今週の1枚(10.02.08)






ESSAY 449 : 性賢説と性愚説(その7) 〜知性の鏡を曇らせる現代的要因 


 写真は、ManlyのNorth Headから望遠で捉えた落日。なにやらハルマゲドン的な、”北斗の拳の冒頭的風景”。
 望遠(12倍ズーム)を使わないと、本当は右の写真のように見えています→。
 気のせいかもしれないし、天体的な入射角度の関係かもしれませんが、オーストラリアの水平線付近の太陽や月は、時として異様に巨大だったりします。特に満月が出てくるときなどは、「なんだ、ありゃ!」って鳥肌立つような巨大さです。なかなか写真では撮れないのですが。




 間にいろいろ入ってしまってブツ切りになってますが、性賢説シリーズの7回目です。
 過去回は以下の通り。
  第1回(No.430) 「この世にはどうしようもないバカがいること」を前提にする社会としない社会
  第2回(No.432) 日本の性賢説的名人養成英才教育と道具観
  第3回(No.434) 全員が名人だった江戸期日本、町人カルチャーと私学の興隆、成長快感をシェアする社会
  第4回(No.436) 教育界の革命児・千葉周作と嘉納治五郎
  第5回(No.438) 教育と”教育産業”の違い 〜家元制度というシステム
  第6回(No.443) 公教育における供給者の論理と「選別」の要素

 思いつきで書き散らしているだけですので、別に通して読まねばならないものではなく、また通して読めば大きな構図が浮かび上がってくるという感動的な構成なわけでもありません。

 性賢/性愚というのは僕の造語で、人は皆生まれもって賢いのだと考えるか、いやそんなことはないぞと考えるかという世界観の違いです。その視点で見ると、どうも伝統的に日本は性賢説的な考え方がベースにあるような気がして、それを裏付けるような事例を見てきました。例えば伝統的な名人芸や職人教育、例えば江戸時代においてすら世界的に突出していた識字率や教育水準の高さ、なんでも凝り倒して極めようとする性向、他者に対してもハイレベルを求める傾向、、、などなどです。

 一方、性賢性愚といった「人間の可能性」を考えていくとと、どうしても教育という領域とリンクしていきます。古来から現在に至るまでの日本の教育の特徴を見ていくと、やはり性賢説ベースに基づいたトラディショナルな職人教育、最初からプロ仕様しか作ろうとしない道具観、全員の底力を上げるボトムアップの寺小屋システム等がありました。しかし、性賢や教育とはあんまり関係ないファクターも強力に入り混じっていることに気づきました。それは第一に教育産業という業界の都合を優先させている家元制度的な要素であり、第二に富国強兵・人材選別という国家・企業の都合をベースとした公教育制度です。これらの妨害ファクターが、日本社会が伝統的に持っていた「人間の能力を信じる」という明るい性賢説な世界観に混入されることによって、いったい僕ら日本人は同胞を賢いと思ってるのか、バカだと思ってるのかよく分からない状況になっているような気がします。

 今回は、さらに別の角度から、性賢説の知性を曇らせる現代的な要素を幾つか見てみたいと思います。


消費社会

 資本主義とは、安価で良質な商品を皆が競って開発・販売することです。社会を豊かにする優れたシステムとして、現代世界のスタンダードになっていますが、どんなものにも副作用という好ましからぬ影響もあります。

 牧歌的な時代では、商品の良質さも、使いやすいとか、長持ちするするとか、そのモノ本来の機能面で勝負していました。自動車であれば「壊れずにちゃんと走る」という点がポイントであり、鉛筆であれば「書きやすくて芯が折れにくい」ことがポイントでした。ところが社会が豊かになり、マーケティングでいうところの成熟市場になっていくと、そんな基本的な性能はどんな商品でもクリアしてますから、それだけでは勝負がつかなくなってしまいます。

 いきおい企業はあの手この手で「ウチの商品はココが違う」という差別化を図るように努力しますが、本来的な部分が満たされてしまっている以上、少しでも不便な部分をみつけては隙間をビチビチに埋めるような、まさに「痒いところに手が届く」高感度の商品を開発していきます。同時に、差別化のための差別化というか、枝葉末節の「どーでもいい」部分に拡大鏡をあててみたり、「何となくいい感じがする」という曖昧でファジーな訴求力に頼ったりもします。かくしてマイナスイオンがどうしたこうしたという、「本当にわかってんの?」というと実は誰もよく分かってないような事柄を、あたかも「霊験あらたか」であるように宣伝してみたり、あるいは「某有名人も使っている」という、よく考えたら「それがどうした?」という部分を素晴らしいものであるかのように見せたりします。商品開発やマーケティングが、質実剛健な実質から段々遊離してきて、心理学的効果を狙った虚構方面に漂流し始めていったのが、今から思えば80年代の頃でした。

 以後、高度消費社会ということで、この種の商品開発とマーケティングは熾烈を極めていきます。特に、単一文化の単一民族の色彩が濃い金太郎飴社会の日本では、一人が買えば全員買うという”猫も杓子も”現象があり、オーストラリアなどではついぞ見かけない”ブーム”という珍しい現象もありますから、マーケッターとしてもやり甲斐ありますよね。当たればデカいですし、愚かな大衆を意のままに動かすというゲッペルス(ナチスの宣伝大臣)的な暗い愉悦もあるでしょう(^_^)。

 そんなこんなで日本の消費社会化は加速し、80年代後半からこっち、全日本人の全私語を解析したら、その大部分が「商品に関する話題」「消費系話題」で占められているように思います。新しい連続ドラマなどメディア話題、新商品の話題、どこのケーキが美味しいか、どのギアがカッコいいか、、、、んなことばっか。生きること=モノを買うことみたいになってゆく。

 ところで、便利な道具というものは、ユーザーの能力を退化させる副作用も原理的にはらんでいます。靴の普及によって人々の足の裏は柔らかくなり、素足で野山を歩いたらたちまち傷だらけになってしまう。火の使用は人間と動物を分かつ大事な分水嶺ですが、マッチやライターの普及によって、自力で火を熾すという技術を体験を持つ人間は殆どいなくなってしまう。地図やコンパスの普及は、天空の星々によって位置を知るという古来からの知識を衰えさせる。

 このくらいだったら道具によって得られるメリットの大きさを考えれば、ある程度やむを得ないと言えるかもしれない。しかし、気象情報や魚群探知機の発達は漁師の財産ともいえる海と対話する能力を乏しくすし、電子炊飯器などの調理器具の発達は、火加減、水加減という料理の命ともいうべきカンドコロを鈍くします。このようにあらゆる物事に関する「カンドコロ」「自分だけの尺度」というものが鈍化していきます。知人の日本企業のエンジニアの人が言ってましたが、エンジニアというのは、子供の頃からオモチャ代りにゲルマニウムラジオを組み立て、そのアナログ感覚によって機械に関するカンドコロを養ってきたけど、デジタル世代になっていくと、そういった経験が乏しいので「メカ勘」が鈍くなっていて、商品開発一つ取っても思考が硬直的になっていると。

 カンドコロという微妙なスキル以前に、ちょっと前まで皆が当たり前に出来ていた生活技術が衰えていく面もあります。例えば、車のタイヤ交換一つしたことがないのは良いとしても、電球の交換、ひいては電池交換すらしたことがない、そんなの知らないという人々も出てくる。そのうち自分一人では靴紐も結べない、服も着られない、ネクタイも結べない人も出てくるかもしれない(和服については既にその方が多い)。かくして不便だった昔に比べたら、人々の技術や能力は確実に退化していると言ってもいいでしょう。消費社会というのはモノに満ちあふれた豊かな社会なのですが、何でもかんでも商品にやって貰うという言わば過保護な状態でもあり、副作用として能力退化が生じていく。

 それだけではありません。”高度”消費社会になるにつれ、単に肉体や技術面だけではなく、知性や感情、精神や世界観という中枢神経にまで影響が及んできます。

 ここの説明は難しいのですが、例えば、地図を眺めながら「どんなところかな」と想像をめぐらせ、そこに行こうと思い立ち、時刻表や交通情報を調べて自分で予算をしたがって旅程を立てる、、というのが本来の旅行でした。それが旅行会社やネットの発達によって、自分で行くよりパックツアーに参加した方が安いし簡単ということになっていく。そうなると、ツアーなどの旅行商品の中から行き先を選択するようになり、商品になってないエリアや旅先の行動は最初から視野にも入ってこなくなります。

 見回せば空間的に360度全てが商品で埋め尽くされ、商品を選び購入することで自分の行動が決まっていく。そして時系列でいえば、将来まで商品選択によって人生が決まっていく。有名進学校に入り、有名予備校に入り、有名企業に入り、人材センターで転職斡旋をしてもらい、結婚相談所で配偶者を捜し、一生モノの住宅ローンを背負い、霊園を早めに購入する。買ってばっかじゃん。例えば配偶者選びという、古代から人々が誰から教わったわけでもないのにやっていたこと、それこそ犬でも猫でもペンギンでも、石狩川を遡ってる鮭ですらやってることが、難しくなってしまう。それだけではなく、世界とはそーゆーもの、人生とはそーゆーものになっていく。世界とはすなわち商品選択であり、人生とは商品選択である、という。アメリカのやり方にはハタから見てても義憤を感じるとして、「アフガンゲリラに義勇兵として参加する」というおよそ商品になりえない人生は視野に入ってこない。冗談みたいな極論ですが、これも、もしどこかで「ゲリラ養成コース、就職率100%」という商品が登場したら視野に入って来てしまうってところが問題なんですね。

 まあ少し大袈裟に書いてますが、こういう環境が、性賢説的な素材=潜在的な日本人の聡明さを侵食していきそうなのは、何となくお分かりかと思います。「痒いところ」を他人に掻いてもらっているうちに、本人の手が短く退化してしまう。予め存在する商品の「選択」は出来ても、何もないところから「創造」はできなくなっていく。自分の目で見ない、自前の頭で考えない、ワケのわからない現実にぶつかり、翻弄され、カンドコロを養うという経験が乏しくなる。

 もっとも、だからといって僕は資本主義がダメとか、消費社会がダメとか言うつもりはありません。ビジネスは競争なのだし、そのためにより訴求力のある高感度の商品開発をするのは当然の話でしょう。本人も気づかなかった”欠落”を埋める商品を開発し、さらに何ら欠落も不自由も何もないのにあの手この手で「満たされない気分=購買欲」を喚起させる広告戦略などは、いわば自然の成り行きだと思ってます。感動的に素晴らしいとは思わないけど、それがダメだとは思わない。また止めろといっても止むわけがないでしょう。

 ここではそういう良し悪しを論じているのではなく、消費社会の伸張が性賢説的特質にどういう影響を与えているのか、ってことです。
 そして、その点から言えば、一種面白い現象が生じていると思います。日本人の性賢説的な特徴は、部分的にはしっかり健在です。一方では、商品の過剰機能と広告の魔術によって幻惑&能力退化している消費者群もあるのでしょうが、その反面、商品開発や売る側は全く真逆の方向を向かいます。激烈な競争を勝ち抜くために、今までに登場しなかった付加価値を寝ても覚めても考え続け、Made in Japanの面目躍如たる高性能・高感度の商品やサービスが日夜開発されてます。つまり、一言でいえば消費者がアホになってる分、売る側は賢くなってる、賢くなるべく努力せざるを得ないということです。

 もう一点は、同じ消費者でも、徹底的に商品を研究し、異様に細かいところまで比較検討し、それぞれの価値観で選択を行っているという一群がいます。これはもう「商品選択道」というくらいのストイックさと技術が要求されます。もう単に選んでるだけとばかりは言えないくらいの創造性もあります。商品があふれかえれば、同時に商品の目利きも出来なければならないということです。商品開発側もこれら「違いの分かる客」の存在を前提にして、より優秀な商品を開発する。この構図はとても性賢説的で、「必ず分かってくれる」という他者(消費者)に対する期待があります。かくして開発側と消費者がマニアックなレベルで丁々発止のやりとりをしているという。性賢説的ですよね。

 しかしながら、一方では、「消費者は基本的に馬鹿である」という前提に立って、いかに馬鹿を騙すかに腐心している商品群や、それに対応する消費者群もあります。行きすぎた誇大広告や、詐欺まがいの商法など、昔から幾らでもありますし、未だに後を絶たない。はっきり詐欺と言ってもよい悪徳商法は、年を追うに従って巧妙化しています。これらは言うまでもなく性愚説のフィールドですよね。


TVやメディアの低俗化〜衆愚性
 近年の日本のTV番組がアホアホになってるという話は他人からよく聞きますし、また僕も帰国したときにチラッと見たりすると「なんだ、こりゃ」って思うことがあります。TVの低俗化、痴呆化というのは、実は昔っから言われていたことなのですが、それにしてもちょっと酷くないか?という。バラエティ番組がしょーもないのは、性格上やむを得ない部分もあるのでしょうが、メディアのニュース報道などについてもその傾向が出ているという。例えば半世紀に一度の政権交代時にのりピー騒動一色だったり。

 もっとも、では昔のTVや新聞は高尚でエラかったのかというと、これまた微妙ですし、例えば戦前の軍国主義一色の報道は、あれはあれで立派に”痴呆的”といってもいいでしょう。というかメディアが低俗になるのは、人間社会に「衆愚性」というものがある以上、ある程度は仕方がないようにも思われます。衆愚=デマゴーグというのは古代ギリシアの言葉だそうですので(正確には”民衆扇動家”)、人々が集まって何か共通の話をするときには不可避的につきまとうのでしょう。

 なぜ衆愚になるか?というと、パッと思いつくのは「皆そんなにヒマじゃないから」ではなかろうか。どのような事件、問題も、真相に近づけば近づくほど複雑です。当事者が二人しか登場しない男女関係のギクシャクだって、どっちかが「浮気をしたから」「自己中すぎるから」というほどシンプルなものではなく、一方が完全に正義で他方が完全に悪党だなんてことは滅多にない。これが国政になったりしたら、それぞれの立場によって見え方なんか180度変わる。あちらを立てればこちらが立たない。原発は危険だから廃止しましょうといっても、石油はいずれ枯渇するし、水力発電はダムによる環境破壊がある。かといってエネルギー需要抑制のために、自動車は全面禁止、夏にクーラーをつけたら死刑なんてことは現実問題出来っこない。でも何らかの決断は下さねばならない。「ううむ、困った」というのが実際のところです。まして、世間を騒がす事件ともなれば、異様に複雑な経緯があり、誰かが善玉、誰かが悪玉とクッキリ分かれるべくもないし、そもそも事柄の内容自体がよく分からない。

 真相そのものが本一冊分のボリュームを持ち、複雑な陰影を持つとしたら、それを完全に理解しているのは一握りの関係者くらいでしょう。世間の人達には、そんな面倒臭い話を何十時間もかけて理解しようとする意欲もヒマもない。だから、極端にデフォルメされた「あらすじ」が世間に流布される。AとBが争っていたら、記者会見の態度が悪かったとか、極端な話「顔が悪党面だから」とか、メチャクチャな理由でAが悪者ということになってしまう。冗談みたいなデフォルメ(ですらないけど)が行われる。なんせ皆さんそれほどヒマではないから、とにかく「10秒で理解できる簡単なストーリー」にしておきたい。かくして真実からかけ離れた「分かりやすいお話」が世間に流通し、ズッコケた前提の上で、また皆があれこれ論評し、世論というのものが醸成されていく。

 また、手っ取り早く”理解”するためには感情的要因も大きいです。なにか感情的に許せない状況が生じた場合、情緒的欲求を果すことが優先され、クールで公正な判断が出来なくなります。凶悪事件が起きたら、あんな犯人に弁護人などつける必要はない、問答無用で死刑にしてしまえというムードになる。ましてや証拠不十分で不起訴や無罪になったら、昂ぶった感情の落ち着き先がないから欲求不満のはけ口として何を強烈に攻撃したくなり、スケープゴートに祭り上げられた人間や制度を叩く。司法制度がおかしいとか、死刑廃止なんかとんでもないとか、ひどいのになると証拠なんか無くなって良いくらいの勢いになる。その舌の根も乾かぬうちに、冤罪事件が一転無罪になったら、人権擁護だの警察はひどいだの言う。神ならぬ人間が完璧な捜査や裁きなど出来るわけがなく、「どーしよーもないこと」は世の中に幾らでもある。でもそれを認めるのが感情的に許せないから、平気で矛盾したことをいう。聞いていて快感度の高い話の方が受けるから、どうしても支離滅裂にシフトしていく。戦前の「日本は神州不滅」なんてのも、考えるまでもなく嘘八百なのだけど、耳に快いから疑わない。「なんで?」とか言うとよってたかってボコられる。かくして「衆愚」という状況が生じる。ということで、TVやメディアが痴呆的で低俗なのは、そういった一般大衆相手にビジネスをしている以上、ある程度やむを得ない部分もあると思うのですね。

 ただし、近年においては大衆に対する媚びが激しいような気もします。その昔は、インテリや知識人の権威というものがまだあったから、新聞やメディアでも「愚昧な大衆を啓蒙する」という、上から目線バリバリの態度でいられたし、またそれが許された。しかし、いろいろな権威が失墜し、過保護にチヤホヤされて自意識とプライドだけは肥大化した一般消費者はそういった態度を「エラそでムカつく」として許さない。メディアもしょせん商売、買って貰ってなんぼだから、いきおい媚びるようになる。わかりやすく、スキャンダラスな側面ばかりを大々的に報道する。真に論ずべき問題は堅苦しくてつまらないから、女性関係とか汚職とかどうでもいいようなことばっかり報道するようになる。かくしてお馬鹿化が進行する、、のかもしれません。

 マスであるがゆえの無茶苦茶な”最大公約数”的要約がなされ、感情的歪曲がほどこされ、衆愚化痴呆化していく傾向があるとすれば、それは皆が本来持っている性賢的な知性を曇らせる要因になるでしょう。


事なかれ管理体質

 カスタマーサービスに寄せられる電話には、自分のミスを棚にあげて延々愚痴や苦情を並べたてるものがあるといいます。「お客様は神様」という商業主義的過保護でチヤホヤされているうちに勘違いする人間も出てきます。エゴや利己性が肥大化し、ちょっとでも気にくわないことがあると、すぐに他人のせいにしようとする。このような幼稚で他罰的な精神傾向が嵩じると、よく話題になるモンスターペアレンツのような人間類型が出てくる。

 人間というのは誰しも弱いから、利己的な権利主張をしたくなる誘惑にかられるのは当然でしょう。問題は、それを許すか/許さないか、矯正するか/促進するかどうかです。西欧社会は、ある意味「馬鹿に媚びない」部分があり、カスタマーサービスや接客でも、「お前が馬鹿だから悪いんだろ」くらいのことは言いかねないです。お客様は全然神様じゃない。適切な質問や苦情を受け付ける義務はあるけど、理不尽な主張を納得させる義務はない、と。また、もともと訴訟社会だし、世間体というものをそれほど気にしないから、訴えられることを"問題”だとは思わないし、最初からコストに織り込む。

 「世の中にはとんでもない馬鹿がいる」という認識=性愚説的認識が良い意味で機能している局面ですが、「とんでもない馬鹿」がいるという前提でシステムが組まれるから、そういうのが出てきたら「とことんやる」(裁判で争う)ことにし、終局的に裁判で勝利できる程度に準備をする。「事を荒立てる」こと自体はさして問題だとは思わない。もちろん企業イメージというものがあるから、冷静にソロバンを弾いてダメージ管理をするけど、世間もまた「世の中には馬鹿がいる」という前提で動いているから単に裁判沙汰だけなら大したダメージにもならない(訴えている方が馬鹿だという可能性も50%あると思うから)。

 ところが日本の場合、世間体を気にしますから、騒ぎになることそのものが企業イメージのダウンになったりします。そうなると「法廷でとことん争えばいいだろ」という問題解決はありえないので、とにかく問題にならないように、事なかれ体質が生じてきます。これは性賢説的傾向が裏目に出ている局面と言っても良く、「お客様の言うことには必ず一理ある」とか「官僚は絶対ミスを犯さない」とかワケのわからない無謬神話が横行し、それを裏切るような出来事が生じたこと(世間に知れ渡ること)自体が大問題になる。そのため、馬鹿に対してもとにかく平身低頭して引き下がって貰うという「大人な対処法」やら、「何がなんでもモミ消す」という隠蔽体質が普遍化する。

 そして、それよりも遙か手前の地点で、とにかく問題が起こらないように事前に徹底的に予防しようとします。かくして強力な管理体制が発達していきます。学校内で騒ぎが起きることそれ自体が問題だから、「非行化の芽」は早期につみ取ろうとし、刑務所以上の圧政的な校則が出てくる。とにかく問題になりそうなことは避けたいから、女子の就職についても、単身生活している人よりも親元から自宅通勤している人を優遇して採用したりする。ましてや旧部落出身だったりしたら、もうそれだけでアウトだったりする。

 これは非常に皮肉なことです。性賢説前提=人は本来的に賢いという原理が、なぜか「人はミスをしない」に変化し、ミスをしない人がトラブルを起こすわけはないから、トラブルはそれ自体が恥ずべき事であるという認識=世間体=につながり、管理体制や事なかれ主義を生む。そしてそういった事なかれ体質がモンスターペアレンツを増長させたり、いわれのない差別という害悪を世の中に撒き散らすようになる。皮肉というのは、賢いと思えば思うほど馬鹿になっていくという歪んだスパイラルのことです。


不況、ストレス、社会不安
 「貧すれば鈍す」といいますが、お金が無くなってせっぱ詰まってくると、ゆとりが無くなり、ともすれば人は愚かになります。これが集団で生じるとどうなるかというと、大不況が襲い、世相が暗くなればなるほど心のゆとりをなくして愚かな方向に進んでいくというリスクになります。ナチスが勃興する前のドイツは、ワイマール体制という当時最も優れた憲法を持っていたのだけど、第一次大戦の戦後処理の賠償、世界大恐慌などが起きてどんどん貧しくなっていくと、ナチスの台頭を許してしまった。

 人間、ストレス負荷が強い状態では、冷静に頭が回らなくなります。自暴自棄になったり、カッとなったりして大罪を犯すこともありますが、そういう分かりやすい爆発反応だけではなく、より静的・慢性的に鬱状態になり、全てのことがネガティブに見え、知らないうちに判断が狂ってきて破局に至るということもあります。

 もとより日本の場合、上にのべた世間体・管理体質がベースとなって人々のストレス耐性を疲弊させているので、これが失われた10年だ20年だという「パッとしない時期」が延々続くと、平均的に慢性鬱状態になっていくでしょう。こうなると知性が曇らされるのもやむを得ないところですし、枯れ木をみて幽霊だと思うようなネガティブ心理も満載になるでしょう。かくして、別にビビらなくてもいいようなことに過度に反応したり、近視眼的な結論に飛びついてしまう。



 以上、あれこれ見てきたわけですが、現代社会における種々の要因が、本来明鏡のような僕らの知性の鏡を曇らせているのではないか、という話でした。

 ひらたくいえば、日本人というのは一体利口なのか、馬鹿なのか、日本人にもよく分からなくなっているという。モンスターペアレンツ(別にそれだけが問題なのではないが、分かりやすい象徴として)が報道されるのは、「こんな馬鹿がいる」という点に報道価値があるからであり、それは「そんな馬鹿は許せない」「人々は賢くて当たり前」という性賢説的ハイスタンダードがあってこそです。しかし、それも余りにもありふれた話になっていくと、「そういう馬鹿がいて当たり前」という気分になってきて、性賢説な自信は徐々に失われ、性愚説的な世界観にシフトしていく。連日のように痴呆的なTV番組を見続け、うんざりしてくると、「もしかして俺はとんでもないお馬鹿な社会に生きているのか?」という気分になり、同胞日本人の知性が信じられなくなってくる。かくして、人は(日本人は)皆賢いという伝統的な性賢説的な世界観が日々揺らいでいるのではないかと、そーゆー話でした。

 このシリーズでは、「本来」という言葉を頻繁に用いています。「本来、日本人は〜」と。しかし、「本来〜」なんて言葉を使うというのは、裏を返せば「現状はそうではない」ということです。このシリーズを書き始めた動機は、正直自分でもよく分からないのですが(締め切りが近いから何か書かなきゃという意識が一番大きいけど)、あれこれ伝え聞く日本人の劣化ニュースに対し、「えー、そうなの?んなことないでしょ?本来、、、」というところが原点にあったのかもしれません。

 そして、また、だったらいっそのこと性愚説に180度転換するのもテかなという思いもあります。オーストラリアなんか性愚説社会だと思うのですが、「人は必ずミスをする」「馬鹿は必ずいる」ということを前提にしているからこそ、自他のミスや愚かさに対する大らかさと優しさがあり、だからこそ逆にボランティアも盛んであり、政治意識も高くて投票率100%近く、オンブズマンのようなチェック機構も発達し、政権交代はコンスタントに生じ、カンタスも人身事故を起こさず、クーリングオフも広く認められ、ずっと前から死刑は廃止されて誰も問題視しない。人は(他人も自分も)必ずどっかでミスをするし、馬鹿な振る舞いに出る人間は必ずいると思ってる。思ってるからこそ常に臨戦態勢で対処しようと政治社会システムも組み上げるし、何か起きても感情的にブレないで済む。どちらがいいのか一概には分からないのですね。




文責:田村




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