今週の1枚(10.06.14)




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Essay 467 : 苦手領域の攻略法とヘタッピの幸福



 写真は、初冬のCrows Nest。先々週まで雨が降りまくっていたシドニーですが、先週は好天に恵まれました。夏場は暴力的なまでのオーストラリアの陽射しも、冬場になるとこのくらい柔らかくてほっとした感じになります。それでもかなり眩しいですけど。



 前回の補足というか、書き足りなかった部分をまとめて書いておきます。

 前回は、「自分は○○は苦手だ」という苦手意識がいかに虚妄であり、それを変えるとドカンと世の中の見え方が変わったりするのでオススメですよと書きましたが、その苦手意識の転換方法として、「実際に不得意なものを得意にしてしまう」という分りやすい方法があります。

 「そんなことが出来たら苦労はない」とおっしゃる方もいるでしょうし、また常に上手くいくという保証もないのですが、視点や攻略法をちょっと変えるだけであっさり出来てしまうようなことも多いです。既にご存知の方も多々おられるでしょうが、僕なりに開発した攻略法を参考までに幾つか書きだしておきます。

「わからない/出来ない」という判定基準〜周囲の影響


 前回触れたように、多くの苦手科目、不得意分野というのは、ちょっとやってみて「分らない」「うまく出来ない」からイヤになり、さらにトラウマになり、苦手意識に育っていくパターンが多いと思われます。初めてやってみて、それが出来ちゃったり、スイスイ分ったら、人はあまり苦手意識やトラウマを抱かないでしょう。むしろ、得意意識を持つでしょう。当たり前ですよね。

 さて、ここで気をつけるべき第一の関門は、何をもって「出来る/分る」というか、どの程度のレベルまで出来たら「出来る」というのかという判定基準が実はメチャクチャいい加減だということです。出来る/出来ないというのは、他者との比較において出てくる概念で、力いっぱい相対的なものです。「俺は○○が得意だぜ」と鼻高々で仲間内で君臨していたとしても、ちょっと上の世界に行ったらゴミ同然にボロカス言われたりします。小学校の草野球でエースを張ってたとしても、名門と言われる中高校の野球部に入ったら、万年球拾いに廻されたりもするでしょう。上には上がいるのです。同時に下には下がいて、かなりドヘタな部類であっても、もっと下手な人達に囲まれてたらヒーローになれるわけです。

 ということは、生まれて初めてそれをやるとき、忘れてはならないファクターは「周囲の人間のレベル」です。仮にあなたが平均的な日本人からしたら相当なハイレベルに出来たとしても、周囲にそれを上回るバケモノみたいな連中ばかりがいたら、全然出来た気にならないでしょう。多くの場合は、無作為抽出の平均レベルになるでしょうけど、物事というのはなんでも粗密がありますから、スカスカなエリアもあれば、やたら稠密なエリアもある。例えば、小学校から学年一位を突っ走ってるくらい勉強が出来たとしても、親兄弟から一族郎党ほぼ全員東大で教授やってるような家に生まれてしまったら、東大入試に失敗したというだけでダメ人間の烙印を押されたりもします。まあ、実際にはそんなにボロカス言われないにしても、本人の意識としてはかなり凹んでも不思議ではない。でも、全く同じ人間が、例えば大学に進学すること自体が珍しいという集団の中で育てば、神童として崇められたりするでしょう。

 まあ、そこまで極端な例は少ないですけど、濃度の多少はあれども同じ原理が適用されるはずで、僕らは常に周囲の影響を受けています。スキーをやるような場合でも、周囲がバリバリ上手な連中ばっかりだったら、やっててイヤになっちゃいますよね。上手い人も下手な人も適当に入り混じってて、どんなレベルの人でも安心して「居場所」が与えられるような環境が望ましいです。出来れば、自分と同じような初心者がいて、自分と同じ程度の成長進度であったりしてくれると理想的ですね。いい刺激になりますから。

 僕らの年代の男の子は「巨人の星」世代なので、ほぼ全員と言っていいくらい野球をやってました。グローブを買って貰って、大喜びで壁にボールをぶつけてキャッチしたりして遊んでました。僕の場合は、家が学校から結構離れていたので、近所に一人だけいた同い年の男の子とばかり野球やってました。二人だけなのでキャッチボールとかノックとかその程度ですけど。で、その子が自分と似たようなヘタ具合だったので、二人でのめり込んでやってました。しかし後々になってクラスの連中と野球やったりしていると、自分がヘタクソだということが判明します。強度の近視で遠近感がつかめない自分には球技はやっぱり不利な面が強く、ちょっとレベルが高くなるともうダメだという。だから路線転換して、視力があまり要らない柔道をやったのですが(あれは全身の感覚でやるから)。でも、下手だということに気づかないまま野球やってたのがラッキーでした。やってりゃどんなヘボでもカーブくらい投げられるようになりますし、後々社会人として職場のソフトボール大会に参加させられても、そう大恥はかかなくてもすみます。これ、最初から周囲が上手な奴ばっかりだったらイヤになってたでしょうね。

 はい、ここで、不得意・苦手だと思ってるエリアについて思い出してください。周囲のレベルが高すぎたり、レベルは高くないにせよ下手な人間に対して嘲笑的な雰囲気だったりしたことからトラウマになって「俺は出来ない」と思いこんだりしてませんか?初心者レベルで周囲から馬鹿にされるのは不幸なことです。しかし、それはまだ一過性の不幸であり、その種のことは生きていれば誰だって経験します。注意しなければならない「本当の不幸」は、そんな些細な体験がキッカケになり、それで嫌気がさして一生その分野をやらなくなってしまうことです。これは一生レベルに被害が永続しますので、大不幸です。

 何度も言いますが、上手・下手なんてのは相対的なものに過ぎません。世界チャンピオンを基準にすれば人類全員ヘタッピです。また人類最速に足が速かったとしても、動物界のレベルでいえば人間なんぞドン亀同然。


ヘタッピの幸福 〜 「出来る/出来ない」と「好き/嫌い」は本質的に別


 もう一つ忘れてはならないのは、好きか嫌いかというのは、出来る出来ないということとは本質的に無関係だということです。出来る→得意→好き、出来ない→不得意→嫌いってなりそうですし、そういう場合も多いのですが、決して論理必然的な関係ではないです。

 「下手の横好き」という言葉があるように、客観的なレベルとしてはどうしようもなく下手なんだけど、それでも本人はご満悦でエンジョイしていて、大好きだという幸福なパターンもあります。さらに、本人だけ自惚れて「得意科目」だと思っているという、幸福×2なパターンもあります。落語の「寝床」なんかまさにそうですけど、周囲は迷惑かもしれんけど、本人はハッピー×2です。前述のように、僕だってド近眼に球技は不利だというのはよく分りましたが、だからといって球技一般が嫌いになったかというと別にそんなこともなく、ヘタッピなんだけど好きという幸せな情況になれたわけです。

 同じように、「下手だけど好き」というのは沢山あります。将棋もかなりヘボなんですけど、僕は長男だから最初に遊ぶのは弟で、子供の頃の年齢差は絶対的だから、相対的に上手な方になります。だからいい気になってどんどんやる。後になって自分がヘタッピであることが判明するのですが、でもその頃は下手は下手なりに好きになっているという。得意か不得意かといえば不得意なんだろうけど、だけど好きだし、不得意だということで困ったこともないです。むしろ愛嬌になってるくらいで。

 スポーツとか趣味とか、なんでもそうだと思うのですが、それが面白いかどうかと、それが上手か下手かということは基本的に関係ないです。そういった技量の巧拙よりも、その物事の本質的な面白さというのは別にある。野球であれば、バットに真芯に当てたときの何とも言えない快感だとか、思いっきりジャンプしてさしのべたグローブにボールが入ったときの「やった!」という嬉しさとか、そういう原始的な快感がまずあるわけで、それは上手下手とはあまり関係ない。上手な奴だったら軽くさばくような打球でも、ヘタクソだからダッシュが遅れ、横っ飛びジャンプ捕球せざるをえず、それが結果的にファインプレーまがいの快感を生むわけですから、むしろ下手な奴の方が純粋な快感度は高いくらいです。将棋だって「「ヘボ将棋王より飛車を可愛がり」という川柳があるように、ヘボはヘボなりにエキサイトできるし、ヘボで数手先が読めないからこそドンデン返しがやってきて「うきゃ〜!」とかひっくり返って楽しんでたりもするわけです。

 もちろん技量が向上すればするほど、その世界の奥深さが分るようになり、どんどん病みつきにはなるでしょう。その意味では技術と快感の比例関係はありそうなんだけど、別にそれが全てではない。ヘタならヘタなりにエンジョイする方法は幾らでもあるし、その純粋快感の質にそう優劣があるわけでもない。「ヘボ将棋」「ザル碁」などヘタクソ愛好家を表わす日本語も沢山あります。

 それに、なまじハイレベルになればなるほど、人生まるまるそれに賭けるくらいの献身的努力が求められます。よく「好きなことは仕事にするな」と言いますが、プロレベルになってしまうと純粋快感以外のウザウザが増えてきてマネーメントが大変です。趣味でバンドやってて仲間内でキャーキャーやってるうちは楽しいですけど、いよいよメジャーデビューというレベルまで来ると、苦労を共にしてきた親友達を切り捨ててピンでデビューとか、売れセン狙いのために好きでもない曲を歌わされたり、ドサ回り巡業をやらされたり、挙句の果てに売れなければクビです。売れたら売れたで契約問題でもめたり、マネージャーが使い込みをして逃げたり、パパラッチに追いかけられたり、評論家にこき下ろされたり、暴露本が出たり、スキャンダルにまみれたり。しまいには誰も歌なんか聴いてなかったりします。それに耐えられるための条件は、むしろ技術の巧拙ではなく、「音楽やってないと死んじゃう」くらいの体質でしょう。「俺にはこれしかない」と思えるからやってられるという。

 ということで、ヘタだから、分らないからという初動的つまづきで全てを判断するのは危険です。「全ての幸福は誤解の上に成り立っている」というシニカルな言葉がありますが、ヘタッピだろうが、トンチンカンな解釈であろうが、それでもそのエリアから快感や幸福を引き出すことは全く可能です。本人がエンジョイしていればそれで美しく自己完結しているわけで、それでいいのだ。

 カメラであれ、ゴルフであれ、スノボであれ、俳句和歌であれなんであれ、世界の全ての”趣味的愛好家”というのは、プロから見たら低いひく〜いレベルの波打ち際でパチャパチャやってるに過ぎない。もっといえば、ゴルフでも何でも商業的プロというのが経済的に成立するためには、「ヘタッピだけど好き」という膨大な母集団があるからこそです。皆が己の才能のなさに嫌気がさしてゴルフに興味を失ったら、誰もゴルフトーナメントなんか見ないし、TV中継もされない。ということは広告効果もゼロになるから賞金を提供するスポンサーもつかず、プロという商業基盤そのものが崩壊します。すべては「ファン」「愛好家」と呼ばれるヘタクソ集団あっての話です。ファン様々、ヘタッピ様々なのだ。逆に言えば「ヘタだけど好き」というのは、この世の圧倒的なマジョリティですらあります。

 以上、延々書いてきましたが、出来る/出来ないという技術的なことは、あなたがその分野を嫌いになったり、苦手意識に苦しんだりする決定的な理由にはなりえない、ということです。まずこのことをしっかりキモに銘じてください。

わからない/出来ないことの論理と科学


 とはいうものの、可能ならば「出来る」方がいいですよね。より正確にいえば「自分は”出来る”と思える(うぬぼれられる)」方がハッピー度は高いでしょう。分らないもの、出来ないものはその面白さを発見しにくいし、それを義務的にやらされていたらやがては嫌いになってしまう。僕は数学は徹底的に苦手ですけど、だからといって数学が嫌いか?というと、実はそんなことはなく、中学くらいまでは幾何の証明問題なんかパズル的に好きだったし、点も良かったです。でも高校になってから、何のために必要なのか実感が湧かず、ひたすら暗記と技術論だけの内容になってからが詰まらなく感じられたのですね。行列とかさ、常用対数とかさ、何のために要るの?と。その面白さや実用性が分らない間に、どんどん授業が進み、イマイチ燃えないうちに新しく覚えることが増え、ついにはこなしきれなくなり、点数も悪くなり、もう今更やる気がなくなってしまった、、、という感じですね。

 そこで、本題ともいうべき、出来ないことを出来るようになる、分らないことを分かるようになる、「出来たような気がする」ようにするにはどうしたらいいか論です。

 まず、分らないなら分らないなりの、出来ないなら出来ないなりの論理と科学があります。自分の失敗を見つめるのは気分的にイヤなものでしょうが、そこを堪えて、まるで生体解剖をするように自分の何がダメだったのかをよーく考えてみるといいです。単に「才能がない」とか、「馬鹿だから」とかいう大雑把な理由で処理しちゃうのではなく、徹底的に解析する。

 過去のエッセイにも書いた記憶がありますが、大学の体育の講義で教えてもらって目からウロコが落ちたことがあります。「下手にさせられた歴史」という講義内容だったのですが、まず、実例として「ソフトボールで下手な奴にライトを守らせる愚かさ」というのがありました。下手だから一番ボールの飛ばないライトに廻されるのですが、多くは右利き右打者で、流し打ちなんて高等技術も出来ないヘタッピ揃いの学校の授業レベルのソフトボールの場合、ライトにボールが飛ぶということは、その殆どが当たりそこねの凡打です。ところが、当たりそこねなだけにボールに不思議な回転がつく。丁度テニスや卓球でラケットを切って球に変化をつけるのと同じ状況になる。ハタから見たらヘロヘロ飛んでるだけだから、いかにもイージーなフライに見えるのだけど、捕球する側から見ると、軌道が定まらず妙な変化をするから非常に難しい。だからエラーをする。そして「あんなボールも取れないのか、ド下手!」「あーあ!」と仲間から罵倒されまくり、絶望的な屈辱感とともに自分でもそう思いこみ、トラウマのような苦手意識が生じる。このようにヘタな奴が実は一番難しいことをやらされているというケースは往々にしてあります。でも、ドングリの背比べのヘタッピ集団ではそれが分らない。

 同じように、鉄棒の逆上がりだって、体重と9.8Gの重力加速度、それを支える筋力との関係で、どうやっても物理的に出来るわけがない子供も出てきます。その子が逆上がりができないのは、ニュートンの物理法則によって出来ないだけで、別に根性がないわけでも、運動神経が悪いからでもないです。ところが頭の悪いクラスメートや、ときとして教師ですらもそのことが分らず、嘲笑されたり、根性がないと決めつけられたりする。そして「出来ない」という動かぬ証拠があるから、本人自身も「ボクはダメなんだ」と固くそう思いこんでしまう。

 このように、「出来ない」という現象があった場合、その現象が生じるだけの論理と科学があります。音楽の論理と、数学の論理、国語の論理、料理、スポーツ、喧嘩、異性との付き合い方、、、どんな分野でも、それ相応の論理と科学があります。「論理と科学」という言い方が無粋で気にくわなかったら他の言い方(世界観とか、アルゴリズムとか、法則性とか、パターンとか、視点設定とかお好きに)にしてもいいけど、テコの原理のように、こっちから押したらビクともしないものが、あっちから押したらいとも簡単に動いたりする。ガラガラと横に動かしたら開く引き戸を一生懸命押したり引いたりしていて、自分の才能に絶望しているという滑稽な情況が多いのです。

 ある特定の分野や技芸を習得しようと思えば、その分野世界の構造や論理を分析・体得するのが最も手っ取り早い攻略法になるでしょう。こういうと何やら堅苦しく聞こえるでしょうが、平易で感覚的な言葉で言えば「コツ」ってやつです。ただし、単にコツと呼ばれる一行知識を丸呑みしても効果は薄く、なぜそういうコツになるのか、そのメカニズムは何なのかを知ることの方が大事だと思います。

 と、抽象的に言っていても始まらないので、以下に幾つかの実例をあげます。

いくつかの実例


 例えば自転車の乗り方ですが、初心者は恐いから「バランスを取ってからしずしずと動き出す」ということをするけど、そうではなく「動くことによってバランスを取る」「動いた方がバランスはとりやすい」という発想の大転換が必要で、それが肝心カナメのコツです。まあ、頭で分っても身体で体得するのに時間はかかりますが、要はそういう論理(発想)に気づくかどうかです。バランスは大事だけど、バランスに気を取られると却ってバランスは崩れる、という皮肉な構造があるということです。これを一般原理として抽出すれば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」「ビビってるうちは成功しない」原理と言ってもいいでしょう。これは自転車だけではなく何にでも応用がききます。英語の実戦会話なんかまさにそうです。

 車の車庫入れや縦列駐車が苦手な人がいますよね。僕も得意ではないのですが、僕なりの克服法は、「バックしているとは思わない」ことです。思い切り身体を後ろにねじって、カッと目を見開いて後部窓を見据え、そして「あっち(後ろ)が前方だ」と思う。ハンドルの位置はちょっと違うけど、バックしているのではなく「前に進んでいるのだ」と思うと比較的上手くいきますよ。バックをなにか特別のことだと思いこむから複雑に考え、ドツボにはまるのであって、要はハンドルを動かして車を任意の位置に移動させるという意味でも前も後ろもないのだ。前から入れられるならば原理的に後ろからでも入れられなければ嘘です。それに加えて、転舵車輪が前か後ろかの違いで、バックの方が「方向転換効果が生じるのは遅いが、一旦生じたら急激に生じる(曲がり始めるのは遅いけど、曲がり始めたら急に曲がる)」という特性があるということを調味料的に知っておくといいです。主観的には「最初は到底入りそうもないように見えるのだけど、曲がり始めたら嘘のようにクルマがはまっていく」という具合に感じられるということですね。

 そして徹底的に練習するなら、だだっぴろいところで、「あっちが前」と思い続けて1時間バックだけで走り続けたらいいです。首が痛くなるくらいやったら感覚が身についてくるでしょう。誰だって慣れます。要は大胆に発想を転換し、あとは超集中して一気に練習をして身体に馴染ませること。何かを習得するにはそれが一番効率がいいです。そうそう、自分が教習所に通っててつくづく思ったのは、「なんで失敗させてくれないのか」です。クルマの車幅感覚というのは運転席からはわかりにくいのですよね。その感覚をつかむには、実際にぶつけてみるのが一番早いですわ。「このくらい進んだらこうぶつかる」と。だからぶつけても構わないオンボロ車を使わせたり、あるいはボディにウレタンかなんかを巻いてぶつかっても良いようにして、最初はガンガンぶつけさせたらいいです。ぶつけさせないで感覚をつかむというのはかなり効率が悪い。はい、これを一般原理として抽出するなら、「初期段階で集中的に失敗するのが技術向上の最速の道」「成功しながら向上するのはかなり難しい」ということです。

 シェア探しの特訓で必ずやるのが「地図を読む」「方向音痴の克服」です。地図が読めないという人が多いですが、これは「読めない」のではなく「読んでない」のです。ろくすっぽ読みもせず、なんとなくカンで歩き始めてドツボにはまるという。ドツボにはまってから地図を見ても遅い。大体起点(電車やバスから降りた地点)が大事で、ここでまず地図を見る。今現在自分がどこにいるのか、それを地図上で確認し、確信が持てるようになるまで一歩も歩かないことです。コツは「なんとなく歩き出さない」「多分こっちだろうという”見込み”を100%殺すこと」に尽きます。特にオーストラリアや西欧は全ての通りに名前がついており、通りの名前が記載してある地図さえもっていれば絶対に現在地点は分ります。この時点で分らなかったら人に聞くなり何なり、現在地点をガチガチの鉄板に確認する。それを怠るから、北に向ってるのに南に向ってるとまるで勘違いして歩いていき、当然のごとく混乱して迷うという。しつこいですけど、地図というのは辞書ではなく、「分らなくなったら見るもの」ではなく、「分っている段階で見るもの」「迷わないようにするために見るもの」です。

 なんで方向音痴のくせに、こうも見切り発車でどんどん歩いていくのか?その心理は興味深いのですが、おそらくは方向音痴で不安だから一刻も早く辿り着いてほっとしたいという心理があるのでしょう。イヤなことは早く済ませてしまいたいという。要は不安に耐えきれない心の弱さ、ストレス耐性の乏しさです。そこに致命的な弱点がある。冷静に考えたら、起点において地図で現在地を確認するなど、ものの1分もあれば出来るはずです。起点というのは、例えば電車の駅とかバスターミナルとか分りやすい場所であるケースが多く、周囲に確実な目印が沢山あるし、少なくともここまでは正しいという確証も得やすい。現在地を確認するには最適な地点であり、ここで現在地が分らなかったら、あとになったらもっと分らなくなる。なのに起点での地図確認という数十秒や1分が耐えきれない心の弱さはどこから来るか?といえば、苦手意識、弱者意識です。弱い奴、下手な奴ほど物事を舐めてかかる好例ですが、すべてが悪循環になっている。苦手だから早く済ませたい→地図も読まない→迷う→益々苦手意識がふくらむという。だから悪循環を好循環に、洗濯機のようにリバースサイクルさせてやる必要があり、それは起点地点で1分間でいいから地図を見るということで多くは解消する。簡単なことでしょ。

 料理が苦手という人も、苦手とかいう以前にそもそもやってないですよね。だから、その克服方法は「とりあえずやってみ」です。それもいやだったら、それは苦手ではなく嫌いなのであり、やりもしないで嫌いだといってるのは、「面倒臭いことは嫌い」と言ってるだけです。なんで面倒臭いと思うかというと、その面白さや経済的優越性が分らないということであり、人生で大損ぶっこいているということでもあります。前にも書いたけど、ド貧乏の学生時代、1日の食費100円で暮らすような日々はザラでした。そこで必死こいて電卓叩きまくって費用計算をして出てきた結論は「ちゃんと自炊をするのが一番安い」であり、自炊といってもインスタントラーメンとかそんなのではなく、ゴハンを炊いて煮物を作るというバリバリ正統派な調理法が一番安くつくということです。カップヌードルなんか最悪に高いし、牛丼なんかでもなお高い。なんせ100円以内で栄養のバランスと満腹感を得なければならないのですから。貧しいときこそ手数で勝負でしょ。お金な無いなら手間ヒマかけろです。鉄則です。でも、人間貧しくなると動きも貧しくなるのですね。動かなくなるし、楽したがる。貧すれば鈍すです。だから悪循環。

 料理が上手になったら、いいですよ〜。冷蔵庫をあけてヤバくなりそうな食材の整理をかねて、チャッチャと美味しくて、豪華そうで、栄養もあるものを作れます。一回身につけておけば一生困らない。料理は語学と違って一回到達したレベルは死ぬまでそうそう下がらない。一生レベルでその差が蓄積したら、どれだけの損得になるか。単純な食費差だけではなく、栄養が偏ることによる中年・老年期の病気、それにともなう療養費や逸失利益(本来なら働いて得られたけど病気になって得られなくなった収入など)も考えたら、数千万円くらい楽勝に差が出てくるでしょ。平均寿命の伸び率からいって、今の50歳以下の日本人だったらおそらく100歳前後まで生きるでしょうからね。だから大損ぶっこいてるというゆえんです。

   次、国語が苦手な人は多いですよね。どうやって勉強したらいいのか分らんとか、テストが苦手とか。これは清水義範氏の「国語入試問題必勝法」という小説をお薦めします。大笑いするけど、結構鋭いですよ。「作者の論じていることに最も近いものはどれか」問題なんか、まさにこの小説の通りだと思いますもん。「正しいものはどれか」とは一言も聞いていないです。「最も近いもの」です。だから「近い」けど微妙に違和感がある。でも一番近いといえばこれが一番近い、という選択肢を選べば大体合ってます。そして、本文中そんなことは一言も書かれていないのだけど、こういうことを言う人だったら、当然こういうことも言うだろうなという延長線上にありそうな選択肢がヒッカケです。大体ドンピシャな選択肢を置いておいたら、全員が正解しちゃうから試験にならないのだ。僕は数学はダメダメだけど現代国語で殆ど失点らしい失点をしたことはないです。それは何かの拍子のこのコツをつかんだからだと思います。これが現代国語の試験の「論理」です。

 これは国語に限らず試験という存在全般に通用します。自分が出題者になるのが一番分りやすいのですが、出題者の心理というのは、クイズの出題者、あるいは手品師みたいなもので、回答者がひっかかってくれたらうれしいし、見破られたら悔しいのですよ。それに全員が正解するような問題を出しても「選別」という試験の機能に合致しない。また全員が不正解のような問題でもダメです。出来る奴は出来、出来ない人は出来ないという微妙なところを狙ってくる。そして、20点〜30点レベルの人も選別し、90点以上のハイレベルの人もちゃんと選別できるように問題の難易度をバラつかせます。だから「点を取らせる問題」と取らせない問題というのが出てくる。ただし、これは司法試験のような資格試験、純粋に選別だけを目的とする入試などの場合は、全問が点を取らせない問題だったりする場合もありますから、過去問を見てその傾向を分析するべし。そして、点を取らせないヒッカケのパターンというのは手品のタネみたいなもので、しょせんは限りがありますから、ヒッカケのストックを増やしておくとそれだけで点数的にはあがります。

 国語の話に戻りますが、いわゆる長文読解問題がダメダメなパターンというのは、心理傾向として「ちょっとだけ読んで分った気になる」という早とちり傾向があるような気がします。最初の数行を読んで、「ああ、この手の話ね」と分った気になって、あとは字面を目で追っていくだけみたいな浅い読み方になる。勝手に文旨を取り違え、全体のコンテクスト(文脈)把握に失敗しているから、あとはオートマティックに間違えていきます。こういう人は、正解や解説を聞いても理解できないという場合が多いです。そう思いこんでいるから。まあ、要するに「長文読解力」が無いわけで、そういう人が失点するのはまさに正しいのだけど、自分がそれにあたると思う人は要注意です。この手の人は、すぐに分った気になる問題点があるので、「他人の話をちゃんと聞かない人」である可能性も高い。これは国語問題以上に社会生活やビジネスにおいて致命的な欠陥になります。クライアントの話を半分だけ聞いて分った気になって勝手に話を進めても、あとで「あんた、何を聞いとったんや?!」烈火のように怒られるだけですから。

 また、多くの場合、人間の感情や意向というのは矛盾しまくってます。「本当はAをすべきなんだけど、でもBもしたいし、Cというセンも捨てがたく、だけどやっぱりAかなあって気になってるんだけど、尚もタメライがある、、、」というようなものです。ここで「えーい、どっちなんだ?」とブチ切れないで、その矛盾を矛盾ごと丸ごと呑み込む、人間的、脳味噌的なキャパが必要です。話者の意向を自分の脳味噌に移植する際に、勝手に端をバキバキへし折って収納しやすくしないこと。「要するに○○でしょ」と要約しない。「そんまんま」呑み込む。これは弁護士や広告代理店、建築事務所などクライアント系の仕事をする場合には必須のスキルだと思います。クライアントの真意を正確に察知できなければ、つまりはコンテクスト把握能力=長文読解能力がなければ商売あがったりです。だもんで、長文読解問題が出たら、将来自分はビジネスマンになって、今は顧客の説明を聞いているのだと思え、ということです。で、問題文は「依頼者の意向にもっとも合致している方針はどれか?」と読みかえる。ね、ちょっとはやる気になりませんか。失点したらクビです。

攻略法発見のコツ


 以上あれこれ書いてきたように、ものごとを学ぶ場合、その世界独特の論理構造を理解するのが一番大切なのですが、なぜか教科書の類はほとんどこういう視点で書いてないです。

 試しに今、超苦手だった高校数学をネットで調べてみましたけど、やっぱり分からんでした。自分が高校の時はそれでメゲてましたけど、しかし、それなりに社会経験を経た今なら、ある程度自信を持って言えます。「こんな説明でわかるわけないだろ!」と。それに強制もされず、時間制限もされないのだったら、「時間をかければ絶対分ってみせる」という自信もあります。他の人間が分るものを俺が分らない筈はないと思えますから。絶対分る!と呑んでかかれる。でも、高校のときの経験度と環境でもう一回やったら、やっぱり劣等生だったろうな〜というのもよく分ります。

 優秀な教師だったら、このあたりの世界観を面白おかしく、自然に体得させるけど、そんなに教授技術に優れている人はマレですし、そういう授業をさせるようなカリキュラムになっていないし、そもそも日本社会はそういうことをあまり好まない(深刻な顔をして机に向うことを「勉強」だと思いこんでいる)。だから、サードパーティの出番になり、予備校とか参考書が流行るのでしょう。「分りやすい」と評判の予備校の名物講師さんなんか、おそらくはこのあたりの教授テクニックに優れているのだと思います。優れているのは知識やテクニックの伝授ではなく、「世界観の伝授」をするからだと思います。もっと言えば「楽しさの伝授」ですね。

 では、この世界観やコツみたいなものをどうやって発掘するかですが、@自分で探す、A教えてもらうの二つがあります。

 Aについてですが、これはもう「出会い」につきますね〜。それは親や教師という立場に限らず、友達でも後輩でも誰でもいいんですけど、いいメンター=お師匠さんを探すことです。僕は隠し芸としてコマ廻しが得意で、実はコマの綱渡りとかできます。これは小学校のときクラスで流行ったのですが、いつも登下校が一緒だった旧友の深田君が僕のメンターでした。メッチャクチャ上手だったもん、彼。ピアノも得意だった深田君は、ちょっとウェーブがかった長めの髪と細面といういかにも芸術家風な小学生でしたが、「ほら、こうすれば、簡単じゃん」と何度でも目の前で見せてくれました。深田師匠の薫陶を受けて、僕はコマ廻しが得意になりました。ああ、もうかなり長いことやってないなあ。コマを垂直方向に放り投げし、肩からまわした紐に引っかけてキャッチしつつ廻したり、軸の所にくるりと紐を廻してそのままスルスルと回転しながらゆっくり下に落としていく「エスカレーター」とか(書いてもイメージわかないだろうが)、今でもできるのかしらん。師匠は大事ですよ。誰からでも学べ、どんなことでも学べ、です。どんな人でも最低でも何か一つは教えられるものを持っていますから。

 @の自分で発見するということですが、これは難しいのですが、しかし「一芸に秀でた者は多芸に秀でる」法則がありますから、なんでもいいから一芸に秀でるといいです。それはチャリンコでもいいし、スノボでもいいし、卓球でもいい。そして、自分がなぜ上達したのか、どこにコツがあるのか、その世界観の転換点やブレイクスルーはどこにあったのか、冷静に考えてみるとヒントがゴロゴロ転がってます。得意分野だから考えていて楽しいでしょ?あとはそこから一般原理を抽出して当てはめていくだけです。

 例えば料理をアドリブでやるという技術があります。料理本と首っ引きになって調理するのではなく、適当にその辺にあるものを組み合わせて「なんか作る」というやつです。それこそが技術というものですが、僕の場合はギターのアナロジー(比喩比較)で理解しました。ロックギターをアドリブでペラペラ弾きまくるにはどうしたらいいか?です。料理と構造が似てるんですよね(僕にはそう思える)。

 ギターの場合は、まず練習曲というか、とりあえず弾きたい曲を譜面とCDで独習します。かなり完全に弾きこなせるまで頑張る。そして一曲や数曲弾けるようになってから、こんどは自分が弾けた曲の中から一般原則を抽出してきます(というか解説本にいろいろ解説してくれているけど)。大きな骨格構造の部分と、細かな枝葉的な小技部分とにまず分かれます。骨格部分というのは、例えばメジャー(長調)、マイナー(短調)という調性があったり、ギターにはバッキングとソロの二つの構造があったりということです。この大きな骨格の上に、「いわゆるヘビメタ風なクラシカル風味なフレーズ」「幻想的なコードは開放弦を多用するといい」「この音を入れるとジャズっぽく聞こえる」とかいうコツやフレーズがストックとしてたまっていきます。その構造理解を深めていくことと、小技を増やしていくこと、この二方面から技術を深化させていくわけです。

 料理も似たようなもので、料理本通りに幾つか作ってみて、そこで何かを得ます。料理にも大きな骨格構造部分があって、その昔僕が発見してうれしかったのは、味の二重構造です。味には@ダシ部分という下部構造とA調味料部分という上部構造があると。まあクソ当たり前のことなんだけど、昔はそんなことも曖昧だったわけですね。味噌汁でもダシ+味噌という味の二重奏で出来上がっている。ダシだけだとすまし汁になってしまうし、味噌だけだったら飲めたもんじゃないです。そうなると他の料理でもダシ+調理料のバランスだということがわかり、例えばタイ料理のダシ部分にはナンプラーがきて、イタリア料理の場合は実はオリーブオイルが来るというも何となく分る。また、単純にチャーハンを作るときでも、味が薄いなというときにやたら塩胡椒を振っただけではダメで(塩辛くなるけど味は薄いまま)、スープストックをちょっと入れてみるとか応用が利くようになる。あとは食材の適正加熱時間の差を見極め、煮えにくくダシが出やすいものを先にいれ、煮くずれるものは最後にするとか、強烈な調味料は全ての努力を無にするとか(ケチャップを入れるとなんでもケチャップ味になってしまう)、さらに小技としてちょっと大きすぎるくらいの皿に盛りつけるとゴージャス感が出てきて見てくれが良いとか(フランス料理を想起せよ)などの枝葉を茂らせていくと。

 まあ、似通ってるのは「骨格→枝葉」構造だけじゃないかと思われるかもしれませんが、自分としてはこれだけ似てたら十分です。未知の領域に切り込んでいける道筋みたいなものがうっすら見えてくるだけで、かなり取っつきやすくなりますし、自分の進行状態もわかるし、コツの体得も早いです。


 以上、あれこれ書いてきたのですが、前半部分に書いたように、別に上手くならなくなってそれであなたが楽しく、ハッピーだったら、別にそれでいいです。技術というものはあなたをハッピーにするからこそ習得する価値があるのであり、技術がなくてもハッピーだったら、もうヘタッピ天国という目的地に着いちゃっているのでそれ以上頑張らなくてもいいです。

 ただし、もっとハッピーになりたいから学びたいというのは大いにあるでしょう。また、楽しいかどうかよりも、ある目的を達成する前提としてやらねばならないということもあるでしょう。入試とかビジネススキルとか。その場合は、つまらない苦手意識はそれが虚妄であるというだけではなく、悪循環の起点になりがちだという意味で百害あって一利なしですので、ちゃっちゃと潰しておかれると良いと思います。人生の自由度や居心地を良くするためにも。

 でも、技術獲得方法や攻略法よりも、楽しさを発見する方が本当はずっと大事ですし、意味があります。ただし、楽しさを発見する「方法」というようなものは考えにくいのですね。なぜなら、それは感受性の問題ですから。そのエリアの論理がどうという話よりも、主体の精神的な健康状態がメインになるでしょう。鬱状態だったら何をやっても楽しく感じられないでしょうし、恋人と二人でやるんだったらどんなしょーもないことでも楽しい、むしろしょーもない事の方が楽しいということです。




文責:田村






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