今週の1枚(09.09.21)





ESSAY 430 : 性賢説と性愚説


 

 写真は先週のDust Stormの際の家の近所の風景。日本でも報道されたらしいのですが、大陸中央部の砂が強風に巻き上げられはるばるシドニーまでやってきました。黄砂のようなものです。ただし黄色くなくて赤いです。”紅砂”。Red Stormとか言う人もいます。朝起きて”妙な朝焼けだなあ”と、物珍しさで写真を撮りました。ただ写真撮っても色が上手く映らない。この写真はわりと見た感じに近いです。
 Stormそのものは半日で通り過ぎ、あとは洗車と掃除の時間です。滅多にないことで、シドニー中でも大騒ぎになってました。といっても「面白がってる」感じですね。新聞なんかでも人々の反応を面白おかしく報道していて、「アーマゲドンだ」と言った人もいるとか。「火星みたい」というのは僕もそう思った。洗車屋が大繁盛したそうです。オージーも写真撮りまくり、ネットにUPしまくりで、回線がヤバくなったそうです。
 後日談ですが、その三日後にもまた生じました。今度はうっすら程度のライト級でそれほど面白くもなく、ただ洗車したばかりの車がまた汚れたという嬉しくないことになってます。こう続くんだったらもう洗車なんかやらないもんねって気分になります。でもクリーニング業が大流行ですから、ワーホリの人は仕事をみつけやすいかも。
 このRed Stormですが、実は前日にキャンベラを襲ってたそうです。可哀想にそのときは地味な記事だから多くの人は誰も気づかなかったという。風にあおられ、運ばれ、シドニーに続いてクィーンズランドやタスマニアへ、そしてNZに行ったそうです。



 かねてから思っているのですが、西欧文化は「人間はアホである」という前提に立ってシステムを作っていき、日本の場合は「人は皆賢い」ということを前提にしているのではないか。性善説、性悪説になぞらえていえば、性賢説と性愚説です。

 性賢(愚)説というのは今回僕がテキトーに作った造語です。国語辞典で調べてみてもそんな言葉はありません。ですが、世の中では同じようなことを考えている人が3人はいるといいますが、検索したらチラホラと出てきました。僕がこれから述べるようなコトとは文脈が違っているのですが、「なるほど、こういう捉え方もあるのか」と興味深かったです。

 これはかなり面白いテーマで、考えを広げていくとキリがありません。今回も書いているうちに広がっていって、一回では終わりきれませんでした。もともとは日本のユニークさを浮き彫りにする意図ですが、性善(悪)説と同じく本来的にはどちらもあるわけで、何もかもが日欧で対照的なわけでもありません。日本の中でも局面により、人により、どちらに力点を置くかの違いはあります。また賢いとか愚劣とか刺激的な言葉を使ってますが、性賢説は人間の成長を信じるシステムで、性愚説はその人のありのままの姿を認めるシステムとも言えるでしょう。しかしいずれにせよ、かなりシステムの中枢にかかわる世界観のようで、ここをズラすと全てが変わってきてしまいます。その波及が面白くて、ついつい書いてしまいました。

 能書きはこのくらいにして、はじめましょう。


Idiot Proof

 英語に"idiot proof"という言葉があります。防弾ガラスを"bullet proof "というように、"idiot proof"は直訳すれば「防バカ対策」ということです。そんな言葉が本当にあります。Googleで検索してみたらよろし。今やったら92万件検索できました。

 日本語にはこれに対応する言葉はありません。「サルでもわかる」って言い回しがこれに対応するでしょうが、これとてここ十数年の話で、おそらくは「サルでも描けるマンガ教室」(1989)あたりから広く言われるようになったのではなかろうか。それ以前にも使ってる人はいただろうけど、個人的な言い回しの域を出ず、今日のように一般化はしてなかったと記憶してます。ちなみにこのマンガ、面白いです。日本のマンガの系譜と構造をここまで明快に解析していいのかってくらい描かれています。で、「サルまん」以前は、同じような意味のことを言おうとしたら、「やさしい〜入門」とか「はじめての〜」とか、柔らかい言い方だったように思います。今でもそうですけど。「サルでもわかる」だって、優しいっていえば優しい言い方ですよ。猿には失礼だとは思うけど、「どんな馬鹿にもわかる〜」という言い方よりは優しい。というか、そんなタイトルで本を出す勇気のある人ってそんなに居ないんじゃないかな。「どんな馬鹿にも分かる日本経済入門」とかさ、ちょっとありえないよね。


 それが"idiot proof"だもんね。「いいのか?それで」って心配になっちゃうくらいですが、英語圏では特に過激な表現という感じでもなく、ポップな感じで普通に使われています。

 →右の写真は、タイムリーに出てきてくれた先日の新聞の見出しです(もっとも記事の内容それ自体は本来の意味からは違うのだけど)。

 だからなんだってコトはないのだけど、オーストラリアに来て、書店にこの種の本が並んでいるのを見て、ごく軽いカルチャーショックを受けました。「そんなに気軽にバカって言っていいの?」という。初心者や素人が、何も知らないがゆえにイデオット呼ばわりされるのは分かるとしても、そこに含まれる底意はそれだけではない。もっとカラッカラに乾いた人間観があるように感じたのですね。

 考えてみれば、「サルでもわかる」というのは、「わかりやすい」という意味です。今はダメだけど、これを読んでいけばサルでも理解できるよ、賢くなれるよということです。つまり人間の(サルの)学習能力や輝ける未来を信じている明るさがあります。人は必ず賢くなれると。でも、idiot proofにはそんな希望の輝きは無い。もちろん学習を期待している部分もあるんだけど、絶対皆が学習するとは信じておらず、「どーせわかりっこないんだから、書かれたとおりやってりゃいいんだよ」みたいな突き放したニュアンスもあります。「わからなくてもいい」「期待してない」という。希望ではなく、人間に対する絶望みたいな黒い色合いがある。気のせいかもしれないけど、それをふと感じて、軽いカルチャーショックを覚えたのですね。


「この社会には、自分達の尺度で測ってはいけないバカがいる」という認識

 「この社会には、自分達の尺度で測ってはいけないバカがいる」という認識は、日本ではあまり普遍的ではないですが、西欧ではわりとあるような気がします。多民族社会や階級社会においては、「いろんな人がいる」というのが前提認識になりますが、「いろんな人」の中にはバカもいるということでしょう。勿論、他者との違いを認識することと、その他者を見下すこととは本質的は別次元の話です。しかし、「多様性は許容しよう、その人がそういう行動に出る自由は(理解できないけど)認めよう、しかし率直な話、どう考えても私の感覚からはその行動は愚かだとしか思えないんだが、、、」ということはあると思うのですよ。別に見下す意図はないのだけど、その状況をありのままに見て、その人を描写する最もシンプルで的確なものを探すと「馬鹿」になっちゃうという。そして、彼我の違いのあまりの激しさに、分かり合おうとか、理解して貰おうという意欲すら失われてしまうという。

 西欧人のジェスチャーでシュラッグ(shrug)というのがあります。両肩を上に上げ、両手を開き、手の平を上へ向け、小首をかしげる(あるいは軽く振る)ポーズで、「肩をすくめる」と訳されていますが、どちらかというと肩ではなく手の方に力点があるように思います。"Nothing I can do for it(どうすることも出来ないね)"を意味する空っぽの手です。だから「肩をすくめる」よりは「お手上げ」と訳した方がよりニュアンスが近いと思う。セリフを入れるとしたら「やれやれ」「処置なし」「これだもんな」「勝手にやってくれよ」といったところでしょう。このシュラッグに表わされる感情は「あきらめ」です。話の通じない相手に出会ったという。こういうポーズや表現が普通にあるということは、こういうスチュエーションが日常的に存在するということでしょう。

 いま、多民族社会とか階級社会とか言いましたが、何も多民族でなく同民族同士でもこのシュラッグは多様されます。個人の意見の多様性を認めるなかでは、同じ民族、同じ階層でも同じ考え方をするとは限らない。だから、「お好きにどーぞ」的な状況は頻繁に起きるでしょう。

 以前にも何回か書いてますが、オーストラリア社会でも人間のバラエティが激しいです。そのために「バカの被害」というのも多々起きる。いくら多様性を認めるという美徳があるとしても、腹に据えかねることもある。例えば役所の窓口や、ショップの店員の対応など、「どーしてそんなにバカなんだ、お前は!」とイライラすることもあります。郵便局に荷物を持っていったら、これまでOKだった内容でも絶対にダメと確信ありげに言う。これまでOKだったじゃんというと、それでもダメだの一点張り。あるいは「今日から規則が変わった」とかミエミエの嘘を言い張る。払ったのにも関わらず何度もインボイス(請求書)が送られてくる。電話口でやりとりをしてると消耗します。キミには人間としての恥じらいとか、後ろめたさはないのかね?というくらいのバカもいる。

 しかし、オージーや西欧人の名誉のために書いておくと、おっそろしく頭のいい人もいる。それもムチャクチャ沢山いるし、人格円満な人も多い。僕なんかよりもはるかに賢いこの人達は、こういう「バカの被害」を受けていてカリカリしないんだろうか?と思っていると、あるイギリス人の賢い青年が言ってくれました。「そーゆーのはもうどうしようもないから、さっさとあきらめるんだよ」と。それか、「うわあ、素晴らしい!」とかミエミエのヨイショをしていい気にさせて仕事をして貰うんだそうです。それは彼個人の意見だけではなく、他にもいろいろ聞きます。

 学校見学など企業案内のような局面では、一番エライ社長あたりが気軽に案内してくれることが多い。エライ人の腰が軽いというのがこの社会のいいところではあるのですが、そのときに、エライ筈の人が末端のスタッフに対して結構気を遣っているのが分かります。一番給料の安そうな人を紹介して、「そして、彼女が我が社のホープ、スーパーアシスタントのエミリーだ」みたいな感じで持ち上げる。まあフレンドリーなのはいいんですけど、段々と、もしかしてこれって異様に気を遣っているのではないか、、という気がしてきました。海外経験のあるあなたはどう思いますか?少なくとも、日本社会のように「あー、キミねー」みたいにアゴで使うような感じではない。もちろん、そういう職場もあるのでしょうけど、あまり一般的ではないような気がする。

 というわけで、僕も僕なりに学んで、愛想良くヨイショしたり、ダメだと思ったらさっさと諦めたりします。なんでオーストラリアくんだりまで来てアホのご機嫌取りをせなアカンのかと情けない気分になることもありますが、そこはぐっと堪えて、出来るだけ気にしない。そういえば、ウチの大家さんも、何かあると、「あー」と一瞬頭を抱えるが次の瞬間、"Never mind, never mind!"って大声でやけくそのように言いますね。

 なんか多様性を認めるのもストレスフルなことなんだろうな、大変だろうなって思っちゃいますね。
 オーストラリアの人は、僕ら日本人がイライラするような局面でも平然と待ってたり、文句を言わなかったりするのですが、それはオーストラリア人が気が長いとか、弱者に優しいという側面も大いにあるのですが、それと同時に「馬鹿慣れ」してる部分もあると思いますね。誰かのドジで迷惑を被っても、そんなに日本人ほどイライラしない。ストレス耐性が高いというか、最初からそんなに期待していないのでしょう。生きてりゃ雨の日もあるさって感じ。

 そのくらいならいいのですが、「バカの被害」がとんでもなく甚大な場合もあります。原発とか、航空機の整備とか、配電盤とか、まかり間違えば人命の関わるような重大な仕事があり、その仕事を信じられないような馬鹿がやる可能性だってあるわけです。そうなると笑ってるだけでは済まない。もちろんシュラッグして済ませるような問題でもない。

 そうなると、「この世には馬鹿がいる」だけではなく、「この世にはどーしよーもない馬鹿がいて、時としてとんでもない災いを巻き起こすこともある」という緊迫した世界観になります。先週だったか、シドニーの都心部の電話ケーブル(テレストラというNTT相当の大会社のケーブル)が工事かなんかのミスで一気にぶっ飛んでしまい、まるまる一週間くらい都心部にあるあらゆる企業の電話回線、インターネットが使えなくなるというとんでもない事態があったそうです。信じられないよね。

 そうなると、"idiot proof"という言葉がガゼン意味を持ってきます。防弾ガラスの"proof"という言葉が使われるユエンです。危害から「身を守る」という防衛的視点。「本当に、もう、信じられないような、ありえなような馬鹿がやっても、このとおりやれば絶対大丈夫」という作業マニュアルを作ろうとする。オーストラリアのカンタス航空が世界で唯一人身事故を起こしていないというのも何となく頷けます。しかしながら、それでも尚もこんなミスが起きる。

 ヨーロッパ(特にイギリス)のような階級社会の場合、貴族階級やブルジョワジーのような有産階級と労働者階級があり、上の階級は下の階級を基本的に信じていない、特に能力的に信じていないところがあります。その分、貴族には知能、人格、教養、社交術などに異様に高いハードルを課せられます。単なる家柄や血筋だけではダメで、実力が伴わないと上流階級としては認められない。階級社会なんだけどそのベースには実力社会がある。したがって、たまたま下賤な出自であっても、飛び抜けて優秀な能力を示したものは個別にピックアップし、貴族としてサーの称号を許します。一代(だけ)貴族なんてのもあります。どこまでいっても一握りの優秀な連中と大多数の凡庸な庶民という構図ですね。まあ、正味の話、実際のDNA的な能力ではそれほど差がないとは思うのですが、とにかく差があると思ってる。

 日本の貴族は、平安中期頃までは政界の実力者という実力が伴ってましたが、源平武家政権の勃興後は、毒にも薬にもならならい「お公家さん」になります。むしろ無能の象徴のようにすらなる。純粋に血統が大事で、天然記念物みたいなものです。実力でのし上がった人間が箔を付けるために婚姻関係を結ぶというデコレーション機能しか期待されなくなります。その代り武士階級に高いハードルを与えこれが貴族階級のようになりますが、これも「貴族」というゴージャス感は少なく、むしろ西欧でいうナイト・騎士に近い。いずれにせよ明治維新の四民平等で消滅します。日本でも事実上の階級はあるかもしれないし、皇室を敬うとか上流階級に憧れる心理は あるだろうけど、少なくとも制度化はされていない。それにいくら憧れるとかいっても心の底の底では「同じ人間だろ」とふてぶてしく思ってるところがある。「生まれながらにして自分よりも上位の人間」の存在を、本音の部分では認めていない。違いますかね?

 アメリカの場合、もともとが跳ね返りの移民国家だから貴族なんかおらず、それどころか自由と平等を高らかにうたいあげた独立憲法を持ってるし、それが心の支えになってるからイギリスとは真逆とすら言えます。しかし、黒人奴隷制度という思いっきり矛盾する階級制度を持っていたというマイナスの遺産がある。そうかと思うと東部海岸あたりにエスタブリッシュメントがあり、また大量の不法移民もありという混沌とした社会状況になるので、そうそう無邪気に人間の能力を無条件に信じるわけにはいかない。権利としては平等というのは崩さないけど、実力は思いっきり不平等だと思ってる。一方、アメリカというのは、開拓民の特性なのかリアルな現実しか重視せず、イデオロギーや観念を持て遊ぶ性癖はない。このような精神土壌からプラグマティズム(実用主義)の国になり、「誰がやっても上手くいく」というマニュアルやシステムを作るのが非常に上手になる。だからフォード式大量生産なんかも開発出来ちゃうわけでしょう。この実用性一点張りが戦争における物量主義になり、ビジネスにおいてはマーケティングとかビジネス理論に転化し、自己啓発系のマニュアルが次から次へと開発される。

 イギリスにせよアメリカにせよ、本質的に人間はアホだと思ってる社会、性愚説〜性アホ説社会だと思います。表現が悪いならば、人間に多くを期待しない社会、どんな人でも参加できるように間口の広い社会と言い換えてもいい。全ての人に共通のハードルを課すことはない。なぜならば、実情に反するから。自分の常識が頭から通用しない人々が、不可避的に社会に混入しており、これはもうどーしよーもない。ここをクールに見極め、どーしよーもない現実から出発し、そのうえで全てが上手く廻るようなシステムを作っていこうという発想になるということです。性愚説といっても、「どうせ、人類みなアホさ〜、けけけ」と言ってる主義ではなく、人間の多様性を率直に認め、「成長を待つ」という不確実なことをしないということです。



性賢説社会・日本
 これに対して、日本は性賢説〜性カシコ説に立ってるような気がします。他人(同胞である日本人)に期待する、それもかなり多くのモノを期待する社会です。

 日本社会で誰からも後ろ指をさされずに一人前にやっていくためには、それ相応の能力と見識が要求されます。その基準からちょっとでも劣っていたら、周囲からボロカス言われたりもします。また具体的に聞こえなくても、自分の頭の中の”脳内世間”では言われているような気がする。

 ある意味では世界一ハードな国です。日本人の女性でこちらにワーホリや留学に来て、”多様性を許容する社会=スッピン&部屋着で都心を歩いても全然OKな社会”に慣れ親しむと、日本に帰国するときに緊張したりします。僕でもキンチョーするよね。絶えず身綺麗にし、一分のスキもあってはならない、ミスが許されない国です。結婚式の祝儀でもピン札を揃え、福沢諭吉の顔の方向すら整えなければならない。オーストラリアのようにご祝儀をクレジットカードで払う(本当にそういうシステムがある)なんて”だらしない”ことは許されない。

 なにしろ、人はみな賢くなれる、人は必ず成長できるという確信のある社会ですから、賢くないこと、無能であることは、その人が怠けていたという証明であり、その怠慢には厳しい人格非難が浴びせられます。完璧であって当たり前。ちょっとでも粗相があったら大仰に恐縮しなければならないし、公衆で恥をかいたり、大きなミスをしようものなら、潔く自害しなければならない。自殺して初めて、「お見事な最期でござった」と一同深く納得し、名誉は回復され、再び仲間に入れてくれる社会。ハードだなあ。日本でやっていけたら、世界のどこにいってもやっていけますよ。

 などと冗談めかしく書いていますが、こういった傾向は確かにあると思います。かなり薄まったとはいえ、現在においても尚も残存しているでしょう。なんでこんなに「万人に完璧を求める」社会になってるのかといえば、「人は誰でも完璧になれる」という確信、「人はもともと賢いものだ」という人間観がその根底に横たわっているのではないかと思うわけです。それも努力してそう思おうとしているのではなく、ごく自然にそう思ってしまうという。それが自然なだけに、また世界観の根っこのところに位置するだけに、この原点から派生する局面というのは多々あります。

 日本人は他の日本人に対する要求水準が高い。もちろんエリアによっては全然低いものもあるけど(例えば大学卒の学識に対する期待値とか)、総じて「自分に出来ることは、他人にも出来るはずだ」と思っている。だから、日本人の日常会話例では、「そんなの常識だろう!」「普通するか、そんなこと?」「なんでこんなことが分からないんだ」「何考えてるんだ!」「非常識な奴だ」という表現が頻繁に用いられたりするわけでしょう。常識=コモンセンスって言葉、オーストラリアに10年以上住んでいるけど、あんまり使わない。 "normal""usual" などの似たような言葉は使うけど、これらは天候とか状況とかには使うけど、他人に対して「俺が思うようにお前も思え」という文脈ではあまり使わないように思います。

 話はちょっと変わりますが、こちらでシェアを探す場合、日本人同士のシェアの方が日本語通じるし、生活習慣が同じだから楽だと思いがちですが、日本人シェアの方がむしろ持続させるのは難しかったりします。よほど相性がいいか、よほど人間が練れてないと。なぜなら、日本人同士だから相手に対する要求水準が高いのですね。同じようなことを外国人がやるんだったら許せるけど、日本人がやると許せないってことはある。例えば、夜中にいきなり音楽かけてノリノリで踊り出すとか、うるさくて迷惑なんだけど、外国人がやってると「ほー、外人さんはやっぱり陽気だな」とか妙に感心したりする。でも日本人だったら「うるせーぞ、馬鹿野郎!」って思ってしまう。ウチのストリートは閑静な住宅街ですが、ときおりホームパーティで深夜まで大音量で音楽がかかります。もうフルボリュームでストリート中鳴り響いているのだけど、誰も文句を言わない。「はっはっは、パーティってそういうもんだろ」みたいな感じなのかもしれない。僕も、うるさいんだけど、「ふーん、ああやってやるんだ」って妙に感心したりします。あんまり腹も立たないのね。

 さらに脱線しますが、ウチのオフクロがずっと前に言ってましたが、日本の街角に積み上げられている粗大ゴミがありますが、以前、外人さん(ヨーロピアンらしい)が何人か、「お、これ、まだ使えるぞ」とばかりに粗大ゴミを持って帰るのを目撃したそうです。それも誰が見てようが悪びれもせず、あっけらかんと陽気に持って帰る。それを見てて、「ああやって物を大事に使うのはエライ」「日本人は物を粗末にするようになった」という感想を抱いたそうです。でも、これって同じ事を日本人がやってたら、こうは感じないのではないかな。「あさましい」とか「恥ってものがないのかね」とか言われちゃうそうな気がする。同じ事をやっても日本人だとネガティブに取られる。日本人が日本人を差別してどうする?というと面白い傾向です。

 さきほど「万人に対して完璧を求める」と書きましたが、正確には万人ではなく、「他の日本人」に対してですね。このような日本人の性賢説的な世界観がなぜ育まれたかについては、今回は割愛します。言いだしたら一本分くらい長くなっちゃうから。ここでは、このユニークな発想をもう少しよく噛みしめつつ、根底にあるこの世界観がどのように派生していくかをもうちょっと見ていきたいと思います。

教育観〜名人養成教育
 伝統的な日本社会では、それが伝統的であればあるほどマニュアルなんかありません。それどころか教えることすらしない。「技術は盗むもんだ」という伝統がある。入門したら、奴隷のように親方や兄弟子達の下働きをやらされ、じっとその仕事ぶりを観察する。夜に忍び込んでこっそり道具を調べたりする。非常に非能率的、前近代的な社会のようですが、これには深い理由もあります。

 先日、名著と言われる「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美(西岡 常一)」 という本を読む機会があり、うむむ、、と唸りました。古い本なのですが、既に故人になられた日本一と言われる宮大工の西岡棟梁の口述をそのまま本にしたもので、古代建築技術のとんでもない凄さが分かります。築1300年の法隆寺の解体作業をやって学んだという名人によれば、1300年前の建築技術が最も進んでいて、あとは時代が下るにつれどんどん技術が低下していると。それが老人特有の懐古趣味ではないのは、次から次へと出てくる例で実証されまくります。樹齢1300年の木を使ったら築1300年は持つ、それが持たないのは建築がヘタクソだからだという。

 その精髄は、自然素材としての木を徹底的に観察し、そのクセを見抜き、組み合わせていくことです。木というのは生き物ですから、生えている場所、気候によって一本づつ個性の差があります。太陽がどちらを向いているのか、斜面にあるのかなどによって生育状況は違い、木目の詰まり方も違い、ナチュラルに右曲がりとかクセがでる。古代人はそのクセを見抜いて、上手にこれを組み合わせてバランスを取って建築した。しかも、大陸の乾燥気候と日本の湿潤気候の差を見抜いて、大陸様式からかけ離れた日本特有の庇の長いデザインにしている。庇を長くすると構造計算上負荷が高くなるから益々難しい設計が要求されるのだけど、それを軽々とクリアしている。そうでなければ法隆寺が1300年も持つ筈がない。クセを無視して、製材によって真っすぐにしても、それは見てくれが真っ直ぐなだけで木材本来のクセは残ってるから、しばらくしたら柱や梁がバラバラに反っくり返ることになる。かの名人にかかったら、鎌倉期や江戸期の大工はヘタクソで、300年程度しか持たない建築物は「それは大工がヘタクソなんや」と切って捨てられるという。

 今の日本には樹齢1000年を越えるヒノキがもう存在しないそうです。樹齢千年のヒノキを使って建物をつくり、1000年持たせる。その頃には別の樹齢千年のヒノキが育ってる。それが古代人の叡智であり、自然との共生だった。ところが今の日本は乱伐でそんなヒノキは残ってない。わざわざ台湾まで木材の買い付けにいくそうです。それも山に生えている段階から「この木と、この木」「この木は中身がスカスカだからダメ」と目利きをして選ぶという。「木を選ぶな山を選べ」というのは遙か昔から宮大工に延々伝えられた掟らしいのですが、そのくらいのシビアさで臨む。

 同じように鉄材の質も1300年前が最高に良いという。あの頃はタタラを踏んで長い時間をかけてゆっくり製鉄したので鉄の強さが違う。だから法隆寺の解体のときの古釘を再生利用したカンナなどの道具はもの凄く質が良い。時代が下りコークスなど火力が強く、製鉄が楽になるほど鉄の質が低下し、すぐにダメになる。現在の鉄はどれも使い物にならんそうです。

 これが日本古来の(というか大陸伝来のものなので世界的にそうだったのでしょうが)、職人の技術のレベルであり、「一人前」というのはそのくらいハードルが高い。もう現代の感覚では、一人前=名人くらいの感じですね。長い長い修練によって、素人には想像もつかない超絶技巧をこなせるようになってこそ一人前。なっかなか免許皆伝させてくれない。落語だったら高座に上げてもらえないしつかない、寿司屋だったらツケ場に立たせてもらえない。だからこそ、新人にも小手先の技術や仕事を教えないのでしょう。名人曰く、「教えられた仕事は身につかない」と。これは名言ですよ。

 確かにそうだわ、教えてもらったものは覚えないわ。自分であーでもないと散々悩み抜いて、試行錯誤して発見しないと技術なんか習得できない。試行錯誤する過程で、そのものに対する深い理解が進んでいく。これは単なる道徳論ではなく、日常的な経験論で分かるでしょう。

 いい例がパソコンです。パソコンは誰でも使いますが、回路の設計やプラグラミングが出来るような(セミ)プロクラスは別として、一般ユーザーでも大きく二つのグループに分れると思います。一つは、自分で組み立てられるとか、OSの再インストールやチューニングを自分で出来るとか、そのくらいのレベル。もう一つは取りあえずメールソフトやブログの作成くらいは自分でできるけど内蔵HDDの交換でジャンパーコードの設定を変えるとかになるともうお手上げのグループ。前者と後者の差は大きく、前者になるためには、真っ黒なパソコン画面に向かって何日も格闘するというツライ修行の日々が必要でしょう。マニュアル読みあさり、ありとあらゆる方法を考え、インストールしてはフォーマットをしというのを何度も繰り返すという。こういう試行錯誤を経ていくうちに、なんとなくパソコンというものに身体(頭)が馴染んでいき、カンみたいなものが育っていく。マニュアルどおりにやってたら出来ちゃった!というくらいでは、こういう理解にはならない。

 このような伝統的な世界におけるその教育論、その人間観の根底にあるのは性賢説です。「人は誰でも名人になれる」「人は本来賢いのだ」という観念です。この本にも書いてありましたが、他人様の子供を預かる以上、必ず一人前(つまり名人)に育て上げる、どんなに時間がかかっても育てるものだそうです。そう思えるのは、それが可能であるという確信あるからこそであり、また実際に育っているという事実があるからこそでしょう。


 長くなったので、以下次(々)回!次回は世界史〜現代国際社会シリーズで、そろそろ中国から次の国にいきます。韓国・朝鮮シリーズをやります。これも長くなりそうだな。





文責:田村




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