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今週の1枚(10.02.15)





ESSAY 450 : 世界史から現代社会へ(90) 韓国・朝鮮(7) 



 Hello, 日本はまだ寒いのでしょうか。せめても心づくしに、気持ちのいい写真を。大きな写真でスカッとしてください。
 Bondi Beach付近。正確言えばその隣のTamaramaですけど。



 韓国・朝鮮シリーズの第7回目です。前回は、第二次大戦後の朝鮮半島の内戦(朝鮮戦争)と分裂を見ました。今回は分裂した後の経過を。

 朝鮮戦争が膠着状態になり、北緯38度を境界線として一時休戦になります。1953年7月27日のことです( 板門店停戦協定)。
 今は2010年ですから、もう57年前のことです。よく言われるのでご存知かと思いますが、この停戦合意は最終的な決着でも休戦条約でもなんでもなく、あくまで「一時」「停戦」であって、基本的には戦争はまだ続いてます。「試合終了」ではなく、あくまで「タイム」。しかしタイムの時間が57年も続いているので、もはや事実上休戦ですけど。

 この停戦を境に、南北朝鮮は原則的には「にらみ合い」だけの没交渉のまま、それぞれに別個に発展を遂げていきます。
 とりあえずなじみ深い南方、大韓民国の戦後〜現在をみてみましょう。

第一期 1948-1960年 李承晩時代


 第二次大戦後の朝鮮半島は、亡命先のソ連から帰ってきた金日成(キムイルソン)を中核とする一派と、アメリカから帰ってきた李承晩(イ・スンマン)の一派とに分かれ、激しく対立するようになります。1946年、金日成は北方に朝鮮臨時人民委員会を設立して共産主義国家建設を推し進め、48年に朝鮮民主人民共和国(北朝鮮)建国の宣言をしてしまいます。これに対抗して李承晩は南部における建国を目指し、47年6月には南朝鮮過渡政府を設立、48年2月には彼を初代大統領とする大韓民国が成立します。

 48年に大韓民国が成立してから、1960年に建国の英雄だった李承晩が四月革命で大統領の座を追われるまでの12年間を、大韓民国の第一期(第一共和国)と呼んで区分するそうです。

 この時期はさらに、まず@李承晩が建国のために剛腕を振るった初期、そしてA50年から53年までの朝鮮戦争時期、B李承晩が独裁者になろうとしてなりきれずにコケてしまう時期の3つに分かれます。李承晩という人は、悪い意味でかなり濃いキャラだったらしく、尊大で傲慢で、反共意識に凝り固まっており、独裁者となりうる性格は備えていたのだけど、政治家としてはあんまり有能とは言えそうもないです。自己中的な感情が激しすぎて、政治家に必要な冷徹な情勢判断が出来なかったという。

 この第一期は李承晩という濃厚なキャラに振り回された時期と言ってもいいでしょう。建国時や戦時においては、この種の突出したキャラは強力な求心力を持ち得るから有用な面もあります。北に対抗するために強引に南をまとめ上げ、逆らう連中は虐殺し(済州島四・三事件など)、穏健な議会派政治家達を抑圧し、自ら大統領になり、朝鮮戦争に向います。彼にそれが出来たのも、東西冷戦という枠組みでソ連との対抗上アメリカも李承晩をサポートせざるを得なかったという国際情勢があります。

 休戦に向おうとする朝鮮戦争末期においても、李承晩だけ徹底抗戦を強硬に主張するのですが、尊大なだけで実力のない李承晩を国際社会は事実上無視し、粛々と合意に向います。大体、李承晩という人は、戦時中も誰よりも逃げ足が速く、勝ち戦になると先頭に立つというトホホな部分があるそうで、これがまたアメリカをはじめ同盟軍の脱力感をさそっていたのでしょう。李承晩抜きで休戦に向けて話が進んでいくと、李承晩は、ここがまた彼の幼児性の表れですが、無視されてスネたのか、勝手に協定違反のく捕虜釈放をし(北に送還せず)、アメリカをはじめ国際社会から「この馬鹿が、、」という非難を浴び、さらに孤立します。もとよりアメリカの力がなければ当時の韓国は成り立たなかったため、いかに尊大な李承晩もしぶしぶ休戦を認めたといいます(それでも署名はしなかったという)。

 まあ、要するにコドモなんだと思うのですが、こういった独裁者になりたい幼児キャラの李承晩が韓国で暴れて、失脚していくのが60年までの7年間といっていいでしょう。李承晩は、民主政治を求める政治勢力と対決し、強引に野党の資金源を奪ったり、釜山に戒厳令を発令して野党議員を拘束したり、憲法上定められている大統領再選禁止規定を変える憲法改正を強引に押し通します(52年)。次に任期切れが迫ると、今度は三選禁止を変えるために憲法改正案が議決されるのですが(54年)、規定の3分2に一票足らず否決されます。しかし、恐るべきコドモである李承晩(の意を汲んだ議長)は、「3分2は135.33票にあたり、四捨五入すれば135票だから3分の2に達している」という無茶苦茶な理屈で、憲法改正を押し通してしまいます。殆どコドモの屁理屈の世界です。

 そして56年、李承晩が三選を果しますが、副大統領は野党(民主党の張勉)になるというねじれ現象が起きます。そのため李承晩の与党派は、副大統領暗殺未遂事件を起こすわ、野党機関誌を廃刊にするわ、政敵を処刑するわでなりふり構わぬ弾圧をします。また、李承晩の養子が典型的なドラ息子で、ソウル大学に裏口入学するわ、オヤジの威をカサに着て警官を殴ったりやりたい放題をして国民の顰蹙を買います。そして1960年、四選目の大統領選挙では、当然のように警察権力を使ってあからさまな不正選挙工作をやりまくり、四選を果します。

 ここまできたら、さすがに韓国民のガマンも限界になります。当選の報が流れた60年3月15日、即日慶尚南道でデモが起こり、鎮圧のために死傷者を出し、デモ参加者の高校生が海岸で遺体となって発見されたことからさらなるデモを誘発します(馬山事件)。これが全国に飛び火して、4月にはソウルで数万人規模の学生でもがおき(4・19学生革命)、韓国は騒然とします。

 議会制民主主義をタテマエとするアメリカは、もともと李承晩の独裁路線が好きではなかったようですが、ついに李承晩を見捨てる決断をします。「お前が辞めないなら、アメリカは援助を打ち切るぞ」と最後通牒を送りつけます。仕方なく李承晩は大統領職を去りますが、それでも未練タラタラで、「でも元首としては残る」なんてことを言ったものだから、国民の感情を逆撫でし、学生デモに次いで市民が立ち上がり、全国的な騒動になります。李承晩の銅像が引き倒され、ナンバーツーの副大統領の家が襲撃されるまでになり、議会では満場一致で即時辞任決議が可決されます。独裁者の末路は哀れなもので、李承晩はハワイに亡命、そこで客死します。副大統領にいたっては、一家心中をしてしまいます。

 前回の末尾にも書きました、北の金日成が独裁者としての地位を確立したのに対し、南の李承晩は独裁者になりたいけどなりきれませんでした。それは南の方がより民主的な政治状況だったということもあるでしょうが、人間としての器の問題もあるとは思います。だいたい建国の英雄というのは、その後も神格視されるのが普通で、アメリカのワシントンにせよ、中国の毛沢東にせよ、ソ連のレーニンにせよ、キューバのカストロにせよ、ベトナムのホーチミンにせよ、そうです。かなり時代が経過してから後世世代に批判されることはあっても、建国後わずか10年かそこらで、しかも本人がまだ権力者である在世中に銅像が引き倒されるような事態になるのは非常にマレだと言っていいでしょう。李承晩は、大韓民国初代大統領ではあるのですが、歴史的な系譜でいえば、「朝鮮王朝の最後の君主/ラストエンペラー」であるという見方もあります。一方、そういったキャラ的な難はあるのだけど、それでも建国を行い、今日の韓国の基礎を築いた功績は大きいとする評価もあります。

   第一共和国(李承晩政権)における韓国の経済政策は、基本的にはアメリカの後押しというか、おんぶに抱っこに近いものがあります。というか、李承晩の関心事は、第一に自分の名声と権力であり、第二に反共と反日であったため、面倒臭い経済政策などはあまり熱心にやっていません。漢江の奇跡と呼ばれる60年代経済復興をなしとげた次代の朴正煕に比べ、李承晩の50年代は停滞していたとされます。

 その代り、反日政策はガンガンやります。どうもこの人は感情過多というか、エモーショナルな要素が強すぎ、大戦中日本軍から拷問を受けたことを生涯恨みに思い(それはそれで分かるけど)、激しい反日政策をやります。といっても、直接報復攻撃や戦争をしかける経済力も戦力もありませんから、ネチネチとした周辺的なものに留まります。これがタチが悪く、後々まで尾を引くのですね。今日まで一番尾を引いているのは反日教育です。戦後に李承晩の反日教育を受けた世代が、韓国の中でも反日感情が強いと言います。もちろん、日本との国交回復や貿易などを熱心に進める気はないので、日本からの賠償金も得られず、結果的に韓国経済を悪化させます。また、あまりの無策に「これなら日帝時代の方がまだマシだ」などと言うと、親日派のレッテルを貼られ、投獄、拷問、処刑が待っているという。大体、李承晩という人は、日帝時代にはアメリカに亡命していて、本人が声高に主張するほど日帝支配時代を経験しているわけでもないのですよね。だからこそなのか、どうしても観念的になり、何がなんでも日本は悪にしないと気が済まないという歯止めの乏しさにつながったとも言われます。

 有名な反日政策としては、李承晩ラインという海洋領域宣言で、自国領として主張する竹島(韓国名:獨島)を含む海洋ラインを宣言、操業していた日本漁船を拿捕、抑留します。これを現在まで尾を引いている竹島問題の発端になります。その他、日本文化の禁止なんてのもあります。



第二期 1960〜1980年 朴正煕(パク・チョンヒ)時代


 李承晩政権が倒れて(1960年)から61年の軍事クーデターが起き、朴正煕が政権を取るまでの短い間に、第二共和国と呼ばれる時代があります。李承晩政権の反省と反動で、独裁的な大統領制から議院内閣制への憲法改正が行われ、総選挙で野党だった民主党が政権を取ります。新政権は様々な改革を行おうとするのですが、これは韓国の伝統なのでしょうか、政権を取ると必ず内紛が起きます。大統領が離党して新党結成するという騒ぎになります。一方、李承晩政権下でさんざん抑えつけられてきた民衆の不満が一気に噴出し、労組や革新派のデモの嵐になります。

 学生や左派の勢いが増し、北朝鮮との対話や統一が求められるようになります。このような自由化の流れは、その理念自体は好ましいのかもしれませんが、社会の安定や経済の発展には必ずしも好ましくはない。実際、韓国は不安定になったということで、国際評価も下がり、ドルに対する強烈なウォン安(ほぼ半減)も起きます。

 こういった情勢に危機感を募らせた青年将校である朴正熙少将や金鍾泌中佐が、1961年5月に軍事クーデターを起こします。
 朴正煕(パク・チョンヒ)という人は、貧農出身ですが成績優秀のため日本の陸軍士官学校に留学し、そこでも優秀な成績をおさめるエリートになります。戦後も韓国軍内部で頭角をあらわし、クーデター時には第二軍の副指令にまで登っています。彼の支持グループは、軍内の若手エリート達で後の全斗煥、盧泰愚大統領も含まれます。貧農出身の彼の生い立ちが、逆に若手のリーダーとして慕われたのでしょう。日本の2.26事件も貧農出身者が多かったといいますが、軍の青年将校のクーデターというのは、要するに彼らなりの革命なのでしょう。軍人であるがゆえに表現形式がクーデターという形になると。

 もともとこの軍事クーデターは、対李承晩の60年の四月革命と同時並行的に進められていたらしいのですが、先に民衆が李承晩政権を倒壊させてしまいます。「あら、先にやられちゃった」という感じなのでしょうが、その後、自由化の波にのって、南北統一を目指して「北に行こう」と10万人の学生デモが行進し、政府もこれを止められないという状況を見て、「これはマズイ」と思い、クーデターを決行しました。なにがマズイかというと、今からは想像もつかないけど、当時の南北朝鮮の国力は圧倒的に北有利でした。南は李承晩のゴタゴタで国力が疲弊しているのに対し、北は金日成のもとソ連や中国の後押しも受け、国力は充実しています。そこで妙に南北対話なんかやったら、ズルズルと北に併呑され、朝鮮半島は共産国になってしまうという危機感を持ったとされます。それは同時にアメリカの懸念でもあります。つまり李承晩後の反動(自由化)があまりにも強すぎたので、またカウンターパワーが必要になった、ということでしょう。

   朴正煕らー派は、クーデターの定石どおり戒厳令をしき、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、前政権(張勉政権)の要人を逮捕します。政権を奪取して自らを「国家再建最高会議」と名乗り、国家再建非常措置法を施行、さらには韓国版CIAであるKCIAを発足、徐々に軍事独裁政権としての色合いを濃くしていきます。国際的にも手当をするため、アメリカに訪問してケネディ大統領と会談、帰国時には日本に立ち寄り、池田首相と会見し、国交正常化の話をします。このあたり、冷静に的確な手を打ってますね。63年には軍を退役し、大統領選に出馬、大統領に当選しています。第三期共和制・朴正煕時代の始まりです。

 朴正煕という人は、政治家のタイプとしてはロシアのプーチンに似てるような気がします。目的のためなら手段を選ばぬ冷酷な実務家であるけど、その分、政治においては有能というか辣腕を振るいます。エゴの権化のような李承晩に比較して、格段に優秀だと思いますし、私人としては清廉な人だったようです。ただし、やり方はエグい。

 朴正煕は、疲弊していた韓国経済を起き上がらせただけでなく、漢江の奇跡と呼ばれる60年代の経済成長を実現し、経済先進国韓国の道筋を作ります。その方法は、いわゆる開発独裁で、強大な軍事独裁政権を使った一種の共産主義のようなものです。経済がダメダメになったときの特効薬は共産主義ですので、これは世界のどこでも普遍的に見られます。戦時中の日本だって、国家総動員令や強制徴収というバリバリの共産主義経済になります(共産主義とは絶対に言わないけど、やってることはモロにそう)。

 借金に喘ぐ農村を救うために高利債整理法(徳政令のようなもの)を断行し、国家が主導しながら、重厚長大な重化学産業を育成していきます。ソ連的な5ヶ年計画も実施されます。また日本が朝鮮戦争で経済発展したように、韓国もベトナム戦争特需という追い風が吹きます。その甲斐あって、韓国の国民所得は20年で20倍という驚異的な成長を果します。これを漢江の奇跡といいます。工業化が一段落してからは、いわゆるセマウル運動を行い、農村を近代化します。

 対外的には、1965年6月22日に日韓基本条約を締結して日本との国交を回復、日本からの賠償金でまた経済を発展させます。ただし、これに対しては韓国内で批判の嵐でした。まあ、李承晩の反日教育の後だけに、わずかな賠償金で国を売る売国奴であるとか、独裁維持の資金源になるだけだとか、国内で大々的な反対運動も起きています。しかし、そこは独裁者の強みで国交回復を果します。このあたりは感情よりも実利を取る冷徹な政治家ぶりが出ています。

 対アメリカ外交においても、ベトナム戦争に派兵し、次に述べるようにアメリカから多大な恩恵を被りながらもアメリカべったり追従というわけでもなく、徐々にアメリカとは距離を置いたり、密かに武装を進めてアメリカと対立したり、独自路線を模索しています。また、北朝鮮ゲリラに官邸襲撃を受けながらも、北との平和共存を訴え、72年には南北共同声明を出すなど、どうにも一筋縄ではいかない老練な政治手腕が見え隠れします。

漢江の奇跡

 原動力となったのは、@日本からの賠償金&借款による資本、Aベトナム戦争、そしてBこれらの資源を有効に活用した政策でしょう。

 朴政権は当初、第一次五カ年計画(1962‐66)を推進、財閥の不正蓄財を摘発したり、定期金利の引き上げや貯金の奨励で国内資本の充実を図るのですが、なんせ全体に金詰まりですからどうも上手くいきません。資本主義というのは、最初にドーンと資本を集中投下すると儲かるシステムが構築されるのですが、最初の元金が少なすぎたわけですね。

 そこで外資の導入になりますが、同盟国アメリカからの援助に並んで、李承晩時代には仇敵扱いだった日本からの支援です。そこで65年に日韓国交を正常化し、戦時補償金のほか借款を受けます。これらは8億ドルという莫大な額であり、合算すれば当時の韓国の国家予算(3〜4億ドル)の2倍以上にもなります。この膨大な資本をもとに、京釜高速道路などのインフラを整備し、浦項総合製鉄など産業拠点となる重工業を振興させています。

 韓国はベトナム戦争に派兵していますが、全体の構図からすると、東西冷戦で生じたベトナム戦争に、韓国もイヤイヤ付き合わされた、、かのようですが、実はそうでもなく、この戦争によって韓国は膨大な恩恵を被ります。まず将兵の給与で、これは米国軍から支払われたのですが、大部分が韓国に送金され、国内資本の充実に寄与します。また、国内よりも数倍から十数倍という高給を目当てにベトナムに働きにいく韓国人労働者ものべ5万人いたとされ、ベトナム成金という言葉があるらしいです。そんなこんなでベトナム戦争によって韓国が享受した特需は10億ドルにも達すると言われています。

 また、アメリカの援助はそれに留まるものではなく、韓国製品をアメリカに輸出するにあたっての輸入規制の大幅緩和、さらに国防面では米軍が援助してくれたので金食い虫の国防費に資本を吸い取られることから免れています。要するにアメリカは、韓国に仕事を与え、沢山買ってくれ、代りに防衛もやってくれたわけです。至れり尽くせりアメリカ様って感じですが、日本も似たり寄ったりですよね。

 こういった膨大な外資流入を受けると、えてして軍事独裁の途上国は大統領一派が私腹を肥やすのに使ってしまったりするのですが、韓国の場合、インフラ整備や産業育成など、計画的かつ効率的に上手に使っています。これは政府の功績だと言っていいでしょう。

 もっともマイナス面もありまして、日本から受けた賠償金のなかには戦争被害者への個人補償費もあるのですが、結果的に政府がこれをピンハネしてインフラ整備に流用してしまったことで、一般民衆には補償金が行き届かず、その後の日韓関係をギクシャクさせることになります。また、どうしても短期集中で産業育成をさせると、サムソンや現代など財閥中心の経済になり、中小企業や農村は取り残されます。また、ソウルへの一極集中が激しくなり、全国的にバランスのとれた発展が阻害されます。

 しかし、現実問題、全てに満点というわけにはいかず、独裁者が外国からの援助金を着服しなかった、という一点だけでも、世界的にみれば画期的だとは思います。未だにその種の弊害が横行し、全世界からの善意の基金や援助が、まるでザルで水を汲んでるような空しさを伴っているエリアは山ほどありますから。


 朴正煕は李承晩以上の長期政権になったわけですが、69年に国会で堂々と三選禁止を改正し71年の大統領選で辛勝ながらも当選しています。しかし長期政権の常でその頃には野党(新民党)が伸びたため、四選のための憲法改正が不可能になります。そこでやったのが72年に非常戒厳令を発令し、憲法を改正してしまいます(十月維新)。一応国民投票で承認を得てはいるものの、かなりの横車を押していますね。この憲法改正後、歴史上は第四共和国時代(72-79 )になります。

 公の場でこれだけ無理を通すのですから、裏ではもっと激しく、スパイ摘発にかこつけた不当な拷問や冤罪は枚挙にいとまが無く、朴政権末期まで手を緩めることはなかったと言います。その意味では非常に恐怖政治であり、反民主的な政権だったと言えるでしょう。辣腕で国の経済を発展させつつ、KCIAを使って国内的にしめつけていくあたり、KGBあがりで経済的にも辣腕を振るうプーチンと重なるところです。

 こういった国内批判に対しては、あくまで強硬姿勢で臨み、KCIAの暗躍によるスパイ摘発や反政府活動の弾圧も行っています。著名なのは人民革命党事件で、第一次(65年)と第二次(75年)があります。この事件の内容は、乱暴にいってしまえば、政府批判でうるさい連中を「北朝鮮のスパイ」という嫌疑をかけて葬り去ろうというもので、65年では下級審で無罪判決の出ていた11人を含む13人を大法院(最高裁)は懲役刑に宣告します。検察庁の検事達のなかに「やってやれっか」で辞表を出したものも多かったそうです。75年になると政権後期で反対勢力が強くなっていただけにもっとひどく、逮捕した23人のうち8名に死刑判決を出し、しかも1日も経たない間に死刑執行をしています。KCIAと司法による殺人と言われるこの事件は、2000年代になって捏造・冤罪であることが明らかになっています。日本でも有名な金大中事件もこの文脈にあります。

金大中事件

 金大中という人は、ご存知のように98年から2003年まで韓国の大統領であった人ですが、この時期には朴正煕大統領の最大の政敵でもありました。野党民主党候補として71年に大統領選で惜敗したものの、ほぼ互角の支持率を得て民主主義回復を訴える金大中は、朴正煕にとって最大の目の上のタンコブでもありました。

 そこでまたKICAのなりふり構わぬ”作戦”が行われ、選挙直後、大型トラックが金の車に衝突し、金大中は負傷します。なんか諜報機関のオペレーションというより、ただのヤクザの抗争レベルという気がしますが。同年、朴大統領は十月維新で非常事態宣言を発令し戒厳令を敷きます。たまたま海外にいた金大中は、帰れば殺されるということで帰国を諦め、以後日本や米国に外遊生活に入り、韓国の民主化を訴えます。一種のダライ・ラマ状態になるわけですね。

 ダライラマが世界の人気者になっているように、金大中も「民主主義の闘士」として海外で有名になります。日本にもしばしば招かれて滞在していますが、KCIAの意を受けた日本の暴力団から狙われており、常に宿を変える亡命生活を送っています。1973年、東京の飯田橋にあるホテル・グランドパレス2212号室に民主統一党(当時)の梁党首に招かれ会談し、部屋から出たところを複数の暴漢に襲われます。クロロホルムを嗅がされ、車で神戸まで連れられ、神戸港から船で釜山まで拉致し、5日後に自宅近くで解放されています。

 まるで映画を地でいってるような出来事ですが、実際にはもっと凄く、事態を了知したアメリカの通報により自衛隊が神戸港から出港した船を追跡、照明弾を投下するというアクションシーンもあります。金大中は船から重りをつけて海中に放り込まれそうだったのですが、自衛隊の威嚇により殺害は中止になっています。

 自国領土でこんなことをされた日本(警視庁)はさっそく捜査を展開、現場から韓国一等書記官の指紋を検出し、出頭を求めるも外交権特権をタテに拒否されます。そこで日本政府は、この書記官(金東雲)に対し、ペルソナ・ノン・グラーター(好ましからぬ人物として入国を拒否すること)を発令します。日本政府が出した唯一の例です。またこの件には、KCIAや韓国外務省だけではなく、日本暴力団(山口組系東声会、同系柳川組)も関与していたとされます。

 その後ですが、日韓双方の政治家によって高度な政治決着がなされます。要するにウヤムヤにするってことで、金鍾泌首相の訪日、そして当時の田中角栄首相との会談によって「穏便に済ます」という話し合いがなされています。もっとも時を追う毎に段々明らかにされています。なんせ当の被害者である金大中が大統領になるわけですし(もっとも彼はゴタゴタを嫌って一再不問に付するとしているが)、その後の盧武鉉政権下での調査により2006年にKCIAの組織的犯行であることが認められています。

 まるで映画のような、あらゆるエッセンス詰め合わせの金大中事件ですが、2002年にKTという日韓合作の映画になっているのはご存知かと思います。でも、こんな映画が日韓合作で作られるようになったという事が、ある意味では一番スゴイことかもしれません。

 かくして有能でもあるし、恐怖政治もするということで朴正煕政権はなんと20年近くも続きます。あの激しい戦後韓国の政局で、20年近くも政権を維持していたことだけも並々ならぬ力量の持主だと思われます。ただ、そのために権力者の孤独に陥り、敵も多く、74年の暗殺未遂では、自らは難を逃れながらも夫人は撃たれて死去してしまいます(文世光事件)。そして、1979年10月26日には、自らの子飼いたるべきKCIA部長の金載圭によって射殺されてしまいます(10・26事件)。

 朴正煕大統領については賛否両論激しくありますが、個人的にはかなりエライ人だったように思います。確かに朴政権下において家族を拷問、処刑された人達にとっては悪魔のような存在でしょうし、またベトナム戦争という植民地解放戦争において米国側についたことも批判のネタにされます。しかし、それを差し引いても、戦後、エゴ丸出しの李承晩に引きずられて迷走していた韓国をまがりなりも回復軌道に乗せ、後のアジアの4小龍(NIES)の一角にまで押し上げた経済手腕は並ではないです。また、南北朝鮮の経済力も朴正煕時代に逆転させてしまいましたし。

 また、日本人からみても、自国民から売国奴よばわりされながらも日韓国交回復を果した立役者であり、李承晩時代の行きすぎた反日教育を是正してもいます。本人自身、日帝時代の全てが悪かったわけではないと述べており、日韓友好のためのは竹島なんか沈めてしまえと言ったとも伝えられています。国内でも彼を親日派という一事だけで否定するのはおかしいという声もあります。

 さらに、これほど強烈な独裁者でありながら、一族だけで甘い汁を吸うという世界的に普通の行動を取っておらず、それどころか親戚に対してソウルに来ること自体を禁止していたそうです。私生活も質素であり、汚職も少なく、私有財産が殆どなかったということから、韓国政治史においても珍しい政治家だとされます。今となっては韓国民からも再評価する動きがあり、歴代ランキングでは飛び抜けて一位になってるそうです。


朴正煕暗殺事件と背景

 側近であるKCIA部長に暗殺されるというショッキングな出来事ですが、あまりにショッキングなので、アメリカの本家CIAの陰謀であるという説がまことしやかに囁かれていますが、いまだ真相は謎です。

 しかし、事案を細かに見ていくと、側近達の保身と権力者の孤独が浮かび上がってくるような気がします。
 直接の犯人であるKCIAの金載圭は、晩餐の席上、朴正煕大統領から学生運動の弾圧が手ぬるいとか無能とか叱られ、またライバルである車智K警護室長も尻馬に乗ってウダウダ言うので、両名の殺害を行ったとされます。一旦中座し、部下達に「銃声が聞こえたら警備の連中を射殺しろ」と命令し、みずからは席に戻り、おもむろに拳銃を取り出して朴大統領と車警護室長を撃ちます。その後陸軍本部に行き戒厳令の布告を迫りますが、コネも根回しをしていないので拒否され、逆に大統領殺害犯人として逮捕され、その後、死刑に処せられます。

 この経過ですが、「本当かよ?」って気もするのですね。要するに、宴会場で上司や同僚からクソミソにいわれたのでカッとなって暴れたという、そこらへんのサラリーマンみたいな話じゃないですか。国際社会を騒然とさせた大事件が、そんなパーソナルで普通の殺人事件でいいのか?という。なんか裏があるんじゃないの?という気になっても不思議ではないです。

 でも、当時の朴正煕の側近権力者達の頭の中には、当然「ポスト朴は誰がなるのか」ということで一杯だったでしょう。朴大統領に次ぐ権力者は、KCIA部長、警護室長、そして軍(国軍保安司令部)です。この三者の間でポスト朴を狙っての暗闘が行われていたのでしょう。そこで思い浮かぶのは金大中事件の背景です。当時、側近であった李厚洛KCIA部長が北朝鮮との会談でポイントを上げ、ポスト朴正煕として評判を上げていました。ところが、 警備団長尹将軍と李厚洛が談話でポロッと「大統領はもうお年だから、後継者を選んだら」と失言をしてしまい、朴正煕の激怒を招き、二人とも拘束されギンギンに取り調べられてしまう事件がありました。ポスト朴候補だった李にとっては痛烈な失点であり、何がなんでもこれを回復するために、「金大中を拉致しちゃういましょうよ」と提案したとか。

 上で見たように金大中拉致事件は大失敗に終るわけで、当然李はKCIA部長を解任されます。その後文世光事件で大統領夫人が暗殺されたことで警朴鍾圭護室長が失脚。それぞれの後をついだのが今回の金載圭KICA部長と車智K警護室長です。朴正煕暗殺事件の後は、KICA部長は犯人、警護室はボスを殺され、結局残った軍部(国軍保安司令部)の全斗煥が台頭し、第五共和国体制に向います。

 何が言いたいかというと、国家的事件でありながらも詰めていけば、登場人物わずか数名のパーソナルな確執でしかないということです。金大中事件だってあれだけ世界を震撼させながらも、煎じ詰めればイチ側近の出世のための点数稼ぎというパーソナルな願望が原点でした。また、「もうお年だから」という部下の談笑だけで激怒する朴正煕も朴正煕だという気もします。よっぽど部下が信頼できなかったのだろうし、いつ寝首を掻かれるか戦々恐々としていたからこその過敏反応だったのでしょう。また、そんな独裁者の下にずっと働いていれば、誰だって精神失調や鬱になっても不思議ではないですよ。

 だから何というか、温厚善良なサラリーマンが、積年のストレスがついに限界に達し、ブチ切れて凶悪な犯行を犯しちゃいました的なニュアンスも感じるのですね。明智光秀が本能寺の変で信長を殺しちゃったみたいな感じ。独裁者が側近から暗殺されるのは、「ブルータス、お前もか」のシーザーの時代からいつの世にもあることですが、権力の頂点の光景というのは相当にピリピリしているんだろうな、だから限界を超えたら、些細なことからとんでもない大事件になっちゃったりするのだろうな、と思ったりするのでした。実際、金載圭には精神的に不安定なところもあったらしいし、また肝硬変で余命も限られていたという話もあります。だから鬱状態が嵩じて発作的な犯行に及んだという説もまんざら説得力がないわけでもないのです。

 まあ、とは言いつつも、CIAが焚きつけてやったというシナリオは、未だにイキてます。朴大統領の独自の核兵器開発に、米国政府(当時はカーター政権)は相当ムカついていたようですからね。金載圭の耳元で、「あなたが何かをなさるとき、アメリカは常によき友人でいたいと思ってますよ」くらいの事は言ったんじゃないかっても気もしますね。わからんけど。

 金載圭は、大統領暗殺という大それた事をやらかした国家的犯罪人の筈なのですが、韓国内ではそれほど激しい糾弾を浴びていないようです。このあたりが微妙なところなんですけど、彼自身は「民主主義を回復するためだ」と主張しているそうですが、それにシンパシーを抱く人達も相当いたらしいです。なんせ朴政権の弾圧は激しかったですから、被害を受けた学生や運動家、マスコミ関係者も多かったでしょう。朴正煕は韓国を立て直した立役者でもありましたが、同時に確かに民主制の敵でもあったでしょう。だから彼を倒した金載圭は、その意味ではヒーローと言ってもいい。しかし、ジャンヌダルクみたいに華々しく戦ってるわけでもなく、要は裏切りであり、普通の殺人事件だったりするから、手放しで褒めるのも何か変な気がする。同じことをしてても、見方によっては大犯罪人にもなり、英雄にもなるわけですが、なんとなくどっちつかずなんじゃないかな。ビミョ〜ですよね。賞賛すべきか、非難すべきか決めかねているって感じなのでしょう。


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  長くなってきたのでまとめて別紙にしました。



文責:田村




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