。たまたま生き、たまたま死ぬだけ。

 これは何も戦争という極限状況についてだけ適用されるのではありません。「分かりやすい」という意味で戦場を持ち出してるだけのことです。戦場ほど分かりやすくはないけど、これが世界の原理法則なのでしょう。乗ってた飛行機がたまたま墜ちるか、墜ちないか。観光バスが崖から転落するか、しないか。勤めている会社が倒産するかしないか。落雷にあたるか、食中毒にあたるか、悪性の病原体に感染するか、基本的にはみーんな「たまたま」です。営々と30年間築き上げてきたものが、嘘みたいな、冗談みたいな偶然一つであっさり崩壊します。それがこの美しいまでに残酷な世界のオキテであると。

 もともと世界というのは、そのくらいバイオレントな環境なのでしょう。野生生物、とくに小さな昆虫や魚などは、1秒後にぱくっと食われて死んでも何の不思議もない。草原にいる野ネズミが今日を生き残るためには、たまたま様の力によります。

 今、生きるか死ぬかみたいな事例、それも好ましくない事例ばかりを挙げましたが、勿論マイルドな事例もその数十倍ありますし、良いことも、悪いこととほぼ同じくらいあるでしょう。試験のヤマが当るときもあれば、外れるときもある。ホームに着いたら間一髪で乗り遅れるときもあれば、間に合うときもある。

 「たまたま様を敬え」というのは、偶然を過小にも、過大にも評価もするなということです。
 まずは過小に評価して、ダンドリや情報で全てがコントロール出来ると思うなと。ついつい人生とは車の運転のように全部自分でコントロールしているように勘違いしがちですが、ハンドルもブレーキも半分しか言うことをききません。右にハンドルを切っても、曲がってくれるときもあれば、曲がってくれないときもあるのだ。上にみたように、大事なものほど偶然の事情が強くなる。もし、全てのことを事前にコントロールできると思い、また実際にもコントロールできていたとしたら、それってメチャクチャみみっちい人生を送ってるんじゃないかと疑った方がいいです。ちっぽけな事ほどダンドリが有効にきくんだから。

 逆に過大に評価して、「しょせん運」で何にもしないのもダメです。もちろん努力もダンドリも立てる。全知全能を振り絞って頑張れるところは頑張る。それはもう当然の前提。その上で、事が成るかどうかは「勝負は時の運」だと割り切れと。努力しても結果に結びつくとは限らないとしたら空しくなるかもしれないけど、そこは丸呑みしなはれと。それはもうそーゆーものなんだから。自然法則みたいなもので、「なんで重力なんかあるんだ」と怒っても始まらないのと同じ。それに条件は誰でも一緒なんだから。

 あ、付言すると、「たまたま様」とか茶化して書いてますが、偶然=運でもあります。でも、あんまり「運」とか言いたくないんですよ。運と言ってしまうと、話が「運勢」という別の方向に流れていくからです。「運」にまつわる人類の研究は、古来山ほどなされてます。ほとんどこればっかやってきたと言ってもいいくらい。占星術、四柱推命、カバラにせよ何にせよ。原典においては自然科学として真面目にやってたのですけど、段々面白いところだけ抜き出してポップになってきます。傲慢な人間は、「運」という神々の領域すらにも土足で立ち入ってきます。運勢を知ろうとしたり、その運を変えようとすらします。僕は、原典たる自然科学的な占術、陰陽師の天文博士みたいな領域には、深甚たる敬意を表しつつも、「運勢」というのは偶然とはまた別物だと思ってます。ここで僕が偶然とか「たまたま」とかいうのは、100%人間の関与がありえない事柄のことで、多少なりともその原理を知ろうとしたり、操ろうとする「運」系のものとは文脈が違うと。「運」は、それはそれで面白いのですが、本稿とは別物だとご理解下さい。

 そして、偶然には良いこともあります。というか、良いことの方が多いくらいです。
 あなたが素敵な人と出会うのを、「運命の出会い」とか「導き」とか言いますが、偶然=たまたま様は、ある日突然命をを奪う死神でありつつも、恋のキューピットでもあり、幸福の女神でもあります。だいたいですね、文学的に「出会い」とかいいつも、客観的に何が起きたかと言えば、○月○日○時○分、○○の交差点で「たまたま」信号待ちをしていたあなたと、「たまたま」その場を通りかかったその人が、「たまたま」何かのキッカケで言葉を交わしたということですよね。いくつもの偶然が積み重なって、ある局面を迎えているという。

 僕が今のカミさんと知り合ったのも、たまたま知り合った友人に誘われて、たまたま見知らぬ会のパーティに出て、たまたまそのときのテーブルの正面にカミさんがいて、そして二次会で又たまたま隣に座って、その場でたまたま共通の話題が出たので盛り上がって意気投合した、、、のが始まりです。でも、単純な飲み友達という時代が10年以上続き、こちらはオーストラリアに行っちゃいます。普通はそこで終わりなんだけど、たまたま日本に帰省していた僕が、飲み相手を探して、昔の住所録をたよりに片端から電話してて、たまたまそのときに電話に出て、たまたま予定が会って一緒に飲んだという、、、、もう、いくつ「たまたま」があるのか数え切れないくらいです。そんなもんです。

 「たまたま」様は、あなた人生を、あなたの手の届かないレベルで変えてくれます。いくら努力しても計画しても到達できない地点まで運んでくれます。50努力してもゼロリターンというトホホな時もある代わりに、50努力したら100返ってくることもあります。どうかしたらゼロなのに1万点くれたりすることもあります。トータル収支はプラマイゼロなのでしょうが、でも、なんかプラスの方が多いような気もしますよ。

 大事なことほどたまたま決まると言いましたが、今あなたがここに存在していること自体、自分の努力でそうなったわけではない。この時代に、日本に生まれ、この両親のもとに生まれ、こんな姿形と遺伝子を持っているのも、「たまたま」といえばたまたまです。今自分の好きな友達、音楽、作家、趣味、、、どういうキッカケで出会い、どう好きになったのかといえば、殆どが偶然でしょう。今こうやって僕がこんな文章を書いて、地球を何千キロも離れたあなたが読んでいるのも「たまたま」です。何もかもが「たまたま」の所産だといってもいい。今日一日振り返って、偶然ではなく、自分が意識的に計画、努力して事を成し遂げたことなんか何%あるというのだ。どのバスにのり、どんな乗客と乗り合わせ、吊革をもって立ったあなたの目の前に貼られていた広告がなんだったかなんてのも偶然です。

 こういったささやかな意味しか持たない偶然をも含めれば、僕らは日々、偶然の海を泳いでいるプランクトンのようなものです。たまたま様は、森の精霊のように、海のイルカのように、常にあなたの周囲を飛び回る。ふわふわ遊泳し、まとわりつき、話しかける。時として足をひっかけて転ばせたりしてイタズラをしますが、きれいな泉に連れて行ってもくれます。

 この偶然の力を受け入れられず、なにもかも情報武装し、マニュアルどおりにやろうとするのは愚かなことだと思います。偶然要素を計算に入れようとしない。それをあたかも「出たとこ勝負」「行き当たりばったり」という無計画な暴挙であるかのようにネガティブに捉える。何度もいうように努力すべき所で何もせず偶然頼みだったらアホですけど、やることやりつつ、しかし偶然の要素を考慮に入れてふくらみと柔軟性を持たせることは悪いことでも何でもない。それどころか最も実態にかなっている。しかし、なぜかそうしようとしない人もいます。

 なんでそんなに全てが計画され、管理下におかれないとイヤなのかな。その心理の奥底には大きな不安感があるような気がするし、臨機応変に、アドリブでやっていくことに慣れていない経験不足、精神の脆弱さを感じる。譜面がないと何も演奏できないミュージシャンは、ただの演奏機械だと僕は思う。その場その場の自分の感情に応じて音と戯れるのを「音楽」といい、それが出来る人、つまりインプロヴァイズ(即興)が出来るのがミュージシャンだと思うのだけど、でも、譜面=ダンドリやマニュアル=ばかり見て、即興演奏がないがしろにされているような気がする。それは一つは時代の空気だろうし、またこれまでの高度成長・ベルトコンベアの大きな弊害だとも思う。このあたりを書きだして600行くらいになっちゃったので割愛したのですね。だから今はサワリしか書きません。

 まあ、人生に譜面なんかねーよってことですよね。高学歴、高収入程度の幼稚なダンドリで幸福になれるんだったら、誰も苦労はしないよ。僕だってオーストラリアには来てないですよ。この世界は、そんなツギハギだらけのポンコツ機械みたいな不細工なものではない。もっともっと自由で、もっと残酷で、もっと美しい。比較する気にもならないくらい。大いなる偶然と抱き合い、ふざけあい、転げ回ればいい。それをビビって全てを譜面とポンコツで済ませようとすれば、それは偶然が入り込まないチッポケな世界で終ってしまうということでもあります。

 以上のことを、たまたま教の教義めかしてまとめれば、たったの二点に集約されると思います。すなわち、「腹を括れ」「偶然の事柄=めぐりあい=を大切にしろ」ということです。前者に関しては、ある日突然不幸のどん底に突き落とされるかもしれないし、努力しても全く報われないこともある、という残酷な真実をそのまんま受け入れろということです。イヤといってもどうしようもないもん。その代わり、いい思いも沢山させて貰えるんだから、その程度の不幸は税金みたいなもんです。ちゃんと払えと。そこでいじけたり、拗ねたりしないで、腹を括ること。それが出来たら、自動的に第二点の偶然を楽しむことも出来るでしょう。世界と人生は偶然に充ち満ちており、偶然性を楽しみ、偶然と友達になればいい。

 それがすなわち、たまたま教の真髄である、たまたま様を敬うことだと、僕は思います。

 これって別に僕のオリジナルでも何でもなく、昔っから多くの人達が言ってきたことです。表現方法がちょっと違うだけで、言ってることは同じ。例えば、「人生万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」「人事を尽くして天命を待つ」と。


文責:田村




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