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今週の1枚(09.04.13)





ESSAY 407 : 世界史から現代社会へ(70) 現代ロシア(2) 発展の2000年代とプーチン大統領という人




 写真は、Maroubra。昼休みに憩っているオジサン達。同じ休むにしても気持ちよさそうですねー。ここに限らずシドニーには沢山絶景ポイントがあるのですが、昼メシ時にいくと、よくサラリーマンなどがクルマで乗り付けてランチを食べてたりします。ストレス溜まらなそう。


 先週からソ連崩壊後のロシアをやってます。先週は90年代のダメダメ混迷時期=オリガルヒ(新興財閥)勃興時代でした。2000年代に入ると、うって変わったようにロシアが急激に経済成長をするのですが、今回はその立役者であるプーチン大統領に焦点を当てます。


ウラジミール・プーチンの登場
 20世紀の終わり、1999年12月31日の大晦日、エリツィンは大統領を辞任し、後継者にウラジミール・ウラジーミロビッチ・プーチン(Vladimir Vladimirovich Putin)を指名しました。混迷の90年代を脱して、力強いロシアの再生をなしとげたプーチン時代が始まります。プーチンはまだ48歳という若さでした。

 プーチンは1952年にレニングラード(今はサンクト・ペテルブルグ)に生まれ、さして裕福でもない共同アパートで両親とお祖父ちゃんと暮らし、頭の回転は抜群ながら、けっこう悪ガキだったそうです。映画や小説でスパイに憧れた15歳のプーチン少年は、なんと自らKGB(ソ連国家保安委員会、アメリカのCIAのソ連版)まで出かけていって「僕、スパイになりたいんですけど」と進路相談に行ったそうです。KGBも真面目に答えて、志願採用という形ではなくKGBからこれは思った人間に接触すること、学歴的には法学部が有利であることを伝えます。「そうか!」と思ったプーチン少年は、真面目にレニングラード大学法学部に進み、大学4年のときにKGBからみごとリクルートを受け、卒業後KGBに勤務します。

 KGB内で順当に勤務を続けたプーチンは、内部研修を受けて、スパイ系のお仕事をします(対諜報活動局、東ドイツのドレスデンでの諜報活動勤務)。もっとも映画のような絵に描いたような”スパイ”ではなく、もっと地味な仕事だったと思われますが。そうこうしているうちにペレストロイカで東西ドイツも統一し、スパイの前提になった東西冷戦が終わりかける頃、プートンはレニングラード大学の学長補佐官をしていました。

 これからはスパイではなく政治家だと思ったのでしょう、プーチンは90年にKGBを辞職し、大学時代の恩師であったアナトリー・サプチャークのもとで働き、91年サプチャークがサンクトペテルブルク市長に当選したときには対外関係委員会議長になります。以後サプチャーク先生の引きで、サンクトペテルブルク市副市長、第一副市長と出世していきます。が、96年にサプチャークが落選退陣することになると、今度は中央から誘いの手が伸び、ロシア大統領府総務局次長の職にスカウトされます。97年には大統領府副長官兼監督総局長になります。同年には論文を書いて、経済科学準博士の学位も得ています。98年にはロシア大統領府第一副長官まで出世し、地方行政を担当して各地方との連絡役を務めます。

 こうしてみるとプーチンは周囲の引きでどんどん出世していくのですが、やっぱり基本的にダントツに有能だったのでしょうね。まさに新進気鋭の若手官僚という感じですが、98年7月に、ロシア連邦保安庁(FSB、KGBが組織変更したもの)の長官に就任し、スパイの親玉にまで出世しきったあたりから、官僚から政治家になっていきます。当時のエリツィン大統領の汚職調査をしていた検事総長を売春婦と絡んでいる盗撮写真を使ってスキャンダルを起こして失脚させたり、エリツィンを追い落とそうとしたプリマコフ首相の策謀を事前に抑止したりして、権力内部の黒い暗闘に手腕を振るうことになります。エリツィンの忠実な懐刀になり、言うならば「権力の犬」に徹するわけです。

 学問や官僚としての手腕が有能であったとしても、この種のダーク&ダーティな世界になると普通話は別になるのですが、プーチンは逆に生き生きしてきます。それもその筈、プーチンは子供の頃からスパイに憧れ、本物のスパイとしての訓練を叩き込まれてきたわけですから、この種の権謀術数はむしろ得意分野でもあるわけです。

 エリツィンから「使える奴」と認められたプーチンは、エリツィンによって99年8月に第一副首相に任命されるとともに、同日付で首相代行として抜擢、1週間後には正式に首相に任命され、大統領後継者としてのお墨付きも貰います。エリツィンお墨付きのチャンスを得たプーチンは、第二次チェチェン紛争で強硬路線を取り、強いリーダーとしての印象を与え、12月の下院選挙ではプーチンを支持する与党「統一」が、ライバルであるプリマコフの政党(祖国ロシア)を抑えたことで、次期大統領への地歩を築きます。そして12月31日の大晦日に、エリツィンは健康上の理由で引退、プーチンは大統領代行を指名されます。

 ここで大統領と首相がでてくるのですが、ロシアは両者併用制を取ってます。大統領と首相の両方がいる場合、首相が実権を持ち大統領は単なる儀礼上のお飾りの場合と、大統領が王様のように実権を握り、自分の手駒として首相を任命するパターンがありますがロシアは後者。大統領の権限が強く、首相はそのためのパシリのようなものです。学校で言えば担任教師とクラス委員長みたいなものでしょうか。エリツィン大統領政権下でも多くの首相がいたのですが、エリツィンの座を狙うようになったり、あるいは政治的に国民の批判を浴びるようになると、エリツィンによってポーンと首を飛ばされてしまっていました。プーチンはエリツィンの腹心、影の執行者として表舞台には余り出てませんが、出てきたときは首相経験わずか数ヶ月でいきなり大統領後継者になります。

 
大統領としてのプーチン
 最高権力者となったプーチンがやりたかったことは、一言でいえば「強いロシアの再生」であり、そのためには「砂の社会」(前回参照)であるロシアに強力な統制をかけることであり、新興財閥オリガルヒを黙らせることでした。プーチンが大統領代行となった時点で最初になしたのは、そのための布石として、エリツィンに対して不逮捕特権・不起訴特権をあたえる特別措置を施すことでした。正確には”大統領経験者とその家族”ですが、事実上エリツィン保護であり、エリツィンが過去にやってきた数々の汚職への追求をカットすることです。

 これは権力者に対する不正なエコヒイキであり、本来あってはならないことですが、プーチンの絵図面によれば”布石”になります。まず、己の権力基盤を盤石にするという意味があります。プーチンはエリツィンに抜擢され、腹心として采配を振るうことでここまで登りつめました。過去、エリツィンに逆らおうとしてエリツィンから葬られた政治家は沢山いるわけで、大統領になったからといっても安心できません。ここでエリツィンに多大な貸しを作っておき、お墨付きを確定させることは権力基盤の安定という意味で重要なことでしょう。もとよりエリツィンも自身の家族ぐるみの汚職はよく知っていたし、権力者が権力からすべり落ちたとき、政敵から過去の不祥事を理由に葬り去られること(最悪、死刑にすらされる)もよく知っていたでしょう。だからこそ、自分が権力の座から退いたときに身の安全を保障してくれる人間、それを断固実行しうるだけの人間を後継者に据えることが最後の課題だったでしょう。ゆえに、エリツィンはプーチンを選び、プーチンはその約束どおりエリツィンを守ったわけです。「老後の保障」という大きな恩をエリツィンに与えることで、プーチンはエリツィンによっていつ首にされるかという不安を和らげることが出来ます。

 ただ、本当の布石としての意味は、新興財閥オルガリヒと徹底的に戦うためにあったと言われます。オルガリヒはエリツィンの再選に助力して以来、エリツィン政権を影で仕切っており、彼らの存在はプーチンからしたら小姑のように煙たく、出来ればいなくなって欲しいわけです。エリツィン時代にも、プリマコフ首相がオルガリヒ一掃を図ったのですが、しかしオリガルヒの過去の汚職を追及していくとどうしてもエリツィンも一蓮托生になってしまい、それを恐れたエリツィンから捜査のストップがかかって頓挫してしまった経緯があります。つまりオリガルヒはエリツィンとつながってることで身の安全をキープしていたわけです。しかし、エリツィンに不逮捕特権を与えてしまえば、この一蓮托生的関係は切断できます。心おきなくオルガリヒを叩けるわけで、これが布石として大きな意味を持ちます。もっとも当時のプーチンはそんなことはオクビにも出さず(当たり前だけど)、オルガリヒの忠実な飼い犬のような顔をして彼らの協力を得て大統領選挙に勝利します。

 2000年3月の大統領選挙でプーチンは過半数の得票を受け、決選投票もなく当選し、正式にロシア大統領になります。
 下準備を終えたプーチンは、「強いロシア」再建のためのシステム整備を行います。中央政府の権限を強め、ロシア全国85の地方政府を大きく7つの連邦管区に分け、大統領府から全権代表を送って各管区の知事にします。また知事の議員兼務禁止、大統領の知事任免権を制定し、ロシア全土に大統領支配を浸透させます。また、ロシア国歌の歌詞を変えたりもしています。これらの改革は大統領になった2000年中に行われており、わずか数ヶ月でここまでやるというのは相当な強権とリーダーシップを表しています。垂直統治機構と呼ばれる連邦管区などは、日本でいえば首都移転以上、道州制導入くらいの大改革なのですが、これをわずかな期間でやってのけていることを考えれば、いかに途方もないかが分かると思います。日本の場合、首都移転だけで数十年以上議論しつつも未だに実行はおろかグランドデザインも決まってませんし、道州制も言われながらも21世紀中に実現するかどうかすら怪しいというのに。

 急激に中央集権体制を固めつつあるプーチンは、いよいよオリガルヒに対する攻撃を始めます。オルガリヒは、プーチンをエリツィンの後釜として捉え、エリツィン同様影からプーチンを操って権力を維持しようという目論見でした。そのため大統領選の時も傘下のメディアを動員してプーチン礼賛を行っています。この頃はプーチンとオリガルヒは仲良くやってるのですが、めでたく大統領に当選した途端、プーチンは豹変しオルガリヒに牙を剥くわけですね。

 プーチンの攻撃は凄まじく、オルガリヒの代表格であるウラジーミル・グシンスキーやミハイル・ホドルコフスキーに対して、横領罪などで逮捕し、国家権力をフルに使って制圧していきます。グシンスキーの逮捕(国有財産横領容疑)は2000年6月ですから大統領選挙からわずか3か月後という素早さです。グシンスキーは4日で釈放され、結局証拠不十分で不起訴になってますが、この宣戦布告効果は大きく、グシンスキーは結局亡命しています。前回取り上げたベレゾフスキーに対しては強制捜査の波状攻撃を仕掛け、01年11月にベレゾフスキーはイギリスに亡命。もちろんオルガリヒもメディアでプーチン批判を展開して反撃しますが、投獄されたり、財閥を潰されたり、亡命したりしますので、他のオルガリヒもプーチンに恭順を示します。オルガリヒの最終兵器であった私物化したメディアも、最終的にはすべてプーチンの支配下におかれます。もっとも、プーチンも引きどころはわきまえていて、調子に乗ってオルガリヒを全部潰してしまったらロシア経済がコケてしまいますから(ロシア大企業の8割以上の株をオルガリヒ一派が所有していた)、恭順を誓ったオルガリヒは残しておきます。

 90年代後半のロシア政治を支配したのがエリツィンと結託し「ファミリー」と呼ばれるオルガリヒだとしたら、プーチン時代にはシロビキ(権力者という意味)と呼ばれる一派が台頭してきます。KGB出身のプーチン子飼いのかつての部下達であり、警察や軍出身者です。また、プーチンと同郷(サンクトペテルブルグ)出身者であるサンクト派も登用されます。

   プーチンの荒っぽいやり方は、国策捜査などと呼ぶのも愚かしいくらいむきだしの国家権力であり、国家暴力と呼んですら良いくらいです。また、メディアに対する露骨な圧力と統制は、言論の自由に対する侵害として、野党や西欧諸国からは激しい非難を浴びます。でも、プーチンはそんな非難はどこふく風と涼しい顔をしています。なぜプーチンがこんなに余裕をカマしていられたのかといえば、当時の新興財閥オルガリヒというのは国民の恨みを買っていたからです。ソ連崩壊後の混沌の10年で急成長した新興財閥オルガリヒですが、その過程でかなりえげつないこともしています。一方し、エリツィンの急激な経済改革とハイパーインフレによって国民の資産はパーになっています。「あーあ、こんなんだったらソ連の方がなんぼかマシだった」と圧倒的大多数の国民が思ってるときに、ドサクサに乗じて私財を蓄え、皆の財産であった筈の国有企業を次々に乗っ取って急成長していったオルガリヒは、国民の敵とまでは言わないまでもそれに近いくらいの視線で見られていたと言われます。それにオルガリヒって儲けているくせに脱税しまくって税金払わないから、国庫がカラになって公務員の給料なども遅配してるし。プーチンのメディアへの圧力や言論封殺も、そもそもメディアそのものがオリガルヒの宣伝機関に堕落していたわけですから、私人が私物化するくらいなら、まだしも国家が統制していた方がマシという感じでしょう。

 それに後でも述べますが、プーチンという人は個人的な欲望の希薄な人で、彼の目標はたった一つ「強いロシア」です。これは大国意識の抜けない国民には支持したくなるポリシーです。エリツィンも政権末期は単に権力にしがみつく老人だったし、若々しいオルガリヒ連中も要するに金の亡者の成金連中だったわけで、権力はメチャクチャ濫用するけど不正蓄財など私財汚職はしないプーチンが強硬路線を取れば取るほど国民は拍手喝采をしたという状況だったといわれます。だから、プーチンは涼しい顔をしていられたのでしょう。

 もう一つ、実際問題プーチンになってから暮らしが良くなってるのですね。プーチンという人は、KGBあがりで黒い陰謀をめぐらすのが大好きな根暗でダークな人物かというと、意外とそうでもなく、経済のことがよくわかっていて、ビシバシ経済改革を施していくのです。所得税率を一律課税にしたり、法人税や消費税を減税するなど、火の車の国家財政において逆行するような暴挙を行ってますが、しかしこれが成功するのですね。なぜかというと、当時は誰も彼も脱税しまくっていたところ、結局誰も払わないなら税率を下げて払いやすくした方がいいということです。また、プーチン語録に、「汚職する公務員は、中世のように両手を切り落としてやれ」というのがありますが、秘密警察あがりのプーチンには、本当にそのくらいのことはやりかねない凄味があります。かくして脱税は減り、税収は増大、また98年のドツボの金融危機からの回復局面だったというラッキータイミングもあり、ロシア経済はメキメキと成長していきます。

 プーチンは外資の導入にも大きな成果を上げます。外資を円滑に導入するための下準備として、税制や土地売買の自由化などのシステム整備もします。なんでスパイあがりにそこまで出来るのか?というと、彼の経歴にヒントがあります。プーチンはKBG時代東ドイツに赴任していますが、そこでの役割はつまびらかになってはいないものの、西ドイツとの経済交流をやっていたようで、西独企業と接触していました。また、サンクトペテルブルグ時代では欧米企業の誘致する事業を担当し、大成功しています。スパイとしては当然だけど、ドイツ語もペラペラだそうです。つまり、プーチンは西側経済や企業というものを早い段階から知悉していたわけです。スパイでありながら、実際には高等国際ビジネス講座を履修していたようなものです。だから大統領になったときに、西側資本の導入という政策もスムースに立案・遂行できたのでしょう。

 また、プーチンは国家鉱業研究所の研究員もやっていた時期があり、「ロシア経済発展のための鉱物資源戦略」という論文を書いて準博士号も得ています。その論文でプーチンは、豊富にあるロシアの天然資源を活用し、再国有化するとともに金融機能も合体させ、金融産業複合体を作り上げるというロシアの国際経済戦略を説いています。アメリカの軍産複合体の21世紀ヴァージョンといってもいいです。そして自分が大統領になってからは、自分の論文の青写真どおりに天然資源を使った国家戦略を駆使、ついこないだまで事実上のデフォルトを出し国家破産状態になっていたロシアを、BRICsの一角にまで押し上げます。


大統領二期目(04-08年)〜首相期(09年〜現在)
 2004年の大統領選挙でプーチンは70%以上という驚異的な支持率を得て、余裕で二期目に入ります。
 折りからの原油価格高騰を追い風に、ロシア経済は年6〜8%の成長を続けています。まずはめでたいのですが、しかし、原油などの天然資源におぶさっての経済発展では中東産油国と変わらないわけで、プーチンはそこから脱却するために製造業やハイテク産業の育成に努め、経済特区を設けます。一方、借金まみれだったロシア政府も、2006年頃には対外債務を繰り上げ弁済してしまい、ロシア経済はますます国際的信用を得ていきます。

 これだけ聞くとロシアももう大丈夫!とか思ったりしますが、実際にはまだまだ悲惨な状況があったりします。ブレジネフ以来のソ連の沈滞、ゴルバチョフ〜エリツィンの改革したけど収集がつかなくなった90年代を通じて、ロシア国民の生活は相当深く破壊されていて、ちょっとやそっと石油が売れたくらいでは全面解決にはほど遠い状況でした。

 恥ずかしながら僕も初耳だったのですがロシア人の平均寿命というのはすごく短いです。2006年の統計では、女73歳は良いとしても、男はなんと59歳です。59歳ですよ。「ロシアでは年金問題は起きない」とジョーク混じりに言われているそうですが、なるほど60歳になる前に死んでしまったら年金も要らんですよ。戦後ソ連も含めて先進国といわれる国々では平均寿命は伸びています。だから日本なんか高齢化で大変なのですが、ソ連〜ロシアは逆に減ってます。男性の場合、50年代の63〜65歳くらいで推移していたのが、91年を境に急降下し、94年に54.7歳にまで落ち込みます。90年代後半に持ち直し、一瞬60歳を越えますが、2000年代には58-9歳レベルです。現時点では、OECD平均に比べ、女性では約9歳、男性では約16歳も平均寿命が短いです。

 これは単純に老衰までの寿命そのものが減ってるのではなく(そんなことが短期間に起きることはない)、死亡率の増加によるものです。天寿を全うする前に何かの理由で早死にする人が大量に増えたということです。通例、戦争、天災、伝染病などの原因がありますが、そのどれでもないのにここまで死亡者が激増するのは世界史的にも珍しいと言われます。ロシアにおいては相次ぐ不況、いやもう「不況」なんてもんじゃないですね、生活破壊といってもいいでしょうが、大量の失業者とメンタルストレスの悪化がアルコールに溺れたり、アルコール関係の疾患を激増させます。また自殺者も増えます。同時に治安の悪化による殺人の増加。さらに国家機構の崩壊により、保健医療機関の機能不全がおき、予防出来るはずの感染症=結核、ジフテリア、さらには感染ではないけど急性盲腸などで死亡者が出てきます。モラルの緩みきった90年代ロシアでは賄賂を払わないと医者にもかかれないという無茶苦茶な状況になり、盲腸くらいで死んだりするわけです。これは調べてて慄然としましたが、「国家が崩壊する」というのはどういうことか、少しは垣間見れたような気がします。恐ろしいものです。

 余談ですが、こうしてみるといかに男というのは女に比べてヒヨワな存在かわかりますね。失業したり、生活がダメになると、アル中になったり、犯罪に走ったり、とかく自己破滅パターンに走りがちなのは男です。男というのは「調子の乗らせてなんぼ」という心の弱い人種だということですな。ワーホリでも女性の方が安定してるもんね。ちなみに今年僕のところに来る人は、全部が全部女性です。男は何をしてるのだ。不況になって仕事にしがみついているのかしら。

 あとでも述べますが、プーチンの強権的な政治手法にはもの凄い批判が多いです。僕もわりと批判的な方でしたが、しかしね、平均寿命レベルでこれだけドカンと激減している強烈な事実をみると、いかにロシアの状況というのが深刻であり、「自由よりも秩序を」というプーチンの選択もまた、背に腹は代えられないのかなという気もしました。また、ロシア国民が彼を圧倒的に支持をする理由もちょっと分かった気がします。

 さて、だからこそちょっとばかり石油が売れたから万事解決というわけにはいかないのですね。二期目のプーチンは、05年に優先的国家プロジェクトを立ち上げ、保健、住宅、農業、教育という4本柱のインフラ整備という内政に励んでいます。

 ロシアの大統領は2期しかできないので、プーチンは2008年5月に大統領職を退き、メドヴェージェフを後任に指名します。これで引退するかと思ったら、あえて格下の首相に指名され(させ)、ロシア首相になります。さきほど、ロシアにおいては大統領こそ王様であり、首相は大統領のパシリに過ぎないと書きましたが、2008年以降その構造は変わります。なんせプーチンが首相なんだから、形式はともあれ、実質的には首相が最高権力者になります。プーチンは、首相が議長を務める政府幹部会を設置し、これが今のロシアの最高意思決定機関になっていると言われます。


プーチンの内政・外交とその批判
 プーチンの政治手法は独裁体制です。オルガリヒに対する国家暴力とすら言えるような強権的な攻撃、地方自治も民主主義もないようなゴリゴリの中央集権体制の確立、メディアに対する厳しい統制などなど、独裁といっても過言ではない、、どころか、誰がみても独裁でしょう。その意味では北朝鮮といっしょです。ただ北朝鮮と違うのは、政治の目的が正しくロシアの国益にかなっていることと、プーチン自身がおっそろしく有能だということ、さらに独裁者にありがちなナルシスティックな崇拝強制を一切しないことです。要するにメチャクチャ有能な政治家が、その有能さを存分に発揮しようとしていったら独裁になってしまったみたいな感じです。

 そうかといって、国内や世界では「ま、しょうがないか」とプーチン容認論が支配的になってるわけでもないです。西欧においては非難轟々であり、プーチン批判を展開していたジャーナリスト達が暗殺と思われる死を遂げていることから、KBGあがりのプーチンに対して疑惑の声もあがっています。なんせ死亡・行方不明になっているジャーナリストは128名にものぼるというからハンパな数ではないです。まあプーチンなら(KGBなら)そのくらいしたって不思議ではないし、アメリカのCIAだって暗殺はお手の物だし、プーチンが命じなくても配下の連中が先走ってやったという可能性はあるでしょう。ですので、強権的、独裁的、恐怖政治であるという批判は、それはそれとして当たっていると思います。また、「強いロシア」を標榜するあまり右派的な勢力の台頭を招いているという批判もあります。

 しかし、じゃあロシアがバリバリ右翼の軍国主義になるかというとそうでもないです。確かにチェチェン紛争などでは一貫したハードライナーぶりを見せつけているプーチンですが、他方ではソ連時代に冷遇していたロシア正教会と歴史的な和解をしていたりもします。

 国際関係ではどうかというと、プーチン時代というのは丁度アメリカのブッシュ(ジュニア)政権と重なるのですね。でもって、ブッシュ・アメリカがなりふり構わぬタカ派ぶりでドンパチやっていたから、プーチンの強硬ぶりなどむしろ影に隠れて目立たなかったりします。実際、この時期、ロシアよりもアメリカの方がよっぽど世界に迷惑かけていたと思います。

 プーチンは「強いロシア」を標榜しながらも、昔のような東西冷戦体制を再構築するという方向にはいっていません。むしろ逆。01年の911テロ以降、アメリカがテロ戦争を唱えているときも、アメリカと協調する路線を選び、アフガニスタン侵攻のときも中央アジア諸国への米軍駐留を認めるなど、冷戦時代には考えられないような柔軟な姿勢を打ち出しています。まあ、これはアフガニスタンなどのイスラム勢力やゲリラ勢力が、ロシアでのチェチェンなどと関連しているから叩いておきたいという下心もあったのですけど。

 しかし、ブッシュが過熱するつれ、クールなプーチンは「このおっさん、危ないな」と思ったのか徐々にアメリカと距離を置き、フランスやドイツと連携し、アメリカ一極支配体制への批判や、戦争が紛争解決の手段にはならないことを表明しています。また、アメリカが東欧諸国に接近して覇権を広げることに対しては特に不快感を示し、終始批判しています。またヨーロッパ諸国とも頻繁に連携をとり、KBG時代駐在していたドイツとは友好関係を築いています。

 一方、旧ソ連の構成国だったグルジアやウクライナではアメリカの後押しでそれぞれ革命が起きますが(03年のグルジアのバラ革命、04年のウクライナのオレンジ革命)、これらに対しては強硬な姿勢で臨んでいます。天然ガスの流出量を減らした06年のウクライナ・ガス紛争、グルジアの南オセチア侵攻に対する軍事介入などです。総じて言えば、自分から進んでアメリカと対決して冷戦構造にもっていこうとは思ってないものの、アメリカの覇権的な動きには批判するし、ロシア周辺についてはビシッとした守りを崩さないといえるでしょう。

 但し、米ロの関係はもっともっとややこしいです。アフガニスタン、中央アジア、チェチェンやグルジアというコーカサス諸国における米ロそれぞれの介入は、イスラム系ゲリラやテロ組織という両国とも頭も痛い問題が絡んでいます。それだけではなく、中央アジアの天然資源の利権争いという構図をも含みます。だから複雑。また、アメリカの対ロ戦略というのは、90年代にはもとの共産体制に戻らないようという懸念から、エリツィン政権下の混乱にも見て見ぬふりをしていていました。それが共産主義に戻る可能性は低いだろうと見切ったことと、98年の金融危機で国家破産にまでロシアが追い詰められたことから、一転して無関心になっていきます。しかし、プーチンの登場とともに天然資源をもとにした経済戦略で頭角を現すにしたがって、今度はあまり強くなれては困ること、ロシアの石油戦略にクサビを打ち込んでおきたいことなどから周辺諸国の取り込みや資源利権について画策するようになります。もっとも、アメリカとしてもロシアと正面切って喧嘩する気は毛頭ありません。既に石油輸入国になっているアメリカとしては、ロシアは貴重な資源供給国です。ましてやイラク進駐などで中東情勢が微妙になっている昨今、中東以外での資源確保は大事な政治課題だからです。したがって、仲良くやるわけでもないけど、喧嘩するわけでもなく、グルジアあたりをつついて牽制したりという微妙な動きになっていたのでしょう。


 アジア方面ですが、まず日本。日本とロシアといえば北方領土で、2島返還の日ソ共同宣言を軸に対応しています。北方領土問題は数行で片付く問題ではないのですが、しかし、日本においてもロシア外交=北方領土という硬直的な発想をいい加減どうにかすべきだと思います。もちろん軽視して良い問題ではないけど、日本の世界戦略を考える場合、あの巨大な国全体をもっと見るべきでしょう。プーチンは、日本に対して資源輸出国としての日本市場の開拓、あるいはシベリア開発の日本資本の誘致、さらには自衛隊とロシア軍の共同救助訓練を行ってます。中国に対しても提携を重視し、共同軍事演習を行ったり、国境問題を譲歩しつつ解決したり、パイプライン建設では日本よりも中国との関係の方が軌道に乗ってます。

 最大の問題はチェチェン紛争なのですが、これはチェチェンへの軍事制圧をすると、ロシア都市内でのテロが頻発し、さらに武力侵攻をするとまたテロも起きるという泥沼化しています。このあたりはまた別項で書くつもりです。


プーチン政権とプーチンという人
 プーチンという人は、KGB出身の強硬派ということで、僕もぼんやりと血も涙もない冷酷な権力者像を抱いていたのですね。あのニコリともしないポーカーフェイスなルックスからしてそんな雰囲気だし。しかし、今回まとめて調べてみたところ、かなり修正すべきだという気になりました。冷酷で粗野なだけに人物にあそこまでの仕事は出来ないでしょう。また、あれだけ絶大な権力を持ちながら、私財をためこむなどの汚職や腐敗臭は漂ってきません。

 多分、素のプーチンは、映画や小説を読んでスパイに憧れ、のこのこKGBにまで訪ねていった15歳の頃からそんなに変わってないのだろうなって気がします。「やりたいことがあるからやる。やるべきことがあるからやる」というシンプルな生き方ですが、普通、人間そんなにシンプルに生きられません。適当に挫折して目標がすり替わったり、代償行為に走ったりするのですが、彼はKGBに入りたくてKGBに入り、諜報部員にもなってます。そして出世の過程を見ていくと、常に今の職務で実績を出し、それが上層部の目に止まり抜擢され、さらにそこでも結果を出し、、、という形で、実力と実績だけでまっすぐに伸びています。あまりにも真っ直ぐに進んでいるから屈折したり代償行為に走ってみたりという屈曲率が少なく、「なすべきことをなす」というシンプルでぶっとい感じになっているのでしょう。オリガルヒへの対応、周辺諸国への対応をみても、「必要なことは断固としてやる。しかし必要な分を越えてはやらない」というルールがあるような気がしますから。

 かといってプーチンがガリ勉だったり、出世の鬼だったかというと、学生時代はサンボと柔道をやり、サンボは全ロシアの学生大会で優勝、柔道はレニングラード市大会で優勝しています。まだまだ一介の学生に過ぎなかった頃ですから、これらは実力でしょう。身長170センチもないと言われるくらいですから大男揃いのロシアにおいてはかなり低いのですが、それで(体重制とはいえ)優勝というのはハンパな修行量じゃないですよ。また、日本に来たときに講道館から六段を授与するというオファーを、「六段というのがどのくらいの重みのあるものか分かるから、研鑽を積んでいつか実力でとらせていただきます」と丁重に断っています。また、官僚時代には論文を書いて準博士号まで取ってます。酒もタバコもやらず、大の愛犬家で、浮気や女遊びの話もとくにない。結構幅が広いわりには極めて真面目な人です。人間的には冗談ばっかりいって実は柔らかい人らしいのですが、昔上司に叱られてからはポーカーフェイスに努めているらしいです。

 しかし、よくよく見ると、この人、本当に死角がないのですね。まず私腹を肥やすとか名声を求めるとかいう個人的な欲望が薄いから、脇が甘くてスキャンダルに倒れる懸念が少ない。このくらいボスが真面目だと、配下の部下達も真面目に仕事せざるを得ないですよね。ボスが利権漁りばっかりやってると配下も同じようなことやって、それが派閥争いに発展してメチャクチャになるのですが、プーチン政権下ではよく統制がとれていて、そういう話になりません。また、KGBのエリート出身というのは、政治や軍事の一番汚いところ、テクニカルな部分を知り尽くしているということを意味し、ダークサイドにおいて非常に強いです。そうかといって、単に秘密警察あがりだけだったら陰険なゲシュタポ風になるのだけど、やってた仕事が西欧企業の招致であり、西欧経済を知ることであるから経済通になります。また、資源戦略をいち早く提唱していたくらい先見の明もあります。

 まとめてみると、世界経済やビジネスの現場に強く、国際謀略やダーティな世界は得意中の得意で強く、本人自身他の政治家とは比較にならないくらいフィジカルに(精神的にも)に強く、且つ個人の利益を漁ってコケるという弱さもない。そして、「強いロシアの復活」という政策目標が、そのまま自分の人生の目標にもなっているという、真面目な仕事人間、ということでしょう。

 唯一の欠点といえば、人間的愛嬌の欠如というか、人間的なカリスマ性の欠如です。キューバのカストロの情熱、チェ・ゲバラの伝説、ケネディのベビー・フェイス、ドゴールやチャーチルの毒、リンカーンやガンジーの人類普遍性、サッチャーの信念、ナポレオンの華、、、、古今東西さまざまな政治家や英雄が出てきましたし、新しいところではブレアの新鮮さや、オバマの未来性などがあります。でも、プーチンにはあんまりこういった人間的なカリスマ性がないです。まあ、今のロシアには求められてもいないのでしょうし、本人も隠しているのかもしれませんが、要するに「能吏」であり、能吏がそのまま巨大化し、官僚にありがちな視野狭窄を取り去ったような感じですね。

 さて、今回はプーチンに焦点を当ててみましたが、もう少しロシアについて見ていきます。



過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ


文責:田村




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