今週の1枚(10.08.02)




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Essay 474 : 「こわい話」の話  

 写真は、Surry Hillsの裏町。所々古くてヨーロピアンな佇まいがあります。
 サリーヒルズはシティ直近南のサバーブですが、渋いというか、とっちらかったというか、奥の深いサバーブです。まるで殺風景なエリアもあるかと思えば、Crown St沿いのようにお洒落にトンガってるエリアもあり、セントラル駅横のファクトリーアウトレットの問屋筋みたいなエリア、その南の微妙にコリアンタウンっぽいエリア、さらにクリーブランドSt沿いのレバノン料理筋があったり。シティ直近サバーブを、ただの「準シティ」くらいにしか思ってないと勿体ないです。


 最近「なんたらの技法」が続き、書いてる方も(おそらくは読んでる方)も飽きてきたので、今回はポーンと話題を変えます。

 日本は猛暑だそうですが、夏と来れば怪談。恐い話です。恐い話で背筋がスーッと涼しくなろうという趣向ですね。まあね、いくら恐くても暑いものは暑いだろうという気もするのですが、それは言わない約束なのでしょう。

 といっても、僕もそれほど怪談話を知ってるわけではありません。ここでは個別に恐い話を書くのではなく、ちょっとヒネって「なんでそれが恐いと感じるの?」「恐さって何なの?」というあたりの話です。


「こわい話」の類型

 恐い話には幾つかのパターンがあります。
 いわゆる「怪談」話は、「うらめしや、、」という怨念をもった幽霊が登場してあれこれやったり、あるいは単に居るだけだったりというパターンです。幽霊が何らかのアクションを起こす場合、大体において他者に危害を加えるというパターンが多いですね。死の世界に引っ張りこんだり。幽霊が出てきてせっせと花壇の手入れをしたり、バリバリ仕事をしたり、、という話はあまり聞きません。そんな勤労意欲に燃えている幽霊さんはいないようです。で、危害を加える場合でも、直接的に恨みを持っている相手(自分を殺した犯人とか)に向けられる場合もあれば、地縛霊のようにその場に居合わせた人々を無差別に襲うというハタ迷惑な場合もあります。

 しかし、怪談話は幽霊だけに尽きるものではありません。幽霊というのは、一般に人が死んだ後成仏できなくて彷徨っている霊魂と考えられていますから、もとをただせば普通の人間です。でも、そもそも人間ではないという場合もあります。いわゆる妖怪やお化けです。座敷わらし(あんまり恐そうではないけど)、一つ目小僧とか。この種の妖怪の類は日本にも山ほどいますし、世界にも沢山います。メジャーなところでは、河童、鬼、狐・狸、狼男、ドラキュラ、、、要するに「ゲゲゲの鬼太郎」と「怪物くん」のキャラです。

 一方、幽霊でも妖怪でもないけど「こわい」というパターンがあります。生身の普通の人間です。つまりは犯罪。一人暮らしをしている女性であれば、この種の恐怖はある意味では日常的なものでしょう。暗い夜道を帰れば襲われる危険があり、家で寝てたら忍び込まれる危険があり、知らない間にストーキングされていたり。これは存在そのものは普通の人ですから、彼らのなす「行為」=犯罪・危害が恐いことになります。

 同じように普通の人間が行うパターンであっても、個別特定の人間が恐いのではなく、「世間が恐い」という抽象的な恐さもまたあるでしょう。どこの誰とも知らない複数の人達から死ね死ねファックスやメールが毎日送られてきたら、そりゃあ恐いでしょう。ある意味では幽霊なんか目じゃないくらい恐いでしょう。ほかにもコンピューターのウィルスをばらまく奴、オレオレ詐欺を働くやから、渡る世間は鬼だらけです。これらは不特定多数の犯罪集団が恐いのですが、正規の組織が恐いという「国家権力や大組織が恐い」というパターンもあるでしょう。スキャンダルが出ると因果を含められて自殺に追い込まれるサラリーマンとか、鍵を握る人物が殺されてしまうとか(豊田商事、オウム、ライブドアでもいずれもキーパーソンが死んでいますよね)。気にくわない奴を問答無用で逮捕拘束して拷問したり、冤罪で刑務所送りやシベリアに流したり、紙切れ一枚で徴兵されて戦場に送り込まれたり。狂った国家や大組織は、その殺傷度の激しさにおいて最強最悪の妖怪だと言えなくもないです。

 次に自然現象そのものが恐いことがあります。例えばパンデミックを引き起こすウィルス。あるいは地震や津波、雷などの天災の恐ろしさです。これも恐いです。悪意がない分、慈悲もないから、やるときは徹底的です。まさに神の所行。Act of Godです。

なにが「恐い」のか

 このように「こわい話」と言っても実に色々なパターンがあることが分かります。
 一瞬これらを表なんぞを作って分類整理しようかと思い、途中まで作りかけたのですが、あまりに多岐にわたり表にしにくいのと、表にしたところで何が分かると言うものでもないことが判明したのでヤメにします。思いついたままランダムに書きます。それほど生産的なことを書いてるわけでもないし。

 幽霊や怪異現象のような一群に対して、犯罪や災害などは一般に「怪談」としては語られていません。
 おそらく犯罪や災害は、被害こそ甚大で確かに「恐い」けど、「怪」ではないからでしょう。では、「怪」とは何なのでしょう?字面からすれば「怪(あや)しいこと」なのでしょうが、あやしいというのは「不審に思うこと」であり、理解しがたいことです。いわば「あってはならないこと」が起きてしまい、なんでそうなるのか分からんという。

 犯罪や災害は「あってはならないこと」だけど、なんでそれが起きるのかは、まあ分かる。地震だったら地殻の変動やら理屈があるし、犯罪や国家の暴走なんかも、それが生じるメカニズムはなんとなく分かる。でも、幽霊や怪物はそのあたりが分からない。まあ、幽霊の場合は、恨みを持って死んだ人間が成仏できずにこの世をさまよっているんだというメカニズムらしき説明はあるのだけど、あくまでも仮説の域を出ず、実証されたわけでもない。また日食のように○月○日○時に出現時間が特定できるわけでもない。狐狸妖怪の類は、たとえば河童はどこそこ地域の○○川流域に古来から棲み着き、、という「おはなし」はあるけど、これも実証不能です。

 「怪」の典型的な事例は、幽霊も怪物も出てこない純粋な怪異現象です。例えば、あなたが駅から自宅までのいつもの帰路をいつものように歩いていて、あの角を曲がったら自宅だというところで、曲がったら何故かまた駅前に出てしまった、、ということがあったとします。「あれ?」と思いますよね。あるいは、深夜に勝手にパソコンが立ち上がり、ディスプレイに気持ちの悪い画像(不鮮明な人の顔とか)が出現している。気持ち悪くなって再度電源を切り、コンセントを引っこ抜いても、しばらくしたらなぜかまた同じ画像が出ている。恐いですよね〜。この「怪」しい現象に対して、前者は古来から「キツネが化かした」という説明をし、後者については最初は「ウィルスかな?」と思うけど、どう考えても電源を落として作動するはずはないからウィルス説は破綻し、メカニズムが分からなくなる。で、これはきっと幽霊とかその類の現象だと思う。

 つまり最初に「よう分からん現象」が起きます。絶対おかしい、でも何でそうなるのか全く分からん、発生メカニズムが不明であるという現象が起きる。幽霊とか妖怪というのは、そのワケが分からん怪奇現象に対する説明原理として考案されたものなのでしょう。

 ここで何となく見えてくるのですが、人間が恐いと思うのは、そのワケのわからなさ、メカニズム不明な部分に本質があるのでしょう。ワケが分らない現象があるのが不安だから、あれは○○のせいだとか、○○の祟りだといって説明を加える、つまりはメカニズムを解明して分かった気になりたいのでしょう。

 じゃあ、分からないことが何故そんなに恐いのだ?数学の問題なんか全然分からないけど恐くないぞ。

世界観がぶっ壊れる恐怖

 僕が思うに、それは「世界観がぶっ壊れる恐さ」なのでしょう。
 怪談恐怖の本質はそこにあるのではないか?

 世界観が壊れるというのは、例えばTVなどの家電製品は電気で動くのであるから、電源を抜いてしまえば絶対に作動するはずがないという常識があるのに、目の前にいくら電源を抜いても作動しているTVがあったら、この常識が壊れてしまうということです。これまでの常識、生活している基本原理では説明できない現象が起きてしまったら、これまでの常識を疑い、新たな世界観を作り上げないとなりません。しかし、なんでそうなるのか分からないから、新しい世界観など作れっこない。それがとてつもなく恐い。

 世界観が壊れる恐怖は、身の安全が保障されなくなるという本能的な恐怖につながります。僕らは生まれてから沢山のことを学んで生活しています。お湯に手を突っ込むと火傷するとか、高いところから落ちたらこれだけの怪我をするとか、○○すると危ない、でも○○しておけば大丈夫という具合に、いろいろな体験をして世界の法則性を学んできました。あそこの沢に夜に行くと毒ヘビに噛まれるかもしれないとか、○○系の求人は甘いことを書いているけど中に入ったら地獄だから避けた方がいいとか、そういった過去の体験学習の集積として膨大なデーターベースを作っています。このデーターベースこそが世界観であり、それは日々新たに体験を積むことでアップデートを重ねています。僕らが安全に生きていくための欠くべからざる基礎データー。

 ところが、これが破綻すると、それもかなり根本的な部分でぶっ壊れると、もう全体が信じられなくなりパニックになります。
 今僕らは、周囲に怪しい人も動物もおらず、ガス漏れや漏電の心配もなく、且つ治安レベルが良いエリアにあるセキュリティのしっかりした自宅内にいるのだったら、一応安心だ、という経験的な前提で夜ものんびり寝ているわけです。しかし、その前提がガラガラと崩壊してしまう。今この瞬間にもいきなり殺されるかもしれないし、どういう殺され方をするかすら全く予想もつかない。電源の抜けたTVがついてるくらいなんだから、それこそ何が起っても不思議ではないです。この世にこれほど恐いことはないでしょう。

 この「なんでもアリ」状態、次の瞬間死んでも不思議ではなく、その予兆も分からないし、防御する方法は全くない!という無茶苦茶な環境が常態になったら恐怖で気がおかしくなります。だからこそ人間は必死に説明を求めます。なぜこんな奇妙なことが起きたのか、そのメカニズムは何なのか。嘘でもなんでもそれらしい説明がつき、メカニズムが分かった気になれば、ある程度将来予測も出来るようになります。例えば、これは家にとりついた幽霊の仕業であり、成仏できない霊魂が助けを求めているシルシとしてTVが点灯するのだという「説明」があれば、助けを求めているだけであって危害を加えるつもりはないとか、特に自分を狙っているわけでもないとか、その家を引っ越してしまえば難を逃れることが出来るのだ等のことが分かり、被害範囲を限定できるし、対策も立てられ、再び安心を取り戻せます。

 一度は壊れた世界観だけど、水道管の破裂のように部分的な補修をすれば再び回復します。「この世に幽霊(らしきもの)はいる」、しかし「それは限定された局面での話で、時期や場所、パターンを変えることによって回避できる」という新たな世界観が構築されるわけです。そういった認識が広まった結果、僕もあなたもごく常識的にこの種の怪談話は知っているということになるでしょう。


 だとすれば犯罪や災害が「怪談」的に恐くない理由もわかります。なぜなら、それらの現象は最初から僕らの世界観に織り込み済みであり、仮にそれが起きたとしても、世界観は揺らがないからです。再構築をしなくてもいい。そりゃ、目の前で交通事故を目撃して「改めてその恐ろしさを再認識した」という重要なアップデート作業はあるでしょうが、根本がぶっ壊れるようなことはない。だから「怪」ではなく、その種の恐さはない。

 ところで、恐さのポイントは、世界観破壊→予測不能・危機感ではなく、自分に危害が加えられるかもしれないという「危害」そのものにあるのだという考え方もあるでしょう。しかし、自分の生命身体に対する危害だけが問題ならば、幽霊とか怪談とかまどろっこしいことを言ってないで、ガンとか交通事故の方がよっぽど恐怖な筈です。正確な統計などあるはずもないでしょうが、幽霊に取り憑かれて命失う人の数よりも、交通事故や病気で死ぬ人の数の方がずっと多いでしょう。幽霊なんかその気に探しても滅多やたらと見れるものではないです。僕だって今までに一回も見たことがないです。幽霊を見た、恐かったという人は多いけど、それが原因で死んだという人はそれほど居ないでしょう。だから危害も大事なポイントなんだろうけど、それ以上にその危害発生のメカニズムが「分からない」という部分が大きいんだと思います。

救済としての説明原理

 先ほど述べたように、なんだか分からない現象が起きたら、人は必死になってその説明を試みます。世界観という堤防の決壊を必死に防ごうとする。

 古代、科学的な知識はあまり普及していなかった頃にも様々な説明が試みられます。良く分からないけどスーパーなパワーを持っているものは、おしなべて「神」として崇められます。太陽も神、月も神、大地も神、海も神。農耕が始まり、収穫があればそれは神々の恵みであり、村をあげて感謝をし、来年の豊作を祈る。場合によっては生贄も行われました。旱魃や凶作、大河の決壊があれば、それは神々がお怒りになっているのだとして、またお祈りをして生贄を捧げる。強風が吹けば風神様、雷が落ちれば雷神のしわざとされます。そういったスケールの大きな災害ではなく、誰それさんが死んだとか疫病になったとか個別的な不幸は、過去の個別的な行為の祟りであるとか、呪術のせいであるとか、あるいは水子や親の因果が子に報いたとされます。

 世界に神々や「あやかし」が充ち満ちていた頃は、幽霊だろうが、妖怪だろうが、天災や日食だろうが、格別の区別はなく、すべてひっくるめて一種の「自然現象」であったのでしょう。その意味では「怪異」というのは逆に今よりも少なかったのかもしれません。全て「そーゆーもの」として捉えられるそーゆー世界観だったのですから、それなりに説明がついてしまうという。キツネにたぶらかされるのも、マムシに噛まれるのも同じレベルの出来事だと。それがいつしか自然観察が精密になり、また人々の技量も発達するにつれ、「神々の気まぐれ」は一定の法則性をもった自然現象としておさまっていきます。十月十日で赤ん坊が生まれるとか、二百十日に台風が来るとか、八十八夜に茶摘みをするとか。老練な漁師は海や雲を見て天候を当て、魚群の位置すら当てるようになります。

 一方、単なる「荒ぶる自然神」だったものも、それに緻密な宗教体系が付与され、あるいは精緻な天体観測による科学的知識と渾然一体になっていきます。古代暦法や陰陽師も占星術も五行運行も、彼らは超真剣にサイエンスとして取り組んでいたのでしょう。

 このような人類の知識の集積の上で、ヨーロッパのルネサンス以降に近代科学が発達を遂げ、天動説から地動説に移っていきます。それまで神々の所行であった物事が、神様を持ってこなくても説明がつくようになり、また反復実験して証明することも出来るようになります。これによって、「なあんだ」みたいに多くの現象が解明されていきます。カミナリは別に雷神が太鼓を叩いて落としているのではなく、大気中の放電現象なのだという具合に。人類はより納得しやすい説明原理を見つけたわけです。

 だから科学といっても、「何とか説明を求めて安心を得たい」という人々の根底にある欲求に変わりはないのでしょうね。今日、科学が優勢的な地位を占めているのも、その「正しさ」によるというよりも、「そのほうがもっと安心できるから」なのでしょう。ある不可解な現象に対して、「呪いである」と考えるか、科学的な説明(病原体による感染など)によるのかは、原因も対策も曖昧な「呪い」よりは、原因も対策もハッキリしている感染にした方が実際的に有効であり、より安心出来るからなのでしょう。

 しかし、当然のことながら現在の科学知識は有限であり、科学で解明できないことも山ほどあります。だいたい全てを解明し尽しちゃったらこの世に科学者も研究者も要りませんもんね。科学史を編纂するだけでいいはずです。ところが科学の説明によって安心するというのが習わしになってしまったので、人によっては科学に固執し、「科学によって全てが説明でき、科学以外の説明原理を排除する」という世界観が出てきます。

 そうなるとですね、皮肉なことに、古代よりも現代の方がより多くの「怪異」が生じることになります。なぜなら科学的世界観を中心に据えてしまうと、科学では説明がつかない出来事が生じるとすぐに世界観がぶっ壊れ、「怪異」になっちゃうからです。家の中でなにか奇怪な現象が起きて、今の僕らは容易にパニックになってしまいます。例えば、地上10階のマンションの窓の外、ベランダも何もない中空の筈なのに、そこから見たこともない老人が覗き込んでいたとかになると、「きゃ〜!」てなもんでしょう。これが昔の人だったら、「ああ、それはきっとご先祖様だべ。お彼岸だしなあ。お前のことが心配じゃゆうて見守ってくださってるんじゃ、ありがたいこっちゃ」で済んでいたかもしれないわけです。「そーゆー世界観」になってしまえば、かなり楽ですよね。前にも紹介した蟲師の漫画本の後書きにも、作者の祖父母やもっと上の世代の怪異談があれこれ載ってますが、その当時の人達が「ああ、それは○○だべ」と事も無げに言って、全然ビビってない様子が窺われます。ある意味、羨ましいです。


新しい恐怖の創造

 さて、怪談の恐さが世界観のゆらぎと不安感だとしたら、このツボさえ押えておけば、新しい怪談は幾らでも創作できることになります。もっとも、その世界観を壊すツボを見つけるのが難しんでしょうけど。

 今日、口裂け女など多くの都市伝説があります。これは日本だけではなく”urban legend”という英語にもなってますし、その種の洋画まで作られているから世界共通なのでしょう。ちなみに「都市伝説」というのは英文から輸入した概念を日本語訳したものに過ぎません。でも、なんで「都市」なのか不思議に思いませんか?別に都会に限らず、田舎にだって都市伝説はありますし、都会と田舎を区別する必要なんてないはずです。だからこれは原典の英単語を知らないと意味がわからない。もともとは英仏あたりの民俗学の用語らしく、フォークロア(folklore)=民間伝承・説話に対置するもの、伝統的な昔話ではなく現代的な(「村」から「都会」になった時代の)お話という意味だそうです。英語ではcontemporary legendともいいます。だから日本語に訳すときには「都市伝説」ではなく、「現代伝説」とでも訳すべきだったのでしょう。

 この種の都市伝説、現代版「日本昔ばなし(昔じゃないけど)」は、ずっと昔から人類が営々と作ってきた怪談が、今尚作られ続けていることを意味するのでしょう。そして時代と共に世界観が変わっていくにつれ、現代の都市伝説もまた現代の世界観をベースにしていますから、現代的に恐怖を感じるように出来ています。古典落語と新作落語みたいなものですね。

 秀逸な怪談は、上手いこと僕らの世界観を壊してくれます。
 幽霊系の怪談の場合、それがありきたりのパターンだったら、もはや僕らの世界観に組み込まれているから、聞いてもそんなに世界観が揺らがず、あんまり恐くないです。川のほとりの柳の下に足のない女の幽霊を見かけました、、というだけだったら、まあ、恐くないことはないけど背中がぞくっとするほどのことはないです。「まんまじゃん」みたいな。

 でも、このパターンを壊されると恐いんですよね。
 日本のホラー映画は、Japaneseホラーということで結構オーストラリアのレンタルDVD屋にも置いてあり、片端から見たことがあります。なぜか役所広司がよく出てたりして。「CURE」とか、「叫」とか、「回路」とか。でも一番恐くて、いまでも一人で見るのはイヤなのは「リング」ですね。それも真田広之が出ていた一作目。二作目、三作目になると慣れてしまうのか、今ひとつです。「リング」で背筋が凍ったのは、やっぱり最後の部分。ネタバレになるから書きませんけど(もう皆知ってるだろうから書いてもいいだろうけど)、あれは「そんな馬鹿な!」というパターンぶっ壊し、世界観ぶっ壊しの典型例ですね。あってはならないことが起きてしまう恐怖。また色調を極端に抑えた画調や、古い日本家屋の不気味さを古いフィルムの雨降り画像で見せられる不気味さの相乗効果など、よく出来てました。

 「呪怨」はビジュアル的には恐く撮っていたけど、発想それ自体は普通の幽霊話の域を出ず、そんなに世界観は揺すぶられなかったです。それより「回路」の方が恐かったかな。ネットによる感染みたいな発想はあんまり恐くなかったけど、さっきまで立って喋ってた人間が、いつのまにか壁の黒いシミになってしまうという部分が恐かったですね。あれで家の中の壁や暗がりを見るのが恐くなった。3次元的な人間を二次元的に黒く塗りつぶすとこうも気持ち悪くなるのかという。図書館の書架の向うから、真っ黒に塗りつぶされた人影がじっと見てるシーンとかぞくっとしました。こうしてみるとホラーや怪談というのは、推理小説のようにいかに従来のパターンから脱して、新しい発想を得るか、ですね。

恐いパターンあれこれ

 しかし、日常的に恐いことを想像すると、やっぱり「人」が一番恐い気がします。妖怪とかエイリアン系のバケモノがいるのも相当恐いですけど、恐さの質が違う。家に帰ったらエイリアンが居たという恐さは、なんか動物園を脱走した虎と出くわす恐さ、山の中で熊に出会ってしまう恐さと同質であり、頭の中の世界が崩壊するような恐さではないです。

 それよりは「居てはいけないところに人がいる」という恐さは格別です。夜中にトイレに立ったら、廊下に誰かが立っていたとか。これが住居侵入窃盗犯だったら虎熊系の恐さになっちゃうのですが、非実在の人間の方が恐い。だから「え?」と思って振り向いたら消えている方が恐い。それも全部見えてしまうよりも一瞬だけ、部分だけの方が恐い。夜に寝る前に顔を洗って鏡を見たら、一瞬、自分の後ろに誰か立っているように見えたとか。廊下を歩いて、ある部屋の前を通り過ぎたとき、半開きになってたドアの向うに黒い人影が見えたような気がするとか。あるいは、二階から階段を下りようとして下を見たら、階下の壁から白い顔だけ突き出しているのが見えたとか。こーゆーのが恐いですね。ジャーンと堂々と出てこられるよりも、こういうチラ系が恐いのは、あまりにも断片的過ぎるので、何が起きたのか分からず、説明原理を持ってきて安心することも出来ないからでしょう。なんだかさっぱり分からんのがやっぱり恐いです。

 人の動きや存在の仕方がグロテスクであったり、攻撃をしかけてくるというプラスアルファの恐さもあります。これは不気味さや攻撃という副次的な恐さですけど、これがあるので全体として水準に達しているというのは都市伝説に良くあります。「リカちゃん人形」など良くあるパターンで、電話や携帯メールが届いて「わたしリカちゃん、今あなたのマンションの前にいるの」といい、「なんじゃ?」と思ったら又メールが来て、「今、あなたのマンションの玄関にいるの」、「今2階にいるの」と段々近寄ってきて、それが「ドアの前」になり、最後は「今あなたの後ろにいるの」になるパターンというのは、攻撃的な「迫ってくる恐さ」ですよね。「口裂け女」も、口が裂けていて「あたしきれい?」と問うだけだったらそんなに恐くないけど、100メートル3秒とかいうありえない猛スピードで「追いかけてくる」という部分が恐さの決め手でしょう。あるいは、「天井にへばりついていた」とか、「タンスの隙間からじっと見ていた」とかいうのは、存在のあり方が奇怪で、それが恐いです。
 
 でも、まあ幽霊というのは、やっぱり居るだけで相当恐いんでしょうねー。見たことないから分からんけど。霊視というのか、こういうのが見える人が良くいますが、あまりにもよく見える人には、逆に子供の頃から普通に見えてるから、普通の現象になって恐くもないのでしょう。居て当たり前になってしまうという。つまり居るのが当然という世界観になるから、世界観は揺らがない。

 ところで、僕はかねがね疑問なのですけど、恨みを残して死ぬ人というのは古来沢山いたはずです。戦乱で虐殺された人なんか、三国志や戦国時代などはありふれた存在だっただろうし、第二次大戦には世界で何千万という人が殺されています。そのうち「戦場で死ぬのは武士の本懐」などと納得して死んだ人なんかごく一握りでしょうし、大多数は納得できてないでしょう。それらの人達が皆幽霊になってたらこの世は幽霊だらけになってる筈です。にもかかわらず実際の幽霊話がポツリポツリしか存在しないのは、なぜなのか?と。多くの人は、かなり納得できない殺され方をしたとしても、それでも従容として天国なりあの世に行っているのに、なぜにキミタチは残るの?という。もしかしたら幽霊君というのは、死後の世界における「ひきこもり」みたいな存在なのかもしれませんね。あの世に行くのが恐い、イヤだからこの世にひきこもってるという。

 あと、地縛霊など無関係な人を死に引きずりこむ迷惑な幽霊がいますが、あれってなんで許されているのでしょうか。というのは、僕が地縛霊の犠牲になって事故を起こして死んでしまったとします。死後の世界に行ってしまえば、こっちだって幽霊になってるのだからタメですし、自分を殺した地縛霊野郎にまずは復讐したいと思うでしょう。地縛霊っていうくらいだから逃げもしないでそこに居るだろうから見つけるのも簡単。もうボッコボコにしてやります。だからなんで地縛霊が犠牲者からボコられないでやってられるのか分からんです。もしかしたら毎回ボコられているけど、それでも根性で地縛霊をやってるのでしょうか。それとも犠牲者を出したらそれで成仏できて、その犠牲者が腹いせに新たな地縛霊になって誰かを犠牲にし、そうやって順繰りになっているのでしょうか。体育会系の新人シゴキみたいな。

 ま、わかりっこないのですが。でもねー、この世で納得できない死に方は数多くあるでしょうけど、幽霊に殺されるくらい納得できない殺され方はないような気がします。その納得の出来無さ加減というか、怒りと怨念の激しさは、当の幽霊以上のものがあると思うのですよ。そうなると幽霊VS幽霊というカタチになってバトルが展開されそうな気もするのですが、その種の話は全然ないです。なんで無いのかな。もしかしたら激しくやってるのかもしれないけど、あの世の話だからこちらには伝わってこないだけなのかな。ま、どうでもいいですけど。いやあ、今回は本当に生産性のない話でした。


文責:田村






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