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今週の1枚(10.05.24)



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Essay 464 : 確認の旅、「なるほど」の旅


 
写真は、スーパーのパスタコーナー。写っている範囲以外にもメチャクチャ種類があります。ごらんの通り、スパゲティとスパゲトーニとで微妙に違ってたりして面白いです。




 海外移住シリーズばっかりやってますが、多少飽きてきたこともあり、関連しつつも、ちょっと寄り道をします。
 前回、移住の動機付けとして、経済でも生活でもなく、単に「あの山の向こうはどうなってるんだろう?」という本能的な好奇心があると書きました。そして、その好奇心+行動(あの山を登る)の末に得られる果実は何かというと、「なるほど、こうなっているのか」という認識の獲得だと思います。

 僕らは自分の人生にいろいろな夢を抱きます。それが実現可能かどうかは別として、「〜になったらいいな」という思うことは沢山あります。金持ちになりたいとか、有名人になりたいとか、永住権が欲しいとか、海外で暮してみたいとか。それを達成するためにあれこれ努力をするわけですけど、その夢を達成したときに得られる最大のご褒美は、そのステイタスに伴う様々なメリット(収入とかモテモテの日々とか)ではなく、実は「それがどういうことか分ること」であり、「なるほど、こういう感じか」という”なるほど感”を得ることではないかと。

 そういう意味では僕らの人生というのは、確認の旅であり、なるほどの旅なのでしょう。
 以上、これで今回のエッセイは終わりです、、、だったら、僕もあなたも楽なんですけど、そうはいかんでしょうね。もうちょい書きます。

時給500円

 20代前半、僕はアルバイトに励んでました。文英堂という学習参考書を出版している会社の一階倉庫で、そこで返本やら出荷作業をやってました。この種の肉体労働というのは最初はしんどい。僕の場合も、雪のちらつく中、隙間風が吹き込んでくる倉庫で、本のスリップ入れ(本の中に折り込まれている短冊のような小さな紙片)をやってました。朝から夕方までぶっとーし。もう動かないから寒いわ、腰は痛くなるわ、時間が長かったですねえ。「だー、まだ5分しか経ってない!」って感じ。

 しかし、肉体労働というのは、慣れてきたら身体が勝手に動くようになるので楽になります。ほどなくして色々な仕事をやらせてもらいました。返本の仕分け、そのために優に百点以上に及ぶ出版物の種類を覚えます。単にタイトルだけではなく、これは同じタイトルだけど版が違う、版は同じだけど刷が違うとか細かなところまで覚えます。さらに、それらを種類別に置いてある地上5階分相当のの大きな倉庫を、自分で操縦するクレーンみたいな台車に乗って、「ええと、”基礎解析直前30時間”は、あのあたりにあったよね」とか完璧なメモリーとともに縦横無尽に移動して、所定の場所に本を返したり、あるいは出荷のための本集めなんてのもやってました。フォークリフトはやらせてもらえなかったけど、その他の仕事だったら概ねやらせてもらいました。本の積み上げ方、縄掛けの仕方、梱包、裁断再生本や消しゴムのかけ方などなど。春時期には日本の全高校に見本を送るという作業、指示書をもとに一校づつ内容が異なる数千の小包を作り上げては、集荷に訪れる佐川急便や西濃運輸の人達に渡す作業もやってました。原則吹きさらしの倉庫ですから、冬は寒いし、夏は暑い。昼休みの1時間で段ボールを作業用鎌で切って敷き、短時間に熟睡するワザも身につけました。

 仕事は慣れるに従って面白く、そして楽になっていきました。また気持ちのいい人達に恵まれましたし、忘年会なんかにも呼んでいただきました。その頃、僕は大学を4年で卒業せずに自主留年し司法試験受験をやってましたので、バイトが終ったらまたバイクを飛ばして研究室に行って夜半までゼミをやったり、土日は勉強してました。こと勉強のことだけでいえば、バイトなんかしてないで勉強に集中すべきなんだろうけど、それでもバイトをして良かったと思ってます。

 一つには、受験技術的にいえばバイトをやめてまで長時間勉強しなきゃイケナイというわけでもなかったことです。合格者を大量に増やしている現在の司法試験よりもケタ違いに難関だった当時であってさえ、「起きている時間は全部勉強!」みたいにド集中してやるのは最初の2〜3年で良く、その後は量より質になります。長時間やらねばならないものでもないし、長時間やりさえすれば良いという甘いものでもない。肉体労働は身体が勝手に動くから、勉強が一定のレベルに達すれば、仕事しながらでも頭の中で答案構成とか、答案で書くべき100%オリジナルの「光るフレーズ」(←これメチャ重要、借りてきた表現を再現してるだけでは合格できなかった)を考えたりすることは可能です。勉強道具や勉強環境が整ってないと勉強できないというのはアマチュアのセリフだと思います。

 それ以上にバイトをしていて良かったのは、実際に働いている大人の人を間近に見続けられたことです。見てれば自然とレスペクトも湧きますし、働くこと、生活するということがどういうことなのか、青二才の僕にもなんとなく皮膚感覚で分ってきます。大切なことなんだ、おろそかにしてはいけないんだって。それが、後々弁護士になったときにどれだけ役に立ったか。机の上で、約束手形の17条の抗弁切断がどうのこうのと勉強してても、切れば血が出る本当の生活実感は湧きません。他人様の人生を将棋の駒やゲームのように扱う愚かな専門家になってしまう危険は常にあります。AとBが法廷で争い、理屈や条文からいけばAの勝ちであり、その方が理論的にはすっと通る。だけど本当にAの勝ちにして良いのか?理屈が通ればそれでいいのか?という悩みは、人々の実生活の重さを知れば知るほど出てきます。人が生きていくことの重さを知ったら、そんなにバッサリ切れなくなる。ゆえに法解釈論というのは常に苦渋の選択であり、いわば断腸の思いでなすべきであり、だからこそ司法試験でも「悩みのない答案は落ちる」と言われたりします。「お前の答案は良くできているけど、悩みがないからダメ!」と採点で酷評されていた意味もわかるようになります。

 さて、気になるお給料ですが、時給560円かそんなもんでした。最初は確か480円くらいだったんじゃないかな。1980年代の日本ですら、ちょっと安めだったような気もするけど、長期間働けたし、家の近所だからまあいいかって感じ。それでも1日働けば4000円くらいにはなったし、毎週金曜日に週給を現金で貰うわけですけど、週で2万円くらいにはなりました。作業用のタオルを首にかけて、階上の事務室に上がっていったら、温厚そうな課長さんが、丁度のそのころ出回りだした福沢諭吉の新札をわざわざ自分の財布から交換してくれて、「はい、田村君はよく頑張ってくれているから、新札をあげるね」って渡されて、そんでもって無邪気に喜んでました。月10万にも満たないわけですけど、当時の僕としては目もくらむような大金で(^_^)、耐乏生活には慣れまくってますから、1年間で結構貯めました。最後の口述試験が東京であるから10泊分の旅費なども貯める必要があったし、実際にその翌年には結婚してますもんね。

 とはいうものの、将来合格して弁護士になるまでの辛抱だって気持ちは当然ありました。ちくしょう今に見てろ、そうなったら左ウチワだぜって。でも、その当時の自分に弁護士の所得が幾らという細かなデーターを持ってたわけでもなく、なんとなく「お金が沢山ありそうな」という漠然としたイメージでしかなかったです。「受かったら”先生”だもんね」というステイタス願望もありましたけど、これだってステイタスって具体的に何なのよ?というと深く考えたわけでもないです。とーっても曖昧な、”パッと花が開いたような”みたいなイメージ。あくまでイメージ。そんなのは受かってからわかることだから、今は受かることに専念すればいいって感じ。

 で、運良く弁護士になれたわけですが、確かに所得は増えましたよ。一体いつごろ年収が1000万円を越えたのかあんまり覚えてないくらいです。なんせ貧乏感覚が抜けない僕としては100万円以上は「お金」という感じがしませんでしたし。しかし、経済的に潤って良かったなと思えた経験は意外に乏しく、まあ、財布を気にせずCDや本を買えるとかくらいでしたね。

 それよりも実際に弁護士になってみたら、左ウチワどころの騒ぎではなく、また一日中勉強「だけ」してれば良かった受験中のような甘いものでもない。ミスをしたら即座に他人の人生に跳ね返るし、自分の責任にもなります。弁護士なり立ての頃は、あまりの責任の重さに夜も寝れなくなったこともあります。専門家としてあれこれアドバイスや処理をするわけですけど、新米だから何に付けても自信がないわけですよ。「多分これでいいはず、死ぬほど調べたんだからそれで良い筈」とは思っても、実は「これは初心者が陥りがちな誤りで、、」なんてことが絶対ないとは限らない。もしそうなったら、もう責任取って賠償しなきゃいけない。止せばいいのに、最悪の場合幾ら賠償しなきゃいけなくなるのかと数えだして、それが30億円を越えたあたりでもう寝れなくなっちゃいましたね。司法試験なんか、いくら厳しいといっても最悪の結果は自分の不合格だけですからね、甘いもんですよ。それでもゼニカネだったらまだマシで、もしかして自分の無能のせいで無実の人が死刑にでもなったら、もう3回くらい切腹しないと許されない、、、なんて考えると益々眠れない。わーい、収入が増えたぞって気分に全然なれない。

 いきおい必死で調べたり考えたりするから稼働時間が長くなります。特に最初の頃は万事要領が悪いから、普通の何倍も時間がかかる。もう朝から晩まで働きづめ。それどころか新件はどんどん増え、処理限界を超えます。破産その他の緊急事態になると夜中でも呼び出しはあるし、泊まり込みなんてこともある。仮にオフの日に家にいても頭から離れないから精神的には働いているようなものです。それでいて、イソ弁でも給料は管理職扱いで残業手当も何もつきません。でもって、あるとき考えたのですが、確かにトータルの収入は比較にならないくらい増えたけど、労働時間や質も比較にならないくらい増えた。時給計算でやってみたら、時給500円くらいじゃないのか?と。

 だから、なんのことはない、まだあの倉庫で時給560円でやってた方が儲かってたんじゃないの?という。バイトの方がマシだったんじゃないのかと。


 長々自分の話ばかりしてすみませんでした。
 このエピソードには、幾つかのポイントがあります。

 まず第一に、冒頭で述べた「なるほど感のゲット」ですが、この話のなにが「なるほど」かというと、「なるほど、沢山お金を稼ぐというのはこういうことなんだ」というのが分ったということです。

 稼ぎ方の効率とか方法論とか次元とか色々ありますけど、でもね、まずは量ですよ。沢山お金を稼いでいる人は、沢山働いているという、クソ当たり前の真理です。年収1000万円はどうやって稼いでいるのかといえば、時給500円でそれが1000万円に達するまで働いているだけ、です。

 まあ、そんな計数上正確に比例するものではないですよ。でも、上で書いたような責任やら苦労の質を考慮に入れたらそのくらいになるjんじゃないか。それに収入が増えたら支出も増えます。ちょっと飲み会やっても会費は最低1万円、それから二次会に流れて、、とかやってたら軽く数万になる。着てる服も、あれも一種の「作業着」ですから、あまりみすぼらしいものは着られない。バイトの時のようにジーパンTシャツというわけにはいかない。また、つきあいも増えます。気の進まない会合や飲み会にも顔を出さないとならなくなる。僕なんか割と自由にやらせて貰ってた方だけど、それでもプライベートの時間は激減します。これが弁護士会の会長など、もっとステイタスや収入が上がると、12月の忘年会だけで数百という単位になるようです。年賀状も数千枚刷るという話になるし、お歳暮もあふれかえって会議室一部屋まるまる占拠するという。

 32歳の時、仕事の件で、某有名銀行の某名門支店の副支店長さんに会ったことがあります。奇しくもタメ年で、32歳で副支店長までやってるとなるとかなり出世頭です。年収も1200万以上。で、タメ年と似たような年収の気安さで、お互いボヤキまくってました。そんな年収実感なんか全然無い!と。彼は曰くは、仕事がハードなのはいいとして、部下達にハッパをかけて残業を強いたりすると、やっぱりたまには自腹を切ってなんか食べるものでも取らないとならない。夜中まで頑張ってくれていると、コンビニ系のお菓子かなんかでは許されない雰囲気になり、寿司でも取ろうかということになる。となると一番安い梅ちゃんではやっぱり、、というので、そこそこのものを頼む。それを十数人分おごってたりしたら、それだけで数万円ぶっ飛ぶし、こんなの経費請求もできない。また若いのを連れて飲みにいけば、奴らはもう親の敵のように飲みまくるし、女の子とか最後にはタクシーに乗せてやらないとならない。そんなのも全部自腹。そんなこんなで可処分所得はヒラの時の方が絶対多かった。自由になるお金も時間も多かった。なまじ出世頭なものだから、周囲の嫉妬も恐いし、バリバリ気も使うし。「はあ〜」って感じでしたね。こんなこと他の人に言っても「贅沢言ってるんじゃねえ」で中々理解してもらえないから、僕みたいに、社外の人間で、それもタメ年で似たような境遇にある人間相手の気安さで口が軽くなったのでしょうが、「なるほどねえ」って感じでした。

 そういうことを全部計算に入れて”純粋所得”で考えていけば、実際時給500円すらヤバいんじゃないかと、そういう話です。
 それが、「なるほど〜!」と分ったと。これは僕の人生ではとても大きな認識でした。

 ちなみに、いわゆる「ステイタス」ですけど、これも「なるほど」系です。
 卒業年次を越えて6回生だの7回生だの学生やってると周囲の目も冷たいです。深夜勉強会からの帰路をチャリで走ってるだけで警官から職務質問されたり、訪問販売のおばちゃんに軽侮を含んだ視線で見られたり。「ちくしょー」と思いますよね。まあ、実際にはそれほどの出来事ではなかったんだろうけど、世間に対して引け目があるから自意識過剰になってますからね。背後で笑い声が聞こえると、自分のことが笑われているような気がするってやつです。99%錯覚なんだろうけど。そういう意味では弁護士バッジつけてるだけで周囲の見た目は変わりました。結構エラい人でも会ってくれるし、見られる視線が俯角から仰角になりますよ。特に権威主義的な人にはそう扱ってもらえる。

しかし、実際にそうなってみたら、「それがどうした?」です。別に嬉しくも何ともないです。僕はもともと権威主義的な人は嫌いですから、そういう人に馬鹿にされたらメチャクチャ腹は立つけど、かといって褒められても嬉しくもない。まあ、腹が立つというマイナスが消えたことは収穫ですけど、別にそんなの気にしなきゃいいだけのことです。また妙にチヤホヤされても腹が立つし。「先生」なんて呼ばれたって嬉しくもなんともないです。年長者にそう呼ばれる度に、「お前みたいなガキを先生扱いしてやってるんだからな!もし失敗しやがったらただじゃおかないぞ!わかってんだろうな!」というニコニコ笑いのプレッシャーをかけられているようなもので、全然楽しくない。

 だいたいそんな「ステイタス」で舞い上がるような馬鹿も少ないだろうし、ステイタスには強烈な義務が伴います。貴族階級で尊敬を勝ち取るためにはせっせとチャリティだの慈善事業をしなきゃいけないわけです。ときどき若いお医者さんとか、妙にぞんざいな口の利き方をして一生懸命エラそげに振る舞おうとしている人がいますが、ムカつくよりも、「ああ、苦労してはるなあ」って微笑ましいです。若い医師なんか医師世界のカーストでいえばパシリ階級だし、ベテラン看護師さんからはボクちゃん扱いされるし、せめて患者に対しては威厳のあるところ取り繕わないとという意識なんでしょうか。でも患者っていっても、世間知らずのお医者様よりははるかに人生経験が深いから、結構お見通しで、調子を合わせてあげているだけだったりするんですよね。その種の裸の王様的な辛さはあります。

 権力が無いときはそれを切望するけど、でも実際に権力の椅子の座りごこちは「ひんやり冷たい」のですね。もうひやっこくて痔になりそうなくらい(^_^)。権力がないときは「世間から笑われているような気がする」のですが、権力を得たらそれが「腹の底でせせら笑われているような気する」に変わるだけです。


なるほどの意味

 これが実体験として分ったら、あとは一点突破の全面展開です。データー→帰納→演繹です。

 良さげにみえるものでも、実際にそうなったらハタで見るほど良くはないんだろうなってことです。その視点にたってリアルにシュミレートできるようになる。

 ヒラの頃は、社長なんか威張ってればいいんだからいい商売だよなと思ったりするのですが、いざ自分が社長になったら、連日のように金策にかけずり回り、取引先や銀行で土下座せんばかりに懇願して仕事を取ってくるとか、債権者にはその場の出任せに近いような言い訳を連呼しなきゃいけない。ヒラ社員なんかよりもよっぽど屈辱的な日々であり、その精神的しんどさはヒラの比ではない。

 しかし幾らしんどくても社長は愚痴は言えない。社長が愚痴を言ってると社内が暗くなるし、士気にもかかわります。だから、いつも自信ありげに泰然自若としていなきゃいけない。倒産するときの会社というのは、大体が寝耳に水で、いきなりブッ潰れます。しかし、社長をはじめ中枢部はそのあたりの事情を痛いほど知っている。知っているけどおくびにも出せない。学校を出てから営々と積み上げること何十年、自分の人生の結晶のような会社が潰れるというのは死刑宣告同様です。そして、その死刑執行が数日後に迫っていながらも、にこやかに他人と談笑し、従業員の前では自信ありげに悠然としていなきゃならない。そして、ある日を境に、それまでにこやかに付き合っていた数十数百人の前に引き出され、痛烈に面罵され、土下座しても許してもらえず、さらに土足で踏みにじられるような日々が始まる。そんな人生崩壊の日があと数十時間後に生じるわけで、こんなの並の神経だったら発狂しますよ。

 弁護士やってて良かったのは、こういった事情がよく分ったことです。中小企業などでは、月に3万なり5万円なりを払って顧問弁護士を雇いますが、そんなに法律的なトラブルが毎月あるわけでもないです。だから顧問弁護士なんか雇わなくても、スポットで雇った方が経済的には得だったりすることも多い。ではなぜ顧問がいいかというと、要は社長のカウンセリング、愚痴の聞き役です。人の上に立つ人間は愚痴は言えませんし、それどころか相談すら出来ない。浜の真砂は尽きれども世にトラブルの種は尽きまじで、資金繰りに苦しんでる最中に、やれ腹心の部下が下請からリベートを貰ってるんじゃないかという疑惑があったり、部下同士の社内不倫が公然たる秘密になって、先日その奥さんが会社に怒鳴り込んできたり、工場の地主から法外な賃料値上げを言ってきたり、いきなり銀行から繰り上げ弁済を迫られたり、そうかと思ったら自分の娘が不登校になり、自室にひきこもってリストカットして遊んでたり。「先生、どうしたもんでしょうねえ」と。

 まあ、大人になるってそういうことですわ。オーストラリアにいるワーホリさんに「日本で大人になる」ということを分りやすくお伝えするなら、「毎日一回、コンスタントにパスポートを紛失しているくらいのストレス」が恒常的にかかってくるということです。その程度のストレスをマネージできて一人前です。

 アイドルや人気スターになってキャーキャー言われたいというのもよくある願望ですが、あれも実際に自分がなったら大変でしょうねー。僕はなったことはないですけど、売れてる間には睡眠時間3時間の日々で体力の限界までコキ使われ、プライベートの時間なんか全くない。かといって仕事が減ったら減ったで焦りと不安に苛まれるという。

 異性にモテないときは、モテたらどんなに人生素晴らしいんだろうと思うけど、実際にそうなってみたら思ったほど嬉しくもなかったりするんでしょうね。美人に生まれたらどんなに良いだろうと思うけど、美人は美人で苦労も多い。やれ痴漢の餌食になったり、ストーカーに追い回されたり、言い寄る男はルックス目当てだったり、頑張って成功してもルックスのせいだと誤解されたり嫉妬されたり。

 喧嘩に強くなりたいなんてもそうで、多少空手を習って強くなったとしても、上には上がいますからね。ヘタに強くなって小グループの頭になったら、やがてはもっと強い連中に目をつけられ、ボコられ、傘下に組み入れられるツッパリ地獄にハマります。それにも勝ち抜いてそこそこのレベルにいっても、時期がくれば仲間もみんな卒業したり就職したり。喧嘩が強いだけではメシも食えない。プロレスとか格闘技方面に進んだら、これも超弩級の化物クラスがうじゃうじゃいる。暴力団系に”就職”しても、ワル度ではケタ違いの連中が上にいくらでもいる。さらにそこでトップを張れるくらい努力したとしても、所属しているプロレス団体が倒産したり、組がブッ潰れてしまったり。腕っ節でメシを食うというのはとても大変だし、そのくらい強くなったとしても、その強さをもてあます。強ければいいんだったらゴリラが総理大臣やってるよなあって気づく。

 海外移住や英語の上達も同じ事です。
 多くの場合は、英語が出来なくてボコボコに打ちのめされ、「ちくしょう英語が出来たらどんなにいいだろう」と思って勉強します。それはとても大事なことなんだけど、ともすれば「英語さえ出来れば全ては解決」みたいに過剰に思いがちなんですよね。どんなに頑張ってもネィティブレベルにはいけないし、英語そのものは分るけどニュアンスが分らないという高次元の壁にブチ当ったりして、その壁が高ければ高いほどそれをクリアしたときの果実を期待する。しかし、ありえないけど、仮に英語が100%完璧に出来るようになったらどうなるかというと、要するに「日本にいる日本人」の状態、つまりは今の状態と同じになるだけです。あなたは日本に住んでいて、「日本語さえ出来れば人生バラ色さ」って思えますか?そーゆーことですよ。

 海外移住や海外で働くということも同じで、そりゃあ「ここは日本じゃない」という意味、日本離脱という意味では初期の目的は達成されますが、実際に住み始めたら勝手が分らず失敗の日々が始まります。やっとの思いで働き始めても、職場という意味では日本と同じで、イヤな上司もいるし、意地悪な取引先もいるし、やってることは変わらない。ビザについても激しく悩まされ、永住権という巨大なハードルを取るために四苦八苦し、永住権さえあれば全ては解決するように思いがちです。しかし、again、永住権が取れても、市民権(国籍)が取れても、それは「日本にいる日本人(国民)」と同じ立場になるだけです。日本にいて日本国籍さえ取得できたら(もう持ってるけど)人生バラ色か?ということです。

 ローカルの壁も同じです。やっぱりそこに生まれ育った地元民のコネやらネットワーク、さらに宗教や文化に壁を感じたりもします。また、アジア系、得に男性は、肉体的にもヨーロピアンの女性並の筋力骨格しかなく、周囲の連中の方が背が高くて彫りが深いだけではなく、胸板は厚いわ肩幅はがっしりしてるわ、スーツなんか着て並んで立ったら七五三の子供みたいにしか見えなかったりします。くそ、あいつらみたいになれたらいいなと思うのだけど、これだって、「日本にいる日本人」と同じだったりするわけですよ。



時価数億円の「なるほど」の価値


 このように、全ては「ちくしょう、○○だったらいいな」ではじまり、「なるほど、そういうことか」で終ります。

 そして、以下の部分が肝心な部分になるのですが、それがダメか、失敗かというと、別にそんなことはないです。なんか延々と皆さんの夢や希望をプチプチと潰して廻っているようだけど、そんなことないです。

 所期の目的からしたら全然果されていないようだけど、その代わりもっと巨大な収穫物があります。それは何かというと、この「なるほど」です。この「なるほど」は価値があります。無理に値付けをすれば数千万から数億円の価値があると思います。

 こんな口にしてしまえば虚しいようなこと、「三〇字以内にまとめよ」と言われたらまとめてしまえそうな、単純で、シンプルで、無愛想な認識。別に改まって言われなくても「知ってるよ」と言いたくなるようなこの「なるほど感」は、しかし、全財産と命を賭けてでもゲットするだけの価値があります。ここは演壇をバンバン叩いてでも力説したいところです。ここが大事。

 なぜか?
 だって、この種の「なるほど」は、人の話を聞いたり読んだり、頭で分ったような気分になっても意味がないからです。自分で必死こいて努力して、垂直の崖をよじ登って、血を吐く思いでやっと到達してから得ないと意味がない。それをしないで頭で分っているようなつもりになっても、それは「知ってるけど知らない」状態に過ぎない。魂に刻み込まれるような認識にはならないから実効性がない。

 では、なぜこの「なるほど感」がそんなに価値があるのか、そんなに演壇ぶっ叩かねばならないほど大事なのか。
 それは、思いこみや先入観、怨念、劣等感、偏見などあらゆる呪縛から解き放たれるからです。物事が正確に、フラットに見えるようになり、ずっとずっと簡単に幸せになれるからです。

 人生がなぜ難しいのかといえば、いろいろな要素があるでしょうが、一つには「ちゃんと見えてないから」だと思います。
 自分の勝手な思いこみや、わだかまり、コンプレックスで視界が歪んでいるからです。いうならば、激しく度の合わない眼鏡を強制的に装着させられて、障害物競走を走らされているようなものです。もう視界が魚眼レンズのように歪んでいるから、真っ直ぐ走ってるつもりで全然走れていない。もう無駄なことばっかりやってる。10メートル先に行くのに1時間かかるという。これがちゃんと見えるようになれば、この壮大な無駄がカットできます。この壮大な”無駄”は、少なくとも数年から十年以上、普通で数十年、ヘタをすれば全人生分の労力に相当しますから、その価値は数千万から数億円相当というゆえんです。

 良くある話ですが、子供の頃から田舎の貧乏暮らしだったので、いつか都会に出て成功して、、と夢見た男がいたとします。必死になって働き、お金と成功を得るためならどんなことでもやり、時には違法なこともやり、人を蹴落とし、恨まれ、それでもしゃにむに上昇志向一本で生きていく。そして功成り名をなしたら、結局は「お山の大将俺一人、後から来るもの夜ばかり」状態になる。奥さんは政略結婚だから心なんか最初から通ってないし、あちこちにいる愛人も札びら切って集めているから金の切れ目が縁の切れ目、会社の部下達もいつ裏切るか分らない。皆表面上は従ってくれるけど、実は誰にも愛されていない。ヒノキ造の数億円の日本家屋を建てたはいいけど、忙しくて家に帰るヒマもない。「こんな筈では」と思っても、今までの慣性で止めるに止めれず、やがて政治家汚職スキャンダルから芋づる式に検挙され、贈賄罪で起訴、有罪、全てを失う。刑務所から出て、ほとんど無一文になって故郷に帰ったら、懐かしい故郷の山河や緑が癒してくれる。結局、ここが一番良かったのだということが分る。そして、隠居同様に住みながら、暇つぶしに絵を描いてたら、思わぬ天分があるのが分かり、県の大賞を貰ちゃったりする。でも名誉よりもなにより絵を描いていると楽しい。時間も忘れる。こんなに楽しいことがこの世にあったのかというくらい楽しい。

 さてこのケーススタディで何がポイントかというと、最初の時点で「田舎はダメだ、退屈だ」と思ったこと、そして「金を儲けたら成功だ」と思ったことでしょう。要するにフラットにモノが見えてなかった。コンプレックスや願望で視界が強度に歪んでいる。大好きな故郷の山河で、大好きな絵を描いていれば良かったものを、そのコンプレックスがあるからアサッテの方向に全力で走り出してしまった。彼の一生は、いかに自分が間違っていたかを納得するための一生だったといっても過言ではない。

生悟りをしても怨念は成仏しない

 しかし、矛盾することを言うようですが、だったら何もしない方が良かったのか、歪んだ視界に惑わされ間違った方向に走るくらいなら、故郷で黙々とやってたら良かったのかという、必ずしもそうではないです。「故郷で絵を描く」ということの本当の価値を理解するためには、やはり一回アサッテの方向に走る必要があったのだと思います。やりもしないで、「これが一番なんだよ」と悟り澄ましたように思ってても、それは本当にわかったことにはなっていない。全人生を無駄に費やすくらいの対価を払わないと、その認識は得られない。

 なぜ頭で分ってるだけではダメで、実際にやってみて心底痛感しなきゃならないかというと、これは「感情エネルギー」の問題だからです。そして「理解」という理性的な営みだけでは、この感情エネルギーは消費されません。エネルギーは消えない。感情エネルギーというのは、いわば怨念みたいなもので、やることやらないと気が晴れないです。ある日突然スキヤキが食べたいと思ったら、もう食べるしかないです。スキヤキと同じ栄養素、同じカロリー量だからと頭で納得して別の料理を食べても、スキヤキ願望は消えません。一回そう思ったら、もうスキヤキを食べる以外に解決の方法はない。そして、一回食べたらその怨念はすっと消えます。

 「あの山の向こうはどうなってるか」と気になりだしたら、もう自分の目で見るしかないです。いくら他人に「山の向こうにはまた同じような山が広がってるだけだよ」と説明され、写真を見せられ、Google Viewで見ても納得できない。「やってみたい」「〜さえあれば」というは膨大な感情エネルギーですから、実際にやってみて、「あ、なるほどね」と納得するしかない。それは地縛霊みたいな怨念であり、それなりのことをしてやらないと成仏して消えてくれない。

 そりゃ勿論、理屈で納得して、そういう怨念や願望を無視したり、無いかのように誤魔化すことは出来ますよ。でも、無意識の世界にしっかりエネルギーは残っている。本当は女の子にキャーキャー言われたいとか、奔放に遊び狂ってみたいと思っていても、それを押し殺して、ずっとずっと謹厳実直に生きてきて、その甲斐あってそれなりに出世もし、ステイタスも得たとします。それでも怨念は消えて無くならないから、40〜50歳になって接待か何かで女遊びを覚えたら、もう一気にいっちゃう。松本清張の「坂道の家」という短編小説がありますが、実直な小売商店主が狂っていく過程を冷酷なまでな筆致で書いてますね。僕があれを最初に読んだのは小学生の頃だったけど、当時はなんだかよく分らず推理トリックばかりに目がいきましたが、今ならその恐さがよく分るし、よく書けていると思います。いい歳してセーラー服フェチになってる人も、学生の頃キャーキャー言われたかった願望の残滓でしょうし、立派な職業についていながら痴漢行為をして捕まってしまうのもそれ系だと思います。

 感情エネルギーというのはガマンすればガマンするほど、利息がついて膨れあがりますから、もうやりたいとなったらチャッチャとやって、「あ、なんだ、こんなもんか」と早く思っちゃった方がいいです。そんな怨念、早く成仏させてやった方がいい。そういった願望やコンプレックスや怨念が消えたら、嘘のようにすっきり視界がクリアになります。そして、見逃していた本当に大切なものが見えてくるようになります。でも、人間は馬鹿だから、自分でやって納得するしかない。もし、頭で分ってればそれでいいんだったら、日めくりカレンダーのコトワザだけ読んでれば、世間は聖人君子と哲学者で満ちあふれるでしょう。


 というわけで、僕が思うに、そういう願望が出てきたら、出来るものなら取りあえずやった方がいいです。それで1年、2年人生の予定が遅延しようとも、長い目でみれば、無意識の世界に膨大な感情エネルギーを飼っておくよりも良い。あれは、地底世界で遊弋する地震ナマズのような不気味な存在ですから。

 もっと言えば、その進む道が正しかろうが間違ってようが、そんなもん究極的にはどっちゃでもいいです。合ってればそれで良し、間違っていてもそれに相当するだけの価値のある「なるほど」を得られます。望んでも得られない、ワンランク高次元の平明でクリアな視界が得られます。やればやっただけのものが得られるという意味では同じです。基本的には等価でしょう。それに、結果的に間違ってようが合ってようが、ある地点に向って「全力で突っ走る」というところに最高の快感が潜んでます。ジョギングと一緒で、走るというところに意味があるのであり、「どこへ」なんてことは本質的には重要ではないです。

 かくして人生とは何ぞや?と問われれば、全力で突っ走って、壮大な無駄をして、それで「なるほど」と分ることなのでしょう。なるほどと確認し、より高次の認識に至る旅なのだと。仏教やその母体となったバラモン教、さらにヒンドゥー教では輪廻転生という発想があります。人の魂は何回も生まれ変わってくるということですが、僕の不正確な理解によれば、あれは単に機械的に循環しているのではなく、全体に修行カリキュラムになっているそうです。ある人生で色々な苦労をして修行をするとポイントがたまって次に生まれるときはワンランク上のカリキュラムに進める。各人生でいろいろな修行をして「履修」し、ポイントカードにようにそれが一定貯まると解脱できるという。まあ、宗派によって解釈は様々ですが、何となく分るというか、救われる気がしますね。だって人生ほとんどを費やして壮大な愚行をし、死の寸前にそれを悟っても手遅れじゃないかという気がするのですが、実は手遅れではないと。「なるほど〜」と分った瞬間、頭上でくす玉が割れ、「おめでと〜、第○教程、履修完了です」と修了証書を手渡され、次のステップに進めるのだと。

 まあ、そんなことが本当にあるのかどうか分らないですし、肯定も否定もしませんが、話の辻褄としては合ってるよなと。逆に言えば、古代の賢者達は、なんで人間はこんな効率の悪い学習しか出来ないのか?学習速度の遅さと人生の短さが釣り合ってないじゃないか?と疑問に思ったのかもしれません。そして、あ、そうか人生を一回だけと考えるから計算が合わないのであって、何度も何度も失敗して学んでいくんだと考えればいいんだとなって、輪廻転生になっていったのかもしれません。まあ、そんな理屈の辻褄合わせではなく、古代人達は本質的直感的に真理を感得してたのかも知れませんけど、まあ、わかりません。わからなくても良いのでしょう。だけど、この「なるほど」ということが、人生における一つのキーポイント(=履修)になっているという点で、似たようなことを考えていたのかもしれません。



文責:田村






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