今週の1枚(2010/10/04)




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Essay 483 : 40歳で死ぬはずだったのに 

 写真は、Paddington。


 以前にもどっかで書いたのですが、僕は高校生の時に「俺は40歳で死ぬ」ことにしました。世の中には「30歳になる前に死ぬ」「20歳になる前にキレイな十代のまま死ぬ」とか色々な意見があるようですが、18歳の僕はとりあえず40歳を目安にしました。なぜならそれが18歳の僕にとって、ギリギリ想像可能な未来だったからです。

 でも、なんでそんなこと思ったのかな?おそらくは時代的な気分もあったのでしょうね。
 現在の閉塞JAPANからしたら、70〜80年代といえば経済成長していて天国JAPANだったかのように勘違いされがちですが、ネガティブ話が好きな日本人の習性は当時から健在で、経済の閉塞感は無かったけど、「この世の終わり」という妙な終末感はありました。なんせ公害がムチャクチャすごかったですからね。汚染によって遺伝子異常を引き起こした奇形魚類や、水俣病で踊るようにのたうちまわっている猫など背筋が凍るような映像が流されてました。ちょっと前に中国産の食品が危険とか騒がれてましたが、日本もそうだったのですね。それに加えて大地震ブームがあって、首都直下型地震が明日にでも起る、起らないはずはないというムードでした。当時僕が住んでいた東京中央区のシュミレーションによる生存率は5%!ドカンときたら95%の確率で死ぬ。今この瞬間に死んでも全然不思議ではないという。グラッと揺れる度に「ああ、ついに俺は今日死ぬのか」とかなり本気で思いましたもんね。地下鉄通学だったので、せめて地下鉄内で死ぬのだけはイヤだなとか。でもって、世紀末ブーム。ノストラダムスの大予言がどうしたとか。1999年でしょう?絶対なんかあるよなって感じ。あと、東西冷戦でいつ核戦争が起きても不思議ではなかったです。

 そういう時代背景があったからこそ、大地震をモチーフにした「サバイバル」とか「バイオレンスジャック」のようなマンガが描かれ、人類死滅の大戦争があったという設定で「マッドマックス2」という映画が撮られ、さらにその設定をパクった「北斗の拳」が描かれてます。あれも「世紀末」救世主伝説ですからね。199X年に地球は核の炎に包まれることが前提だったのです。そんな無茶な設定が当然のように受け入れられていたわけで、そのくらい当時には終末感があったと思います。多感な(あるいはアホな)思春期の少年だった僕が、自分が天寿を全うするなんてことは、まず、普通に考えたらありえないと思っても不思議ではないです。これだけ色々言われているんだから一つくらい現実化するんじゃないの?と。考えてみれば、当時の我々というのは、現在とは比較にならないくらい死、それも「災害死」を身近に感じていたように思います。

 僕は1960年生まれですから、丁度2000年で40歳でなるのですね。だから、「まあ、そんなもんだろ」くらいなアバウトな感覚で、とりあえず40歳と。これも40歳で死ぬという設定が悲しいというよりも、40歳まで生きられたらラッキーだよな、「ちょっと楽天的過ぎるかな」くらいのニュアンスだったんですよね。少なくとも思い切って無茶な設定をカマしたという意識はなく、冷静に考えてかなり妥当な線という感じだったような記憶があります。

 それに、まあ、キリがいいじゃないですか(^_^)。丁度2000年、ちょうど40歳という。それに高校生が考え得るタイムスパンとしては手頃なサイズでもありました。65歳以降の年金の計算なんて、18歳の頃に真面目にやる気なんか起きなかったし、なんか23世紀の将来予測みたいに手が届かない感じがしたし。

 ということで、40歳で死ぬ(てか、上手くすれば40歳まで生きられる)、だから40歳までにやること全部やっちゃおう!と張り切って、それはそれは張り切って、チャカチャカ動き回って、とりあえず18歳の時に思ってたことは全部やったと思います。

 といってもそう大した野望を抱いていたわけでもありません。一般に、男子高校生なんか自意識過剰と劣等感が服を着て歩いているようなものですから、アホな自分にそうそう大したことが出来ると思えるわけがない。「天下統一」なんか、まあ、思わないよね(もう統一されているし)。ということで、日本で一番難しいと言われる試験に挑戦してパスし、「プロ」と呼ばれる領域に入り、さらにドラマや映画に出てきそうなシリアスな人間の現実に参加する、、という今から思えば慎ましい希望でした。いわゆる「ナニゴトかを成し遂げる」ということをやってみたかったんです。他にも理由は沢山あるけど、40歳絡みでいえばそんなもん。とにかく一番高い山に登りたかった。二番目じゃダメ。

 そうそう、事業仕分けでの「二番じゃダメなんですか?」と蓮舫議員のセリフが流行りましたけど、二番じゃダメですよ。ダメに決まってんじゃん!結果的に二番になるなら全然いいし、ビリでも構わない。でも、スタートラインでは自由勝手に目指して良いんだから、そこで自ら進んで1番から降りる理由がないでしょう。私利私欲でやるんだから、欲望100%全開でいかなきゃ嘘だし、死んでも悔い無しレベルで燃えられないでしょう。それにここが大事な所なんだけど、1番を2番に下げたところで難易度なんか殆ど変わらない。それより2番に下げることで生じる戦意の減殺デメリット=心を弱め、勝負弱くさせる弊害の方が大きい。つまり1番を目指した方が2番を目指すよりもトータルでの成功確率が高くなるのだ。そのくらいの機微は18歳にもわかります。それより何より自分から進んで「逃げた」というのが許せん。おそらくその意識は一生つきまとうだろうから、「俺の一生は逃げた一生」という思いを抱いて死にたくはないですよ。普通の局面ではいっくらでもお譲りしていいし、譲るべきだけど、ここ一番というところでは1ミリでも退いたらダメだと思う。今から振り返っても、あのとき「もうちょっと易しい試験が現実的かな(2番以下でいい)」とか思ってたら、それすら受かってなかったと思います。

 とまあ、主観的に燃えていました。もう「挑戦する」というだけで盛り上がってしまって、大学入試なんか「俺の戦場はここではない」とか勝手に決めてかかって(勉強しない言い訳ですね)、高校生の頃から、蛍雪時代の代わりに「受験新報(司法試験のための受験雑誌)」なんかカッコつけて買って読んでました。イッコも内容が分からなかったけど、それを買ってるという自分に酔ってましたねえ。

 とはいえ、もちろん気合だけで何とかなるとも思ってませんでした。当時の合格者平均年齢が28歳だったから、まあ30歳までに受かれば御の字で、それすら危ういかな、、、くらいに思ってました。だから30代の10年間は予備に当ててました。ところが意外にも気合と幸運で何とかなっちゃって、25歳で受かってしまい、同時に遠距離恋愛を成就させて結婚もしちゃいました。30歳を過ぎた頃には既に一服感もあったりして、「うーん、40歳まで時間余ったし、なんかもう一山クライマックスがないと間が持たないかも、、、」という気分が盛り上がり、オーストラリア移住をやってしまいました。

 驚くべきことに、30歳を過ぎた時点でもまだ「40歳で死ぬ」というキマリを意識してたのですね。何を考えてたんだろうね、僕は。さすがに高校の時のような真実味はなかったのですけど、そう考えると気が楽というか、話が見えやすくなるのですね。「何をしたいか?」「どう生きたいか?」を考えるのは難しいのだけど、そこに「どうせあと数年で死ぬ」という前提を入れると、考えがまとまりやすい。終期を区切るとプライオリティが見えやすくなるということです。

 ああ、そうそう、「もし死ななかったら、、」とは勿論考えましたよ。その場合には老後の問題が出てきますよね。40歳で死ぬプランの良いところは、面倒臭い老後とか考えなくても済むことなんですけど、死ななかったら老後というのが出てくる。だけど、これも電卓叩いて養老保険の料率などを計算するなどして、「無理」という結論に達してました。年金は既に80年代の時点で出るわけがないと思ってたし、老後の「資産」というものがいかに脆弱かということも計算しました。保険なんか保険会社が潰れたら終わりだし、預金しててもハイパーインフレがきたら紙切れだし、不動産なんかも将来の人口減でダブつくからダメだし、金もアテにならんしね(国内金価格は80年のグラム6500円をピークに、2010年時点で3500円だし、将来大金鉱が発見されたら暴落しかねんし)、向う10年くらいなら何とかなるかもしれないけど、老後でしょ、向う50年くらいでしょ?何が起るか分からん。だから資産形成して老後に備えるという発想それ自体がアウトだなって僕は思ったですね。だからその点では「考えても考えなくても同じ」という結論に達した。さらにいえば「80歳で一人ぼっちでアフリカに行っても楽しくやっていけるような強い自分になる」方がより現実的な「対策」になると思ったですね。外国語の一つや二つ覚えておいた方がよっぽど心強いわと。でも、まあ、仮に資産形成したほうが得だとなったとしても、やらんかったでしょうねえ。そういうの好きじゃないし。それにイヤイヤそれやってて、本当に40歳で死んじゃったら納得いかないじゃないですか。自分は細かな局面では努力好きなアリさんタイプだけど、大きなところではキリギリスなんです。面白いから努力するのであって、面白くないことに努力する気はない。

 でもって、オーストラリアに来てからは、「右も左もわからない外国で自分でビジネス立ち上げて100万円稼ぐ」というハードルを設けました。雇われるのではなく起業する、お遊びで終らないシルシとして取りあえず100万円ということです。でも、これもやってるうちに達成してしまいました。

 そんなこんなで運命の40歳を迎え、よし、これで安心して死ねるぞ、と思ってても、まあ、死にませんよね。「『30まで生きる気はない』と常々言っていたあいつは、30歳の誕生日の三日前に交通事故で死んだ」なんて劇的なことは、まあ、起きませんって。

 「そりゃそうだよね」と思いつつも、「あれ?」という気分もなきにしもあらず。「はて、どうしたもんか」と。それ以降は「余生」というか、特攻隊の生き残り気分というか、ラブホテルの延長時間というか(^_^)、持て余し気味の想定外の時間になり、その延長時間も積もり積もって今年で10年ということです。昔の自分の感覚に立ち戻れば、40歳以降はカウント無用というか、年齢を勘定する意味もないです。もう死んでるんだから。

 「だがしかし、それでも人生は続く」わけですが、別に40歳以降、燃え尽きた真っ白な灰になって余生を過していたわけではなく、それなりにやってはきました。しかし、その「やり方」はドラスティックに変わったと思います。

 "You can't change what you are, but you can change the way you are"と言いますが、自分が自分であることは寸分も変わらないけど、自分の「あり方、やり方、生き方」は変わります。変えられるし、すごい変わる。40歳以降=正確には37-8歳頃以降、それまでの期間を区切って、目標を立てて、戦略カマして、あーしてこーして、、という方法ではなくなりました。プランが終ったのもあるけど、そういうのはもうええわって感じ。「小賢しいわ」って。そのあたりの曲がり角感覚は、リアルタイムにシドニー雑記帳時代に書いた覚えがあります。

 なんというか、無手勝流というか、なーんもプラン立てず、ほけ〜っと生きてるんだけど、ちゃあんと豊かに充実しているようになってないとアカンのではないかって。というか、この「充実」ってところすらも小賢しい感じがして、「充実」なんかに頼ってるようではまだまだ、という。朝からずっと縁側でひなたぼっこしてても、「ああ、今日はいい一日だった」と心底思えるのが理想です。まだまだ先は遠いけど。でもって、この世に存在しているだけで、もう幸福でたまらんって境地までいって、さらに進むと、別に存在していなくても構わないんじゃないの?というレベルにまで達し、でもって空気に溶け込むように消滅するのが究極的なところですねえ。生きてるか死んでるかすらも枝葉末節、自分という自我すらもどうでもいいという。

 このあたりになってくると想像するのも難しいのだけど、おそらくは自然とか宇宙とか巨大な存在があってですね、自分はその一部というか、川のせせらぎにたまたま出来たアブクみたいな「何となくまとまりのある存在」がすなわち今感じている自我であり、だからあんまり本質的な存在ではなく、全体に溶け合うのが一番ナチュラルで気持ち良さそうな気がする。それは仏教でいう成仏とか、キリスト教でいう神の遍在や聖霊ってことなんかもしれないけど。これは自然科学的にいってもそうで、生命というのはエントロピーの局所的逆行、エネルギー拡散という大きな流れの中で局所的に逆向きに流れているネゲントロピーとか散逸構造とか言われているやつなんでしょ。詳しくは知らんけど。大脳生理学的にも、僕らの自我とか意識とか個性というのは、突き詰めていえば「情報処理のバグ」のパターンに過ぎないともいうらしい。紐のマジックで、紐を結んで何重にもコブにするけど、両端を引っ張ったらはらりとほどけて一本の紐になってしまうというのがあるけど、あんな感じで、いずれは本流に回帰して当然。


 もっとも、日々こうやって生悟り坊主みたいに暮らしているわけじゃないですよ。相変わらず滑った転んだで煩悩全開で生きてる小市民ですよ。先日だって、車検(ピンクスリップ)を受けたら33ドルくらいで済む予定がエンジンマウントがクラックしてるのが発見されるなどして880ドルもかかってしまって「あああ!」と嘆き、春になったからと草刈機を出したら壊れていて修理代が125ドル嵩んで「あああ!」となって、じっと手を見ています。いじこくも愚かに生きています。

 ただ、「ナニゴトかを成し遂げる」ということに、あんまりもう興味はない。「ナニゴト」などという小道具を持ち出さなきゃいけない時点で未熟だなって思うし、それで自己実現とか自己確認とかいっても、もう実現も確認もしちゃったし、何度もやらんでもいいわって。別にそんなご苦労なことをしなくたって、世の中に面白いこと、やることは沢山ある。それまでの自分が無知無能だったから見えてなかっただけの話です。宝の山に囲まれながら全然見えてなくて必死に探していただけという。

 例えば、絵画、音楽、舞台、世界の政治やら料理、そしてなにより人間そのもの、、、人類が何千年にもわたって「これ、いいっすよ」と教えてくれているもののうち、一体どれだけ知っているというのか。どれだけそれを体験していい気持ちになれたというのか。そんなさー、「40歳で死ぬ」とか、「一番」とかわざわざご苦労なダンドリかまさなくたって、中学校の音楽の時間の鑑賞や美術や古文の教科書などに幾らでも本物が載ってたんですよね。でもあの頃にそれに触れても分からないし、退屈。なぜかといえば、自分が馬鹿だから。感性、知性、いずれにせよ理解能力低すぎ。だからお子様ランチみたいな分かりやすい世界に魅力を感じるわけです。プリンや旗が立ってると嬉しいという。だけど、いつまでもお子様ランチじゃないよね。もっとちゃんと大人になれよ、俺って。

 例えば、先日、小松左京の大昔の小説を読んでてつくづくそう思いました。主人公が晩秋の山口県の旅館に泊まり、そこではじめて萩焼(陶器)の味わいの何たるかを発見するくだりがあるのですが、長くなるけど引用します。端折ったら意味ないので。

 阪神間に生まれ育った身としては、それまで、萩焼にあまり関心を持たなかった。もともと焼物に趣味がある方ではない。それも素人に”ど”がつく程度で、手前勝手な好き嫌いがあるばかりだが、茶器といえば、やはり楽焼(らく)の系統に馴染みが深く、若いころには、織部などが雄渾に思えて、伊賀、志野など、荒々しい、時には八方破れのものを珍重する気持だったが、四十近くになって、九谷(くたに)を飛び越して、突然繊細華美な京焼絵付などが好きになったりした。すぐお隣の備前焼が、あまり好きでなかったためか、西の焼物には薩摩も萩もほとんど関心をはらわず、伊万里、有田の系統でもどうせ名物なぞ入手できないのだから、見るだけならいっそひと思いにとんで、正真景徳鎮(けいとくちん)ものや、古渡りの宋胡録(すんころく)をと、展覧会の目録であさってきた。(中略)

 遠州流の茶室に織部の茶器は、いかにも関西より東国の、「江戸武家」にふさわしい。----関西の茶室になじんだ者には、関東のそれはびっくりさせられることがあるが、それは土の色が黒いばかりではなく、庭全体が、関西のそれよりもずっと、青黒い---時には育ち過ぎた暗い木賊(とくさ)色の感じがする事があるからである。前栽(せんざい)に、黄緑がすくなく、苔の色も暗緑が勝つ。武蔵野の風情を取り入れたものもあったが、それはそれであまりに荒涼としていて、山家を思わせた。このような土地でこそ、織部の土臭さと力強さが生きる。ならば京、大阪の茶会は、すがれて楽焼、はなやげば赤字に金の細密画を配した京焼などが合うのではないだろうか。

 だが、土の色は赤白の明るみをおび、山の木さえ、春夏は黄緑、秋は鮮明な紅葉にかがやき、海をうけ、空はあくまでも乾いて青く、何もかも明るいこの山口にあっては、萩焼の明るさ、やわらかさこそふさわしいものに思えた。

 地は卵色であろうか、それともすこしは赤みを帯びているのか、いずれにしても軟陶のやさしい手ざわりが、掌の中で、茶をみたした内側から人肌にあたたまるのがなつかしく、ぬるむのもかまわず、掌にその感触をたのしんでは庭を見、日ざしを見、猫の親子と鯉を見て、最後の一口を、惜しむようにゆすり上げてすすった。----何の変哲も、ひねりもなく、ただまろく、茶碗型につくり上げ、口造りもすなおに薄まっている。やや灰色をおびた乳白色の釉薬(うわぐすり)が、なめらかに、砂糖の衣のようにかかり、かなりつかいこんだと見えて、中をのぞくとその乳白色の底から、ほんのりと赤味が浮き出しかけている。(後略)  「秋の女」より  
 この小説が書かれたのは1973年、掲載誌は別冊小説新潮という普通の大衆雑誌ですから、僕が中坊になった当時の日本人の30-40代、少なくとも大学卒のインテリというのはこの程度の造詣があったのでしょう。これだって別に陶器小説ではなく、中高年期にさしかかった女性四人を登場させ、熟年ならではのあでやかさと美を描くところにモチーフがあり(現在のアラフォーなんか比較にならない次元で実に優美に描かれてます)、この部分は別にほんの導入部のさりげない描写でしかない。それも本業は「日本沈没」のハードSF作家が、ほんの気まぐれに書いた地味な小説です。それですらこのレベル。僕、50歳。書ける?全然。もうとっかかりも無い。何も知らん。そもそも思いつきもしない。もう、俺って知恵遅れじゃないの?という感じ。

 かといって、別にこういうのが書けたらエラいとか、蘊蓄やら衒学趣味に流れようという意味ではなく、「こういう風に世界がちゃんと見えてたら楽しいだろうなあ」ってことです。この小説を最初に読んだのは確か19か20歳くらいの頃ですが、あの頃は全然分からんかったし、ひたすら退屈な小説に思えた。馬鹿だったんですねえ。今は到底書けはしないけど、「いいな」ってことくらいは分かるようになった。馬鹿が半馬鹿に浮かび上がったくらいです。しかし、30年掛けてそれだけかよ?!とは思いますね。

 本当に、今の自分がダメ過ぎ、物知らなすぎ、未熟過ぎって思いますよね。18歳の時もかなりダメダメ感に苛まれていたけど、今の方が激しくダメだと思いますね。ただ、18のときと違うのは、ダメだと思うことに痛みが伴わない。むしろダメであることが嬉しい。もう知恵遅れだろうがなんだろうが、世の中面白いものに満ちあふれていて、ただ自分がボケだから分からないだけという感覚は、単純に嬉しいです。もっともっと先があるのが嬉しい。全部味わってたら3000年くらいかかりそうで、しかもそれを味わえるだけの自分を磨くのに1000年くらいかかりそうで、それが楽しい。

 18の頃の「一番高い山」なんて、これに比べたら角砂糖みたいなもんです。40歳までに死に物狂いでねじ伏せた敵が、実は吹けば飛ぶようなザコキャラだったことが判明し、霧の向うから途方もない巨大な敵の姿が見えてきたという。「あいつとやんのか?」と絶句するような感覚。もう世界丸ごと食ってやるというか、全宇宙とタイマン張るというか、圧倒的な全存在に対峙しつつも、それでも尚かつ自分が自意識を有する個としての存在であるという事がうれしい。真正面からメンチ切れるようになったのが嬉しい。言ってる意味わからんだろうけど。あ、でも、いいラウンドをしてきて、地球や世界と話し合ってきた人だったら、ちょっとは感覚をシェアできるかもしれない。

 といっても今日から猛勉強だ!みたいにはならないです。知識を詰め込んでも大して変わらないというのも分かりますから。また世界の「気持ちいいもの」が必ずしも万人が認める古典である必要もない。だから権威的な何かに弟子入りしてどうのって感じでもなさそうで、中学の頃にロックに出会ったような感じでアプローチしたいですね。未だかつて人類の誰も気づかなかったような新しい快感を俺が見つけてやる、くらいの気分もあります。アーティストを名乗る人は誰でもそうだと思うけど。でも、僕にとってはそれがアートである必要もない。このあまりにも巨大な山。攻めあぐねて攻略法を考えているだけでも楽しいです。

 今思うのは、おそらく、常日頃から、じーっと物を見たり、「ふうん」と考えたりすることの積み重ねなんだろうなって気がしますね。一言でいえば、「もっとちゃんとしよう」ってことになるのかな。全然意味分からんと思うけど。でも、今の自分は全然ちゃんとしてないですね。人間としてってことも勿論あるけど、生き物として、さらに存在としてちゃんとしてない。もっとちゃんとなろうと。でもって、歪んだ背骨が真っ直ぐになるように、どんどんちゃんとしていって、完璧にちゃんとしてしまったら、そのときは空気に溶けるように消えて無くなるんだろうなって気がするな、うん、って一人で納得してどうする。でも、右脳一発の世界だから論理的には書けないです。川のせせらぎのアブクがいずれは消えるように、コブになってる紐がはらりとほどけるように。だからー、40歳までは局所的逆行というのを極限までやってみたくてー、もうどこまで背骨が歪むのか、その歪んだ分だけ自己実現みたいな。でも、それから先は真逆のベクトルになって、太極に回帰していくわけでー、わかるっしょ?わからんよね。ごめん。


 でも、「おーし!」とかいって盛り上がっていると、突然部屋のドアが開いて死神さんが入ってきて、「ごめーん、待った?えーと配達指定によると40歳だったよね?遅れちゃったね。悪い!」とか言って、連れて行かれてしまうかもしれません。それはそれでしょうがないよねー。もう十分やらせていただきました。この世に生まれて、それも五体満足に存在させていただいてやね、あれだけ好き放題、ワガママ放題にやらせていただいて、まだ生きてるって方がおかしいわな。人類の歴史を勉強してみたら、こんなラッキーな人間、そうそう居ないし。もう最後は野垂れ死にで結構、というかそれこそが正しい。そんなことより、運不運の帳尻を合わせるために来世はゴキブリかなんかになってそうで、それはちょっとイヤですね。まあ、なってしまえば、あれも面白いのかもしれんけど。


文責:田村




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