今週の1枚(09.07.20)





ESSAY 420 : GIVEとTAKEのオトナの条件




 写真は、Crows Nestのweekdayの昼下がり。アジア系レストランでテイクアウェイを頼んでいる間に撮ったもの。





 その人間がコドモかオトナかを区別する基準は、例えば年齢、例えば社会的立場など色々あるでしょうが、僕は、

               GIVE > TAKE

 というシンプルな式で表わされると思います。
 「他人に与えている総量」が「他人から貰っている総量」を越えるかどうかであり、貰いっぱなしのクレクレ君は半人前のガキだってことです。

 以上、今回のエッセイ終わり。
 これで読み終えていいです。いつも長いし、簡単でいいでしょ。

 とは言いつつも、これでは余りに味気がないような気がするので、関連してダラダラ書きます。でも、今回のテーマはコレだけです。

 
 原理はとってもシンプル。誰でもわかりますよね。赤ちゃんは自分では何も出来ず、いわば100%貰いっぱなしです。それが段々自分のことは自分でやりなさいという教育を受け、自分でオシッコに行けて、自分で服を着て、やがて”初めてのおつかい”というGIVEを少しづつ始めます。でも、まだ99対1くらいでTAKEが多いです。

 思春期になり、身体も成長するにしたがって、TAKE、つまり親の干渉を嫌がるようになります。何でも自分でやりたい、やれるようになりたいという自立願望が出てきます。このあたりはエディプスコンプレックスやら、発達心理学で色々学んでいる人も多いでしょう。高卒から大学あたりが最終地点で、親離れ、子離れしていきます。でも、まだ学費は親に出して貰い、仕送りなんかもして貰っているからガキです。やがて社会人になり、初めての給料で親に何かプレゼントするようになって、そろそろ一人前かなって感じになります。

 しかし、まだまだ。それは単に生活まるごと親抱えという環境を多少離脱出来ただけであり、オトナになったわけではない。BOYであって、MANではない。GIRLであってもLADYではない。広い全世界的な関係においては、親との関係などほんの一部でしかない。つまり、職場においては足手まといのヒヨコであり、あれこれ教えてもらい、失敗しては先輩や上司に尻ぬぐいをして貰っています。つまり、TAKEが多く、GIVEは少ない。

 さらに、対社会・対国家においては、安月給で払う税金なんか知れたものであり、それよりも国家社会からTAKEしているものがまだまだ多い。鉄道、道路、水道、電気、ガスなどのインフラ、治安や行政サービスなどなど。高速代金や水道代を払っているといっても、その程度の受益者負担では、運転資金くらいにしかなってないでしょう。ゼロから用地買収して、ダムや原発を設けて、山奥から延々送電線を伸ばして、都会周辺に変電所を作って、、、という初期投資だけでもどれだけ金がかかるか。それを全部電力会社がやりくりしているわけではなく、税金からも多額の補助金が出ています。また、電源開発促進税、石油石炭税、さらに国家予算の特別会計にはエネルギー対策特別会計という項目もあります。

 単純にお金だけの問題でいうと、日本の年間の税金の総額は大体53兆円だといいます。これを日本人1億2600万人で割ると一人あたり42万円ちょいになります。うう、巨額すぎて電卓叩いても桁が間違ってないかどうか心配だったりして、えーと、一人1万円払ったら全部で約1兆円なんだから、合ってますよね。で、一人あたり実際幾ら払ってるかというと、所得税税率は課税所得が195万円以下の人は5%、それ以上330万円以下だと10%、695万以下だと20%、900万円23%、1800万円33%と続きます。地方税(市町村民税)は一律10%になったそうです。ということは42万円税金を払おうと思ったら、幾ら稼げばいいんだ?年収200万円で所得・地方税合わせて10+10の20%だから40万円ですね。そんなもんか。まあ、実際には配偶者控除、扶養控除、なんたら控除で実収入よりも課税所得は圧縮されますけど。

 この計算は単に所得税と地方税だけで、実際には消費税を払い、酒税や相続税を払ったりしています。また実際に取られるのは租税だけではなく健康保険や年金などもあります。一方、税総額を1億2600万で割ってますけど、これは0歳児も100歳のお年寄りも含めての額ですから、いわゆる18〜65歳くらいの稼働年齢人口割合、さらに専業主婦(夫)などを考慮にいれるとざっと2倍、400万円くらい稼げってことになりますか。ということは日本人一人あたりのノルマを果たすには、そのくらい稼いで税金を払わないと、GIVEよりもTAKEの方が多いということになります。

 まあ、こんな穴だらけの杜撰な試算はどうでもよく、「貰うよりも与えているか?」という基準は、例えばこういう形でも考えられるよ、という例証でした。そういえば、ずっと昔に読んだビートたけしのエッセイで、自分は売れて収入も増えたが税金ももの凄く払ってる、よく”税金ドロボー”とか”俺たちの血税を”とかエラそうに言ってる奴がいうけど、そういう奴に限って大した税金払ってないんだよな、と書いてありました。そのときは読んでて、「わはは、言えてるかも」と笑ってましたけど、国にあれこれ文句言う前に、まず国民としての”会費”を払えよって視点はあると思います。よく愛国心とか言いますが、それって口先で何だかんだ言うことではなく、まず実行でしょう。真の愛国者というのは、自分の仕事をちゃんとやって、しっかり払うもの払ってる人なのだと思います。

 ところで話は逸れるけど、年収200万くらいで年間40万も税金払ってましたっけ?日本ってこんなに税率が高かったかなあ。オーストラリアは国税も地方税も一緒に払うけど、年収3万4000ドル以下は6000ドル以上の部分につき15%です(国民、永住権者などの場合、ちなみに6000ドル以下は無税)。簡易にドル100円で計算すると200万(2万ドル)稼いだら、140万×0.15で22万5000円ですよ。全然安いじゃん。もっとも年収580万円(5万8000ドル)越えると45%も税金で持っていかれるけど。ということは、今やオーストラリアの方が累進税率がキツくなってるんだ。てことは、低額所得者にはずっと暮しやすいってことです。これは税率だけではないです。例えば健康保険に相当するMedicare Levyも課税所得の1.5%だから、200万だったら健康保険料年3万円でしかない(もっとも適用範囲は日本の方がずっと広いが、その代わり適用内&パブリック病院の場合は自己負担ゼロ)。年金も、基礎年金部分は税金から出るから特に払う必要もない。社会保障も厚い。母子家庭で子供が二人いたら働かなくても食べていける。この上に、「貧乏人を馬鹿にしない」「虚栄心が少ない」という伝統的なカルチャーがあるから尚のこと楽です。というか、日本で低額所得者をやってるのはもの凄くしんどいということですね。日本で暮すならとにかく金持ちにならないと損だと。しかし、日本で年収200万かそこらでは生活も大変でしょうに、税金の他に健康保険や年金、おまけにNHKの受信料(オーストラリアは無料)まで払わされたらかなりキビシイ。ちょっと厳しすぎないか?って気もしますが、どっかで計算が間違ってるいるのでしょうか。格差社会の是正とか言いながら、こんな上に甘く下に厳しいプログラミングを走らせていたら、もともと虚栄(世間体)カルチャーが強く、冠婚葬祭出費の激しい日本の文化では、格差が出るに決まってますよね。


 もっとも、GIVEとTAKEの関係は、こんな税金やゼニカネに尽きるものではありません。というか、お金なんかほんの一部に過ぎない。

 例えば国家というのは、領土+国民+統治機構の三要素で成り立っていると言いますが、領土・土地という観点からは日本という土地を綺麗に使えって視点もあるでしょう。自分の家の敷地は綺麗にしておけとか、自分が散らかしたゴミよりも他人のゴミを片付ける方が多くなるようにしろとか。国民でいえば、自分の分の次世代は作っておけとか。統治(政治)でいえば、衆愚によって日本をコケさせる方向に荷担しているかどうかとか。要するにプラマイ勘定で、自分が居た方が日本が良くなるのか、それとも居ない方が良いのか、です。

 他にも有形無形の寄与というのがあります。今現在日本という総体が持っている経済力、社会状況、文化水準をキープし向上させているか、それともダメにしているか。真面目に仕事してるかとか、家族の一員として良好な関係をキープしているか、下世話なカルチャーにばかり金を払って、硬派な文化活動に冷淡だから全体の文化レベルを落としていないかとか、、、、。


 オトナになればなるほどGIVEが多い。持ち出しが多いです。朝から晩まで働いて、子供育てて、小遣い与えて、学費払って、疲れた身体に鞭打って動物園に連れてって。井上陽水の「人生が二度あれば」じゃないですけど、子供のため、家族のために全人生を捧げるくらいのGIVEする。職場に行けば行ったで、「教えてもらってませーん」といけしゃあしゃあと言うクソ甘ったれた部下をなだめたり、おだてたり、尻ぬぐいをしたり、友達がいなくて人寂しいからかけてくるアホな消費者のクレーム電話処理に時間を費やされる。それでいてサラリーマンは所得把握バッチリだから脱税のしようもなく、がっぽり税金を取られる。どこに自分の時間があり、どこに自分の人生がある?ってくらい、GIVE、GIVE、GIVEの毎日です。ああ、オトナだなあ。

 ずっと昔のシドニー雑記帳の「カッコいい」で書いたけど、僕はこういう人が一番カッコいいと思うし、一番尊敬します。カリスマなんたらなんかよりも、セレブよりも、こういう人達がいるから社会がコケないで廻っているのだ。最大の、そして報われない、悲劇のヒーロー&ヒロイン達。

 というわけで、GIVEがTAKEを上回っている人、得るよりもより多く人に与えている人を、僕は一人前のオトナとして認めますし、相応のレスペクトを払います。TAKEがGIVEよりも多い人は、まだコドモということで、それなりに扱います。コドモだからプロテクトも手加減もしてあげるけど、エラそうな口を叩きやがったら即ぶっ飛ばします。ガキはすっこんでろ、と。

 これは年齢ではないです。社会的地位でもないです。年齢的に子供であっても十分大人になってる子もいるし、いい歳ぶっこいてもダメな奴はダメ。


なんでこんなこと考えたのか?

 ふと、気づいたのですね。自分一人が生きていくだけだったらえらく簡単なんですよ。とりあえず生命活動を維持できる程度のカロリーを摂取して、Safeな居所をゲットするくらいだったら、稼働年齢の男一人なら何とでもなります。あまりにも容易なので、なんでこんなに簡単なのかな、人生おかしくないかと思ったのがキッカケです。

 GIVEとTAKEがトントンだとしても、50%は他人のために使えってことでしょう。それを100%自分のために使ってたら、そりゃあ楽ですよ。ましてや大人と呼ばれたかったら7割くらいは他人のためにエネルギーを使ってちょうどいいくらいです。だから、てめー一人が生きて行くためには、ほんと片手間作業で良いはずだと。それだけの力を最初から与えられているのだから。だから、力は他人のタメに使えと。とりあえずは家族、配偶者とか子供とか老親とか。僕はカミさんはおるけど、子供には恵まれてないし、また親も元気だしで、かなり楽なんですよ。だから余剰エネルギーをもっと他人のために使え、使って当然なんだろうと。

 僕の仕事はワーホリさんや留学生さんの学校選びのお手伝いなんですけど、実際には生活講座やら、あちこち連れて行ったり、シェア探しの特訓したり、めぼしい物件をプリントアウトして一緒に電話をしたり、場合によっては車で連れてったりしてます。これらは本来の業務活動からしたら、関係はあるけど必須ではなく、利潤増大という企業目的からしたら無駄な作業ばかりです。経営効率化という観点からはバッサリ削除した方がいいんですよね。でも、なんかしたくなっちゃう。何でなんかな、なんでこんな無駄なことをするのかな、したくなるのかな?と思ったら、そうかエネルギーが余ってるんだ、GIVEを増やすのは自然の摂理なのねと一人で納得してたわけです。


この考えを推し進めると、ヒトラーになりかねないこと

 この大人思想、いっちょ前思想を無批判に延長していくと、優生思想みたいな話に近づいていきます。何かもちゃんと自分で出来て、他人に与えることが出来る人間だけが一人前の人間として遇され、そこに達していない人間は二級市民であり、ひいては社会に不要な存在だ、、という話になっていきます。

 これは、あくまでパーソナルなものとして、自分自身を戒める発想としては良いのですけど、社会規範にしてはいけない。そうでないと、老齢者、身体障害者、病弱な人、あらゆるハンディキャップを負ってる人をお荷物扱いする発想になります。ナチスがまさにそうで、金髪碧眼の偉大なる支配民族アーリア人の血統にあり、五体壮健で優秀な人間だけを良しとし、それ以外の人間を激しく排斥しました。ユダヤ人排斥が最も有名ですが、虐殺されたのはポーランド人やセルビア人もいるし、知的障害者、精神病者、同性愛者なども含まれます。安楽死計画、T4計画というのがあって、身障者や精神障害者が約20万人も「生きるに値しない生命」とされて殺されています。詳しくは過去の世界史シリーズ(37):ヒトラーとナチスドイツ参照。

 ということで、この種の一見倫理的にもかなってそうなお話というのは、ひとつ間違えればとんでもない殺人思想になりますから、取扱注意!ということです。


GIVEとTAKEの本当の中身
 対他人、対社会へのプラマイ勘定は、とてもシンプルで明快なのですが、真剣に考えていくと、宇宙を一個まるごと押し込んだくらい深いです。

 例えば、税金の話でも、高額所得者は沢山税金を払っているから社会に貢献している大人であり、低額所得者はあまり貢献していない子供であるという具合に単純に話を進めてはならないと思います。なぜなら資本主義に本質的な搾取構造はコア原理なだけに尚も健在であり、低額所得者の方が安月給でコキ使われているケースが多い。搾取されているから安月給になり結果的に納税額も低くなるわけですが、本来貰うべき賃金分(事実上ただ働き分)は労働という形で社会にGIVEしています。また、総税収を単純に人口割りするのも正しくなく、税収のかなりの部分が法人税だったりします。その法人税を納める(会社を儲けさせる)ために、必死になってただ働きをさせられているとしたら、その人は間接的に法人税を払っているとも言えます。また、真にグレートな仕事をして高収入になっている人もいますが、天下りや渡り鳥といった形で、社会に何も貢献せず、それどころか社会構造をより歪めているようなケースもあるわけです。ひどいケースになると納税額の何倍もの額を補助金その他の名目でポッケに入れてたりするわけですから、一概に納税額だけで決めるのはおかしいでしょう。

 税金という一見明白そうな計数上の事柄でさえ、深く考えていけば迷宮にはまりこむのですから、これが対人関係などの抽象的な領域になるとファジーさは爆発的になります。

 例えば、赤ちゃんを含めた子供です。文字通り彼らは子供ですから、貢献するより与えられるものの方が遙かに多い。しかし、純粋にただ収奪するだけの”穀潰し”だったら、人は子供なんか育てないし、大事にしません。それでも育てているのは何故か。将来老後を養って貰おうという魂胆があるのか、それとも義務感からなのか。そういう部分もあるでしょうけど、メインには違いますよね。単純に可愛いからでしょう。これは、猫などのペットに置き換えてみたら一層ハッキリします。猫が自分の老後の面倒を見てくれるはずもないし、猫を育てる義務もない。なのになんで飼ってるのか。

 それは、子供は、親をはじめとして周囲の大人を幸せにするからでしょう。
 GIVEとTAKEでお金であるとか、労働力であるとか色々書きましたけど、金銭にせよ労働サービスにせよ、何の為に存在するのかといえば終局的には幸福になるためでしょう。幸せな気分に浸る方法は山ほどありますが、それを成し遂げるためには先立つモノがいるし、それに向けた行動も求められます。温泉に浸って極楽気分になるためには、旅費を稼がないとならないし、自分の足でそこまで行かなきゃいけない、ブッキングもしなければならない。あれこれの涙ぐましい営為は、透明な、あるいは白濁した溢れんばかりの湯の中にじゃぼーんと浸かって「あ〜、、」となるためのものです。ああ、こんなこと書いてたら温泉行きたくなってしまったじゃないか。

 だから最後の終着駅には幸福がきます。人生とは何かといえば、幸福になるためにあれこれ頑張ることです。憲法13条に定められている幸福追求権であり、これは西欧思想の”the pursuit of happiness”から来ています。ウィル・スミス主演の映画のタイトルでもありますね(良い映画でしたね〜)。権利とはなにか、自由とは何かといえば、人が幸せになるのを妨げられないこと、です。

 で、赤ちゃんは、家の食費も部屋代も払わない、何ら対価的な財貨サービスを支出しない。でも、それを「ズルいじゃん」と不満に思う親は少ない。「不公平だけどしょうがない」とも思わない。なぜなら、貨幣などというまどろっこしい手段を使わず、いきなりダイレクトに”幸福”を親に与えるからです。最強ですよね。格闘技でいえば、何という”踏み込み”の強さ・鋭さってところでしょう。ただ存在するだけでいいんだから。

 というわけで、「鋼の錬金術師」じゃないけど、そこには”等価交換”があります。いや、等価とかそんなレベルすら超えた圧倒的なものかもしれない。いずれにせよ、何もしていない赤ちゃんは、実は最強最大のGIVEをしているということになります。親愛の情を表わす感嘆的表現として、英語で"baby"というのも頷けるってもんです。なんでそうなってるの?といえば、もう最初から神様がプラグラミングしたんでしょうね。赤ん坊だけにしか押せない経絡秘孔があって、そこを突かれると問答無用で愛してしまうという。”神様”は自然の摂理や淘汰の原理と置き換えてもいいです。細胞分裂で増殖するウィルスとは違い、身体の造りが複雑になるほど、卵生、胎生になり、さらに出生後の無力期間が長くなるから、親による絶対的な保護が必要になり、親をして保護せしめる感情を湧き出させる。おそらくなにかのプロセスで脳内麻薬でも分泌されるのでしょう。我が子を保護したくなった種族、実際に保護をし、教育を成功させた種族だけが生き残ることによって淘汰されたのでしょう。理屈はともあれ、そこには大自然の原理にもとづくGIVEとTAKEがあるってことですね。

 でもって、保護を必要としなくなるにつれて可愛さも自然に薄まっていく。あんなに可愛かった赤ん坊や、3歳5歳の時期を過ぎると、こまっしゃくれたクソガキになり、クレージーなティーンエイジャーになる。子供的にいえばあれだけ好きだった両親が、だんだん鬱陶しい存在になるのは、巣立ちの時期が迫ってきたからでしょう。体内に力がみなぎってくるにつれ、親という第二の”卵の殻”をブチ破ろうとする本能が彼らを反抗自立にかりたてる。

 原則は必ず例外を産みます。生物として十分に成熟しなかった個体、成熟はしているのだけど、環境が十分に整っていなかったような場合、はたまた単なる個体差によって脳内麻薬の出が悪い人は、自分の赤ちゃんの神通力がきかない。それほど無条件で可愛いとは思えない。この神通力がきかないと、赤ちゃんは恐ろしく鬱陶しい存在でしょう。夜泣きをするし、すぐに死にそうになるし。不定期断続的なストレスを半永久的に続けると人の精神は壊れますから、育児ノイローゼにもなろうってものだし、児童虐待も起こるでしょう。あまりにも進みすぎたご清潔な文明社会が、動物としての野性をスポイルしてる面もあるんでしょうかね。人類の子育てというのは、デフォルト設定では、子だくさんの農耕社会みたいなものでしょう。子供なんか産んで3年ほどインテンシブケアしておけば、あとは基本的にはほったらかしにしておいても大丈夫、勝手に子供同士遊んで、周囲の大人がゲンコツでゴツンと躾けてくれるという環境設定ですね。その前提で脳内麻薬分泌量も設定されているから、マンション二人きり、やたら育児知識が多すぎて頭でっかちになってプレッシャーがキツかったら、そりゃあ無理でしょ。社会全体が不自然なことをやってりゃ、その反動はくるでしょう。そして、その反動は、通常一番弱いところに生じる。ま、この話は本題から外れるのでこの程度に。


 ということで、赤ちゃんに限らず、GIVEとTAKEの中身に”幸福”というファジーで、それでいて究極的な要素をいれると話はガゼン深くなっていきます。納税額だの、文化的寄与だのグダグダ言わずに、単純に「他の人達から幸福にして貰っている総量」と「他の人達を幸福にしてあげる総量」とを比べてみたら良いのかもしれません。しかし、”幸福”といっても話は漠然としていて、モノサシとしては使いにくいでしょうけど。

サンキューという魔法
 最後に、こうして考えると、これまでいかに多くのモノをGIVEして貰ったかというのが改めて思い知られます。自分がGIVEする立場になればなるほど、いかに他からして貰ってきたかがよく分るという。親の恩とか、恩師とか、感謝の気持ちを忘れずにとか、なんか道徳の説教みたいな感じになっちゃってイヤなのですが、でも、まあ、そうとしか言いようがないわな。アホだった頃の自分(今でもだけど)を思うと、「よくまあ、こんな奴(自分)相手にキレずにつきあってくれたものだ」と思います。

 与えてもらったときは、お返しをしますよね。ご恩返しですけど、実際そうそう出来るものでもないです。面と向かって言うのもこっ恥ずかしいというのもありますし、距離的物理的にその機会がないということもあるし、そもそもその人に与えるモノなんか持ち合わせていないってことも多いです。

 そんなときはどうしたらいいかというと、とりあえず感謝することでしょう。心を込めて「ありがとう」という。なんか益々道徳の教科書みたいになっていくけど、でも、これ、海外で暮すときにはとっても大事なことですよ。言葉も中々話せないから上手いこと言えない、お礼をしようにも全てにおいて優越している地元民に何をすればいいのかも思いつかない。そんなときはニッコリ笑って「サンキュー」です。言葉が不自由だと、美辞麗句で誤魔化せないだけに、ガチンコの人間と人間の付き合いになります。相手の目をしっかり見て、心をこめて「サンキュー」って言うしかないし、それで結構通じます。誠意オーラで通じる。

 そして、これも自分がGIVEする側になったら分ることだけど、そうやって一言ねぎらってくれるだけで、魔法のように収支勘定が合っちゃうんだよね。持ち出し持ち出し、GIVEばっかりで大赤字の筈なんだけど、喜んで貰えるだけで帳尻が合ってしまうというこの不思議。だいたい、なんでそんなにGIVEするのかというと、人倫の見地やら、借りは返すという自立欲求やら色々あるんだけど、最大の理由は、TAKEするよりもGIVEする方がずっと気持ちがいいからなんですよね。与える方がずっと面白いし、いい気分になれる。それは優越感とか、そんなしょーもないレベルではなく、ささやかだけど確かな幸せを自分が作ったという喜びなのかもしれません。

 ああ、そうか、だから子供の頃、「ほら、ちゃんとおじちゃんにお礼を言いなさい」って言われてたんだ。今わかった。それって人類の最低限の仁義なのね。ああ、そうか、だから英語で「どういたしまして」というのを、You are welcomeの他に "My pleasure(それは私の喜びです)"って言うのか。あれは社交辞令ではなく、そのまんまの意味だったのか。なるほどって、いい歳してなんでこんなド基礎をやってるんだって気もします。

 逆に言えば、いかに他人から多く取るか、いかにTAKEするかばっかり考え、GIVEするものは唾でもいやだというドケチな奴や、クレクレ君や自己中の人間が、どうして人から嫌われるかというのもよく分りますよね。喜んでくれる人にはもっと喜ばせたくなるから、さらにGIVEをする。GIVEをしてもGIVEをしても、ハートのこもったサンキューを言われただけで魔法がかかり、帳尻が合う。でも、「ラッキー!」とかだけ言って相手に対して感謝のオーラを出せない奴は、その魔法をかけないから、帳尻が合わない。もう二度としてやるもんかと思う。いっちょ前の人間として扱おうって気分が失せるよね。だから自己中の人って長期的にみれば大損こいているんでしょうね。でも馬鹿だからそれが分らないんでしょうね。でもって稼ぎの効率が悪いから余計にガツガツする。悪循環なんだわ。Penny wise, pound foolishとは良く言ったものだ.(目先の小銭にガツガツして大金を逃す愚か者という意味の英語のコトワザ)。かくして顔つきもオーラも浅ましく、さもしい感じになっていくのでしょう。しかし、最初の方にも書いたように、てめーの始末なんか50%以下のエネルギーで何とかなりそうなものなのに、そこまで他人にクレクレ求めるというのは、100%フル稼働でも間に合わないのか、そんなに無能なのかこいつは?って、僕なんかバッサリ思っちゃうのですが。


 しかし、まあ、ちょっと引いて考えたら、サンキュー一つで帳尻が合うべくもないです。GIVEしてる方はそれで良いかもしれないけど、貰った人間はいくら何でも貰いすぎという気にもなるでしょう。その人が大人であればあるほどそう思うはず。そもそもサンキューを言う機会すら永遠に失われている場合もあります。何処にいるのか分らないとか、既に故人になっているとか。そういう場合はどうするかといえば、だからその人ではない他の人にGIVEすることが求められるのでしょう。債権譲渡というか、持参人払式小切手みたいなもんです、、って、こんな喩えではわからんか(^_^)。誰かに優しくしてもらったら、また第三者に優しくしてあげることでペイできるってことです。先輩にあれこれ面倒を見てもらったら、今度は自分が次の世代の面倒を見ろと、相手は違うけどそれでGIVEとTAKEが成り立つと。


 とまあ、あれこれGIVEとTAKEを考えてきましたが、これはいわゆる世間でいう”Give & Take”とは違います。あれは特定の二者間での貸し借りゼロの対等関係を言ってるわけですが、それはそれで大事なんですけど、ここでいってるのはもっと広い意味です。対社会、対世界においてです。まあ、わかりますよね。

 クレクレ君についてちょっと付言しておくけど、だからといって他人に求めるな、貰うなと言ってるわけじゃないですよ。これも分るだろうけど、別にカタクナに他人の好意を断れとか、断じて求めてはならないとかそんなセコいレベルの話じゃないです。好意を受けたら、これはもう全身で受け止めておけば良いと思います。ただGIVEとTAKEを弁えているか、その認識と表現(礼)はちゃんと出来ているかということです。で、お返しのGIVEは、直接の本人ではなく第三者になせば足りると。というかね、普通にしてたら自然とそうなると思いますし、自然とそうなる人を”大人”と呼ぶのでしょう。



文責:田村




★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ