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今週の1枚(09.11.09)






ESSAY 436 : 教育界の革命児・千葉周作と嘉納治五郎 (性賢説と性愚説-その4)   


 写真は、Newtownの駅前。10年以上続いたオーストラリアのバブル景気で、妙にお洒落でチャラいスポットが増えたシドニーですが、この駅前界隈はガンコに昔のまんまですね。中南米あたりの街を彷彿とさせるワイルドなたたずまい。しかし、この殺風景な駅前のすぐ近く(徒歩5分程度)が前回の天国みたいな写真の風景になっているところが面白いです。大体の法則としては、大通り沿いや駅前が殺風景で、ちょっと中に入ると嘘みたいに風景が変わります。
 ちなみに最近の新聞を読んでたら、イタズラ書き(グラフィーティ)の規制法案が強化されるようで、半年以下の懲役という罰則だけでなく、最近は壁付近にスプレーのシンナーを探知する機械が開発され、探知すると密かに警察に連絡がいき、警官が駆けつけるというシステムが着々と進んでいるそうです。先日も逮捕された少年達がいたとか。




 なんかダラダラ書いているうちにシリーズ化していますね、性賢説と性愚説第四回です。
 過去回は、第一回(No.430)第2回(No.432)第3回(No.4342)です。まあ、別に通して読む必要もないですけど。

 前回予告したように、今回は千葉周作と嘉納治五郎の両名について書きます。どちらも有名ですから、お聞きになったことのある人も多いでしょうし、僕などよりも良く知っておられる方もいるでしょう。嘉納治五郎が現代柔道の父ならば、千葉周作は現代剣道の父といっていいでしょう。なぜ彼らをここで取り上げるかというと、非常に合理的な教育システムを創設したからです。日本教育界の革命児と言ってもいいくらいです。



千葉周作  徹底して”神秘”を排除した理論の人


 千葉周作は幕末の剣士で、自身の道場(玄武館)を開設したのは1822年です。江戸の三大道場の一つに数えられるほど隆盛をみて、門弟は坂本龍馬をはじめ、清河八郎、伊東甲子太郎、藤堂平助、山南敬助、吉村貫一郎(「壬生義士伝」の主人公ですね)など錚々たる面々が出ています。千葉道場を隆盛に導き、数多くの剣士を輩出したのは、単に千葉周作が強いとか、有名であるとかだけではありません。その合理的な教授法にあったと言われます。

 それまで剣術というのは、型を繰り返す稽古と修行の末に、いわば”自然と”強くなり、レベルが上がると師から奥義を授けられるという段取りでしたが、整然としたカリキュラムがあるわけではありませんでした。過去回で見てきたように、諸先輩や師匠の働きぶりを身近に見て、自分であれこれ工夫していくうちに上達するという、日本古来の修行法ですね。

 しかし、大工や料理人などの職人技芸だったらそれで良かったのかもしれません。なぜなら、仕事であるから四六時中それに接し、また一定レベルの技芸の習得には、多少のセンスの良し悪しはあったとしても、格別の運動能力や天才的な才能が要るというものでもありません。先輩達のビシッとした仕事ぶりを間近に見続け、叱られ続けていくことで、自ずとセンスも要領も磨かれていくでしょう。しかし、剣術は違う。朝から晩まで剣を振って、それで仕事になるような人は、いわゆる剣術指南役や道場主などごく一握りの人間であり、多くの練習生は他に仕事を持ちながら通ってくるという、今でいうスポーツクラブのような存在です。まあ、坂本竜馬などのように諸藩の留学生や、行き場所のない次男坊などが朝から晩まで道場に巣くうということはあったでしょうが、”仕事”にはなりにくい。

 また、剣術は運動能力という生来の素質による部分が多いです。したがって、ほっといても最初からある程度強い人間が、さらに強い連中の中で揉まれながら天賦の才を伸ばしていくという色合いが強く、誰にでも出来るものではない。そして、師匠から伝術される奥義や各派の流儀も、「気の発するところを定め、天地の真理に至る」みたいに禅問答みたいな、「なんのこっちゃ」的なものが多く、これでは一部の天才しか理解できない。まあ、もともと剣術というのは、一般人には到底たどり着けない境地に達することを目的にしているところがあり、いわば仙人とかスーパーマンになる超人思想ですから、そんなに簡単に誰でも理解できたらマズイってこともあるでしょう。
 ところが千葉周作が考案した教授法はあらゆる点で非常に画期的でした。竹刀と防具を活用した打込稽古を重視しつつも、組太刀と呼ばれる古来からの型稽古とのバランスを説いています。また、教え方が非常に平易で論理的で、竹刀の持ち方からはじまり、小指はこう、中指はこうという部分まできめ細かく教えています。その際、「なぜそうすると良いのか」という部分を理論的に、懇切丁寧に説いている点が当時としては斬新です。技についても出し惜しみせずに、技術体系を相撲になぞらえて「剣術68手」という形で最初から明瞭にバーンと提示しています。要するに今の剣道の原型を作り上げた偉業なのですが、あまりにも現代剣道につながっているので何が画期的なのが逆に分かりづらかったりします。

 それまでの木刀による型稽古オンリーの練習法は、ひたすら流派独特の型を反復するだけで、「なぜそうするのか」という理屈の部分が乏しい。武術の型というのは、数学の公式のように、そこに至るまでに高度に洗練された理論があります。しかし反復しているうちに”術理”と呼ばれる原理を体得出来るのは、運動能力と剣のセンスに恵まれた一部の人間だけです。誰にでも出来ることではない。双方パンパンと竹刀を交わす撃ち込み稽古の方が遙かにとっつきやすいし、納得もしやすいです。例えば、こういう体勢からこういう具合に刀を振り下ろすと、体重移動の関係で二の太刀や刀の返しが遅くなるから、こういう体勢の時はこう打つ、という理論があり、それが結晶化して「型」になるのだけど、実際にやってみてバンバン打ち込まれた方が「なるほど」という納得感も違うでしょう。やってみなければ分からないし、身につかない。

 古来からの型稽古は、一部のエリートにしかわからない方法でもあると同時に、練習生の「わかる」ということをあまり重視せず、「とにかく黙ってやれ」というポリシーですよね。しかし、同じ素振りをするにしても、なぜそうするのかというポイントを知ってるのと知らないのとでは効果が全然違います。竹刀稽古重視の点は千葉道場に限らず幕末の剣術道場の一般的な風潮でしたが、竹刀稽古だけだと、どうしてもチャンバラ的、スポーツ的になりがちなので、千葉周作はそれぞれのメリット・デメリットを考え、且つ練習生が型の意味を理解できるだけの技術段階に達したらキチンと型も教えるという具合に、向上段階に応じて隅々まで気を配っています。

 ところで、剣術には宮本武蔵のように限られた天才のみが到達できる「神の領域」と、老若男女誰でも楽しめるスポーツとしての要素があります。ま、これは剣に限らないけど。それまではどうしても神系にシフトしていて、練習方法も、カリキュラム体系も、道場内秩序も何かというと神秘的になりがちでした。枕元に不動明王が立って奥義を伝授したとかなんとか。とにかく分かりやすかったら神秘もクソもありませんからね。ところが千葉周作は、これはこの人の生理体質だと思われるのですが、そういった神秘性を一切排除しています。もう生理的に嫌いなんでしょうね。彼は「強くなるにはどうしたらよいか」「どうしたら誰でも強くなれるか」という合理性をひたすら追い求めます。名人レベルの上級者の段階では、確かに口や言葉では伝えられない感性一発の世界であり、誰でも到達できるものではないけど、初心者から中上級くらいまでは合理的に段階を踏んでいけば誰でも到達できる。その部分を徹底的に解剖し、体系化し、誰にでも分かるようにマニュアル化しています。

 この合理精神は、技の上達に応じた発展段階(段位)を、それまでの8段階からわずか3段階に簡易化した点にも表われています。当時、上位の段位に到達したら門人は謝礼金を払わねばならず、これが練習生には経済的負担になっていたのですが、それがシンプルになれば支出も減るということです。初心者の技の導入部から発展へ、そして道場生のお財布の中身にまで配慮したということで「あらゆる点で画期的」だったわけですね。

 このような千葉道場が流行らぬわけはなく、マーケティング的にも大成功をおさめます。しかし、本当に凄いのは、素人に優しい方法論を展開しただけではなく、素人に"媚びた”やり方ではなかったことです。とっつきやすくて面白いだけではなく、実際それで強くなった。当時5年かかるといわれたレベルまで、千葉道場だと2年で到達できるという評判だったそうです。また、竹刀稽古は、えてしてスポーツ化し、"棒振り”とバカにされるように実戦性をなくしがちでしたが、千葉道場から藤堂平助など新撰組の猛者が多数輩出したことから考えると、実戦でもちゃんと強かったことが分かります。百姓町人でもそこそこ強くなれ、且つ天才型のエリート剣士も強くなれるという方法を編み出し、出し惜しみせず、誰にでも分かるクリアさで示したという。



嘉納治五郎  青白きインテリから世界のJUDOへ


 千葉周作が近代剣道の産みの親なら、嘉納治五郎は柔道です。というか、「柔道」というネーミングとコンセプトが嘉納治五郎によるものであり、彼の興した講道館柔道が現代柔道と殆どイコールであることを考えると、その関係はよりダイレクトです。一親等の直系尊属くらいの感じ。千葉周作の場合は「辿っていくと千葉周作に行く着く」というくらいの”ご先祖”的なつながりですけど。

 嘉納治五郎は、天神真楊流柔術と起倒流を学んだ後、この二流派を取捨選択し、独自の講道館柔道を体系化していきます。「柔道」という言葉は嘉納のオリジナルではないらしいのですが、この言葉とコンセプトを一般に広めたのは間違いなく嘉納治五郎でしょう。では、それまでの柔術と彼以降の柔道とは何が違うか?というと、別に技そのものはそんなに違わないのですが、決定的に違うのは、教え方と体系、その根底にあるコンセプトです。

 "武芸百般”と通称されるほど、古来日本には戦闘術が盛んに研究されていました。武器は何もいわゆる”剣(太刀)”に限るものではなく、槍術、薙刀(なぎなた)、小太刀、はては鎖鎌、手裏剣など武器もバラエティに富んでますし、剣の使用法も、抜いてから斬り合うだけではなく、いかに抜くか=抜いた瞬間に最速スピードに達するにはどうしたら良いかという抜刀術や居合などが発展しています。このうち素手ないし小さな武器を持っている状態で、素手ないし武器を持っている敵と相対する技法が柔術と呼ばれる一群です。典型的なのは戦場において太刀が折れたり無くした状態で、組み討ちにもっていって相手を押さえつけ、脇差しで相手にとどめを刺すような場合です。しかしそれに限らず、こちらが殆ど素手という状態を前提とすることから、日常生活における護身術として発展します。また太刀など相手を容易に殺傷させる武器を持ってないことから、相手を生かして捕縛したい捕術としても発展したといわれます。いずれにせよ、相手に決定的なダメージを与えることをメイン目的としない(やろうと思ってもしにくい)ことから、その攻撃力はマイルドであり、むしろマイルドであることに積極的な意味を見いだしている部分もあります。

 柔術は江戸時代になって研究が進み、諸流派が興ります。
 ところで、剣術もそうだけど、荒々しい実戦(戦国)時代が終わって平和な時代になってから、ゆっくり原理を考究し、盛んになるのだけど、「必要が無くなってから研究が進む」というのも変な気もしますよね。「意味ないじゃん」という。しかし、よーく考えてみたら、それも当然という気もします。なぜなら、本当に本物の実戦というのは、人間同士の戦いとは限らないのですね。諸葛孔明の計略にハマって、落とし穴に落ちたり、上から岩石や材木を投げ落とされたり、火攻めにされたり、兵糧攻めにされたり、ほとんど計略や戦略のレベルで話がついてしまったりします。もっといえば謀反を起こすとか、軍事同盟を結ぶとかの政治レベルで話がつく。戦場だって、数十キロのクソ重い防具を着て、朝から晩まで走り続けるわけですから、戦闘以前に過労や脱水で死んでしまう場合も多かったでしょう。だから個々人の武術や技量もクソもない段階で終わってしまうという。必死に武芸を修練するくらいなら、栄養のある物を食べてぐっすり眠る方がより”実戦的”だったりもします。

 したがって、その種のミもフタもない現場が忘れられた頃から、一種のシュミレーションとしての”戦場”、ヴァーチャル性を前提にしてから、個人技である武道が発展したとも言えます。一番平和な江戸時代に一番武芸が発展したのもそーゆーことでしょう。そのあたり、武道が内在している本質的な虚構性と趣味性がみられて面白いです。リアルに強くなりたかったら、強力な武器を持っていた方が勝ちですし、多くの人間を味方につけた奴の勝ちです。だから地上最強の男になりたかったら、地上最強の軍隊を指揮しうる最高司令官、つまり米国大統領になることです。日本だったら自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣になることです。だから強くなりたかったら勉強しろと。でも、それじゃあ面白くないよね。男のロマンがないのよね。ここで、面白いとかロマンとかいう要素が入って来ちゃうところに趣味性があるのでしょう。

 さて、江戸時代の武術研究期に、素手組み討ち体系は「柔術」「やわら」と呼ばれるようになります。なんで”やわらかい”のかといえば、単なる力技ではない、という点の強調だとされます。人間というのは、二本脚で立つ細長い物体ですから、重心が悪く、すぐにすっ転んでしまいます。力だけで相手を押し倒そうとしても、双方バランスが悪いから、両方の力のベクトル合成で、容易に変な体勢になり変な風に転んでしまう。よく傷害事件などでありますよね、二人で揉み合ってるうちに階段から転落して、、とか。逆に言えば、力のベクトル合成やバランス論を考え、そこから導き出された一定の法則を守っていれば、相手の力を利用して相手だけ転ばすことも出来るようになる。そこに”技”というものが入り込む余地があり、ガツンという固い一撃ではなく、ふんわりとした魔法のような術で勝てるので「やわら」という名称になったといわれます。まあ、諸説いろいろありますが、「柔よく剛を制す」というコンセプトは、近代力学的には当たり前なんだけど、当時としては斬新だし、哲学的に意味深でもあるので広まったのでしょう。

 嘉納治五郎という人は、幕末に生まれ、明治時代に生きた人です。柔道の父と呼ばれるだけに、いかつい豪傑を想像しがちですが、本質的には青白きインテリ・エリートです。この点が、当時百派以上あったと言われる柔術流派のうち、なぜ彼の講道館柔道だけがダントツに栄え、国内だけではなく世界的にひろがり、オリンピック正式種目になるくらいの国際的知名度を獲得できたのか?という謎の答になります。不思議だと思いません?確かに嘉納治五郎は格闘の才能があり、実際にも強かったそうですが、しかし彼レベルの名人は当時他にもゴロゴロいました。また、柔道以外にも遙かに伝統のある相撲や剣術があるのに、なんで柔道だけがオリンピック種目になっているのか?中国拳法や、空手や、ムエタイや、サンボ、カポエラ、サファーデ、、、世界に無数にある格闘技からなんで日本のJUDOだけが突出してオリンピックで採用されているのか。

 意外と知られてないのですが(僕も知らんかった)、嘉納治五郎は東大出のバリバリのインテリです。講道館柔道の創設、普及という大偉業を成し遂げたため、金ピカの学歴など陰に隠れるようになってますが、彼の正業は教育者であり、学習院の教頭、東京師範学校(→東京教育大学→筑波大学)の校長をやったり、地元兵庫県で灘校の創設に一役買ったりするなど、草創期における日本教育界の重鎮の一人でもあります。また彼には東大閥という学閥人脈があり、その点がそのあたりの町道場主とは違っていた点です。飛び抜けたエリートであり、だからこそ日本人として初めて世界オリンピック委員会の委員にも任命されてもいるのでしょう。

 しかし、単に人脈と政治的立ち回りだけで講道館柔道が有名になったわけではありません。講道館柔道は実際にも強かったです。世に出るキッカケになったのは、警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝ったことで、これによって講道館柔道は警察の正課科目として採用されることになります。そこで勝てるだけの技術体系を講道館柔道は持っていたし、そこで勝てるだけの弟子を育成したし、そこで勝てるだけの人材を惹きつける魅力があったのでしょう。

 嘉納治五郎は、当時の日本人からみても身体が小さく、虚弱であり、それが大きなコンプレックスになっていたようです。いわゆる典型的な青白きインテリですね。この点、180センチ以上の巨躯の持ち主だった千葉周作(当時の平均が155センチだから現在に置き換えたら2メートル近いくらいの感覚でしょう)とは好対照です。千葉周作は剣術の天才ですが、別に剣術をやらなくたってナチュラルに強かったのでしょうが、嘉納治五郎はコンプレックス克服のために柔術を志します。体格に恵まれない者にとって、「柔よく剛を制す」というコンセプトは限りなく魅力的だったでしょう。ところが時代は明治維新の文明開花で、今更武術を習うなんてのは完全に時代的にアウトでした。それでも彼は、周囲の大反対を押し切って、必死に柔術師範を捜し、師事します。体格的には恵まれなかったけど、格闘には天賦の才のあったのでしょう、実際にも彼はどんどん強くなります。

 誰とやっても勝てるくらいに自信がついたところで、彼自らの講道館柔道を興します。弱冠21歳です。嘉納治五郎の写真や銅像は、渋い顔した小柄のおじいちゃんなので、どうしてもおじいちゃんイメージがつきまといますが、彼にも若いときはあり、若いときから活躍していたのですね。さて、ここにいたって、チビ劣等感の青白きインテリ=柔術獲得=教育者=東大卒という彼を構成する各ピースが幸福な化学変化を起こし、結晶化していきます。彼は、彼自身が「弱い人間が強くなる過程」というのを体験しています。そして、その過程を、持ち前の抜群な頭脳によって体系化していくことが出来ます。さらに教育者として、単なる体術、護身術、戦闘技から「教育」というエッセンスを抽出することに成功します。成功したらそれをまた理論化し、誰にでもわかり、当代一流の教育論として昇華させることも出来ます。そして、最後に東大卒という学閥人脈が彼の理論と実践をより広く世界に普及させることに役立ちます。英語もバリバリ出来たといわれますから(創設期の東大は今の10倍以上エリートだったろうし、それだけの実力もあった)。

 嘉納治五郎の偉業は、一言でいえば「武芸としての柔術」を「スポーツとしての柔道」に再編成したことであり、且つそこに大きな「教育的価値」を付加したことです。本来的に戦場における技術である柔術は殺人術であり、危険な技も沢山あります。そもそも「安全な武道」なんてものは存在矛盾でもあります。それを安全なスポーツに転化するためには、武道が持っている危険な”牙”を抜く必要があります。また、体系化するために必要な技と不要な技を取捨選択します(ちなみに、柔術二流派がベースになってますが、他にも沢山学んでるし、弟子にも学ばせています)。

 同時にルールも整備します。例えば、柔道の場合、相手を背中から落としてきれいに技が決まったら「一本」になります。しかし殺人術としてはクルリと回転させてダメージの少ない背中から落とすくらいなら、受け身を取らさないように中途半端に投げて、そのまま顔面や脳天を大地に叩きつけたり、接地の瞬間にねじって首の骨をへし折った方が効果的です。しかし、それをやったらマジに死人が出ますから、柔道を習うときに最初にその点は固く注意されます。「投げ」の最終段階には必ず「引き」を入れて、相手が首から落ちないように心がけることです。このように嘉納治五郎は、柔術が本来的に持っている牙を抜き、誰でも安全に楽しめるスポーツに替えていきます。また、そうでなければ普及しませんしね。

 千葉周作と同じく嘉納治五郎も理論の鬼であり、「なぜ投げられるのか」という論理的な究明を徹底しています。人間、そんなに投げられるものではないです。ましてや投げられまいと頑張ってる相手を投げるなんてことは、普通ではまず不可能です。それが可能になるためには、ある決定的な条件が必要です。「相手がバランスを崩していること」です。これを彼は「崩し」と表現しています。技の前には必ず「崩し」という前段階があると。重心が安定せず、重心が移動している瞬間がもっとも脆(もろ)く、その瞬間を狙って技をかけることであり、そういう状態にもっていくことです。

 僕も柔道をやってたから分かりますが、例えば足払いというありふれた技でも、普通にやってたら決まりません。静止している状態で足払いをかけても、それは単なるローキックであり、よほど腕力(足力?)の差でもない限り、倒れてくれない。だって、相手が体重60キロで静止していたら、片足には30キロの過重がかかっていることになり、30キロの重さの物体を片足だけでさっと払えるか?といったら、まず普通は無理でしょう?ましてや柔道ではデカい奴が多いので体重100キロなんかザラです。しかも、それで成功したとしても、片足だけ払っただけでは人は倒れてくれません。きれいに倒すには、相手の全体重がかかった足を払った場合です。しかし、全体重のかかった足なんか重すぎて払えません。だから、足払いなんか普通に考えてたら絶対に成立しない技なのですね。

 それを成立させるためには、ある特殊な状況が必要です。「全体重がかかるんだけど、払うのは簡単なとき」です。そんなのありえないのですが、ただ一点、相手が体重移動をしてくる瞬間、そういう状況が訪れます。例えば、あなたが歩くとき、右足と左足とで交互に体重を移動させますよね。右足を踏み出すときをスローモーションでみていくと、まず右足が完全に宙を浮いてるときは、右足に体重はかかっていません。この段階で払うのは簡単なのですが、体重がかかってないので効果はゼロです。次に、浮いた右足を踏み込み、徐々に地面につけていくのですが、まさに接地するかしないかの瞬間がキモになります。接地してないので払うのは簡単ですよね。で、次の瞬間には払われた足に向けて相手の体重はどんどんかかってきます。しかし体重移動の軸となる足は既に刈られてしまっているから、相手は自然に倒れるという。これを補助するために、足を払った瞬間に、払った側の相手の袖(右足を払ったら右手)を真下に引っ張り体重移動を加速してやると足払いのできあがりです。これで技になります。足払いはタイミングとコツさえ覚えたら、誰にでも簡単にできますよ。

 でも、もちろん相手もそういう技があることは知ってますから、そんなに不用意に一歩を踏み出しません。常に払われても良いように摺り足で歩きます。剣道でも柔道でも摺り足は基本ですが、摺り足は体重移動が分かりにくく、また安定しているからですね。足払いをかけるチャンスなんか、相手が素人でもない限りそうそう無いです。だからこそ、「崩し」がいるのですね、ガンガン前に出て行き猛攻を加える。相手の胸ぐらを掴んで、後ろに勢いよく押しながら、小内刈り、大内刈りの連続技で攻めていく。相手は、後ろに押し倒されるのを嫌いますから、必死に前に押し返してきます。一瞬、攻撃の手を緩め、相手が大きく前に出てこようとした瞬間、「不用意な一歩」を踏みだしてきたら、そこで足払いをかけると。あるいはもっと身体が泳いで重心が高くなってるときは、背負い投げや体落としなどの絶好のチャンスになります。はたまた、その逆に、相手を引っ張り、引っ張り、前につんのめらせて、折をみて、その反動で後ろに浴びせ倒すコンビネーションもあります。これを突き詰めて名人の領域に達すると、ただの体重移動だけで相手を投げ飛ばせる空気投げという神技にいたるそうです。僕ごときには及びもつきませんが。

 いずれにせよ、いかに上手に「崩し」に持って行くかが柔道の実戦の半分ほどを占めます。あとの半分は、崩した相手をきれいに投げるために、コンマ一秒でも早く投げの体勢にもっていく練習であり、自分と相手の100キロ以上の合計体重を片足一本、あるいは爪先だけで支えきれるだけの強靱な足腰です。だから柔道の練習といえば、スクワットなどの足腰鍛錬系、打込み練習という反復練習になるわけですね。

 、、などと僕がここで解説らしきものを出来るのも、嘉納治五郎先生が神秘的な柔術を、理詰め理詰めで合理的に解き明かしてくれたからです。原理を徹底的に理解し、そのために必要となる身体各部の筋力や柔軟性をつけ、徹底した反復によって連続した身体動作を身体に染みこませる。柔道が強くなるというのは、煎じ詰めればこれだけのことです。あとはどこまで頑張ってやるかどうかです。

 もう一点、嘉納治五郎が偉大だったのは、「強くなる原理」を解明し、理論化しただけはなく、これに「教育」という要素を付加したことです。嘉納治五郎自ら書いてますが、自分がまだ弱い頃は癇癪持ちでイライラすることが多かったけど、柔術を修めて強くなってからは、そういうことも減ったと。つまり、コンプレックスに苛まれているときは、心がヘタってますから包容力も乏しいけど、実際に身体的に強くなるにしたがってコンプレックスも解消し、ゆとりもでき、精神的に豊かになる。当たり前っちゃ当たり前なんだけど、改めて当たり前のことに気づくのが天才なんですよね。これを普遍化すれば、身体を鍛えることは精神を鍛えることにつながる、肉体健康は精神健康とリンクしている、つまり「体育」というコンセプトです。

 単に強くなったという結果だけでも、やっぱり違いますよね。僕も高校の時に柔道やって段位を取りましたけど、黒帯を締めるとやっぱり自信や自覚が出てきます。自分よりも強い奴は山ほどいるけど、別に自分もそんなに弱い方ではないという事実は、格好の精神安定剤になります。特に多感な思春期に何か一つでもいいから自信のあることや、達成感を得るということの効果は計り知れないです。さらに、強くなったという結果だけではなく、強くなるまでの過程があります。毎日のコツコツした地味な努力も、積り積もればここまでいけるという実体験は、人生における成功パターンの原型になります。また武道独特の、背筋をビッと伸ばして、キメるときには折り目正しくピシッとキメるという作法は、心構えや立ち居振る舞いに微妙に影響するような気もします。まあ、柔道なんかやっても、特に初段レベルだったら、実戦の喧嘩には殆ど役に立たないし、実際役にたった試しもない(そもそもそんなに取っ組み合いの喧嘩なんかする機会はない)のだけど、それ以外の教育的効果の方がはるかにデカいです。喧嘩で柔道を使ったことなど覚えている限りゼロだけど、だから「やって損した」とは思いませんよね。これはもう全然そう思わない。やってて良かったと思いますよ。

 こういったナニゲな感情の変化を、嘉納先生はさすがに教育者だけあって、その効用を的確に見抜き、理論化し、雄弁に語り、また実践したという。柔術ではなく柔道と「道」を特に意識して強調したネーミングで普及させたのも、そういった意図があったのでしょう。



 以上、千葉周作と嘉納治五郎の両名を見てきましたが、「だから、なんなの?」というと、全体の脈絡(性賢説)からすると、考えるべきポイントがもの凄く豊富にあるように思います。



文責:田村




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