今週の1枚(10.02.22)






ESSAY 451 :「蟲師」 〜エコと癒しの妖怪譚


 写真はNorth Sydney



 ふとしたキッカケでアニメ作品の「蟲師」を見ました(原作も読みました)。最初は、「ふぅ〜ん」で見ていたのですが、段々と引き込まれ、、最後にはフェバリットになってました。こ、これは凄い!と。

 何が凄いかというと、完成度の高さ。おっそろしく高いです。
 「非の打ち所がない」とまで言ったら褒めすぎかもしれませんが、「ああ、もうちょっと○○だったらなあ」という部分が思いつかない。

 というわけで、以下、「蟲師」について熱く語らせていただきます(^_^)。
 既にご存知の方は、「け、何を今さら」でしょうし、逆に、「マンガ?アニメ?興味ねーよ」という人もおられるでしょう。そういう方は、傷の浅いうちにこのあたりでお引き取り下さいまし。



 「蟲師」は「むしし」と呼びます。慣れたらどってことないけど、最初は「ムシシ?変なの」と違和感があります。漆原友紀さんという山口県出身の女性の漫画家の作品で、雑誌初掲載は1999年「アフタヌーンシーズン増刊」ですから、10年以上前の話です。月刊アフタヌーン誌に移り、2008年まで隔月連載。単行本は10巻あります。もっと描いて欲しいけど。

 アニメ放映は、2005年10月以降(26話)ですが、この放映時間が(地方によって異なるけどおしなべて)27時とか超深夜。視聴率が期待できないってこともあったのだろうし、「分からんヤツは見なくてよし」ってところもあったのでしょうが、こういう深夜番組というのは制約が少ないので、いい意味でマニアックでとてもなくクオリティが高いものがあったりしますよね。蟲師もそのひとつでしょう。

 講談社の漫画雑誌「モーニング」の二軍的存在な「月刊アフタヌーン」、さらにその補佐的な存在である「シーズン増刊号」という、登竜門といえば聞こえは良いけど、メジャーシーンからみたら辺境から原作がスタートし、アニメ化されたといっても27時という超深夜枠での放映という、非常に地味なところからひっそりと始まっていったわけです。

 特にメジャーブームになることもなく、キャラクター商品やメディアミックス・タイアップが満載ということもなく、ひたすら作品のクオリティでじわじわと人気が出て、原作は、2003年文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞、2006年度講談社漫画賞一般部門受賞、文化庁日本のメディア芸術100選マンガ部門に選出され、アニメの方は文化庁メディア芸術祭「日本のメディア芸術100選」アニメ部門でエヴァ、ナウシカ、ガンダムに続いて堂々の6位入選。2007年にはオダギリジョー主演の映画も封切られています。

 大体、本人からして、受賞作をポストに投稿したあと、自分の才能に見切りをつけて就職活動を始めていたというだから(第一巻後書き)、殆ど誰からも期待されず、うち捨てられていた物語だったのですね。ダイヤの原石が路傍に転がってるようなものだったのでしょう。ところが日本の出版業界やメディア業界はまだモノを見る目があり、めでたく受賞作になり、アニメ化もします。また、このアニメが、後でも書きますが、古き良き日本の職人芸の集大成のような、ほとんど意地クソになって作ったようなクオリティです。本人も諦めかけていたものを、周囲の人々がよってたかって彫磨(ちょうたく)していったわけで、日本はまだまだ捨ててもんじゃないな、と思いましたね。それと同時に、まだまだ路傍に転がっているダイヤの原石は沢山あるのだろうなとも思いました。それはあなたの机の引き出しの中に眠っているかもしれない。

「蟲師」の世界

 あらすじや設定、登場人物などの説明は、非常に難しいです。だってよく分からないんだもん。
 主人公はギンコという妙な名の、年の頃なら30歳前後?の、髪が白くて目の碧い男性です(名前や容姿の由来については作品中のエピソードで明かされます)。この人が「蟲師」です。このギンコが、日本とおぼしき山野を放浪し、さまざまな怪異に出会い、あるときは解決し、あるときは何も出来ずに見るだけだったり。それだけっちゃ、それだけの話です。

 この物語の本当の主人公であり、核となるコンセプトは「蟲」です。
 蟲というのは、原作者漆原氏の独創で、動物や植物よりもはるかに生命の根源に近い、いわばアメーバーのような原生生物です。あまりにも原生的なので、ほとんど自然現象のように見えるのだけど、生命体ではある。「我々とは、あり方の異なる生命だ」と作品中、簡潔に説明されるだけです。これらの蟲の生命活動は様々なパターンがあり、場合によっては人間の命や生活に影響を及ぼす。その意味では妖怪・怪異話に近いのですが、しかし、蟲達に悪意はない。「それは、ただ、あるようにあるだけ」とこれ又作品中に簡潔に説明されますが、雷や地震などの自然現象がそうであるように、人間に対して敵意も悪意もない。

 蟲師はギンコの他にも沢山おり、生まれつき他人には見えない蟲が見えるという素質があり、蟲の生態を研究し、人害をなすときの対処法などを書き残し、後世の蟲師に伝える。蟲師は、ある者は村に定住し、ある者はギンコのように生来蟲を呼ぶ体質の者は生涯山野を放浪し、ときとして人々を救い、あるいは薬剤や対処法を伝授し報酬を貰い、あるいは珍しい品を好事家に売る。

 はい、これが物語の設定であり、全てと言ってもいいです。言葉で説明されたら、なんのこっちゃかよう分からんと思いますが、作品を見ると、何の疑問もなく、すっと頭に入ります。頭に入るというよりも、「腑に落ちる」感じ。「ああ、そういうことってあるんだろな」と、違和感なく心に入っていく。不思議な感じがしますね。

 しかし、こんなあるんだか無いんだかわからない、曖昧なコンセプトで独自の作品世界を創造しろというのは、超難しいですよ。「あり方の異なる生命」といっても、その「あり方」の実態やバリエーションを考えるだけで、途方もない想像力+創造力が必要でしょう。実際、「よくそんなこと思いつくな」と感心するような蟲の「あり方」がこれでもかと登場します。例えば、「旅をする沼」(何万年も生きている水状の蟲が、死期を悟って海に向って移動する)、例えば「静寂を喰う蟲と音を喰う蟲」、「宿主の夢の中に住み、現実世界に出てくるとき夢の内容を現実に伝播する蟲(夢野間、いめののあわい)」、虹が龍のようにくねりながら上っていく虹蛇(こうだ)、などなど。

 このようにぶっ飛んだ着想を抱く困難さが第一関門だとしたら、第二関門は、「ああ、そういうことってあるかもね」とありえない感覚を読者・視聴者に持たせてしまうことです。超常→普遍への着床です。この第二関門がダメだと、「け、ばっかばかしい」で終ってしまうでしょう。それをいともあっさりと(あっさりではないのだおうが)クリアして、ストンと納得させてしまうところが凄い。いや「納得」というような頭脳的な感じではなく、不思議とそんなことが気にならなくなるって感覚的なものです。いずれにせよ、要はどれだけ説得的な世界観を構築し、観るものをその中にスッと入らせるかどうかってことでしょう。「不思議の国のアリス」のワンダーランドみたいに、僕らが日常生活でしがみついている常識とか、固定観念をポーンと吹き飛ばしてくれるような「異なる世界」を確固たるものとして作らないとならない。ここがショボイと、全体にチャチな話になってしまう。

 その異空間へのワープ方法として、ここは未来社会ですとか、アマゾンの奥地ですとか、魔女や魔法の世界ですとか、いろいろな説明や設定がなされるのですが、「蟲師」にはそのあたりの異郷性はありません。むしろ日本人の故郷、原風景ともいうべき、懐かしさすら感じるような普遍的な山河や村落が舞台になっています。かといって「ゲゲゲの鬼太郎」みたいに妖怪が普通に歩いてたりするわけでもないし、「日本昔ばなし」のように現代から隔絶された古い世界というわけでもない。人々は和服を着て、昔ながらの家と器具を使い、文明開化前の江戸時代のそれのようですが、主人公のギンコだけがコートにズボンという洋装であるというワケのわからなさです。作者によると、「江戸時代と明治時代の間にもう一つ時代があったような感じ」らしいのですが、ほんとそんな感じ。そうかといって時代劇っぽくもない。喋り言葉はまるっきり現代語だし、時代劇ががった部分は全くない。そしてこういった時代設定や状況設定に関する説明は一切ありません。そういえばそこが日本であるという説明もない。それどころか、登場人物の名前が、ムジカとか、シンラとか、スイとかあまり日本人っぽくない(原作者によれば敢えてそうしているらしいが)。大体主人公のギンコにしたって、苗字なんだか名前なんだか遂にわからない。

 しかし、蟲師において構築された世界は、あまりに心地よく、あまりに気持ちいいからどんな荒唐無稽な話が語られようとも、「うん、許す」って気分になってしまう。圧倒的な気持ち良さに浸ってしまえば、「いいじゃん、別に、そんなことは」って気分になってしまうという。なんでこのアニメがそんなに気持ちいいのかは、また後で書きます。

 第三の関門は、一作一作の物語性です。「不思議だけど懐かしくて気持ちいい世界がありました」だけだったら、「おはなし」にならない。その世界に人々を登場させ、起承転結などドラマツルギーに則って話を転がしていかねばならない。この種の超常的・異形モノの世界では、桃太郎パターンが原型です。異形の怪物が人々を困らせ、正義の味方がこれを退治するというパターンが多いです。大体これですよね。古くはヤマタノオロチ退治、酒呑童子伝説、そして鬼太郎にせよウルトラマンにせよ。しかし、蟲師の場合はこの種の退治系とも言い難いのですね。放浪するギンコが、行く先々で、さまざまな蟲の怪異と関わりを持ってしまった人々と出会い、相応に対処しようとするのですが、常に蟲を退治したり、追い払うかというと、「どうしようもない」というただそれだけの結論で終ってしまう話もかなりの数あります。

 悪者がいました→正義の味方が登場→しかし解決できませんでした、おわり、では、観る側としてはカタルシスが得られず、メチャクチャ欲求不満が溜まります。普通だったらそんな話はありえない。蟲師の場合、しばしばこのありえないパターンだったりするのですが、何らかのカタルシスらしきものは得られるし、不満も感じない。つまりドラマの根本原理が違うのでしょう。この点も後で書きますが、とにかく物語原理が違うから、「黄門様が印籠を出してチャンチャン」という予定調和もない。だから観ていて展開も結末も全く読めない。「おお、ここで終ってしまうのか!」という話も多いです。で、それが不愉快か?というと、「ほおう」「なるほどねえ」って気分にさせられているという。

 ここで、蟲師を特徴づける二つのポイントが出てきます。一つは全編を貫く何とも言えない気持ちよさ、もう一つは物語の核となる原理です。

ナチュラルな気持ちよさ  映像編

 「ふうん」と何の気なしにこのアニメ作品を数本観わったあたりから、「これ、凄いんじゃないの?」という気になったわけですが、ボディブローのように徐々に効いてくる気持ちよさです。「手に汗握る」とかスリリングとかそういう方向ではなく、一定のレベルのピーンと張り詰めたテンションはあるのですが、徐々に心と体が弛緩していく。ものすごく上手なマッサージを受けているような感じで、一緒に観ていたカミさんなど、一本終る頃にはスヤスヤ寝てたりするくらいです。退屈だから寝てるのではなく、気持ちいいから寝てしまうという。その昔観にいった能を思い出した。

 蟲師を「面白いか?」と言われると微妙なんですよね。詰まらないわけでは全然ないのだけど、「面白い」という基準で計るべきではないような気がします。少なくともエキサイティングではないし、そういった活劇的な面白さを求めて観るべきものではない。また、見始めたら自然とそんな気にはならなくなります。他人に勧めるときも、「これ、面白いよ」とは勧めないでしょう。「これいいよ」「「これ、気持ちいいよ」って勧め方をするでしょう。

 では蟲師の何がそんなに気持ち良いのかというと、曰く言い難いのだけど、パッと思いついた言葉でいえば静脈的ですね。動脈のように血液が沸騰するのではなく、汚れた血液を静かに清めていくような静脈性がある。温度は高いと言うよりもやや低め。冷たくはないけどひんやりとした心地よさ。それに透明感もあるな。山の奥にひっそりと眠っている静謐な湖みたいな、冷たさと、静けさと、透明感がある。その種の気持ちよさです。人の心のふれあいのような「ぬくもり」といった温度高めの快感もあるのだけど、背景になっているのはクールな清浄感です。そこにホタルのように人のぬくもりが浮遊しているって感じ。あー、こんなこと言っても分からんか。

 まあ、言ってしまえば「癒し」とか「リラクゼーション」とか「ヒーリング」なんだけど、なんかこのあたりの言葉って最近余りにも多用され、陳腐化しつつあるので迂闊に使いたくないんですよね。しかし、本当の癒しってこういうことなんだろうなって思い知らされる感じはする。癒しのための癒しというか、「癒しですよ〜」って高らかに言っているのではなく、作品それ自体がもつ純度の高さが、結果的になによりも癒し効果があるという。原作者もアニメスタッフもこのあたりは意識しているような気がして、「癒し」系の売り文句は使ってないんじゃないかな。「癒し」みたいな理解のされ方はしたくないというか。でも、観ているうちに呼吸が静まり、鼓動が安らかになり、眠ってしまいそうになるくらいの癒し効果はあります。それは、多分、僕らを癒してくれる、海や空や森林などの自然が、別に人間を癒すために存在しているわけではないのと同じでしょう。

 さて、この気持ちよさは原作よりもアニメ作品に特徴的です。何が良いかって「絵」と「音」がいいです。アニメなんか絵と音で成り立ってるんだから、全部じゃんってことなんですけど、その作り込み方がハンパではない。僕自身、絵画も音楽も好きだから、ピピピとくる感じがするのですが、ハンパなレベルじゃないですよ、これ。

 まず絵です。絵の何がいいかって、普通の日本の自然の風景が美しい。グッときます。海外に住んでるから尚更だと思うのだけど、構図といい、色彩といい、胸に突き刺さってジンワリ沁みてくる絵を描いてくれます。これはもうアニメの背景画というよりも「絵画」ですね。深山のしたたるような緑の感じ、何層にも重なり合う山合の感じ、太陽を鈍く照り返している漁村の海、雪降る里の深い感じ、、、。一作に一本はこの種の絵が出てきて、ポーズボタンを押してしばらく見入っていたくなるくらいです。この絵の訴求力が、心の中に眠っていた心地よい自然の記憶を呼び覚まし、浸らせてくれる。本当にその場にいるような臨場感、、とまで言ったら言いすぎだけど、それに近いところまで喚起させてくれます。コレにやらちゃうんですよね。

 あと色彩も凄いです。その回のタイトルが毎回違った色を背景色にするのですが、この色合いが日本の昔ながらの色に感じられる。緑じゃなくて萌葱色、茶色じゃなくて小豆色、青緑じゃなくて浅葱色、、という。そして回によってはテーマとなる色があります。そのテーマとなる色とタイトルの色がリンクしてたりもします。

 ああ〜、こんなもん幾ら言葉を連ねたって分るわけないわ。学校選びと同じだわ。ということで、キャプチャーした画像を幾つか載せます。著作権協会から文句言われるかもしれないけど、これだけ褒めてるんだから許してくれい。てか、You Tubeに沢山あるんですけど。


 クリックしても大画面になりません。が、このクオリティを大画面TVで観ると気持ちいいですよ。何となく言ってる意味、わかりましたでしょうか?

 これは、「はい、ここに山の絵の背景ね〜」「はい、ここは海の絵ね」みたいな制作の仕方はしてないですよね。相当気合入れて作り込んでるように思います。あとで監督の長濱氏のインタビューを目にする機会があったのですが、やはり一作づつ全部違う色調整をしているそうで、制作側としては使い回しが一切できないのでかなりキツイのですが、スタッフもそれで行こうと。それどころか、原作者の感性の原点を共有しようといって、漆原氏の故郷の山口県に行ったり、白川郷に行ったりというロケハンまでやってます。自然がもつ質感を正確に理解し、スタッフ全員で共有するというのは正しいのですが、アニメ制作でそこまでやるか?という熱に入れ方です。

 しかしその甲斐あって、完成度はとんでもなく高くなってます。これもインタビューでおっしゃってましたが、人の動き方でもいわゆるアニメ的な誇張したものではなく、そこで自然の質感が感じられるようなもの、つまり湿った土の上を歩く場合と、雪の上を歩く場合とで表現を変える。なんせ「世界そのものを伝える」作品なので、妙にぴょこんと動いてしまったらブチ壊しになるのでしょう。他にも、昔の日本の家屋の造り、民具のありよう、その使い方、かなり細かいところまで気配りがなされています。特に日本家屋の描写は、がっしり&ひんやりとした空気感や、心地よい板の間の感触が足の裏に蘇ってきます。「ああ、こんな家住みたい、、、」って。

 人物造形ですが、これは写実的でも劇画調でもなく、それなりにアニメ的なデフェルメが施された、線の少ないシンプルな造形です。しかし、浮くこともなく背景世界にうまく溶け込んでいます。一見、そのシンプルさに惑わされて皆似てるように見えますが、実は一人一人その性格に合わせて細かな造形がなされています。特に原作者が女性だからでしょうか、女性の描き分けの方が秀でているように思えます。ただし、人物の強烈なキャラで物語を引っ張っていくのではなく、あくまで主人公は「世界」そのものですから、人物はいくら話の中心のように見えても尚も脇役です。その淡さは全作品に共通しています。でも、引っ込んでばかりではなく、人が本来的に持っている「ぬくもり」は見事に表現されています。



 他にも老若男女、様々な人々が登場しますが、総じて不快感を抱くような人物は出てきません。キツイ性格の人も出てくるのですが、おしなべてイヤミじゃない。なんでなんかな?と思ってしげしげと絵を見てると、目が優しいからじゃないかな。漫画の絵を見ると、誰の絵に似てるのかな?誰の影響が強いかな?とかいつも思ってしまうのですが、この人の絵は誰の絵にも似てない。強いて言えば手塚治虫のアニメが一番近いような気がするのですが、それは多分目のせいではないかと。目に命が宿ってるかのような。

 上の最後の画像のように、この作品にはしばしば空白背景が用いられます。どうかすると全面真っ白になったり、真っ黒になったりもします。それに頻繁にそうなります。これだけ優秀な風景作画能力と人物描写力を持ちながらバサバサ切っていって、トータルとしての印象感はむしろスカスカなくらいです。ここに、なんか強烈な意思を感じますね。クリエーターサイドからしたら、創造する苦しみよりも、むしろ削除する苦痛の方がデカイと思います。散々苦労して会心の作品ができたのに、それをお蔵にするというのはかなりツライ。作業としては簡単でも精神的には何倍もつらいでしょう。それは、汗水たらしてお金を稼ぐのは大変なんだけど、そうやって稼いだお金を燃やしてしまうのは、作業としては簡単でも精神的には何倍もツライというのと似てます。それを、よく、まあ、惜しげもなく。


ナチュラルな気持ちよさ 音響編

 ムキになって語ってたら、映像だけ大分時間を取ってしまった。次、音響です。これがねー、また、凄いのなんの。蟲師の快楽の半分は音です。
 そして音へのこだわりは、絵へのこだわりと好一対をなしています。すなわち、非常に研ぎ澄まされた音楽・音響でありながら、ギリギリまで押さえられており、全体に無音でスカスカな部分が多いこと。映像において作品毎に色調整をしているように、音楽においても一作毎にテーマ音楽が違う。オープング曲はさすがにいつも同じですが、終幕のテーマが一回一回違います。そして、ドラマ中のBGMも全編通じて流れるものもあるけど、その回限りのテーマ曲が多いです。これは画期的です。どこの世界に、26回放映で26曲主題曲を作るアニメがあるかと。

 でもって、このテーマ曲がめちゃくちゃ秀逸です。日本古来の〜、怪奇話だから〜という「らしい」「いかにも」な部分はキッパリとありません。テーマ曲といっても、イントロがあってAメロBメロそしてサビっていうわかりやすい曲展開ではない。そんな曲は一曲もない。リラクゼーション音楽に近く、現代音楽や民族音楽(インドネシア系の楽器も使ってるし)に近い。でもリラクゼーション系と違うのは、ちゃんと音に感情が乗るんですよね。そうそう坂本龍一氏が作るCMの音楽みたいなのが一番近い(サントリー「山崎」とか)。ともあれジャンル分類不可能ですが、これが沁みるんですよね。でも差し出がましくなくて、いつの間にか始まって、いつの間にか終るような淡い感じ。終ったらぱっと消えちゃう。かなり好きなんだけど、今メロディーを口ずさんでみろと言われたらすっかり忘れてる。まあ、これは聞いて貰うしかないですね。個人的には、「旅をする沼」のエンディングの太鼓というかパーカッションのリズムが好きです。オーディオ的にもセパーレーションが良く、いい機材で聴いてください。

 音楽以外の音、つまり音響(効果音)も、実は聞き込んでいると良くできてる。シンセでお手軽に作ったチャチな合成音なんか全然ない。とにかくこの作品は、人口的なあざとい要素が混入したら全てブチ壊しになるので、そのあたりは大変だったと思います。自然の音は出かけて録りにいってるそうですが、それでも「蟲が大群で移動する音」なんか作るしかないわけで、違和感なく上手いこと作ってます。

 さらにもう一つの音、声優さんですが、なにか録り方や音響に工夫をほどこしているのか、腹にズンと沁みる声です。ギンコの声もそうですが、ナレーションの女性の声がズンときますね。ドスが効いてるというか、昔の日本人の声なんでしょうか、大地にしっかり足をつけて生きていた頃の人間の声というか。台詞回しや間の取り方もさすがプロで、特に20話「筆の海」のラスト、二人の淡い交情が冬の曇天に立ち上がっていくシーンにはヤられました。軽い無駄口を交わしているようでいながら、その背後には何メガバイトにも及ぶ情感が潜んでいるのがうまく表現されてます。すごいな。うっかりしてると聞き流してしまいそうだけど。

 音編の最後にオープングテーマ曲です。これがまた「らしい」選曲です。
 「すすめ〜、ギンコ〜、蟲どもをやっつけろ〜」なんてお馬鹿なテーマ曲でないのは分かりますが、いきなり洋楽です。それも、”The Sore Feet Song"という、スコットランドはグラスゴーのシンガーソングライター(最近聞かないな、この言葉)Ally Kerrの曲です。この人それまで殆ど無名に近かったです。調べてみると、マキシシングルをリリースしたのが2002年で地元ではなくスペインのレーベル。次作のフルアルバムも本国ではなく日本で発売(2004)、翌年にようやく本国イギリス。蟲師の放映が2005年だから、その時点では知る人ぞ知るという感じだったと思います(今でもそうだが)。

 オープニング曲「The Sore Feet Song」はサイモンとガーファンクルばりの静かで温かいフォークギターの弾き語りですが、木漏れ陽をモチーフとした映像とあいまって、最初は食器用洗剤(ママレモンとか)のCMかと思ってしまった。なんで日本古来の蟲の話にスコティッシュのギター弾き語りが出てくるのか、話だけ聞いていると奇異な感じを受けるでしょうが、実際に観てしまうと違和感がなく、とてもよくハマってます。「よくぞ、見つけてきた」って感じだけど、タイアップ料が安かったのかもしれません。でも毎回26曲もエンディングテーマ曲を作曲する音楽力を持ちながら、なぜオープニングもそうしない?って気もしますが、むしろ一本調子にならず、作品全体にふくらみが出ているのは確かだと思います。

 歌詞は放浪するギンコを彷彿とさせるもので、簡単に訳すと「何千マイルも、何千マイルも歩いてきた、あなたに会うために。息せき切って歩くこの喘ぎの一つ一つ、登ってきた丘の一つ一つ、彷徨い歩いた古の土地も、全てがあなたのもとに辿り着くため」「この足の運びの一つ一つ、全ての夜と昼とを、あなたを探すために費やしてきた。砂嵐をやり過ごし、靄がかった夜明けを抜けて、ただ君のもとへ」(I walked ten thousand miles, ten thousand miles to see you. 、And every gasp of breath I grabbed at just to find you.I climbed up every hills to get to you. I wondered ancient lands to hold just you. And every single step of the way I pay. Every single night and day. I searched for you. Through sandstorms and hazy dawns I reached for you.)というものです。

 ただ、歌詞を調べてて気づいたのですが、TVでは放映されていないけど、二番があるのですね。この二番が良くて、「あなたに会うために」シリーズなんだけど、リリカルな1番と違って、「何千ポンドも盗んで、必要とあればコンビニ強盗までやり」と話は生臭くなり、さらに「飢えのためにネズミもカエルも喰い、巨大な熊とも闘って打ち倒し、ひたすら歩き回り」と極限的にハードになり、「そして疲れ果て、衰弱し、しかしそれでもあなたのために尚も強くあり続ける。本当はもう家に帰りたいんだけど、あなたへの愛がそれを阻み、尚も足を運ばせる」と続きます(I stole ten thousand pounds, ten thousand pounds to see you. I robbed convenient stores 'cause I thought they'd make it easier. I lived off rats and toads and I starved for you. I fought off giants bears and I killed them too. And every single step of the way I pay. Every single night and day. I searched for you. Through sandstorms and hazy dawns I reached for you. I'm tired and I'm weak, but I'm strong for you. I wanna go home, but my love gets me through.)

 丁寧に韻を踏んでいて、王道的な歌詞なんだけど、話がヤケクソ気味になっていき、ポロッと弱音も吐いてる二番と合わせて聞いて、はじめて曲全体の意味が分かるのでしょう。一番だけだとなんかロマンチック過ぎるというか、キレイゴト過ぎるというか、ダメダメな二番があるからこそ迫ってくるものがあります。僕も二番まで読んで、「ああ、いい歌だな」と思いました。

蟲師の物語世界  エコと共存の原理〜それはただ、あるようにあるだけ〜 


 長くなったのでもうシメますが、この物語の核にあるのは、これも言ってしまうと陳腐なんだけど、自然との共存の思想でありエコロジーです。ただし、大上段に構えてそうアジテートするのではなく、「そーゆーもんなんだから、それでいいじゃん」という、ただあるがまま自然に受け入れるスタンスです。過大な自然賛美を戒めるように、主人公ギンコは蟲への感情移入や過接近を禁じてこう言います、「あれはただ、奇妙な隣人なんだ」と。"Strange neighbours"であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 この絶妙な距離感こそが、この物語世界の原理なのでしょう。
 蟲の作用で多くの人々が死んだり、患ったりしますし、ギンコもまた蟲を払って治療をしますが、全てが解決できるわけでもなく、中にはただ手をこまねいて見ているしかないこともある。それは天災のようなもので、手に負える範囲内のものは治山治水でコントロールするけど、中にはどうしようもないものもある。

 それは、ギンコの師匠筋にあたるヌイの「恐れや怒りに目を奪われるな。それはただあるようにあるだけ」という言葉や、ギンコと気脈を通じる狩房淡幽の「蟲に侵され、蟲を愛でつつ、蟲を封じる」という生き方という形でしばしば表現されます。

 息が止るような美しい自然も、禍々しい蟲の害も、その全てが「あるようにあるだけ」なのだという認識は、エコとか共存とかいう言葉すらが邪魔臭く感じられるくらいです。このように全てを自然に受けいれる心地こそがこの作品の核なのでしょうし、それこそがこの作品の気持ちよさの原点なのでしょう。そして、オーディエンスをそんな達観めいた心境に誘うため、制作者サイドとしては異様なまでに完成度を高めなければならなかったのだと思われます。

 漫画原作のアニメというのは、普通は原作の方が凄くて、アニメになるとボルテージダウンするものが多いのですが、蟲師に関してはボルテージアップしています。核となる物語世界を全く損なうことなく、注意深く再現しています。びっくりするくらい違和感がない。監督自身述べてますが、「まんま原作と同じじゃん、監督は何をやってるのだ」と言われるくらいが理想だと。クリエーターのエゴ(自己顕示のためのユニークな演出とか)を極力排斥し、邪念(売れるために人気アイドルを起用したりとか)も廃し、1ミリもズレることなく原作世界を再現すること、その上で原作にはない「色」と「音」を膨らませることで、このアニメ作品は出来上がっています。そこが一番凄いですね。

 そういう意味ではオダギリジョー主演の映画の方は、ガッカリでした。全然原作世界と違う。別に違っていても良く、そこに新しい素敵な世界が構築されていれば良いのですが、なんというか、作品を貫く清浄感がなく、おどろな世俗感が代わりに支配してます。これはオダギリジョーが良くないとかそういうことではなく、もともと実写化には向いてないのでしょう。ギンコも蟲師の実写版というよりも、鬼太郎の実写版みたい。それに、人気のオダギリジョーを配しました、蟲のSFXには大友克洋を起用しましたという(それぞれいい仕事はしていたと思うが)、売れるための”邪念”が見え隠れする作品だったと思います。まあ、描こうとするものがまるで違うのでブータレていても仕方ないのですが、でも結局何を表現したかったの?というとよく分からないという。

 というわけでアニメ蟲師でした。
 伝統職人が細心の注意を払って素材を選び抜き、並べ直すように、およそ人の感情を逆撫でするような不快なものは注意深く取り除かれています。この作品を鑑賞してもっとも良い状態というのは、途中でスヤスヤ寝入ってしまうことかもしれません。静かな部屋で、大きくて綺麗なTVで、綺麗な音で観てください。上善如水(酒は素晴らしくなるほど水に近くなる)的な作品。




文責:田村




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