ツイート



今週の1枚(09.02.16)





ESSAY 399 : 世界史から現代社会へ(63) インド(5)〜インドについてのあれこれ



 写真は、ウチの近所のインド料理店で、取らせてもらった一枚。



 インドシリーズもそろそろシメに入りたいと思います。序章でヒンドゥーという民俗宗教概念を、第一回目でアーリア人やカースト制などインドの古代的なセッティングを、第二回目でヒンドゥーVSイスラムの対立を、第三回目で独立から大バケする以前の歩みを、そして前回にBRICsの一角としてもてはやされているインド経済についてやりました。

 今回は落穂拾いのようにインドに関するあれこれを見ていきます。そして、隣のパキスタンに移っていく予定です。


日本との関係


 インドと日本の関係ですが、これは一言でいえば「良い」 です。

 その昔の日本はインドのことを「天竺」とか呼んでましたよね。日本人でインドまで行った人なぞ殆どおらず、お隣の中国で、孫悟空で有名な三蔵法師がインドまで教典を探しにいったという話が伝えられていたくらいです。「行ったことないけどお話として有名」ということでは、火星とか冥王星みたいな存在だったのでしょう。記録に残っている中で最初に訪日したインド人は、中国経由で来日し、752年の東大寺大仏開眼の導師を努めたバラモン僧・菩提僊那だと言われています。逆に、日本人で最初にインドを訪れたのは、1582年の天正遣欧少年使節団が、インドのゴアに立ち寄ってます。



 第二次大戦のときは、イギリス植民地支配からの独立運動を指導していたチャンドラ・ボースという人がいて、日本軍の支援のもとインド国民軍を組織し、インパール作戦を共に遂行しています。

 チャンドラ・ボースは、ガンジー、ネルーと並ぶインド独立時の英雄の一人です。ガンジー達と同じくケンブリッジで学んだエリートであり、ガンジー達と共に戦い、一時は国民会議派の議長を務めたこともあります。しかし、ガンジーら主流が穏健な非暴力主義を標榜するに対し、熱血ボースは急進的な行動を主張、結局国民会議派を除名になります。第二次大戦勃発後、ソ連やドイツに協力を仰ぎますが不成功に終わり、日本を拠点に活動していた”もう一人のボース”=ラース・ビハーリー・ボースと合流し、以後日本と協力して独立運動を展開します。、、と書くと威勢は良いのですが、日本軍と協力したというインパール作戦が、過去の太平洋戦争の回でも書きましたが、補給線を無視する日本軍の無能を絵に描いたような愚劣な作戦でした。国内外から満場一致で酷評されている牟田口廉也が指揮官で、牛の背中に荷物を背負わせるマンガのような"ジンギスカン作戦”は当然のごとく失敗、全軍壊滅。こんな作戦行動に付き合わされたチャンドラ・ボースが気の毒にも思えます。

 チャンドラ・ボースは、日本が降伏した直後、単身ソ連に乗り込んで協力を仰ぐべく台湾の空港を飛び立ったところで飛行機事故に遭い、その生涯を閉じます。今でもインドの国会議事堂には、ガンジー、ネルーと並んでチャンドラ・ボースの肖像が掲げられて、国民から敬愛されています。

 ちなみに、もう一人のボースである、ビハーリー・ボースは、日本を愛し、日本人女性と結婚し、帰化し、日本にいながら独立運動を続けた人です。当初彼をかくまったのが相馬愛蔵という実業家で、中村屋の創業者であることから、ビハーリー・ボースは「中村屋のボース」とも呼ばれます。本場インドカレーのレシピーを中村屋に教えたことから、日本のカレーの父とも言われています。こちらのボースも、インド独立を見ることなく終戦の年に死去しています。



 このようにインドと日本は戦時中に協力関係にあったことから、インドは親日的です。戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で、インド代表のハル(ラダ・ビノード・パール)判事が、反対意見として日本無罪論を展開したことは有名です。ただ、今調べてみると、ハル判事の日本無罪論は、色々な論者が我田引水しているキライがあります。ある人は日本は悪くなかったという論拠にしたり、ある人は植民地支配や欧米への反発意識によってなされたものだと説いてみたり。よく見てみると、別にハル判事は日本軍の行動を擁護しているわけではないです。南京大虐殺にせよ、バターン死の行進にせよ、その事実と残虐性を認めて非難しています。しかし、法理論(刑罰不遡及の原則)、これを犯罪として裁く法的適格性、また個々人の行為として断罪して良いのかという諸点に疑義を述べると同時に、被告とされた個々人の行為が証拠によって立証されているとは言えないという点も指摘しています。つまり許し難いかもしれないけど、法的に裁く条件が整っておらず、また証拠もないということで、ある意味では普通の法律論だとも思われます。

 ただし、インド代表判事が普通の法律論を普通に吐けたというのは、インド自体が西欧的価値観や政治的意向になびいていたわけではないことを示すものですし、事実独立後のインドは東西冷戦に与しないで非同盟路線を進みます。日本に対してエコヒイキをするわけではないけど、出来るだけ公平に接しようという好意のようなものは感じます。その後、日本が国際社会に復帰したサンフランシスコ平和条約にインドは欠席していますが、そのコメントとしてネール首相は、「日本は謝罪が必要なことなど我々には何一つしていない」といい、「だから講和条約に出席する必要もない」と言ってます。そして翌年単独で日本と平和条約を結んでいます。

 知らなかったのですが、インドでは原爆が落とされた8月6日には毎年国会で黙祷を捧げてくれています。いったいどこの国が、他国の60年前の戦争被害について黙祷なんかするだろうかと考えると、実に希有なことだと思いますし、日本人としては知っておいていいかもしれません。昭和天皇が崩御したときも、3日間の喪に服してくれています。

 日印関係としては、個人的なレベルではありますが、インド国歌の作詞作曲者でノーベル文学賞を受賞している詩人ラビンドラナート・タゴールは日本に深い関心を示して5回も訪日していますし、日本の美術家岡倉天心もインドを訪問、タゴールと交遊関係にありました。

 微笑ましい話題では、戦後、日本の小学生の要望で、ネルー首相は上野動物園にインド象を寄贈しています(49年)。首相の娘インディラ(後に首相)にちなんでインディラと名付けられた象は国民の癒しとなり、83年に老衰で死亡したときは大々的に報じられたそうです(僕はあまり覚えていないけど)。84年には二頭の子象(アーシャーとダヤー)が新たに贈られ、2004年にはまた別の子象(スーリア)が贈られています。

 しかし、総じて言えば、インドからよく思ってもらっているほど、日本はインドに好意を返してないし、またそもそもあんまり理解してないですよね。経済活動でいえば、明治維新後の殖産興業や戦後の復興時には、日本はインドから棉花を輸入し、その後高度成長になると鉄鉱石を多くインドから輸入しています。昨今の世界的なインドブームにおいても、欧米企業の怒濤の進出ラッシュに比べたら、日本企業はおっかなびっくりという感じです。特筆するとしたら、自動車のスズキが現地企業と合弁し気を吐いてますし、ホンダも二輪業界でかなり食い込んでいます。



インドのあれこれ

インドの都市名について

 21世紀になってからインドの都市名が改称されています。ボンベイ→ムンバイ、カルカッタ→コルカタ、マドラス→チェンナイという具合です。これは前に触れたように、ヒンズー教急進派+民族主義的な政党(インド人民党など)が台頭してきて、植民地時代に付けられた地名から、伝統的な地名に戻そうという動きの一環です。

 インドの首都はデリーですが、その昔はニューデリーと表記されていたのに、いつの間にかデリーになってます。しかし、これは改称されたわけではありません。デリーという町は昔からありました。イギリス植民地時代に行政府をカルカッタから移転する際(1911)に、従来のデリー市街地からちょっと離れたところにニューデリーを作ったわけですね。つまり、旧市街地(オールドデリー)と新市街地です。大阪駅と新大阪みたいなものです。その後、どんどん発展し、都市圏が拡大するにつれ、オールドもニューもすっぽり包まれ、ともに都心部を形成するようになり、「ニュー」という区別をする必要がなくなったので、単にデリーと呼ばれるようにな、ったとのことです。


左手は不浄 ケガレの思想

 ケガレの思想は日本の神道にも濃厚に見られますが、インドでも日本以上にあるそうです。思うにアジアのように熱帯・温帯雨林気候=要するに温かくて湿ったエリアでは微生物などの繁殖が活発になることから、衛生はサバイバルの基礎になったのでしょう。そして微生物や雑菌という科学的知識がなかった昔では、経験的に生まれてきた生活スキルが、日々守るべき生活パターン(習俗)になり、次の世代に教え込まれ、その際の理由付けとあいまって宗教的なシキタリに転化していったのでしょう。

 日本では、葬式帰りに塩を振りかけたり、相撲の土俵に塩を撒いたり、あるいはイヤな奴が帰るときに「塩撒け、塩!」とか言いますよね。おそらくは古来から知られていた塩の滅菌作用によるものだと思います。梅干しなど塩漬けにすると長持ちしますもんね。ところで、なんで塩には殺菌防腐作用があるのでしょうか。そのあたりの理解もアヤフヤなので調べてみたら、食品などが”悪く”なるのは、@腐敗菌など微生物の作用、A食品本来が持っている酵素の作用の二つがあるそうですが、塩は、その強い浸透圧作用によって微生物に繁殖に必要な水分を奪い(@)、また食品内部の酵素の働きを抑制するからだそうです(A)。@の効果は砂糖にもあり、だからジャムなどは保存食品になるそうですが、塩に比べて大量に必要とされ、また古来砂糖の方がずっと高価だったことから、殺菌防腐は塩→ケガレを祓う不思議な力がある、とされたのでしょう。

 インドの場合も、そもそもの原点はこのような殺菌などの生活スキルだったのでしょうが、インド的ツイストがかかって離陸していきます。カースト制度です。インドのような熱帯では、猛烈な勢いで菌が繁殖するでしょうが、もっとも危ない(菌が多く、伝染性が強い)局面は、人間の排泄物や分泌物、そして動物の屠殺や死体でしょう(特に伝染病で死亡した場合)。これらに触れたり、マネージすると菌感染のリスクが高い。ここまでは分かるのですが、こういった"不浄"マネージをするのは、往々にして奴隷階級など社会的弱者であり、そこから一定の人間集団そのものがケガレているのだと考えられ、カーストにつながっていきます。

 こういうことって一旦システムになると、何のためにやってるのか初期の目的が忘れられ、別に衛生的に何ら問題がなくても下層カーストであるというだけで不浄とされ、極端な場合は同じ空間に存在することすら禁じられ、最も清浄とされるバラモン階級には○メートル以内には近づいてはいけないというカーストごとの細かなオキテがある地域もあるそうです。また、日常生活においても、使い捨てに出来る素朴な食器が好まれます。排便後の始末をする左手は不浄とされ、食事に使われることはないですし、握手ほか他人に手渡しするようなときも右手を使っておくのが無難でしょう。サウスポーには住みにくい国ですな。

 しかし、こういった”伝統”は時と共に変わりますし、インドにおいても笑うべき迷信として気にしない人達も増えているそうです。まあ、それはそうだと思いますわ。



インド人は若い!

 インド人は若いです。正確に言えば、インドには若者も年寄りもいますが(当たり前ですが)、若い人の比率がやたら多い。国別の人口統計を取った場合、中位年齢という概念があります。平均年齢とはちょっと違うのですが、全ての国民を年齢別に並べて丁度ド真ん中に位置する人の年齢がいくつかということです。まあ、厳密な統計上の概念を無視して、世間的な通念でいえば平均年齢みたいなものです。

 総務省統計局の統計、「世界人口・年齢構成の推移(1950〜2050年)」(データーがエクセル形式でダウンロードできます)によると、インドの中位年齢は、2000年の統計では22.7歳です。すごいですよね、23歳越えたらもう年寄りグループに入ってしまうという。この年齢は出生率や平均寿命の長短によって決まりますから、一般に先進国の方が高いです。2000年統計での世界平均が26.7歳で、先進国は37.3歳、途上国は24.3歳です。

 この統計には10年ごとの予想数値も掲載されており、面白いから他の国と併せて見ていくと、2000年に22.7歳だったインドは2050年には38.6 歳になります。アメリカは、2000年には35.3歳、2050年に41.1歳になります。オーストラリアは、35.4歳→43.4歳でアメリカと似たようなものです。フランスは37.9歳→44.7歳、イギリスもフランスとほぼ同数値。ドイツがちょっと年寄りで39.9歳→49.4歳です。注目の中国ですが、これが意外と老けていて、2000年で30.0歳、2050年は45.0歳です。将来的にはアメリカよりも老人国家になっちゃいます。

 さて、日本はどうかというと、2000年時点で既に41.5歳と40の大台を超えており、2050年にはなんと57.0歳になります。人口の半分近くが還暦以上という。でも、日本だって昔は若かったのです。1950年の日本は22.2歳でした。今のインドと同じくらいです。50年で倍くらいの年寄り国家になってしまったわけです。単純比較は出来ないものの、社会的ポジションが年功的に決まるとしたら、昔の22歳は今の41歳の地位と人間的成熟力を期待されたわけです。逆に言えば今では40歳になっても、昔の20代前半程度の地位しか与えられず、またその程度の成熟力でも良いかのようになっているということです。何となく頷けるものがあります。今の日本の40歳はコドモだもんね。

 国が発展する場合、やっぱりパワーのある若い衆が必要です。これはもう村祭り一つやるにしても、力仕事をバリバリこなす若い衆がいてくれないことには、盆踊りのヤグラひとつ組めません。昔の日本はこの若い衆が沢山おって、彼らが(僕もだけど)バリバリ働いた。また、国が急成長で伸びてるから、多少の景気の振幅はあれども仕事なんか幾らでもあった。インドが、今このポジションにあるということですね。もちろんインドにはカーストなどの古いクビキもあるし、識字率など教育格差の問題などもあり、若いからといって全員が優秀なビジネスマンになるわけではないです。

 しかしねー、そんなこと言ったら、戦後の日本だって荒れてましたよ。知ってる人は知っているでしょうが、日本の犯罪(凶悪犯)というのは終戦後のドタバタの頃にピークに達し、以後総じて減少しつづけています。例えば、横須賀市市役所が綺麗な表を作ってくれてますが、これによると殺人事件は昭和25(1950)年から10年ほど全国で年間3000件前後の水準にあったのが、平成19年には1200件にまで減ってます(平成19年は戦後最低記録達成)。暴行、傷害などの粗暴犯も昭和35年(1960年)の16万件をピークに平成19年は7万3000件と半減してます。しかし新聞の報道やよく見かける表では何やら一貫して増えているような印象がありますが、これは一つには窃盗犯が増えたこと、もう一つはクルマ社会になったので交通事故系の犯罪(業務上過失致死傷)が増えたので全体の数が上がってることによります。窃盗ですが、戦後しばらくは年間100万件以下だったのが、平成14年に237万件でピークに達してます。まあ、終戦直後は泥棒程度でイチイチ警察が介入せず統計数値に表れてない可能性もありますが、今から5-6年前というのは窃盗のピークだったのは間違いないです。しかしその後減少し、平成19年は142万件まで減少しています。覚醒剤も昭和29年の5万件台というのが突出して高いです(平成以降は1万件台)。というわけで、昔の「若かりし日本」は、それなりに荒れていたってことです。

 年齢の話に戻りますが、インドが若いというのもショックでしたけど、日本がここまで老人国家だったというのは、それ以上にショックでもあり、「なるほどね」と思う部分もあります。中位年齢というのは、その国や社会の雰囲気をも現すと思うのですよ。戦後の中位年齢20代前半だった日本は、20代前半の若いメンタリティに満ちた社会が動いていたのでしょう。パワーと反権力、理想主義、ビンボーでも気にしない、、というのは、60年代70年代の日本の特徴とも言えます。しかし、中位年齢が30歳の大台を超える80年代以降は、30代のメンタリティになります。フォーク→ニューミュージック→Jポップと続くように、理想主義的なところは後退し、リッチで高品質なものを求め、しかし生活にはまだ疲れていないという、まさに30代のメンタリティで進んできたようにも思えます。金ピカバブルに至りますしね。日本の中位年齢が40代に入る90年代後半、「失われた10年」とか言われている頃から、40代的なメンタリティになるのでしょう。燃えるような希望も理想もすっかり影を潜め、「ま、人生、こんなもんでしょ」という妙に疲れて老成し、何事にも保守的になってる、、、という雰囲気になってませんかね?しかし、じゃあ、これが57歳とかになったらどうなるんだ?と考えたらゾッとします。僕もワーホリさんなど若い人を相手に仕事してますけど、年々若い人が”若く”なくなってるような気がします。いや、本当はちゃんと若いのだけど、良きにつけ悪しきにつけその若さを十分に発揮させてもらってないというか。僕の方がよっぽど青臭かったりします。これ、ちょっと可哀想だし、国益にかなってないんじゃないかって気もするのです。ま、この話はまた別の機会に。


インド映画 ボリウッド

 日本でも98年に「ムッティ〜踊るマハラジャ」がヒットされて注目されているインド映画ですが、実はムチャクチャな映画大国だったのですね。2003年の877本の長編、1177本の短編映画が公開され、制作本数、観客動員数ともども世界一です。人口が多いから数が多いのはある程度は当たり前なんだろうけど、それにしても相当の映画好きな国だと思います。植民地時代の1913年に既にサイレント映画が作られ、中心地ボンベイ(今はムンバイ)は、ハリウッドを文字ってボリウッドと呼ばれています。

 インドは多言語多民族の国なので、各言語ごとにそれぞれ独自の映画が制作され、ボリウッドなどのヒンディー語映画、南インドのタミル語映画、テルグ語、カナンダ語、マラヤラム語映画などがあるそうです。ミュージカルなど多くの要素を詰め込んだボリウッド系映画は、アジア諸国にも人気があり、大きな輸出産業になってます。日本でもマサラムービーといって、既に一つのジャンルになってるようです。

 ところで「踊るマハラジャ」について突っ込んだ論評をしているサイトがあり、非常に参考になりました。 北インドと南インドとではカルチャーが違うのですが、「踊るマハラジャ」は南インドのタミル語映画です。北インドは、イスラム、ヒンドゥー文化が濃厚でいかにもインドって感じに思うのですが、本来の原始的で伝統的な”原インド”はむしろ南インドにあると。北インドの宗教色は、アーリア人のバラモン教とかイスラム教などの外来文化であり、ややもすると妙に論理的で、説教臭いところもあるそうです。そこへいくと南インドはもっと原始宗教的なワイルドさが残っている。「踊るマハラジャ」が日本でヒットしたのも、映画そのものの秀逸さもあるけど、スコーンと爽快に突き抜けた馬鹿っぽさ、原始田園社会における祭礼的ハレ的な楽しさが満開だったから、日本人の原始的な記憶に共鳴したのではないかと。

 だから、「踊るマハラジャ」以降、次々に紹介されたマサラムービーが今ひとつ大ヒットにならなかったのも、その殆どが北インドのヒンディー語映画だったからではないか。「踊るマハラジャ」がヒットしたのは、それがインド映画だからでもなく、インド的エキゾチックさがあったからでもなく、妙な懐かしさを伴いながら僕らの原始の記憶を呼び起こすような、南インド特有のコテコテの土着性があったからではないかというものです。以下考察が続くのですが、インドとは、映画とはと色々考えられていて面白かったです。



アーユルヴェーダとヨガ

 日本でもインド美容やセラピーとして有名になっているアーユルヴェーダですが、インド古来の健康法、医学をもとにしています。もともと「ヴェーダ」は、インドにやってきたアーリア人が数百年かかって編纂した知的体系であり、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダがあります。前三者は神への賛歌や祭祀を記したもので、バイブルやコーランのような絶対的な権威があるのに対し、最後のアタルヴァ・ヴェーダは、吉祥呪詛という陰陽師系のものです。もっと日常生活に即して実用的なわけですね。

 このアタルヴァの体系のうち、医学や人体に関する部分をアーユル・ヴェーダといいます。中国と同じような東洋医学であり、人体の成り立ちを3要素(空風、火、水地)に分け、各自の特性に応じたバランス調整をするという考え方のようです。中国の陰陽五行説に似てます。単に人体のメカニズムだけではなく、この宇宙の構造や運行原理と関連させて理解するので、占星術や哲学としての側面も濃厚に持ってます。この点でも中国に似てます。というか、近代科学というメソッドや表現方法を使わずに人間が森羅万象を理解しようとすると、こういう感じの理解になっていくのでしょう。


 健康法やフィットネスとして日本にすっかり定着したヨガですが、もともとはインドの解脱のための修行法の一つです。もっぱら瞑想など静的なもの(ラージャ・ヨーガ)、12-3世紀に身体を動かす動的なハタ・ヨーガが登場し、現在世界で流行っているヨガの原型になります。日本でも9世紀に空海が密教行法として持ち帰り、禅宗の座禅にもつながっていきます。もともとの意味で言えば、日本の座禅が一番本来のヨガに近いのでしょう。

 ヨガは修行法ですから、瞑想したり身体を動かしたりするだけではなく、例えば積極的に無償奉仕を行うカルマヨーガ、高度な論理思考を突き詰めていくギャーナ・ヨーガなど無数に種類はあるようです。こういったヨガを、一旦西欧人の価値観のフィルターを通し、解剖生理学などの見地から整理し、さらに素人向けに体系化・マニュアル化+マーケティングに非常に長けているアメリカを通して、全世界に配信されているような感じだと思います。

 アーユルヴェーダにせよヨガにせよ、中国医療や漢方治療が西洋医学かそれ以上の奥行きと厳しいスキル養成を必要とするように、本来の形では、途方もなく奥が深いのでしょう。もともと思索する才能に恵まれている人達が、バラモンなど特権的地位にも恵まれ、朝から晩まで一生考え続け、それが何十代何百代にも続いてきているのですから、僕ら凡才がちょっとやそっとで理解できるものでもないでしょう。西欧科学的に言えば、理論物理学から、血液病理学、流体工学、言語学、哲学、民俗学、、、およそ”学”がつくものを全部習得しろといってるくらいのヴォリュームと奥行きがあるのではなかろうかと思われます。


インド料理

 インド料理も北と南に分かれるようです。これも中国に似ていて、北は寒冷地が多いから小麦系、南は温暖だからお米系です。日本に伝わっているインド文化というのは概ね北インド文化が多く、料理もナン(小麦)やタンドリーチキンなどの北インド料理が多いのです。タンドリーやシークカバブの味付けは、トルコから中東にかけての肉のスパイス味付けと通じており、イスラム教と一緒に入ってきたんだろうなーと思わせます。ヨーグルトやバターも多く用いられます。北インド料理は、ムガール帝国の宮廷料理の遺産もあり、盛りつけも豪華なものが多く、世界のレストランでも多く採用されています。針のように細長いインド米=バスマーティ種も北インド。 

 南インドは、東南アジアのように米がメインで、また牛乳よりもココナッツミルクが主体になります。スパイスはクミンよりもマスタード種やカレーリーフを、油もバターよりはマスタードオイルなどを多用。米は日本米のように丸いようです。菜食主義者が多いので、野菜料理や魚料理のバラエティが豊富で、あっさりしていてヘルシーということ、また最近は南インド系のIT技術者の世界進出とあいまって、ドーサ(米粉で作る)などの南インド料理も人気が出ているようですね。

 菜食主義といえば、上級カーストの人々、あるいはジャイナ教は肉食をしません。仏教もシーク教も肉食よりは菜食を奨励する傾向があるので、総じてインド料理における野菜料理は非常に発達しているといっていいでしょう。ただしイスラムや屠殺業をなりわいとするダリット(不可蝕賤民)では食肉の習慣があります。インドのレストランでは菜食主義者の席と非菜食の席が分けられているらしいです。また、ヒンドゥーでは牛が神聖であって食せず、イスラムでは豚を食べないため、非菜食といっても結局鶏とか山羊、魚になるようです。

 また、インドといえばカレーですが、インドには「カレー」と呼ばれる料理はありません。カレーというのは、イギリス人が本国イギリスに紹介するために取り入れた一種のイギリス料理です。それがイギリス経由で世界に広まり、日本に入ったという。だからインド本国においては、カレーというのは外国の食べ物だったりします。面白いですね。シドニーのインド料理屋でも「カレー」といって提供してますが、あれはこちらのレベルに合わせているのでしょう。それとて「カレー」という大雑把な出し方はせず、カレーの部の中に、ヴィンダルーとかローガン・ジャといった個別名で売ってます。カレー、すなわち「スパイスを多用したシチュー状の煮込みor炒め料理」というジャンルで括れば、数千種類に達し、括る意味すらないようです。これは日本における「醤油(味噌)を使った料理」、イタリア料理における「オリーブオイルを使った料理」といってるようなものらしいです。


インドと中国の比較

 細かな数値ではなく、ざっくりしたところを書くと、進境著しい中国ですが、中長期的に見ると伸びるのも早いけど老けるのも早いという側面があります。上で述べた中位年齢もインドの方が中国よりも遙かに若いし、また中国の場合一人っ子政策の関係で人口上昇カーブはグッと落ち、総人口数では早晩インドに追い抜かれます。まあ、人口が多ければ良いというものではないのですけど、少子高齢化で日本みたいに国の勢いが減速するのは中国の方がずっと早いでしょう。

 カントリーリスクというか、国家のアキレス腱のような弱点でいえば、中国はなんといっても共産党一党独裁の政治体制があります。まあ、今やこのくらい資本主義バリバリの国はないってくらいの変な共産主義ですが、しかし安定した民主主義体制ではないです。民主主義というのは、国家の統制が弱いから国がバラバラになりやすいし、政権奪取や選挙を巡って腐敗なども起きやすいです。また政策も二転三転するからモタモタするという面もあります。独裁体制で国を締めて、一気に進めていく方が効率的です。中国の方がインドよりも先に伸びたというのは、このあたりの政治的特殊性にあるのでしょう。中国も国力が豊かになり、中産階級が増えるにつれ、今のような非民主的な政治体制に不満を持つ層が増えていき、政治が不安定になるリスクはあります。民主的に百家争鳴になったときに、それを上手く制御していくというスキルについては、中国はまだまだ未知数です。

 そこへいくとインドは、独立後一貫して民主主義を貫いている途上国では希有な国です。だから政権交代はあるし、政策の一貫性がやや損なわれたりもするのですが、逆に言えば将来的な不安はないということで、そこがインドの強みだと言われています。ただし、インドには隣国パキスタンとの確執、イスラムVSヒンドゥーという確執があり、それが今回のムンバイテロのようにアキレス腱になるでしょう。

 グローバルな展開でいえば、中国・インドそれぞれ華僑、印僑という強力な遊軍がいます。ただし、中国は強力な独自世界=漢字文化圏など=があって壁になりやすいのに対し、インドの場合、イギリス植民地時代が長かったので最初から英語に堪能であり、また西欧的な価値観やシステムに慣れているという汎用性があります。経済的な面で言えば、中国は単純労働の組み立て工場が多いのに対し、インドの場合はITなどに象徴される知識集約型が多いです。単なる下請けではなく、自力で企画・開発する力を持ってます。

 以上の諸点で、インドは中国に劣らないどころか、潜在的には中国を凌ぎうる強さがあると評価する人も多いです。注目されるユエンですね。



 、、ううっ、こうしてトピック毎に書いていっても、追いつきません。前回と今回は、あまりにも範囲が広く、資料が膨大で読むだけで手一杯でなかなか上手くまとまらなかったです。まあ、あんな大国を数回で描けというのが無理難題なのですが。
 まあ、インドもこのくらいにして、そろそろ宿命のライバルパキスタンに行きたいと思います。




過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在


文責:田村




★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ