今週の1枚(09.03.02)





ESSAY 401 : 世界史から現代社会へ(64) パキスタン


写真は、Chatwood の高層マンション(26階)からシティ方面を望む絶景ビュー。眼下に広がる住宅街は、ChatswoodからArtarmon、St Leonardsにかけてのエリアです。


パキスタン地図
 前回一回お休みして、いよいよインドから隣のパキスタンに移ります。

 まず例によって地図を掲げておきましたので、最初によーく地理関係を確認しておきましょう。

 パキスタンはインドの左上にあります。
 インドの右上にはバングラディッシュがあり、パキスタン建国当時は東パキスタンとしてパキスタンの一部でした。

 また、パキスタンとインドの北方境界の山岳地帯には、今日にいたるまで紛争が続いているカシミールがあります。

 パキスタンのすぐ西隣にはアフガニスタンがあります。
 アフガニスタンには、ブッシュ政権以来アメリカ軍が駐留していますが、アメリカの作戦を遂行する上でパキスタンの協力が必要であると言われているのも、地理的な条件を考えると頷けます。

 地理的なことをさらに見ていくと、隣に近親憎悪的な仇敵インドがあるのは良いとしても(良くはないんだけど)、西方にはイスラム教バリバリのイランがあり、さらに中東とつながっていきます。すぐ隣にはアフガニスタンがあり、これが昔はソ連が侵攻したり、タリバンが支配したり、アメリカが攻撃したり何かと騒がしい国です。北方にはソ連−ロシアが、東方には中国があり、中国がまたインドと仲が悪かったりして武力衝突などを起こしてたりします。このように、パキスタンという国は、かなりややこしい場所に存在しています。

 インドもパキスタンももともとはイギリスの植民地支配下にあった同じインドという国でした。インドは今BRICsの一角をなし、将来的に中国を凌駕する超大国になる潜在力があるなど持て囃されていますが、一方パキスタンはパッとしません。なぜ、インドだけ離陸して、パキスタンはモタついているのでしょうか。


パキスタンの独立
  パキスタンの独立・建国記念日はインドと同じ、1947年8月15日。覚えやすい日で、日本の終戦の日から丁度2年後です。

 インド編の復習ですが、イギリス植民地時代はパキスタンもインドもバングラディシュもひっくるめて「インド」だったのですが、イギリスから独立するにあたって、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が起き、イスラム教徒はパキスタンというインドとは別路線でいくことになりました。パキスタンが今の位置になったのは、もともとイスラム教徒が多く住むエリアだったからです。同じ理由でバングラディッシュもパキスタンの一部(東パキスタンとして )独立しています。

 といっても、あるエリアが一人残らずイスラム教徒で、その他のエリアにはイスラム教徒が一人もいない、、なんてことはなく、インド全土で民族大移動のような引越騒ぎになります。また、全てのムスリムがパキスタンに引っ越したわけでもなく、今なおインドの人口の10%以上はムスリムです。
ジンナー
 パキスタン建国の父と呼ばれているのが、ムハンマド・アリー・ジンナーという人です。この人の誕生日は今でもパキスタンの国民の祝日になっています。ガンジーやネルー、チャンドラボースがそうだったように、ジンナーもイギリス帰りのインテリで あり、19歳で弁護士になるという当時の最年少記録を持っています。

 著作権の終了した画像があったので貼っておきますが、中々シャープな顔立ちで男前ですが、どこかしら俳優のケビン・ベーコンに似てると思うのは私だけでしょうか。

 インドに帰国したジンナーは弁護士事務所を成功させつつ、政治活動に入り、国民会議派のメンバーになります。1896年、ジンナーはまだ20歳です。40歳になる頃には全インドムスリム連盟の代表に選ばれ、国民会議派とともにイギリスに対して、インドの自治権を要求します。この頃、南アフリカからガンジーがインドに帰国します。ガンジーの運動は、一言でいえば「ふつーのインド人」を全面に押し出したもので、ガンジー自身、洋服も着ず、英語も喋らず、ヒンドゥーの教義に忠実でありました。

 しかし、「ふつーのインド人」として普遍的なものを求めるガンジーのあり方は、大多数のインド人に浸透していきますが、同時に「ふつーでないインド人」の反発をも受けます。これまでの独立運動を指揮してきた国内のエリート層、あるいは最下層のインド人、さらにはヒンドゥー教ではないムスリムに警戒心を起こします。ガンジー自身はよく多くの人達のとともにというつもりであろうし、ヒンドゥー教だけをことさらにプッシュするつもりもなかったのですが、広く大衆へという最大公約数的な呼びかけが、そこに入りきらない人々からは嫌われてしまうという。ここが難しいところですが、ある程度大衆運動として盛り上げる必要はあるけど、かといってあらゆる少数派も含めていくと散漫でまとまりがなくなるうえ、メッセージ性も無くなるという。

 ジンナーは、社会上層エリートとして穏健の改革を望んでいましたし、ややもすると危険な大衆運動を警戒していました。また、ヒンドゥーという宗教的色を出すと、ムスリムに対する要らぬ反発感情を巻き起し、インドを割ってしまうという懸念もありました。結局、後年においてジンナーの懸念は当たってしまうわけですが。1920年、ジンナーは国民会議派を離脱し、ガンジーらと距離を置きます。といっても敵対関係に入ったわけではなく、ムスリムとヒンドゥーの交渉や調整に腐心します。

 1928年、国民会議派を指導していたネルーは、インドの即時独立を訴えると共に、これまでの約束であったムスリムの分離選挙が実行不可能である旨表明します。これでまた一悶着起きるのですが、この問題の背景には、単純に数の論理でいけば過半数を占めるヒンドゥー勢力の独裁状態になってしまうから、少数派であるムスリムには特別枠を設けてバランスを取らねばならないという発想があったからです。そのため議会の3分の1をムスリム議員に当てる等の案が議論されていました。しかし、人口比を越えてムスリムを優遇するのは不平等だと感じる人もいるし、広大雑多なインドを一つの国家としてまとめ上げていく立ち上げ期には強力の中央政府が必要だというもっともな意見もありました。しかし、インドを一つにまとめていけばいくほど、少数派ムスリムは貧乏くじを引かされかねないわけで、そこでギリギリの折衝が行われます。29年、ジンナーはジンナーの14条と呼ばれる対案を出しましたが、国民会議派や他の勢力から認められませんでした。

 苦悩するジンナーですが、この時期、泣きっ面に蜂のように奥さんと離婚します。奥さんであるマリアムとは、1918年にゾロアスター教という宗派の違い、24歳も年下、しかもジンナーは二度目の結婚という何重もの壁を乗り越える大恋愛の末結婚したのですが、ジンナー多忙のゆえに夫婦関係がおかしくなってしまったらしいです。欧州旅行などをして修復をはかったものの空しく、27年に離婚、さらに29年には奥さんが病死してしまい、ジンナーは公私ともにドツボ状態に陥ります。

 一方、独立運動の方はなかなか進捗しません。1931年、イギリスが茶番のような一時逃れのロンドン円卓会議を開催したのですが、出席したジンナーは「あ、こいつら本気で独立を認めるつもりはないな」と茶番性をすぐに見抜きます。何かもがイヤになってしまったのでしょうか、ジンナーはイギリスの法曹界に戻ってしまいます。「もう、俺、知らんもんね」くらいの感じだったのでしょう。

 しかし、ジンナー以上の人材のいないインドのムスリム連盟から懇願され、3年後にジンナーは再びインドに帰り、ムスリム連盟のてこ入れを始めます。しかし、ジンナーの予感(将来的に独立インド内ではムスリムは少数派として押しのけられてしまう)は、早すぎたのか、まだ一般民衆にまでは浸透しておらず、選挙でボロ負けするなど、活動は壁にブチ当たります。とは言いながらも、インド内部での大衆運動=ヒンドゥーの盛り上がりが鏡のようにムスリム社会に反映され、将来に漠たる不安を覚えるムスリム民衆も増えてきました。ジンナーはもともとインドという統一国内でムスリムの権利保護を目指していたのですが、段々と「こりゃ無理だわ」という考えに傾き、ヒンドゥーとムスリムとで別々にやっていった方がいいじゃないかという、二民族論を提唱するようになります。ここでパキスタンという独立構想が現実味を帯びてきます。

 しかし、ジンナーの主張は、当然のことながらインド国民会議派からは認められるものではないですし、それどこかイスラム勢力の一部から反発を買い、1943年には刺傷を負うなどジンナー暗殺未遂事件まで起きます。

 第二次大戦終戦の年である1945年から46年にかけて、インドで総選挙が実施され、ムスリム連盟とインド国民会議派は、それぞれの割り当て議席枠をキッチリ確保します。選挙によって、インド国内に大きな2グループがあるということがより鮮明に明らかになってしまったわけです。宗主国であるイギリスは、後にパキスタンなるインドの両端エリアをムスリムが仕切り、中央部を国民会議派が仕切り、それを統括する連邦政府があるというギリギリの妥協案を出します。ジンナーは承認しますが、ネルーは中央政府の権限が弱すぎることを危惧し、結局、この案は流れてしまいます。

 このような膠着状態において、カルカッタの大虐殺と呼ばれる暴動が起き、数千から数万人のヒンドゥー、ムスリム教徒が殺害されるという惨事になってしまいます。もはやジンナーや国民会議派によって民衆レベルでの対立を抑えきれなくなり、インドとパキスタンは分離して独立することになります。

 この時点でジンナーの生命は殆ど尽きかけていました。数年前から結核を患っていたジンナーは、パキスタン独立後のさらなる激務によって健康状態を悪化させ、数ヶ月の保養をとるも病状は改善せず、独立1年後の48年9月に死去します。

 このようにインドとパキスタンの産みの苦しみを、その生涯において背負い続け、ほとんど戦死のような壮絶な最後を遂げたジンナーですが、今でもパキスタンにおいては国父、最も偉大な指導者として敬慕されています。紙幣にはジンナーの肖像画が描かれ、カラチの空港はジンナー国際空港と呼ばれています。また、パキスタン国内だけではなく、広くイスラム世界においてジンナーの名は知られており、トルコやイランの大通りにジンナーの名前が使われています。

 ジンナーは、インドを二分した”戦犯”であるという見方もあるそうですが、ジンナーはパキスタン構想をやむを得ない次善の策として捉えており、最後の最後まで統一インド構想を捨てることはなかったといいます。それに、今から振り返ってみても、当時のインドの状況は、神様でもない限りクリアすることは出来なかったでしょう。思えば植民地時代は楽であり、ヒンドゥーもムスリムも共に被支配者であり、イギリスに不満をぶつけていれば良かったわけです。しかし、いざ独立となれば、自分達の中での権力配分が重要な問題になります。民主主義における数の論理、数の暴力によってムスリムの権利が侵害されることへの憂慮は、優れた政治家であれば誰しもするでしょう。一部エリートだけではなく広く大衆運動として広めたガンジー、混沌たるインド亜大陸をまとめ上げるために強力な中央政府を求めたネルー、いずれも間違っているわけではないです。

 誰も間違ってないのだけど、状況それ自体がどうしようもなかったという。強いて言えば、名もない民衆達がもうちょっとクールに、理性的に動いてくれたらと思うのですが、それまで政治も何も携わったことのない人々が関わろうとすれば、一定数の割合で熱狂的且つ粗暴な方向にいってしまう人々も出てくるでしょう。独立の際のゴタゴタで、多くの人命が犠牲になり、それがまた将来的な憎悪をかきたて今日に連なっていますが、インドという広大な面積と人口を考えたら、この程度で済んだのはまだしもマシだったと思われます。一歩間違えればアフリカの荒れている国のように、国内バトルロイヤルの殺し合いが延々数十年続いたって不思議ではないのですから。



パキスタンの戦後史概略 〜国際政治と軍事戦略

カシミールと印パ戦争


 パキスタン独立後、すぐにインドとパキスタンは戦争になります。第一印パ戦争です。
 発端はカシミール地方。この地域は、もともとジャンムー・カシミール藩王国で、藩王はヒンドゥー教徒だけど、住民の多くはイスラム教徒であるという「ねじれ現象」を起こしていたエリアです。藩主を基準にすればインド領土、住民を基準にすればパキスタンと、どちらもそれなりに言い分があるところから双方の軍隊が派遣され、緊張が高まり、戦争に発展してしまいます(1947年)。

 この戦争は、49年に国連の肝煎りで停戦に至り、カシミール地方を二分する停戦ラインが引かれます。パキスタンが仕切るエリアはアーザード・カシミールと呼ばれ、インドの方はジャンムー・カシミール州と呼ばれます。しかしこれは暫定的な"停戦”であり、問題の解決にはほど遠く、65年には再び武力衝突になり(第二次印パ戦争)、1990年以降の緊張に高まりの際には核戦争の懸念すら起こったことがあります。

 カシミール(Kashmir)は、有名な高級素材カシミア(cashmere)の語源になっているところです。微妙にスペルが違うのですが、カシミールのことを古くはカシミアと呼んでいたそうです。高山地帯に住む、カシミア山羊の毛から作るのですが、保温、保水、光沢、肌触り、軽さ、そして高価さから「繊維の宝石」とまで言われるカシミアですが、なんでもカシミア山羊4頭でやっとセーター一枚分出来るだけという希少価値があるので高いのも当然なのでしょう。カシミアはパキスタンをはじめモンゴル、イラン、インドなど中央アジア諸国では貴重な外資獲得の特産品ですが、最大の生産国は中国だそうです。

国際政治の変転

 第一次印パ戦争中に国父であるジンナーが死去し、国を束ねるカリスマがいなくなったことで、政局は不安定になります。後を継いだリヤーカト・ハーン首相も1951年に暗殺され、1958年には軍事クーデタまで起きてしまい、アユーブ・ハーンという人が独裁政権を作ります。なお、パキスタンは当初、イギリス国王を元首とする英連邦の自治国家として独立したのですが、この頃(1956年)、共和国として独立しています。

 以後、パキスタンは中南米のような展開を余儀なくされます。すなわち、クーデターによる軍事政権と民政移管のくり返しであり、東西冷戦など大国の影響をモロに受けるということです。インドへの軍事対抗措置としてアメリカに接近したパキスタンは、54年にアメリカとの間で相互防衛協定を締結、矢継ぎ早に東南アジアや中東の軍事同盟にも参加します(SEATOとMETO)。

 しかし、国際情勢はお天気のように変わりがちです。インドが非同盟主義を貫いていたからこそアメリカと接近したパキスタンですが、今度はインドがアメリカと仲良くなります。発端は1959年のダライ・ラマ亡命で、これでインドと中国の仲が険悪化、62年には国境紛争をめぐってインドと中国の戦争になり、カシミール地方にも飛び火します。戦争は中国の圧勝だったのですが、こうなると「敵の敵は味方」の原理で、反中国であったアメリカとインドの仲がよくなるという理屈です。しかし、インドとアメリカが仲良くされたらパキスタンの安全保障構想は崩れます。そこで、「敵の味方は敵」の原理で、パキスタンはアメリカから中国と仲良くしようとします。問題のカシミールは中国も印中戦争で一枚噛んでおり、中国と連携することでインドとの交渉を容易にしようという腹づもりですね。かくして、58年クーデターで政権をとったアユーブ・ハーンは中国の支援を背景に、再びカシミールでインドと喧嘩をします(1965年第二次印パ戦争)。しかし、これも決着が付かず痛み分け。


 そうこうしているうちに、今度は東パキスタンで騒動が起きます。1970年の大型台風(サイクロン)の直撃を受け死者数十万人の被害を出した東パキスタンですが、西パキスタンの災害救助があまりにも少ないことから、翌年の選挙で反西パキスタンの野党が圧勝します。しかし、西パキスタン政府がこれを認めないところから、独立運動が高まり、内戦状態に突入、さらにインドの軍事介入を招いてバングラディッシュ独立戦争=第三次印パ戦争=が起きます。結果的にはインド軍の圧勝で、バングラディッシュは独立します。

 一方、国際情勢はまた猫の目のように変わります。反中の立場で手を握ったはずのインドとアメリカですが、インドがアメリカのベトナム戦争批判をしたことから再び仲が悪くなり、インドはソ連と仲良くするようになります。そうするといったんは疎遠になっていたパキスタンとアメリカの仲が戻ります。また、この頃、ニクソン大統領の米中国交というニクソンショックが世界が驚かせており、パキスタンは中国とアメリカと提携し、インドと対峙します。

国内政治〜軍事クーデターと民政移管

 一方パキスタンの内政ですが、アユーブ・ハーン→ヤヒヤー・ハーンと続いた軍事政権もようやく終焉、1973年にパキスタンは民政移行されます。また、インド、バングラディッシュとの間の交流も再開され、「やれやれ」という雪解けムードになります。が、これも長く続かず、ズルフィカール・ブットーによる人民党の選挙違反をめぐって国内が紛糾、これに乗じてまた軍事クーデタで起きます。政権を奪取したジア・ハックは大統領に就任し、政敵ブットーを処刑、またしても軍事独裁が10年ほど続くことになります。また、イスラム教団体の支持によって政権基盤を固めるために、憲法廃止、イスラム教の祭政一致傾向が進みます。

 ジア・ハック軍事政権が10年も続いたのは、カンのいい人は既に洞察しているでしょうが、アメリカの東西冷戦戦略があります。特に79年にソ連のアフガン侵攻によって緊張した国際情勢のもと、アメリカはパキスタンの軍事政権に多大の支援をします。もっとも、アメリカとしてもツライところなんですね。このあたりは過去のエッセイでも書きましたが、なんでソ連がアフガニスタンに侵攻したかといえば、隣のイランでイラン革命が起き、イスラム原理主義が飛び火することをソ連が恐れたからです。イスラム原理主義はアメリカもまた懸念してたところであり、イスラム教への傾斜を深めるハック政権についてはアメリカも支援を中止しようとしていたようです。しかし、先にソ連がアフガンに侵攻してしまったモノだから、イスラムかソ連かどっちが火急の大事かという価値判断の末、対ソ連を優先してハック政権支持をしたようです。

 ではなぜハック政権が10年後に終わってしまったか。それはソ連がアフガンから撤退したからです。ゴルバチョフの登場と冷戦終結に世界が動き始めてしまえば、もうアメリカにとってハック政権は用済みです。事実、1988年にハック大統領は飛行機事故でアメリカの都合よく事故死しています。このあまりのタイミングの良さで、CIAの陰謀説がまことしやかに囁かれています。このとき、アメリカ大使も同乗して死亡しており、もし本当にCIAによる暗殺だとしたら、大使もいい面の皮だという気がしますね。

 さて、ハック軍事政権のあと、パキスタンは、ハックによって処刑されたブットの娘であるベナズル・ブットが首相になり、民政に戻ります。しかし、平和的な民政ではなかったです。パキスタンは民政化したあとも、核兵器開発やイスラム化を深めますが、これは趣味や主張でやっていたというよりも、全てはライバル・インドの情勢の鏡像現象でしょう。すなわち、インドが核兵器保有を宣言し(中印戦争で負けたのが発端)、さらに核開発を続けていることから、パキスタンも対抗上核兵器を持つ必要があったこと。また、インドにおいて80年以降ヒンドゥー主義が台頭し、88年にはヒンドゥー系の人民党が政権を取るに至るような情勢に対応してのことでしょう。

 それに民政移管後の内政ですが、これも10年続くのですが、決して素晴らしい内容ではなく、ベナズル・ブット政権は腐敗がひどく、大統領によって解任され、あとを継いだライバルのナワズ・シャリフ政権は、これまた腐敗がひどく辞任に追い込まれ、選挙で返り咲いたブットが二度目の首相になるも、また性懲りもなく腐敗を起こして、大統領によって解任。再びシャリフが二度目の首相をやりますが、これまた腐敗がひどく、これを批判した軍部のムシャラフを解任をしようとしたため、ムシャラフがクーデターを起こし、三度軍事政権になります。要するに90年代パキスタンの10年間の文民政権は、二人の首相が交互ダブルに首相を勤め、両者一貫して腐敗していたというトホホな状況になります。

 このあたりも中南米に似ているのですが、必ずしも文民政権が前で、クーデター軍事政権が悪というものでもないのですね。庶民あがりが多い軍隊の方が、腐敗が少なく、まだしも理想主義的な場合もあるわけです。

パキスタンの悲哀
 パキスタンのそもそもの出発点は、インド国内における少数派の悲哀を脱するためでした。圧倒的大多数を占めるヒンドゥー教徒に対して、少数派のイスラム教徒がいかに自分達の権利を守るかという。しかし、独立国になればそれでOKというほど甘いものではなく、独立したら独立したで、巨大国インドの隣国としてあれこれ知恵を絞り続けなければなりませんでした。多数vs少数、大vs小の苦しみは、パキスタンの宿命のようです。

 インドに比べて、パキスタンはスタート時点においては殆ど何も持っていませんでした。本家インドから分家独立したパキスタンですが、本家からの遺産は殆ど貰っていないという。イギリス植民地=英領インドの様々な遺産(国際社会における認知度など)は殆どインドに持って行かれています。工業地帯など産業の基盤となるエリアもそうだし、数千年の歴史もそうです。印僑なんかもそうでしょう。最大の観光資源であるタージマハールも、もともとはイスラム教のムガール帝国のものなのですけど、インドにあるから観光客はインドに取られちゃってます。パキスタンの観光資源といえば、インダス文明の史跡、モヘンジョダロくらいでしょうか。

 インドというのは在来のドラヴィタ人ら原インド人に対して、常に北方から侵略民族がやってきた国です。紀元前1500年前にアーリア人がやってきて、10世紀後半からはイスラム教徒が侵入しカズナ朝やデリースルタン朝を築き、ムガール帝国に至ります。インドにおけるイスラム帝国は、1000年近く支配者的地位にあったのですが、それとてドラヴィタ人のインダス文明から数えれば優に5000年を数える大インドの歴史からすれば、まだまだ新参者なのかもしれません。

 建国当時のパキスタンは、殆ど国家基盤を持たないまま、民族大移動的にインド各地からやってきた難民同然の同胞イスラム教徒を数百万人抱えます。この時点で既にパンクしそうなものですが、その上建国の父ジンナーは早々に逝去してしまい、後継者であるリヤーカト・ハーンも暗殺され、人材が払底し、以後クーデターと民政移管が交互に続きます。しかも文民政権になったところで、腐敗の巣窟のようになってしまうという。

 加えて国のコンセプトが定まらないという問題があります。イスラム教徒のための国というコンセプトは明瞭すぎるくらい明瞭なのですが、それだけでは食っていけません。どのイスラム教系の国でもそうですが、宗教は宗教、それはそれとして、国家システムとしては西欧流の議会制民主主義や資本主義をとっていくのか、それとも社会主義をとるのか、あるいはそんなの無視してイスラム原理主義的にいくのか、そのあたりの選択に迷うところです。初期の軍事政権から73年に文民政権に移管したブットー首相(初代)は、社会主義の方向を模索しますが、これはイスラムの保守派に潰されてしまい、ゴタゴタしているうちにまたクーデターになってしまっています。

 建国早々カシミール紛争で印パ戦争を経験しているパキスタンは、 常にインドを仮想敵国として緊張を強いられています。いや現実に戦争を何度もやってるんだから「仮想」どころじゃないですよね。インドは図体もデカイし、歴史も古いし、イギリスがバックにいることもあって、米ソも迂闊に手を出せず、どちらにも与しない、going my wayの非同盟主義を貫きます。しかし国家規模では話にならないほど小さいパキスタンは、そんなカッコつけてる余裕はないです。軍事力でインドに3倍の差をつけてられているパキスタンとしては、自力だけではインドに対抗できないため、常に国際情勢を見て、アメリカ、中国、ソ連とついたり離れたりします。終戦以来アメリカべったりで思考停止していればいい日本に比べれば、ほんと、パキスタンはよく頑張ってると思いますよ。

アフガニスタン情勢と近時のパキスタン 
 ソ連のアフガニスタン侵攻後、ソ連の傀儡政権を倒すため、アメリカはアフガニスタンの反政府ゲリラに多大な援助をしていますし、このとき義勇兵としてアフガンゲリラとともに戦ったのがオサマ・ビン・ラディンなのは周知の通りです。パキスタンは、アフガニスタンの隣国であり、且つ対インドの関係でアメリカと仲良くやっていくために、アフガニスタンゲリラを支援しています。特にタリバンを強力に支援してきました。また、戦乱を逃れてやってくる膨大なアフガニスタン難民を自国に迎え入れています。アフガニスタンとの恒常的な関わりによって、アフガンのイスラム原理主義がパキスタンに逆輸入され、パキスタンにもイスラム原理主義者が増えていったりもします。

 しかし、ソ連の崩壊後、アメリカにとっては今度はイスラム原理主義が鬱陶しい存在になっていきます。パキスタンは、アフガニスタンがイランやロシアの緩衝国になることから、タリバンを通じて間接的にアフガニスタンに影響力をキープしておきたいという思惑もあります。「昨日の友は今日の敵」とばかりに、アメリカはイスラム教国を敵視し始め、それは2001年の同時多発テロを境に激しいものになります。ビン・ラディンをかくまっているというアフガンのタリバン政権に対する攻撃を始めますが、そもそもタリバン政権はパキスタンが育てたようなものです。アメリカは、パキスタンに、「タリバンを取るか、アメリカを取るか」という、いかにもブッシュ政権らしい「従わない奴はみな敵」という厳しい二者択一を突きつけ、当時のムシャラフ大統領は苦しいなか、イスラム原理主義を切り捨てます。

 ムシャラフは、1999年の無血クーデターから2008年8月に辞任するまで10年間パキスタンの舵取りをやっていますが、建国者ジンナーに継ぐ名リーダーだったと思います。国家は破産状態なのに毎年アフガン難民は怒濤のようにやってくるわ、インドの核兵器に対抗しなくてはならないわ、朝令暮改のアメリカの無理難題に付き合わないとならないわ、そうすると国内のイスラム原理主義者がテロを起こしたりして騒ぐわ、その合間を縫ってイスラム教国ながら西欧流の経済を導入して発展させようというのだから、激流の中をイカダで突き進むようなものです。クーデーターながら、国民の支持によって10年も政権を維持したムシャラフですが、さすが10年もやると国民の支持も下がり、昨年(2008年)8月には辞任してます。その後釜に座ったのが、アースィフ・アリー・ザルダーリー首相ですが、彼がクセモノというか、不正蓄財や汚職で指弾され、最後には暗殺されたブット(娘)首相のダンナです。この人自身、ブット内閣で大臣を務め、せっせと国の予算を横領し、挙げ句の果てに8年間も刑務所暮らしをしていたという人で、ムシャラフに比べたら明らかに質は落ちるように思われます。折しも去年の11月には、ムンバイテロが起きて、インドとの関係が悪化しているのですが、新首相はどうするのでしょうか。



過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ


文責:田村




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