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今週の1枚(10.03.15)



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Essay 454 : 「海外」という選択(その3)

                   〜オーストラリア攻略法(1) 「日本人」を忘れ、「あなた」に戻れ


写真は、ManlyのNorth Headより太平洋を望む。


 今回はオーストラリア攻略法です。
 といってもいかにスマートに永住権を取るかとか、いかにオーストラリアでビジネス展開するかとか、そーいった話ではありません。どうやったらオーストラリアを好きになれるか、あるいはオーストラリアを自分にとって居心地良く使いこなすか、という話です。

 永住権を取ってオーストラリアにやってきた人、あるいは移住対象先になるかどうか視察に来た人、将来に漠然たる期待を抱いき、その第一歩としてオーストラリアに来た人、あるいは単に数日間の観光旅行で来た人、、、いずれにも共通するのは、オーストラリアに居て楽しくなかったら全然意味がない、ということです。

 そりゃそうですよね。大汗かいて、大枚はたいてやっとの思いでオーストラリアに来たのはいいけど、毎日が詰まらなかったら、何のこっちゃ?ですよ。で、「こんな筈ではなかった」と虚しく帰国したりする場合もあろうかと思うのです。これにも色々なパターンがあるのでしょうが、僕などがぽっと思うに、対象(オーストラリア)に対するアプローチの仕方がどっかしら間違っているのではないか?と。


A環境からB環境へ

 ここで僕の脳裏にフラッシュバックのように蘇る光景があります。シドニーのNorth Bridgeというサバーブには、東京マートという日本食材(+α)の専門店があります。ずっと昔の話ですが、たまたまそのショッピングセンターの駐車場を歩いていると、マイクロバスから日本人らしき人々がゾロゾロと降りてきて、引率の方が説明をされておりました。断片的に耳に入る会話からすると、どうもオーストラリアの移住、ロングステイ、投資を考えておられる方々がシドニーの生活事情の見学ツアーに参加され、「このように日本の食材も容易に手に入ります」的な説明を受けていたようです。

 そのときは「へえ、そんなツアーもあるんだ」と思ったのですが、同時に心のどこかで微妙な違和感も抱きました。いや、不慣れな外国に暮そうというのだから、懐かしい日本の食材が手に入るかどうかは大事なことでしょう。それは分かる。分かるんだけど、「むむ?」という。なんというかな、海外旅行に出かけて、現地に着くやいなやいきなり日本レストランを探して直行している観光客みたいな感じ。これが滞在2週間目とか、胃腸の関係で日本食しか受け付けないとか、お年寄りとかいうなら分かるけど、そうでもないのに何も初日から日本食を食べなくても、という。好きこのんで海外に出かけているのに、わざわざ日本環境を再構築するようなことをする必要があるのか。

 好きこのんで来たのではない無い場合=イヤイヤ来ている場合だったら話はわかります。本当はこんなところに居たくない、居るだけで不愉快、だから少しでもその不快感を紛らわすために懐かしい日本食を、、というなら分かる。さきのマイクロバスの例でも、おそらくは純粋に投資とか転勤とか、別にオーストラリアが好きでやってるわけではない方々が多かったのでしょうね。皆さん、なんだか仏頂面してて、楽しそうじゃなかったし。一方、定年後のロングステイのように、安価に居心地良く住みたいだけなら、出来るだけ冒険的要素を少なくし、慣れ親しんだ日本的な環境を維持したいということが切実な課題になることも分かります。

 話をちょっと一般化します。
 Aという環境→B環境に変わるとき、Bに居ながらも尚もAの環境を維持したい場合というのは、Bが自分にとって不本意であるような場合でしょう。例えば東京本社勤務(A)だったのが、不本意にも地方(B)転勤になってしまった。そこで、「地方にいても東京までは特急でわずか3時間」「Bも最近は開けているから東京みたいなお洒落な店も結構あるよ」とか慰めのような会話が交わされます。あるいは、高校時代の恋人同士が親の転勤で離ればなれになったような場合、メールも電話もあるし、会おうと思えばいつでも会えるしとか言いあってるような場合もそうです。いずれもBが不本意の場合でしょう。

 しかし、好きこのんでAからB環境に移る場合、誰に頼まれたわけでもなく、義理や仕事でやってるわけでもなく、純粋に個人の意思でB環境にやってきている場合、着くや否やせっせとA環境の再構築をするのって、なんか違ってない?という気がするわけです。対象(オーストラリア)へのアプローチの仕方に違和感があるのですね。

 でも、まあ、そうは言っても、外国=不慣れな環境というのは本能的な不快感が伴います。子供の頃、不慣れな親戚の家とかに連れて行かれるのがイヤでしょうがなかったという記憶をお持ちの方も多いでしょう。動物には本能的なテリトリー感があり、それを離れると神経がささくれ立ってくるのは当然のことです。だから、対症療法や鎮痛剤として、時には懐かしいA的なものに触れて癒されるということも必要でしょう。

 しかし、それはあくまでも補助的な行動であって、メインストリームではない。メインには何が来るかといえば、言うまでもなくB環境をエンジョイすることです。もっといえば、わざわざAを離れて非A環境に行ってるのだから、いかにA(日本)とは違うか、それを鑑賞し、楽しむという部分が本体部分になる筈です。


Whignig Jap

 海外にやってきて何が一番みっともないかといえば、「日本ではこうだったのに」とブチブチ愚痴を垂れることです。こういうボケをかましたら最後、出てくるツッコミはひとつ、「だったら帰れよ」です。

 これは別に日豪に限りません。日本にやってきたインド人が「インドではこんな馬鹿なことはありえなーい!」とブツブツ言ったり、スペイン人が「スペインではありえなーい」とか言ったりしてるのと同じです。「だったら帰れよ」です。田舎暮らしに憧れて、わざわざ自分から田舎に住んでおきながら、やれコンビニがないとか、映画の上映が遅いとか、口を開けばそんなことばっかり言ってる人には「だったら帰れよ」です。自分で進んで転職しておきながら、「前の会社だったらこんなくだらない手続きはなかったとか」そんなことばっかり言ってる人へは、、、もういいですよね。おわかりですね。

 オーストラリア人だったら、殆ど誰でも知ってるであろう有名な、Whinging Pom (ウィンジング・ポム)というコトバがあります。「ブーたれるイギリス人」という意味で、例えば、Urban Dictionaryというネット版現代英単語辞書によると、以下のように定義されています。

 A person of British origin who will consistently complain about any situation that they may face. They are emotionally unable to deal with any sort of adverse condition without commenting negatively about it.
 The typical ‘whinging pom’ can be often located in such global locations such as Australia, New Zealand, Canada. Though also found in multiple other locations in high concentrations (such as the USA), they tend to countries that at least pay some lip service to their beloved monarchy.

 (直面した状況に対して絶え間なく愚痴をこぼし続けるイギリス出身者のこと。彼らは、ネガティブなコメントを抜きにしては、どのような状況にも感情的に対処できない。もっとも典型的な「ウィンジング・ポム」はオーストラリア、NZ、カナダなどの国々において見られる。高い棲息率で彼らがいるエリアは他にも多々あるが(アメリカなど)、一般に彼らは、彼らの愛するイギリス君主制に対して少なくとも何らかのお世辞を言ってくれる国々に行こうとする傾向がある)。


 ポムというのはイギリス人のことで、やや蔑称なのですが、自分達でそう使うこともあります。whinging pomでGoogle検索したら(日本語版ではなく)山ほど出てきます。そういえば、オーストラリアでブチブチ不満を述べていたら、職場のオージーに、"You are such a Whinging Jap"って笑われた人もいますね。英語圏世界では結構良く見る表現ですので、覚えておかれるといいかも。

 ということで、これは別に日本人に限ったことではなく、人間一般の通弊といっても良いでしょう。どこにでもそういう人はいるし、誰だって大なり小なり、そういう気分になるときもある。しかし、B環境にやってきたら、まずもってなすべきことはB環境に適応することでしょう。オーストラリアにやってきたらオーストラリアの良さを的確に見抜き、引き出し、自分が快適に暮らせるような環境を自分なりに整える。同じように日本にいたら日本の、田舎にいったら田舎を良さをエンジョイしなくては、何のためにわざわざ行ったのかわかりません。

 あ、ここで読者の皆さんの文章読解能力を疑うようで心苦しいのですが、僕は何も、日本食の配慮をしたらダメとか、ちょっとでもウィンジングしたらダメとか、そんな馬鹿なことを言っているのではないですよ。目の前に次々に登場する非A的環境を見てれば、「なんじゃこりゃ」「「Aではこんなことなかった」とついつい比較してしまうのは当然の話であり、愚痴が不満が出てくるのも当然の話です。また、そこから文化比較や深い理解が芽生えてくるのだから、大いにやればいいです。ただし、Whinging Pomの定義のように、「愚痴のための愚痴」「そればっか」というのがいかがなものか、と言ってるだけです。A環境再構築は必ずしも悪いとは思わないし、必要ですらあるけど、殆どそればっかりやってたら意味ないんじゃない?ってことです。「そんな人はいないよ」って思われるかもしれないけど、これが結構多いように思うんですよ。だから書いているのです。


環境を変えたら自分も変わる〜精神の新陳代謝

 ここまでは一般論として分かると思うのだけど、さらにもう一歩突っ込んで言えば、Bの良さを最大限享受するためには、自分もまた変るべし、ということです。といっても、何もオーストラリアにきたらオーストラリア人になれとか、力まかせなことを言うつもりはありません。そりゃなれたら楽だろうけど、いきなりは無理だし、いきなりじゃなくても無理でしょう。また僕もいわゆるオージーになるつもりもないです。ただ、Bのシャワーを浴びて、自然に自分のBの要素を取り入れて変わっていけばいいよ、少なくともBのシャワーを浴びることを嫌がったり、恐がったりしない方がいいよ、ということです。別に難しいことではないです。人間としてバランスの取れた健康な心身を持っていたら、普通、自然に変わります。普通にしてたらいいだけです。

 なぜなら、僕らの人格やアイデンティティ、性格や嗜好というのは、そんなに岩盤のようにバーン!と確固としたものではなく(そう思いがちだが)、波間のクラゲのように絶えずゆらゆら揺れているからです。過去の経験や学習効果で、常に常に微調整されています。Aという新しい経験をすれば、それがフィードバックされて微妙に変わる。それが続けば徐々に大きく変わっていく。例えば、波長の合わない上司や先輩に囲まれ、小突き回されたり、馬鹿にされたりしていれば、どうしてもうつむき加減になり、暗い性格になりがちです。しかし、移動で違う環境になり、良い人々に恵まれたら、「すっかり明るくなって」とか言わたりするでしょう。数ヶ月程度の経験ですらそこそこ変わるのだったら、生まれてこの方ずっとAという環境だったら、A的な人格になっても不思議ではないです。でも、そんなの所詮は経験数という数の論理で、新たにBという経験が積み重なり、数で勝るようになれば、B的な人間になります。

 それが精神の健康な新陳代謝ってものでしょう。経験→学習→適応ということを秒単位で繰り返し、常に現実に対して最適状態を保とうとするのは、生物に備わった生存本能・適応本能です。「あれ?○○ってこんなだっけ?」「おや、意外と○○じゃないか」と過去のデーターをアップデートすることで、ものの見方も変わるし、その変化が一定積み上がれば、そもそも情報処理の方法(つまりは人格)も変わる。あったり前のことです。

 オーストラリアに来れば、自然とオーストラリア的になっていく。それが一番自然で、一番効率がいいです。だから、妙にジタバタしたり、構えたりせずに、自然にしてたらいいです。簡単なことです。

Forget JAPAN!  幻想の日本アイデンティティ

 ということで、旅行、移住、ワーホリ、なんでもいいですけど、あなたが好きこのんでオーストラリアにやってくるなら、とりあえず、Forget Japan!です。まあ、わざわざこんな掛け声をかけなくたって、自然にしてたら自然に変わる筈です。

 ところが、この「自然に」というのが、人によっては難しく感じられるのでしょうか、オーストラリア環境に晒されるのを妙に避ける人もいます。今まで慣れ親しんだ日本の常識とは違う局面に遭遇すると、こんなのありえなーいといって全面拒否!みたいな。何をするにも日本でのモノサシを基準にしてやっていくから、至るところで壁にぶつかる。日本的な生活術にこだわり、ベタベタとパッチワークのように日本での生活環境を再現しようとする。それじゃオーストラリアに居てもあんまり楽しくないんじゃないかな?

 まあ、日本人が日本人のライフスタイルにこだわるのはある意味では当然だろうけど、でも「だって日本人なんだからしょうがないじゃん」というのが万能の免罪符になるわけではない。だいたい、僕やあなたが持っている「日本人」というアイデンティティだって、掘り下げてみれば怪しいものです。何を持って日本人だというの?国際法上の国籍という身分やカテゴリー以上に、日本人としての実質は何なのさ?というと、これが曖昧でしょ。生まれ育って昨日まで生きてきた環境、つまりは「慣れ親しんだ環境」がたまたま日本だったから、日本って言ってるだけじゃないのか。だから、重要な要素は「慣れ親しんでいるかどうか」であり、日本であるかどうかではないでしょ。

 そんな日本人、日本人というなら、なんで和服着ないの?なんで邦楽(J-POPではなく琴や三味線)聞かないの?なんで日本家屋に住んでないの?日本の伝統文化や芸能についてどれだけ知ってるの?明治維新・文明開化で見られるように、そういった過去の生活習慣へのノスタルジーを一切スパッと断ち切る思い切りの良さ、環境変化への適応性の高さこそが、世界に類をみない日本人の特質じゃないの?だとしたら、環境が変わってもそれを受け入れられず、連綿と過去の環境を懐かしがっている人は、その本質において非日本人じゃないの?

 そこまで大上段に振りかぶられても困る、ここで言ってるのは、2010年3月現在、普通に日本に住んでるマジョリティの日本人の普通の感覚のことだと言うかもしれません。ふーんふーん、じゃ言うけど、「普通の日本人」はオーストラリアに来ないよ。旅行で来るかもしれないけど、移住はしないよ。ワーホリだって毎年1万人足らず。日本の18-30歳の人口は大体1500万人くらいいるだろうから、1500分の1。超々マイノリティでしょう。移住、永住においてはその比率はさらに減り、平均的な日本人からしたら、「ものすごーく変わったヤツ」なのだ。つまり、日本を離れると決めた時点で、もうあなたは「普通の日本人」ではないのだ。普通の日本人とやらがどっとオーストラリアに来るなら、オーストラリアの全人口は6倍になり、オーストラリア人の6人に5人は日本人という状況になってるって(そもそもビザが出ないけど)。普通の日本人じゃない奴が日本を振りかざしたって説得力ないっす。

 だから、Forget Japan と言ってるわけです。
 日本じゃないところで日本を振りかざしても、現実を打開するパワーにはならない。皮肉なことをいえば、日本にいながら日本を振りかざしても、現実変革力がないことに変わりはないんだけどさ。それはともかく、このテのウィンジングをいくらカマしても、周囲の人間から嘲笑されるだけ、自分の不幸感を浮き立たせるだけというネガティブな効果しかないから、ほどほどにしておいた方がいいよと。

あなたは”あなた”になればいい

 じゃあ、日本のハグレ者になってしまい、オーストラリア社会にも馴染めない私はどうしたらいいのか?といえば、話は簡単、超簡単。あなたになれ、と。あなたはあなたで何の変わりもないです。あなたはあなた以外の誰でもないのだ。それだけのことなのだ。

 やれ日本人だ、オーストラリア人だ、○○人だとかいうけど、あんなの幻想、思いこみ。たまたま生まれたときから周囲に日本語喋ってる奴ばっかりいたから、自然と日本語を覚えた、それだけのことでしょ。これが狼に育てられたら狼少女になっていたわけだし。でも、狼に育てられようが人間は人間であるのと同じように、日本にいようが、オーストラリアにいようが、あなたがあなたであることに変わりはないです。自分のアイデンティティを、自分以外のモノに求めるのを止めたらいいだけの話です。人によってはツライみたいだけど(有名企業のエリート社員というアイデンティティを外したくないとか)、でも生まれてきたときにはそんなもんなかったんだから、元の自然の姿に戻ればいいだけ。それだけ。逆に押しつけられるとイヤでしょう?たまたま入社した会社で、「○○社員としての誇りと自覚を持って」とか朝礼でお説教されても、「そうだ!俺は栄光の○○社員なんだ」とは素直に思えないでしょ?「うるせー、俺は俺じゃい」って思うでしょう?それでいいんですよ。

 ここでいう、Forget Japanの意味は、忘れかけていた自我、ワガママで、獰猛な自我を取り戻せってことです。
 赤ん坊の頃、おそらくは周囲の迷惑考えずギャーギャーピーピー泣いていたであろう自分です。

 ガンコで、気まぐれで、意地っ張りで、負けず嫌いで、気分屋で、三日坊主の浮気者、、、剛直性と柔軟性を兼ね備えた=人は誰でもそうだが=自分です。「私はそんなに変われない!そんなに柔軟になれない不器用なんです」って言うかもしれないけど、気まぐれとか、気分屋とか、三日坊主とか、、、これぜーんぶ「柔軟に変わっている」証拠じゃないですか。すぐ気が変わるから気まぐれでしょ。今泣いたカラスがもう笑ってるから気分屋なんでしょ。ダイエットも英会話も初期のモチベーションが続かないということは、要するに気が変わってるんですよ。ほら、いくらでも変わってんじゃん。

 それが第一歩。日本にも、オーストラリアにもこだわることはない。こだわるべきは「自分」、それに「幾らでも変化しうる自分」です。速やかに目の前の現実を把握し、敏速に自我をアップデートし、逞しく、したたかに環境に適応し、しぶとく生存していこうというケモノのとしての自分です。

 自分の環境適応能力をもっと信じてやれば良いと思います。何となく思っている以上に、あなたは遙かに強いですよ。それに気づきなはれと。せっかく生まれ持った超能力があるんだから、使ったらいいじゃん、って。

 この潜在能力を縛り付けている呪縛(思いこみ)を打破できるかどうか、それが現地に住み始めた第一の関門なのでしょう。これまで暮してきた日本環境において適応したパターン、「私は○○でないとハッピーになれない」というのは単なる思いこみである場合も多いです。環境という前提条件を変えてやったら、これまで想像したこともないハッピーになるパターンがあったりします。「ネット環境やTVがないと死んじゃう!」というのも思いこみである場合が多く、しばらくラウンド旅行などをしてたら、ネットやTVが無いからこそ凄く気持ちいいってこともあるのですね。毎日30分も歩いて通勤するなんてありえない!と思うかもしれないけど、しばらくやってれば足腰が強くなって、むしろ歩くのが楽しくなって、一日で一番好きな時間になったりもします。もう信じられないくらい人って変わりますよ。

 性格とか嗜好だけではなく、身体面でも変わって、食べ物の好き嫌いが変わったり、アレルギーが治ったりとか、よくある話です。虫が嫌いなんてのも変わる人も多い。僕もそうですが、慣れてしまえば「なんでこんなもんにビビってたんだ」と不思議な気持ちになります。大体子供の頃には虫取りとかやってたくせに、一体いつから嫌いになったんだろう?と。だから、「変わる」というよりは、「戻る」んだと思います。

 ただ、その適応能力を縛り付けているのが、旧A環境によって形成されてきた思いこみです。この呪縛をどこかで解き放ってやらないと、なっかなか新B環境でも快適なライフスタイルが見つからなかったりします。海外にやって来て鬱になる人だってわりと多いと聞きます。特にご家族の移住につきあってやってきたような場合、ダンナや子供は会社や学校という行くところがあるからまだ気も晴れるが、一日ずっと部屋に閉じこもっていたら、これはシンドイと思います。かといって行くところもないし、外に出てても英語が分からないから苦痛なだけだし、と。

 ひとりぼっちでやってきたワーホリさんが時としてバーンと弾けているのは、着くや否や有無を言わさず、自分のA的な思いこみや常識をぶっ壊されちゃうからでしょう。一瞬「うわあ」と思うが、すぐに慣れる。気持よくキレイに壊された方が、再生はスムースです。


 ちなみに最初っからこの種の呪縛が薄い人達がいます。物心ついてから、「俺は俺じゃ」とふてぶてしく生きてきた人達です。どのような集団に所属しようともアイデンティティが染まらない、いくら朱に交わろうとも赤くならない人達。いわゆるB型的な人達です。他人の思惑なんかカンケーねーよと嘯(うそぶ)いて、我が道を行くB型。何を隠そう僕もバリバリB型気質ですし、こういう人達は最初から呪縛が少ないから(全くゼロということはないけど)、馴染むの早い場合も多い。

 もう一つのカテゴリーは大阪人です。大阪人は日本人じゃないですからね。周囲を見て自分をあわせるのではなく、他人と違ってないと気が済まない、人前で面白いこと言って目立ってナンボの大阪人。普通の日本人が遠慮のオブラートに包んで生々しいお金の話を避けるのに、「これ、なんぼしたん?」とズケズケと聞く大阪人。

 海外にいる日本人は、B型が多い、大阪人が多いとかよく言います。本当のところは統計があるわけでもないので(あるのか?)分からんのだけど、結構そう言われることがあり、それは分かるような気もしますね。B型や大阪人は、その我の強さにおいて、平均的日本人よりもずっとグローバルスタンダードの地球人に近いですから。ということは、この地球には日本産のB型なんかメじゃないくらいの超B型や、超大阪人がうじゃうじゃおり、それが世界の平均だということです。面白そうでしょ?

 でも、本当に大阪人やB型が多いのかどうかは僕の生活実感としてはよく分かりません。「おはなし」としては面白いですし、そう表現した方が分かりやすいのですけど。ただ、僕の実感としては、同じ大阪人でも、大阪ナショナリズムに燃えているような土着傾向の強い大阪人は、逆に馴染めないような気がしますね。大阪以外では生きていけへんみたいな感じ。大阪ナショナリズムがいかに強大であろうとも、それすらを打ち倒すくらい圧倒的に傲慢で強力な自我を持ってる人が馴染みやすいです。

 そんな連中ばっかりで社会生活が成り立つのか?って懸念もあるのですが、大丈夫、世界の大多数はそういう連中であり、一応廻ってますから。といっても、だからこそ世界に戦乱が絶えないとも言えるかも(^_^)。

 ただし、我の「強さ」と「柔軟さ」は本質的には別のレベルの問題です。その我の強さが邪魔をして適応を遅らせる、という場合だってあると思います。ただ、我の強い人は、自分で考えて自分で判断し、さらに周囲を気にせず実行することに慣れているので、新環境には適応しやすいんじゃないかなって思います。

 まあ、ぶっちゃけた話、船が難破して無人島に漂着した数十人の人々のうち、最後まで生き残るのは誰か?みたいな話です。火の熾し方とか毒キノコの見分け方といういわゆるサバイバル技術もあるのでしょうが、メンタル面における強さですね。目の前の現実をストレートに直視し、的確に把握し、必要なことを必要なときに必要なだけやっていけるかどうか、です。そのとき、「おうちに帰りたい」「日本ではこんなことありえない」とか言ってたって現状打開の役には立たないということです。

 というわけで、シドニー空港に降りたったら、スパッ!っと音がするくらいの潔さで、ゼロリセットしてください。

 以下次回。


文責:田村


 「”海外”という選択シリーズ」 INDEX

ESSAY 452/(1) 〜これまで日本に暮していたベタな日本人がいきなり海外移住なんかしちゃっていいの?
ESSAY 453/(2) 〜日本離脱の理由、海外永住の理由
ESSAY 454/(3) 〜「日本人」をやめて、「あなた」に戻れ
ESSAY 455/(4) 〜参考文献/勇み足の早トチリ
ESSAY 456/(5) 〜「自然が豊か」ということの本当の意味 
ESSAY 457/(6) 〜赤の他人のあたたかさ
ESSAY 458/(7) 〜ナチュラルな「まっとー」さ〜他者への厚情と冒険心
ESSAY 459/(8) 〜淘汰圧としてのシステム
ESSAY 460/(9) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(1)
ESSAY 461/(10) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(2)
ESSAY 462/(11) 〜日本にいると世界が遮断されるように感じるのはなぜか 〜ぬくぬく”COSY"なガラパゴス
ESSAY 463/(12) 〜経済的理由、精神的理由、そして本能的理由






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