今週の1枚(09.09.07)





ESSAY 427 : 世界史から現代社会へ(82) 中国(8) 外交関係(2) 中国とインド、そしてチベット


 

 写真は、シティの谷間(The Rocksのあたり)に今を盛りと咲き誇る藤の花。こちらではジャスミンと並んで藤はあちこちにあります。きれいに庭の藤棚になってるところもありますが、もう雑草のようにそこらへんに咲いてたりもします。




 現代中国シリーズも第8回目。前回から外交関係をやっていますが、今回はその2回目。前回は、東西冷戦構造や米中ソの3極構造という大きなテーマでやりましたが、今回は中国とインドの関係、+チベット、パキスタンとの関係をやります。

 インドと中国は仲が悪いです。地域限定ですが戦争(国境紛争)すらやってます。
 世界中どこを見ても総じて隣国というのは仲が悪いものですが、インドと中国の場合はちょっと複雑です。大体インドと中国が隣国といっても、「え、どこらへんが?」とピンときません。両者の間にはネパール、ブータン、チベットがあり、世界の屋根であるヒマラヤの峻険がありますから、国境といってもあんまりイメージが湧かない。また、インドと中国との間で一体どういう利害対立が起こりうるのか、そのあたりもピンと来ない。古くからのライバル関係ってわけでもないし、民族問題があるわけでもない、宗教問題もなさそうです。では、なんで喧嘩するの?と。

 実は、インドと中国の関係を調べていくと、ほとんどもう一回世界史をやりなおすくらい、過去から現在まで世界史のいろいろなエッセンスが詰まっています。その時代、時代の世界の枠組みが分からないと分からないという。ボチボチいきましょう。


中国地図



シルクロード〜植民地支配〜パンドン会議

 インドも中国も古い国です。インダス文明や黄河文明という世界の古代文明の中心地でもあります。古代における両国の関係は、シルクロードによる文化の往来であり、その昔日本で言ってた「唐」と「天竺」です。仏教が伝来したり、孫悟空の物語のように三蔵法師が仏教典を探しに中国からインドに行ったりしています。しかし、この当時の技術や軍事力からすれば、両国はあまりに遠く、また国境付近のヒマラヤの峻険はあまりにも険しかったので、交流といってもそれほど生臭い話(国家覇権とか戦争とか)にはならなかったようです。インドも中国も、自国内のトラブルや内戦、国境付近での紛争には事欠きませんが、不思議と自分から打って出ていくタイプの国ではないですのね。お互い4000年以上の古いキャリアを持ちながら、がっぷり四つの全面戦争というのは一度もない。インド軍が北京まで攻め上ったり、中国軍がカルカッタを占領したり、、なんてことはないです。

 両者の関係が生臭くなっていくのは19世紀以降で、西欧列強の帝国主義とのからみにおいてです。当時、中国は清朝末期であり、西欧諸国は植民地獲得の野望を胸に中国に接近しています。特にイギリス。中国とアヘン戦争を起こしたり、無理やり香港をぶんどったりしています。一方インドはどうかというと、もう完全にイギリスの植民地と化しています。だから当時の印中関係というのは、イギリスと清朝の関係といってもいいでしょう。そして20世紀以降になると、中国は日本の帝国主義の支配を受けることになるから、結局、印中関係といっても両国ともその主体が存在してません。

 他国の支配の受けていた両国が独立し、主権を回復するのは第二次大戦後ですが、どちらも産みの苦しみを経験します。インドにおいては、ヒンドゥーVSイスラムという宗教対立からインドとパキスタンに分離、仇敵関係になります。中国では国共内戦が勃発し、毛沢東の共産党が天下をとるまで内戦状態に陥ります。また世界では戦後新秩序=アメリカとソ連の東西冷戦が始まります。新生中国は、さっそく朝鮮半島でのアメリカVSソ連(朝鮮戦争)に巻き込まれ、北朝鮮に兵を出したりしています。

 それでも長い植民地時代から解放され、晴れて独立をしたインド、中国両国は、立場の共通性から戦後の一時期とても仲が良いです。アメリカとソ連の世界二極支配に異議を申し立てる第三勢力として、1955年のアジア・アフリカ会議(パンドン会議)が行われますが、それに先立ち、中国の周恩来とインドのネルー首相は交互に訪問、熱心に会談を持ち、その成果として平和五原則の共同声明を発しています。

 しかし、第三世界の連帯というインド・中国の蜜月期間は長くは続きません。50年代後半におけるチベット問題により、印中関係は急速に悪化、ついには1959年の国境紛争に至ります。さて、こうなるとどうしてもチベット問題に触れざるを得ません。

チベット

 チベットも真剣にやり始めたら日本史と同じくらいのボリュームがあるのでしょうが、かいつまんで書くと、7世紀から9世紀にかけて吐蕃王朝があったり、1642年に西モンゴルのオイラート族がグシ・ハン王朝を作り、この頃からダライ・ラマ信仰が当地において支配的になります。1723年には中国の清朝の雍正帝に占領され、分割されます。

 どこからどこまでが”チベット”なのかというと歴史的に難しい問題があります。チベット地元王朝が強いときはかなり広大なエリアをもっていたそうですが、清朝による分割によって現在のチベット自治区以外は中国の領内になったり他国の領土になってたりします。もっとも広いエリアで"チベット”を捉えた場合、現在のチベット自治区、中国領、インド領、ネパール領、そしてチベット民族の唯一の独立国ブータンになります。

 1912年中国の清朝滅亡、辛亥革命の頃、チベットはお隣のモンゴルと組んで中国の新政府・国民党の中華民国と対峙します。そして中国に対して帝国主義の野望を抱くロシアとイギリスがそれを援助します。中国とチベットは緊張関係にあったわけですが、当時の中国も日本軍に侵略されていたわけでチベットまで軍事支配をする余裕もありませんでした。また、第二次大戦中は、連合国のイギリス(に支配されていたインド)が日本軍に備えてチベットまで乗り出して通信基地を建設しています。このあたりややこしいのです。最初イギリスは中国を狙うつもりでチベットを支援するわけですが、第二次大戦になると日本という共通の敵に備えて中国とイギリスが手を組むわけです。

 これがチベット問題や印中問題のややこしさの原型です。”敵の敵は味方”の論理によって相関図がコロコロ変わる。また、国家の主体も時期によってコロコロ変わる。例えばインドでは、戦後になるまでインド=イギリス帝国であったものが、戦後はインドとパキスタンになります。中国も、清朝→国民党→日本支配→国共合作→国共内戦→共産党になります。また、後に述べるように東西冷戦と中ソ関係によっても変わります。要するに大国同士のパワーバランスとその時々の世界構造によって揺れ動いているのがチベットであり、印中関係であるということでしょう。だから世界史がわからないと印中&チベット関係がよく分からない。

 戦後の国共内戦に勝利した毛沢東・共産党は、そのまま西に進軍し、1950年にチベットを”解放”します。中国軍は革命によって人民を解放する人民解放軍ですから、侵略行為も彼らのレトリックによれば”解放”になります。大多数のチベットの農奴を封建的な貴族から解放すると。戦時中の大東亜共栄圏と同じで、"解放”という錦の御旗を立てながら侵略する。中国軍がチベットに侵攻したのは1950年のことです。このとき16歳だった少年テンジン・ギャムツォがダライ・ラマ14世として即位し、インド国境に避難します。中国政府から無理やり押しつけられた17ヶ条の協定は、チベットの独立性は否定しながらも、それでも民族自治や政治体制の現状維持、ダライ・ラマの地位保全、チベット文化の尊重などをうたっていたため、ダライ・ラマ14世も一旦はこれを受け入れ、チベットの自治を確立しようとします。しかし、中国政府は自ら押しつけた17ヶ条すら守らず、徐々にチベットに対する実効支配を強化していったため、チベットにおいて反乱が起こり(チベット動乱)、ついにダライラマ14世はチベットを離れてインドへ亡命します。その際、17ヶ条の破棄とチベット臨時亡命政府(ガンデンポタン)を宣言します。

 中国のチベット侵攻は、いかに”解放”の美名を掲げようが軍事侵攻であり、チベットの人々のほかおびただしい数の古来の仏像や寺院を破壊しています。当然、国際社会で非難されます。インドとイギリスは即刻”侵略”であるとして非難声明を出しますが、だからといってチベットに軍隊を派遣しているわけでもないです。また、(亡命)チベット政府が国連に訴えたのですが、当時の国連は朝鮮戦争にかかりきりでチベットまでケアする余裕はありませんでした。ちなみにこの時点で国連に加盟していた”中国”は中華民国(国民党、台湾)であって、現在の中華人民共和国(共産党)が国連に復帰するのは70年代のニクソンショック以降の話です。だから、チベット問題が国連に出てきたとき、中華民国(台湾)は共産党への攻撃としてチベットを支持するという方向もあったのですが、その当時はいずれは自分が中国全土に復権するつもり=チベットも自分のものという気分でしたから、チベットの独立を認めていません。結局国連でもウヤムヤにされてしまいます。このときチベットを支持したのは、サラエボとエルサルバドルだったそうです。

 その後、チベットは完全に中国政府の支配下に置かれ、中国が狂信的な文化大革命に突き進むにつれ、その支配を強め、中国人(漢人)の入植を進めています。今では固有のチベット民族よりも入植中国人の方が多いくらいだそうです。一方、亡命したダライ・ラマ14世は、インドで反中国活動を行い、全世界にアピールし続けます。文革時は没交渉だった中国政府との関係も、70年代以降、ダライラマの方から現実的な妥協案(独立はしないが自治は獲得)を提示するようになります。中国政府も改革開放以降、宗教的な頑迷さはなくなり、チベットなど西域に対するインフラ整備に力を入れたりはしているのですが、ことチベット自治など政治的なことになると、相変わらずカタクナに拒否しています。ダライ・ラマ14世は長年にわたる地道な活動が評価され、1989年にはノーベル平和賞を受賞しています。

 チベット現地では、中国政府の厳しい抑圧にもかかわらず、チベット人の反乱が散発的に続いています。ダライ・ラマ脱出30周年の1989年の大抗議行動などですが、有名なのは北京オリンピック直前の2008年3月になされた抗議行動でしょう。デモをする僧侶達への中国軍の暴力的鎮圧の様子は、メディアによって全世界に配信され、中国政府は激しい国際非難を浴びました。しかし、一方では平和なデモなどというものではなく、漢族やイスラム教徒の商店への襲撃や放火など単なる暴徒だったという第三者の証言(例えば、英エコノミストのジェームズ・マイルズ記者)もあります。また、その後のオリンピックの聖火リレーが世界各国で妨害されたことから、オリンピックを政治問題化しようとする一部のチベット支持勢力の策略のあざとさが逆に浮き彫りにされてしまった観もあります。確かに世界の目をチベットに向けさせたのだけど、その効果がどれだけあったのかは微妙なところでしょう。

 なお、チベット問題といえば、パンチェン・ラマ11世の問題があります。パンチェン・ラマはダライ・ラマに次いでチベット仏教界ではナンバーツーのような存在です。パンチェンラマ10世は、ダライラマ14世がインドに亡命政府を作った後もチベットに留まり、より融和的な姿勢で中国政府と交渉し、しんどい時期にチベット仏教保護に努めていました。文革時には9年以上も投獄されていたこともあります。その10世が1989年に死亡します。死亡したあと新たに生まれ変わる(輪廻転生)とされているので、その時期に生まれた新生児から転生霊童を探すことになってます。ダライラマ14世と亡命政府は、95年にゲンドゥン・チューキ・ニマという少年をパンチェンラマ11世として認定しますが、中国政府はギェンツェン・ノルブ少年を認定し即位させています。現在、11世が二人いるという事態になっています。


インドと中国の国境紛争

 さて、話をインドと中国の関係に戻します。
 中国がチベットに進軍し、ダライ・ラマ14世がインドに亡命したあたりから、インドと中国の関係は険悪になっていきます。話は、ダライ・ラマ14世を引き渡せとかいうチベット問題ではなく、ダイレクトにインドと中国の関係、具体的には国境問題として燃えていきます。

 インドと中国の国境は約2000キロもあるうえ、もともとがヒマラヤ山脈をも含む辺境地でもあることから、従来それほど問題になったことはありませんでした。正確に国境線が定められたこともないし、伝統的な慣習で適当にやっていたという感じでしょうか。それが、19世紀から20世紀にかけて、インドを支配していたイギリスがチベットや新疆方面まで手を伸ばし、辛亥革命や日本軍の侵略などのドサクサにまぎれて国境線を定めて中国に通告するのですが(マクマホン・ライン)、中国からは拒否されます。多くの世界の紛争はもとを遡っていくとイギリスが火付け役だったりするのですが、この場合も同じで、イギリスが火事場泥棒のようにチベットに入り込み、チベットを独立国として勝手に国境線を定めたことが、後のチベット問題や印中国境問題の火種になってます。

 イギリスから独立したインドは、イギリスが支配していたエリアを承継したと思ってますからチベット方面までインドの領土だという感覚がナチュラルにあったりします。一方中国としては、そんなイギリスの一方的通告などに縛られる義理はないし、従う気はサラサラない。それでも大戦直後は第三勢力の結集という文脈で、インドと中国は仲良くやっていたのですが、チベット動乱になり、ダライ・ラマ14世がインドに亡命するあたりから、くすぶっていた印中国境問題がにわかにクローズアップされるようになります。

 1959年9月、中国軍はインド軍に対して武力攻撃を仕掛け、インド軍を駆逐します。その後、周恩来とネルー首相は何度も会談しますが、ついには物別れに終わり、1962年には大規模な軍事衝突に発展します。周到に準備をしていた中国軍は各地でインド軍を破ります。その後も交渉は続けられていたようですが、64年にはネルーが病没し、中国は文革に突き進んでいったので、どちらも辺境の国境問題に目を向ける余裕が乏しくなり、睨み合いのまま推移しています。

 これだけだったら印中の国境線に関するつばぜり合いだけなのですが、実際にはもっと話は複雑です。

 当時の世界情勢としては、まずインドとパキスタンは建国以来犬猿の仲であり、何度も印パ戦争を行ってます。また、戦後しばらくは蜜月だったソ連と中国ですが、ちょっと前にやったようにソ連のフルチショフがスターリン批判をやりはじめてから、両国の関係は険悪になります。そして、インドはソ連と仲良くなります。これはインドの回でもやりましたが(シリーズ(61)インド(3)独立から80年代の袋小路まで)、新生独立国インドのインフラ整備や自国産業保護のためにはソ連の社会主義モデルが相応しいと判断されたことがベースになってます。

 印中国境紛争も、これら世界情勢を背景にして見る必要があります。国境問題でインドが中国とコトを構えたのも、中国とソ連の仲が悪くなっていること、また台湾との関係でアメリカとも緊張関係にあることなどから、米ソの支持が得られるだろうという読みもあったと言われます。実際、この時期以降ソ連はインドと接近、アメリカもインド側につきます。一方インドにはもっと身近な仇敵パキスタンがありますが、このパキスタンと中国が仲良くなるのですね。パキスタンは独立後、アメリカと仲がよかったのですが、国境紛争で中国を牽制する意図でアメリカがインドについたことから危機感を覚え、一転して中国と仲良くするようになるわけです。パキスタンは、中国の国連復帰、常任理事国入りのために奔走しますし、国境紛争では中国支持に廻ります。これはもうパズルや知能テストみたいなもので、「旅行に行きました。AとBはトモダチです。BとCは仲が悪いです。CとDも仲が悪いです。でもBとDはトモダチです。どういう部屋割りにしたらいいと思いますか?」みたいな感じ。

 まさに”敵の敵は味方”の構図になるわけですが、ここで気をつけるべきは、発端であるはずのダライ・ラマやチベット問題が忘れられていることです。まあ、忘れてはいないのでしょうが、攻防の焦点が明らかに国家間の合従連衡問題にシフトしていっちゃうのですね。チベット問題の真の悲哀はここにあるのかもしれません。常に大国の政争の具として利用されてしまうという。

 インドとの国境紛争で勝利を収めた中国は、しかしそれ以上進軍することなく、睨み合いが続きます。逆に敗戦の憂き目にあったインドは、これを機会に頑張って核開発をしようとします。そして、インドが核兵器を持てば、鏡に映したようにパキスタンも核武装します。


インドとパキスタンと中国
 さて、仲の悪さという点では、インド=パキスタン関係はインド・中国の比ではありません。インド、中国関係などは、言ってみれば地政学な国家覇権という関係ですが、印パ関係はもともとは同じ国民だったという骨肉の争いであり、しかもヒンドゥーVSムスリムという宗教問題がもろに絡んでます。国境紛争も、ヒマラヤとかチベットとか浮世離れした辺境地の話ではなく、両国の間にあるカシミール問題という形ではるかに深刻です。

 インドがソ連との関係を深めていくのに比例して、パキスタンは中国との関係を深めていきます。そして、1965年にカシミールの領有権をめぐってインドとパキスタンが戦争を始めます。このとき中国はパキスタンに膨大な軍事物資の援助を行い、かつインドを牽制するために国境付近に兵を集めます。この中国の動きに、ソ連とアメリカはピキッと緊張し、国連緊急会議を開いて停戦させます。

 次にパキスタン内部で問題が起きます。東西パキスタンの対立とバングラデシュ(東パキスタン)の独立です。71年3月東パキスタンがバングラデシュとして独立を宣言し、パキスタン政府は直ちに出動、これを鎮圧しようとします。これに対して、インドはバングラデシュ支持を鮮明にし、同年11月には軍事行動を行いパキスタン軍を駆逐、さらに本拠地である西パキスタンまで攻め入ります。一方、中国はパキスタン支持を崩さず、軍事援助を行います。

 このようにパキスタンと中国の同盟関係はかなり律儀に守られていたのですが、パキスタンは中米関係の橋渡しにもなったそうです。中国とソ連の関係が悪化し、今度は中ソで国境紛争(珍宝島事件など)が起きるようになります。どこもかしこも国境紛争ばっかですね。ここまで中ソが対立すると、今度はアメリカが中国に密かに接近します。71年にキッシンジャーは極秘に中国に訪問しますが、そのルートはパキスタンだったそうです。この中パ関係により、中国はパキスタン領土を通ってインド洋に抜ける軍事ルート(カラコロムハイウェイ)をも開設します。


印中関係の転機〜「それはそれ」

 インドも中国もいつまでもいがみ合ってばかりいるわけでもありません。時代は常に動きます。79年にソ連のアフガニスタン侵攻が起きます。それまでインドとソ連は仲がよかったのですが、アフガン侵攻のあとソ連がさらに南下してくるかもしれないと(実際にはソ連にそんな元気はなかったけど)、インド側にも危機感が芽生えます。いつまでもソ連ベッタリでいいのかということで、周辺諸国への態度を軟化します。パキスタンは仇敵だから今更どうしようもないにせよ、中国と喧嘩腰のままでいるのも問題だということで、印中関係のムードが変わります。それに中国とアメリカが仲良くするなら話は別だという気運も出てきます。

 かといって、いきなり全てのわだかまりを捨てて仲良しになれるわけでもない。中国にはチベットや国境問題でしてやられているし、仇敵パキスタンには相変わらずガンガン援助してるしで、インドの対中視線は基本的には冷たい。しかし、ソ連が息切れして東西冷戦大戦が終焉を迎えたこと、中国が改革開放政策で経済優先に舵を切っていったことから、いつまでも過去のことにグジグジこだわっているのは損だという大きな流れになっていきます。1996年中国の江沢民主席がインドを訪問し、国境問題やパキスタン問題はあるけど、「それはそれ、これはこれ」ということで、将来的に宜しくやっていこうという話になります。なにしろ中国もインドも経済的に離陸しはじめたところであり、喧嘩しているよりも金儲けをしている方が大事だという点で一致したのでしょうか。

 この印中関係の好転は、カシミール問題にも微妙な影響を与えます。それまで中国はカシミールに断固介入という姿勢だったのですが、だんだんインドとパキスタンで話し合えばいいじゃんという具合にトーンダウンしていきます。パキスタンに対しても、カシミール問題はあるけど、「それはそれ」で、インドとも上手くやっていこうぜと言ったりもしています。この中国の動きは、ソ連の脱落によって世界の超大国になったアメリカの覇権が南アジアにも及ぶのを防ぐため、域内協力しよう、仲間割れは結局アメリカにつけいるスキを与えるだけだという戦略があるとも言われています。

 インドと中国が軟化したとはいえ、パキスタンと中国の関係は相変わらず仲良しです。中国によってパキスタンは非常に利用価値があるのでしょう。国際社会で中国支持をしてくれる友好国だし、アメリカとの秘密ルートにも使えたし、対インド戦略のカナメの位置にもあるし、ソ連の南下を防ぐ場所にもあるし、さらに台頭する中東、イスラム諸国との橋渡しにもなってます。特に、ロシアや中央アジアのところでもやりましたが、今後ロシア南部や中央アジアの石油資源の重要性が高まるなか、中国も新疆ウィグル方面だけからではなく、パキスタン経由でいっちょ噛みしたいという意向もあるのだと思われます(ニュー・グレート・ゲーム)。

 一方インドとパキスタンはまだまだ熱い敵対関係にあります。冷戦も終わり、世の中経済ブームになっていた1998年、インドとパキスタンは競い合うように核実験をやってます。世界的な非難を浴びながらも、両国は意地クソになって核実験をやってます。パキスタンにしてみれば、兵力や経済力で圧倒的なインドがいつ襲ってくるかというか恐怖心もあり、何が何でも核兵器を持って安心したいという悲願のようなものがあったのでしょう。インドはどんどん経済発展しているのに、パキスタンはクーデターやら汚職やら流入するアフガン難民やら両国の差は開く一方ですしね。インドとしても、パキスタンがその気なら対抗上やらざるをえないという感じなのでしょう。

 また、インドと中国の関係も改善しているようで、本質的には敵対関係のままでしょう。改善といっても「喧嘩ばっかりしてると損だから」という程度のことであり、中国とパキスタンのように相互補完関係に立ってません。片方の手で握手をしながらも、もう片方の手ではしっかり刀を握ってるという感じでしょう。中国があそこまで頑固にチベットに固執するのも、対インド上の戦略的要地であるという点があるのだと思われます。ただ、両国の経済がガンガン発展し、豊かになっていくにつれ、武力対立ということもまた非現実的になっていきます。平和主義に目覚めたというよりも、戦争をして得るものよりも失うものの方がどんどん大きくなっていくからでしょう。もうお互いが最大の貿易国になりつつあるし、両国にとって双方のマーケットは魅力的でしょう。”金持ち喧嘩せず”的傾向の深化ですよね。


 以上、中国とインドの関係ですが、はっきり言って非常にわかりにくい。その時々の世界の全体構造みたいなものが分かってないと、なんでそうなるのかが分からない。”応用問題”みたいな感じですね。




過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73)  現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土
ESSAY 413/世界史から現代社会へ(その75)  中国(1)  ケ小平と改革開放経済
ESSAY 415/世界史から現代社会へ(その76)  中国(2) 誰が一番エライの?〜中国の権力メカニズム
ESSAY 417/世界史から現代社会へ(その77)  中国(3) 中国における都市と農村の地域格差
ESSAY 419/世界史から現代社会へ(その78)  中国(4) チャイナリスク(1) 政治システム上の問題点
ESSAY 421/世界史から現代社会へ(その79)  中国(5) チャイナリスク(2) 派生問題〜”規模の政治”と伝統カルチャー
ESSAY 423/世界史から現代社会へ(その80) 中国(6) チャイナリスク(3) 地縁社会と高度成長の副産物
ESSAY 425/世界史から現代社会へ(その81) 中国(7) 外交関係(1)  戦後外交史の基本 東西冷戦と米中ソ三極構造


文責:田村




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