今週の1枚(09.11.02)





ESSAY 435 : 世界史から現代社会へ(86) 韓国・朝鮮(3) (続)李氏朝鮮


 

 写真は、Camperdown(Newtown)の隣の公園。日曜の昼下がりののんびりした風景。来週末(11月8日)にここでフェスティバルが行われます。主催者による簡素な情報はココ、出演バンドなどはココ




李氏朝鮮/朝鮮王朝(1392年 - 1910年) (承前)

 韓国・朝鮮シリーズの第3回目、韓国・朝鮮、最後の王朝、李氏朝鮮です。
 前回は李成桂による建国と、北東アジアの昔からの週間である冊封体制についてやっただけでした。李氏朝鮮、メインは今回です。

 前回の末尾に書きましたが、李氏朝鮮の歴史は長いです。1392年から1910年まで。1392年の建国時に日本では何が起こっていたかというと、足利幕府の室町時代初期&南北朝時代です。それから戦国時代→江戸時代→明治時代の後期(日露戦争後)まで、ずーっと韓国・朝鮮は李氏朝鮮一本だったわけですね。室町幕府が日露戦争時まで続いていたと考えたら王朝の長さがわかるでしょう。期間にして519年間、歴代君主は27代。江戸幕府が約260年間、将軍様も15代どまりですから、ほぼ二倍です。なお、首都が現在のソウルの位置になったのもこの頃です。当時は漢城と言っています。

 これだけ偉大な王朝だからさぞかし創業当時は盤石の安定感を示したように思われますが、さにあらず。創業者・李成桂は李氏朝鮮王朝を打ち立てますが、必ずしも幸福な余生を過ごしたわけではありません。彼の存命中から後継者を巡って子供同士での争いがドンパチと始まってしまいます。厭世観にとりつかれた李成桂は仏門に帰依し、引きこもってしまいます。失意の創業者をよそに、尚もお家騒動は続き、勝ちを収めたのは第3代太宗。そして次の世宗の頃になって、ようやく王権は安定していきます。

 世宗(セジョン)大王(在位1418-1450)は歴代最も優秀な君主とされ、今日でも韓国では世宗の名にあやかった事物は多いです。例えば、ソウルに変わる新首都として構想された世宗特別自治市(結局遷都は出来ず、行政の一部移転に留まる)、初のイージス艦の名前とか、韓国の南極基地の名前などなど。ちなみに僕の好きなシドニー(のCampsie)にある韓国料理屋もセジョンといいますな。英語では、"Sejong the Great"といいます。

 世宗大王は、現在の韓国文化の大きな流れを作ったとも言えます。一つはハングル文字です。訓民正音という文字を開発し、これが現在のハングル文字になります。文法も構造も全然違う中国語を表わす漢字を使って韓国語を表記するには無理があるということで、誰もが使えるような文字を作ったわけですね。ちなみに日本では空海が平仮名を作ってますよね。

 世宗大王がやったもう一つの政策は、韓国の儒教文化の強化です。儒教も仏教も中国から韓国(そして日本)に伝わったものですが、韓国内では古くから仏教文化と儒教文化が並列あるいは対立していました。前々回やったように百済では仏教文化が豊かに花開き、それが日本に伝わっています。創業者李成桂は、それまでの高麗が仏教系だったので、高麗色を払拭するために仏教よりも儒教を重んじますが、上記のように失意の晩年には自分が仏門に籠もってしまうわけで、この頃までは仏教もまだまだ健在だったと思われます。ところが世宗は大々的に儒教を取り入れ、逆に仏教には冷たくあたります。いわゆる廃仏政策をおこない、高麗時代繁栄していた韓国仏教は冬の時代を迎えます。儒教が韓国文化に強く、長く浸透します。その影響の強さが、今日の日韓人の感覚や生活習慣の違いを産みだしているのだと思います。ま、それはまた後に。

 世宗はそのほかにも、天体観測、時計や雨量計、農業技術、火薬、音楽、医学と各分野を振興させています。勉強家で子供の頃から本の虫だったという世宗大王は、韓国における一人ルネサンスのような偉大な存在だと思われます。後世から崇められるわけですよね。


 7代目の世祖(1455年即位)から歴史の流れがちょっと変わります。世祖は中央集権の軍事国家を作り上げつつも、民政を安定させるなど功績はあるのですが、あまりに中央集権になったため側近政治がはびこるようになります。こうなると国が乱れるのは必定で、世祖に重んじられた創業時からの勲臣団(勲旧派)と、中国から取り入れた科挙あがりの高級エリート官僚団である士林派とで家臣団が二つに割れ、その抗争の激しさによって王族すらもツンボ桟敷におかれるようになります。この政争は追放、投獄、処刑という報復合戦のシーソーゲームとして延々続き、大きな士禍(官僚弾圧)が4つもあったことから、四大士禍とも呼ばれています。1498年から1545年まで延々半世紀近くやってるという。

 最終的には士林派が勝利を収めるのですが(1567年)、今度はまた士林派内部が東西に別れて内ゲバが始まります。これが又延々続き、この派閥争い時代を朋党政治というそうです。1591年に東(東人派)が勝利すると、今度はそのなかで南北派閥が出来るという。どうも韓国の歴史というのは、北方からの強敵に侵略されるか、内部で内ゲバをやってるかのどちらかのような気すらしてしまいます。まあ、内ゲバのない国なんか無いのですけど、それにしても凄い。

 この派閥争いでグチャグチャになっていた頃に、よせばいいのに豊臣秀吉が朝鮮出兵をやっちゃうわけですね。文禄の役(1592)と慶長の役(1597)です。韓国では倭乱というそうです。これも、日本の情勢を調べに行った家臣が東西派閥それぞれで真逆のことを言い、論戦になるという救いがたい状況になり、そのため防備も遅れ、日本軍の侵略を許すことになってしまいます。この朝鮮出兵は途中の和議交渉期間も入れて7年間も続き、腐敗が進んでいた李氏朝鮮の政治機構や経済は崩壊寸前まで疲弊します。また、日本側にしても何ら得るところもなく、骨折り損のくたびれもうけもいいところです。また、援軍を送っていた明も軍事費が嵩んで財政破綻になり、後日の滅亡の遠因になります。誰ひとり得をしていない大迷惑な秀吉の朝鮮出兵でした。

 ただし、朝鮮内部ではここまで来たらゼロリセット出来るということで、古い体制が一新されます。当時の身分は良民と賤民という大きな括りのうえ、良民の中には両班(ヤンバン、文武官という意味)と呼ばれる上流階級がいました。この固定的な身分が社会を閉塞させていたわけですが、財政破綻した政府は、誰でも国家にお金を納めれば上の身分になれる(つまり金で身分を買える)ことになり、社会の身分構成はガラリと変わります。今日でも韓国人は皆さん「うちはもともとヤンバンだ」というといいますが、そんなに全員がヤンバンのわけないのですが、そういう意識は強いようですね。ともあれ国家にお金が入り、民間に活力が出るという妙案だったわけで、これで社会は再び活気を取り戻します。

 しかし、宿業ともいうべき内部抗争がこれで終わるはずもなく、なんと朝鮮出兵当時から王位の後継者争いをやり続けていたという。ゴタゴタの末、王位についた光海君は、大粛清をおこなって政敵を追い落とし、落ち目の明と勃興する後金(清)との間で際どい外交をやり、また日本との関係も朝鮮通信使を設けて回復し、急激な財政改革を行おうとしました。しかし、あまりに急激すぎるということで反発が起こり、結局1623年にクーデターにあって追放されてしまいます。派閥的にいえば、西人派が北人派を排除したということになります。

 政権を奪った西人派とその君主(仁祖)は、明と後金の二極外交から、後金を切り捨て明一本に絞り、軍事力を強化しようとします。しかし、後金の怒濤のように朝鮮に侵略します(1627)。このときは手打ちで話が収まったのですが(そのときも開戦か否か大論争になってる)、1636年に国号を「清」に変えた後金が再び朝鮮に対してより本格的な服従を求めてきます。これを拒絶した朝鮮に対して、清は意地クソのように大軍団で攻めてきて、朝鮮側は完全な支配服従関係を飲まされます。降伏の場で王自らが満州式の土下座拝跪(三跪九叩頭の礼)をさせられたことを三田渡の屈辱と呼ぶそうです。以後、朝鮮は清の属国としての生きていくしかなくなります。ここが日本とちがって大国と接している半島国家朝鮮のツライところです。韓国の人のプライドや自尊心に対するこだわりの強さは、こういう歴史からきているといわれます。ところで、糧食乏しい籠城戦で風前の灯火になった時点でも、またぞろ城内では大論争をやっていたそうで、韓国人の論争好きも筋金入りだという気がしますね。

 以下、この種の内部抗争が李氏朝鮮史上、延々と、本当に延々と続きます。李氏朝鮮は同じ王朝が延々と続くだけに、その歴史は内部抗争史だといっても言い過ぎではないでしょう。時系列的に最後まで書こうかと思ったけど、淡々と並べていても退屈でしょうし、頭に残らないので、トピック的に書きます。

李氏朝鮮史=派閥抗争の歴史
 王朝内部での派閥抗争や論争のネタはいろいろあって、例えば中国伝統の漢人王朝(明)を助けるか、満州人の清をに与するかという外交上の問題、キリスト教の伝来により西欧に対して排斥的かどうか等々。このあたりはまだ国策論というポリシー上の争いですので理解可能ですが、なかには朝廷の儀礼(喪に服する期間)について大論争が起きたりします。はたまた、特にこれといったテーマはないのだけど、派閥争い、後継者争い、権力争い、それはもう年がら年中やってます。

 一方王様は何をやっているのかというと、臣下の勢力争いをなんとか治めようとして、いろいろな方策を試みます。例えば、17世紀後半の粛宗の時代には換局政治という方法論がとられます。これは臣下の派閥争いを嵩じさせ、敢えてシーソーゲームの政権交代を繰り返させて派閥を疲弊させようというやり方です。18世紀前半の英祖は、逆に蕩平政治というやり方をとります。これは自民党の派閥政治のようなもので、派閥均衡論ですね。派閥勢力に応じて官僚のポストを割り振るという。

 派閥もですね、西人派とか南人派とか出身エリア派閥だったらまだ分かるのですが、時々によっていろいろな派閥が出てきます。朝廷儀礼、服喪期間についての論争の時は西人VS南人派だったようですが、西人派は小論派と老論派に分裂します。もう頭がゴチャゴチャになってきたので最初から整理しましょう。

 そもそも最初は勲旧派と士林派というのがあったわけですね。創業建国の際に勲功があった昔ながらの家臣団と、その後科挙試験などで抜擢されてきた官僚エリート達の争いみたいな感じでしょうか。士林派・官僚エリート達は、初期の頃に旧来勢力(勲旧派)に弾圧され(4つの士禍)ますが、時が経ち創業伝説の威光が薄れるにつれ勢いを盛り返します。で、士林派が天下を取るのですが、取ったら取ったで四分五裂します。士林派は最初と西と東に分れます(朋党政治)。東が天下を取ると、今度は東が分裂し、北人と南人に分れます。さらに北は大北と小北に分れるという。こうなると西人と南人が協力して北に対抗し、北を失脚させたらまた南と西で喧嘩をするという。

 西が天下を取ったら、今度は王様の外戚連中に対して批判的な少論派と妥協的な老論派に分れます。粛宗時代は少論と老論とを交互に政権交代させる換局政治をやってましたが、英祖の代になると少論・老論・南人・小北を均等に採用する蕩平政治を行っていたということですね。さらに政策路線をめぐって保守的な僻派(老論が多い)と革新的な時派(南人、少論が多い)があり、またカトリックなど西洋文化の受け入れをめぐって功西派(西洋に敵対的)と信西派(受容的)になります。僻派とか信西派とかいうのは、政策論争ですから必ずも母集団である南人とか西人と一致するものではないのですが、おおむね合致するようです。例えば南人派には信西派が多いとか。キリスト教弾圧の時代には時派である、南人派、少論派が力を落とします。

 ただこういう派閥政局だけではなく、ときどき個人が異様に権力を集中して持つこともあります。例えば、洪国栄による側近政治であるとか、外戚の金祖淳が自分の地元(本貫)の安東金氏ばかりを登用した権勢政治などです。


コップの中の嵐

 李氏朝鮮の歴史を見ていると、韓国の歴史、あるいは韓国人の性向について、いくつかの特徴らしきものを見いだすことが出来ます。

 一つは「コップの中の嵐」性とでも言いましょうか、閉ざされた社会の中で大激論や熾烈を極めた権力闘争が行われるという傾向です。2ちゃんやネットの”まつり”みたいな感じで、それがコップの中であるからこそ尚更激しくなるという。これが開かれた場所で、ジンギスカンやナポレオンみたいにドドドと攻めたり攻められたりしていたら、ウダウダ理屈言ってる余裕はないというか、「力が全て」というカラッとしたわかりやすさがあります。

 なんか役所と民間企業の違いみたいですね。お役所の中では前例があるとかないとか、○年入省組がどうしたとか激しい権力闘争が行われています。民間の場合でも権力や派閥はありますが、ぼけっとしてたら会社そのものが市場競争に負けてブッ潰れてしまうという大きな「力の原理」に支配されています。だから生命力のある企業は、ある時点で人事を一新して一気に若返ったりします。死活問題だから派閥なんたらとか悠長なことをやってる余裕がないのでしょう。でも、親方日の丸体質とか大企業病にとりつかれた会社(昨今話題のJALとか)は、”コップ”性が強いから内部で激しくやっているうちに大きく外部世界から取り残される(JALでも労組が5つもあるとか)。

 韓国の人の激しい性状や論争好きなところは、もう体質なんでしょうね。そういうタイプなのでしょう。日帝支配がどうしたと、日本に対して激しく罵倒してたりしますが、今回書いててよく分かったけど、あれって別に日本人に対してだけやってるわけではなく、身内同士だとさらに過激な応酬をやっているのでしょう。なにかで読んだけど、現代に至っても親百済派と親新羅派が口泡を飛ばしあって大激論してたりして、テーマはなんでもいいんでしょうね。そこで熱く激論することに意味があるって感じでしょうか。

 これだけ年中議論して派閥抗争をやってるにも関わらず、外の世界に対しては大人しいのですね。秀吉の朝鮮出兵でヒドイ目にあったから、後日復讐に日本を征服するかというとそういう動きは全くない。清にしてやられて屈辱噛みしめているけど、ゲリラやテロ戦術で対抗するかというとそれもない。大体、韓国朝鮮が外の世界に侵略をしたということは殆どない。その意味では中国に似てますね。まあお手本にしているから当然といえばそうかもしれないし、外の世界は征服する価値もないという中華思想の表れなのかもしれません。しかし、いずれにせよ、隙さえあれば侵略しようとしてきた帝政ロシアなんかとは好対照です。


儒教体質

 朝鮮史をみるばあい、事大主義という特徴的なコンセプトがあります。事大主義というのは、「小なるものが大なるものに従うのは正しい」という発想で、前回紹介した冊封体制と表裏をなす考え方です。中国という偉大なる大国があり、周辺の小国はこの大国に従い、君臣の礼を取るという。それがもう世界の正しい秩序なのだと。

 こういった世界の秩序論は、人の道や君臣の礼について定めた儒教の説くところでもあり、李氏朝鮮においては儒教が全盛時代を迎えます。それまでの高麗は仏教文化系だったので、高麗色を払拭するという意味もあったのでしょう。また、高麗はもともとが高句麗という北方系の国であり、さらに北方系の満州族、つまり金とか女真とか契丹あたりとの交戦も含めた交流が深い。またモンゴル帝国が元を打ち立てて時は、王族は元王朝に取り入って権力を維持したという経緯があります。要するに、中国(漢人)系か北方・満州系かというと満州系の王朝だったといえるでしょう。

 それを李成桂がクーデターを起こして倒し、新たに建国したのが李氏朝鮮ですから、体質的に親中(漢)的です。当時の中国は明ですが、明と良い関係を築くという方向性ですね。ところが明が弱体化し、満州族の後金(のちに「清」と改名)が台頭してきたことにより、心情的には明なんだけど、軍事的には清に逆らえないというツライ状況になります。意地を通して清に逆らったこともあるのですが、その結果、王様自ら土下座させられるという屈辱を味わうはめになっています。心中屈折せざるを得ないというか、「力こそが正義」とあっけらかんと吹っ切れないのは無理のないところです。

 そこで、李氏朝鮮下の人々の心の拠り所は、力の強弱ではなく、物事には正しいことと正しくないことがあるという原理的なものに傾いていきます。それが儒教であり、そこから発展した朝鮮性理学・朱子学なのでしょう。韓国人の儒教体質は、李氏朝鮮時代に徹底的に骨身に染みこみ、それが現代にも連なっています。また、本家中国が夷狄・蛮族である満州族によって占領されてしまったからには、古来からの伝統的で正統な儒教王朝は朝鮮のみであるというプライドも強烈に形作られます(小中華思想といいます)。

 儒教のなかでも性理学、朱子学と呼ばれる一派は非常に哲学的、理知的です。しかし、それだけに理屈先行の頭でっかちなところが多分にあります。「正しいものは絶対正しい」という純理性は、やってる本人は陶酔出来て楽しいとは思うのだけど、実戦面においては重大なリスクがあります。第一にガチガチに石頭で保守的になりがちだということです。儒教でいう長幼の礼も、なんで先に生まれたというだけでエラいんだ?という当然な疑問は封殺し、エライものは無条件でエライというドグマティックなところがあります。そうなると礼法とか作法に詳しい奴が勝ちというコテコテの教条主義や官僚主義になりがちだし、科挙制度を中国から取り入れてるから益々石頭の官僚国家になる。この理論好き体質は、容易に議論好きに転じます。だからこそ、元や日本などの外国に攻められているときでも城内で大喧嘩していたり、服喪期間がどうのことで政変が起きるという事態になるのでしょう。

 そうそう、官僚主義、官僚崇拝的傾向は、ヤンバン(両班)崇拝傾向に通底するものがあるでしょう。両班とは高級官僚による特権階級ですが、上に述べたようにお金を出せば資格が買える時期があったこともあり、今では国民の9割以上が「ウチはヤンバンの家系」という、統計的にありえない事態になっています。

 第二に、理論の美しさや理屈の過激さに酔いしれるところがあり、理屈が先行しすぎて、著しく現実的適応性を欠くという欠点があります。このことは心の底では軽蔑している北方夷狄の清に頭を抑えつけられているという”とほほな現実”から逃避するための格好のツールにもなりうるわけです。だいたい強い奴は理屈言いませんよね。言葉よりも行動。何も言わずにガンガン覇道をいく。昔からキャンキャン吠えるのは弱い犬なのが定番のように、現実社会から背を向けてあーだこーだ言いあってるだけじゃん、という冷たい見方も出来ると思うのですね。狭い世界で理屈の過激さを競い合ってギャンギャンやってて、現実適応能力がなくなっていくというのは何処の世界でもありますが、朱子学というのはこの傾向があるように思います。もともと儒教というのは、力こそ全てというパワー系権力者から「屁理屈ばかり言ってるだけでクソの役にも立たない奴ら」と馬鹿にされる傾向があり、秦の始皇帝も焚書坑儒で儒者を皆殺しにしたし、中国でも日本でも、”腐れ儒者”とか”腐儒”とか馬鹿にする傾向があります。

 日本の幕末でも朱子学的な部分が暴走した面はあります。そもそも「尊皇攘夷」というのは、北宋(金)に押され気味でジリ貧だった南宋の学者が負け惜しみのように言いだしたスローガンでもあります。「神国日本を汚す夷狄は断固斬るべし!」と、とにかく過激なテロ行為が賛美され、その結果どうなるかまでは考えないという。先のことも考えず、現実もかえりみず、ただ一瞬の行動の美に燃焼するのは簡単だし、気持ちいいでしょう。ただ、日本の場合は、昔から儒教は単なる教養としてしか入ってきておらず、生活習慣を律する宗教的なまでの秩序にはなってませんでした。だから必要があれば儒教の教えだろうがなんだろうが平気でシカトするし、現実に正しく対応するというリアリスティックなところが強い。だから、尊皇攘夷〜!とか吠えたくっても、薩英戦争や下関戦争で西欧列強にボコボコにやられたら、「こら、叫んでるだけでは意味ないわ」とすぐに気づき、あっさり180度方針を転換し、気が狂ったかのように徹底的に洋風化し、富国強兵化します。

 日本で明治維新が起きたのに、なぜ朝鮮では起きなかったのかというと、李氏朝鮮時代の儒教文化が骨がらみで染みこんでいたからでしょう。偉大なる中華帝国の一翼を担うということがプライドの本源だった朝鮮の場合、遠隔地にあってマイペースでやってる日本の存在は常に軽蔑の対象でありました。大体、日本に"天皇””皇帝”がいるということ自体が彼らにとっては失笑の対象であり、また腹立たしいことでもあります。”天子”というのは大宇宙にたった一人、中華帝国皇帝ただ一人を指すものであり、それを辺境の島国の蛮族の酋長ごときが天皇を名乗るなどおこがましい、ものを知らないにもほどがあると。まあ、あいつらは半分動物のような東夷だから真面目に怒るだけ馬鹿馬鹿しい、てなもんでしょう。遡れば、聖徳太子が「日出ル処ノ天子」と書いた頃から、「”天子”だってさ、まったく、もう」と失笑していたくらいですから。だから日本が和服を捨て洋服を着て、ちょんまげを切って文明開化をやってる頃、朝鮮ではこの有様を冷笑していたわけですね。「これだから教養のないミーハーどもは、、、」ってな感じ。お年寄りが、ヘンなカッコして歩いている若者を冷笑するような感じでしょうか。

 朝鮮の立場や価値観で言えば、正統性や価値序列でいえば圧倒的に上である筈の自分達が、北方の満州族(女真とか清とか)の暴力によって屈服させられ、戦時中は蛮族日本にいいように従わされたという、「正しいはずなのに全然報われない」という、「こんなことがあって良いのか」という不本意で理不尽な時代が続きます。というか、歴史の殆どがそんなのばっかりです。この理不尽な現実が、理論への逃避を招き、ますます議論好きになっていくという悪循環があるような気がします。


 韓国社会に儒教が浸透しているのは、盤石の社会秩序や醇風美俗という意味では良いのでしょうが、マイナス面も多いです。とかく秩序の美しさを優先するので、どうしても保守的になり、先進的な取り組みがしにくい。次回にも述べますが、朝鮮の派閥抗争でも、開明的な人達、日本のように富国強兵を目指そうとした先見性のある人達も沢山いました。が、どうしても頭の固い守旧派に押し切られてしまう傾向があります。

 儒教的秩序美が社会の進展を抑えてしまう例としては、例えば貨幣経済や商業が中々進展しなかったという点もあります。儒教においては、商人は卑しむべき存在であったからです。歴代君主も貨幣鋳造など改革を行おうとしますが、なかなか上手くいきません。商業システムそのものが育たなかったというのは、19世紀の世界の潮流(産業革命と資本主義)にとって極めて不利に作用したと思われます。

 また、祖先崇拝や血族重視の儒教の考え方は、どうしても地域的人脈的党派性を招きがちですし、現在にも脈々と続いている同姓同本不婚=姓が同じで先祖の出身地(本貫)が同じ男女は結婚できないという慣習なんかにもつながっていきます。民法で堂々と書かれていたのですが、1997年の違憲判決を受け、2005年に法改正が行われました。

 儒教が盛んなのは勉強熱心という意味ではプラスに作用し、印刷技術や出版は盛んだったようです(でも商品流通システムは無かった)。しかし、四書五経などの膨大な古典に通じていることが奨励されるので、少数のインテリだけがエリートになり、そこにばかり社会のスポットライトが当たるという貴族社会的な面もあります。世宗大王が偉大だったのは、一般庶民も含めて全体の国力向上やインフラを考えたことであり、そのために誰にでも読めるハングル文字を開発しています。しかし、せっかく世宗が作ったハングルも、両班ら知識人階層は軽蔑して使わなかったといいます。君主の建物よりも高い建物を造るのは宜しくないという秩序感覚から、ソウルの建物は殆どが平屋だったといいますし、また下水などのインフラ整備もかなり遅れていたそうです。

 李朝500年間、社会整備や発展という観点からいえば、儒教という古典エリート教養主義が相当なブレーキになっていたのだろうなと思われます。





過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73)  現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土
ESSAY 413/世界史から現代社会へ(その75)  中国(1)  ケ小平と改革開放経済
ESSAY 415/世界史から現代社会へ(その76)  中国(2) 誰が一番エライの?〜中国の権力メカニズム
ESSAY 417/世界史から現代社会へ(その77)  中国(3) 中国における都市と農村の地域格差
ESSAY 419/世界史から現代社会へ(その78)  中国(4) チャイナリスク(1) 政治システム上の問題点
ESSAY 421/世界史から現代社会へ(その79)  中国(5) チャイナリスク(2) 派生問題〜”規模の政治”と伝統カルチャー
ESSAY 423/世界史から現代社会へ(その80) 中国(6) チャイナリスク(3) 地縁社会と高度成長の副産物
ESSAY 425/世界史から現代社会へ(その81) 中国(7) 外交関係(1)  戦後外交史の基本 東西冷戦と米中ソ三極構造
ESSAY 427/世界史から現代社会へ(その82) 中国(8) 外交関係(2)  中国とインド、そしてチベット、パキスタン
ESSAY 429/世界史から現代社会へ(その83) 中国(9) 台湾
ESSAY 431/世界史から現代社会へ(その84) 韓国・朝鮮(1) 三国時代〜統一新羅
ESSAY 433/世界史から現代社会へ(その85) 韓国・朝鮮(2) 高麗





文責:田村




★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ