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今週の1枚(09.11.23)






ESSAY 438 : 性賢説と性愚説(その5)   教育と「教育産業」の違い 〜家元制度というシステム


 写真は、K-Martというスーパー店内。
 昨日(22日の日曜日)のシドニーは気温41度!熱波が押し寄せてきたわけですが、こういうときは海か涼しいショッピングモールに避難するに限ります。というわけでシェア先に送っていくついでにAshfieldのショッピングモールでウダウダ時間を潰していました。こっちのスーパーは面白いです。もう15年も住んでるくせに、未だに「おお、こんなものが!」「なにこれ?」というのがあったりして、暇つぶしにはもってこいです。上の写真も取っ散らかった画像なんですが、ルームランナー(英語ではtreadmillという)とかをスーパーで売ってるわけです。しかも4万円弱。よく見るとバスケットゴールもありますね(他の写真によると69ドルと99ドルだった)、ブランコもあります(149ドル=1万3000円くらい)。向こう正面には自転車のタイヤだけ売ってたり、自転車が箱で売られてたり。

 さて熱波ですが、通例夕方に涼しくなるのですが、今年はわりと遅く、夜になっても平気で38度とかあったのですが、深夜0時時点で30度まで下がったところで、お約束の南風暴風雨状態になってきました。オーストラリアの南風は寒風です(南極おろし)。小学校の理科で習ったように、高熱による上昇気流で気圧が低くなったところで、冷たい南風がなだれこんでくるわけです。明日の予想最高気温は21度。1日で20度も違います。これを書いてるうちに、外が台風のように荒れてきました。さあ、これから夜明けまで一気に10度台まで下がりますから、なんか上に羽織るものを着なくちゃ。




 過去回は、第一回(No.430)第2回(No.432)第3回(No.434)第4回(No.436)です。

 前回は、千葉周作と嘉納治五郎という幕末から明治時代に登場した、教育界の革命児ともいうべき両名を紹介しました。
 今回は、「なるほど彼らの教授法は非常に画期的だったのは分かった。で、それがどうした?So What?」の部分です。それがなんで性賢説というメインテーマにつながるの?と。



千葉・嘉納メソッドと伝統的名人教育の共通性


 このシリーズの初期には、法隆寺の宮大工の話、日本刀の話などをして、日本人というのがいかに名人・匠(たくみ)にこだわってきたか、教育システムには完全プロコースしかなく、名人のための教育課程と名人が使うギアしか開発せず、「そこそこでいい」という一般教養 or 趣味レベルには殆ど興味がなかったかのような話でありました。これが第一回と第二回ですね。

 しかし、第三回には江戸時代の庶民文化の勃興と世界に冠たる初等教育システム・寺小屋を見ましたし、前回には剣道・柔道における超画期的な教授法の確立を見てきました。これらはこれまでの名人系とは全く系統の違う教育システムです。前者は完全プロ志向であり初心者から名人までの全人生教育であるのに対し、後者はいかに入門者に対して間口を広げるか、いかに明瞭で分かりやすい合理的なカリキュラムを設けるかという初等レベルでの改革です。

 この二つを並べてみると全く違う教育システムのようでいて、でも本質は同じではないかという気がするのですね。なぜなら、両者とも共通して「本当に実力をつける」という一点に集中しているからです。

 名人・職人系の教育システムも、ブッキラボーで不親切のようでいて、でも実際にそれで名人が育っているわけです。他人様からお金を取れるだけのレベルの技術を習得するというプロフェッショナル教育として見た場合、あれはあれでとても合理的なシステムなのでしょう。だからこそ、今でも各プロフェッショナルな専門分野においては、似たような教育システムが生きています。それは伝統芸能の世界に限らず、料理人であれ、新聞記者であれ、刑事であれ、医師であれ、猟師であれ、そして弁護士の世界でもそうでした。

 このあたりの機微をもうちょっと突っ込んで書いてみます。まず、通り一遍の技芸を習得しただけでは本物のプロにはなれません。プロになるためには、口では言えない、言葉で教えても意味のない「サムシング」が必要で、それはもう現場で身体で覚えていくしかないでしょう。なぜなら、現場というのは、教室とは違って千変万化し、あらゆるイレギュラーな事態が発生するわけですし、そこで常に一定のクオリティを求められるのがプロというものです。不可抗力であっても責任を取らされるし、言い訳も許されない。

 例えば料理人が食中毒を発生させたら死活問題です。客に病人が出てしまったら、いつもの仕入れ業者を信用してたとか、前の晩に停電がおきて冷蔵庫の電源が切れていたとか、そういう言い訳は許されないでしょう。漁師さんは、不漁の責任を天気予報が外れたせいには出来ないし、落語家は、今日の客は質が悪いから受けなかったという言い訳もできない。刑事さんも、犯人の犯行が完璧すぎるから捜査が難航したとも言えない。このように不可抗力であっても責任を取らされるのがプロだとするなら、これはもう理論的、カリキュラム的に教えられるものではないです。だって予測できないことを教えることは出来ないもん。じゃあどうするかといえば、そーゆー厳しい現場で常に一定の成果を出している”本物のプロ”の仕事を間近に見続け、自分でもやってみてボコボコに鍛えられていくしかない。つまり、@本物の仕事を、A膨大な時間、見続けるしか方法がないです。

 弁護士の世界でも、師匠に怒鳴られながら修行しますが、それでも色々なところでアドバイスはあります。先輩や、同僚なんかからも有益なサジェスチョンを受けます。しかし、カリキュラム的にはやらない。司法試験や研修所で一通りのことをやりますし、弁護士会でも研修は行います。それなりに有益ですが、しかしそんな教室設例のように実際に物事は進まない。例えば、依頼者との付き合い方があります。依頼者に裏切られることを「背中から撃たれる」と言いますけど、裏切りまではいかないけど、弁護士を便利使いしようという人もいますし、弁護士に対して100%ありのままに説明してくれる依頼者もマレです。生身の人間ですから、どこかしら都合の良いように説明するし、都合の悪いことは無意識的に記憶から脱落したりもします。依頼者の言うことを100%鵜呑みにして戦略立ててたら、相手方からとんでも証拠が出てきて法廷でドッカーンと玉砕する危険もあります。自己破産事件などでは、最初の段階で本人が述べる負債総額は、最終的に集計してみると大体2倍になるから、自主申告で3000万円と言ってたら、まあ6000万くらいかなと見当をつけて方針を立てる。また、頼まれて企業の顧問になったはいいけど、この企業は実は暴力団と裏でつながってたり、悪徳商法をやっててあとで摘発されたりすると一蓮托生の運命になりがちです。目の前でみるときには、本当に善良で誠実そうな人に見えたりするんですよね。でもって、知らない間に勝手に顔写真とか名前が使われ、パンフレットに「私もオススメします」なんて印刷された日には目も当てられないです。メチャクチャ恐いですよ。まだしも真っ向から敵対して、宅急便で犬の生首を送りつけられる方が対処しやすいです。

 こういうジャングルのような現場においては、系統だったカリキュラムやマニュアルは存在しえない、、というか、むしろ発想を限定する危険すらあります。「○○しておけば大丈夫」と思ってしまって油断を招く。どうやって一人前に成長していくかというと、結局”痛い思いをする”以外に方法はない。しかし、”痛い”どころか死んじゃったら元も子もないので、そこは師匠が見てないようで見てて、「お前はひっこんでろ」とかガードしてくれるのですね。あとはワンポイントアドバイス。車の助手席に乗ってるときに、ボソッと師匠が言った一言がすごいヒントになったり、酒飲みにいって「こんなこともあった」といってくれる先輩の体験談が役に立ちます。いずれにせよ、現場で揉まれる以外に成長のしようがないのですね。

 したがって名人クラス、プロクラスの修行をしようと思ったら、結局昔ながらの徒弟制度的な部分が残ってしまうわけです。まあ、封建的な体質が良いとはいいませんが、OJT(on the job training)ですよね。だから、法隆寺の昔から本質は変わってないだろうし、これからも変わらないだろうと思います。それはもう幾ら時代が進んでも、マニュアルだけでは恋愛が出来ないのと一緒ですよ。もう千変万化するから、こればっかりは現場で叩かれて鍛えられるしかないという。

 一方、千葉周作や嘉納治五郎が行った「教育改革」ですが、これは柔術や剣術から神秘性を排斥して、「より速やかに効率よく実力をつけさせる」という教育の本質に根ざしているので画期的だったのですが、でも、上記のプロ教育だって神秘性は徹底的に排斥されています。そりゃ、大工さんで道具をまたいで歩いたら思いっきりぶん殴られたとかいうことはありますし、「大股で歩くな小股で歩け」とか口やかましく躾けられたりしますが、あれは別に神秘性を助長するために言ってるのではなく、プロが自分の道具をおろそかにしていい仕事は出来ないとか、気持ちが緩むと思わぬ失敗するからいつも一定のテンションを保っておけという意味で言ってるわけで、十分に合理性はあるわけです。

 ということで、古来の教授法と千葉周作の理詰め教育は、本質的な部分で矛盾してないと思うのです。


日本の教育産業 〜家元制度


 千葉、嘉納の両名の教育メソッドが、古来からの職人教育と違わないのであったら、では、彼らの教え方は何でそんなに画期的で、何が変わっていて、何をそんなに大きく改革したのか?それは、それまでの剣術や柔術の教授法に対して画期的だったわけです。

 はい、ここで、だんだん分かってきたのですが、日本古来の職人技と千葉周作の明瞭カリキュラムの他に、これまで触れてこなかった第三の領域があるのですね。それはなにかというと「教育産業」です。「他人に教えることによって生計をたてる」という産業。教師やインストラクターという職種です。こんなの大昔は無かったです。ほとんど職人現場の教育で事足りていましたしね。もっともそれに近いのは、最高学府であった寺における仏教・僧侶教育ですが、あれも奈良・平安時代は高度なインテリ達の共同研究室みたいな感じだったろうし、時代がくだって一休さんみたいな寺男や修行僧は、教育機関と言うよりはもう職業教育の一環として見た方がいいでしょう。幕府や藩のなかで「○○指南役」なんて役職が出てきますが、あれも江戸時代以降の平和な時代の産物だといえるし、それにしても特権階級のためのものです。あとは一般に個々の師匠に弟子入りするという感じでしかない。授業料システムもあったかどうか怪しいです。

 だからプロの教師、師範、インストラクターが出てくるのは、もっぱら江戸期以降に庶民文化が盛んになって、また剣術や柔術道場が出来てからだと思います。それまでもそれらしき存在はいただろうけど、パーソナルな師弟関係はあれども、インダストリー(産業)として成立していたかどうかは疑問です。それは例えば孔子の弟子に顔回や子路がいたとか、釈迦にダイバダッタがついてたとか、キリストにペテロがいたとかいうのと同じで、別にペテロから授業料をとってキリストが生計を立てていたわけではない。

 だいたい、それでメシが食えるわけでもないのに、「面白いから」とか、「なんかの役に立つかもしれないから」とかいう漠然とした理由で習い事をするというのは、それなりに社会経済が発展してからのことでしょう。食うや食わずでカツカツに生きていたり、戦乱に次ぐ戦乱だったらそんなことやってる余裕はないです。時代が下って、ある程度世の中が豊かになってから、趣味的な習い事という風習が発生し、ニーズあるところにビジネスありの原則から、教育産業という分野が興ってきたのでしょう。

 考えてみたら、伝統的な職人教育というのは教育産業の対極にあるようなものです。だって、授業料というものがないし、それどころか師匠が弟子に給料を払っているのですから、むしろ真逆の関係に立ちますよね。師匠からしたら、弟子が一日も早く使い物になってくれないと大赤字ですから、いきおい「本当に現場で役に立つこと」を教えますし、否が応でも合理的にならざるを得ないでしょう。教育が失敗した場合の最大の被害者は自分(師匠)なんですから、そりゃあ真剣にもなろうし、実戦的にもなるでしょう。教育それ自体が最終目的ではなく、目的はあくまでも実力をつけて働いて貰うことです。

 ところが教育産業の場合、教えること自体が目的であり、さらに最終的な目的は「安定的な授業料収入を確保すること」です。もちろん効率の悪い教え方をしてたら客も来ませんから、教育方法の合理性と授業料獲得はある程度のところまでは同一線上にあります。しかし、最終ゴールが違う以上、どっか微妙なベクトルの差があっても不思議ではない。

 その差は、例えば、客(受講生)集めのための誇大広告です。どうせ授業料を払うなら最高の師匠につきたいと思うのは消費者の素朴な心理ですから、剣術においては誰もが「我こそは天下無双」と豪語するようになります。このあたりは予備校の広告で「東大進学実績全国No.1」と言っているのと大差ないです。そして師匠の権威を絶対化するために、数々の神秘化が行われます。「摩利支天が枕元にお立ちになり奥義を授かった」とか、神様という誰も反論できない絶対的な権威を持ち出して粉飾するわけです。中世ヨーロッパの王権神授説みたいなものですね。神秘化は、消費者の理性的な判断や即物的な合理性を誤魔化すために持ち出されますが、同じように「精神」「心」というファージーな要素を持ち出して、単純に強いか弱いか以外のサムシングあるのだよという精神主義にもつながりやすいです。

 第二に授業料徴収システムです。定期的な月謝の他にも、様々な名目をつけては収益を増やそうとしますね。入門料であるとか。日本の賃貸借契約の昔ながらの慣習である「更新料」「権利金」みたいなものです(実は法的根拠は何もない)。経営者も頭を絞っていろいろ考えるわけで、技術向上の目安となる段階を細かく設け(目録とか名取りとか)、昇級するには昇級試験の受験料を取り、昇級したらしたで師匠や師範代など関係者にお礼名目での儀礼的出費を求めるとか。しまいにはお礼欲しさに段位を非常に細かく設定したりします。また、勉強系の教育システムの場合は、オリジナルのテキストを作成して高額で売るとか、指定図書とかギアを買わせてキックバックを貰うとか、このあたりは現代資本主義と全く変わりません。

 カリキュラムや”卒業”も、言うならば利潤の極大化という資本主義の原理に則って行われたりするから、消費者的にはもっともらしく見えながらも、純粋に技術習得という見地からはあんまり意味のない課程を作ったりもするでしょう。また、あまりに早く上達して卒業されちゃったら儲けも少ないから、適当にチンタラ教えたり、いろいろなコースを新設して消費者の購買意欲をそそったりするでしょう。もったいぶって中々奥義を教えようとしなかったり、教えたところで抽象的な禅問答のような奥義だったり。さらに、弟子が師匠よりも強くなってしまったら師匠の面目丸つぶれ=重大な経営危機になりますから、仮に剣技で負けそうになっても、「それまで」と止めて、「心が伴ってない」とかファジーな理屈で師匠の勝ちにしてしまったり。そのためにも精神主義や神秘主義の強調はメリットあります。

 また、たまに道場破りが現れたら、弟子達に順番にやらせて、疲労したときに師匠が出てきて勝つとか。あるいは道場破りをする方も、明らかに師範が弱かったとしても3本のうちに2本は負けてやり、メンツをたててやります。そのうえで、師匠からしばらく客分として逗留し弟子の稽古をつけたり、他の道場破りを撃破してもらったりしてもらうという、業界内部の慣行というか談合というか、共存共栄システムがあったりします。

 まあ、全ての流派がこういったインチキまがいであると言うつもりはありませんし、技術に伴う精神の重要性は強調してもし過ぎることはないでしょう(千葉も嘉納もともに精神の重要性は説いているし)。しかしながら、なかには不心得な教授者がいたり、どうしても道場経営という縛りがかかってしまったりというようなことは、あり得る話だとは思いませんか?大体、これらの経営メソッドは、今の日本でも脈々と続いているでしょう。今の話を読んできて、どれもこれも「ははあ」とピンとくるようなことばっかりでしょ?

 日本独自の教育産業システムについて、もうちょっと続けます。
 技芸伝授が一定レベルに達して弟子が一人前になるとします。すると弟子は一本立ち、独立をしたりします。この場合、師匠との間で円満独立しないと、のちのち業界でやりにくくなる場合があります。あくまで師匠を立て、許可を貰って独立し、一種ののれん分けのような形で営業します。ちなみに弁護士でもイソ弁が独立して自分の事務所を構えるときの挨拶状には、「○○先生のお許しを得て」みたいな書き方をする人が多いですな。別にボス弁と喧嘩して独立しようがやっていけないなんてことはないので、何となくの昔の名残りでしょうね。この表現は日本社会のいろいろな局面で見られます。

 さて、円満独立したあとも元師匠(本家筋)とぶっ太いパイプがついていたりして、困ったときにアドバイスや有形無形の助力を仰いだりという健全な関係があったりしますが、場合によっては「のれん代」みたいな形で月々ロイヤリティを払うようなシステムになってるケースもあります。それが嵩じてくれば一種のフランチャイズシステムになり、さらにエスカレートすればマルチやネズミ講になります。

 さあ、ここまでくると、日本古来の家元制度に触れないわけにはいきません。
 家元というのは、武道や職人芸の世界よりも、お茶やお花、日本舞踊、能などの芸能系によく見られる制度ですが、遡れば江戸時代に出来たそうです。まあ、それ以前はお金払って華道を習おうというほど社会が平和で成熟してなかったし、茶道の元祖の千利休の頃もクライアントはもっぱら戦国武将だったりして、「授業料を払って入門」という感じではなく、その関係はヨーロッパにおける宮廷音楽家とパトロン貴族みたいな感じだったのでしょう。一般庶民というマスを相手にマーケティングがはじまるのは江戸時代、それも中期以降かと思われます。

 家元システムといっても一概には言えませんが、おおむね新人から頂点(家元)まで10段階以上の階層があり、昇段する度に関係各所に上納金(”心付け”などの美名で呼ばれる)を収めるシステムになっていたりします。巨大な集団ともなれば、富士の裾野のように膨大な末端から、頂点に向ってお金が吸い上げられるキッチリした集金システムがなりたっています。かくして受講者は何かというとお金を払わされるのですが、それでも自分が上にあがり、お弟子さんを取れるようになってくると立場は逆転し、以後弟子の弟子から集金を吸い上げる美味しい立場になります。老後もバッチリ安心です。

 というわけで、けっこうマルチ的だったりしますよね。マルチそのものではないのは、この集金システム(子を増やして親が潤う)”だけ”を目的にしているわけではないからです。でも、まあ、美味しいシステムですよね。上納金吸い上げも、露骨にそうは言わずに、技術使用料とか流派名の使用料とかいろいろですが、合理性あんのか?って思いますよね。とある大学や道場で技術を身につけ、一本立ちし、やがて自分が教える立場になったときに、母校に売り上げを吸い上げられるなんてことは普通ないでしょうに。

 これだけ美味しいシステムだと、その美味しさのど真ん中、利権の中枢においては、激しい権力闘争が起こったりするのでしょうね。そういえば日本舞踊の花柳流で4世の座+数十億円の資産を巡って裁判沙汰が起きたりしてましたよね。しかし、この家元システムは、何もお茶やお花の伝統芸能に限りません。よほど日本人の性格にマッチしているのでしょうか、あらゆるところに”家元もどき”のシステムが蔓延しています。例えば、医者の世界とかね。東大医学部 or 慶応医学部を頂点とする二大"流派”があり、その巨大な権力機構で上に上がっていこうと思えば「白い巨塔」のような熾烈な競争を打ち勝っていかねばならず、また上の意向に逆らうと出世も出来ず、なにかとやりにくい。師匠筋の大ボスがNOといったら、いくら海外で効能が実証されている薬剤であっても認定されないとか、その逆に危険があったとしても見て見ぬふりをしなければならないとか(薬害エイズ訴訟を想起されたし)、いかに明白な医療ミスがあってもそれを指摘すると後々の出世の道を閉ざされるから医療過誤で患者側で証言してくれる医者が極端に少ないとか。今(というか年がら年中)話題になっている官僚の天下り問題だって、あれも家元制度の一変形と言えなくもないです。

 医者に限らず、学者であれ、官僚であれ、暴力団であれ、巨大な産業集団において、日本人が内部秩序を形成しようとすると、どこかしら家元的になっていってしまう。それは過去のエッセイで何度も指摘しているように、日本社会における流動性の低さ=業種や所属を転々とせずに、一つの業界、集団に所属し、”忍の一字”で下から徐々に上がっていくという生き方が、結局の所、最も生涯年収が多くなるという日本社会の構造や、日本人の性向に由来しているのでしょう。確かに長いことガマンさえしていれば、よほど大きなミスでもしない限り、後になるほど収入が増え、老後は安泰という方式は、生活の安定と心の安心を求める日本人に合ってます。自由競争、実力主義といえば聞こえはいいですが、それって老齢その他で実力が衰えるやいなや、たちまちのうちに喰い殺されてしまうシステムであり、肉食系民族の生き方でしょう。いまだに不況になると公務員の就職人気が上昇するという民族には向いてないあるね。

 最も日本人離れしているかように思われる浮草稼業であるエンタメ・芸能界ですら、プロダクションからの離脱、独立で揉めるのは日常茶飯事だし、「今まで育ててやった恩も忘れやがって」「後足で砂をひっかけるような真似」と罵倒されるんだからね。この親分子分の永続的な関係、巨大な疑似家族のような関係を最終的に選んでいるのは僕ら自身ですし、”家”元制度とは言い得て妙です。

 以上、多少意地悪気味にこういった家元や教育産業を書きましたけど、だからといって全ての流派、全ての技芸や産業において、こういったマルチまがいの利権が横行し、利権争奪を巡って醜い争いが行われているわけではありません。とってつけたフォローをするつもりではないのですが、実際には99%の人が、純粋にその職務や技芸に励んでいるんだと僕は思いますよ。お茶やお花も、好奇心からはじまり、面白さに目覚めてからは向上心が湧き、また市井で教えておられる先生達も、リーズナブルに、合理的に教えようと心を砕いているでしょう。ただ、全体の1%くらいの人が、上昇志向が強いというか、アンビシャスというか、「その気になってる」人達で、この人達がウザウザやってて業界全体の評判を落としているという部分もあると思いますね。こういう人達を、本人達は「エリート(選良)」だと思ってらっしゃるようですが、大局的に見れば”選悪”のようにも思えるのですが。

 さて、話を戻して、千葉、嘉納メソッドの革命性ですが、彼らが画期的だったのは、こういう江戸時代の教育産業に対しての話、神秘と精神主義にまぶした流派が多かった中での話です。特に千葉周作は、徹底的に神秘性を排斥してますし、さらに10段階もあった細かなレベルを僅か3つに減らして受講生の経済負担を軽減しています。それでも教え方が合理的で、分かりやすく、誰でも短期間に急成長するという教育機関としての純粋な実力だけで勝負し、大人気を博します。だからやっぱり革命的ですよ。嘉納にいたっては、それまでの柔術流派を合体させるだけでなく、柔術そのもののコンセプトの根本的変更=殺人技から世界的に通用しうる「スポーツ競技」に変えちゃってるわけですから、これまた革命的です。

 この二人って、今から想像するに、おそらくは「変わり者」だったのでしょうね。従来の教授メソッドで生計をたてようなんてつもりは全然ないみたいです。というか、嘉納は、前回も述べましたが東大卒のエリート教育者であって、別に柔術師範になんかならなくなって一生は安泰でした。それを周囲の大反対を押し切って柔術を習ったりしてるのだから、相当な変わり者です。彼らはおそらく教育産業をやってるという意識はなかったでしょう。千葉周作の場合は、日本人がコロリとやられがちな神秘・精神性に対しては全く不導体の精神体質、まるでガイジンのような精神の持主だったように思われ、「こうすればもっと上手になるじゃん」ってあまりにもクリアに見えてしまうから、ついつい率直にそれを教えてたというのが原点だったような気がします。嘉納治五郎にしても、チビコンプレックス克服のために柔術をやりはじめ、その面白さにハマってしまい、「こんな面白いモノ、皆もやればいいのに」みたいなところが原点だったんでしょうね。

 いずれにせよ、それで食っていこうとあんまり思ってなく(まあ、多少は思ったでしょうが、メインではなく)、単純に教えたい欲求、いかに効率よく、いかに短期間に技術を習得させたら良いかばかりを考えていたのでしょう。受講生の技術の向上”だけ”を考えるという意味で、古典的な職人教育と共通項があり、逆に江戸期(ひいては現在に連なる)の教育産業(習い事)システムからすれば全然違う視点でやっていたということです。「教育」そのものと、「教育産業」との違いみたいな。

 メインテーマである日本人の性賢説的体質でいえば、親和性があるのは古典職人教育&千葉・嘉納システムでしょう。「ちゃんとやれば絶対誰でも上手になれる、名人になれる、人はもともと賢いのだ」という認識があるからこそ職人世界では一人前になるまで面倒見たし、千葉・嘉納両名の人間観も「ちゃんと学べば誰でも強くなれる」という確信があったと思います。もともと素質のある選抜エリートだけを対象にした発想ではなく、「人はみな」という発想に立っている。

 じゃあ、家元的な習い事システムの場合はどうかというと、これはあんまり性賢とか性愚とかとは関係ないですね。特に選抜エリートを対象にしたやり方でもなく、むしろ庶民相手にマスマーケティングを展開したという意味では「人は皆」系の性賢説的ベースがあったとも言えるけど、それはマーケティング展開においてそうだったというだけで、そういう哲学があっての話ではない。むしろ、大きなヒエラルキーをつくり、弟子達をあたかも家畜のようにしてメカニカルな収益システムを築き上げるという意味では性愚説に近いものすら感じます。まあ、いずれにせよ、あんまり関係ないんじゃないでしょうか。


 さてさて、このシリーズも大分長くなりました。この先どうしようかな(^_^)。
 人はもともと賢いのか、それとも愚かなのかという観点から、古来からの教育システムを見てきて、ここで本当なら教育界の新参者である学校教育・公教育を見てもいいのですね。現代では、教育というと取りあえず学校教育を思い浮かべるくらい大きな存在になっていますが、歴史的にいえば全くの新参者ですよ。明治になって初めて出来たんだもんね。1000年以上の歴史を誇る職人教育や江戸期からの習い事システムに比べたら、最近やりはじめたところくらいに思っていてもいいかもしれない。で、この日本の公教育は性賢説に立っているのか、性愚説に立っているのか?思うに、本来の意図は性賢説だったのでしょうが、結果として、エリート選抜システムという性愚説に寄与しちゃってるような気がしますね。そのあたりを書くのも面白そうです。

 それとも、教育論はもう飽きたから、より本題に戻って、現代の日本社会に流れる二つの世界観=性賢説的&性愚説的の相克とその傾向=日本人は同胞日本人を馬鹿だと思ってるのか、それとも賢いと思っているのか=を書くか。どうしようかな。まあ、考えておきます。




文責:田村




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