今週の1枚(10.07.05)




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Essay 470 : リーダーが「嘘つき」になる理由



 写真は、ノースのWaverton駅前。この発音が間違いやすく、「うぇい”ば”ーとん」と”ば”を伸ばし&アクセントを置くのではなく、「”うぇい”ばとん」と頭にアクセントがきます。


「政治」とはなにか


 今週はですね、「政治とは何か」という凄いテーマを考えてしまいました。

 あ、いやいや、別に大上段に振りかぶってアリストテレスやプラトンがどうのというアカデミックな話をするつもりはありません。ご安心を。また、折からの参院選について思うところを述べるわけでもありません。そんな生臭い話をするつもりもない。何というか「どうして雨は降るの?」「虹はどうして出来るの?」というような、もっと素朴でもっと根源的な話です。

 僕は法学部にいたのですが、そこでは政治や法はありふれた、当たり前の存在でした。まるで太陽と月のように。しかし、自分もいい歳になり、今更ながら改まって考えてみると、政治って不思議なものなのですね。もう、「何なのそれ?」「なんでそんなモンがあるの?」という。生まれたときからそこにあるから、そういうもんだって思ってるけど、考えてみたら奇妙なものであり、また興味も尽きません。

 僕が「政治」というものについて、「なるほど〜、そういうことか」と何となく分りだしたのは、国政や歴史について学んだときではなく、もっともっと身近な体験からです。例えば、サークルとか小中集団でリーダー的な立場で動くような場合とか、住民運動や集団訴訟、倒産など関係者がやたら多い局面での実体験からです。

 人間の集団というのは、一種の自然現象といいますか、妖怪的な要素を持つというか、それはそれは不思議なものです。いくら良心的に、いくら誠実に切り盛りしていていても全然思うとおりになってくれません。いわく「その場の雰囲気」、いわく「場のいきおい」とか、ワケのわからないものに思いっきり左右されます。また同じ事を皆に伝えるときでも、ダンドリや手順というものがあり、その順番を間違っただけでもう目も当てられないような事態になったりもします。摩訶不思議。それなりに手練手管が必要です。これって異性と付き合うときとよく似ていて、同じ事を言ったりやったりするにもしても、言い方ってものがあり、やり方ってものがあるのと一緒です。

 なんでそうなるの?といえば、今ならよく分りますが、個々の人間が非論理的で感情の生き物だからでしょう。「1+1=2」という同じ論理を伝えるにしても、「というわけで2になってしまうわけなんですけど、貴方はそれでもいいですか?」と聞かれたら「いいよ〜、別に」と答えられるのだけど、「2に決まってんだろが、このボケ!」って言われると、「別に決まってねーだろが」と反発してしまうという。同じ事でも言い方一つで180度結論が変わってしまうという、非常に不安定な存在が生身の人間というものです。メチャ非論理的。「人が3人集まれば社会ができ、派閥が出来る」といいますが、3人どころか2人だけでも十分に大変。それはもう恋人や配偶者とアレコレやったことのある方なら骨身に染みてご理解いただけると思います。とにかく面倒臭いんだわ。それが3人どころか10人とか20人とかになったら、もう収拾が付かなくなり、さらに1億人とかになったら気が遠くなります。

 そんなこんなで僕が色々な集団や人間関係というフィールドワークで何となく得てきた法則というか、その種のことを思いつくままに書き綴ってみたいと思います。

「正直」になれない事情

 「正直は最良の政策である」といったのはリンカーンでしたか。いや、もう本当にその通りで、姑息な嘘をつき続けていてもしょうがないですし、僕が仕切るような場合は、出来るだけ全員に状況を正確に伝えるようにしていました。面倒臭いのだけど、それが一番間違いが少なく、結果としていえば一番面倒臭くない。

 しかし、人の上に立ってリーダーシップを発揮したり、対人関係をうまくやっていくためには、「そうも言ってられない」という事態が往々にして生じます。いくら正直に、、といっても、それはちょっと言えない、もう構造的に言えない、という。「そんなことはない、あらゆる政治の嘘は許さないぞ!」という方もおられるでしょうが、ではこういう事例はいかがでしょうか?

 例えば、そうですね、あなたが何かの集団のリーダーグループの一人として仕切っていたとしてます。そこに某女性メンバーA子さんが「あのう、ちょっとお話が、、、」とやってきます。何かと思って聞いてみると、実は集団内部のB君に恋を打ち明けられたと。A子さんはB君を特に好きでもなく、また将来的にもそういうお付き合いは望んでいない。でもってやんわり断っても、キッパリ断ってもB君は諦めない。しかもB君には奥さんも子供もおり、「明日にでも離婚する」とか言って一途に迫ってくる。もう膠着状態になってこれ以上続けたらちょっとシャレにならないことになりそうだと。ま、ここまでは個人レベルの話なんですけど、これに集団内部の人事が関わってきます。某プロジェクトにおいては、A子さんとB君は専門技術の関係で同じグループに属しているし、仕事柄深夜の残業に及ぶこともしばしば。A子さんとしては、この状態で深夜にB君と二人きりになるという状況は避けたい。なんとかグループ人事を変えることは出来ないか?という相談をもちかけられます。A子さんも、これまでもかなり思い悩んでいたのか、見るからに憔悴しています。そして、当然のことながら「このことは絶対に内密にしてください」と頼まれます。

 はい、ここで問題です。あなたがリーダーだとして、この問題をどう処理しますか?AとBを別のグループに人事の再編成をしますか?では、それを公に告知する場合に、どういう理由でそれを告げますか?

 一つの立場としては、公務とプライベートは関係ない!公私混同はするな!といってA子さんの話を突っぱねる。「聞かなかったことにする」という立場です。まあ、それはそれで一つの立場なんだけど、果たしてそれでいいのか?一途なB君がエスカレートして、ストーカーまがいの行動に出たり、ボーダーを踏み越えて思わぬ”事件”になってしまったらどうするのか?そのときはルールに従って厳正に処理すればいいだけだ、と言い放てばいいのか?ま、それも一つの立場でしょう。「知らんもんね」という。でもなあ、僕には出来ないな、それ。思わぬ"事故”の内容次第では、A子さんの一生に取り返しの付かない傷を負わせることになるし、人の一生に関わることに比べたらそれを犠牲にしても良いだけの価値あることなんてこの世にどれだけあるのか?って気もしますからね。

 二つめの立場としては、A子さんとB君を別々のグループに人事分けをして、実はB君が言い寄っているのでA子さんが迷惑しているんだよと”正直”に全てを全員に告げる立場です。「正直」という意味では最高の政策なんだけど、結果的には最悪になりかねない。AB関係が表に出ることで、B君の面目丸つぶれ。まあB君は自業自得だから良いとしても、A子さんだって無傷では済まない。実際に何もなく潔白だとしても、人々の中には下卑た想像や噂をする奴もいるし、やれ不倫だの泥棒猫だの陰口を叩かれる恐れもゼロとは言えない。さらにB君の奥さんにしても言わば家庭内の恥を満天下に晒されるような不快感を抱くかもしれない。その結果、AさんもB君も居づらくなって脱退し、B君夫妻は離婚という、誰もが傷つき、無責任なゴシップだけが社内に流通し、それで終わりという救いのない結末。結構な確率でその方向に進んでいくのが見えていながら、それでもあなたは「正直」に言いますか?ってことです。

 そうなると第三の方法として、AとBを別グループに人事分けする。B君を呼び出して、「プライベートなことに口出しする気はないが、第三者や集団の迷惑も考えろ、これ以上文句があったらA子さんではなく俺に言え」と説得して釘を刺す。公的な人事の理由としては、適当な理由をデッチ挙げておく。このときすぐにバレるような真っ赤な嘘だと逆効果なので、それなりに真実であり、それなりに辻褄が合う嘘を必死に考えないといけません。僕もやったことありますけど、これが大変なんですよね。首脳陣で額を寄せ合って、「○○って理由はどうだろう?」「それはミエミエでしょう」とかやるわけで、なんで俺らがこんな苦労しなきゃならんだと思ったりもします。

 かくしてリーダー的な立場にある者としては、心ならずも「嘘」をつかねばならなくなります。私腹を肥やしたり、悪行を隠蔽するための嘘(ブラック・ライ)ではなく、人を助けるための嘘、ホワイト・ライなんだけど、嘘は嘘です。内心忸怩たるモノはあります。でもリーダーとか、仕切る立場にある人間には、その種の負担はつきものであり、自分の一存でひっかぶらないとならない。

情報の絶対的な偏在

 さて、ここでポイントとなるのは、公的な情報には不可避的に嘘が混入せざるを得ないということです。いくら正直にやりたくても、あちこちの事情によってそれが許されない。

 なぜこういう「嘘」が入ってくるか、そのメカニズムをもう一度検証すると、
 @リーダー的地位にあるからこそ入ってくる極秘情報(A子さんからの打ち明け話みたいな)がある、
 Aその情報を公開すると全てがブチ壊しになってしまうという抜き差しならない事情がある、
 という二つの要素があるからでしょう。

 小さな集団ですらその種の話が良くあるのですから、これが大集団になり、さらに地方政治や国政レベル、ひいては国際政治になったら、そんな話ばっかりだと思います。「大きな声では言えませんが、実は、、」「ここだけの話ですが実は」というような「うげ!」という情報がリーダーになったらボコボコ入ってくるのでしょう。そしてその極秘情報は、そのリーダーが周囲に認められ、信用されればされるほど入ってきます。そして、それを公開してしまったら元も子もなくなる。それでもリアクションを恐れず断固正直に公開したらしたで、今度は信用が失墜し、次から重要な情報が入ってこなくなる。かくしてツンボ桟敷に置かれたまま、致命的に政策を誤ることにもなる。

 このテの話は国政に限らず、どんな人間集団の中にもあります。例えば警察の捜査だって、誘拐事件では人質の安否を気遣って一定期間の報道の自粛という報道協定が結ばれるのは知られているとおりです。どんな国家にも国家機密というものがあり、どんな会社や組織にもそれなりに秘密はある。世の中にはオフィシャルに言えることと言えないことがあるってことです。だからこそマル秘やカク秘文書という存在があり、マル秘スタンプはそこらへんの文房具屋でも売っています。そこらへんの文房具屋で売ってるくらいなんだから、これはもはや世間の常識といってもいいです。いくら国民に「知る権利」があるとか「情報公開」とか叫んでみても、この大きな構造からすれば自ずと限界はあります。

 しかしですね、仕方ないとはいえ、「言えないこと」が常に一定比率で存在するということは、一般国民や構成メンバーは常に一定比率で真実を伝えて貰っていないということになります。極端な言い方をすれば「一般向けに適当にでっち上げたストーリー」を聞かされていることになる。勿論全てがそうだというつもりはないですが、それでもそういう部分は混入してきてしまう。

 一方では集団の運営においてはどうしても機密事項というものが出てくるのは仕方のないということは分るのだけど、他方でよく考えてみると妙な話でもあります。なぜなら、民主主義といい、国民の手で政治を決めるとか言いながらも、嘘を聞かされている人間達にそんな判断が出来るのか?やらせていいのか?本質的に無理な相談ではないか?という疑問もあるからです。

 今ここに皆のために頑張っているリーダーがいて、客観的もベストな判断をしようとするのだけど、事柄の性質上どーしても公開できない秘密を抱えてしまっている。そのため皆に対する説明がギクシャクし、不自然なものになってしまったとします。そうなると、皆から「そんな説明では納得できない」「何やってんだ」というボロカスに批判され、支持を失う。他方では、私腹を肥やそうとする悪しきリーダーがいて、当然のごとく秘密を抱えているのだけど、皆に対する説明用のデッチ上げのストーリーを創作するのが上手だったとしたら皆の支持率は上がってしまうということになる。大体において正直な人間が必要に迫られて嘘をつく場合と、腹黒い人間が最初から大嘘をつくつもりの場合とでは、後者の方が上手だったりしますよね。かくして良いリーダーか悪しきリーダーかどうか、リーダーとして皆に支持されるかどうかは、突き詰めていえば「嘘が上手か下手か」という妙なところで決まってしまうということです。いや、別に嘘の巧拙だけで全てが決まるものでもないけど、そういう要素もあるよねってことです。

 かなり奇妙な話なんだけど、でも、これはもう構造的に出てきてしまう問題です。なぜかといえば、情報というものは常に偏在する性質をもっているからです。あるところには情報は行き渡るけど、ある部分には行かない。フラットに広まらない。もう絶対的に偏在する。”遍”在ではなく”偏”在。字は似てるけど意味は真逆。

 情報の偏(かたよ)りは、僕らの日常をかえりみても頷けます。誰だって、プライベートな秘密に属するようなことを言うときは相手は選ぶでしょう。信頼できる友人や家族、あるいはカウンセラーなど専門家にだけ言うとか。この「相手を選ぶ」という段階で既に決定的に偏在してしまう。「そんな不公平は許さん!」と息巻いたって、そりゃ無理というものです。内々の話を、身内だけではなく道行く赤の他人にも平等に伝えなさいなんて、出来るわけがないです。

 これを一般的な法則として抽出すれば、その情報が重大なものであればあるほど、その流通範囲は厳しく限定される傾向があるということです。流通範囲がきびしく限定されていればいるほど重要度の高い情報が廻ってくる。逆に言えば、誰もが知ってるような情報、つまりは新聞やネットに載っているような情報は相対的に大した価値のないものが多いということです。本当に重要な情報は、自分がそれなりのポジションに就かないと廻ってこず、無料で得られる情報の価値はやっぱりそれなりの価値しかない。一般情報というのは、例えば「日本には富士山がある」というベーシックな百科辞典的情報か、あるいは当局の苦し紛れの虚構の説明か、はたまた政治的な観測気球やら世論操作のために恣意的に流されている情報だったりする場合があり、言わば純度が低い。

 ということは、ちょっと調べれば誰もが知ってるような情報、つまり新聞やネットに書いてあるような一般情報だけで、時の政治や誰かの行動を論評したり批判したりしてもムナしいよな〜ってことです。どうでもいいような一般的なこと、極論すれば嘘まじりのカスみたいな情報だけで議論してるのだから。

 そういえば世界史を見てても、激しく前政権を批判していた反対勢力が政権を奪取したと思ったら、やってることは前政権と同じというケースが多々あります。なんでそんな珍現象が起きるのかといえば、おそらくはリーダー的なポジションに就くとそれまで知らされなかった重大な情報に接し、あるいは状況の真のシビアさを再認識し、「結局は前政権のようにやるしかないのか」となったりするのでしょうね。明治維新でも開国派の幕府を攘夷だ倒幕だと攻撃していた薩長軍だって、いざ自分達が政権を取ったら幕府どころではない全面開国をやってます。

 ただし、誤解の無いように付言しておくと、僕は何も民主主義や一般メンバーの参加を無駄なことといって茶化しているわけではないです。一般的に出回っているベーシックな情報だけでも実は全然知られていないことは山ほどありますし、それらを根気よく集めてつなぎ合わせればかなり正確な姿が浮かんでくるし、的確な論評も可能です。言いたいのは、あまりにも枝葉末節、あまりにも重箱の隅を突いたようなリアルタイムの片言隻句を捉えてあれこれ論じるのは意味が乏しいってことです。もっと大きく、10年単位、少なくとも数年単位でスパンでどっちの方向に進んでいるのかです。

 あと出来るだけバランス良く全体を見るということも大事なことでしょう。細々とした事項でパキパキ小気味よい政策を実行してたとしても、大局的にアンバランスだったら意味がないのですから。例えば国防関係というのは重大な事柄のように見えるけど、規模で言えばたかだかGDPの1%程度のこと、中国ですら5%程度でしかない。だから5%だけみて95%をシカトしてたらそれはアンバランスだということです。国防について1なり5なり語るなら、その99倍なり95倍のボリュームで他の分野についても語るべきだろうと。

 

嘘の巧拙

 かくして集団を仕切るリーダー的立場の人間には、「嘘が上手」というのも重要な資質の一つになります。皮肉な話なんだけど。だけどこれは、虚構の話を作るのが単に上手かどうかという薄っぺらな話ではないです。事柄の性質はもっともっと深い。

 一つには「どこまで本当のことを言うか」という見極めです。これは国民や一般メンバーをどこまで信用できるか、彼らがどの程度賢く、どの程度アホであるかという査定です。これが死ぬほど難しい。リーダーにしてみれば、何もかもぶっちゃけて正直にやるのが一番楽っちゃ楽です。でもそれをやると信頼を裏切ったり、取り返しの付かないダメージを与えるから言えない。その場合、どこまで言ってもいいか、どこまで真実を告げてもちゃんと理解してくれるか、です。

 それだけではなく、事柄の性質上どうしても話が複雑になってしまうテーマもあります。何十巻もある大河マンガのストーリーを一行で言えとか、世界史を1秒で説明しろとか、そんなの無理!言ったところでキャッチコピー程度のことしか言えないって事柄があります。てか、実際にはそんなのばっかりでしょう。税制改革一つとっても、累進課税と直間比率という概念がわかってない人間に対しては相当根気よく説明しないとならない。まあリーダーとしては、根気よく説明すればいいんだったら幾らでも根気よく説明するでしょう。皆にも知って貰いたいしね。しかし、説明を聞かされるメンバーの側に根気がなかったらそれまでです。そんな難しい話は分らない、退屈だといって敬遠されてしまう。

 極端だけど分りやすい例を挙げれば、「日本沈没」です。あなたが首相だとして、本当に一定期間後に日本が沈没するという極秘(しかし確実な)報告を受けたとします。どうしますか?やるべきことは山ほどあります。国民の避難先(難民の受け入れ先)の確保のために世界と折衝せなならんし、避難する順番やダンドリを立てねばならんし、保存すべき技術や文化財などの選定や保存方法などを詳細に決めて実行しないとならない。もう大車輪になって不眠不況で実行しないとならない。しかし、うかつに「沈没するってさー」とか言えるか?という問題があります。ヘタに言って、皆がキャーキャーとパニックになり、至るところで交通麻痺、事故、暴動が起きて無政府状態になり、騒乱による死傷者が数十万人にもなったら目も当てられません。パニックを抑え込むために自衛隊の治安出動を要請し、逆らう暴徒は片端から射殺したりするくらいの大騒ぎになってしまうでしょう。そうなると、いつ、どのようなダンドリで、何をどれだけ告げるか?という見極めが非常に重要になります。

 まあ沈没は極端な例ですけど、火山の噴火などの災害の予測、あるいは原発などの事故報告などは日常的にもありえます。それが客観的にはそこそこシリアスだけど、冷静に対処すれば大丈夫というレベルだったとした場合、それをどのように皆に報告するか。皆が冷静に受け止めてくれるなら、そして皆に高度な理解力があるなら、かなり正確&正直に全てを告げられるでしょう。しかし、告げるや否や大パニックに陥ったり、アレルギー的にキャーキャー騒がれたら上手くいくものもいかなくなってしまう。そのあたりの見極めです。

 正直に真実を告げてもダメだと予想されるならば、皆にわかりやすい「おはなし」を創作する必要があります。早い話が嘘をつくわけですね。で、同じ嘘でも一から十まで大嘘をつくか、ある程度は真実なんだけど肝心の所をはぐらかす程度に留めておくかという、嘘レシピーの問題があります。複雑な問題をわかりやすく説明するのは大事ですが、わかりやすくする過程でどうしても正確性を犠牲にしなきゃいけないから嘘的要素が混じってきてしまう。多少はやむを得ないにせよ、程度が過ぎたら物事の本質が変わってしまいます。かといって「一日わずかコーヒー一杯の支出で」などのあざといレトリックに流れすぎるのも問題です。このあたり、皆の理解度をギリギリに見切って告げなければならないので、そこが非常に難しい。嘘の巧拙というのはそこです。

 一般に政府や行政が国民を信用できなかったら、どうしても嘘が多くなります。何を言ってもヒステリックに反発され、最後まで聞こうとすらしないのならば、馬鹿正直に言うだけ無駄だという気分になるでしょう。これは誰だってそうなると思う。そうなるといわゆる「愚民政策」になってきて、徳川幕府のように「民はよらしむべし、知らしむべからず」という、「お前ら馬鹿なんだから俺らの言うとおりやってりゃいいんだよ」的な方向に流れていってしまう。

 もちろんそんな露骨な言葉は口が裂けても言うはずはなく、国民の皆様のなんたらかんたらと言うでしょう。口調はあくまでも甘口。そして愚かなる大衆を徐々に洗脳するべく、例えば忘れた頃にちょっとビックリするような統計報告をリークしたりして、なんとなくそういうムードに持って行く。世論誘導ですね。国庫を預かる財務省は本能的に歳出を減らしたいから、ことあるごとに財政危機を宣伝するとか。そのあたりはナチスの宣伝大臣ゲッペルス以降、世界的にもかなりテクニックが開発されているでしょう。広告業界やマーケティングの手法も沢山取り入れられているでしょうし。というか、昔っから自民党とマスコミ(新聞・TV)の間を電通がとりもつというラインが出来上がっていて、マスコミは間違っても電通批判の記事を載せないし、政府はマスコミ保護(電波とか購読料カルテルの黙認とか)をするという共存共栄のシステムが長い間あるわけですよね。かくして「国民の皆様」に届けられる情報は、全てソフィスティケイトされた手法で加工調理済みだと言えないこともないです。時の政府が個別にやむなく嘘をつくというよりも、もうトータルなシステムとして出来上がっているというか。

 よく「この程度の国民にこの程度の政府」といいますが、本当にそうだと思います。民衆や構成メンバーの知的理解力や倫理が低かったら、執行部としても迂闊に正直に言えなくなり、どんどんテキト−な「おはなし」をデッチあげるようになる。それどころか真面目に理解しようとしないメンバーを内心では馬鹿にするようになり、また真剣に皆のために仕事する気分も薄くなっていく。まあ、一直線にそうなるもんでもないけど、ちょっとでも原発の安全性に関する話したとたん、いちいち蜂の巣を突いたように大騒ぎされたら、もう「絶対大丈夫です!」以外の言葉は言えなくなる、という成り行きは何となく分るような気もします。逆にメンバーの知的成熟度が高い場合は、当局もかなりの程度突っ込んだことが言えるし、また子供だましの誤魔化しも言えなくなるから結果として政府の性能も良くなるという。

 政府と国民、リーダーとメンバーの間にはコール&レスポンスのコミュニケーションがあるのでしょうが、それが良質なものになるか、愚劣なものになるかは、双方に等しく責任があるのでしょう。


 とかなんとか書いているうちにいい分量になってしまいました。
 いろいろなレベルの話をごちゃ混ぜにしたのでとっ散らかった文章になってしまいましたし、本当の現実世界はもっともっと複雑なのでしょうが、ここではリーダー的立場にある人間がやむを得ず嘘つきになっていってしまう原理部分をまずは書いておきたいと思います。



文責:田村






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