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今週の1枚(09.08.31)





ESSAY 426 : マジョリティの陥穽 〜いじめられっ子に祝福を!




 写真は、新緑が芽吹きはじめたTown Hall。先週撮ったものです。既にシドニーは春爛漫。




 週末版のこちらの新聞を読んでいたら日本の選挙について書いてありました。なんと1705年、江戸時代のお陰参り(集団発狂的伊勢神宮参拝=日本の人口の10%以上が日常生活をほっぽり出して伊勢に行った)から説き起こし、日本では60年に一回くらいの周期で集団発狂的な大爆発があり、その延長線上にええじゃないか騒動、明治維新、太平洋戦争、そして今回の地滑り的政権交代があると。外人さん独特のトンデモ視点かと思われるかもしれませんが、実はこの説はわりとポピュラーで、星野之宣のマンガ「ヤマタイカ」もこの路線です(これはもっとスケールがでかくて卑弥呼と現代をリンクしている)。

 60年周期かどうかはともかく、自民の壊滅的な大敗やスィング(振幅)の激しさは別に偶然ではなく、1994年の細川政権のときに大揉めして成立した政治改革法案(小選挙区+比例代表制)の結果でしょう。中選挙区制に比べて民意をビビットに、増幅して結果に反映させる小選挙区制が良しとされたのは、日本も二大政党制に移行しようという意味でした。15年後、やっとその効果が出たということですね。また、4年前の選挙で小泉さんが言ってた「自民党をぶっ壊す」という公約も又果されたということです。郵政民営化の意味は、自民党の集票マシンとなっていた全国の小ボス組織を潰し、自民を強力ならしめた支持基盤を潰そうということで、その効果は十分だったということでしょうか。今回も地方の保守王国が軒並み敗北しています。いずれにせよ、政治改革やシステムの変革というのは、漢方薬のように体質改善をはかるものであり、速効ではなく遅効性なのだというのが分かります。ということは、今回の政権交代の効果が浸透していくのは、おそらく5年後や10年後になるのでしょう。

 効果が出てくるのに時間がかかるという点では、むしろ失業率や物価下落のニュースの方が直近未来に関連するでしょう。昨年の世界経済危機勃発からほぼ1年が経とうとしていますが、ボディブローのようなダメージが一巡し、負の連鎖がつながったことで、そろそろ第二幕が始まろうとしているのではないかと思われます。

 さて、以上は時事的な余談。今週の本題はこれからです。


いじめられっ子に祝福を


 オムライス、好きですか?僕は好きです。あなたはオムライスに何をかけて食べますか。ケチャップですか。僕はそうですけど、なかにはオムライスにワサビをかけて(つけて)食べる人がいるかもしれません。実例は知りませんが、そういう人がいたとします。すると、「普通、そんなことしないよ」という感想が浮かんできます。

 その事物や行動などが、”普通”かどうかを決めるのは、単純に言ってしまえば、それがマジョリティ・多数派かどうかでしょう。オムライスの上にケチャップをかけるのは普通で、ワサビをつけて食べている人がいたら、それはちょっと普通ではない。同じような立場に立たされた人間のうちの9割がAという行動をすればAが普通で、Aではない行動を取れば「変わってる」と言われる。

 イジメというものがあります。イジメというのは、多数の人間が少数に迫害を加える場合が多く、そのキッカケは、人一倍ドン臭いとか、転校したばかりで地元の言葉遣いに慣れてないのでしゃべり方が変だとか、なんでもいいのですが、「少数派=普通ではない」という点によって生じる場合が多いでしょう。必ずしも全ての場合にそうだと言うつもりはないけど、そういうケースが多い。

 といって、僕はここで、イジメの構造とか、普通とは何かとか、そういうことを言いたいわけではないです。イジメられっ子とか、少数派として社会的に迫害されている人々に祝福を贈る、というのが本稿の趣旨です。イジメられてて何が祝福じゃ?と怪訝に思うでしょう。いきなり変なことを口走ってますね。普通じゃないですね。イジメられちゃいそうですね。でも、書きます。

 先に結論を書いてしまうと、イジメられている=少数派、多くの場合は「ひとりぼっち」で、周囲は全部敵みたいな逆境におかれると、大体において人は賢くなるからです。少なくとも賢くなる、モノを考えるキッカケは与えられる。これがもの凄く大事だということです。

 逆に、生まれてこの方マジョリティにしか属したことがない人がいるとします。常に多数派。肉体的にも成績的にもごくごく普通、民族、国籍、ルックス、癖、嗜好、性的嗜好にいたるまでごくごく平均的。生まれてからとりあえず皆が行くような学校に行き、皆がやるような遊びをし、皆がやるような悪さもし、皆がやるような進学をし、皆がやるようなスポーツをし、音楽を聴き、恋をし、皆がやるような感じで就職をする。絶対少数の孤立無援の立場に置かれ、周囲は全部自分と違う!みたいな状況になったことがない。

 マジョリティは、それがマジョリティであるがゆえに、常に社会の門は開かれ、環境は整っています。「右利き」というマジョリティに属していれば、何をするのも便利です。ハサミもそうだし、自動改札の切符を入れるところも右利き用に作ってます。それが優遇されているという意識すらないでしょう。とかくマジョリティは楽です。皆と同じ事をやってれば安心だし、動く歩道に乗ってるようなもので、自分で大して歩かなくても周囲のパワーに流されていれば進んでいけます。しかも、自分の価値観と多数派の価値観が同じだから、無理に自分を殺して周囲に媚びている精神的葛藤もない。ハッピーなものです。あなたは右利きであることに後ろめたい気持ちを抱いたことがありますか?


マジョリティと陥穽その1 落とし穴がある話

 それが大きな落とし穴=陥穽(かんせい)ではないか、と思うわけです。
 なんでもそうだけど、楽なことばっかりやってるとボケます。筋力は衰え、精神力はヤワになり、知力は錆び付く。動く歩道にばかり乗ってたら、いずれ自分の二本の足で歩けなくなってしまう。何をするのも環境が整っていたら、それが当たり前になり、社会のシステムを深く考えるチャンスもなく、また自分の頭で考えて逆境を切り開いてサバイブする能力も弱くなる。鍛える機会がないんだから、しょうがないんですけど。

 逆に、マイノリティであるがゆえの孤独感や疎外感に苦しむと、こういった力が鍛えられます。例えば、身体に障害を抱えているような場合、”世間の人”と自分との違いみたいなものを常々感じるでしょう。それがひいては自分とは何か、自分の価値とはなにかという深い省察を促す。また、必ずしも優しくも公正でもない今の社会のあり方に疑問を感じることもあるでしょう。帰国子女であるためにイジメられたり理不尽な苦労をさせられたら、自らのアイデンティティを考えるでしょうし、日本とは何か、世界とはなにかを考えるでしょう。ゲイであったり、性同一性障害があった場合も、自分や社会について考えるでしょう。いずれにせよ一生懸命モノを考えるようになる。考えざるをえない。そこで苦しんだり、もがいたりして考えたことは、生きていく上において大きな肥やしになります。

 外国にいけば、誰でもマイノリティになります。それが恐くて日本人村に引きこもっているならともかく、普通に暮していればマイノリティになります。言葉が違う、食べ物が違う、宗教が違う、ライフスタイルが違う、体格も違う、何もかもが違う。自分だけ”醜いアヒルの子”になったような気分になります。たどたどしい英語でなんとかサバイブしていくわけですが、でも、自分が弱者の視点に立った方が世の中がよく見えるというのはあります。例えば、僕の場合、ゲイの人に対する認識が変わりました。オーストラリアでは多くの人が助けてくれますが、総じてゲイの人などが優しかったりします。なぜかと推測するに、多分彼らも社会的弱者であり、そのために深く物事を考える習慣が出来ているし、人の痛みを知っているから”違う人”や弱者に対してナチュラルに優しい。またインテリになるから、他文化に対する理解も深いのでしょう。ゲイだけではなく、自分も移民として英語に苦労した人達は下手な英語に優しい。

 これが、社会の保守本流のド真ん中に居る人ほどそのあたりのデリカシーに欠ける。もちろん人によりけりだけど、英語が完璧じゃないだけで、「こいつ低能か?」みたいな感じで扱う奴は大体において保守本流系の人が多い。また、アジア文化や日本文化に対する理解もレスペクトにも欠けていて、日本人はライスを食うんだろう?信じられない、よくあんなモノ食うなと吐き捨てるように言われたこともあるし、ウドンを食べてたら「寄生虫みたいで気持ち悪い」と言われた人もいます。そういうバカに限って、英語しか喋れない、英語圏の文化しか理解できないという一番無能な奴だったりします。逆に日本でも、カタコトの日本語で頑張ってる外国人の人に対して、「日本に来るなら日本語くらい出来るようになってから来い」とか心ないセリフを吐く奴は、日本の保守本流系のオヤジなんかに多い。てめーは日本語以外何一つ喋れない、日本の文化以外なにも知らないくせに他人にそう言う。一番無能な奴が一番デカい面をする。

 ゲイだの、保守本流だのいろいろ言ってますが、これらは例えばの例示であってゲイであれば全て優しいなんて言うつもりはない。エッセンスを抽出して一般的な原理に直すと、自分もある程度痛い目にあって必死に物事を考えてきた人は、人格も深くなるし他者へも優しくなり、その機会に欠ける人は深い配慮もできず、デリカシーに欠けてくるということでしょう。そして前者はマイノリティに多く、後者はマジョリティに多いということです。


マジョリティと陥穽その2 落とし穴にはまる話

 さて、話がこれで終わったら、結局マジョリティにいた方が得だということになりますよね。たしかに人格的には深まらないかもしれないし、アホのまんまかもしれない。でも、生活感覚でいえば、人をイジメることはあってもイジメられる機会は少ないんだから結局得じゃないか、ってことで。ところが世の中良くできていて、そう簡単に"勝ち逃げ”は出来ない。どっかでしっぺ返しはきます。マジョリティの落とし穴(陥穽)というタイトルは、単に落とし穴があるだけではなく、その落とし穴にキッチリは落っこちるところまで含みます。

 なぜかというと、人は永遠にマジョリティまま生きていくことは出来ないからです。絶対どっかでマイノリティ、それも徹底的に孤立無援のマイノリティになるときがきます。そもそも、人間なんか一人ぼっちで生まれてきたんだし、死ぬときも又ひとりぼっちですから、ひとりぼっちが基本です。マジョリティでいるのも、たまたまの周囲に似たような連中が多かったという偶然の産物に過ぎない。そしてそれが偶然である以上、確率論的にそんな偶然など永遠に続くわけがない。どっかで原則的な姿=一人ぼっちに立ち返る。

 幼稚園からずっとマジョリティに属していたとしても、大学入試ともなればひとりぼっちの戦いになる。それでも大学は同世代集団の同学部、同偏差値という異様なまでの近似集団にいあるからまだしもマジョリティ感覚を維持できますが、就職でまた個別バラバラにされ、各部課に配属された時点で”新入社員”というひとりぼっちになります。しかし、それとてもまだ同期入社などの仲間はおり、さらに同じ業界、同じサラリーマンという幅広い同族集団があるから、まだまだマジョリティとして生き延びる余地はある。

 しかし、人生の荒波はこれからが本番です。そんなマジョリティ意識、"普通意識”は、ひとたびイレギュラーな波をかぶったら、一瞬にして吹き飛ぶでしょう。例えば、突然リストラされたり、吸収合併されいびり出されるかもしれない。そうなったら社内では決定的なマイノリティになるし、再就職を目指して孤軍奮闘しなくてはならない。仮にリストラされる人数の方が多く形の上ではマジョリティになったとしても、そんなの何の慰めにもならない。職安に通う日々でたくさん顔見知りが出来て、リストラ仲間が増えても何の足しにもならない。あるいは、ある日突然離婚を切り出されるかもしれないし、配偶者が浮気相手と失踪しちゃうかもしれない。子供が非行に走ったり、突如としてイジメを苦にして自殺しちゃうかもしれない。あるいは、交通事故を起こして人生メチャクチャになるかもしれないし、その事故が原因で自分が車椅子生活になるかもしれない。定年まで無事に切り抜けたと思ったら、熟年離婚が待っていたり、連れ合いが死んでしまったり、、、、要するにどこかでひとりぼっちの孤独な人生に立ち向かわねばならないときが来ます。そうなれば世間も冷たいもので、あれだけ多かった友達も知り合いもパッタリ寄りつかなくなる。誰もいない。

 そのときの自分を支えるのは自分しかいない。マジョリティによる安易な全能感や快適感は、それが安易なだけにマジョリティではなくなった瞬間に幻のように消え去る。Easy come, easy go. そして、真っ黒な闇の中で、ただただ一人ぼっちで立ちつくしているという光景になります。遠足のあとに集団下校しているようなもので、皆で楽しくでワイワイ遊びながら帰っているんだけど、あそこの角で一人減り、この辻でまた一人去り、、で、気づいたら真っ暗な道を一人で歩いているという。

 子供の頃から何らかの事情でマイノリティだった人は、この真っ暗な光景が原点になります。そこから自分の足だけで歩いてきています。でも、それは不幸でも可哀想なことでもない。自分で考え、自分で決めるのは人間の本来の姿なのですから。幸か不幸かマイノリティであることによって、人生の真実に早く接することが出来たということです。それを子供の頃からやってるのだから、年季が違います。ところが、人生の半ばまで問題意識のないマジョリティでやってきて、ちょっと迷ったら”皆はどうしてるの?”と周囲にお伺いを立ててきた人が、いきなりこのミもフタもない孤独の暗闇に放り出されたら、これは厳しいでしょう。

 そして、もっと痛い話に連なります。子供の頃から、孤独の闇を見つめてきた人は、自分で考え、自分なりの価値観や羅針盤を持ってますから、これまで生きてきた人生は全て”自分の人生”だといっていい。その”自己所有感”みたいなものは強いでしょう。でも、マジョリティである楽チンさに流されて生きてきた場合、そこで初めて自分の人生は何だったのかという深刻な疑問に囚われるでしょう。そこであわてて「自分探し」とかやろうとするけど、”自分”なんてものは日本刀みたいに熱して叩いて冷やして、またガンガン叩いて、、、を繰り返して徐々に錬成されていくものだから、それをやってなければ”自分”なんか何処にもない。"自分”は探すモノではなく、創造するものだ。しかし、いかに後悔しようとも、過ぎてしまった時間はもう絶対に取り戻せない。人生の最大の不幸は、個別の不幸なイベントではなく”取り返しのつかない一回性”という法則であり、これは残酷なことだと思います。

 もう一点関連していえば、マイノリティには選択肢の広さという特権が与えられています。マジョリティは楽なのだけど、常にマジョリティでいなければならないという心理的な呪縛がかかってるから、実際の選択肢は少ない。皆が当たり前のように高校、大学、就職と進んでいく中で、一人だけ違う道を選ぶのは勇気がいるし、多くの場合そこまで思い詰めることすらしないから、”なんとなく”進んでいってします。しかし、子供の頃からマイノリティが習い性になってたら、頼るべきマジョリティの指針などはないから、自分でやっていくしかない。逆にいえば、”自分らしく生きる”ということが出来るし、自分らしく生きるしかない。



暗いトンネルを抜けるとアイデンティティに至る

 自分が自分であること=アイデンティティというのは、自分と他の人類全員とを区分することです。自分だけにしかありえない何か。かけがえのない自分を見付けることです。小難しくいえば、自と他の差別化、個と全の対立構造。一人ぼっちで全世界と対峙(たいじ)する=メンチ切ることです。「俺と全世界」の構造。それはマイノリティということすら愚かしいくらいで、世界人類が60億人いるなら、1人(あなた)対59億9999万9999人の構造なんだから、超々々極端ドマイノリティです。逆に言えば、一人ぼっちであることを通じてアイデンティティというのは熟成し、一滴一滴蒸留されていく。この暗く孤独なトンネルを通り抜けることなく、アイデンティティは確立しない。だからマイノリティであることは、アイデンティティ確立のための一里塚でもあります。

 ただし、お手軽な疑似アイデンティティというものがあります。周囲の他人の目に映った自分という鏡像をアイデンティティにしちゃうことです。親から優等生として育てられれば、「よい子」が私のアイデンティティになる。学校から落ちこぼれのレッテルを貼られたら、それが自分のアイデンティティになる。それはケースバイケースで無限にあります。頼りになる主将であったり、優しい恋人であったり、いつも皆を笑わせるひょうきんキャラだったり、宴会や合コンでの切り込み隊長であったり、有能な上司、いい加減な兄妹の後見人、、、、。こうやって常に「期待される自分」を演じていれば、とりあえずアイデンティティなんたらという面倒臭い問題からは逃れられる。

でも、それがお手軽なニセモノである以上、破綻もすぐに来る。周囲の期待なんて、皆が勝手に描いているだけだから、全てがきれいに整合するべくもない。Aさんの期待とBさんの期待が両立しなくなることは大いにあり得る。シンプルな例だと部活と学業の両立問題で、親や教師は学業優先を言うけど、キャプテンとしてはチームを県大会まで引っ張っていかねばならない。これが二つだけならまだしも、大人になるにつれ10も20も増えていくから収集がつかなくなる。周囲の期待という映像を、同時に幾つも照射して立体ホログラフみたいに自画像を描いているわけですが、てんでバラバラの映像を照射されたら中心にあるホログラフも又グチャグチャになる。心理学でいう役割葛藤、ロール・コンフリクトが生じる。そこまで複雑にならなくても、周囲の目によって自分が成り立ってるなら、周囲が居なくなったら自分も又消える。一人ぼっちになったとき、ぞっとする程薄っぺらな自分しかいない。また、周囲の目がマイナスになったら、つまり誰からもコケにされゴミ同様に扱われてたら、自分のアイデンティティはゴミになってしまう。要するに相手次第で、自分が浮いたり沈んだり、ついたり消えたりしてるわけで、いわば自分は周囲の奴隷でしかない。

 アイデンティがなぜ必要か?それは決断するため、後悔しないためです。どんな場合も最後は自分で決めなければならないのだけど、自分自身の価値観や判断基準がしっかりしてなかったら決めきれない。自分がどんな人間が、どういう人間になりたいのかをクリアにイメージできていれば、どんな場合でも決められるし、どんな決断であろうが自分の決めたこととして引き受けられる。それって常日頃から考えてなければならず、付け焼き刃で考えてもダメ。だから「皆どうしてるの?」と周囲を見回して決めるけど、それが自分に合ってる保証はどこにもない。また、自分だけのオリジナルな考えや価値観を持ってない人、TVで見たことをオウムのように繰り返し、周囲を見回して遅れないようについていくだけの人間は、「自分がない人間」として軽蔑され、まともに取り合って貰えない。特に自分を確立しようとしている人からみたら軽蔑の対象になる。それは人生の成功のチャンスをミスることになる。なぜなら、成功者というのは、常にマイノリティであり(チャンピオンはたった一人しかいない)、自分を持ってる人である可能性が高い。上から引っ張り上げてくれる人、チャンスをくれる人からことごとくバカにされ、自分同様パッとしない連中だけが類友で集まってたら、そりゃもうオートマチックに失敗するよね。自分以上のものを他から与えられるチャンスが異様に乏しいんだから。

 もう一つの疑似アイデンティは所属集団です。「日本人」とか、「○○社社員」とか、「○○家」とかいう集団の一員として、集団のアイデンティティに自分が乗っかるという、楽ちんな方法です。しかし、長々論じるまでもないけど、大体こういうパターンって、最後には母集団から裏切られて終わりだよね。会社に忠節を尽くして、尽くして、最後はリストラ。それにこれだけは譲れないという自分らしさが出てきたとき、それが母集団の方向性と食い違ってしまったときは地獄ですよ。

 だから、全世界を敵に廻してでも、ひとりぼっちで奮闘するような時間が必要なのだ。ずーっとそればっかりやってるのは辛いし、辛くなければダメってわけでもないけど、どっかでそういう体験をし、それを起点として自分を立ち上げていくことは必要でしょう。


マイノリティの陥穽

 いろいろとマイノリティの有用性を賛美してますが、マイノリティにはマイノリティの大きな落とし穴があります。孤立逆境が常に素晴らしい収穫に結びつくとは限らない。

 とりあえずすぐに思い浮かぶのは屈折と反動形成です。周囲からの嘲笑をバネに頑張るのはいいんだけど、オーバーランして権力の亡者や銭ゲバになってしまうことです。あるいは自分を迫害する世間を恨み、人間というものをとことん憎むようになるかもしれない。こういった反動形成や屈折(憎悪、怨恨)という好ましからぬ副産物も産みます。だから、わざわざ無理やりマイノリティになることもないし、マイノリティになれば全てがOKだなんて能天気なことをいうつもりもないです。

 もう一つ、孤高の帝王症候群みたいなものもあります。スポーツ万能学業優秀、何をやらせても一番でおまけにルックスもバッチリという人もいます。うらやましいですねえ。こういうスーパーマンみたいな人は確率的には絶対少数ですから、純然たるマイノリティです。大体優秀な人というのは何らかの意味でマイノリティです。それがマジョリティだったら、それは平凡であって、そもそも優秀ではない。この種の優秀+マイノリティというパターンは結構バランスが難しいです。優秀さが周囲を圧倒すれば、ヒーローや女王になれるけど、他を圧することが出来なければマイノリティと優秀さに対する嫉妬が相乗効果になって激しく虐められたりします。ちょっと可愛いからと思っていい気になるんじゃないわよ的な迫害ですね。

 そのあたりのバランスの取り方や処世術が難しいのですが、本当に難しいのはここからです。優秀なマイノリティという両刃の剣的状況=君臨 or 迫害という極端な二者択一の綱渡りをやっている間に、「俺は世間のブタどもとは違う、選ばれた人間なのだ」というエリート意識がついてしまう。事実優秀なんだからあながち自惚れとも言い難い。そして、周囲の人達は、表面上は賛美してくれているようで、スキあらば足を引っ張ろうとする嫉妬に濁った目をしてたりするのですね。何か失敗することで落ちた偶像として踏みにじられる。チヤホヤされていた芸能人が、些細な不祥事を起こしただけで世間からバッシングを浴びるようなものです。賛美はたやすく嘲笑に変わる。これは恐いでしょう。そんな孤立的に優秀ではない僕ごときには、実感としては分からないけど、想像するだに寒い心象風景だと思います。世界史をやってて、苛烈なくらいの圧政を加えた王様がたくさん出てきますが、やっぱり恐かったんでしょうね。ソ連のスターリンなんか根が恐怖体質だから、無茶苦茶殺しまくりましたよね。これも結局、自分の優秀さやマイノリティという状況に振り回されてしまうことに変わりなく、大きな落とし穴の一つでしょう。

 マイノリティであることはアイデンティティにはなりえません。マイノリティは、自我を育む揺りかごであり、錬成場にはなりうるけど、それはあくまで"道具”として有用だというだけのことで、マイノリティがそのままその人のアイデンティティになるわけではない。だけど、それはしばしば誤解される。自分が貴族、有名人、エリートであることは心地の良い自己規定なのだけど、それも結局は所属集団による疑似アイデンティティに過ぎない。それは確かに自分のアイデンティティの一部になるかもしれないけど、決して全てではない。迫害される少数民族であることとか、海外でたった一人だけ日本人であることは、強力なアイデンティティツールになり、確かに自分を支えてくれたりもするのだけど、それが全てではない。


でも本当は、、、マジョリティなんか無い

 以上、あれこれ書きつづってきましたが、マジョリティといいマイノリティといっても、こんなものは相対的なものです。ある人が常にマイノリティであるわけではない。ある物事ではマジョリティになり、ある視点でみればマイノリティになる。例えば足が不自由であるというマイノリティに所属していても、右利きであるという点ではマジョリティでもある。女性社長で頑張ってるという点ではビジネス的にマイノリティなのかもしれないけど、彼女は広島出身&カープファンで職場が広島にあったらローカリティという点では滅茶苦茶マジョリティでもあります。

 マジョリティ云々などということも、区別の仕方一つ、発想一つだから、無限に分類できる。例えば、耳たぶの形がA型、B型、C型の三種類あり、A型が90%だったとしたら(適当に作った設例ですよ)A型の人はマジョリティに属することになります。大阪人が大阪にいればマジョリティだけど、東京にいけばマイノリティになる。もっと簡単に言えば自分の家にいればマジョリティだけど、隣の山田さんちにお邪魔してたらマイノリティになる。飲み会での会話で、音楽の話になったらマジョリティになり、映画の話になったらマイノリティになる。こんなものは発想一つ、視点一つなのだ。日本の中で多数だ少数だと賑やかにやっていたとしても、世界的にみれば日本人そのものが圧倒的にマイノリティなんだから、殆ど意味ないという見方もあるでしょう。

 だから、マジョリティ/マイノリティなんてことは、どーでもいいっちゃどーでもいいことであり、マボロシみたいなものだとすら言えます。突き詰めていけば気にするか/気にしないかという主観現象でしかない。人をグループ分けしようとするから、そこに必然的に多数少数という算術的な区分けが生じるだけであり、単なる分類作業の産物にすぎない。そして、客観的事実としては地球の上に人間が乗ってるだけ、ただそれだけのことです。

 しかし、この分類作業の産物である多数少数問題は、僕らの心理や人格、ひいては社会的な制度に対し深い影響力を持ってます。こんなマボロシに振り回されること自体、滅茶苦茶ケッタクソ悪いのですが、現象としてそういうものがある。あるんだったら仕方ないじゃん、あるということを前提にして、いかに賢く、有効にこの現象を利用させてもらいましょうかってことです。

 僕らのリアルな生活実感でいえば、マイノリティとして孤独感を覚えて自分を見つめる時間もあるし、マジョリティのぬるま湯に浸かってのほほんとしているときもあるということです。ぬるま湯の時はのんびり鋭気を養い、ハードなマイノリティの時は、不快さにメゲずにこれを徹底的に有効活用するってことですね。状況を道具として扱い、道具の長所も短所も知り尽くして、賢くこれを使えと。包丁という道具は、美味しい料理を作ることも出来るけど、人を殺すことも出来る。だけど道具に悪意はない。使い方次第。それと同じく、マイノリティ・マジョリティという状況それ自体に悪意はない。それをいかに使いこなすかだけだと思います。




文責:田村




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