今週の1枚(09.08.24)





ESSAY 425 : 世界史から現代社会へ(81) 中国(7) 外交関係(1) 戦後史の基本〜東西冷戦と米中ソ三極構造 


 写真は、CityのMartin Place。かつてのシドニーの中心地だったので、両側に立ち並ぶ建造物はあたかも建築博物館のようです。東京でいえば、日銀や三越本店のある日本橋のような感じでしょうか。先週、日本領事館で在外投票をしてきた帰りに撮影しました。





 現代中国シリーズも第7回目になりました。これだけやってるのに、なんか全然やった気がしません。ほんの表面をひっかいただけって感じで、なんともデカい国です。

 今回は、チャイナリスクのC歴史的・地政学的な国際関係ですが、中国の外交関係をやります。

 中国外交は、大きく分けると、(1)冷戦時代の対アメリカとソ連の世界三極ゲームのメインプレーヤーとしての局面やら世界全体での位置づけ、(2)台湾やインドなど周辺諸国との関係、(3)チベットやウィグルなど領土内問題の三つです。日本人的には、反日運動・反日感情など、対日本関係が大きな意味を持ちますが、純粋に中国に焦点を当ててみたら、日本との関係は(1)のアメリカ関係のオマケ的な意味が強く、それほど重要な問題ではないでしょう。

 今回は、戦後史の根幹をなす、米中ソの三極構造をやります。米中VSアメリカの東西冷戦時期、そして米ソ対立を経て米中接近時期です。



第一期:対ソ関係 協調と反目

 この点は、過去のシリーズで第二次大戦後の歴史として断片的にやってきましたよね。すなわち、日本軍の敗退の後、国共合作で共同戦線を張っていた毛沢東の共産党と蒋介石の国民党が内戦状態になり(国共内戦)、毛沢東が天下を取ります。この時点で、世界で共産党が仕切っていた大国は、ロシア革命後レーニンのあとを継いだスターリンが仕切っていたソ連があります。第二次大戦は、ヒトラーや日本のようなファシズム対自由主義という対立構造だったのが、戦後になると自由(資本)VS社会主義になり、冷戦が始まります。同じ社会主義国どうし、中国とソ連は仲良く手を組み、”アメリカ帝国主義”に代表される西側社会とメンチを切ります。
冷戦の始まり=朝鮮戦争と中ソ共同戦線
 米ソ対立構造は日本の敗戦直後から鮮明になり、日本軍が去った後の朝鮮半島については、38度線の南北で米ソがそれぞれ占領し、朝鮮の信託統治をめぐって駆け引きが行われつつも、決裂。以後、「じゃあ、勝手にやるもんね」ということで、北はソ連が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮)を、南はアメリカが大韓民国(韓国)政府を作ります。大韓民国の成立は1948年8月15日(奇しくも日本の敗戦のぴったり3年後)、北朝鮮は同年9月9日です。このあたりの歴史というのは、日本が敗戦直後のドサクサでそれどころじゃなかったこともあり意外と語られないのですが、今考えてみるとメチャクチャですよね。日本軍が傀儡国の満州国を作ったと批判していた連合軍が、戦争が終わったら同じようなことをしてるわけですから。同じようにドイツも東西に分割されます。日本は間一髪分割を免れましたが、グズグズしていて無条件降伏がもう1−2週間伸びていたら、おそらく分割されていただろうと思います。少なくとも北海道はソ連に取られてたんじゃないかな。

 毛沢東が勝利を収めて中国を仕切った(中華人民共和国の成立)は朝鮮半島で米ソが南北朝鮮を立ち上げた翌年の1949年であり、さらにその翌年の1950年2月にはアメリカを共通の仮想敵国として、ソ連と中国との間で中ソ友好同盟相互援助条約が締結されています。北朝鮮を後押しする社会主義大国であるソ連と中国が手を組んだわけですね。そして、その年の6月朝鮮戦争が勃発します。朝鮮戦争の経緯は典型的なシーソーゲームで、まず38度線を越えて北朝鮮軍(ソ連軍)がドドドと南下し、至る所で韓国軍(米軍)を撃破、ついには韓国軍全滅の危機にまで瀕します。この危機に日本にいたマッカーサーが仁川上陸作戦などでテコ入れをし、形勢は一気に逆転、北朝鮮軍を追い詰めます。しかし、ここで誕生したばかりの中国軍が、38度線を越えたら参戦すると宣言し、実際に参戦します。そのとき中国軍の兵力は実に100万人。米軍(その頃は国連軍になっていたが)ひとたまりもなく敗走し、以後38度線で睨み合いになり、停戦合意が結ばれ、現在に至ります。このとき、マッカーサはあくまでも好戦的で、中国と喧嘩をするとか、原爆を使うぞとか物騒なことを口走っていたらしく、アメリカ本国から「お前、もうええわ」と呼び戻されてしまいます。日本では天皇以上の大権力を持っていたマッカーサーも、アメリカ本国からしたらイチ地方の作戦司令長官に過ぎなかったわけですね。

 しかし、今から振り返ると、よくまあ38度線で膠着して南北朝鮮になってくれたものだと思います。当時世界最強だったら米軍といえどもソ連軍とがっぷり四つに組むのは避けたい。それに巨大な人口を誇り、建国したばかりで意気盛んな中国まで敵に廻したら、いかなアメリカといえどもかなり苦しい。そのうえ地理的な条件でいえば、ソ連も中国も朝鮮半島の隣国であり、兵力輸送は簡単だけど、アメリカの場合ははるばる太平洋を渡ってこなければならない。もし、ここでソ連中国連合チームが力押しをしていたら、韓国は消滅し、朝鮮半島は北朝鮮一国になっていたかもしれません。そうなった場合、日本の戦後もガラリと変わっていたでしょう。また、本国は遠くにあるけど、どうしても朝鮮半島には西側の牙城を築いておきたいというアメリカの立場からしたら、地理的にすぐ近くにある日本(と台湾)は、もの凄い重要な軍事的意味を持っていたことになります。終戦直後、日本に対して平和憲法、財閥解体など理想主義的な方向でリードしていたアメリカが、数年後、手の平を返したようにレッドパージをやり、警察予備隊→自衛隊→日米安保と軍事化を図るようになったのも情勢を考えれば無理のないところでしょう。ここで日本まで共産国になってしまったら、アメリカの世界戦略は目も当てられなくなりますから。
スターリン批判と中ソ対立
 さて、出来たばかりの毛沢東・中国は、同じ社会主義のソ連をタッグを組んで、いきなり朝鮮戦争で国際社会にデビューします。このまま中国とソ連が仲良くやってられたら、アメリカをはじめとする西側社会にとってはかなり脅威になったでしょう。しかし、ソ連ではスターリンが死んでフルチショフがスターリン批判をやり始めた頃から中ソの仲はおかしくなります。スターリンが死去したのが1953年3月、朝鮮戦争が停戦になったのが同じ年の7月、そしてフルシチョフがスターリン批判をしたのが56年です。

 なぜ、フルシチョフがスターリン批判をすると中国がムカつくのか?
 スターリンという人はカリスマでした。これも過去の回に書きましたが、実像のスターリンは病的なくらい臆病なヘタレ系だったらしいのですが、その反動なのかカリスマになりたいという欲望は突出して強く、それがゆえに凄まじい恐怖政治を敷きました。もう逆らう奴は殺す。逆らいそうな奴も殺す。逆らうかどうか分からん奴もこの際念のために殺しておこうか、てな感じで、正確な実数は不明ですが、粛清その他でスターリンが殺した数は一説によると2000万人という途方もない数です。これが本当ならヒットラーなんか足下にも及ばない、おそらく史上最高記録の殺人者だったでしょう。やっとこさスターリンが死んでくれたのでソ連は次のステップに進めるようになりましたが、その後を継いだのがフルシチョフです。彼は、人物としてはスターリンとは真逆で、粗暴なくらい豪放な荒くれオヤジだったといいますが、それだけにスターリン的なカリスマや恐怖政治を嫌い、またやたら喧嘩腰で世界で突っ張るのを良いとも思ってませんでした。フルシチョフは、スターリン批判を行って、それまで誰も恐くて逆らえなかったスターリン的なるものを払拭すると同時に、世界に対しても平和共存姿勢で臨みました。だからといってバリバリ平和主義というわけでもなく、東欧あたりでも締めるところは締める、アメリカ相手にも喧嘩するところでは喧嘩してますので、いわば現実的な政治家だということですね。ケネディと対話して譲歩し、キューバ危機を回避したことも、その一例でしょう。

 しかし、フルシチョフの現実路線やカリスマ否定路線というのは、中国にとっては迷惑だったと思います。なぜなら、その頃の中国は毛沢東のカリスマ支配によって成立していたわけで、国内においては神のごとく完全無欠の指導者ぶりを演出しなければならなかった。そのような集団洗脳を施すにあたっては、国家の思想もなるべく宗教がかかった激越なものが望ましいです。「情勢をよく分析して判断しよう」というクールなノリになると熱が冷めちゃいますからね。だから、毛沢東としては同胞であるソ連のフルシチョフにそーゆークールな態度を提唱されるのは困ったことだったのでしょう。そこで、盛んに鐘を太鼓を叩いて、一層大声で「革命万歳」「反革命分子は再教育しろ」というイデオロギーが鼓舞され、文革になだれこんでいったのでしょう。そのような毛沢東中国の立場からしたら、アメリカとの平和対談も辞さないというソ連の柔軟な姿勢は”間違ってる”ということになります。もうそう言わざるを得ない。

 共産主義でも、ファシズムでもなんでもそうですが、声が大きい奴が勝ち、強硬でシンプルな奴が勝つという法則があります。「もう少し冷静に、、」とか当たり前の事を言うと、弱虫とか腰抜け呼ばわりされます。凶悪事件があると国内世論はあんな奴は死刑にしろという大合唱が起きますが、もしかして冤罪かも、、とかまともなことをいうと、あんな犯人の肩を持つのかと怒る人がいるのと同じ。共産主義や社会主義の世界でも、資本主義社会ともそれなりに建設的な関係を築こうとか、そういったしなやかな姿勢を取ると、腰抜け呼ばわりされる傾向があります。また、腰抜けとか弱虫とかだと表現としてカッコ悪いので、あの世界の独特の用語で「修正主義」と言います。「あいつは修正主義者だ」とかいうと、権力や金に屈服して理想を失ったダメ人間という意味で、日本でも学生運動が盛り上がっていた頃はよく使われていたと思います。同じように日和見(ひよりみ)主義者、「日和(ひよ)った」という表現もありますね。

 ということで、中国はソ連を「修正主義」として激しく批判するようになります。「アメリカなんかと仲良くして、人民革命の理念を忘れたタワケ者」くらいの感じですね。ケ小平の改革開放路線になる前の中国の短波放送なんぞを聞いていると(友達が趣味で聞いていてその受け売りだけど)、ソ連を「ソビエト修正主義は」、アメリカを「アメリカ帝国主義は」と、いちいちアナウンサーが言うそうです。”鬼畜米英”といっしょなんだけど、キャンパスの学生運動の演説なんかもそのノリがあったりしますね。ちなみに、当時の中国の短波放送では今週のヒットチャートみたいな番組があったらしく、そこでの一位のタイトルが”天安門広場で毛主席に会い激励された農村青年の感動の歌”とかいう、そのくらいの宗教団体ぶりだったそうです。もっとも、当の中国庶民が本当に洗脳されていたかどうかは、前回までに書いたように疑わしいんですけどね。「ま、そーゆーことにしとこうか」てな感じだったんじゃないですかね。

中ソ対立による世界的大迷惑
 ともあれ、1956年のフルチショフのスターリン批判以降、中国とソ連の仲は険悪になります。スケールの巨大な内ゲバですね。ともに世界覇権を狙えるくらい図体がデカい大国ですから、この両国が対立するとなるとエライことです。なんせ国境線だけでも4400キロ近くあります。この国境線を挟んでソ連軍70万と中国軍80万人が睨み合いをしたのが60年代の終わり頃。国境線で偶発的な発砲事件や、小競り合いなどもありました。69年3月にはウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で、小規模な武力衝突があります。小規模といっても双方あわせて1000人ほど戦死しています。同年7月にはアムール川(黒竜江)で、8月には中央アジアのウィグルで衝突が起きています。両軍とも密かに核兵器の準備をするなど、全面戦争に突入したら第三次世界大戦になりかねないくらい危機的状況だったのですが、コスイギン・周恩来会談で手打ちが行われます。しかし、国境問題そのものは解決してはおらず、その後も国境線での冷たい睨み合いは続きました。

 中ソの対立というのは、単に両国だけの問題ではなく、当時世界に80カ国以上あった社会主義諸国に影響を与えます。なんせリーダー格の二国の対立ですから、社長派と会長派の派閥争いみたいなもんです。とりあえず至近距離にあり迷惑を被ったのが北朝鮮です。なにしろ両国に接しているうえに、中ソは建国の両親みたいなものです。壮大な夫婦喧嘩を前におろおろする子供みたいな感じ。フルシチョフのスターリン批判が鬱陶しいのは、毛沢東だけではなく、スターリン型のカリスマ政治を敷いていた北朝鮮の金日成も同じです。北朝鮮はソ連を修正主義として批判し、ソ朝関係は冷却化します。実際、北朝鮮国内では、金日成政権転覆のクーデータ未遂事件(8月宗派事件)すら起きています。しかしながら中国のような国力がない北朝鮮は、ソ連からの経済援助を打ち切られ苦しくなります。また中国側についたのはいいものの、本家中国が狂信的な文革をやりだすと、ついていけなくなります。あの北朝鮮がついていけない位だったのですから、当時の文革がいかに凄まじかったか分かろうというものです。仕方なしに又ソ連に接近したりという、偉大なる首領様一世である金日成は右往左往の苦労をします。で、苦労の末、なんだかよく分からない主体(チュチュ)思想を打ち出してきます。「ウチは独自路線でいく」と。これ、一見カッコいいのですが、逆に言えば状況によって中ソどっちにも動けるような思想ということでしょう。だから内容なんかよく分からなくてもいいのでしょう。こう言っちゃうと怒られるかもしれないけど。

 中ソの動向に振り回されたのは日本共産党も同じで、最初は毛沢東路線を踏襲する徳田球一らが主流派だったのですが、その武装闘争路線によって党内が分裂、米軍のレードパージや日本政府の弾圧(破防法設置とか)を受けて徳田は中国に亡命し、その地で客死。残った反主流派だった宮本顕治ら国際派が主流派に返り咲き、中ソいずれでもない独自路線を主張します。しかし、その後のスターリン批判が起きたといっては分派し、中国で文革が始まったといっては分裂し、左翼勢力内部で激しい路線闘争が行われます。当時の学生運動に影響を与えたり、より過激な新左翼を産んだりもします。共産主義、社会主義といっても一枚岩ではないことが分かります。というか、なまじパリパリのイデオロギー集団=論争好きな理論家ぞろいなだけに、なんにでもシロクロつけたがるのですぐ分離しちゃうのでしょう。そこへいくと自民党のような利権集団は、「金と権力がゲットできりゃなんでもいい」という柔軟体質ですから理屈にはこだわらない。アメーバーのように離合集散を繰り返しつつも、権力掌握の必須条件=数の論理はキープしつづけるから、以後、日本はずーっと全国利権屋連合のような自民党の一党支配が続くことになります。

 もちろん、中ソ対立の影響は北朝鮮と日本だけではなく世界各国に及びます。例えば、カンボジアやベトナム。カンボジアに出来たポルポト政権という共産政権の取り扱いにしても、ソ連がサムリン旧政権を支持し、ソ連がソムリンだから中国はポルポトを支持するという、共産勢力内部の”足並みの乱れ”では済まされないような混乱が起きています。そんでもって、ベトナムとカンボジアが非常に仲が悪いときている。この4カ国は全部共産国であるにも関わらず無茶苦茶な情勢になっているわけです。そして、ポルポトが反ベトナムだからアメリカがポルポトを支持するという形でさらに混乱に輪を掛けます。


第二期:対アメリカ 米中ソ三極ゲーム
黒船以来のアメリカの悲願
 さて、大戦直後は、中ソVSアメリカという対立構図でしたから、アメリカの絶対不利でした。ところで、純粋にアメリカの立場で極東戦略を見ていると、実はあんまりイイコトないのですね。日本人的には戦争でアメリカにボロ負けしてるし、戦後はアメリカの軍事力に守られてきたら、アメリカ無敵!って感じがしますけど、アメリカって世界で苦労してるわりには実はそんなに甘い汁を吸っていないような気がします。うまいことやったのは南米方面くらいじゃないかな。少なくとも外交巧者のイギリスには及ばない。

 これも過去の復習になりますが、そもそもなんでアメリカが太平洋を挟んだ遠い、遠い東アジアにあんなにこだわってきたか?という疑問があります。わざわざ日本まで黒船で乗り付けて大砲まで撃って開国させて、キミは何がしたかったの?と。19世紀のアメリカは、実は全然後進国でした。イギリス、フランスのような世界各地に植民地を持ってるわけでもないし、やっとこさ独立戦争でイギリスから独立し、それが終わったと思ったら今度は南北戦争の内戦状態になるという。国土はやたらデカいけど、中身はスカスカ、駅馬車がインディアンに襲われたり、それを騎兵隊が助けたりという状態だったわけです。

 国力が整うにつれ、だんだん「僕も帝国主義やってみたいなー」とアメリカに欲が芽生えます。しかし、インド、アフリカなどは英仏独にガチガチに押さえられている。そうなると、競争率が低そうな、彼らにとっては遠いけど自分にとっては比較的近いところ、、、そうだ中国だってことになります。で、橋頭堡を築くためにまずは日本にちょっかいを出すと。黒船だ、ペリーだ、開国だとかやってたわけです。しかし、外交がヘタクソなもんだから、日本が開国したら、イギリスやフランス、ドイツに美味しいところを持って行かれてしまった。日本も、いざ明治維新になって自分が西欧化したら、しょせんは二流国であるアメリカなんかお呼びではないって感じになってます。実際、日本の文明開化を助けたのは西欧諸国であり、それは例えば日本の民法系はフランス法、刑法系はドイツ法体系を受け継いでいたことからもわかります。医学もドイツだから、未だに医療関係ではドイツ語系の用語が使われてますね。死亡を意味するドイツ語のステルペンが、「3号室の山田さん、昨日ステっちゃったらしいわよ」と看護士さんの会話に出てきたり。また、僕らが日常的に使ってる”アルバイト”もドイツ語です(明治時代の学生さん達が使い出したらしい)。英語で言いたかったらカジュアルジョブとでも言うべきか。でも、まあ、「少年よ大志を抱け」のクラーク博士はアメリカ人だし、「ラストサムライ」的にアメリカが明治時代に関与したケースも探せば多々あったとは思いますけど。ともあれ、黒船でドーンと衝撃の日本デビューを飾ったアメリカなのですが、いざ開国となるとあんまり存在感ないですよね。

 そうこうしているうちに第一次大戦になります。主役を張れないアメリカはそれがゆえに戦争による疲弊を免れ、徐々に充実してきた国力を背景に国際社会に大きな顔をしようとします。でもって、国際連盟を高らかに提唱したりするのだけど、いざそれが出来たら言い出しっぺの自分はコソコソといなくなってしまうという。今のエラそげなアメリカからは想像できないですけど、シャイだったのですね。それでも、シコシコと落ち目のスペイン系植民地を漁って、裏庭である中南米を攻略したり、フィリピンあたりにチョッカイ出したりしてたわけですが、かねてからの中国利権への野心は捨てていませんでした。そこに出てきたのが日本です。日露戦争で勝ち、第一次大戦でも戦勝国側についた日本もまた、アメリカと同じく「僕もやってみたいな、帝国主義」派だったので、中国への野心を露骨に表わすようになります。そこでアメリカが猛烈に嫉妬しますね。「なによ、あの子、後から来てエラそうに、あたしが黒船で行ったときにはビビってたクセに、生意気だわ」てなもんでしょう。そこでワシントン会議を開いたり、他の国を引っ張り出して9カ国条約や四カ国条約を結んで、”機会均等””フェアにいこうぜ”ということで、新参者日本が中国に手を出さないようにでっかい釘をバコーンと打ったつもりでした。ところが、日本政府(というか関東軍など陸軍の一部)は、アメリカの意向なんか意にも介さず、ガンガン中国大陸を侵略します。だから、アメリカが怒って、ABCD包囲網など経済制裁を加え、ついには日米開戦になるという流れです。要するに太平洋戦争とは、世界の主役を張れなかった日米という二流国同士が中国利権をめぐって世界の果て(西欧からみれば)でドンパチやっていたというのが哀しい実態だったりします。

 このように黒船以来必死になって中国利権を求めていたアメリカですが、日本を降伏させていよいよこれからだ!というときに、ソ連が出てくるわ、肝心の中国においては応援していた蒋介石の国民党が毛沢東に負けちゃって共産国になってしまうわで、いいとこなしです。中国支配どころか、中ソ連合勢力によってアジアは共産主義一色に染め抜かれそうになるのを、日本とフィリピンを軍事拠点にして必死に食い止めるという努力をしなくてはならなくなります。朝鮮戦争やベトナム戦争もその一環です。ちなみに、ベトナム戦争は宗主国フランスの尻ぬぐい、イスラエルなど中東はイギリスの尻ぬぐいですから、先輩国の尻ぬぐいばかりさせられ、いつまで経っても甘い汁が吸えないアメリカだったりします。この国、基本的に外交がヘタクソなんじゃないかって気もしますね。


大国の内情
 中国とソ連がタッグを組まれたら、さしものアメリカもどうすることも出来ません。この二国を同時に敵に廻して喧嘩をしたら、ただでは済みませんから。ところが中国とソ連が仲間割れをしてくれたので、チャンス到来!です。いよいよ待ちに待った美味しい思いが出来るときが来たか、、、というと、そう話は簡単ではありません。

 まず、自分の喉元に匕首を突きつけられるかのようなキューバ危機が起きます。このときは、フルシチョフとケネディによって何とか回避しますが、ホワイトハウスに原爆を叩き込まれるような危機だっただけに、世界利権どころの騒ぎではないです。そして、アジアの共産化を防ぐためのベトナム戦争がありますが、これが地獄の泥沼。単に国際政治的にポイントが稼げなかった以上に、アメリカという国に巨大なトラウマを残します。また、共産主義勢力内部で内ゲバ的な路線闘争があったわけですが、アメリカにおいてもベトナム戦争あたりから反戦ムーブメントが盛んに起こり、また公民権運動などの国内問題が燃え上がります。

つまり、中ソが対立しているスキに、「しめしめ」とばかりにアメリカが漁夫の利を得られるような情勢ではなかったということです。アメリカはアメリカで大変。なんせ大統領(ケネディ)まで暗殺されてますからね(弟のロバートも大統領候補時点で暗殺されている)。公民権運動のキング牧師も暗殺。ソ連も中国もリーダーが暗殺されることはなかったことからすると、アメリカ内部においても、中ソと変わらぬくらい激しいパワー闘争があったということでしょう。

 では、アメリカが国内事情で苦しんでるときに、中ソは着々と進んでいったかというと、これがそうでもないんですね。ソ連はソ連で、フルチショフ以降、ブレジネフ・コスイギンのパッとしない"停滞時代”を迎えますし、プラハの春でチョコに軍事侵攻したら世界中から袋だたきに遭い、その後アフガニスタンに侵攻したらまたバッシングに遭い、そのうち国家財政が破綻するという。一方、中国は毛沢東の大躍進政策は超がつくくらいの大失敗で餓死者数百万人を出し、さらに文化大革命という宗教団体化が進みます。要するに、今から振り返ってみると、米中ソ三国といいながらも、どの国も内情は火の車で、七転八倒していたわけです。そんな中、日本だけがシコシコと努力を続け、経済力で世界一になってしまい、有り余るジャパンマネーにモノを言わせてアメリカの象徴的資産を買いあさってるという。そうなるとまたアメリカ(や他の先進国)が猛烈にムカつきますよね。「てめー、誰のおかげでここまで来れたと思ってるんだよ」とジャパンバッシングが始まるという。こうしてみると、昔っから日本って気づかないところでアメリカの神経を逆撫でするようなことばっかやって怒らせてますよね。で、戦前戦後を通じてそのへんが全然見えてないあたり、国際的にはKYな国なんでしょうね。

ニクソンショック ニクソン訪中と米中国交正常化
 さて、話を70年代に戻します。中国では文革真っ盛りの頃、密かにアメリカと手を組む企画がありました。アメリカも又しかり。「3人集まれば社会ができ、派閥ができ、政治が起きる」と言いますが、プレーヤーが3人という3極ゲームでは、どうしたって2対1構造を取ります。どことどこがくっつくか、どことくっついたら一番有利かです。東西冷戦がイデオロギーの対立だというのは、実は1940年代、遅くとも50年代には終わってたと思いますね。イデオロギーによって中ソをはじめ世界各地の共産勢力が四分五裂しちゃったんだから、イデオロギーはもはや戦力ツールになりにくい。冷戦といいつつも、実際にはただの権力闘争、覇権闘争だったと思います。イデオロギーに固執するなら、中ソがいくら険悪になろとも、アメリカと手を組むという発想は出てこないでしょう。しかし、時の権力者達はさすがにクレバーだったのか、イデオロギーなんか気にせず、中国とアメリカが手を組むことになります。

 1970-72年、アメリカのニクソン大統領は世界をあっと言わせる二つのことをします。一つはドルショック。もう一つはニクソン大統領の中国訪問です。72年の2月にニクソンと毛沢東が会談をしますが、その前年に両国における”ボスよりも切れるナンバーツー”同士の会談が行われています。周恩来とキッシンジャーですね。前のところでも述べましたが、キッシンジャーという人は”忍者”と呼ばれるくらい神出鬼没だったらしいですが、ドイツ系移民ということもありヨーロッパ流の現実主義外交に徹してます。ハーバード大学の博士論文のテーマがメッテルニヒ(ナポレオン後のウィーン体制の立役者であり外交の天才と呼ばれた)なんだから、さもありなんという気もします。一方周恩来は、なかなかの人徳者らしく、毛沢東が文革だなんだでトチ狂っていた中国を支えていたのは周恩来の人間力だったとも言われています。この二人が、「世間では冷戦とかさ、イデオロギーとか言ってるけどさー、あれって嘘だよね」「うん、もうとっくに終わってるよね」と話をしたのでしょう。

 かくして中国とアメリカが手を組むという、世界的には驚天動地のありえない出来事がおきちゃいます。なお、米中が正式に国交を結んだのは7年後の1979年です。ときのアメリカの大統領はカーター。また、日本もこの波に便乗して、日中国交正常化が図られ、上野公園のパンダブームが起きましたね。

冷戦の消長
 さて、米中が接近することで、ソ連が激怒したかというと、ただちにこれといった動きはありません。まあ、事実上有名無実化していた中ソ友好同盟相互援助条約の更新をソ連が拒んだので自動的に失効したくらいで、いきなりソ連が中国に攻めてくるとか、国境紛争が燃え上がったとかいうことはないです。逆に、この時期、米ソ関係も改善します(デタント)。72年にはニクソン大統領がモスクワを訪問、第一次軍縮(SALT1)も調印しています。翌73年にはブレジネフが西ドイツやアメリカに訪問しています。

 米中国交樹立の79年には、ソ連がアフガニスタンに侵攻していますが、これも中国への意趣返しであるとか、世界制覇の野望をギラギラさせてやったというよりは、半ば義務的にやったような感じです。半年くらいでさっさと切り上げて帰るつもりが、ズルズルと10年、この間に決定的に国力は疲弊します。また、80年代になるとアメリカにレーガンが出てきてタカ派路線を唱えるもんだから、行きがかり上ソ連も受けて立つ。しかし、その内実は、モスクワとロサンゼルス両オリンピックのボイコット合戦という政治的プロパガンダの泥合戦に終始し、なんとなく惰性でやってるような感じなんですね。ブレジネフ停滞時代においてソ連の国力はかなり落ちており、本当ならアフガン侵攻もやりたくないだろうし、レーガンとの軍拡競争もしたくはなかったのでしょう。だけど立場上やらざえるをえず、やってるうちにやっぱり国家が破産してしまった。でもって、ゴルバチョフのペレストロイカになっていくわけです。

 結局のところ、米中ソの三つの大国の覇権対立が燃えていたのはベトナム戦争と米中対話の頃までで、以後は冷戦だとか言うわりには、それほど激しい動きはありません。というか、どの国もお家の事情が厳しく、そんなに簡単にドンパチできないってな感じだったのだと思います。

 以上、中国(戦後)外交史の大きな柱の部分でした。
 ただ、中国の外交というのは、こういった王手飛車取りみたいな大駒的な動きよりも、対台湾、対インドのような周辺的な紛争が多く、それらについて次回以降に見ていきます。が、それにしても歴史の基軸になるのは東西冷戦の消長と米中ソ三極構造ですので、復習方々それらを見てみました。





過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73)  現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土
ESSAY 413/世界史から現代社会へ(その75)  中国(1)  ケ小平と改革開放経済
ESSAY 415/世界史から現代社会へ(その76)  中国(2) 誰が一番エライの?〜中国の権力メカニズム
ESSAY 417/世界史から現代社会へ(その77)  中国(3) 中国における都市と農村の地域格差
ESSAY 419/世界史から現代社会へ(その78)  中国(4) チャイナリスク(1) 政治システム上の問題点
ESSAY 421/世界史から現代社会へ(その79)  中国(5) チャイナリスク(2) 派生問題〜”規模の政治”と伝統カルチャー
ESSAY 423/世界史から現代社会へ(その80) 中国(6) チャイナリスク(3) 地縁社会と高度成長の副産物


文責:田村




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