今週の1枚(09.05.04)





ESSAY 409 : 頑張らないように頑張る話




 写真は、Haberfield。この辺りがまた平和でいいでんすよね。イタリア料理も美味いし。




 先週は一回お休みをいただきました。理由は、忙しいのと、もう一つ腰を痛めてしまったことです。今回は、腰のリハビリかたがた、軽〜いエッセイを書きます。まさに「エッセイ」という感じのやつ。

 先週、またギックリ腰になりました。といっても本物のギックリ腰ほどハードではなく、本物の深刻度が10だとしたら6くらいの感じです。本物は以前やったことがあり、あれはしんどかったですね。夜中に寝返りうった瞬間、眼前が真っ白にスパークし、焼けた鉄棒で身体を串刺しにされたような純粋な痛みが貫き、どんなに熟睡してても一瞬で目醒めてしまってました。それに比べたら大したことないです。

 それでも最初の数日から一週間は同じ姿勢を続けているのがしんどくて、いつものような現代史エッセイ(というか、勉強ノート)は無理でした。あれって一本書くのに十数時間かかりますし、一行書くのに10行は(文献資料を)読むわけで、それはちょっと無理かなと。で、なーんも調べないで書ける簡単なエッセイでお茶を濁そうと思って書きかけたのですが、それもヤメにしました。

 実はこの腰痛、去年の暮れにもやってます。このときの原因は、調子に乗ってヨガやストレッチをやりすぎたという分かりやすい(しかしトホホの)原因があったのですが、今回はベッドから起き上がるという何気ない日常動作で「メリリ」ときました。いや、本当、音が聞こえるのですね。実際に空気振動としてのサウンドが鳴ってるのか、自分の体内を振動を伝わって音として認識されたのかどうかわかりませんが、「めりり」とも「ぶちぶち」ともつかぬ音が聞こえちゃいました。「あ、やば、、、」と思ったときには too lateで、あっけなく撃沈。アイスノンを腰に当てて炎症の広まりと戦う日々が始まりました。

 しかし、「くせになる」とは言いますが、本当ですねー。最初の十年以上前のギックリ腰は、37キロもある荷物を抱えたという超分かりやすい原因があり、前回もストレッチの最中というこれまた「さもありなん」という原因がありました。しかし今回のはベッドが起き上がるという、どーってことない、原因とも言えないような状況で生じています。これで腰を痛めるなら、もう何をやっても痛めますよね。恐いですね。これ以上クセになったらたまったものではないので、かなり本格的に対策を講じなければって気になってます。大体、こーゆーことって喉元過ぎた頃に又やるので、喉元を過ぎないようなシステマティックな防止策、いわば生活習慣の改善ということをしなければならんのでしょう。

 この「システマティックな防止策」の一環として、大した理由説明もなく前回のエッセイをお休みにしました。
 このエッセイって、ずーっと続けていると皆勤賞みたいに自分自身が盛り上がってしまって、「何が何でも仕上げねば」という気になるのですね。しかしよく考えてみれば、原稿料が出るわけでもなく、雑誌の誌面に穴が空いて誰かに迷惑をかけるわけでもない。毎週期待して読みに来てくれる人も多少はおられて、それは凄くありがたいのですが、しかし、それもここのところのハードな展開(現代国際政治)に皆さんもバテ気味のようでもあります(その旨のメールを何通か戴いてます)。てことは休んだところで、どこかの誰かが致命的に困るということはなく、煎じ詰めれば自分自身の「連続させたい」という意地みたいな願望、要するに「我執」ですよね。

 こーゆー我執によって長時間同じ姿勢になり、ひいては腰をイワすようなハメになるとしたら、それは阿呆らしいぞと気づき、「えいや」で一回休みにしました。大した理由もなく妙に自分がこだわってしまっているようなことを、この際ガシガシ断ち切っておくのがシステマティックな防止策になるんじゃないかってことです。

 以前、大脳生理学の池谷先生の書物を紹介したのですが(ESSAY319:『脳はなにかと言い訳をする』のご紹介)、そこに脳の作業興奮という現象が紹介されてました。最初は全然その気がなく、むしろイヤイヤ始めたことでも、一回やり始めてしまえば、脳というのは妙にムキになって盛り上がってしまうという傾向があるという話です。部屋の片付けなど、最初はイヤイヤなんだけど、いざやり始めたら妙に盛り上がって徹底的にやりたくなってしまうとか、最初は軽く済ますつもりだった洗車でも、段々ムキになって必死でワックスかけるようになったりとか、、、。誰でも経験があると思います。作業興奮という脳の現象らしいです。

 これがアカンのですよね。いや、作業興奮という脳の習性は、勉強とか日常家事においては「何でもいいからとにかくやり始めろ」「やり出したらすぐに勝手に盛り上がるから」ということで覚えていて便利な特性なんですけど、身体にとっては致命的な欠点があります。それはムキになってやるために、「同じような姿勢で長時間すごす」ことになるからです。これは腰にとっては良くないあるね。


 40歳もとうに過ぎて年を取ってくると、昔Aだと思ってたことが、真逆のBになるような場合が多いような気がするなあ、、、などとジジ臭いことを、へっぴり腰でヘコヘコと子泣きじじいのように歩きながら思ったりしました。昔はね、力まかせに頑張るという、作業性興奮バリバリ状態で大抵の物事をクリアしてきたわけですが、段々それがアダになってくる。頑張ればいいってもんじゃないのよね、と。むしろ「頑張らないように頑張る」という微妙なことをしなければならなくなります。ああ、面倒臭さ。そのあたりのことをちょびっと書きます。


 「頑張らないように頑張る」というコンセプトのコアにあるのは、バランスです。バランスが悪いと破局に至る。
 むろんバランスが大事なのは若い頃だって同じなのですが、年を食ってからの方がより切実になります。なぜか。身体をはじめ全てが劣化するからです。もう日ごと一日劣化していく。極端な話、「今日出来たことは明日出来ない」くらいに考えないといけない。全体に劣化してるから、バランスが悪いと単に”効率が悪い”というレベルを超えて、破局を招いたりするわけです。若者だったら単純にすっ転んで「痛え!」程度のことが、骨折したり、ヘタすれば打ち所が悪くて死んだりする。結果がどんどんシリアスになっていくから、否が応でもその防衛策=バランス維持の重要性が高まるという理屈です。

 腰を例にとりますと、腰を痛めるというのは腰に無理な負担がかかったからです。では、なぜ無理な負担がかかったのか?です。特にベッドから起き上がるという日常的な動作でなぜ無理な力がかかったのか。ギックリ腰というのは、今回調べてわかったのですが、寝起きにも起きがちだし、洗面所で前屈みになるとか、クシャミをしただけでもなるときはなる。なぜ昨日まで大丈夫だったのが今日に限ってダメなのか。純然たる物理生理現象だから純然たる論理的な理由が絶対あるはずです。

 腰に無理な力がかかるのは、腰にのみ仕事をさせて身体の他の部分が遊んでいた=機能劣化に陥っていたからだ、と考えました。前屈みになって重い荷物を持ち上げると腰をイワせますから、一回スクワットのようにようにしゃがみこんでから腕の力を用いつつ持ち上げれば良いと言われています。ところが、スクワットするのが面倒臭くなってる場合=大腿筋など筋力が低下し、コマメにしゃがむという生活習慣が薄れている場合=ついつい面倒だから前屈みになってしまい、その挙げ句腰を痛めます。また、前屈する場合においてもストレッチが十分できてなかったら筋肉が無理に引っ張られる結果、これも腰を痛めるでしょう。ということは、腰にだけ負担がこないように、腕力、大腿筋を鍛えておけということになり、腰以外の機能を十全にしておく、すなわち身体各所の機能のバランスを良くしておけという話になるでしょう。

 そのあたりは僕も分かってたつもりでしたし、実は腰痛は学生時代からちょくちょくあったので、ここ1年ばかりかなり気を遣ってストレッチやヨガをやってました。やりすぎて去年の年末腰を痛めてるんだから世話はないのですが(^_^)。おかげで身体の柔軟性は今でも20代前半のレベルに戻っていると思いますし、前屈なんか全然気楽にできていた。今回比較的回復が早いのも(1週間でかなり普通に歩けるようになってきた)、その成果だとは思います。しかし、それも落とし穴で、柔らかくなったおかげでスクワットをおろそかにしてたツケが廻ったようなものです。


 今回学んだのは、この際、腰を徹底的に鍛えて鉄の腰にするんじゃ!というイチ局部への重点的対策ではなく、腰もそこそこ鍛えるけど、なにより身体各所のトータルバランスこそが大事だということです。腰を守るためにスクワットをやる、腰を守るために腕力をつけるなどです。

 ベッドから起き上がるときのシーンを再現してみて気づいたのですが、右手をベッドで支えて起き上がったわけですが、このとき右腕力がもっと強かったら腰の負担は減ったでしょう。また腰をとりまく腹筋や背筋がもっと強靱だったら身体をしっかり固定できたでしょう、さらに両脚の力が強かったらスムースに身体を起こせたでしょう。膝のバネがショックアブソーバーとして機能していれば身体をやんわり保持出来ていた筈ですし、全体の平衡感覚が良ければ身体の一点にのみ力が集中するような愚を犯さずに済んだ筈です。このように全身の機能がバランス良く働いていたら、今回のような情けない事態には陥らなかったであろうと。ゆえにトータルに鍛える必要がある。しかし、ここでまた若いときみたいにガムシャラにやってしまっては、昨年末のようにオーバーワークで逆にヘタるという情けない結果になります。また、鍛えっぱなしで緊張状態にコチコチになって筋肉疲労になってたら結局使い物にならないという愚劣なパターンもあるわけで、筋肉を鍛えるといっても、いかに緊張度を強められるかではなく、いかに普段の状態においてつきたての大福のように柔らかい状態に戻しておくか、いかに抜くか、という点も大事だったりするわけです。難しいのですね。

 そして最後に挙げるべき敗因は、「こういうとき(起き抜けなど)に腰を痛めるかもしれないから気をつけること」という知識・意識が乏しいという頭の悪さですね。起き抜けのボヤーとした寝ぼけ状態でありながらも、これらのことを無意識的にもわきまえ、身体各所をスムースに連合させるという努力が足りなかったわけです。まあ、早い話が何もかもがダメだったという。漫画の”バガボンド”流にいえば、「身体が融通無碍を得て」いなかったということだし、一言でいえば「未熟であるがゆえに不覚を取った」わけで、これが戦場だったら虫ケラのように殺されていたわけです(^_^)。

 しかし、そんな複雑&ドラマチックなこと考えなくても、これまでは普通に起きれていたわけですよ。それが出来なくなったということは、典型的な「今日出来たことが明日出来なくなる」パターンです。だから自分の能力を10%引きくらいに低めに見積もっておいて行動をするというクレバーさが必要だということです。

 しかし、このバランス論はさらに深化します。上に述べたのは、単純に局所的なケースにおける身体の運動能力や方法、筋力という分かりやすくも物理的な話です。凧がうまく飛ばないから、もっと長い尻尾をつけてみようとかいう、目で見える簡単な話です。しかし、パソコンのOSの何百倍も複雑な人体のメカニズムがそんなに簡単に処理されていいわけはない。内臓とか、栄養とか、そういったレベルでの配慮もまた必要になってくるわけですね。しかし、これは複雑すぎてよく分からないので、「きちんとした食生活」とか「野菜を食べよう」くらいの感じで終わってしまいそうです。それじゃダメなのでもうちょっと勉強せなアカンなと頭を掻いてるところではあります。

 もう一つレベルの違う問題としては、仕事のマネジメントがあります。
 今回は場合、仕事が重なってわりとスケジュール的にハードであり、また数日来の睡眠不足も影響しつつ、めっきり急に冷え込んだという何重もの要素があります。こういう場合、コマメにストレッチをするなどもっと気を遣うべきだったという反省点がありますが、そもそもそういう仕事の入れ方ってどうよ?という問題もあるわけです。カスタマーに対して同じ満足を与えながら、こちらの身体ダメージを最小限に抑えるようなクレバーなマネジメントがあったのではないか?という点も課題になるでしょう。そうなると、自分の仕事における顧客満足の本質はなんなのか?どうなればいいのか?という掘り下げた考察も求められるでしょう。これは実はずっと考え込んでいます。

 というわけでバランスと一口にいっても多重層になっており、一筋縄ではいきません。

 が、さらに一歩突っ込んで考えてみたら、これらの配慮なんかほんのオードブルであって、本当のバランスはここから始まるというくらい大きなレベルでのマネジメントがあるのに気づきました。

 なるほど仕事のマネジメントを考え、食生活を考え、身体各所の筋緊張と緩和のメンテナンスを行い、一つ一つの動作において無理のない流れを考えていく、、、それは立派なことなんだろうけど、一方ではそればっか考えていたらダメだなという気もするわけです。これってやり過ぎると、なにやら膨大&緻密な体系を構築してしまって、それを守ることに汲々としてくるという副作用があります。身体や生活のバランスを考えるのはいいのだけど、バランスが良ければそれでいいんかい?という、もっと大きな意味でのバランスを欠くことになりはしないかと。簡単にいえば、俺はバランスを取ったり、メンテナンスをするためだけに生きているのか?と。

 これが老化というものの一番恐いところだと思いますが、本能的に守りに廻るのですね。自己防衛意識が強くなり過ぎ、キープしよう、破綻なく調和させようという意識が突出してきて、一個の生き物としてのバランスをまた欠くことになりはしないかと。年をとると保守的になるとか、老婆心とか言いますが、そういうことでしょう。何事も中庸を重んじてそこそこに留めなさいよというのは孔子も仏陀も言ってたことで、多分この世の真理なのでしょうけど、あまりにその意識が突出すると、ライブリーな躍動感が失われてしまう。それはそれで問題です。

 だから、何というのかな、一方ではもの凄く緻密なことを考え、筋肉作用から栄養、金回りまで考え抜くんだけど、他方では「腰なんかイワせたっていいじゃん」という心情、極論すれば「いいじゃん、別に死んだって。それがやりたいことやった結果だったなら」というあっけらかんと突き抜けた感性も持ってないとダメなんじゃないかとも思うわけです。まあ、これはもう「そう思おうとしてそう思う」ようなことではなく、持って生れた性格なんだろうけど、「なーにをイジイジ細かいことを」という気分も強烈にあったりするわけです。大事なのは自分の身体や生活を守り抜くことではなく、そうやって万全の配慮をもとに最高性能にまで高めた自分を使って何がしたいか?という部分、夢や願望みたいな部分です。これが無かったら、そもそも何のために生きてるのさ?って話になります。「無事これ名馬」と言いますが、無事これ駄馬でもあろうと思うわけです。

 自分の中にある思いっきり矛盾した二つの方向性、二つの人格を、思いっきり矛盾させたまま統合する、それが本当の意味でのバランスなんだろうなって思います。

 しかし、ま、こう考えてみると、別に若い頃の考えとそれほど違うわけでもないですね。はるか昔のエッセイの「原始感性」でも、理性統括部門と感性統括部門の二本柱でやっていくと書いてるわけですから、言ってる内容は同じですよね。

 ところで、あるトラブルに見舞われたり、不運に襲われたり、失敗をしてしまったときに、なすべきことはたった一つ。それは嘆くことでもなく、後悔でも、愚痴でもありません。学習です。学習あるのみ。一つの失敗を「糧(かて)にして」とか言いますが、そんな生易しいレベルではなく、骨までしゃぶり尽くす。しゃぶり飽きたら骨を煮込んでスープのダシにし、煮残った骨は粉々に砕いて花壇の肥料にするくらい、もう徹底的に有効活用すべし。この世に失敗という現象はなく、それを失敗にするかどうかはその後の対応次第です。シクシク落ち込んでいるだけだったら失敗になりますが、これをキッカケに100倍強くなればそれはいいキッカケになります。

 まあ、ギックリ腰程度のお気楽な事態だからこんなこと言ってられるのでしょうが、これが家が全焼したとか、事故にあって失明したとか、末期ガンで余命3か月であることが判明したとかいうような場合にも言ってられるかどうかはわかりません。まあ、取り乱すでしょうねえ、多分。取り乱して良いとも思います。それが自然な反応なんだから。しかし、取り乱しつつも、どこかしら前向きな部分を持ち続けていられるかどうか、それが試練であり、それが登っていくことなのでしょう。

 思うに不幸や失敗というのは、それを乗り越えるためにはワンランク上の価値観や人格を持ってくる必要があります。あるレベルにおいては失敗なのだけど、高次のレベルに達するためのチャンスでもある。例えば、出世街道バリバリやってて家族も冷え切ってたような人が、いきなり会社が倒産したり、不慮の病に倒れて出世の道が閉ざされたとします。勿論落ち込んだり、自暴自棄になったりするでしょうが、それは「出世こそが最終ゴール」というゲームのレベルでの話です。でも本人は、それこそ作業興奮の典型で、ハマってるからそれしか見えない。一旦、強制終了させてみたら、「それほどの価値、あんの?」とクールに見直すことも出来るでしょう。そして、家族の大切さや、自分らしく生きていく喜びというワンランク上の価値観に目醒めるチャンスでもあるわけです。

 しかし、家が燃えるくらいだったらまだいいですが、失明というのはかなりレベルを急上昇させないと消化しきれないですよね。でもそれだけビッグチャンスでもあるのでしょう。余命3か月も、3か月で悟りを開けというくらい垂直上昇しないとダメだから、相当なハードカリキュラムです。でもさ、僕もあなたも明日そうならないという保証はどこにもないぜよ。

 と言うよりも、結局最後の最後にくる究極の不幸、究極のレベルチャレンジは「死」でしょう?僕もあなたも百年もしないうちにこの世から消滅します。家は燃えないかも知れないし、失明はしないかもしれないけど、死なないということは絶対ありえないわけです。遅いか早いかだけの違いで絶対死ぬことに変わりはない。

 ここまで考えて、「ははあ」と何となく分かったような気がしたのは、人生の最後に死が待ってるということは、最後の卒業試験というか、エベレストの頂上みたいな超難しいレベルチャレンジが待っているということですよね。死すらも、自らを豊かにするものとして喜んでこれを受け入れられるような人間的なレベルに達せられるかどうか。究極の難問です。年を取って行くにしたがって身体をはじめあれやこれが劣化し、何をやるにも難易度が上がっていくのは、最後にこの究極の難問に向かわせるための自然のカリキュラムなのかもね、という気がしたのです。それまで適当に不幸を小出しにして、手頃な不幸と格闘させることによってレベル上昇をはかるという親切なカリキュラム。

 だから、死んだ人を「ほとけ様」とか呼ぶのは、皆さん一回死ぬことによって何かを悟るからなんでしょうね。もう無理やりでもあっても超難関試験を受けさせられることによって、否が応でも悟らされるという。だから仏様になるのだと。こんな解釈、どんな仏教典にも載ってないだろうけど、そう考えるとしっくりくるような気がします。

 しかし、死という超難易度の試験ですが、ビビリますねー。いつかは受験するんだろうけど、厳しいっすねー。しかし、まあ、これに比べたらギックリ腰の一つや二つ、屁でもないですよ。もう不運やトラブルの名にすら値しない、お笑いのレベルですよね。笑ってる場合ではないんだけどさ。40年以上おめおめと生きていて、こんなレベルで何をもがいているんだって気もしますね。この程度の課題、ちゃっちゃと迅速に、最速に、完璧に、消化すべし!って誰かにハッパかけられたような気もします。





文責:田村




★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ