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今週の1枚(09.06.08)



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ESSAY 413:異形のモノの系譜 〜「デビルマン」



 写真は、薄暮のGladesville。




 今週はまたポーンと脱線して、全然関係ないエッセイを書きます。

 想像力とは創造力なんだなあって思わせてくれるのが、絵画やマンガ、映画などに出てくるモンスター達です。こういった”異形のモノ”を見るのは、好きですね。素晴らしい造形や表現に出会うと、「おおっ」と感動してしまう。しばらく見惚れてしまう。

 子供は大体こういった”異形のモノ”が好きです。自分と違うものが好き。なんか今まで知ってる世界とは違うものが好き。生命力とは好奇心なのでしょうか。だから子供の周囲にはたくさんの異形のモノ達がいます。実在するモノとしては、動物、そして昆虫。子供は虫が大好きですからねー。いつまでも飽かずにじーっと見てたりしますし、全力疾走して虫取りに行きます。魚介類なんかも好きですね。植物もそう。子供部屋には大体なんとか図鑑があって、お休みには動物園や水族館に行くのが大好きです。当然、怪獣、怪人、モンスターと妖精が大好きです。

 でもオトナになるとそうでもなくなってくる。生命力がショボくなって、ヘタレてくるからだと思います。異形のモノに出会うのはパワーが必要です。なんせ自分の知らない世界の住人なので、どんな危険があるか予測も付かないし、精神の緊張を強いられます。ストレスです。疲れちゃいます。だから、いい加減疲れてきたオトナ達は、異形のモノを好みません。なるべく自分のよく知っているモノだけに囲まれた環境を好むようになります。つまりは保守的になります。そして、小さな虫一匹にもキャーキャー大騒ぎするようになります。よそ者、部外者、ストレンジャーが嫌いになります。外人と接するのを鬱陶しがるようになります。全てのことをリスク値だけで見ようとします。なぜか?早い話が弱っちくなったからでしょうね。好奇心キラキラの生命パワーが枯渇してきている。


この話は根が深いのでまた別の機会に書きますが、ここでは”異形のモノ”です。異形のモノの系譜は広く、深く、人類は昔っから、見たこともない異形のモノどもを想像力一発で描いてきました。例えば地獄絵図、例えば宗教画や神話世界、例えば怪談、百鬼夜行。僕らの頃は、ウルトラマンや仮面ライダーの怪獣や怪人に始まって、映画ではエイリアン、さらにCGを駆使したロード・オブ・ザ・リングスやハリー・ポッターの妖精世界やリングの貞子に始まるJホラー。

デビルマンの革命性

 このような異形世界の系譜では、いくつかの革命的な作品があります。その不朽の名作の一つとして永井豪の「デビルマン」が挙げられると思います。先日デビルマンを読み返す機会があり、その凄まじいばかりの先駆性と創造性を改めて思い知らされました。凄いなんてもんじゃないよね、この作品は。

 デビルマンは、1972年から73年にかけて少年マガジンに連載されてました。僕は小学校6年くらいで、リアルタイムに毎週「おおお」と唸りながら読んでいました。この世代に生まれてきたことに、恨みも誇りもそんなにありませんが、「他愛のない自慢」でいえば、あのデビルマンをリアルタイムに読めたということが入ります。巨人の星もあしたのジョーもリアルタイムに読めてます。なんてラッキーなんだ。この頃の漫画は異様に名作がひしめきあってますよね。

 それはさておき、デビルマンですが、古い古い漫画です。1972年といえば、まだ生まれていない人も大勢いるでしょう。この年は激動の年で(というか平成に比べて昭和時代は常に激動しているけど)、1月にもと日本陸軍兵士の横井さんがグアム島で発見され、2月には札幌オリンピック、同じく2月にはあさま山荘事件、2月にはニクソンが訪中し世界史が転回し、3月に山陽新幹線が開通、4月川端康成自殺、5月大阪千日前大火災、5月テルアビブで日本赤軍乱射事件、6月田中角栄日本列島改造論、6月ニクソン大統領のウォーターゲート事件、8月ミュンヘンオリンピックと人質選手殺害事件、9月には日国交正常化し10月にパンダが日本に初めて来たという、これだけのことがたった1年の間に起きているというわけです。それにひきかえ今年なんか既に半分が過ぎようとしているのに、これらに匹敵するような事件ってないですよね。世界不況は去年からだし、オバマも去年、今年になってからの事件といえば、、、、豚インフルくらい?なんて退屈な。

 しかし、そのくらい古い筈のマンガが、今読んでも新鮮ですし、面白い。それどころか、その革命性によって後進の漫画家に多大な影響を与え、1999年、2000年には、江川達也、萩原玲二、岩明均、とり・みき、寺田克也、石川賢、ヒロモト森一、永野のりこ、高寺彰彦、夢野一子、三山のぼる、風忍、田島昭宇、神崎将臣、安彦良和、黒田硫黄らが「ネオ・デビルマン」というトリビュート作品集に参加していますし、「AMON デビルマン黙示録」という衣谷遊の作品もあります。それどころか永井豪本人もデビルマンレディーやバイオレンスジャックの結末部などデビルマンの物語を語り続けています。世界に冠たるコミック王国日本では過去多くの名作がでていますが、原作発表後30年近くたっても尚も語り続けられ、描かれ続けているマンガというのはデビルマンだけじゃないでしょうか。

 なんでこんなに語り続けられるのか?といえば、コンセプト設定とキャラクター創造が群を抜いて独創的・革命的だからでしょう。だから永遠に刺激的であり続けられる。デビルマン本編は単行本でわずか5巻。50巻100巻がザラになってきたマンガ世界においては、”小品”と呼んでも良い程度の作品に過ぎません。絵柄も決してバカテク的に上手ではないし、ストーリー的にも作画的にも濃密というよりはむしろスカスカな感じさえします。しかしながら、いや、だからこそと言うべきか、斬新なアイデアの融合炉心のようなもので、それを読んで”被爆”してしまうと、創造欲求を刺激され、なにかしらウズウズと描きたくなってきてしまうのでしょう。ネオデビルマンに収録されている後進作家(永井豪本人すら参加している)の各作品を読むと、彼らのデビルマン愛というか、被爆ぶりがよくわかります。デビルマンは小品であるがゆえに語り尽くしておらず、その足りない部分、スカスカな部分が読み手の想像力を刺激し、考え続けさせるのでしょう。読み終わったら勝手に続編を自分で考えて夢に出てくるような感じね。優れた表現であるユエンです。

   デビルマンの第一巻は、気弱な高校生不動明が悪魔(デーモン)と合体し、人間の心がデーモンの身体を支配するデビルマンとして新生するところで終わり、以後デビルマンとなった不動明が人類を守るためにデーモンと戦うという基本構図が出来るのですが、その血風録的、デーモン列伝的なマッチメイキングはシレーヌとジンメンくらいで早々に終わってしまいます。普通ここで引っ張るというか、ここがメインで延々続きそうなものであり、ウルトラマンでも仮面ライダーでも鬼太郎でも異形系作品はこの構図を取ります。TV版のデビルマンは、よい子の見るTVというTVの非革命性(凡庸性)のおかげでこの原則通り続きますが、それだけに後世になるとTV版は「あれは別物」とされています(僕も見てない)。

 ところがこの黄金の構造=正義の味方VS次々に出てくるモンスターという構図=は、3巻の途中でいきなりぶっ壊れてしまい、以後わずか2巻分の分量で人類は滅亡してしまいます。そして人類が死に絶えたあとの黙示録世界になっていくという。ここがまず凄い。普通、この種の物語は、ヒーローたる異形のモノは無条件で人類の味方であり、「ぼくらの味方」です。スーパーマンでも何でもそうです。だから人類は、キャーキャー言いながらも本質的には安全なところにいながら、ヒーローの活躍を対岸の火事的に高見の見物をしていればよかった。しかし、その人類があっさり滅亡してしまう。ぼくらの味方だったのにその肝心な「ぼくら」が死んでしまう。こんなの反則というか、ドラマ構造の革命的破壊ですな。

デビルマン画1
 しかもその人類の滅亡の仕方が、自業自得的に醜い。もう人類それ自体が徹底的に醜悪に描かれ、読み手はむしろ人類よりもデーモン側に感情移入していくくらいで、勧善懲悪・善悪二元論の完全なる破壊が行われます。まあ、「よい子」には見せられないよなあ。しかし、あの頃の表現世界はまだ社会の偽善的・非創造的良識に対してまだまだ戦闘的だったのでしょう、こんな物語が平然と少年誌に掲載されていたんですから。

 全世界規模でのデーモンから人類の宣戦布告、そして総攻撃、さらに人類それ自体がデーモン化するという致命的な誤解によって、疑心暗鬼にかられた人類は神経症的に魔女狩りに走り、互いに殺し合って自滅していってしまいます。エッチで明るく可愛らしいヒロインも暴徒に襲われ、全裸にされて文字通り八つ裂きにされ、串刺しにした首や手足を中空に晒され、「ぼくら」の感情移入先であった小学生らしきタレちゃんも、暴徒によって出刃包丁で涙を流したままの生首になってしまいます。「そこまで描かなきゃいけないのか」というくらい、これでもかというくらい、人間が本質的に持っている醜さ、なによりもその精神性の弱さによって徹底的に他者に対して残虐になっていく醜悪さを描いています。勧善懲悪の破壊どころか、人類の本性こそが悪であるという価値観転回が、これ以上もなく残虐に、それがゆえに説得的に描かれています。

 こうなってしまうと、ヒーローであるはずのデビルマンがむしろ傍観者のようになります。なだれを打って人類が崩壊していくさまを呆然と見送り、そして愛すべき者を味方だった筈の人類に虐殺されて、自らの戦いの意味、存在価値すら危うくなります。そして当然のごとく人類は死に絶えます。あまりにも必然的な滅びであるがゆえに、死に絶えていく状況の描写すらなく、「人類は滅亡した」というナレーションが入るだけだという。

 繰り返しますが、こんな物語が、当時の一流メジャーの少年誌に掲載されていたわけです。今のご清潔なぬるい世の中ではちょっと信じられないくらいです。こんなことが許されて良いのでしょうかというと、勿論許されて良いのです。思春期の心にはトラウマになるくらい強烈な衝撃だったのですが、だからこそもの凄い良いワクチンになったし、免疫もついたのです。通り一遍、表面的にだけ物事を考えなくなるようになり、入射角度の深い考えへの転換点になったし、何よりも人類社会で実際に起きているあらゆる醜悪なもの、残虐な物事に対して目を逸らさなくなった。見ないふり、無かったふりをして偽りの安全に逃避しなくなった。この「目を逸らさない」姿勢が、今から考えると自分が弁護士になった一つの原点だったような気もします。

 子供が大人になっていく成長のための大事な結節点は二つあると僕は思うのですが、ひとつは大前提そのものを疑ってみるという健全な批判精神、もうひとつはこの世界にはとんでもない理不尽な哀しみがあるのだという認識です。この二点で知性と心を強くしないと人はオトナになれないと思うのですが、デビルマンはその良い導入部になりました。ゆえに、こんな物語こそ少年誌に掲載されるべきだと思います。ただし単に残虐性だけを追い求めたり、単なる破壊に終始している愚作凡作はダメだけど。

造形 異形のモノの系譜


 デビルマン世界での”異形のモノ”=デーモン=の創造ですが、ここが一番際だってるかもしれません。これまでのどれでもない新しい表現を切り開いています。といっても30年前に開発され一般化された表現技法なので、今となっては何が斬新なのか分りにくいのですが。

 デビルマン以前の異形系は、大体が日本古来の妖怪かウルトラマン系の怪獣でありました。妖怪系はご存知水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」で百花繚乱に開花します。手塚治虫の「どろろ」に出てくる異形のモノ共も基本的にはこの系譜だといっていいでしょう。

 水木しげるの妖怪世界は、これはこれで美味しすぎるので後々のネタに取っておきたいのですが、いいですねー。「いいですね」ってアホみたいな感想だけど、いやあもう、あれはアートです。マンガとか物語というレベルではなくアートでしょう。というか、水木しげるという人物そのものが面白いのですね。面白いというのが失礼な表現ならば、非常に興味深い。まだご健在でいらっしゃって、ここ10年くらいは賞を貰うのが仕事といってもいいくらい受賞ラッシュです。旭日小綬章という日本の勲章まで貰ってます。しかし、人気作家になってから40年近く経過してからあげるなんて、何を今更って気もしますね。認めるなら、彼が極貧生活に苦しみつつ創作していた時期にしろって。

鬼太郎 鬼太郎 鬼太郎 

 今となっては妖怪=水木しげるの世界という感じですが、もともとは八百万の神々の国、濃厚なアミニズムの国である日本では、妖怪というのは野生の鳥獣と渾然一体となって当然のように「いるもの」だったのでしょう。歴史上残されたいろいろな妖怪絵図、百鬼夜行図などは、まさに”想像力とは創造力”を地でいってるような造形の妙があります。よくこんなもん思いつくよなーという、クリエイティビティがビシバシ感じられてメチャクチャ面白い。まあ、当時の人達は”クリエイト”してるのではなく、単に描写してるつもりだったのかもしれませんけど。

 水木しげるの画風は、細密な点描をつかった背景が特徴的ですが、これが今見ると、メインのストーリーや妖怪以上にインパクトがあったりします。昔の日本の風景なのですが、これが「三丁目の夕陽」のようにノスタルジックに明るくなく、暗い。もうひたすら暗い。日本社会がDNA的に持ってる暗さがよく出てて(つげ義春あたりの画風もそうだけど)、背景それ自体がアートしてます。なんかノスタルジックというのを通り越え、ほとんど時代劇のようになり、さらにそれも通り越えて、日本人の原風景・心象風景のような絵です。

 さて妖怪そのものの造形は、古くから日本社会が育んできた民話や説話から出てきたものですから、トラディショナルな形態をしています。人間に容姿が似ている妖怪はちゃんと着物・和服を着てますし(砂かけ婆あ)、日本古来の生活用具に密着しています(唐傘お化け、一反もめん)。西洋の妖怪も出てきますが、箒に乗った魔女とか、狼男やドラキュラという古式ゆかしいものだったりします。

 上に引用したのはいずれも「墓場の鬼太郎」からです。「ゲゲゲの鬼太郎」になる以前の初期の作品ですね。


手塚治虫「どろろ」  楳図かずお「漂流教室」 

 鬼太郎登場以降の異形系も基本的にはこの路線で、手塚治虫の「どろろ」も、もともとが時代劇設定ということもあり、妖怪や魔物もトラディショナルな域からはみ出ておりません。まあ、そこがまた良いのですが。

 手塚治虫について書きだしたらまた長くなっちゃいます。以前にも、Essay 156/手塚治虫について -普遍性の鬼で語っていますので、このくらいにしておきます。

 その他、楳図かずおの初期の恐怖作品はマジに恐かったですねー。バケモノそのものが恐いというか、「きゃー」といって恐がってる人間の顔が恐いです。なかでもケッタイな生き物、非常にクリエイティビティの高い異形のモノがたくさん出てくるのが不朽の名作といわれる「漂流教室」です。「漂流教室」における異形のモノは、猛獣や毒虫のような自然界の生物であり、人間との意思疎通が全く不可能で、その意味では後世に出てきたエイリアン等のSF系に近いですね。ちなみにギーガーのエイリアンの造形(79年)も異形系の歴史においては革命的な転換点をもたらしており、世界的に多くの模倣者を産んでいる、というか殆どこればっかというくらいです。「ネオデビルマン」「AMON」というデビルマン・トリュビュート作品でも、明らかにギーガー系の作品も多いです。


 上の引用、左が手塚治虫の「どろろ」、右が楳図かずおの漂流教室です。

 その他、ギャグ漫画ですけど藤子不二雄の「怪物くん」なんてのがあって、そこでは、狼男、ドラキュラ、フランケンシュタインという西洋系の三羽ガラスのような、定番系モンスターが登場します。そういえば、水木しげるの「悪魔くん」はメフィストフェレスであり、「河童の三平」は河童という、これも昔ながらの定番系をベースにしています。


 さて、そんな状況において永井豪の「デビルマン」が登場したわけです。
 デビルマンに出てくる異形のモノ=デーモン達の斬新な造形は衝撃的でした。ダンテの「神曲」や黙示録など古典にベースを求めている部分もあるのですが、それはあくまで世界観やコンセプトの設定レベルであり、個々のデーモンの造形は、まさに自由奔放な想像力/創造力の奔流であり、無限とも思えるバリエーションで登場してきます。

 そもそも他の生物(無生物)との合体を繰り返して強力化していくというデーモンの基本設定そのものが斬新なのですね。この「合体」という異種交配コンセプトをよくぞ思いついたと思うのですが、これによって造形の自由度は桁外れに高まります。ほとんど何でもアリの世界になります。例えば「一つの生物には顔や頭脳は一つ」という何となく無意識的に思っていた制約からも自由になりますし、全体として統一のとれた造形という制約からも自由になります。この世のものとも思われない不気味な存在も、またある種の美しさ神々しささえ感じられるデーモンも造形されていきます。

デビルマン画2  デビルマン画2 


 そういえば悪魔=デビルというのは知っていても、「デーモン」という言い方があるというをこの作品で初めて知りました。ちゃんとした英単語なのですが(「でぃーもん」と発音する)、しかし日本ではこのデビルマンという作品の影響が強すぎて、「デーモン」といえば「デビルマンに出てくるアレ」という固有名詞化してしまったような気もしますね。あ、聖飢魔Uのデーモン閣下がいたか。

 また、格闘(or殺戮)シーンのスピード感や迫力、構図の新鮮さなどはこれまでの異形系マンガの常識を越えており、新しい表現を切り開いたといっていいでしょう。

 デビルマン世界では、日本古来のとか、西欧言い伝えの、、というベースも系統もありません。かといって全く意思疎通不能の異世界生物かというと、どうかすると人間以上の知能を持っていて、意思疎通はバリバリできるし、それどころか全世界の人類に宣戦布告をするくらいのことをやってのけます。3巻の中盤に悪魔王ゼノンがその巨体を出現させるシーンは圧巻でしたね。

デビルマン画2 
 このように、これまでの異形系の常識をことごとく打ち破るデーモンの造形なのですが、これがこの作品の大きな魅力になってます。「よくこんな生き物考えつくよな」というような奇怪な姿形のデーモンが、数十、数百という単位でウジャウジャ出てきます。見るからに王様然としているゼノンのほか、見るからに神様然としている悪魔王サタン、エロティックで美しくて残忍なシレーヌ、寡黙で無骨な純愛キャラであるカイムなど、メインキャラはどれも魅力的であり、あんまり魅力的だからでしょう、トリビュート作品にも取り上げられていますし、また永井豪本人がデビルマンレディーなどの続編などでも繰り返し使っています。使い捨てにしてしまうにはあまりにも勿体ないという。

 何でもアリの造形なのですが、やはり「恐ろしさを表現する」という原理的制約はあるので、比較的共通するパターンとしては、耳まで割けた口と牙、吊り上がった目などが挙げられるでしょう。といっても、それに該当しないデーモンも沢山いますけど。


世界観とコンセプト

 デビルマンの世界観は、最後の最後に飛鳥了=悪魔王サタン=堕天使ルシフェルによってちょびっと語られます。たった3頁だけど。造物主たる神が地球に生命を宿らせた後、独自の禍々しいまでの進化を遂げたデーモンが地球に溢れます。デーモン達のあまりの凶暴さや残虐さに嫌気がさした神は、デーモンを滅ぼして「なかったこと」にしようとします。そこで「自分で作ったんだからちゃんと責任とらんかい」と反抗した天使長ルシフェルがデーモン側に立ち、神の軍団と戦ってこれに勝利します。デーモンが神に勝っちゃうのですね。その後、来るべき神との再戦に備え、自ら氷の中で200万年の眠りにつきます。眠りから覚めたとき、地球はデーモンから見ても「醜い」人類が我が物顔にのし歩いていたので、人類を滅亡させようとします。だからデーモン的に言えば人類への攻撃は害虫駆除みたいなものだったのですね。

 しかし、数では圧倒的に勝り、核兵器すらもっている人類を滅ぼすためには、徒手空拳で立ち向かってもダメだと判断した賢いルシフェル(サタン)は、人間を研究するために自らの記憶を消して一個の人間(飛鳥了)として生きるようになります。またたく間に人間の致命的な弱点である精神の弱さを察知したサタンは、圧倒的な恐怖感と疑心暗鬼を生み出すようにし向け、人間同士が自滅するようにします。その作戦は功を奏し、人類はもろくも絶滅します。

 サタンのたった一つの誤算は、もともと両性具有であったサタンが人間飛鳥了として知り合った不動明を愛してしまったことです。明への愛に引っ張られたサタンは、来るべきデーモン世界でも彼が生き残れるように、彼をデーモンと合体させようとします。そして人間不動明の意識がデーモン(勇者アモン)の意識を越え、デーモンではなくデビルマンになってしまったことから、歯車がズレはじめ、この物語が始まっていきます。

 この壮大な物語は、つまるところ飛鳥了(サタン)と不動明の愛憎の物語(というかサタンの片思いなのだが)に収斂されていくのですが、この世界観設定そのものが今読んでも斬新であり、「むむむ」と考え込んでしまうような哲学的なテーマが葡萄のようにくっついています。

 一つは、デーモンは悪か?という問いかけです。デーモンというのは生存本能とそれに伴う殺戮本能の権化であり、ある意味では「生きる」ということに対して純粋な存在です。自然界の掟は弱肉強食であり、捕食されたくなければ強くなるしかなく、その環境適応こそが進化の根源であるならば、ひたすら強さを追い求め、合体能力を開発して特異の進化を遂げたデーモンこそが進化の頂点に立つのも当然でしょう。これを醜いからということで絶滅しようとした神は正しかったのか、またひたすら強さを追い求めたデーモンと、知能というよりは悪賢さで地球を支配した人類とで、どちらが人類の支配者として相応しいのか、あるいは自然の掟に照らして正しいのか。

 この問いは、他者の生命を食らうことによってしか生きていけない宿命を背負っている生き物にとって、生きるというのは何なのか、そもそも生きることそれ自体が悪なのか?という深い問いかけになります。ジンメンというデーモンがデビルマンに語るシーンがあり、「人間の基準では、生き物を食べることは悪い事じゃないんだろ?従順でおとなしいウシ、ブタをへいきで食ってるもんな」と問いかけます。確かに家畜からみたら人間はデーモン以上に邪悪な存在でしょう。この問いかけをさせられた僕をはじめとした当時の小学生は「ぐっ」と詰まったのですね。ここで、悪とはなにか、生きるとは何か?という、殆ど解決不能のようなテーマが提示されます。

 第二に、人間の精神性の弱さとそれによる醜さ、愚かさです。冒頭の部分でも書いたのですが、疑心暗鬼にかられた人間がチクりあい、滅ぼし合うさまは醜悪以外の何者でもないのですが、このプロセスが丁寧に描かれているのですね。戦前日本の隣組制度もかくやと思われる、小市民なるがゆえの残虐さ。悪魔だと噂をたてられただけで、真偽は問わず周囲からリンチを受けて殺され、それに参加しない奴は今度は自分が悪魔と疑われるからリンチに参加せざるを得ないという図式は、昨今のイジメの構図と全く同じ。何にも変わってない。自己保身のためにはどこまでも卑劣になりうる人間、そして暴徒と化した人類がどれだけサディスティックな陶酔によって残虐なことをするか。それこそが人間社会の根本問題であり、だからこそ法と秩序の原風景になるのでしょう。

 第三に、個々的な愛憎の物語が散りばめられています。根本主題であるサタンから不動明への愛情、不動明は愛する美紀をみすみす虐殺されてしまい、守れなかったという慚愧の念を抱え、はたまたシレーヌに対するカイムの献身的な愛など。これらの悲恋物語が、テーマの重さと内容の豊かさに比べて、「え、これだけ?」というくらい淡泊すぎるくらいあっさりと描かれています。

 デビルマンという作品は語り出したら幾らでも語れる作品で、まさにアイディアの炉心のような作品です。重たくて面白いテーマや物語が何層にも織り込まれ、しかも使い捨てにするには余りにも勿体ないキャラが沢山出てきます。作家の永井豪本人によると、最初はTV版デビルマンと同時並行的に始められていたものが、徐々に離陸し、ほとんどトランス状態で描いていってしまった作品らしいです。整合的に物語が完結しているような印象があるので最初から練りに練られた物語と思いきや、実は後から考えた設定&結末であり、物語世界に作者自身が引っ張られて飛翔していったものだと。

 言われてみればさもありなんという気もします。最初からこんな物語を思いついてしまったら僅か5巻では収まらないでしょう。また、瞬間瞬間のアイディアの飛躍を積み重ねてきたからこそ、ここまでのスケールと濃密さを獲得できたのだと思います。

 それだけに荒削りで未完な感じ、物足りなさを感じさせる作品になっているデビルマンは、前に述べたように多くのトリビュートを産み、永井豪本人によって繰り返し再生されることになります。「もっと描きたい」というウズウズした欲求を刺激するのでしょう。「ネオデビルマン」では、「ほ〜、このシーンに着目しましたか」ということで、デビルマン物語の様々な箇所が取り上げられています。ある作家はそのシーンを丁寧にトレース&補充し、ある作家は発想だけをもとに全く別の物語を構築したりします。「AMON」では、シレーヌが一族としてメインキャラ並みの重さで登場し、シレーヌの母親とカイムの関係から説き起こしています。

 永井豪による続編、別編は、デビルマンレディや、新デビルマン、バイオレンスジャックなどがあります。バイオレンスジャックは、別にデビルマンと交錯させなくても作品それ自体として十分に面白いし、デビルマン世界に持って行くのはある意味”反則”ですらあります。しかし、巻末の解説でいみじくも夢枕獏が「この作品に限っては許される」と語ってるように、産みの親である永井御大があれだけ書き尽くした挙句の結末であれば、イチ読者としては「なるほど」と納得せざるをえないです。

 しかしですね、トリビュートがいかに素晴らしかろうが、続編群がいかに面白かろうが、どこまでいっても原作のデビルマンは越えられないと思います。なんというのか、未完成なるがゆえに完成度が高くなっているという不思議な作品です。なお、デビルマンですが、まだ全然読んだことない人は、続編やトリビュートではなく是非原作からお読みください。でないとインパクトが薄れてしまう。また、原作も、新デビルマンの小編を混ぜて刊行されているのではなく、純粋に原作だけのものが良いです。なんか、愛蔵版とか復刻版とかやたら出てるみたいですが。あ、そうそう、知らなかったけどデビルマンの実写版映画というのが2004年に封切られたようですね。日本映画史上に残る駄作らしく、製作者が可哀想になるくらいの酷評の嵐でした。いずれにせよ、原作をいじればいじるほど完成度が低くなるという作品だと思います。


 PS:今回は、マンガそれ自体の引用を行いました。悩んだのですが、どう考えても絵を引用したほうが遙かに分りやすいし、著作権法の本来の趣旨(引用は許される)からしても問題ないと判断しました。それに、マンガの引用も、引用条件さえ満たしていれば良いという東京高裁判決、それを追認した最高裁判決も出てることだし(いわゆる「脱ゴー宣」裁判)。





文責:田村




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