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今週の1枚(09.08.03)





ESSAY 422 : 矛盾のススメ




 写真は、North Sydney。夕方の帰宅ラッシュ時、家路に急ぐ人々。これからオーストラリアに来られる人は、近い将来、こういう風景を日常的に見るでしょう。束の間、臨場感に浸ってください。




 矛盾しているからこそ正しい、矛盾しているからこそ信用できる、ってことを書きます。
 今時分の日本はクソ暑いだろうと想像しますが、暑さを増すような抽象的な話をして申し訳ないのだけど、思いついちゃったもので書き留めておきたいのです。涼しくなってから読んでもらってもいいです。

 ある物事を考えていると最初Aという特徴が浮かんできます。さらに考え続けていると、必ずしも常にAというわけではないぞ、ということに気づき、やがてAではなくBなのではないか、という気にさえなってきます。しかし、完全にBかというとそうでもなく、依然としてAである部分も否定できない。Aでもあり、Bでもあるという。しかし、AとBは矛盾し合う関係にあるから、AでもありBでもあるなんてことはありえない、、むむむ、、、となる。

 その昔は、AならA、BならBという具合にハッキリ&クッキリ色分けしているのを好ましく思ってました。分かりやすいし、明確だし。だからAでもあるし、Bでもある、、なんてモノが余り好きではなかったし、そういうモノの言い方に「あー、もー、どっちなんだ」って苛立ちを感じたりもしました。ところが、段々と「そんなに簡単に割り切れたら苦労いらんわ」という気分が芽生え、そのうちに割り切れなくて当たり前になり、ついには割り切った時点でもう既に何か間違ってるという具合に変わってきました。割り切る=偏見=諸悪の根源とすら思います。

 もう少し具体的な例を挙げます。

 例えば仕事。仕事というのはシンドイものです。どんな仕事でも、大抵何らかの苦味を含みます。意に反したことをやらざる得なかったり、下げたくもない頭を下げたり、言いたくもないことを言わざるをえなかったり。取りあえずは朝早く起きなきゃいけないだけでもイヤなもんです。だから仕事というのは甘くなく、その辛さも、切なさもひっくるめて「それが仕事ってもんでしょ」という納得の仕方をします。「仕事をしないで暮らせたらどんなにいいだろう」って思います。じゃあ仕事というのは常にマイナス100%なのかというと、実は「いいもの」だったりもします。仕事をすることによって学んだり成長したりすることも沢山ありますし、時には感動するようなこともあります。

 社会人がまだ学生である後輩に、「仕事ってどんな感じですか」と聞かれたら、「生半可な気持ちでは勤まらないよ」「学生気分じゃダメよ」「しんどいよ」とマイナスのことを言うでしょう。だからといって「出来るなら仕事はしない方がいい」「可能な限りニートになれ」とはアドバイスしないと思うのですよ。逆に「やってみなはれ」と言うでしょう。自分で大変だ、しんどいぞって言ってるくせに、平然と他人に勧める。それも意地悪で言ってるのではなく、善意で、真摯なアドバイスとしてそう言う。これも矛盾してるっていえば矛盾してますよね。いったい仕事というのは、いいものなんだから、悪いものなんだから分からないという。

 強引に統一的に理解しようとすれば、厳しくて楽ではないのだけど、だからこそ成長できて、それがいいのだということになるでしょう。これはありえますよね。例えば高校野球をやってて甲子園で優勝するのは素晴らしい思い出になるだろうけど、一瞬一瞬を切り取ってみればひたすら辛いだけ、シンドイだけです。炎天下の合宿でヘドを吐くまでしごかれ、チーム内のポジション争いに一喜一憂し、本番の試合ではエラーをしたらどうしようと生きた心地もしない。楽しい瞬間なんかほんのちょっとしかない。にも関わらず、振り返ってみれば「やってて良かった」と思うでしょう。別に甲子園で優勝しなくても、地区大会レベルで敗退しても、それでも「骨折り損のくたびれもうけ」だとは思わないでしょう。なぜなら、そこでの辛さは充実感と同じ事だからです。本当に楽しいことは、リアルタイムの瞬間瞬間にはむしろ辛く思える。あまりにもプラスが強すぎるので、瞬間的にはマイナスに思える。山登りみたいなものです。

 このような文脈で、仕事というものも局面局面を取り出せばシンドイことだらけだけど、それは大いなる充実の別の形なのだという理解はアリだと思います。アリなんだけど、でも、足りない。それだけで全てが説明しきれるわけではない。なぜなら、仕事には全く意味が無いしんどさというのもあるからです。ただひたすら理不尽なだけ、やればやるほど成長するどころか人間が壊れていくようなダークな側面もあります。とてもじゃないが「シンドイからこそ良い」と構えていられるような綺麗なものではない。だからマイナス部分はハッキリとマイナスであり、真っ黒といえば真っ黒。一見マイナスに見えるけど、それは刺激の強いプラスが瞬間的にマイナスに感じられるだけだなんて感じではない。

 そういった弁解の余地なく真っ黒でダークな部分をもひっくるめての「仕事」なんですけど、それでも「やれ」と他人に勧めちゃうんですよね。黒いからいいんだ、ダークだからこそいいんだというレトリックではなく、黒いのは黒いし、ダメなものはダメなんだけど、清濁合わせて飲めって感じで、その黒さやダークさをも丸呑みにしろと。

 何でそんなメチャクチャなことを言うのかよく分からないのだけど、でも直感的にそう思う。身体に良く、健康によいプラスだけを摂取してたら人間逆にダメになっていくような気がするのですね。なんか不自然な気がする。完璧でありすぎるから逆に不完全だという。子供でも、いわゆる有害図書に一切触れもせず、イタズラもせず、子供がやりそうな悪いことや危ないこともせず、文部省推薦の”ためになる”に本や映画ばかりを読み、お行儀が良い品行方正なまま育っていくのは、一見とても素晴らしいことのようで、実はとてもグロテスクなこののようにも思える。人間としての何かが致命的に欠落しているような気がする。

世界の両極性

 何が足りないのか、何で不完全なのか。それは、悪や汚濁などネガティブな養分が足りないのでしょう。悪なんかない方が良いんだけど、でも無かったら無かったで妙に気持ち悪いんですよ。なぜか?それは不完全なこの世界に生きている不完全な人間として、不完全だからでしょう。完全過ぎてしまうから逆に不完全だという。

 僕もあなたもとっくに知ってるように、この世界は不完全です。世界は矛盾と理不尽に満ちている。そして僕ら一人一人の人間も不完全で矛盾に満ちています。

 あなたは自分自身が、矛盾のない完全な人間だと思ってますか?多くの人はそうは思わないんじゃないか。少なくとも僕はそう思わない。自分くらい矛盾だらけで、デタラメな存在はないとすら思う。1時間前に心からAだと思ってたことでも、今では手の平を返したようにBだと思ってる。都市生活に倦み疲れて、こんなところは人間の住むところじゃねえ!自然のフトコロへ帰るんだと思って、実際に大自然の中に行ったら行ったで、今度はやれ不便だとか退屈だとか虫が多くてイヤだとかブチブチ言い、都会を懐かしがるのだ。一人のときは人寂しく誰かと一緒に歩きたいと思い、誰かと一緒にいたらいたで今度は独り身の自由さが懐かしい。勉強だダイエットだと言いながら、掛け声ばかりでやらない、本は買ってくるだけで読破しない。夏になると冬を恋しがり、冬になれば夏を恋しく思う。無いものねだりの健忘症、感謝知らずの根性なし。

 しかし、それは個々の人間が劣等だというだけの話ではないと思うのです。ダメ人間の自己弁護ではなく、それは世界そのものがそうなってるからだと思う。季節に夏と冬があるように、一日に昼と夜があるように、磁性にSとNがあるように、電子にプラスとマイナスがあるように、陰陽道や二元論のように、この世界は対立する二つの極によって成り立っている。世界そのものの特性として、対極性、対称性をもっており、万物の諸相はその両極性のブレンドによって成り立っている。誰でも知ってることです。

 誰でも知ってるんだけど、ついついこの二極性を忘れて一律にモノを語ろうとして矛盾を感じてしまう。地球上というのは明るくもあり(昼)暗くもあり(夜)、東京の気候は寒くもあり暑くもあり、人間というのは男でもあり女でもある。当たり前なんだけど、これが「AでもありBでもある」という矛盾として感じられてしまう。それを矛盾と呼ぶのなら、矛盾してるからこそ真理に近いとも言える。この世界の現象に関するものであるならば、どこかしら矛盾をはらんでいて当たり前だし、矛盾をはらんでいなければおかしい、矛盾しているからこそ信用できるとも言えます。

 そして、両極ブレンドの世界の中で生れてきた我々もまた、その体内や精神内に両極性を持っていても不思議ではないと思うのですよ。僕やあなたはいい人でもあり悪い人でもある。人間というのは天使でもあり、悪魔でもある。性善でもあり、性悪でもある。最悪の地獄はどこかといえばそれはこの世界であり、最高の天国はどこかといえばそれもこの世界である。天使でもあり悪魔でもある人間と人間の関係の上の存在するのが仕事であるならば、仕事もまたいいものでもあり、悪いものでもある。たまたま人間の天使性が重なりあうような仕事の局面においては、それはまばゆい輝きを放つかもしれないし、たまたま人間の悪魔性が重なり合うような局面においては、ひたすら救いなくダークに堕ちてゆく。どちらも正しい。

 文部省推薦モノばかり見て育った”品行方正”な子供がなんか気持ち悪く感じられるのも、この世界の両極性という基本フォーマットを持っていないからでしょう。良いことだけではなく、悪いことも成長のための養分として必要だと思われるからです。なぜならこの現実世界に生きていく以上、この現実世界をできるだけ正確に理解しなければならず、理解するためにはその構成要素を体内に持ってなければならないと思われるからです。同じように、仕事というものは、ひたすら人間性を貶めるだけという極めつけにダークで薄汚い部分をもつのだけど、それがこの世界の実相である以上は、それはそれとして飲み込みなさいってことでしょう。

手段としての偏見

   そもそも、それが矛盾であるとか、何が正しい/間違ってるとか、なにが良い/悪いということはないのでしょう。万物は、ただ「在る」だけの話で、それにプラスだマイナスだという評価を価値判断を加えているのは、僕ら人間の価値観です。場合によっては価値観という大それたモノですらなく、単に見ている角度が違うだけ、見ている時間帯が違うだけって場合もある。

 角度でいえば、湯呑みのシルエットがよく例にあげられます。湯呑みという物体を真上からみたら円形だし、真横からみたら長方形で、同じモノを見ていても角度が違ったら全然別物に見える。同じように、社会的には極悪非道のギャングのボスでも、愛娘からみたら「大好きな優しいパパ」だったりします。同一人物が、ときには厳しい上司であり、生意気な部下であり、取引先の気さくな担当者であり、剽軽な同期生でもあり、おっかない父親であり、不肖の息子であり、短気なのがタマに傷だけど基本的には優しいダーリンであったり、意味不明なヘラヘラ笑いを浮かべている謎の東洋人であったり、地下鉄で隣でつり革につかまってるくたびれたおっさんであったり、趣味の世界では○○さんという愛称で親しまれているヌシのような存在だったり、、、キリがないですね。こんなの無限のバリエーションがある筈です。

 時間的なズレでいえば、昼間に世界を見たら世界は明るく、夜に見ればひたすら暗い。アホみたいな話なんだけど、でも、初めてオーストラリアにやってきた数日間、雨ばっかり降ってたらいったいオーストラリアには晴天はあるのかと疑問になり、晴ればかりだと雨なんか降るのかという気がするもんです。さらにタイムスパンを長くして、たまたま戦後60年戦争らしい戦争にぶつかってないから未来永劫平和なような気がしているだけで、ちょっと時間をズラしたら虫けらのように殺されているかもしれないわけです。さらに時間を長くすれば、地球に人類がいるのが当たり前なんて思ってるのは錯覚で、地球誕生からの長い年月を考えれば人類の存在している時間なんか”一瞬”というのもおこがましいくらい、もうサブリミナルみたいな現象でしかない。逆にシャッタースピード1000分の1で写真を撮るように、ごくごく瞬間的にみれば、たまたま瞬きの最中だった人の目は常に閉じられていると誤解し、マブタが開いている人の目は常に開かれていると思うでしょう。ほんのちょっとタイムスパンを長くして、たまたまある人が不機嫌なときだけ見てイヤな奴だと思い、機嫌のいいときだけ見ていい人だと思うってことはありがちでしょう。

 このように角度と時間が変わっただけで無限のバリエーションがあるとすれば、角度×時間というマトリクスをとれば、そのバリエーションはもう手に負えないくらい等比級数的に増える。何がなんだか分からなくなってしまう。僕らが何かを理解しよう、それも正確に理解しようとして、時間と角度を増やせは増やすほど、怒濤のような情報の洪水に押し流されてしまう。あらゆる矛盾する情報に翻弄され頭がパンクするでしょう。雑多な音を同時に重ねていくとやがてホワイトノイズになるように、色を無限に重ねていくと最後には真白になってしまうように、真っ白な虚空に放り出されてしまう。突き詰めていけば、僕らが物事を正しく認識・理解するなんてことは本質的に不可能だということにもなります。

 それでは困る。360度真っ白だったら僕らは生きていけない。そこで、間違っていてもいいから適当なところで妥協しようとします。AはA、BはBということにして先に進みます。手塚治虫原作×浦沢直樹リメイク「鉄腕アトム/史上最大のロボット・PLUTO」という作品にも出てきますが、あるロボットの人工知能に人格を付与するため世界中の人の人格をサンプリングデーターとして与えたら、無限に計算して永遠に目覚めなくなってしまう。そこで、一個の人格に収斂させ目覚めさせるために、ある特定個人の特定の感情(憎悪)という核を与えるという話が出てきます。非常に示唆的な話です。

 以前、「脳は何かと言い訳をする」で大脳生理学の最先端の本を紹介しましたが、そこでも書かれていましたが、人間の脳というのは偏見を好むそうです。Aだと思ってみれば、目では明瞭にBを見ていても脳はAとして認識処理してしまう。なぜかといえば、ゆっくり考えていたら外敵に食べられてしまうからです。生存率を高めるためには雑多の情報を迅速に処理する必要があり、そのためには偏った特定の情報処理のパターンをする。公正に、正しく情報処理をしていたら永遠に終わらない。永遠かどうか分からないけど、少なくとも急場に間に合わない。そそっかしくて、早とちりをして、おっちょこちょいで、偏見バリバリの個体の方が無茶な決めつけをする分、情報処理が早く、行動も速い。

 かくして、僕らは極めて限定された時間、限定されたアングルで、しかも静止的に物事を捉えようとする傾向があります。偏見が好きだってことですし、偏見を手段として使っているということです。その方がクリアに分かりやすく、且つ速い。何よりも大事なことは、それによって物事を前に進めることが出来る。何かの行動をするときは指針はシンプルであればあるほど良い。右も良いけど、左も捨てがたいとか言ってたら一歩も歩けない。もう右なら右でキメうちしないと進めない。しかし、当然ながら限定されていればいるほど、静止的であればあるほど物事の一部しか捉えられていないから、全体像を見誤っている。速くてクリアで実戦的なんだけど、絶対どっか間違ってる。だけど間違えれば間違えるほど簡単になって動きやすい。逆に全ての情報を統合しよう、完全に偏見ゼロで臨もうとすると、死ぬまで考え込むハメになり一歩も動けない。

 とまあ、こういうことなのでしょう。

「矛盾」なんて無い


 この考え方を進めていくと、もしかしたら、「矛盾」なんてものはそもそも存在しないのかもしれません。矛盾というのは論理的に両立し得ないものですが、それはもともと物事を静止的、断片的に捉えているからそう見えるだけの話。例えば、1日というものは明るくもあるし(昼)、暗く(夜)もあるのですが、それをある時点だけに固定したら、「俺が行ったときは暗かったぞ」「いや、私のときは明るかった」と真反対に食い違う矛盾に感じられるでしょう。「1日には昼も夜もあるのだ」という統合的な理解に立てばそこに矛盾はないのだけど、一時点だけ見てそれが全てだと思いこんでしまう人にとっては、明るいのか暗いのかどっちなんじゃ!と矛盾を感じてイライラするでしょう。

 まあ、昼夜の例だったら「そんな馬鹿なことを考える奴はいないよ」と思うだろうけど、「たまたま」の経験を絶対化し、全てがそうであるかのように思いこむというケースは山ほどあるでしょう。あるレストランに入ったら、たまたまそのときの給仕の態度が悪くて、二度とこんな店に行くものかと思う。しかし、その給仕は態度が悪いので即日クビになってるかもしれないし、普段はいい人なんだけどたまたま激しい胃痛に悩まされて十分な応対ができなかったのかもしれない。自分だって、イライラしてつい他人に当たってしまって、あとで「悪いコトしたな」と思うことはあるんだから、誰にだってそういう可能性はあるよね。でも、そこまで考えを巡らせてまで一つのレストランの実態を極めようとは思わないから、一回ポッキリの体験で「もう二度と行かない」と思う。

 もっとヒドイのは、自分で体験すらしていないのに他人がそう言うからそう思いこんでるとか、そう思いこんだ方が気持ちがいいとか、その方が頭使わなくていいから楽とか、愚にも付かない理由で思いこんでる場合も多いです。昼夜の例よりもよっぽど馬鹿だけど、でもそういうケースなんかザラにある。例えば、人種差別なんか大体がコレでしょう。フランス人は傲慢でキザで、イタリア人は女たらしで、ユダヤ人はしたたかで、中国人は平気でボッたくる、、みたいなことです。ステレオタイプというやつですが、物事を固定的・断片的に捉えているからもの凄く分かりやすいけど、絶対的に間違っているという。だってこの例でいくと、日本人だったら、眼鏡掛けて出っ歯でカメラをもってなければいけないことになり、眼鏡をかけていない日本人は日本人ではない、出っ歯でなければ日本人ではない、というもの凄い結論になりますよね。こんなの断片的ですら正しいのかどうか疑問になります。

 ちなみに僕も海外に16年住んでますけど、日本人が特に出っ歯であるというのは嘘でしょう。別に明石家さんまが日本人の平均的な顔ってわけでもない(どっちかというと中国人っぽい)。眼鏡率もそれほど高くないよ。外見で日本人を見分ける基準を強いてあげれば、「顔つきが優しい」あたりになりそうですが、それすら怪しい。これって経験が長くなればなるほど「区別不可能説」に傾きます。海外に住み始めて数ヶ月や数年レベルの”生意気盛り”には、何となくわかったかのように天狗になってたけどさ、それは若気の至りってやつでしょ。「いかにも○○人」というド典型なケースは外さないけど、例外もあるのですね。その例外も三桁単位で経験すれば「それって例外なの?」って気になってくるし。

 僕らの世界観は、偏見による強引な決めつけによって成り立っています。これはこのエッセイの過去でもことある事に書いてるけど、一見Aにみえることって、調べていくと実は全然Aじゃなかったりすることって多いです。多いどころか殆ど全部そうだといってもいいくらい。だってこの世の全てを個人で体験するのは不可能だから、しょせんは「聞いた話」でしょ。自分の目で確かめてるわけでもない。また確かめたところでほんの一瞬それを見て何が分かるというのだ。それこそたまたま明るいときに行ったら未来永劫明るいかのように思いこんでるだけじゃん。

 でも、全てに対して慎重に、理性的にやってたら物事進まないし、そもそも世界観というものが出来ない。本当に地球は丸いのか、本当に日本なんて国は存在するのか、本当に自分は存在するのかとかイチイチ考えてたら進まない。もう強引にでも「そーゆーこと」にしてキメうちして話を進めているだけ。てことは僕らの世界観、僕らが人間とはこーゆーもの、社会とはこーゆーものと思いこんでるもの、銭湯の絵や舞台の書き割りのようなもので極めて怪しい。舞台の袖から黄色く塗ったお盆を吊して、はいこれが月ね、今は夜ね、夜ということで話を進めまーすみたいなもんなんだろ。「都合により○○ということにしておく」という程度の、暫定的で、テンポラリーな仮決めに過ぎない。

 この程度の薄っぺらな認識でやってるんだから、本当の現実に触れるたび、それも数多く触れる度に、「こ、こんな筈では、、、」と帳尻が合わなくなってくるのは当たり前です。矛盾してきて当然。そりゃそうですよ、最初から嘘なんだからさ。一回目に昼に行って明るいと思ってたら、二回目夜に行って暗かったのでパニック!という、ただそれだけの話、みたいな。


で、日々の実践においては?

 以上あれこれ書きましたが、これって一種の認識論とか幼稚な哲学みたいなものなんだろうけど、それはカラクリというか原理部分で、大事なのはこれを踏まえて日々の実践においてどうしたらいいの?ということです。

 最も身近な”現象”、つまり”自分自身”についてですが、自分の矛盾をもっと認めてやればいいじゃないかって気がします。よく、性格診断テストなどで、自分の特徴を5段階評価させたり、○×つけたりしますけど、あれもなーって気もします。「社交的な方である」とう設問ひとつとっても、そりゃ気のあった友達の中にいたら誰だって社交的になるし、嫌な奴ばっかりだったら社交的にはならないでしょう。僕も高校の時によくあるパターンで心理学等にハマってよくやってましたけど、段々「なんだかな」って気分になってきました。だって、これって設問を読むとき最初に思いつくイメージがどっちかによって決まる、そのとき気分次第じゃないのか。たまたま前日に友達同士で痛飲したら「社交的」だと自己評価するだろうし、前日に下らないパーティに無理やり出席させられて不愉快な思いをしたら「非社交的」に傾いたり。だったらかなり偶然によって決まるわけで、言わばくじ引きみたいなもんじゃないのか?って気がしてきたのですね。

 「怒りっぽい方だ」とか、「レストランのメニュー決めで悩む方だ」とかさ、多かれ少なかれ誰だってそうだよ。よほど極端な性格でもしてないかぎり、どっちでもありますよ。これって結局、何度も例に出してる昼・夜パターンじゃないの?怒りっぽいときもあるし、やたら寛容なときもある。今日はなぜか朝から天丼が食べたくて仕方がないときはメニュー決めにも困らないでしょうし、初めて入った店で魅惑的なメニューが並んでたら誰だって迷うでしょうよ。まあ、この種のテストは、そういったブレも当然織り込んでの話でしょうから、それはそれで意味があろうとは思いますよ。でも、そーゆー一面的な自己認識は、多くの場合間違ってるし、アテにならないと思ってた方がいいと思うのですよ。

 どんな人だって善人でもあるし悪人でもあります。時々、もしかして自分ってとんでもなく冷淡な人間なんじゃないかって思ったりしませんか?自分は出来る人間だ、有能な人間だと思う度合いが強ければ強いほど、それと同じ強さで真逆な意識も持つものです。他人からみてたら全てに恵まれているような人が、実は内心「俺には何もない」とコンプレックスを持ってたりもする。巨大で強烈な野心を持ってる人ほど、強烈な厭世観を持っているというのは何かで読んことあるけど、本当だと思います。平安時代の昔から、位階人臣を極めて出世の頂点にまで達した人間が、あるときを境に全てを投げ捨てて出家してるもん。源氏物語の後半の方は、皆が先を争って出家したがってるし、光源氏だって最後には出家しちゃうもんね。

 「リーダーに向いている性格」なんてのもそうで、いつも一緒にいるグループでたまたま自分が一番物事を決めるのに適したポジションにいるときは誰だってリーダー的な性格になろうし、その逆もしかり。このあたりはいつも書いてることなので割愛しますが、長く生きれば生きるほど局面局面で自分の性格が変わる(というか演じる)から、自分が何人もいるような気にもなるし、要はどっちにもなりうるんだってことですね。人は変わります。びっくりするくらい変わりうる。だけどそれって変わってるのではなく、自分の中にある色々な諸要素の配置やレシピーが状況によって変化してるだけの話なのでしょう。カメレオンの皮膚の色が変わるように。だから、「自分は○○だ」ってあんまりキメ打たない方がいい。カメレオンが「俺の本当の色は何なんだ!」と悩んでるようなものです。「自分とは何か」といえば、「あらゆる可能性だ」くらいに思ってたらいいのではないかと。くれぐれも決めつけることによって(「自分のガラじゃない」とか言って)、人生のチャンスを逃さないように。

   身近な自分についてすらそうなのですから、これが他人や社会になるともっと流動的で曖昧になるでしょう。「政治家なんか皆悪党に決まってる」とか「官僚は皆私腹を肥やしている」とか、これだってステレオタイプでしょう。だいたい一対一で政治家と話をした経験すらろくに無く、周囲がそう言ってるからそう思いこんでるだけではないのか。

 婚活について書いている記事で、結婚相手として考えていた男性が、たまたま車を運転してて罵声を飛ばしているのを見て「こんな人だったのか」と幻滅して、結婚話が流れてしまったというエピソードが書かれてましたが、「おいおい」って思います。まあ、記事は強引に要約しているから実際とはニュアンスが違うのでしょうが、何かの欠点、それまで思ってたのと違う側面を発見しただけで、「そんな人だとは思いませんでした」「見損ないました」というのは、そそっかしいにも程があると思います。それって、昼だと思ってた人が夜に遭遇し、そこで「そうか、昼も夜もあるのだ」と真理に近づけばいいものを、「そうか、この世は全て夜だったのだ」と勘違いするようなものです。

 「Aだと思ってたらBだった」というのはよくある話なのだけど、そこでガビーンとなって「私は騙されていた」と思うのはアホだと思いますね。まあ、真実騙されていた場合もあるでしょうけど、物事というのは両面見るまで簡単に結論なんか出さない方がいいです。

 ある物事が矛盾してると感じられたら、まず祝杯をあげましょう。おめでとう、あなたは一歩真理に近づいたのだ。昼しか知らない人が夜に出会ったように、より広く、大きく、正しい認識に向かう道しるべを見付けたのだ。あとは、矛盾は矛盾としてそのまま抱えて歩く。せっかちにシロクロつけようとせずに、矛盾しているまんま丸呑みする。統合的な理解なんていっても、そんなに簡単にわかりゃしないのだから、自然に分かるときまで矛盾を集めてそのまま保管。

 といっても、これが難しいんですよねー。矛盾を矛盾として抱えるためには、それだけの容量、キャパシティが必要です。コップ一杯分しか容量のない人は、コップ一杯分の矛盾しか抱えられない。それを越えるとあふれてしまう。昼だったのが夜になると、昼だったことを忘れてしまうとか、あれは間違ったんだと思いこむとか、あるいは逆に目の前の夜という現実を否定する。「俺は認めないぞ」と頑張ったりする。その人が持っている容量、それがコップ一杯分しかないのか、タンカー一隻分くらいあるのか、そこは個人差であり、修行の成果なのだろうけど、それを人は「器量」と呼ぶのでしょう。文字通り「器」の「量」です。器量の大きな人は、あんなことが起こったり、こんなことが起きたり、かなりメチャクチャな事態になっても、「はっはっは、よかよか」と飲み込んでしまう。

 でもって器量というのは成長します。矛盾にブチ当たって「むむむ」となる度に広がっていきます。最初はお猪口程度の器量が、ぐい呑みサイズになり、コップになり、ジョッキになり、ピッチャーになり、樽になり、タンクローリーになり、タンカーになり、貯蔵庫になり、海になる。

 なんで器量が大きいと良いのかといえば、こんなの言うまでもないのだろうけど、矛盾を矛盾として丸呑み出来た方が、この世界のありようをそのまま見ることが出来るからです。より実際の姿に近いものを見れるということは、より情報が正確だということであり、より正確な情報をもとに生きていけば、くだらない失敗も避けられるし、無意味な右往左往もしなくて済むからです。

 ということで、矛盾にブチあたったらとりあえず乾杯しましょ。Cheers! Mate!





文責:田村




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