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今週の1枚(10.05.10)



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Essay 462 : 「海外」という選択(その11)

日本にいるとなぜ世界と遮断されるように感じるのか?
 〜ぬくぬくした"COSY"なガラパゴス




 写真は、クルマに乗ってて信号待ちをしていたときに「おおっ」と思って撮ったもの。いい味出してますよね、この犬君。肘掛けなんか使っちゃって。なんか、こういう人、いますよね。


 直近二回は、オーストラリアにいると世界を身近に感じること、その理由を考えてきました。
 今回はその逆で、なんで日本にいると世界が遠ざかって感じられるのか、について考えてみます。

ガラパゴス携帯


 最近、「ガラパゴス」という言葉をよく見聞きします。主として日本の携帯電話事情について言われる形容です。日本の携帯電話、特にドコモのiモードを基軸にした展開は、世界の最高水準といっても良いほどの多機能・高品質であるにも関わらず、世界市場では全くといっていいほど受け入れられてません。日本国内ではiモードをベースにして様々な商業利用形態が発展し、今や日本のケータイは一種の「文化」といってもいいくらいでしょう。ドコモもいっときはiモードの国際戦略を打ち出し、オーストラリアのテレストラやイギリスでもライセンス契約をしたらしいのですが、商業的には全く不評で、2007年段階で早々に打ち切られています。他にもオランダ、ロシア、ドイツが提携しましたが、これも打ち切られています。

 なぜか?全く売れなかったからです。もうお話しにならないくらい利用者数が少なかったようで、オーストラリアでも、iモードが始まったという噂は聞いたことがありましたが、一向に盛り上がらず、知らない間に始まって知らない間にひっそりと終ったって感じです。

 では、なぜそんなに売れないか?ですが、これは技術的なことに関わるようです。僕も細かなことは分らないのですが、iモードというのは携帯電話とインターネットを融合させた、それはそれは先駆的な技術らしいです。しかし、その実行にあたっては世界オープンなものになっていません。インターネットといっても、NTTドコモ(ないし主催電話会社)が認定した公式サイトしかダメで、その代わりドコモが料金徴収代行をするということで一種の囲い込みがなされています。周囲に塀を巡らすことでセキュリティを確保し、内部で高密度に繁栄するというやり方です。しかし、こういうやり方(=閉鎖環境を作って中で高度に繁栄する)という発想そのものが世界ではアウトなのでしょうね。オープンでないものには人気が乏しく、契約者も少なければ、参加企業も少ないという、だから盛り上がるどころか、ほとんど始まりもしないうちにコケたという。今、世界ではiモードのライバル規格であるWAPとMMSが世界規格になっています。

 一方、「文化」にまで達した日本携帯はその後も独自の発展を遂げ、今となっては世界の携帯電話から完全に「生態系が違う」くらいになってしまった。そのあまりの生態系の違いから、まるでガラパゴス諸島にいるユニークな動物達と同じであり、日本の携帯がガラパゴスと呼ばれるようになったとかなんとか。そしてガラパゴスは何も携帯電話に限ったことではなく、あらゆる日本社会のシステム、文化、ひいては日本という国家社会の存在それ自体がガラパゴスではないかという指摘がなされるようになったのだと理解しています。

 まあ、世間でどう言われているかは別として、僕もこのガラパゴス説には基本的に賛成です。もうガラパゴスどころか、異次元世界、「不思議の国のアリス」と呼びたいくらいです。それが良いかどうかは別として、日本にはどこかしら「根本的に違う」という感じがあります。

外延を仕切って内部の完成度を上げていく発想

 ところで、今このテーマをどれだけ書こうか迷ってます。店を広げ始めたら、この「海外選択シリーズ」以上のシリーズになってしまいそうです。しかし、それだとシリーズの本旨に外れるし、うーん、どこまで抑えて書くべきか。ま、適当に書いてみましょう。

 オーストラリアの事を書いても、移住のことを書いても、何を書いても、結局全部日本論に跳ね返ってくるのですね。どのようなテーマにおいても、「これに対して日本では」という視点設定が出来るから、ついつい考えてしまうし、書いてしまう。大体、こんな日本語で文章を作って、日本人が読んでいるという環境でモノを書いていれば、どうしてもそうなってしまいますよね。もうこのホームページも、いい加減日本語を止めて英語で書こうかなという気もしたりするのですが、そうなれば世界相手に書くので、「日本では〜」という発想やコンテンツはさくっと消去することになり、これにかわって「オーストラリアでは〜」という視点で書くようになるでしょう。それもいいですよね。それはともかく、今は日本語で日本相手に書いてますから、どうしてもそういう発想になってしまうという話です。まあ、そもそも自分が日本人ですから、無理にそれを抑えることもないのでしょうが。

 前回までに述べたオーストラリアと世界の近似性が、まるで合わせ鏡のように日本に関しては全て鏡像反転します。もうイチから十まで真逆だといっていい。歴史が浅くて、植民地あがりで、西欧圏・英語圏で、移民が多く、国是として世界市民的で、国民の平均海外体験量が多いオーストラリアと、歴史が長く、他国との接触の歴史が極端に少なく、独自の言語圏で、移民も極端に少ない(出るのも入るのも)、国是としてナショナリスティックであり、国民の平均海外体験量も非常に少ない日本とでは、何から何まで逆といっていいでしょう。

 しかし、事柄は単に環境の差に尽きるものではないでしょう。その環境によって育まれていく思考・発想方法というか、情報処理アルゴリズムの基礎ルールも違う。例えば動詞(結論)が最後にくる日本語構造とか、小→大ではなく大→小に流れる(目的・標的が最後に来る)住所表記や名前の構造とか。そして、これらの差は、何を快と感じ、何を不快と感じるかの趣味嗜好にまで深い深い影を落としてような気がします。

 古来、日本には箱庭文化があったと言われます。小さく囲った世界に熱心に手を加えることによって独自の空間美というか、”世界美”みたいなものを構築する。哲学者が何かを真剣に考究するように、空間の一点に向って絞り込んでいく。その発想は内省的であり、微少なミクロの切片に全宇宙をまるまる押し込んでしまうようなところがあります。

 茶道でも、茶室というお茶を飲むためだけの家を建てるという超贅沢なことをわざわざやっておきながら、その寸法はわずか二畳という独房のような、まるでホームレスのアジトのような狭さです。なんでもっと広々としたところで闊達にお茶を楽しまないのか?というと、「この世界には主(あるじ)と客しかいない」という、まるで実験室のように人間関係を極端にシンプルにしたいという優れて哲学的な理由があるからでしょう。そこで「もてなしの心」、他者に対する思いやりや友好的な心情、さらには洗練された身体の動きなどを徹底的に考え抜いて、結晶のように高めていく。人が二人入れればそれでよく、それ以外のものは邪魔だという。もちろん、お茶にも「野立て」という数里先の山の春霞を愛でる大らかなやり方もあるので、茶道の全てがそうだというわけではないですが、やはりメインには、求道的に高めていくという性向があるのだと思われます。

 僕ら日本人の深層心理には、自分の敷地の周囲に塀を作って外部と仕切って安心するという傾向があるのかもしれません。「外延(範囲)を狭まれば内包(中身の密度)が高まる」という哲学の法則、「体積を小さくするほど内圧と温度が高まる」というボイル・シャルルの法則がありますが、まさにそんな感じで、まず外延を仕切る。閉鎖することによって安心し、内部の完成度を上げていく。だからこそ、日本人には「まず全体を見てから個別に考える」という情報処理方法を好むのかもしれません。結論を最後に持ってくる言語のSOV構造、名前よりも苗字を先に言い、部屋番号よりも都道府県を先に書く。ちなみにビジネスでの会議でも背景事情から延々説き起こす日本のやり方に欧米ビジネスマンがイライラするという話はよく聞きます。共通しているのは、まず全体を把握しないと気が済まないことであり、それは逆にいえば「容易に全体が把握できる」という前提に立っているからであり、なんでそんなに全体が簡単に把握できるのか?といえば、「最初から囲ってあるからだ」ということになるのでしょうか。

 iモードもまさにそれと同じで、とにかく外部をシャットアウトした落ち着いた環境で、ゆっくり道を究めるように全勢力を注いで育てていきたいという感性がベースにあるのでしょうし、その感性を日本人の大多数はよしとしたのでしょう。もし、ここで日本人がオージーやヨーロピアンみたいな感性の持主だったら、まずその環境の閉鎖性に、閉所恐怖症患者のような息苦しさを感じ、世界市場と同じく全く売れなかったかもしれません。世界で売れなかったものが日本では売れるのは何故かというと、突き詰めれば、この「閉鎖されること」を好ましいと思うか、不愉快に思うかの感性の差に行き着くのかもしれません。僕らは、閉鎖されてもそんなに不愉快には思わず、むしろぬくぬくした居心地の良さを感じる。

閉鎖環境を”COSY”に感じる文化

 狭苦しいけど、ぬくぬくと妙に居心地がいいさまを、英語では"cosy(コウジー)"といいます。和気藹々とかぬるま湯とかいう意味にも使いますが、シェア探しなんかでも使いますね。部屋の表現として、陽射しのよい部屋だったらsunnyと書くし、大きかったらlarge、もっと大きかったらhuge、ピカピカに綺麗だったらimmaculate、ゴージャスだったらgorgeousと言いますが、狭いし、日当たりも悪いしという褒めドコロのない部屋を「ぬくぬくして居心地がいいよ」ということで、"small but cosy"とか言ったりします。お世辞を言わなかきゃいけないけど、どうにも形容が思いつかないときに便利な言葉でもあります。ちなみに「ユニーク」なんかも便利な言葉ですね。どんなにダメダメでもこれを言っておけば不思議と褒めたような感じになるという。

 日本の文化、社会の構造、そして日本人の快不快感情の基礎には、この"cosy"があるように思います。

 そう思って見回してみたら、「狭苦しいけど快適」というものは日本には種々あります。前述の茶室がそうですし、雪原で作るカマクラなんてのもそうだと思います。「庵(いおり)を結ぶ」という言葉がありますけど、ある程度地位も財産もなした人が、ある日出家などをして、ぷいと世間から遠ざかり、世捨て人のように山や竹林の小さな家に住み始める。その財力からすればもっと豪壮な建築物でも建てられるんだけど、敢えて小さな家に住み着く。

 僕らが子供のころにやってた、原っぱに「基地」をつくるなんてのもそうでしょう。あれ、気持ちいいんですよね。膝を折り曲げ、狭苦しい空間で友達と一緒に「俺らの基地」とやってると妙に気持ちがいい。テントの中が気持ちいいのも同様。万年床に書籍が乱雑にとっちらかっている四畳半の下宿やアパートの部屋も心安らぐものがありますよね。これって狭くなれば狭くなるほど気持ちが良いという対応関係にあるようで、子供の頃にかくれんぼをして押し入れや洋服ダンスに潜り込み、暗くて窮屈な空間でじっと息をひそめているときなんかもそうでしたね。最初真っ暗だったのが段々と目が慣れてくるにしたがって妙に居心地が良くなるという。

 これは何なんでしょうね。母親の子宮に戻りたい、あの何の悩みも外敵もなかった頃、100%完璧に保護され絶対的に幸せだったあの頃に戻りたいという胎内回帰願望の現れなのでしょうか?

 こういった感覚は日本人に限らず人間だったら誰にでもあるでしょうが、特に日本人にその傾向が強いように思います。閉鎖された環境にあること、狭苦しい所にいることに不快感だけではなく、温もりや安らぎを発見する才能があるとでもいうか。猫は狭いところを好み、犬は広いところを好むと言いますが、日本人は猫派なのかもしれません。狭いところに押し込められることに極度の恐怖感情を抱く閉所恐怖症というのがありますが、日本人はあまりそういうケはない。逆に広いところに置かれると漠とした不安を感じる広所恐怖症というのもあるそうですが、どちらかというとそちらに近い。閉所恐怖に強い日本人というのは、もしかしたら優秀なサブマリナー(潜水艦乗組員)になれるのかもしれません。

 だからこそ、昔からウサギ小屋と呼ばれる狭い居住環境でも拘禁性ノイローゼになったりもせず、心底ガマンできないとブチ切れて革命が起きたりもせず、そもそも選挙の争点にすらならない。それどころか異様に狭いビジネスホテルの個室や、さらにカプセルホテルのような施設でも利用者が多い。そして、江戸時代260年の鎖国も、さほど抵抗なく受け入れられたのでしょうし、逆に「開国」と開かれていくことに猛烈な抵抗運動が起こった。

同質的快感とひきこもり文化

 これは言葉を換えれば一種の「ひきこもり」でしょう。
 「ひきこもり」(英語でいえば”shut in”)のというのを狭く捉えれば、端的に自閉症であり、家族とも接触せずに自室に閉じこもり、家の敷居もまたがないという人的にも場所的にも極度に限定された状態を指すのでしょう。しかし、その本質は「外界との接触を不快に思う」点にあるのだと思います。

 そう、外界との接触には一定の不快感が伴います。なんせ自分とは違う世界なんだから、自分の思い通り進んでくれないし、未知の事柄も沢山あるから思わぬトラブルもあるし、傷つきもするでしょう。しかし、その逆に、外界との接触には喜びもあります。単純に知らなかったことを知るというのは、自分の世界が開かれ、自分が大きくなっていくという何物にも代え難い喜びがあります。それは「成長すると気持ちがいい」という本能的、動物的な快感であり、かなり強力です。まあ、どんな物事にもプラス面もマイナス面もあるというごく当たり前の話ですし、誰だってその両面を感じるでしょう。またその時々の体調や精神状態によっても感じ方は変わるでしょう。

 どちらか一方に尽きるものではないにせよ、じゃあトータルの収支勘定はどうか?という点があります。
 いろいろ外界と接触して、その総決算としてのトータル勘定が、プラスの快感が勝るという黒字なのか、マイナスの不愉快が勝るという赤字なのか、です。それが赤字決算だった場合、事業縮小・撤退に向っていくのが自然で、「ひきこもり」方向に針が振れているのでしょう。外部世界と接触しても楽しいことよりもイヤなことが多いのだったら、誰だってそれを避けたいと思うでしょうからね。

 さらに抽象化すると、「違うことを嫌い、同じである事に心地よさを感じる」(内向)、「違うことを面白く思い、同じ事を退屈に思う」(外向)という具合に整理されるかもしれません。これもそのときの気分によってマチマチだろうとは思いますが、総じて言うなら日本は前者でしょう。自分と同じであることに安らぎを感じる度合いの方が、自分と違う異物に遭遇してエキサイティングに感動する度合いよりも高いという。

 さて、ここで一気に話を進めると、日本人は日本社会や日本列島に引きこもっていると言えると思います。上に述べた狭義の「ひきこもり」における「自分の部屋」がすなわち日本であり、胎内回帰願望でいえば、日本は日本人にとっての子宮のようなものだと。はい、故郷や祖国というのは、それを「母国」と呼ぶだけあって、母親的子宮的な感覚が伴うのは当然であり、それは別に日本に限ったことではないです。しかし、それも程度の問題であって、日本の場合はそれが強い。

 「自分と同じ」という同質性や、「勝手知ったる」という部分に大いなる安らぎを感じる性向を持っている場合、そこでポイントになるのは「同じかどうか」でしょう。予想外のサプライズに出くわして「きゃー!」と楽しむのではなく、自分との同質性をこそ重視する。いつもと同じ風景が続き、自分と似たような感性・知識を持っている同質的なグループに所属し、未来についても特に大きな変化がないことを望む。

 するとどうなるか?その社会は同質性に価値をおく社会になり、その文化も同質性をベースとしたものになっていくでしょう。個々人の鮮烈な個性よりも、多数者との親和性を高く評価する社会になる。

 だからこそ、「空気を読む」ことが社会生活の基礎礼法として求められるようになるのでしょう。なぜなら、空気を読む=他人の考えていることを察知する、というまるでテレパスのような超能力が可能になるのは、自分も他人も同じようなことを感じ、考えているという同質性が前提になければ不可能ですから。そして他者の気持ちを推測するだけではなく、全体として望ましい方向に場の空気を持って行くという暗黙の共同作業が義務づけられる。同質性だけではなく親和性も求められる。

 日本人を説得するための殺し文句として「皆さんそうしてらっしゃいます」というのがありますが、「皆」というのは日本人にとっては憲法以上の規範性があり、議論においてもしばしば用いられます。「皆そう言ってるぞ」「皆に笑われているぞ」「皆はどうなの?」などなど。マジョリティの動静という、証明論理としては本来的に根拠になり得ない付帯事情が最強の論拠になりうる。ちなみに、この論法をオーストラリアなど欧米圏で言っても通用しません。「それがどうした?」と言われるのがオチです。もっと言えば、「だとしたら皆が間違ってることになり、マジョリティが間違っていたことなど天動説の昔から幾らでもある。常に間違ってきたとすら言える。皆が間違っているなら、これを改善すれば多大な恩恵を社会全体にもたらすことになり、そのメリットは計り知れない。絶好のチャンスじゃないか!」という発想になるでしょう。そのあたりは、もう全然違う。

日本人の平均的なモデル像、例えば、大学に行って、働いて、結婚して、子供をもうけ、妻は夫の性に改姓し、、というパターンが皆の基軸になるから、それからちょっとでも外れるとそれなりに面倒臭いことを言われたりもする。また、戸籍や税金その他の公的システムもそれを前提にしているので、そこから外れると手続きが煩瑣になったり不利益を被ることもある。文化においても、皆が共通に有している知識が多いことを前提にするいわゆる「楽屋落ち」が多くなる。日本人だったらよく分るけど、外人が見てもさっぱり分らないという。誰もが完璧な日本語を喋るという前提が無意識にあるから、日本人同士でも些細な日本語の言い間違いが笑いのネタになる。時系列的にも同質性を求めるから、同じ所に就職したら定年まで勤務し続けられることを退屈だとは思わず、安定といって尊び、またマンションの入居などにおいても同質性が高くサプライズ要素の少ない人(公務員など)は歓迎され、外国人はお断りになる。

 これが嵩じていくとナショナリズムに行く着くように思われます。ナショナリズムというのは、変形・強化された自己愛だと僕は思うのですが、自分と同じこと(民族の自同性)に価値を見いだし、自分と違う人間や考え方を排斥するわけで、「違う」ことに対する不快感が非常に高まっている状態だと言えます。それが極限まで亢進すれば、いわゆるファシズムになり、自分(=皆)と違う人間は非難されるべき人間であり、国外追放か死刑くらいの感じになる。非国民呼ばわりされ、またヒトラー時代のようにユダヤ人だけではなく、身体障害者や同性愛者をも「不完全な人間」として虐殺するようになる。とにかく「違う」というだけで犯罪なんだから。

 なんでそんなに違うものを毛嫌いするかといえば、僕が思うに、「違うもの出会ってきゃーっ!となる快感」を知らないんでしょう。子供は「ヘンなもの」が大好きで、虫でもガラクタでも好奇心キラキラ瞳で飽きもせずに眺めている。子供というのは人間の原型ですから、彼らが喜ぶものというのは、人間が本質的に喜ぶものでもあります。そう、本来、違うものは面白いです。見世物でも、野次馬でも、違うからこそ面白がれる。ワクワクする。「へー!」と驚き、感心し、納得し、そして世界が広がる。

 でも、そういう経験(異物遭遇快感経験)が少ないと、まずもってこれまでとは勝手が違う物事や状況に戸惑う。勝手が違うから、危険性についても判断できず、それが漠然とした恐怖感を生む。恐怖感が漠然としている状態を不安といいますが、不安は対象が曖昧なだけに明確な恐怖よりもタチが悪い。想像で幾らでも広がっていくから、針小棒大なデマも飛び交い、理不尽な差別や攻撃感情も起きる。エイズが世間に知られるようになった頃、電車の吊革だけで感染するという下らない話が広まったりしたし、この種の愚劣なパターンは繰り返されて止むことを知らない。

 違うもの、予想のつかないものに接するには、それなりの作法も技術も必要だし、それは経験によって身につけるべきものなんだけど、絶対経験数が乏しいとそのテクニックも身につかない。だからいきなり外人が目の前に出てきたら、もうどうしていいのか分らない。「最初はスマイル」という人類の基礎すら忘れてしまう。しまいには、いきなり外人が出てくるという状況そのものを憎むようになる。無知と未熟さが弱者意識と不安感情を生みだし、それが勝手な想像で増殖し、排他性と攻撃性をうむ。閉鎖性と排他性はよくカップリングされて語られますが、閉鎖→学習機会の低下→異物取り扱い技術の劣化→弱者意識と不安感の自己増殖→攻撃や差別(排他性)という連鎖になるのでしょう。

 ところで、ここのところ若い人が大人しいというか、あんまりメチャクチャに暴れなくなったと言われますよね。団塊の世代の頃のように大学にバリケードを組んで機動隊と取っ組み合いをするなんてことはまずない。それどころかあまり移動もしなくなり、県境すら越えなくなったとも言われます。ボストンバッグ一つ抱えて東京に出てくるという、「大きな志を抱いて京に上る」というパターンは、宮本武蔵や坂本竜馬の昔から伝統的な「日本の青年の風景」だったのですが、それも減ってきたとも言われます。その代わり、同じ世代でも同質的なグループ内とのみ接し、異質的なものとはお互い遠ざけあうとか。これは街のウワサ程度のことで信憑性の程は分りませんし、これって何も若い人だけの話ではなく、むしろ年長者にこそ深刻だと僕は思うのだけど、もし同質性への傾斜がより進んでいるとしたら、それは異文化理解力の低下という高尚なレベルとしてではなく、まずもって発現頻度の高いコミュニケーション能力の低下として発症してくるでしょう。経験量が少なかったら、そりゃあ上手くもならんでしょう。そうそう、付随する症状として「プライドが高い」というのもあるかもしれません。プライドっていわば「自分の世界」ですからね。周囲が良く見えてない人ほど、自分だけのファンタジーに浸りやすいから、プライドもまた高くなると。

COSYなぬくぬく快感と”デビルマンに変身する”快感

 何を長々と書いているかというと、日本に帰ると世界から隔離されたような感覚を抱くということであり、その本質的な理由です。

 これは僕だけなのかもしれないけど、日本に帰る度に、なんかいきなり耳栓をされたように「キーン」という音がするのですね。実際そんな音が聞こえるわけではないのですが、そんな感じ。あのー、海で泳いでいてガバッと水の中に潜ったりすると、水中だから外部の音が減殺されて、キーンとかツーンって感じになるでしょう?で、また水面に出ると、わーっと外界の音が蘇ってくる。あの感じに似てるんです。「遮断された」感覚。

 帰国してしばらくは、この違和感がつきまとってて、正直不快でもあります。体内GPSシステム(今地球のこのあたりのいるという感覚)が作動しなくなって、歩いていても地に足が着かない感じで不安すらも感じます。オーストラリアに戻るとかなりほっとしますね。水面に戻って外界の音が聞こえてきた感じがする。

 このことは前の帰省記にも書いたのですが、なんでそうなるのかな?と不思議でもありました。日本社会全体が世界に開かれてない、ひきこもってるからだろうとは思いましたが、「世界的に引きこもる」ってどういうこと?またなんでそうなるの?というところがよく分らなかった。でも、2週間くらい滞在していると、最後の方にはこの日本環境に慣れてきて、忘れていた懐かしい感覚が蘇ってくるのですね。チューニングが合ってくるというか。はて、この感覚はなんだろう?と思う間もなくオーストラリアに戻っちゃうからそれきりになってたのですが、今回、あれこれ書いてきて段々分ってきました。

 それはこれまで散々書いてきた"cosy"な心地よさです。
 冬の夜、温かい自分の寝床に潜り込んで、布団を頭までかぶせてヌクヌクしている気持ちよさ。外は吹雪。でも「お外のことなんか知らないもんね」とこのぬくぬく感を楽しむ感じ。その「知らんもんね」で、一気に外界を切って捨てるときの気持ち良さです。うざったい外の世界のあれこれは、もうマネージしなくてもいい、今ここにあるものだけでいい、それだけで十分幸福になれるという。

 それはある種の「遮断する快楽」であり、これはこれでとてもよく分ります。誰にだってそういう部分はあるし、そうやって引きこもりたくなるときもある。というか、毎日寝ている睡眠なんか、完全にブラックアウトして外界と遮断されるわけですから、定期的にそういうことをしてないと人間の精神というのは変調を来すのかもしれません。

 でも、これって楽なんですよね。日本のことだけ考えていれば良いというのは楽です。別に国際政治家でもなんでもないんだから、「日本のことだけ考えていれば」という言い方もヘンなんですけど、視界というか、世界というか、”思念界”とでも言いましょうか、何となく普通に考えているスペース感覚を狭く局限してしまうと、なにやら妙にほっと肩の荷が下りたような気がします。

 そして、そうなって初めて「ああ、俺って緊張してたんだな」というのが分ります。オーストラリアはのんびりしてて、とても良いのですが、それでもだだっ広い世界にポツンと一人でいるという感覚が抜けません。それが世界意識に通底しているのは前回まで述べたとおりですが、相当リラックスしているにもかかわらず、無意識の底の方では360度全方位に気を張ってる部分もあるんでしょうね。昔の忍者みたいというか、いつ何時、どんなことでも起こりうるという前提で生きてますから。まあ、それが普通だと思ってしまうのですが、日本に帰ってしばらく過ごすと、ストンともう一段下に落ち込むというか、「ああ、もう一つ底があったのか」というほっと安堵する気分が湧いてきます。これは表現するのが難しいですね。普通のコタツだと思っててしばらくあたって、やがて「あ、これ掘りごたつだったんだ」ともう一つ下があること、さらにワンステップ安らげることがわかってちょっといい気持ちというか。わかりますかね?

 どっかの街の、どっかのアパートに住んで、どっかに勤めて、それなりに楽しい友達も居て、仕事帰りにはレンタルDVDなんか借りてきて、家でゆっくり見ようと楽しみにしながら、暮れなずむ道をトコトコ歩き、家の近くのカンカン鳴ってる踏切を待っているような感じ。すごいミクロな「居場所」がある感じ。自分のベッドの敷き布団が、いつも寝ている自分の形にくぼんでいて、そのくぼみにすっぽり収まる感じ。村上春樹の「海辺にカフカ」に出てきた表現を借りるならば、「世界のくぼみのようなところ」。波瀾万丈で、めくるめくような冒険ストーリーもないけど、でもそれでいいじゃんという。そんなもん別に無くなって十分に幸せになれるし、何もないのが一番さ、という。

 2週間くらいの日本滞在の、最後の1日か二日くらいに、ようやくこの感覚が頭をもたげてきます。で、「ああ、懐かしいな、この感覚、なんだろうな」と思っていたという。

 日本に住んでるときは、ずっとこんな感じだから、とりたててそれが特殊な種類の感情だとは思わなかったけど、今ならよく分ります。コージーなヌクヌク感なんだと。

 そして、今ならこういうことも分る。それは確かに気持ちいいし、それも確かな人間の幸福のありようの一つだけど、それしかないわけでもない。
 それと同じかそれ以上に「広がっていく喜び」というものがあります。いわば静的快感と動的快感みたいなものであり、要はそのバランスでしょう。お布団ヌクヌクは、確かにかなり気持ちがいいけど、ずーっとそうやって寝てたら床ズレになったり、運動不足で身体を壊す。変化に乏しい単調な日々は、よほど鮮烈な意識のない限り(例えば、禅寺の作務のように)、何のためにやっているのかという本来の目的や、自分自身の主体性すらボヤかしてしまう危険がある。また、変化のない恒久的な関係は、精神の弛緩をうみ、抜本的な刷新をしにくくするし、変化のない人間関係は独特のしがらみを生む。「気持ちいい」というのは、たまにやるから気持ちいいのであって、そればっかりやってたら慣れてしまって気持ち良くもなくなるし。

 日本から戻ってくるとき、いつも関空発で早朝はブリスベン(最近はGC)を経由して一旦機内から降りるのですが、そこでオーストラリアの強い陽射しと異様にクッキリした風景を見る度に、これまたホッとするというか、「目が醒めた!」くらいのシャキッとした感覚を抱きます。これはこれで非常に気持ちが良く、また「世界のなかで一人ぼっち」に戻るのだということで、身体や精神の機能がフル活動しはじめる快感があります。英語脳もREADYになっていくし。アニメっぽく言えば主人公が変身していくような、不動明が本来のデビルマンに戻っていくときのようなアドレナリン的心地よさがあります。筋肉とかがばっと分かれて、背中から翼が生えてくるような感じといったら大袈裟すぎますが、それに似ています。離陸前の戦闘機のコクピット的感じ。いわば精神のアイドリングが上がっていく感じで、あんまり気持ちいいから顔が笑ってきてしまう。


「閉じること」の選択とその陥穽

 さて、ガラパゴス携帯と世界遮断の話でした。

 そうなんですよ、なんで世界遮断が起きるのかですが、結局の所、社会も経済も人々の精神波長も、コージーな同質的快感にシフトしているからそうなるのでしょう。現代の日本が日本であるのは、世界を遮断していて閉じているからこそなのでしょう。塀で区切った小さな世界に、情熱を傾けて完成度を高くしていくという箱庭文化。意識的であれ、無意識的であれ、「閉じること」「同質的であること」をハッキリと選択しているからだと。これは事実上の単一民族、単一言語だから自然とそうなっているだけではなく、日本民族総体の意思として、集合的無意識のようなものとして、そうあることを選択しているのでしょう。「環境」ではない、「意思」だと。なんというか皆の思念の力でバリアを張ってるような感じで、そのものすごい「気」の放射によりGPS信号がロストして、だから日本に帰るとキーンとするのかもしれません。

 でも、ま、それはそれで一つの民族のあり方としては、別に悪いことだとは思いません。好きなように生きればいいんだし。

 しかし、日本が今後も経済的繁栄を続けていこうと思ったら、そのままではちょっとばかり厳しい状況になっています。また、個々人の人生レベルでいえば、さっき書いたような「デビルマンに変身する快感」を味合わないまま人生が終ってしまうのは、かなり勿体ないような気もしますね。あれってすげー気持ちいいんだぜ。

 デビルマンは個人の趣味だからさておくとしても、経済面でいえば、ガラパゴス携帯が全てを物語っているのですが、商品や技術開発の方向性を国内の箱庭内の高性能市場に向けていても世界には通用しないということですね。あれは箱庭の中の住人の感性に基づく需要なのだから。家電で韓国のサムソンに日本のメーカーが追い抜かれたどころか、大きく差をつけられたのもそのあたりにあるでしょう。オーストラリアという第三国にいると分るのだけど、サムソンやLGの製品というのは、凄くはないけど「買おうかな」という気にさせる値頃感があります。いっときの松下ですよね。未だに日本ブランドはあるし、TVでもソニー、シャープ、パナソニックは別格的に高いのだから神通力はまだあるとは思います。が、それを有り難がって買うのは一部のマニアであって、実際の大多数のオージー消費者にとっては、そこまで高機能のものはいるのか?というと疑問だし、その品質の差は実際に見たらほとんど分らないくらいです。ちなみにオーストラリアにはもっとリーズナブルな激安ブランド(?)があり、その名も"Palsonic"(パ”ル”ソニック)というのですが、これは破格に安いのだけどやっぱり見ただけで質が劣るのが分る。でもサムソンは、日本製に伍するくらいの質がありつつ、且つ値段も含め、デザイン的にも機能的にも何となく買いやすいんですよね。僕も携帯電話は二代続けてサムソンだし。

 おそらくは国内市場が小さい韓国では最初から海外で売ることをかなり真剣に考えていたのでしょう。各国毎のマーケティングもかなりやってきたのではないかと推測されます。オリンピックのスポンサーになって巨額の投資をして知名度も高めたし。こちらで電化製品を買う場合、参考までに価格comなんぞで日本製の状況を見たりするのですが、やっぱり日本はすごい高機能ですよね。日本人だったら思わず買いたくなるような商品開発をしてるし、そこはさすが日本ですよ。でもね、これをオーストラリアで売って売れるか?というとかなり疑問です。過剰付加価値です。そんなの別に求めてないという。

 日本企業は、日本の国内市場でのシェア争いに血道をあげてきて、そのために箱庭内文化に染まりすぎたキライがあるのでしょう。まあ、こんなのは誰でも指摘するところですけど、いずれにせよ「閉ざすことによって高完成度」という日本のベクトルが裏目に出ているということで、これもガラパゴス化の一変形でしょう。

 今回は以上です。
 以下余談ですが、そういえば、ここのところ日本発の「時代を作るような新製品」というのがあんまり出てませんね。いっときのVHSやベータなど家電ビデオ、さらにハンディカムなどは、それまでプロだけがやっていた録画という行為を家庭内の行為に移す革命的な商品だったし、ウォークマンもそうです。そのレベルの製品、人々の生活様式にインパクトを与えるような製品というのが出ておらず、逆に、iPod、iPhone、iPadなど立て続けにアメリカのappleにお株を奪われてしまっている。このあたりのカテゴリーだったら、本来日本が世界に提案すべきだと思うのだけど。しかし、日本の携帯の基軸がドコモのiモードというガラパゴス規格なために、携帯電話とインターネットという一番美味しい分野では、全部アメリカはじめ他国に持って行かれてますよね。ネット分野でも海外に通用する日本企業は無いといっていい。Yahoo、Google、YouTube、Twitterなど人々の生活様式を変えるくらいインパクトのある新商品はアメリカばっかし。どっかがガラパゴスだと一蓮托生的に関連業界も引っ張られて総ガラパゴス化してダメになってしまうといういい見本です。

 なんでこんなになっちゃったんでしょうね?思うに、高度成長からバブル頃までは、日本はまだまだ世界を見ていたと思います。成長期は「追いつけ追い越せ」で世界がゴールでしたし、世界市場をしっかりと見つめていた。バブルの頃は世界のあらゆるブランド品や良いものを探して味わおうとした。問題はその後です。「失われた10年」とかいってるうちに、もうすぐそれが「失われた20年」になろうとするこの10-20年です。携帯電話と、サッカーとネットが流行りだした以降です。

 ちょっと前に、パナソニックの2011年採用予定でそのほとんど海外採用にし、日本国内採用はごく一部にしたというニュースを紹介したことがありましたが、あれは正しい方向だと思います。もうこうなったらなりふり構わず世界に売りまくらないとならないわけで、国内の箱庭なんかに関わってる余裕はないでしょう。国内シェアが0%まで落ちても、海外シェアをゲットしたらその方が何倍も儲かるのだから。

 その意味では富士通なんか面白いです。同じ富士通でも本社ではなく富士通ゼネラルという関連会社ですが、オーストラリアでエアコンを売ってまして、これが結構良く見かけるし、売れています。売り上げの3分の2は海外という海外に強い企業であり、今後こういう企業がたくさん増えることを期待しますです。もっとも富士通本社では、未だに旧態依然の院政によって社長が放逐されたり、何やってんだかって気もしますが。



文責:田村


 「”海外”という選択シリーズ」 INDEX

ESSAY 452/(1) 〜これまで日本に暮していたベタな日本人がいきなり海外移住なんかしちゃっていいの?
ESSAY 453/(2) 〜日本離脱の理由、海外永住の理由
ESSAY 454/(3) 〜「日本人」をやめて、「あなた」に戻れ
ESSAY 455/(4) 〜参考文献/勇み足の早トチリ
ESSAY 456/(5) 〜「自然が豊か」ということの本当の意味 
ESSAY 457/(6) 〜赤の他人のあたたかさ
ESSAY 458/(7) 〜ナチュラルな「まっとー」さ〜他者への厚情と冒険心
ESSAY 459/(8) 〜淘汰圧としてのシステム
ESSAY 460/(9) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(1)
ESSAY 461/(10) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(2)
ESSAY 462/(11) 〜日本にいると世界が遮断されるように感じるのはなぜか 〜ぬくぬく”COSY"なガラパゴス
ESSAY 463/(12) 〜経済的理由、精神的理由、そして本能的理由


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