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今週の1枚(08.09.08)


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  ESSAY 376:キリスト教+西欧史(42)  

第二次世界大戦(2) 太平洋戦争


 写真は、Bradley's Headからみるシティの残照。過去何度か紹介している絶景ポイントですが、昼に行っても夜に行ってもいい感じです。タロンガ動物園へお越しの節は、ちょっとピクニック方々寄り道してください。ココをクリックするとタロンガ動物園からバルモラル海岸あたりまでのウォーキングルートのガイドマップがダウンロードできます(PDFファイルです)。この種のシドニーハーバーの絶景ポイント散歩道を知りたかったら、Sydney Harbour National ParkのサイトのWalking tracksのページを見るといいですよ。これから気候も春爛漫ですし、いかがですか?

 第二次世界大戦の二回目、今度はいよいよ日本の出番です。太平洋戦争編。
 おおまかな経緯は皆さんもご存知だとは思いますが、1941年12月に開戦と同時にハワイの真珠湾とマレー半島を攻撃し、半年ほどは連勝街道を驀進、破竹の勢いで東南アジアから西太平洋エリアを占拠します。しかし、米海軍の進軍ルートの遮断をねらった珊瑚海海戦、オランダ領インドネシアの油田奪取はいずれも所期の目的を達成できず、中盤につなげる押しが不完全のまま、42年6月のミッドウェー開戦で空母4隻を失う大敗北を喫します。これが転機になり、続くガダルカナル攻防戦で破れ、太平洋に散在する日本軍は補給線をズタズタに寸断されて枯死同然に壊滅、連合艦隊は自体もフィリピン沖海戦で事実上壊滅状態になります。ジリジリ北上し硫黄島や沖縄に兵を進める米軍からの日本本土への爆撃が続いた末、最後に広島、長崎に原爆が投下され、45年の8月に終戦に至るというものです。

 太平洋戦争は、比較的”つい最近”の出来事であるだけに、資料も論説も山ほどあります。とても僕ごときが咀嚼できる量ではないし、知れば知るほど不思議になるミステリー的な部分も多いです。それだけに非常に面白いし、教訓として学ぶべき点も多いのですが、わずか一本にエッセイにまとめるとなると、ウンウン呻吟する羽目になりました。まずは、大まかな経過を押さえ、その上で多少の考察を加えてみましょう。

開戦までの経緯

なんでアメリカが出てくるの?

 ちょっと前に書いたように、日露戦争に勝った日本は、どんどん中国大陸に入り込んで満州国を建国し、さらに満州より南の中国領土に攻め入ります。これまでいがみ合っていた蒋介石の国民党と毛沢東の共産党がアンチジャパンで共闘し、各地でゲリラ戦を展開、日中戦争は泥沼化していました。

 それがいきなり真珠湾奇襲という遙か彼方のハワイ島の話になるのですが、「なんで?」って思いませんか。中国でドンパチやってるのに、何でいきなりハワイなの?と。また、そもそもどうして中国と戦争してるの?という謎もあります。これが結構最大のミステリーだったりするわけです。中国大陸へ”進出”なのか”侵略”なのかという字句を巡った論争は覚えてますが、そもそも中国攻めてどうしようと思ったの?何のためにやってるの?誰が決めて、どうするつもりだったの?という基本的な部分がよく分からないのですね。また、日中でモメてるのに、なんでアメリカが出てくるの?と。もうこれだけエッセイ数本分、もっと本格的に調べればライフワークにしてもおかしくないだけの質量があります。が、とりあえずここでは経過を押さえるために、中国領土への進軍は「一部軍部の暴走」「何となくなりゆきで」ということに留めておきますね。

 アメリカと喧嘩するようになったのも複雑な事情や利害の錯綜があるのですが、アメリカの立場から形式的に理屈を言えば、「日本が九ヵ国条約を破ったから」でしょう。覚えてますか、九ヵ国条約?第一次大戦のあとのベルサイユ体制、さらにその後のアメリカがアジア・太平洋地域の国際秩序を築こうと音頭をとって仕切ったワシントン会議(1922)がありますが、そのなかで出てきた条約です。9つの国というのは、アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国です。門戸開放・機会均等・主権尊重の原則をうたったものです。日本は、幣原内閣の協調外交のときに締結しています。もともと、日米においては第一次大戦中(1917)に日本の満洲利権を認める石井・ランシング協定が締結されていますが、この九ヵ国条約で破棄されています。また、9カ国条約と並んで、英米仏日の四カ国条約というのも結ばれ、太平洋における利権の相互尊重を定めています。要するに、中国やアジアエリアに帝国主義侵略をするとしても、抜け駆けしないでフェアにやろうね(機会均等)、やるにしても武力でドドドという粗暴な方法ではなく相手国の主権を認めその上での経済取引というスマートで老獪なやり方でいこうね(主権尊重、門戸開放)ということです。もっと翻訳すれば、西欧列強のアジア方面の利権を現状維持的に相互確認し、新参者の日本に「勝手なことをしてはダメよ」と釘を刺したものです。


日本の精神分裂的言行

 ところがこの九ヵ国条約は日本国内で軍部から弱腰と非難され、非難だけではなく1931年の満州事変以降、軍部がどんどん独走して中国大陸に入っていきます。当然その頃から日本に対しては「条約違反」という国際非難が浴びせられます。そらま、そうでしょうよ。実際非難を受ける度に日本政府は「や、条約は守りまっせ」という遵守声明を繰り返し出しています。1937年の日華事変(日中戦争の始まり)のときでさえ日本政府は「これ以上喧嘩を広げません」という「不拡大方針」を発表しています。が、言ってるそばから日本軍はガンガン戦線を拡大していきます。1937年の日華事変の年には、善後策を協議するためにブリュッセルで九カ国会議がまた開かれたのですが、結局日本はこの会議に出席しません。翌年には近衛内閣の「国民党政府を相手にせず」という言わずもがなの挑発的な宣言を出し(あとで近衛首相個人は後悔したらしいが)、ワシントン体制は崩壊します。

 「もうやりません」と言ってるそばから殴り続けるかのような日本の不可解な行動は、ワシントン体制を仕切っているアメリカを不愉快にさせます。というよりも当惑させたのかもしれませんね。「なんだこの国は?言ってることとやってることが全然違うじゃないか」と。もちろん弱肉強食の帝国主義外国においては嘘も二枚舌も何でもアリなのですが、イギリスなどの二枚舌と違って、日本の場合は精神分裂的、二重人格的で「なんか変だぞ」と思ったでしょう。実際、当時の日本には国家意思の統一が出来ない状況にあったと思われます。政府や軍部の首脳陣は、落し所を考えずイケイケで中国を攻めていっても破綻するだけとわかってたし、かなりブレーキをかけようとしたらしいです。でも現場の軍部は言うこと聞かないし、阿呆なマスコミが勝った勝ったと騒ぎ立てるから国民も熱狂して、コントロールできない状況にあった。だから、二重人格と思われても仕方のないような態度になっちゃったんでしょう。そして、「なぜ日中戦争をしたの?」という基本的な部分がミステリーになってるというのも、「精神異常者の考えていることはわからない」というのが正解に近いと思います。だからアメリカとしては思ったんじゃないかな、「あかん、こいつはキレてるわ」と。


経済制裁

 このような日本の行動に、アメリカはまず経済制裁を加えます。まあ、国際的には定石でしょう。1939年7月、アメリカは日米通商条約破棄を通告します。それがどうした、たかが経済制裁じゃないかと思うなかれ。この時点で日本は経絡秘孔を深々と突かれて、「お前は、もう死んでいる」状態だったとすら言えます。現在もそうですが、当時も国家を運営するためには膨大なエネルギー資源が必要です。特に石油。また、戦争ともなれば莫大な量の石油が必要です。戦闘機も軍艦もガス欠だったら話にならないもんね。ところが、今も昔も日本には資源がなく、殆どを輸入でまかなっています。そして、石油輸入の7割だか8割をアメリカから輸入していました。また、鉄鉱石や鉄屑なんかも輸入していました。

 当時のアメリカは、第一次大戦でも傷つかず世界一の工業国でしたし、いかに1929年の世界恐慌でのたうち回っていたとしても、その総合的な国力は日本に比べれば20倍もあったと言われます。しかも生命線ともいえる石油を握られている。そんな国に喧嘩を仕掛けても勝てるはずがないです。戦闘力がどうとかいう以前に、アメリカは貿易をストップするだけで日本を日干しに出来ます。ナチスドイツはまだ本国で鉄鉱石が取れたし、ルーマニアに進駐して油田も確保してますけど、日本にはその種の資源はない。本当は満州の地面の下に油田が眠ってたらしいけど、当時は知らなかったから、無いのも同じ。このくらい経済制裁が有効に作用するスチュエーションというのも珍しいくらいです。だから、もう死んだも同然といっても言い過ぎではないと思います。

 ゆえに、日本の政治・外交としては、何が何でもアメリカとの関係改善を図らねばならなかった。しかし言ってることとやってることがバラバラな心身症状態の日本帝国に、有効な外交を切り回すことは出来ませんでした。むしろ話はどんどん逆の方向に流れていきます。アメリカが石油をくれないなら、東南アジアの資源をゲットすればいいじゃないかという南進論が軍部で盛んになります。中国からベトナムを通過し、マレー半島やインドネシアに行こうという考え方です。同時に、日本に対抗している蒋介石軍への英米から支援ルート(援蒋ルート)も同じくエリアにあるからこれを叩こうという話になります。その際、通過点になるベトナムはフランス植民地ですが、ナチスドイツの侵略によりフランスはあっさり占領され、ヒトラーのいいなりのヴィシー政権になってます。フランス敗北に乗じた日本軍は、1940年9月にフランス領インドシナ(仏印)に進軍し、その数日後、日独伊の三国同盟に調印します。


三国同盟とABCD包囲網

 当時の日本の前には二つの道があります。対米協調路線で九カ国状態の頃まで戻り、中国や満州から手をひくこと。しかし、これは軍部や(国民も)絶対に承知しないでしょう。もう一つには、アメリカと対立しながら、独自に東南アジアの石油資源を確保し、さらにナチスドイツなどの枢軸国と連携して世界を二分する対等な勢力になること。結局後者を選ぶことになるのですが、これが非現実的なことは、実は当時の日本政府もわかっていたみたいですね。航続距離の短い戦闘機しか持ってなかった陸軍国ドイツは、伝統の海軍国イギリスにドーバー海峡の制海権・制空権争いでに勝てないだろうと、かなりクールに情勢分析していたらしいです。事実そのとおりになりました。それにナチスが仮に勝ち続けたとしても、太平洋までは援軍を出してくれないだろうし、アメリカを制覇することも出来ないだろう。一方、ナチスとソ連が連携すれば英米に対抗できる一大勢力になりうるのですが、その独ソが戦争を始めてしまったので(41年6月)、その目論見も消えてます。そのソ連と日本は日ソ中立条約まで結んでいます(1941年4月)。じゃあ、いったい何のためにドイツと三国同盟を結んだのか?ようわからんのですね。事実、当時の日本の政府・軍部では、山本五十六、米内光政、岡田啓介、小沢治三郎、鈴木貫太郎、石原莞爾など錚々たるメンツが同盟締結に反対しています。でも締結しちゃったんですよね。締結したのは1940年9月です。破竹の勢いだったナチスがイギリス攻略に手こずり始め、ルーマニアを巡ってソ連と緊張関係に入っていた時期です。まあ、ドイツの快進撃によってアメリカを牽制してほしいことと、日本が東南アジアを攻めるのをドイツに了承してもらうくらいの意味しかなかったと思われます。

 しかし、この三国同盟締結がアメリカの神経を決定的に逆撫でします。もともと、「いや、もう侵略しません、これ以上やりません」と言いながら、ガンガン進軍を続ける日本に不信感と不快感を持ってるアメリカですが、欧州において英仏米の不倶戴天の敵であるナチスと同盟を結ばれたらもう妥協の余地はないでしょう。日本は、和戦両様の構えといえば聞こえはいいけど、事実上精神分裂に近い行動で、一方では南進し、一方ではアメリカとの関係改善の外交努力を続けています。1941年4月からは、駐米大使・野村吉三郎とアメリカ国務長官ハルとの間で交渉に入ってます。が、アメリカはかなり強硬で、中国からの撤兵と三国同盟の脱退を主張して譲りません。アメリカで野村大使が必死に動いているなか、日本軍は41年7月にはさらに仏印南部にまで兵を進めます。これでアメリカの機嫌は悪化の一途をたどります。経済制裁をエスカレートさせ、在米の日本資産を凍結し、ついに8月には石油などの輸出を一切停止します。そして、イギリスやオランダとともにいわゆるABCD包囲網を作ります。A=アメリカ、B=イギリス(ブリテン)、C=中国(チャイナ)、D=オランダ(ダッチ)です。なんでここでオランダとイギリスが出てくるの?といえば、オランダは日本がねらっているインドネシアの石油資源を持ってますから、自国植民地保護のためです。またイギリスは、シンガポールという東南アジア貿易の拠点を持ってますから、ベトナムの南端という目と鼻の先まで出てこられたら心穏やかではないです。ここにいたって完全に資源国から孤立し、石油も入ってこない日本としては、同じ戦うなら石油備蓄が尽きないうちに始めた方が有利だということで、日米開戦を決意します。それでも最後の望みを託し(昭和天皇も開戦を避けたいと考えていたらしい)、アメリカと交渉を続けますが、アメリカの強硬路線はついに変わらず、1941年12月1日の御前会議で開戦が決められ、12月8日の真珠湾攻撃になります。

 よくABCD包囲網によって生命線を止められてしまった日本としては開戦以外に生きていく道はなかった、追い込まれたのも同然だという議論があります。たしかに、ABCD包囲網や、それ以降のアメリカの対応は、真面目に交渉しようという姿勢は感じられません。涙ぐましいまでの日本の外交努力に対して冷水を浴びせかけています。ここだけ見てると「アメリカが日本を開戦に追い込んだ」という主張もそれなりに分かる部分もあります。が、遡って九ヵ国条約の頃から考えると、日本というのは条約破りばっかりやってるわけです。右手で握手しながら、左手で殴り続けるようなことを、かれこれ10年以上もやっていれば、誰だって愛想も尽きるでしょうという気もします。さきほど「なんか変だぞ、この国」とアメリカが思ったのでは?と書きましたが、日本の政府(頭)と現場の軍部(手足)は完全にバラバラで、まともに統一的な国家意思を形成出来る国ではなくなってます。太平洋戦争の最大の敗因、最大の愚点はここだと思います。国が国として成立してないという。だからアメリカも、「まともに話をしたかったらゼロリセットしなさい」と強硬な態度にも出たでしょうし、そんなこと出来っこないだろうし、仮にリセットするという合意に達したところで、頭が身体をコントロールできていないのだから無駄だとも思っていたのかもしれません。

 かくして日本は日米開戦の道に進むわけですが、戦場が本拠地に近い分だけ日本は有利です。ABCDといっても、アメリカもイギリスも、ましてやナチスに占領されて亡命しているオランダ政権など本国から遠く離れた現地まで大した戦力を準備できるわけもない。最初の1年ないし2年は、そこそこ日本が勝つだろうという見通しがありました。しかし、それ以上になると国力の体力差がはっきりでてくるのでジリ貧になって負けるに決まってることも、多くの政治家や軍人はわかっていたようです。日露戦争のように初戦で勝ち通して、頃合いを見て和解するというシナリオ以外には無いと。しかし、そんな和解話、どの国が仲介してどこで落とすのかというと誰にも成算がなく、見当もつかなかったようです。したがって、目が見えるクールな人たちにとっては、かなり暗澹たる気分で開戦に臨んだんじゃないでしょうかね。まあ、国際情勢は何が起こるかわからないから、1−2年したらとんでもないラッキーなことが起きるかも知れないよ、くらいの感じ。現実を見ても暗くなるばっかりだったとしたら、ドリーミングするしかないです。夢を見よう、現実逃避をしよう。ということで、非論理的な精神主義、精神主義というよりも端的に精神病と言った方がいいくらいの狂信的な「神州不滅」のスローガンが開戦以降どんどん強くなっていったのでしょう。だいたい無神論者集団の日本人が、神様とか口走りだしたらもうヤバいですよ。苦しいときの神頼み。順調に勝ってたらそんなこと考えないよ。受験生だって不合格になりそうだから天満宮に合格祈願にいくのであり、実際に合格したらすっかり忘れて、お礼参りに行く人なんかマレでしょ。


開戦と日本軍の攻勢

真珠湾攻撃とマレー作戦

 日本の開戦は、ハワイの真珠湾攻撃が有名ですが、ハワイだけポツンと攻撃したのではなく、同日である12月8日にはイギリス領マレー半島への陸軍の上陸作戦も行われています。敵国となるアメリカ海軍を叩くとともに、資源を求めての南進政策の推進です。真珠湾の二日後には、マレー沖開戦でイギリス海軍を破ってます。

 真珠湾といえば、リメンバー・パールハーバーで、宣戦布告もしないで行った卑劣な騙し討ちというイメージがアメリカに強いのですが、これはルーズベルト大統領の国内プロパガンダで、もともと国外に関心の薄いアメリカ市民に戦争協力させようという目論見だろうと思われます。実際には宣戦布告文書のタイプ打ちが1時間遅れたという愚にも付かぬ事務上の理由だったらしいし、実はアメリカは暗号解読して知っていたけど敢えて伏せた陰謀であるとか色々言われていますが、内幕がどうあれ、タッチの差で宣戦布告が遅れたのは事実です。しかし、前回も書いたけど、宣戦布告のない戦争なんか幾らでもあります。ドイツやソ連のポーランド侵攻もそうだし、イギリス領へのマレー上陸作戦はタッチの差どころか事後にも宣戦布告をしていません。それに普通に考えて、宣戦布告なんてする必要ないくらい険悪になってるんだから、不意打ちもクソもないだろうって気もしますな。まあ、アメリカ人にとってショックなのは、初めて自国領が爆撃、それも激しく爆撃されたこと自体でしょう。でもなー、ハワイがアメリカ領だというのも、アメリカが強引に占領して属国化しているだけであり、他人のことを言えたガラかよって気もするし、もっと言えばアメリカという国そのものが満州国みたいに帝国主義的侵略の産物じゃないのか?って気もします。何を言いたいかと言えば、こういう感情的な罵り合いになったら幾らでも言うことはあるということです。土台、今の時点で地球上に存在しているどの国だって叩けばホコリは出ると思います。純粋に穏やかで平和を愛する部族は何千年前かに滅ぼされているハズで、どっかでエグいことやってきたからこそ過酷な生存競争に勝ち抜いているわけで、僕ら全員悪者の子孫ですわ。

 さて、真珠湾攻撃は一見華々しい成功に見えましたし、日本国中大騒ぎだったそうですが、実際には航空母艦が港外に出ていたため艦載機も含めまるで無傷で残っているし、燃料タンクや港湾施設の破壊が不徹底だったので、戦略的にはさしたる効果はなかったと言われます。

 むしろ効果があったのは、真珠湾の二日後に行われたマレー沖海戦です。世界最強と言われていたイギリス海軍に勝っちゃってます。しかも、当時の常識を打ち破って、航空機による爆撃だけで当時最新鋭だったイギリス艦を撃沈しています。イギリス首相のチャーチルが大戦中もっともショックを受けた敗戦だと言っています。また、そーゆーことが可能なのだということで後の戦術に多大な影響を与えています。制空権を握れば制海権も握れるということで、艦隊移動には航空機の護衛がつくとか、ゆえに航空機の発着基地や航空母艦の重要性、艦船の対空火器の充実などが課題になります。むしろキッカケをつくった日本の方がこの点で立ち後れ、後に制空権を握られてジリジリと後退し、最後には米軍航空機によって戦艦大和を沈められてしまっています。

 マレー沖海戦で沈めたのは最新鋭艦といえども二艦だけで、シンガポールやインドを拠点とするイギリス東洋艦隊は以前存在していたのですが、この緒戦での華々しい勝利で、イギリス艦隊をビビらせ、アジア太平洋エリアの日本軍の占領作戦はぐっと有利に展開します。同月(41年12月)中に香港とグアム島などを、翌年正月にはフィリピンのマニアを陥落します。42年2月、日本艦隊はジャワ沖海戦で英米蘭艦隊を撃破、続くスラバヤ沖海戦で圧勝、山下奉文大将率いる日本陸軍は2月15日にイギリスの拠点であったシンガポールを陥落します。山下大将は、当時日本のヒーローであり、「マレーの虎」とたたえられ、シンガポール陥落の時に発した「イエスかノーか」発言は長く記憶に留められています。が、どうも実は悲劇性の強い人で、陸軍内部では統制VS皇道の派閥争いのとばっちりを食い、最後には大本営から無茶苦茶な作戦を押しつけられてフィリピン防衛戦を強いられ、戦後は彼が統治していたシンガポールでの華僑虐殺、そしてマニア市街戦での市民虐殺の責任をおしつけられ、「知らなかったけど、責任はある」と述べて絞首刑になってます。イエスかノーか恫喝的なエピソードも、実は脚色されて一人歩きしたもので、本人は敗軍の将にそんな心ないことを言うつもりはなかったと否定してます(ヘタクソな通訳に向かって問いただしただけ)。

 細かく調べていくと、当時の日本の軍人や政治家には立派な人が結構いるのですね。能力的にも優秀だし、人間的にも優れている人がゴロゴロいる。しかし、彼らはだいたい悲劇的な最後を迎えています。立派であるが故に、一言も弁解せずに処刑されたり、自決したり。むしろ、しょーもない奴ほど上手く立ち回って処刑を逃れている感じがします。これは有名な高官だけではなく、各戦線、各現地における兵士や民間人でも同じことが言えるのでしょう。これは、日本に限らず戦争とか大乱の悲劇であり、優秀な人間ほど早く死ぬ。勇猛だからこそ一番先に突撃して死んでしまい、責任感があるから全ての責任=貧乏くじもひいてしまい、これまた早死にする。ものすごい人的損失だと思います。





 シンガポール陥落と同じ2月にはラバウル島をも攻略しています。広く拠点を築いた日本軍は、いよいよ咽から手が出るほど欲しいインドネシアのオランダ領石油資源を目指し、43年3月のバタビア沖海戦で連合国艦隊をほぼ壊滅させ、同月ジャワ島に上陸、42年3月にはオランダ軍を降伏させています。この頃にはフィリピンをも占領し、マッカーサーは"I shall return"の台詞を残してオーストラリアに逃亡します。また内陸においては陸軍がビルマ作戦を開始してラングーンを占領しています。陸軍に呼応するため海軍はインド洋に出て、イギリス植民地であるスリランカ(当時はセイロン)に爆撃をし、イギリス海軍を遠くアフリカまで追い払っています。

 意外なことに、真珠湾以外にも日本はアメリカ本土を攻撃しています。日本の潜水艦がアメリカ西海岸まで侵攻し、42年2月に沿岸部のサンタバーバラの製油所を、砲撃し製油所の施設を破壊し6月にはオレゴン州の海軍基地を攻撃しています。もっとも、本格的な本土攻撃は計画していなかったため、散発的な攻撃に終わってます。ついでに書くと、42年5月には日本の特殊潜航艇がシドニーに潜入し、オーストラリア海軍の艦船1隻を撃沈していますし、9月には潜水艦搭載偵察機が、オレゴン州を2度空襲しています。アメリカ本土が空襲を受けたのは、911のテロをのぞけばこれが唯一の例です。ちなみに当時のアメリカ政府も大本営みたいに嘘をついてまして、この本土空襲の事実を握りつぶしてます。まあ、どこもやることは一緒なのねという。


世界大戦と日本の占領政策

 真珠湾攻撃の日である12月8日、アメリカは正式に連合国として参戦します。アメリカの連合国、日本の枢軸国の同盟関係により太平洋の喧嘩とヨーロッパの喧嘩がリンクされ、「世界大戦」になります。何を今更という感じですが、翌日、中国(蒋介石の中華民国)は日独伊に宣戦布告。11日には枢軸国であるドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告します。また、中国における日本の傀儡政権である汪兆銘の南京国民政府や満州国も連合国に宣戦布告します。このあたりは国際法上の手続みたいなものですけど、第二次世界大戦って形式上の交戦国というのがやたら多く、枢軸国は日独伊だけかと思ったら占領下傀儡政府がジョイントするから25カ国もあるし、連合国に至ってはもともとの植民地先の国(オーストラリアとか)に加え、終戦間際に勝ち馬に乗る(戦後の国連加入のため)国が続出したので総計50カ国近いです。文字通り世界大戦なのですが、しかし中心になるのは数カ国に過ぎないです。

 これだけ広範なアジアエリアを占領し、またそのエリアの人々が日本と一緒に戦ってくれたら、日本もそう簡単には負けなかったでしょうし、戦後の冷戦構造もずいぶん変わったでしょう。日本も口では大東亜共栄圏と言い、西欧列強による植民地支配からアジア民族の解放するのだという大義を謳っています。占領下各国に傀儡政権を樹立し、43年11月には東京に中華民国(汪兆銘)、満州、タイ、フィリピン、ビルマの首脳を東京に集めて大東亜会議を開いて結束を誇示しようとしています。しかし、それを真に受けているのは一部の無邪気な国民や兵士くらいで、一般には全然説得力がなかったりします。暴走している軍部はもとより、日本政府首脳部もそんなことを真面目に考えてなかったのは、開戦前の日米交渉においてもアジア諸国の民族独立問題なんか全く議題にも上っていないことからも明らかでしょう。また、民族独立といいながら、日本の占領下での政策は日本語教育をはじめとする皇民化教育であり、外国語でチンプンカンプンである筈の教育勅語を読ませたり、君が代歌わせたり、日の丸揚げさせたり、むりやり神社をつくって参拝させたりしてます。お隣の韓国に対してはさらに過酷で、韓国語の使用禁止、韓国名の使用禁止(日本名に強引に変更させる創氏改名、39年)、さらには強制連行も始まります。「日本人と同じに扱おうとしているから、対等な扱いであり、植民地よりマシである」という擁護論もありますし、日本の占領によって各地のインフラが整備されたという点もありますが、これも説得力がないです。

 戦後日本が何かある度に頭を下げさせられているのは、全てここが原因だと思いますね。拙劣極まる占領政策。現場の一般民衆の心を掴むべきで、敵に廻したらダメでしょう。特にカルチャー的な部分というのは非常に感情的要素が大きく、ここを傷つけられたら人は狂ったように反発するでしょう。日本だって戦後に米軍に占領されていますが、米軍が同じことをやったらイヤでしょう。日本語絶対禁止、日本の名前は強引にボブとかに変更させられ、神社や寺は全部壊して教会へ強制参加させられ、適当にピックアップされてアメリカの鉱山で重労働をさせられるとか。まあ戦後アメリカナイズして自発的に英語名前を芸名に使ったりしてる日本だから違和感少ないかもしれないけど、これがインドネシア軍とかイラク軍に制服されて、「お前は今日からムハマンド、毎日アラーの神に礼拝しろ」と言われたらイヤですよ。あなたは違うかもしれないけど、僕はイヤだわ。そんなことさせられるくらいだったら、山にこもって、木の根をかじってゲリラにでもなるわって気分になるでしょう。だから日本の占領政策というのは「どうやったら憎まれるか」の手本みたいことをやってるわけです。

 なんでこんなデリカシーのない、人の心も読めない、コミュニケーション能力ゼロで、場の空気も読まないことをしたのでしょうね?戦略的拠点が欲しいとか、資源が欲しいだけだったら、別に日本語なんか強制しなくたっていいはずだし、それでも喋って欲しかったら、日本語が出来たらとんでもない高給で雇うというシステムにしておけば有能な人は頑張るでしょうよ。なんというか女性部下を使いこなせない無能な男性上司と一脈通じるところがありますな。口では対等とかいいながら、心の底ではどっか馬鹿にしてるだろうという。馬鹿にされている方は敏感に感じるんですよね。一番肝心なところ、他人に対して人間としてのレスペクトが欠けている。そんな道義的・人間的なレベルではなく、占領政策という実務バリバリの有能無能でいっても、ものすごく無能だと思う。僕が社長で、こんなことする現場の支店長がいたら即刻クビにしますわ。戦後GHQのマッカーサーも、僕は人間的にも軍人的にも二流だと思うけど(太平洋戦争における米軍だったら誰が司令官でも勝てたと思うし)、彼でもそこまで無能ではなかった。この信じられない無能さが、日本の戦争遂行の大きな特徴になっていますし、今後の課題として今なお語られるべき部分だと思います。

転機から敗戦へ

ミッドウェー海戦

 日本軍が順調だったのは開戦半年くらいであり、その後はジリ貧になっていきます。転機になったのは1942年6月のミッドウェー海戦です。しかし、その前に、すでに日本軍の勢いは徐々にそがれていました。フィリピン基地を陥されたアメリカ軍はオーストラリアに拠点を構えるのですが、日本軍はオーストラリアとアメリカの補給線を遮断して孤立化させる作戦を立て、そうはさせじとする連合国軍との間で、ソロモン諸島とパプア・ニューギニアを舞台に戦闘が起きます。ソロモン諸島近海の珊瑚海=要するにグレートバリアリーフの北の方では、珊瑚海海戦が行われ、史上初めての空母対空母の戦いになります。結果はどちらも空母を失い痛み分けで、まだ太平洋に艦隊を充実させていない米軍の方がダメージは大きいけど、海路によるニューギニアのポートモレスビー攻略を諦めた日本は戦略的ダメージが大きかったです。その後、陸路でのポートモレスビー攻略をしますが、険しい山脈越えで補給が続かず、これも失敗します。



 そして6月、転機となるミッドウェー海戦が行われます。
 この戦争の特徴は、戦場が太平洋という恐ろしく広範囲であることです。この広い太平洋の制空権を得た方が勝つわけですが、そのためには洋上に散在する細かな島々の基地を奪取するとともに、チョコマカ動き回る敵空母を撃滅する必要があります。真珠湾攻撃で討ち漏らした米軍空母から発進した米軍機は、早くも42年4月には日本本土を空襲しています(ドーリットル空襲)。東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸という少なからぬ日本の都市が初めて空襲を受け、日本国民にショックを与えます。また、早いこと派手に米軍を叩いて早期講話に持ち込みたい一派としても、太平洋上の米空母を撃滅すべしとかねてから思ってました。しかし、どこにいるのか分からない。レーダーも当時開発されていましたが、まだまだ性能が低く、太平洋上を全て網羅することなど到底不可能です。そのため日米両陣営は、相手がどこにいてどう出てくるか、あーでもないと考えを巡らすことになります。

 ミッドウェー作戦は、アメリカの重要な戦略拠点であるミッドウェー島を攻撃することで米空母を誘い出し、そのうえで撃滅しようという作戦でした。南雲中将率いる日本の錚々たる空母艦隊は艦載機群をミッドウェー島爆撃のための第一次攻撃隊、出てきた空母を攻撃するための第二次攻撃隊の二つにわけ、まず第一次攻撃隊がミッドウェー島爆撃をします。しかし、必死になって日本の情報収集と暗号解読に励んでいた米軍は、日本の作戦をすでに察知していて待ち伏せしていました。もうこの時点で勝負ありって感じですが、予期されてるだけに基地の航空機はあらかじめ避難されており、第一次攻撃隊によっては十分な戦果があがりませんでした。そこで第二次攻撃隊にも基地爆撃をさせる必要が生じました。

 ここで知っておくべきは、地上爆撃と海上(敵艦)爆撃とでは爆弾が違うということです。慌てて空母で爆弾の付け替えをやってる間に、日本軍の索敵機から米軍空母発見の連絡が入ります。そこで爆弾を再度交換させるという混乱が起きます。間の悪いことに第一攻撃隊が戻ってきていて、燃料切れで失速寸前の機もあり、これらを回収しなければなりません。空母上は大騒ぎになり、しかも引越現場のようにそこらへんに爆弾がゴロゴロ転がっているという危険極まりない状況になっていたところに、空母から発艦してきた米戦闘機の集中爆撃を浴びてしまいます。米空母二艦からそれぞれ爆撃機と雷撃(機の二部隊(合計4部隊)がやってきたのですが、最初の雷撃機隊2隊は日本の護衛機や艦砲射撃によって殆ど防げます。やれやれと思ったところで、爆撃機2隊がたまたま同時に天からから降るように襲いかかってきました。敵の攻撃時間が違うのは、実際に空を飛んでいても場所の確信があって飛んでいるのではなく、飛びながら敵を探しているからです。だから爆撃機がたまたま同時に日本艦隊を発見し、またそれが雷撃機攻撃が終わって一息ついていた時期というのは悪魔的なタイミングだと言えます。雷撃機というのは魚雷を撃つから海面すれすれの低空を飛び、これを迎え撃つ飛行機も低空におり、艦砲射撃も水平射撃の状態です。しかし、爆撃機は急降下爆撃をするので真上から襲ってきます。だから雷撃機への防戦が済んだところというのは、防衛力ゼロに近いです。もうマトモに食らってしまった。あっという間に日本空母加賀、蒼龍、赤城が被弾炎上、自軍の爆弾が誘爆し、いずれも沈没。距離をおいていた飛龍だけ難を逃れ、艦載機が発進し、帰投する米爆撃機を追跡し、米空母ヨークタウンを爆撃します。が、後日、この飛龍も奇襲を受けて沈没します。

 ともあれミッドウェー海戦は、米空母を殲滅に出かけていって、逆に自軍の虎の子の空母4隻を失うという大失敗に終わります。空母や艦載機という物的損害だけではなく、ベテランパイロットも多数失うという人的損害もまた大きかったです。これが後々の戦略遂行に大きな影響を与えることになります。日本の空母はわずか2隻に減じ、大急ぎで大増産しますが、ここでアメリカと国力20倍という差がつき、終戦までにアメリカは空母20隻を近くを擁する大艦隊を作ってしまいます。あまりの大敗北に軍部としてもこれを正直に国民に伝えることが出来ず、これが大本営発表の嘘のつき始めになります。天皇にまで嘘をついてたらしいです。


ソロモン海戦とガダルカナル島攻防戦

 日米の空母戦力が拮抗したため、米軍は予想よりもはるかに早く反転攻勢に出ます。2か月後の42年8月には、ソロモン諸島の中の一つガダルカナル島に上陸して占領してしまいます。以後、ガダルカナル島において日米の死力を尽くした奪回戦が始まります(ガダルカナル島の戦い)。

 一方、ソロモン海戦は第一次から第四次まである連続シリーズのような海戦ですが、第一次では日本海軍が圧勝します。しかし、アメリカの輸送船を逃がしたため、ガダルカナル島への支援にはつながらなかったと言われます。第二次海戦では日本軍がまたしても空母一隻を失い、次の南太平洋海戦ではアメリカの空母2隻を大破させます。この時点で、日本の保有空母はまだ5隻あり、アメリカの稼働可能空母は一時的にゼロという圧倒的に優勢に立ちます。しかし、これまでに熟練戦闘員を失い、補給線も伸びきってしまった日本軍はダメ押しを与えることも出来ず、また空母惜しさに消極的に出たこともあり、第三次海戦では逆に米軍に敗北してしまいます。アメリカは潜水艦による輸送船攻撃を行い、後でも述べますがもともと弱体な日本の補給線はズタズタにされ、ガダルカナルでは日本兵士の餓死者が続出するという地獄のような状況になります。年が改まって1943年正月、ソロモン諸島のレンネル島沖海戦で一定の戦果を挙げたものの、ガダルカナル島の奪回はほとんど不可能な情勢にまで追い詰められ、ついに2月に日本軍はガダルカナル島から撤退します。長期戦になったら、体力に勝るアメリカが絶対有利であり、そのとおりの展開になっていっているということです。

アッツ島玉砕、マッカーサーの飛び石作戦

 ガダルカナル島撤退から2か月後である43年4月には連合艦隊司令長官山本五十六大将が、米軍機の待ち伏せを受け、撃墜されて戦死。5月には、戦場は一気に北のアリューシャン列島(アラスカと樺太を結ぶ太平洋の北端あたりの海域)のアッツ島を米軍が占拠し、日本軍は全滅します(アッツ島の戦い)。全滅する前に撤退するなり、投降して捕虜になり後方攪乱を狙うのが戦争の定法ですが、それを許さぬあたりに新興宗教ばりの日本軍部の考え方が出ています。生きて虜囚の辱めを受けずってやつです。これでどれだけの日本人が死ななければならなかったか。また、アッツ島全滅から、大本営は「玉砕」という美化した言葉を使い始めます。

 圧倒的な国力で体勢を立て直した米軍は43年後半になると徐々に攻勢を強めます。また、ヨーロッパ戦線もドイツの敗勢が確定した時点で余裕が出たため、英米軍が余力を太平洋に振り向けることも出来るようになります。オーストラリア軍とともに激しいバトルを展開していたニューギニア島では、8月以降日本軍が押されるようになります。マッカーサーは、日本軍が重装備を施している島を避けて、且つ重要拠点を占拠し、一気に日本本土への攻撃ルートを築く「飛び石作戦」を立案し、11月には南太平洋のマキン島とタラワ島を攻略します。ここでも日本守備隊は全滅。

インパール作戦

 一方、南進を続けビルマを占拠した日本軍は、植民地の本家であるインドを根城とするイギリス軍と陸戦を続けていました。1944年3月インパール作戦と呼ばれる大規模な攻撃作戦を実施しますが、ここでもまた補給線がネックになって数万人もおよぶ餓死者を出して大敗北を喫します。また、これによって、これまでアンチ英国で共闘していたビルマのアウン・サン将軍もイギリス軍に寝返ってしまいまい、日本はビルマから撤退せざるを得なくなります。

 43年5月頃に、中国における日本軍の大規模な作戦(大陸打通作戦)が行われ、それなりに成功を収めますが、そこで力尽きてしまい、6月からは中国の成都を基地とした米軍のB-29機が北九州に爆撃を開始します。いよいよ王手をかけられてきた日本は、本土防衛という防衛戦を強いられ、絶対に死守すべき拠点を設けて絶対国防圏を立案します。

アリアナ沖海戦〜サイパン陥落

 しかしそれも「言ってみただけ」のようなもので、6月にはマリアナ沖海戦で惨敗します。マリアナ諸島というのはフィリピンの西、日本の真下あたりの海域で、ここに日本軍はもてる力を振り絞ってなんと新造艦を含む空母9隻を動かしてました。対するアメリカはというと、なんと空母15隻、また護衛艦の数も日本の倍という国力差を如実に示す陣容でした。この海戦で日本軍は新たに空母を3隻、さらに貴重なベテラン戦闘員を多数失います。ただ、戦艦部門はまだ無傷であったため、以後は時代後れでありつつも戦艦中心の布陣を余儀なくされます。

 あり余る物量による制海権、制空権を握ったアメリカは、サイパン、グアムと次々に上陸していきます。7月のサイパン島の戦いでは3万人の日本兵が玉砕します。これら占領した島々に米軍はB-29の離発着が出来る滑走路を敷設し、44年暮れからはB-29による本土爆撃が本格化していきます。

レイテ沖海戦〜硫黄島〜沖縄〜本土爆撃、そして終戦

 この時点でもう完全に勝負あったわけで、ここで降伏しておけば、硫黄島も、沖縄の悲劇も、長崎広島もなかったわけですが、日本はまだまだ悲壮に頑張ってしまいます。もっとも、日本政府内部にいては東条英機首相に対する反発も高まっており、いっときは暗殺計画すらあったとすら言いますが、サイパン陥落によって東条首相は引責辞任します。後をついだ米内内閣が降伏するかというと、やっぱり頑張ってしまうのですね。しかし、頑張りたくても、そもそも大量生産設備が整っておらず、資源のない悲しさのうえ補給線の管理の下手くそさで燃料すら欠乏します。そのため、日本国民の生活は困窮の一途をたどり、鍋釜など金属類は供出され、松ヤニを集めて精製するという涙ぐましくも愚かしい努力を強いられることになります。

 もはや余裕の米軍は、かつて追い払われたフィリピン奪回に進みます。フィリピンのレイテ島海戦で日本海軍は、最後の総力戦を挑んでますが、空母4隻、戦艦3隻など多大な被害をこうむり、日本海軍はこの時点で事実上消滅したと言ってもいいです(1944年10月)。なお、絶望的な神風特攻隊が組織されたのもこのレイテ海戦からです。ほどなくしてフィリピン(の首都マニラ)も奪回されます(45年2月)。

 1945年になると、もう完全に日本軍は死に体になり、2月のマニラ陥落のあと、3月には硫黄島を、4月には沖縄での上陸戦が始まり、沖縄占領完了は6月です。有名な戦艦大和が撃沈されたのもこの頃で、沖縄戦への支援のために向かう途中、火だるまになって撃沈されています。前年の暮れから本土爆撃が盛んになりますが、45年3月以後は硫黄島や沖縄を基地として連日のような空襲が続き、3月10日の東京大空襲をはじめとして、仙台、横浜、大阪、名古屋、福岡、富山、徳島、熊本などなど日本中の主要都市が手厚く爆撃されることになります。

 なお、3月10日の東京大空襲がもっとも大規模で有名ですが、東京が空襲を受けたのは全部で106回もあるそうです。106回も首都の空襲を受けながら、それでもまだ勝つと本気で思ってた人がどれだけいたのでしょうか?誰が考えたってぼろ負けなのですが、それを口に出せない「場の空気」が日本を支配しています。この「場の空気病」ともいうべきものが、日本人の宿題というか、これを直さない限り絶対どっかで破綻する、致命的な先天性疾患のようなものでしょう。なぜなら、あからさまに失敗していても地獄に堕ちるまでそれを修正できないのだとしたら、一旦出血したら死ぬまで血が止まらない血友病とか、免疫機能を破壊されて防衛力がゼロになるエイズのようなものだからです。

 以下、7月26日連合国のポツダム会談による降伏勧告、無視した日本に8月6日広島、9日長崎に原爆投下、その間の8月8日にソ連が参戦という状況の中、8月15日無条件降伏をし、日本は敗戦します。

ソ連の参戦、満州の崩壊、シベリア抑留

 ちなみに土壇場でのソ連侵攻ですが、8月8日の宣戦布告により満州並びに南樺太など侵攻、日ソ不可侵条約をアテにしていた政府は守備隊である関東軍に十分な兵力を持たせておらず、ろくすっぽ組織的な抵抗も出来ないまま総崩れとなります。日本軍兵士や日本人開拓民・居留民の運命は悲惨でした。やっとの思いで引き揚げ船で帰国できた者はまだラッキーな方で、飢餓と寒さに衰弱して死亡したり、生き別れになった家族がいわゆる中国残留孤児になります。それまでの日本軍の支配に恨み骨髄だった現地の人々、あるいは押し寄せるソ連軍や中国軍に捕まり、強姦、拉致、抑留、虐殺、集団自決の地獄図が展開されます。また約65万人がソ連軍に捕らえられ、シベリアに抑留されます。強制労働その他によって命を失った6万人とも25万人、あるいはそれ以上とも言われています。大陸に出かけた人々が引き揚げてくる舞鶴港で毎日毎日子供の姿を探し求める母の姿をマスコミが取り上げ、大ヒットとなった流行歌や映画になった「岸壁の母」にはこのような背景事情があります。

 戦後の国際体制において少しでも領土を増やしておきたいソ連は、8月15日の終戦を無視して8月末まで侵略を続け、いわゆる北方領土を占拠し、引き揚げ船を撃沈したりしています。このように、最後の土壇場で裏切って火事場泥棒のようなことをして居座り、多くの日本人を連れ去ったことで、日本人のソ連に対する反感は根強く残ります。ちなみに、英米軍の捕虜となった日本人には労働証明を発行してもらい、その分の賃金を日本政府は払っていますが、シベリア抑留の場合にはソ連が労働証明を発行しなかったので補償はされなかったそうです。1992年にやっとソ連が発行したあとも、日本政府は支払いを拒否し現在に至っています。

太平洋戦争とはなんだったのか

「一部軍部の暴走」とはなにか

 冒頭にも書いたように太平洋戦争に関する資料はたくさんあり、今なお議論があり、多くの未解決の問題が残っています。それらについて概観しているだけでホームページが一つ出来てしまうくらいの分量があるのですが、最も気になるのは、なんでこんな戦争をしたのか?なんでもっと上手にやれなかったのか?という部分です。以前にも触れたように「一部軍部の暴走」ということになってますが、「一部軍部」って何よ?具体的には誰と誰よ?ということです。数百万人の国内外の人々を殺しまくった挙句の総括が、「場の空気に支配されて、なんとなくそーゆーことになってしまいました」では余りにも情けないというものです。戦争はまだいい、負けるのもまだいい、よかあないけど人類史は戦争史と言ってもいいくらいだから有史以来年がら年中やってます。しかし、一番最近の出来事でありながら、なんでそうなったのか分からない、だから「一億総懺悔」では死んでいった人に申し訳ないような気もします。

 もっともそう思うのは僕だけではなく、終戦当時あるいは戦時中から「あいつのせいだ」と名指しで批判されていた「戦犯」はいます。筆頭にあがるのが東条英機で、開戦時の首相であったというだけではなく、日本陸軍や戦時中の日本を劣化させた張本人のように罵倒されることの多い人です。まあ、本当のところは分からないですが、いわゆる絵に描いたような豪傑系極悪人ではなく、同僚として周囲にいたら馬鹿にしたくなるような、上司にもったら堪らないような、几帳面でそれなりに有能ではあるが器の小さな人物であったようです。当時から嫌う人が多く、いかにも官僚的で硬直して視野が狭い発想、やたら手続、形式、見栄だけを重んじ、嫉妬深く、地位を利用して気にくわない人間を弾圧し、憲兵を私兵のようにして日本社会を恐怖の警察国家に持ち込んだ、、などなど人の上に立つべき人物ではない、狭量な人間独特のネズミ男的な狡猾さに対する反発ですね。

 実際、この種のエピソードには事欠かず、1944年2月毎日新聞で「竹槍では勝てない」と正論を書いた硬骨の新聞記者新名丈夫記者に対して、37歳の高齢にもかかわず二等兵として招集し、硫黄島に送ろうとしています。これが一国の首相、陸軍大臣のやることか?と思いますが、本当にそうしています。これに対しては、かねてから東條を快く思っていなかった海軍が新名記者を知っていたこともあって、「こんな老兵を一人だけ招集するのはおかしい」と助け船を出します。しかし陸軍も意地クソになってるように、「だったら老兵を沢山取ればいいんだろうが」と250人の老兵を招集します。新名自身はことの経緯と海軍の庇護により3か月で除隊し、難を逃れますが、かわいそうなのは辻褄合わせに招集され、本当に硫黄島に送られ玉砕されてしまった250名の人たちです。44年といえば、日本の敗色が濃厚になり、首相としては何らかの外交的解決を模索していても良さそうなものなのに、新聞記事ひとつにこの私情バリバリの報復をやってるわけです。そりゃ嫌われるでしょう。他にも東條の逆鱗に触れて、南方の戦線に送られ殺された人は多数います。なんせ逆らったら何が何でも招集され、殺されるのですからたまったものではないです。



 この東條の腹心である鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄がまた「三奸四愚」と呼ばれて酷評されています。さらに牟田口廉也、富永恭次も強い批判を受けていますね。牟田口に関していえば、誰も「いや実はいい人なんだ」と言ってくれない、国内外から満場一致で酷評されているある意味分かりやすくも可哀想な人です。しかしそう言われても仕方ないくらいで、盧溝橋事件で独断で開戦を許可し泥沼の日中戦争を開始させ、事後の会合では怪我もしてないのに包帯で腕を吊って出席してます。ジャングルをゆくインパール作戦では部下が全員反対する無茶苦茶な作戦を立て強引に実行、それでも反対する師団長を次々に更迭、補給が難しいことから(大体2000メートル級山岳地行軍でどうやって補給するのか)、牛に荷物を乗せて途中で殺して食べれば良いという「ジンギスカン作戦」というマンガのようなことをやらせ、当然のことながら失敗(牛の飼料も乏しく、動かなくなった)、いよいよ全軍が悲惨な状況になると、ちょっと視察と言いながら敵前逃亡し、日本に逃げてしまいます。それでも日本では「あれは逃げたのではない」と強弁し、戦後裁判にかかるもあまりの無能さで連合軍の活動を容易にしただけということで不起訴。東京で余生を送るも、死ぬまで「あれは部下が無能だった」と強弁し続け、遺言で自己弁護を印刷したものを会葬者に配布させたという、ここまでくるといっそのこと清々しいまでの人物です。インパール作戦の敗色濃厚の時に、「陛下に死んでお詫びしたい」と心にもないことをいうと、部下の参謀も腹に据えかね、「誰も止めませんから黙って腹を切ってください。今回の失敗はそれだけの価値があります」と言われてしまい、しかしそれでも自決することはなかったといいます。そのくせ部下に対しては「失敗したら腹を切れ」と言い続け、作戦そっちのけで毎朝祝詞をあげ、部下の将兵から「馬鹿な大将、敵より怖い」「鬼畜の牟田口」と罵られたといいます。マンガや映画に誇張したキャラでこういう人物が出てきますが、本当にいるのねという。しかし、この無能な司令官の下で無意味に死んでいった将兵達こそいい面の皮でしょう。

 同じく、富永恭二も特攻隊の考案者であり、現場で「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言いつづける一方、帰還した特攻隊員に対して罵倒し、合計62回の特攻を行わせ、400機のパイロット全員を戦死させていますが、自分だけはちゃっかり生き残っています。しかもフィリピンから台湾に逃げるとき、部下1万人を置き去りにして、自分と周囲の高官だけ貴重な戦闘機を護衛につけて脱出、しかも積荷は芸者とウィスキーだったという。残された将兵の大半は戦死しています。帰国した富永は胃潰瘍の診断書を出して温泉につかっています。もっともこれは後に問題になり、満州に送られ、シベリア抑留されています。

 ちなみに同じ特攻隊の考案者である大西瀧治郎は、敗戦の翌日、部下達に謝罪する遺書を残し、割腹自殺しています。それも介錯を拒み、謝罪の意味で半日以上苦しんで死んだといいます。「これでよし 百万年の仮寝かな」という辞世の句は有名。また、宇垣纏も、海軍指揮官としての有能無能は評価が分かれますが、終戦当日、部下とともに特攻に飛び立っています。部下を特攻に行かせ、最後には自分も死んだのはこの二人だけで、あとは源田実のようにカリスマ軍人として戦後ももてはやされ、自民党から参議院議員になった人物もいます。彼は特攻の立案者でもありますが、自分の部隊を特攻にしようとして「それならばご自身が乗ればいい」と詰め寄られ絶句したり、戦後の慰霊祭で特攻遺族に詰め寄られたりもしています。

辻政信とノモンハン事件に集約される日本の構図

 そして最も謎の人物、妖怪呼ばわりさえされる辻政信がいます。この人物に対しては、日本軍の最大の元凶と痛罵する人と、いや稀にみる硬骨漢であり、その性格ゆえに周囲と摩擦を起こし責任を取らされているに過ぎないという人がいるという具合に、肯定否定両極端の評価があります。性格的には和を重んじる日本人的ではなく、融通がきかず潔癖なまでの正義感と現場主義があったようです。石川県の加賀温泉の出身で、幼少の頃から首席で出世、陸軍大学も三番で卒業というエリート軍人です。関東軍に転出し、南京勤務の時は不良軍人狩りをして、兵士や民衆から「今黄門」と言われたりしてるらしいから、潔癖性正義感はその頃から見られます。

 そして、最大の汚点ともいわれるノモンハン事件になります。これは満州北部でソ連軍と局地戦を行ったものです。関東軍がイケイケで紛争を拡大しようとするのを、東京の参謀本部は中止命令を出します。が、辻はこの本部からの電報を握りつぶしてしまいます。このノモンハン事件は後の太平洋戦争の縮図のようなものです。ソ連軍も大して強くはなかった筈なのだけど(独ソ戦で初戦でボロ負けしてるし)、それでも日本軍の兵器は相当に貧弱であり、本拠地満州に近いという地の利がありつつも補給線は脆弱なままでした。そして戦力が違いすぎます。ソ連の戦車は装甲が厚く、砲も強力であるのに対し、日本軍のそれは戦車と呼べるかどうかも疑わしいほど装甲が薄く、砲力も弱かったことに加え、ソ連は戦車500両を動員したのに対し、日本軍はわずか70両ちょっと。これでは勝負になるはずもないです。

 ノモンハン事件は、自身戦車兵として戦場にかり出された司馬遼太郎と、もと砲兵だった作家の山本七平が対談を行ってるのが参考になります(司馬遼太郎「八人との対話」文春文庫)。ここで、当時のリアルな軍部や日本社会の状況がのどかに語られているのですが、日本軍の戦車の装甲を「障子紙」「ボール紙」と評しています。自身命のかかった戦場に送られ、貧弱な戦車を与えられた怒りもあるのでしょうが、中々専門話が続いて面白いです。ただ、こんな装備で普通の軍隊だったら1日で敗走しそうなものだけど、それでもなんとか奮戦の形になったのは上等兵以下の兵卒の質の高さと、従順な勇猛さがあったからであり、同時に上層部の戦争に対するリアリティの無さは絶望的だといいます。リアルに考えたら勝てるわけがないから、イリュージョン(日本軍は世界最強)とドグマ(戦線を拡大することはイイコトだ)に走る。もう宗教みたいになってしまう。このリアリティの無さが、補給線の下手くそさに通じます。そして、この敗戦はひた隠しに隠されます。日本ではノモンハンで勝ったという報道がなされ、皆で勝った勝ったと喜んでいました。軍部内部でも隠されていたらしいです。また、辻政信ら首謀者は、あれは負けていなかった、勝てたはずだったのだが東京から制止されたから負けたこと主張していたらしいです。

 後の戦争の縮図というのは、ここに現代にも通じる日本の問題点と特徴が集約されているからです。@リアルな戦力比較というのを避け、A圧倒的な敗勢を誤魔化すために「なせばなる」的な精神主義というイリュージョンに逃避し、B大局的戦略眼ももたない辻のような現場将校が近視眼的に突出し大敗北を喫し、Cリアルな思考の欠如がロジスティクス(補給)という重要課題を軽視させ、Dしかも事後にわたってこれらの欠点を改善しようという動きも乏しい(日本の戦車は相変わらずだったし、辻達も更迭されていない)、Eそれでも何とか持ちこたえたのは一般兵卒の優秀さと従順な勇猛さである、ということです。



 辻は再び参謀に返り咲き、南方戦線に出ます。そこでノモンハン事件での”共犯者”である服部卓四郎と組んで作戦立案をするのですが、これが後々まで祟ります。マレー作戦司令長官だった山下大将(前述)は、辻のことを「我意が強く、小才に長じ、いわゆる”こすき”男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり」と書いてます。局地的には有能だけど器が小さく、しょせん小才、しかしプライドだけはずば抜けて高く、エゴも強いという、あなたの周囲にも一人か二人いそうな人です。あ、俺か(^_^)。シンガポールにおける華僑虐殺事件、フィリピンにおける米軍捕虜の死のバターン行進事件(捕虜移動の際、また補給の不手際でトラックが全く足りなく、疲労やマラリアにかかった重病人を数十キロ歩かせて大量の死者を出した)にも辻は関与しているとされます。関与どころか、バターン行進では「白人なんか殺してしまえ」と扇動し、勝手に大本営の捕虜処刑命令をでっち上げていたとされます。ポートモレスビーの戦いでは、また独断で攻略命令にすり替え、その作戦の無謀さによって多くの被害を出し、何ら成果を上げられず、また辻本人も負傷します。大体、天長節とかの記念日にちょうど勝利がくるように逆算して立案するという、最初から無理な計画だったらしく、これが現場の混乱を招きます。ガダルカナルでは自分の作戦の失敗を川口少将になすりつける自著「ガダルカナル」を書いています。またビルマ戦線では、無理な命令を下し、その命令から部下を守るために敢えて無視した水上少将は責任をとって自決、命を助けられた兵士が生還すると「おめおめと生きて帰ってきおって」と殴り殺す一歩手前まで暴力を振るったそうです。

 反面辻は、部下思いのところもあり、部隊内のイジメにも機敏に対処し、金や女に潔癖で、上官といえども軍紀に反することは平気でしかりつけ、参謀でありながら常に現場に出かけています。だから、満更臆病でもないし、卑劣なわけでもないし、勇気もある。それなりのカリスマ性もあり、「作戦の神様」とすら称せられ、戦後はベストセラー作家でもある知名度で出馬、4期衆議院議員になり、岸信介を攻撃したので自民党を除名、参議院に鞍替えし当選しています。1961年東南アジアに視察旅行中、僧侶の変装をして(彼は変装の名人だったという)ラオス北部で消息不明になり、現在にいたるも謎のままです。郷里には銅像も建ってます。

 まあ、それなりの人物ではあるのですが、いかに本人個人の性格やエピソードにいくらかの美点があったとしても、本職の参謀としての作戦立案能力の欠如は弁解の余地がないと思います。この種の人物は、何となくわかりますが、異様なまでに自己愛が強いのでしょう。その自己愛の発露として自己を厳しく律する態度もあり、正義感もあり、そこが美点に映るときもあるけど、結局すべては「美しい俺」「ヒーローな俺」を美化する道具立てなのでしょう。多くの将兵の命にかかわる作戦すらもその道具立てに使ったという点で、やっぱり僕は許し難いものがあると思います。美意識は個人の趣味。どのような趣味を持とうが個人の勝手だけど、それと公職公務を混同することは大罪だと思うからです。



 辻のような人物は当時の日本軍に限らず、現在の日本にも沢山いるでしょう。日本に限らず、どの時代のどの国にも、人類が数万人くらいいれば確率的に一人くらいはいるでしょう。多少エキセントリックではあるけど、そういう人間はいるし、彼程度の有能さだったら今の日本にも何十万人もいるでしょう。そういう意味では別に彼一人に全ての問題があったわけでもないし、別にいたって差し支えない存在だとも思います。まあ、「いろんな人がいるからねえ」ってなレベルの問題でしょう。

 問題はそういう人物を「作戦の神様」として持ち上げ、あれだけ周囲に嫌われながら、あれだけ独断専行し、あれだけ無能な作戦を遂行し、あれだけ大失敗を重ねながらも、左遷も更迭も処分も出来ずに最後まで用いてしまった日本という社会の体質です。また、戦後も合計5期も国会議員に選出してしまっていて、あまつさえ銅像まで立っているという。有能で、正論を吐いたが故に前線に飛ばされて死んでいった人たち、有言実行でキッチリ落とし前をつけて戦場で散り、自決なり処刑されていった人たちが沢山いる中で、こういう人物がアンタッチャブル的に権力の座に居続けられるというのは、社会システムのバグだと思います。このバグは、今なお残存し、薬害エイズにせよ、最近の年金不祥事にせよ、過去の冤罪事件にせよ、ヒドイ話は山ほどあるけど、分かりやすい形でキッチリ責任が問われ、解決したことがあったのかどうか。

 一方、彼のパーソナリティに象徴されるナルシスティックなヒロイズムこそが日本の敗戦の根源にあるような気がします。ヒロイズムに酔うから、リアルな現実が見えず、無茶な作戦を立てる。弾薬が無ければ進軍しても意味がない、人は最低限必要なカロリーを摂取しないと死んでしまうというクソ当たり前のリアリズムを軽視し、ロジスティクスを軽視したため、どれだけの将兵が飢えにのたうち廻って死んだことか。収集もされずに遺骨として今なおジャングルの中で眠っているか。また、南方への輸送のためにかり出された輸送戦にはろくすっぽ護衛もつけないから、米軍にどんどん撃沈されています。資料によると、太平洋戦争で軍用船以外で失われた艦船は7240隻にものぼり、死亡した乗組員は6万人にも達します。政治というものがリアリズムを失うとどれだけ悲惨な結果になるかということです。敗戦というのは、一つの「失政」であるということを、もっと考えた方がいいのかもしれません。

 このあたりの状況が、「一部軍部の暴走」といわれるものの断片図なのでしょう。そして、「なんでこんな戦争やったの?」という問いに対する答の一つになるでしょう。もちろんこれだけで済ますわけにはいかないのでしょうが、「病気」と呼んでもよいくらいの疾患が日本社会にはあり、それは今でも残ってるような気がします。でもって、必要なのは対策です。治療法。それがなければ対症療法やシステマティックな防護策であり、それらの具体策です。どーしたらいいと思いますか?これ以上は、いくらなんでも本題から外れる(どこがキリスト教じゃ)ので、また別の機会に考えます。





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文責:田村



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