今週の1枚(09.10.05)





ESSAY 431 : 世界史から現代社会へ(84) 韓国・朝鮮(1) 三国時代〜統一新羅


 

 写真は、日曜の昼下がりのStanmore駅前。別にどってことない写真なのですが、最近この”どってことない写真”が少ないなと思って。こういう写真の方が、妙にその場にいるような臨場感があるんじゃないかと。実際にこの現場に立たれたら分かるでしょうが、まんまこのとおりです。

 ところで、シドニー(NSW州)はこの日曜日(10月4日)からサマータイムに入ります。日本との時差は1時間から2時間に開きます。



 今週から韓国・朝鮮編です。
 韓国・朝鮮というのはやりにくいエリアです。まだしもボリビアとかトルクメニスタンの方が書きやすい。なぜなら、隣国であるがゆえに既に多くのことが知られていますし、語られてもいます。僕なんかよりも遙かに詳細に知っておられる方が山ほどいます。だから「別にやらんでもいんじゃないか」という気もしました。しかし、僕らが知ってたり、語ってたりする内容というのは、案外と時期が偏っていたり、あるいは視点が偏っていたりするようにも思うのですね。現にちょっと調べただけで、「ほう、そうだったのか」という事柄が多い。

 それに、僕個人の体験でいえば、韓国人というのは人懐こくてナイスな連中が多い。語学学校などではよく知り合いますけど、卒業した後も一緒にゴハン食べにいったりしたのは日本人ではなく彼らの方でした。しかし、活字やネットで見聞する韓国という国や民族は、正直取っつきにくい感じがします。えらいギャップがあるのですね。頭の中で統合しない。まあ、国家外交なんて、その時々のベクトル合成力学で幾らでも方向が変わるからアテにならないし、民族的特性ってものも幻想に過ぎないっちゃ過ぎない(”大阪人はがめつい”とか)ですから別に気にしなくても良いのでしょうけど。でも、まあ、ここらで一回、ボリビアをやるようなフラットさで韓国・朝鮮を見直すのもいいだろうと思いました。


 ところで、ご存知の通り朝鮮半島には韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)という二つの国があります。これらの国名に出てくる「朝鮮」と「韓」というの文字は、古来からこの国を表わす言葉でした。「朝鮮」の語源は、「朝のように新鮮な国」(”朝光鮮麗”)とか「鮮卑」から来たとか諸説ありますが、いずれも中国からの呼び方だったらしいです。神話の時代から檀君朝鮮、箕子朝鮮、さらに衛氏朝鮮などがあります。後に李氏朝鮮なんてのもあります。韓国というのは、紀元前の頃から朝鮮半島南部を仕切っていた三韓時代(馬韓、辰韓、弁韓)というのがあります。

 どちらもこの国を意味する由緒正しい言葉でありつつ、南北に分離してしまっている今日では、韓国といえば、南の大韓民国を意味し、朝鮮といえば北朝鮮のようなニュアンスが出てしまいます。実際、北朝鮮では韓国のことを南朝鮮と呼んだり、韓国では北のことを北韓と呼んだりもするらしく、両者を統合的に呼ぶ便利な呼称がありません。英語だったらKoreaにSouthとNorthを付けるだけなので非常に簡単なのですが。何と言えば良いのかちょっと困ってしまうのですが、ここでは深いことを考えず、また他意もなく、チャンポンに使います。


 ということで、まずはフラットに大昔の歴史からやります。やってみると、大陸・半島での出来事が結構日本にリフレクトしてて、それが面白くて、朝鮮史の部分よりも日本史の部分が多くなったりしましたけど。


三国時代

 古くは檀君朝鮮など伝説上の国がありますが、史実に残っている最古のものは紀元前にあった衛氏朝鮮であり、3代目のときに中国(前漢)の武帝に滅ぼされてしまいます(BC108年)。

 以後漢の直轄地になりますが、最も中国に近いエリアに楽浪郡が置かれ、南方の馬韓、辰韓、弁韓(三韓)などが、楽浪郡を経由して中国文化を摂取しつつ、各エリアで部族国家として形を整えていきます(原三国時代)。

 これらが4世紀になると日本史でもお馴染みの高句麗、百済、新羅、伽耶という国々になっていきます(三国時代)。

 半島南部、右側(東)が新羅(しらぎ)、左(西)が百済(くだら)、その中間に挟まれているのが伽耶(かや)といわれるエリアです。新羅と百済がまとまりのある強国であるのに対し、伽耶エリアは中小部族の連合体のような感じで、両側から押されているうちにどちらかに吸収されていったようです。


伽耶と任那日本府

 朝鮮半島の南端あたりには伽耶(かや)諸国があったとされます。ところで、僕らが習った頃には任那(みまな)にヤマト朝廷の領土があった(任那日本府)とされていましたが、いろいろな議論があるようです。戦前においては日韓併合など日本が韓国を侵略するのに都合が良いように任那日本府が利用されたフシがあります。「あそこは昔から日本の領土があったからいいのだ」みたいな。戦後しばらくして今度は韓国の方で民族主義が盛んになり、これに対する強烈な反発が起きたりします。

 それが発火点になって任那日本府問題について純粋学術的に研究が進んでいきました。ところが、これが古い話なだけに、調べれば調べるほど複雑になっていきます。新たに古墳とかも発見されているようですし。学者さんというのは、自分で頑張って調べれば調べるほど、ユニークな学説を打ち出したくなります。まあ、一生をその研究に捧げた結果、「通説のとおりで正しい」という結論だったら空しいって気持ちも分からないでもないです。また、邪馬台国論争と同じく”古代のロマン”であり、一種のミステリーでもありますから、趣味的に研究して自説を述べる人も多い。

 かくして、皆が研究すればするほど説の数が増えていき、”伽耶”や”任那”の意味内容すら諸説出てくる次第で、現在も鋭意研究中というところでしょう。研究は大いに結構なのですが、こーゆーことに政治やらナショナリズムやらを混ぜないで欲しいです。日本府があったら日本の勝ち、無かったら韓国の勝ちとか、そーゆー問題じゃないでしょ。

 僕が思うに、半島南端あたりに日本とゆかりのある何らかの存在があったんじゃないかな?という感じでしょうか。対馬海峡を隔ててあれだけ近いんだから全くの没交渉のわけはないし、現に多くの大陸の帰化人が日本に移り住んでるわけだし。それに当時の人達の感覚で言えば、海を隔てて国が違うなどとはあまり意識してなかったんじゃなかろか。海のこっちは日本人であっちは韓国人という区別そのものが大して無く、年中気楽に往来していたと思います。だって、現在の福岡あたりに住んでたら、奈良盆地(直線距離で500km)よりも釜山(200km)の方をより近しい生活圏として感じただろうし、釜山にいたら北方の高句麗よりも福岡の方を近しく思ったでしょう。少なくとも当時の人達が、19世紀以降の国家概念や論理に即してやっていたとは思いにくい。

 そもそも当時の”日本”自体がまた曖昧なんですよね。6世紀後半になってくると奈良のヤマト政権が登場し、聖徳太子らなどが活躍し始めますが、その前になるとかなり茫乎(ぼうこ)としている。3世紀頃にあったとされる邪馬台国だって未だに日本の何処にあったのかすら分からないし、邪馬台国→ヤマト朝廷になったかどうかすら不明のままです。なにしろ途中に1世紀くらい全くの空白期間があるし。だから”日本”という存在やら概念自体あるんだか、ないんだかみたいな感じでしょう。そんなカゲロウみたいな存在の”日本国”が海外植民地なんか持てたのか、また持つ必要があったのか?それと、当時の伽耶諸国は中小部族の連合体のような状態だったらしいので、日本列島あたりを本拠とする、あるいは日本を頻繁に往来する連中がその寄り合いに参加してたとしても不思議ではないです。だもんで、なんかあったんでしょうね、無いわけないじゃんってくらいの感じですか。



統一新羅
 三国ライバル時代から抜け出して半島統一を成し遂げたのが新羅です。新羅は中国(唐)と組んで隣国の百済を滅ぼし、北上して高句麗を制覇します。

 さて、ここで宿命のライバル百済VS新羅のキャラを見てみます。って、そんなに知ってるわけでもないのだけど。
 百済も、一国にまとめあげるだけのことはあって強勢を誇っていた時期もあります。高句麗や新羅を攻めていた時期もあるんだけど、どっちかというと押されている時期の方が多いようです。一番最初に無くなっちゃうし。百済文化は、優美でたおやかで女性的なものだったと言われます。弥勒菩薩像のイメージですね。この百済文化を日本が直輸入して飛鳥文化になってます。その百済文化の元ネタは中国の南方、南北朝時代やその前の六朝(りくちょう)時代の文化です。この六朝文化というのが仏教文化・貴族文化で、戦乱をまとめあげる強力な政治力・軍事力はないのだけど、やたら装飾性が強く、俗世のことは野暮だから語らないという”粋”な文化だったようです。世界史でやった”竹林の七賢人”あたりの時代です。文化的には無駄なくらい突出しているのだけど現実対応能力がないという、日本の平安貴族を一足先にやっていた大陸六朝文化が、海を隔てて中国に最も近い百済に上陸し、百済にもその良さと悪さが伝わった、、というところでしょうか。優美で嫋々とした百済文化は花開いたのですが、現実処理能力が低下するから王様も宮中も乱れ、でもってドドドと新羅に滅ぼされてしまったという。一方、新羅のイメージは、男性的で力強く、きらびやかな感じです。あんまりメソメソしてない。百済との対比は、平安貴族と板東武者みたいな感じだったのでしょうか。

 百済VS新羅は大昔の話に留まりません。今日でもライバル関係は強力にあるようで、百済は全羅道、新羅は慶尚道と名を変えてますが、地域的な対立感情はあるようです。でもって政治的にも、あるいはインフラ整備でも差があったりして、現代韓国の問題に連なっているようですが、それはまた後で勉強しましょう。

 さて、新羅ですが、新羅は新羅で隣の百済に圧迫を受け、北方の大国・高句麗から圧迫を受けていたという事情は百済と変わりません。ただ、新羅が優秀な政治能力を発揮したのは、中国(唐)と連合したという点です。当時の唐(その前の隋も)、北方の高句麗相手に領土争いをしており、結構それに消耗していました。だから、新羅と唐が手を結び、高句麗をやっつけちゃおうというのは、双方にとって妙案だったわけですね。大国唐と連合を組んだ新羅は、その圧倒的な軍事力で、まず百済を攻め滅ぼします。

 この頃、百済と日本は深い関係にあります。まあ、高句麗や新羅に押されていた百済としては、他に援軍が欲しかったから日本と仲良くしていたってことじゃないかと思います。百済が攻め滅ばされたときに、逃げ延びた百済人が日本の朝廷に百済復興と出兵を求めます。乞われた日本側も、「うげ!唐と喧嘩すんのか?」とかなりビビったと思われるのですが、それでも頑張って百済に出兵します。が、唐・新羅連合軍に負けちゃいます。日本史で出てきた白村江(はくすきのえ)の戦いです。このあたりになると史実も比較的はっきりしてきて、663年のことです。日本も当時としてはかなりの大軍を派遣したのですが、いずれも海戦でボロ負けしています。このとき貴族階級や技術者など多くの百済人が日本に亡命し、同じく貴族として厚遇されたり飛鳥文化の基礎を築いています。ちなみに新羅からも結構来ているらしく、日本の中でも両者は仲が悪かったとかいう話を読んだことがあります。


 ところで、続日本記によれば、百済の武寧王の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)という人が桓武天皇の生母であったとされてます。天皇家には朝鮮系の血筋も入っているということでよく語られている点です。ここで、例によってウザウザ言う人も多いのですが(やれ本当は身分の低かっただの、渡来して数百年たってるから血筋など薄いなど)、今の天皇本人が記者会見でそう言ってます。平成13年のお誕生日の記者会見で、日韓ワールドカップ同時開催についての質問に答えるという文脈です。宮内庁のホームページ に載ってます。

 このときの百済の人の大量渡来は敗戦亡命という政治的事件だったから史実に載ってるわけですが、史実に載らないような民間レベルではもっともっとも普通に大量に行われていたのでしょう。例えば、僕がオーストラリアに移住したって後世の史実には残らないでしょうが、そういうレベルですね。1000年以上前の話なので今では血が混ざり合って殆ど区別もつかないし、僕もあなたも百済なり新羅なりの血が入ってるはずです。

 試みに計算してみたのですが、1代遡ると2名(父母)、2代で4人(両側の祖父母)と1代上がる毎に血統数は倍々ゲームで増える。つまり2の二乗数が増えるのだから、10代遡ると2の10乗で1024人=10代あたり1000倍、桁が三つあがる。これは会計数字でいう「、」一つに対応し、英語のミリオンとかビリオンに対応します。ということは、20代で100万人、30代で10億人です。昔はティーエイジャーで普通に結婚・出産してたから、20年で1代、100年で5代だとすると、1000年では50代もあります。だから、いくらだ、、、、100兆人(血統)?

 もちろんそんな人口数はありえないわけで、このトリックは先祖を重複カウントしてるからです。極端な例をあげれば兄妹で結婚したら親・祖先の数はキッチリ重複します。兄妹はさておき、イトコやまたイトコ結婚くらいだったら幾らでもあるでしょう。遠縁となったらザラ。昔は世間が狭かったから大体どっかで祖先が重複している筈です。こうやって重複カウントをバサバサ削っていたら、祖先数も大幅にダイエットできるでしょう。しかしそうはいってもかなりの数になるはずです。それだけの可能性があったら、そのどれにも血が混ざってないなんてことはまず無いと思いますね。

 ちなみに、この血筋とか家系図というのは面白くて、遺産分割とか更正登記などの実務でやったことがありますが、3代遡っただけでもう大変。4代、5代になると、もう江戸時代になっていくから戸籍というより古文書の世界になり、家系図書いてもカレンダーの裏など大きな紙ではないと書ききれない。また明治時代までの日本人は離婚や養子が激しく、さらにお妾さんや側室みたいなもの平気であるから、図で書いてたら収集がつかなくなります。やってみると、一人の人間がそこに存在するためにはいかに膨大な人間が関与しているのかと感心します。たかが3代かそこらでそんな感慨を持つのだから、これが100代とかになったら、もう考えるだけムダという気もします。人類皆兄弟ですよ、ほんと。ウチは平氏とか源氏とかよく言うけど、正味の話、それをいうなら殆どの人が全部入ってると思いますよ。だから僕もあなたも百済人の末裔でもあるし、平氏でもあるし、源氏でもあるし、藤原でもあるし、って。

 だからこそ昔は家制度なり、家督相続というのがとても大事だったのでしょう。A家に生まれてもB家にお嫁にいったらA家の血統はそこでカウントしないというルールをカマして血統の一本化を図る。さもないと、代を重ねるにつれ膨大な血統数になってしまい、しまいには”人類皆兄弟”になっちゃって血統の意味そのものが消失しちゃう。しかし、それって行政事務や資産管理の必要から用いられた人工的なルールに過ぎず、生物学的な血統やDNAの系譜は事実として存在するわけです。片や、数十代前の血統なんかどれだけ意味があるんか?って気もしますよね。受精の度に男女半々づつDNAがシャッフルされるから一代遡るにつれ継承DNAは半減していく。ということは、さっきの話の逆数になって、50代遡った血統可能性が100兆人分だとしても、そのDNAを承継している可能性もまた100兆分の1ですわ。事実上、無意味ですよね。でも、こーゆー話ってタブーなんでしょうね〜。だって真面目にやりだしたら、家系や先祖概念、さらには万世一系の天皇家という根本ドグマがガラガラと崩壊しかねないもん。

 「蛙の子は蛙」的にDNA継承が実感的に意味があるのは、せいぜい2−3世代でしょうか。偉大な先祖をもっていても、代ごとに半減するから3代遡ったら25%、5代で6.25%しかDNA継承してないんですから。麻生元首相の3代前は吉田茂、5代前は大久保利通ですけど、だから、まあ、そんなもんじゃないスか?


 上に述べたのはまた別の意味で、より広く、直裁に物事を俯瞰すれば、日本人、百済人、韓国人という血統や民族って話もナンセンスだと思います。どんどん前に遡っていくと、縄文文化や弥生文化、稲作の伝来という時代になりますよね。日本に稲作が伝わったのは諸説あるけど、紀元前10世紀と言われます。新羅や大和朝廷よりも1500年前の話です。数百年かけて近畿地方へ、そしてまた数百年かけて関東地方に伝わったとされます。これも大陸から朝鮮半島経由で伝わったとか、南方系民族や大陸直系、いや縄文時代から既にやってたとか諸説あるわけですが、ここで「伝来」って言葉のイメージに囚われてはいけないんだろうと思います。なんか「伝来」というと、技法メソッドだけが伝わったような感じですが、そんな大昔に「水田耕作講座」なんて農業セミナーやワークショップがあった筈はないです。より直接的には、水田技法を持ってる人達が移動してきたのでしょう。移動の理由は、前の場所が気候変化その他で不適当になったとか、部族間で折り合いが悪くなって村を出てきたとか、一発当てたろという野望を持ってたとか。それはもう南北アメリカやオーストラリアに西欧人が移住してきたのと話は変わらないと思います。オーストラリアのアボリジニに西欧近代文明が「伝来」したというよりは、西欧人が移住して住み着いただけです。だから稲作の「伝来」にしたって、あっちこっちからいろんな人が日本列島にやってきて、まだ誰も耕していない&耕作に適した地を求めて広がっていったということでしょう。

 その過程で、大陸やら半島やら南方やらの人々が入り乱れ、中には逆に耕作地を求めて半島に渡っていった人もいるでしょう。さきほど伽耶・任那で「なんか関係があった」というのも、日本の方が気候が温暖多湿で耕作に適しているとして渡った人も相当いるだろうってことです。そこで成功したら、一族を呼び寄せたりもしたでしょう。あるいはやっぱり故郷がいいわと半島に帰った人もいるだろうし、半島に新天地を求めていった人もいるでしょう。実態はそんなもんだったと思いますよ。そして、水田耕作は集団作業が必要だからムラという人間集団のまとまりが出来る、安定収穫できるようになると余暇時間が出来てくるから、ヒマにまかせて文化やら軍隊が作れ、本格的な領土争いが起きる、そのうちにまとまりが良く強力な集団が出てきて、それぞれ邪馬台国を名乗ったり、馬韓を名乗ったり、、ということでしょう。これらを通観してみると、○○人とか血統とかいうこと自体、あんまり意味のあることとは思えないんですよね。



 さて、百済遠征に大敗した日本ですが、時の天皇は天智天皇です。昔の名前は中大兄皇子。そう、なぜか皆さん年号を知っている645年の大化の改新クーデータの立役者ですね。

 それまでの日本の歴史を振り返ると、日本国家の土台を築いたのは、6世紀末に20歳の若さで摂政についた聖徳太子以降だと思います。それまでは、はっきりいって暴力団の連合体みたいな感じで、かなり露骨な力の闘争であり、国家組織がどれだけ整然としていたか怪しいところもあります。大体、聖徳太子が補佐した推古天皇の前代崇峻天皇は、宮中で堂々と暗殺されてます。堂々とやってるから”暗殺”と呼んでいいのかどうか。その前にライバル物部を軍事的に滅ぼした蘇我氏の力が強くなり、天皇家など学級委員長程度の権威しか無かったのかもしれません。そうでなければここまであからさまに殺されないでしょう。殺された後も、盛大な国葬が行われたというよりは、犬の死骸のようにその日のうちに埋葬され、葬儀にも誰一人参列せず、未だにどこがお墓(古墳)なのかもわからないという。ハッキリいって、この時点で天皇家政権は蘇我のクーデターによって断絶したと言ってもいいくらいです。それを防いだのは圧倒的な知能指数で誰からも一目置かれた聖徳太子で、彼が皇室の維持をはかるともに、それ以上に冠位十二階や十七条の憲法、法隆寺建立などを行い、日本という礎石を築いたと思います。なによりも暴力や恐怖による統治ではなく法治やシステムを志向したという意味で。

 ところが聖徳太子の没後、再び蘇我氏などの豪族政治に戻ります。太子の遺児は蘇我氏によって自害に追い込まれます。そういう状況のなか、皇室の権力奪回をかけて中大兄皇子が中臣鎌足(藤原氏の祖先)と組んで、蘇我氏を滅ぼすという再クーデータが起きます。中南米諸国のような展開ですね。この大化の改新は、「改新」というだけあって革命的なもので、豪族私有地を廃止したり、全国的な統治機構と税収制度を意図したものです。律令制度とかいわれるやつですね。ただし、どうも最近の研究では、最初は掛け声ばかりで遅々として進まなかったそうです。まあね、改新当時、彼は未だ19歳ですから。理想に燃えてはいても若かったので、それだけの政治的パワーがなかったのかもしれません。ところが、これがある時期からガンガン進むようになります。それが百済遠征の大敗と百済難民引き受けです。

 天智天皇が百済遠征(唐を敵に廻す)という大バクチに打って出たのも、30代後半で脂がのってきた頃ですから、ここらで一発大きなことをって気分もあったのかもしれませんね。でも、ボロ負け。その上、唐と新羅を敵に廻してしまったわけですから急ピッチで国の備えをしなければならない。その「ヤバイ!」という対外危機感は相当なものだったと思います。だから北九州防衛ラインに水城という陣地をこしらえ、防人をかきあつめるだけではなく、首都を難波から大津まで引っ込めてます。国内の律令制もこれを機会に進みます。対外的危機感によって国家制度が急ピッチで進むというのは、黒船〜明治維新と瓜二つであり、日本というのは昔っから同じパターンのようですね。

 以後、国力を回復した日本は朝鮮半島に雪辱を果たしに行ったかというとそんなことはなく、天智天皇の死後に実弟(大海人皇子)と息子(大友皇子)との間=オジと甥の間=でお家騒動が起き、それどころではありませんでした。いわゆる壬申の乱です(672)。勝利した大海人皇子は天武天皇になり、律令制度を一気に推し進め、今日の日本の原型をほぼ作っていきます。聖徳太子の冠位十二階は、天智天皇のときには二十六階になり、天武帝の頃には四十八階になってます。行政機構がいかに着々と整備されたかです。天武天皇という人は、実に色々なことをやっていて面白いのです。「天皇」という名称を使い始めたとか、それまでのミヅラ(角髪)というツインテールを耳横でクルリと巻くスタイルを廃止したとか、陰陽道や用いたとか。要は内政に力を入れたのでしょう。その後日本はあまり外国に目を向けなくなり、藤原貴族の平安時代など完全に国内に引きこもって和歌とか詠んでますよね。一応遣唐使や遣新羅使など”おつきあい”は続いていたようなですが、積極的に兵を挙げるような動きは無くなります。そのあとも源平、鎌倉、足利室町、戦国時代と続き、秀吉の代に突如気が狂ったかのような朝鮮出兵をしたという例外を除けば、また明治維新まで原則的には没交渉が続きます。



 さて、百済を平定した新羅・唐連合軍ですが、今度は高句麗を制覇します。所期の目的を見事に達した新羅と唐ですが、今度は新羅と唐の仲が険悪になります。お約束の展開というか、よくある話ですよね。第二次大戦終結と同時に東西冷戦が始まるようなものです。676年に新羅は唐を朝鮮半島から追い出して半島統一を果します。もちろんそれで引き下がるような唐ではありませんから、新羅と唐は睨み合いを続けます。

 この睨み合いの最中に、両者の中間地帯に渤海という満州系の国家が出来ます。連載マンガのような展開で、膠着すると新しいキャラが登場するわけです。

 もっとも完全に新しいキャラなのではなく、渤海は高句麗の残党が再興した国家だといわれてます。

 渤海の領土は広く、現在の北朝鮮の北限をはるかに越え、中国東北部やウラジオストックなどロシア領をも含む広大な国です。そもそも高句麗だって、その領土は中国東北部まで及んでおり、純然たる朝鮮半島の歴史におさまるものでもない。事実、高句麗は朝鮮史に含まれるのかそれとも中国史になるのかで、韓国と中国の学者達が喧嘩のような論争になっているそうです。どこもかしこも似たようなことやってるのね。

 しかし、これもナンセンスな気もしますね。あのあたりは、朝鮮でも中国でもない満州系のエリアで、渤海の他も、契丹、遼、女真、金などの諸国が興ります。モンゴル系の騎馬民族の色合いが濃く、地べたにしがみついて耕作するわけでもないから領土という観念も僕ら日中韓の農耕系とは違うでしょう。20世紀後半から現在にかけて、たまたま彼らを代表する国家がなく、ロシア、中国、北朝鮮に分割されちゃってるわけですが、こんなの現時点においてたまたまそうなってるだけの話で、それを基準に論争したって仕方がないでしょう。24世紀くらいになったら全然違う国境線が引かれているかもしれないんだし。

 ともあれ、北は渤海、南は新羅という時代が続きます。この時期を南北国時代と称する人もいます(渤海は朝鮮史に入るという立場から)。この新羅時代全盛期に朝鮮の律令制度は進展し、また唐の文化も定着し、氏名も中国風になったといいます。

 ところが長期政権になると緩みが出てくるのは古今東西どこも同じで、新羅も渤海も内情はガタガタになっていきます。新羅の場合、中央では内ゲバにあけくれるわ、地方では反乱が頻発するわで、地方の豪族が分離独立し、後百済、後高句麗を名乗って、再び三国時代になります。後三国時代といいます。渤海の場合も、後ろ盾になってくれていた唐そのものがガタガタになったことで衰退し、満州系の契丹に滅ぼされてしまいます。


 以下、高麗、李氏朝鮮と続くのですが、長くなるので今回はここまで。






過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73)  現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土
ESSAY 413/世界史から現代社会へ(その75)  中国(1)  ケ小平と改革開放経済
ESSAY 415/世界史から現代社会へ(その76)  中国(2) 誰が一番エライの?〜中国の権力メカニズム
ESSAY 417/世界史から現代社会へ(その77)  中国(3) 中国における都市と農村の地域格差
ESSAY 419/世界史から現代社会へ(その78)  中国(4) チャイナリスク(1) 政治システム上の問題点
ESSAY 421/世界史から現代社会へ(その79)  中国(5) チャイナリスク(2) 派生問題〜”規模の政治”と伝統カルチャー
ESSAY 423/世界史から現代社会へ(その80) 中国(6) チャイナリスク(3) 地縁社会と高度成長の副産物
ESSAY 425/世界史から現代社会へ(その81) 中国(7) 外交関係(1)  戦後外交史の基本 東西冷戦と米中ソ三極構造
ESSAY 427/世界史から現代社会へ(その82) 中国(8) 外交関係(2)  中国とインド、そしてチベット、パキスタン
ESSAY 429/世界史から現代社会へ(その83) 中国(9) 台湾
ESSAY 431/世界史から現代社会へ(その84) 韓国・朝鮮(1) 三国時代〜統一新羅


文責:田村




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