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今週の1枚(08.08.25)


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ESSAY 374:キリスト教+西欧史(40)  

世界史の大きな流れ〜イジメられっ子のリベンジストーリー


  写真は、Luna Park。ハーバーブリッジ北詰の、古くからある小じんまりした遊園地。写真を見ててふと気づいたのですが、この看板のショボいイラストは何なのでしょうか?なんか場末の温泉街を彷彿とさせるというか、秘宝館的というか、子供が乗るのにこれで良いのか?というか。この乗り物のアトラクションにどーゆー関係があるのか?写真をとったのはずいぶん前なのですが、未だ存在してるのなら一度乗ってみようかしら。


 さて、過去3回に、ナイスドイツ、イタリアそして日本と、第二次大戦における主役というか「悪役」というか、ファシズム三羽ガラスが揃ったところで、このまま第二次大戦に突入していっても良いのですが、さらにもう一回分充ててその他の国々の状況を書きます。

 多分に33回、34回の「第一次大戦前夜」と重複するのですが、このまま第二次大戦にいってしまえば、おそらくは「ファシズムでトチ狂った3カ国が突っ走って、その他の連合国軍に叩きのめされました」、あるいは日本に関していえば「一部軍部と民衆が熱狂して無謀な戦争に突入し、アジア諸国や太平洋を広範に占領したけど、最後には原爆落とされてボロ負けしました」という程度の理解で終ってしまいそうなんですね。第二次大戦の記述それ自体は、細かな戦闘状況の経過でしかないし、真珠湾やミッドウェー海戦がどうしたとか、アフリカの砂漠でロンメル将軍がどうしたとか、ノルマディー上陸のD−DAYとか、あとで戦争映画みるときには役に立ちますけど、世界史の大きな流れはつかみにくいです。

 ここでエラそうに「世界史の大きな流れ」などと書いてますが、僕が思うにこういうことです。
 まず、大航海時代→植民地獲得→帝国主義と1500年ころから数百年にわたり連綿と続いてきた「強い国が遠くまで出かけていって弱い国を支配し、搾取してリッチになる」という一つの流れがあります。作用はかならず反作用を生みますから、支配されてきた国々からの強烈な反発もあります。帝国主義・植民地支配 vs 民族独立です。イジメっ子とイジメられっ子の歴史みたいなもので、校内のヤンキー達に暴力で脅されパシリにされていたイジメられっ子が、空手を覚えて徐々に強くなってついには復讐するというリベンジ系サクセスストーリーも同時並行的に流れていたりするわけです。単純に世界の人口比でいえば、リベンジ系歴史観でものをみる人の方がずっと多いでしょう。イジメられっ子の視点に立てば、西欧史におけるナポレオンも市民革命も、また第一次大戦すら「ヤンキーどもの勢力争い」に過ぎないでしょう。ヤンキー同士の抗争の歴史だけでは、「世界史」としてはまだ片手落ちだと思います。

 第二次大戦後、世界は独立ラッシュになり、それを新たな対立軸になった米ソがそれぞれに応援してグチャグチャになるというのが戦後史の骨子ですが、そうなるだけの下地はすでに戦争前にあります。というか、第一次大戦以前からずっと続いています。19世紀から20世紀になり、第一次大戦前後になると、英仏などの列強もだんだん植民地支配をもてあましていくようになりますし、個別対応しつつ、なんとかソフトランディングさせていこうという着陸態勢に入っています。「そろそろ店じまい」の時期なんですね。事実、第一次大戦後のパリ会議では「民族自決の原則」がテーマの一つになっています。先発の連中が着陸点を模索しているにもかかわらず、「遅れてきた帝国主義野郎」であるドイツ、イタリア、日本が、帝国主義末期に咲いたアダ花のようなファシズム国家に変性し、離陸していこうとしていくわけです。これら”末期の変性亜種”の暴走と自爆というのが第二次大戦のぶっちゃけた姿でしょう。でもそれで総括しちゃったら大きなストーリーが見えなくなる。



 また、僕ら日本人の場合、世界史の平均的な流れとはちょっと違うプロセスを経ていますので、このような見方がピンとこないキライもあります。日本はもともと極東という辺境地にあったので、ヤンキー連中にいじめられるにせよ、かなり最後の時期になります。でもって黒船というヤンキー軍団が姿を見せてちょっと口で脅されただけの段階、本格的にボコられる前に、恐怖体質+好奇心+異様な民族的集中力でスーパーインテンシブ空手修行をやり、いきなり強くなっちゃったわけです。そして、当時としては「やや強めの雑魚キャラ」であったロシアに勝ってしまい、その後むしろ自分自身がヤンキー側に立ってしまいます。イジメっ子なんだかイジメられっ子なんだか分からないという。この加害者意識と被害者意識がゴチャ混ぜになって、自分でもよく整理がつかないまま、「とにかく平和を」って感じになっているのが、現在にも連なる僕ら日本人の素朴な感覚だと思います。

 加えていうなら、僕らが身近に感じる外国であるアメリカもまた、ユニークで変テコな成立過程を経ています。あそこはもともと英仏の植民地であり、北米におけるイジメられっ子はネィティブ・アメリカン、つまりインディアン達(あるいは奴隷としてつれてこられた黒人層)であるのですが、侵略者がそのまま居座ってしまった「成功した帝国主義国」です。しかし、本家イギリスに対しては被支配者的立場にあったので、早い時期に喧嘩・独立した、いわばヤンキーの分家みたいな国です。欧州から距離的に遠いので、本場のチーム達がドンパチ抗争をやってる間は地味に国力を増強させていきます。第一次大戦でも積極的に関与せず、抗争当事国がヘロヘロになったころに、金も恩もたっぷり貸し込んで、戦後のベルサイユ体制を仕切ろうとします。しかし、抗争慣れしてないから結局うまいこといかず、また引きこもっちゃいます。自分が提唱した国連に自分が入らないという。そして、周辺エリアのフィリピンあたりをジミに支配していこうとします。図体はデカいんだけど、いまいち善にも悪にもスカッと割り切れないアメリカが、以前から密かに目をつけていたのが中国です。初めての大きな獲物なんだけど、英仏ほど老獪でもなく、ロシアやドイツほど喧嘩上等になりきれない間に、ちょっと前まで自分が脅していた日本が急速に凶暴なチームを立ち上げ、中国をガンガン攻めるのを見るや、「てめー、なにやってんだよ!」と日本叩きにムキになって、第二次大戦になるという。

 一方、北方で不気味なチームが出現します。ロシア革命によって成立したソ連です。ロシア時代は、喧嘩が強いか弱いかが全てだったトラディショナルなヤンキーカルチャーに染まっていた平凡なチームであり、ここも図体はデカく好戦的なのだけど、いまひとつケンカの要領が悪くて垢抜けない田舎チームだったわけですが、ソ連になってから性格が変わります。喧嘩の強弱以外に、イデオロギー(共産主義)という感染性の強い武器を持つ、新興宗教的なチームに生まれ変わります。感染力があるだけに、今までのロシアよりも強力です。他のチームの中にも感染者が出たり、支配下においていたエリアにも強力な感染的影響力を及ぼしたりします。

 このように多様なキャラが相互に影響を及ぼしあう中、ヤンキーチーム抗争史と、イジメられっ子のリベンジストーリーが同時平行的に走っていくというのが、世界史の大きな流れなのではないか、と僕は思うわけですね。

 ということで、駆け足で第二次大戦時の地球を一周してみたいと思います。


ソ連の成立


 未だ中世的な古臭い封建主義(皇帝専制)を後生大事に守って軍事大国になっていたロシアですが、古臭いだけに国民の不満のガス抜きシステムもないから、長いこと溜まりに溜まった怨念パワーが一気にドカンと爆発します。もっともシリーズ33回で触れたように、日露戦争直後の1905年に血の日曜日事件にはじまる第一次革命があるのですが、賢明な宰相ウィッテは皇帝に十月勅令を出させ事態を収拾します。このため沸騰直前に水をさされた格好になり、一度ロシアの民衆革命の機運はしぼみます。しかし、この小康状態もそう長続きするべくもなく、ついに第一次大戦中に革命が起きてしまいます。

 近代戦は総力戦なので国民生活に大きなしわ寄せがいきます。生活が苦しくなります。第二次大戦中の日本人のように「欲しがりません、勝つまでは」と国家に調教された従順な国民でいてくれたらいいのですが、そこは古臭いシステムでろくにガス抜きシステムもありません。「ええ加減にせんかい!」と国民達がブチ切れます。前線の兵士たちに「やってらんねーよ」という気分が蔓延し、中央アジア方面の被支配民族が徴兵を拒否し、町の労働者や生活者達が「戦争なんかやってないで、メシ食わせろ」と大規模なデモやストライキを打ちます。1917年3月、首都ペテルブルグで起きたデモは20万人規模に膨れ上がり、本来民衆を弾圧する側の軍隊すらもこのデモに加わり、一気に首都占領を果たし、皇帝ニコライ二世を退位に追い込み、ソビエト(=労働者、農民、兵士の社会主義的評議会)を作ります。「ソビエト」というのは国の名前ではなく、機関の名前なのですね。これを三月革命(ロシアの暦によれば二月革命)といいます。

 革命が起きた後は、お約束の第二ステージが待ってます。革命勢力内部での権力闘争です。
 革命後の臨時政府は、ブルジョワ政党の立憲民主党が仕切り、革命の主力パワーとなったソビエトからは閣僚を一人送り込んだだけです。ここで臨時政府とソビエトという二重政府状況になるのですが、翌月(4月)に大立者のレーニンが帰国します。レーニンは、議会制の共和制ではなく、労働者による社会主義国を樹立することを訴える「四月テーゼ」を打ち出します。過激派なんですね。ここで広く仲間を募ろうという穏健なメンシェビキと、少数精鋭の筋金入りだけでいいとする過激なボルシェビキの対立になるのですが、一旦はボルシェビキが弾圧されレーニンは再び亡命しますが、ボルシェビキの勢いが盛り返すとレーニンは帰国します。出たり入ったりしています。武装蜂起により政府を倒し、レーニンは最終的に権力を掌握します。これが十一月革命です。ロシア革命というのは、3月と11月の二段階あるのですね。3月は、旧体制たる封建的な王政を倒したいわゆる市民革命ですが、11月革命は世界史上初の社会主義革命です。

 発足した社会主義・ソビエト政権は、社会主義として最も肝心な政策=私有財産の否定をします。「土地に関する布告」というものを発令し、地主の所有地を没収し、土地私有を廃止します。また、ボルシェビキ以外の勢力を武力で抑え、ボルシェビキ一党独裁(プロレトリアート独裁)体制になります。レーニンは「平和に関する布告」を出し、第一次大戦中の諸国に対して戦争の即時中止を呼びかけるがシカトされ、ドイツとの間でポーランドや北欧圏を割譲する屈辱的な和睦を結び、内政に専念するようになります。ボルシェビキがロシア共産党に改称し、首都がモスクワに移転にしたのもこの頃です。

 もっとも全てがトントン拍子にいったわけではなく、国内には反革命勢力も多数各地に割拠していますし、ソ連になってから「昔の帝政時代の借金は知らんもんね」と債務を無視したり、これまでの秘密外交文書を公表したりしたので連合国側がムカついて反革命軍を支援するようになります。1918年8月以降、英仏米軍がソ連に進軍します。日本もシベリア出兵で出かけていきます。しかし連合国のこの干渉は、出来たばかりのソ連内部の民衆を結集させる逆効果になって失敗します。ちなみに各国が兵を引き上げたあと、しばらく日本軍が駐留を続けたので、「なんか妙な野心持ってない?」と日本は叩かれてます。

 この外患の危機をチャンスに転換し、レーニンは着々と国内基盤を固めて生きます。徴兵制を強いてソ連軍(紅軍)を増強し、反革命の摘発を強化します。土地を没収して農民に分配し、商工業の国有化を進め、労働義務制を敷いて資本家にも肉体労働を課し、農作物の徴用と配給制をすること一時の窮状を脱します。しかし、長年の経済疲弊や穀物徴用の農民の不人気で生産性が落ち、大量の餓死者が出てくるにあたって、1921年から新経済政策(NEP)を施行し、皆のやる気を出すためにある程度の私有財産や個人売買を認めます。1922年には、ウクライナ、白ロシアなどと連合してソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を結成します。

 一方対外的には「革命思想の輸出」のために、モスクワでコミンテルン(第三インターナショナル)を結成します。世界中の共産党勢力が結集し、相互支援するものです。冒頭で述べた「感染性のある武器」であり、これがあるから西欧列強はソ連や共産思想に神経を尖らせるようになります。しかし、レーニンがNEPという、ある程度資本主義を取り入れる政策を打ち出し、また技術援助のために西欧諸国へ接近を図ったことから、1922年以降各国がソ連を承認するようになります。

 ある程度革命政権の道筋をつけた1924年に中心人物であるレーニンが他界します。当然のようにお家騒動が起きます。これもお約束ですね。
 対立したのはトロツキースターリンです。トロツキーは、ソ連一国だけでは社会主義建設は無理であり、他の先進国においても革命が必要であるという世界革命論を唱え、スターリンはソ連一国だけでやっていけるという一国社会主義を唱えます。激しい論戦の末、25年の大会でスターリンの主張が勝利を収め、敗れたトロツキーは共産党を除名され、やがて国外追放になります。ちなみにトロツキーは海外でスターリン批判を続けていましたが、1940年にメキシコで暗殺されています。

 スターリンは、ある意味ではレーニン以上の豪腕で、ヒトラー以上の怪物的独裁者ともいえます。政権を握ったスターリンは、1928年からNEPを五カ年計画に改め、計画経済や集団農場(コルホーズ)、国営農場(ソフホーズ)を実行、逆らう富農連中はビシバシ弾圧します。しかし、強制的な計画経済のおかげでソ連は1929年の世界大恐慌の影響を受けることを免れます。以後、第一次計画の成功で気をよくしたスターリンは次々に五カ年計画を施行していくのですが、その間、飢饉によって餓死者数百万人とか、34年以降の大粛清で反対派を大量処刑して、権力を不動のものにします。

 ところでスターリンという人は、ロシア人ではなく少数民族のグルジア人です。また身長も163センチ程度で大男ぞろいのロシアにおいてはかなり低い部類でしょう。また、ルックスも肖像画では貴族風に美化されていますが、本来は痘痕面で美形でもなんでもなかったそうです。独裁者のプロパガンダとしてあらゆる点を美化修正しているのですが(写真合成など)、そもそも名前からして違います。スターリンの本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリであり、「スターリン」というのは「鋼鉄の人」という意味のペンネームです。グルジアの靴屋の息子として生まれ、父親に幼児虐待同然に育てられた少年ヨシフは、ルックスや身長や生まれその他に満たされなかった強いコンプレックスがあったといいます。自分が最終権力を持つまで、謙虚で腰の低い態度を維持し、上からは取るに足らない小物として扱われるほど仮面をかぶり続けていたそうです。こういう人間が権力者、それも独裁者になったときの人類の災厄は巨大です。劣等感の裏返しで異常なまでに自己顕示欲が強く、人間不信、冷酷、不寛容というあらゆる小人物的悪徳が満開になります。フランス革命のロベスピエールやイギリスのクロムウェルなど冷酷として悪評が高い人達も、個人としては謹厳実直、高潔で「実はいい人」だったりするのですが、スターリンに関して言えば、どうもそうではないです。そのコンプレックス反動ぶりは、ある意味ではとても分かりやすく、ヒトラーのように屈折したインテリとはまた違います。

 こういうスターリンだからこそ、餓死者500万人になっても計画経済を進め、政敵は暗殺し、数十数百万人ともいわれる処刑を断行しても、あんまり胸も痛まなかったのかもしれない。それどころか、自分の銅像を大量生産させ、スターリンの名前を冠した地名や賞をつくり、自己賛美の文学絵画を量産させ、都合の悪い過去は勝手に英雄的に改ざんし、一時は国歌の歌詞にまでスターリンの名前が入れさせたというすさまじい自己顕示ぶりです。しかしちょっと停電しただけで机の下で小便を漏らして震えていたというエピソードが示すように根が臆病で小心者なだけに、異様に猜疑心が強く、それが彼の恐怖政治をいやが上にも高めます。これがナポレオンのような英雄型豪傑君だったら国内に明るいムードも流れたでしょうが、会話中にちょっと目をそらしただけで「裏切り者の証拠だ」と理不尽な理由で処刑されてしまうのですから、政府内部も国中もピリピリします。1953年に死去するまで、直接的な処刑、暗殺や、無理な計画による間接的な被害(餓死者)、さらに戦争中の愚策(士気を上げるために市民の疎開を許さないとか、前線兵士の逃亡を許さないで背後から射殺したとか)、なんだかんだ彼のために死んだ人は2000万人とも言われています。もっともこの数字は数え方によって幾らでも変わるのですが。

 こんな無茶苦茶なスターリンのソ連ですが、なんで生き残ったのかといえば、ひとえにドイツや日本など「もっと悪そうな奴ら」がいてくれたからです。英米仏の連合国側としても困ったと思いますよ。共産主義は感染性が強いだけに大きな脅威なんだけど、当面はドイツや日本というファシズム国家が超分かりやすく暴れまわっているので、そちらを優先的に対処したようなものでしょう。ソ連は国家として承認されるだけではなく、34年には国際連盟に加入して常任理事国にもなってます。また戦時中はナチスドイツと戦ってますし、共産主義思想を広めるコミンテルンも、ファシズムに対抗する人民戦線として機能している(イタリアのムッソリーニはこの一派につかまり処刑されている)ので、反ファシズムという一点で連合国も「ファシズムに戦ったソ連」として持ち上げないとならなかったのでしょう。でも、実際のところ、スターリン恐怖政治時代のソ連の方がはるかにファシズムが徹底していたと思います。そうは名乗らないだけで。




トルコ革命とアラブ諸国

トルコ革命

 シリーズ34回の続きのようなものですが、第一次大戦に敗れたオスマントルコは、領土の大部分を割譲し、かつ列強諸国の治外法権やコントロールを認める屈辱的なセーヴル条約に調印します(1920年8月)。当時、トルコ国内でも勢力が割れており、従来の政府に対抗するものとして軍司令官だったケマル・パシャ率いる臨時政府がありました。ケマルは、セーブル条約を認めず、独立戦争を起こし、隣国ギリシアに占領されていたイズミルを奪回(希土戦争)、2年後にはオスマントルコ帝国のOSのようなスルタン制度(イスラム世界における王政)を廃止し、600年続いたオスマントルコ帝国は消滅します。王政から共和制になったトルコは、スイスのローザンヌで再び連合国側と交渉し、屈辱的な内容のセーブル条約を破棄し、あらたにローザンヌ条約を締結、晴れて独立国宣言をします。

 この一連の流れをトルコ革命といい、ケマル・パシャは建国の英雄としてたたえられています。日本の明治維新を一人でやってしまったようなもので、トルコの近代化を急ピッチで進めます。これまでの伝統文化を大胆に否定するあたりは明治維新とよく似ていて、たとえばイスラム暦を廃止し太陽暦を採用(日本も旧暦から新暦にした)、またファッション的にも男のトルコ帽、女性のチャドルを廃止(チョンマゲ廃止の断髪令みたい)、一夫多妻制度も廃止されてます。婦人参政権も認められ、アラビア文字からアルファベット表記に変えてます。1938年にケマル・パシャは他界しますが、その数年前に、議会は彼の功績をたたえてアタテュルク(トルコの父の意味)の尊称を贈り、ケマル・アタテュルクと呼ばれるようになってます。ちなみに「パシャ」というのも位の高い官僚や軍人に対する尊称で、ケマル・パシャは「ケマル将軍」くらいの意味だと思います。

 ケマルが急速な近代化を進められたのは、強大な独裁権力を持っていたからであり、彼もまた独裁者でありました。しかし、スターリンと違うのは、政治家として傑出して有能であったことであり、人格でしょう。ケマルの政策は、イスラム教どっぷりだったトルコにハッキリと政教分離をさせ、近代国家としての内実を固めたことであり、またこれといった政変も起こさず政局を安定させ、外交においてもローザンヌ条約で治外法権を撤回させるともに、第二次大戦の荒波も中立を通して巧みにくぐりぬけてきています。彼個人は、独裁性も当初の立ち上げだけで軌道に乗ったら通常の多党制に移行させようとしており、また個人崇拝されることも嫌っていたそうです。だからこそ、今なお国父として尊敬され続けているし、その尊崇の度合いはちょっと行き過ぎじゃないかという批判の声もあるくらいだといいます。

 しかし、ソ連とトルコ、並べてみるとリーダーが違うとこうも違うかという好例ですね。こうして世界史の事例を見てると政治というのは本当に国家国民の生命を握るものだと痛感しますね。「政治はあんまり興味が無い」なんて気楽なセリフは、どっちに転んでも自分が死ぬような気遣いはないと確信できる状況=よっぽど平和な国でないと吐けないでしょう。ある意味では幸せなことです。一般的には、政治がちょっと軌道をかえただけど、国民の命なんかあっさりぶっ飛んだりするものなのでしょう。例えていえば外科手術を受け続けているようなもので、メスを握るのが信頼できる有能な医師か、まったく無能な素人か、あるいはサディスティックな殺人鬼かくらいの違いがあって、自分がこれから切り刻まれるのに、メスなんか誰が持とうが同じだとは言えないでしょう。


 トルコ以南のアラブ諸国はどうなったかですが、これもシリーズ(34)の続編になります。


エジプト

 まずはエジプト。エジプトの建国の父はムハマンド・アリという人物で、ケマル・パシャと同様に一人明治維新を起こします。オスマントルコ帝国から独立し、富国強兵&殖産興業でエジプトの近代化に尽くしますが、19世紀中葉という帝国主義全盛時代だったので、外交・経済ともに英仏にいいように操られ、スエズ運河をはじめとしたインフラ整備の借金で首が回らなくなったところを英仏の財務管理下に置かれ、保護国にさせられてしまいます。親切な顔をして近づいて、最後には会社を乗っ取ってしまうようなものでしょう。

 そこでイジメられっ子のリベンジストーリーです。こういったイギリスの支配にエジプト民衆がニコニコしていた筈がなく、反英独立運動が起こります。早くも財務管理下におかれた段階で、民族独立を唱えたアーラビーの運動が起こりますが、これは軍事的に鎮圧されてしまいます。しかし第一次大戦により、従来の宗主国だったオスマントルコ帝国の重石が完全に取れつつも、相変わらず支配を続けようとするイギリスに対する激しい反発が巻き起こり、イギリスも譲歩せざるを得なくなり、1922年に独立を承認します。もっとも、スエズ運河の駐留権など美味しいところはイギリスが手放さなかったので、さらに完全独立を目指す運動が続き、1936年にイギリス・エジプト同盟条約を結びエジプトの完全な主権が認められることになります。

イラン

 帝国主義時代のイランは、北からはロシア、南からはイギリス(インドを根城とする)という強いチームに囲まれ、支配されるようになります。バーブ教徒の乱(1848)という”攘夷”も弾圧されます。第一次大戦のときは「け、喧嘩はよくないよ」と中立を宣言してるのですが、イギリス、ロシアは「てめーの意見なんか聞いてねーよ」とばかりに、お構いなくイランを占領してしまいます。革命によって本家が燃えているロシアは撤兵しますが、イギリスは居座り続けようとします。当然、攘夷運動が活発になり、1921年にレザー・ハーンという人がクーデターを起こして実権を握ります。

 翌23年に首相に就任したレザー・ハーンは、これまでの王室であるカジャール朝の廃止を決議します。ここで共和制になると思いきや、自分自身が王様になって、新たにパフラビー朝を創始します。 なんか時代に逆行しているようですが、この王様、やることはやっていて、イギリスと渡り合って治外法権廃止+関税自主権奪回という不平等条約の破棄を勝ち取り(1928)、ケマルパシャを参考にして明治維新的な近代化を推進します。その時点では「ペルシャ」と呼んでいた国名も、1935年に「イラン」と改称されます。

 ちなみに「パフラビー」というのは最近の言い方で、昔は「パーレビ」と呼んでました。ホメイニ師のイラン革命のときの「パーレビ国王」(このときは二代目)といえば、覚えている人もいるでしょう。なお 初代パーレビ(レザー・ハーン)は、独立と急速な近代化をはかったことで評価されていますが、同時に独裁色が強かったので徐々に不人気になり、第二次大戦に連合国に占領されるや退位を余儀なくされ、亡命します。二代目のモハマンド・レザーは、戦後アメリカの援助を受け、新米的な欧米化政策を進めたため、国内のイスラム勢力が反発を強め、ついに1979年にホメイニ師のイラン革命によって親子二代にわたって亡命します。その後、イランとアメリカが決定的に不仲になり、今のブッシュ政権も「悪の枢軸国3カ国」の一つに数えられています。

 なお、隣のアフガニスタンですが、1919年にイギリス軍と戦って独立を宣言、承認されています。


サウジアラビア

 19世紀初頭、イスラム教の中の振興宗派ワッハーブ派が地元の豪族サウード家と提携してワッハーブ王国を建国するのですが、当時はオスマントルコ帝国が強かったので、エジプトのムハマンド・アリに命じて滅ぼしてしまいます。しかし、しぶといサウード家は1823年に第二次王国を再興するのですが、部族間抗争に敗れ、ラシード家に駆逐されてまた潰されます(1889)。二度あることは三度あるとばかりに、亡命していたサウード家のイブン・サウードは、1901年にワッハーブ王国を復興、第一次大戦中はイギリスと協力してアラビア半島中域の支配を確実にします。その後、イエメン以外のアラビア半島統一を果たしたイブン・サウードは、1932年に国名を現在のサウジアラビア王国と改称し、ワッハーブ教を国教とします。

 サウジアラビアは「サウード家のアラビア」という意味で、国名に私人の家名が入っていることから分かるように、徹底したサウード家絶対支配の国です。市民革命、資本主義、労働運動、植民地支配、独立運動による共和制、、という世界史の普遍的なパターンから外れているかなりユニークな国。中東は王室と宗教という二大要素が強いので、一般的な流れになりにくいのでしょう。政教分離どころか政教がガッチリ合体し、ワッハーブ派の教えがそのまま法律になってるようなものです。未だ中世を通り越して古代王国がそのまま残っているようなもので、人権的にはかなり問題があったりします(女性の人権を殆ど認めてないとか)。国際社会のみならず、同じイスラム社会からも「ちょっと、やりすぎじゃ、、」という声も上がってるほどです。普通、こんなことしてたら英米など西欧諸国がチョッカイを出してくるはずなのですが、強力な産油国であり、アラブの盟主的立場にあることから、正面きって喧嘩する国はないです。また外交的にも親米路線だし。アラブの盟主だから不倶戴天の敵であるイスラエルを承認してはいないのですが、イスラエルもサウジアラビアも西欧(特にアメリカ)との関係が深いので、これまた正面きってドンパチやることもないです。金持ち喧嘩せずというか、石油が出るから付き合っていて得だし、別に敵対するわけでもないので、なんとなく曖昧なままになってます。


イラク、シリア、ヨルダン、パレスチナ

 何度も書いてますが、イギリスの三枚舌政策というのがあります。第一次大戦において、アラブ民族に対してはオスマントルコをやっつけたらこの土地はキミたちのものだと言い、ユダヤ人に対しては支援してくれたらユダヤ人の国を作ろうねと言い、仲間内のフランスなどとは勝ったら僕らで分けようねというという。結局、戦後はこれらのエリアは、委任統治という名目のもと英仏の支配下に置かれてしまいます。

 委任統治下にあったイラクでは、1921年にイギリスの肝いりでファイサル1世が王位につきます。1930年には委任統治をやめ、32年にイラクの正式独立を認め、さらにアラブ諸国のなかでは最初に国際連盟に加入します。かなりスムースな動きのようですが、これは裏でイギリスが支援しているからそうなっているわけです。イギリスも、パリ会議の民族自決の原則があるから、昔みたいに露骨な支配はできないし、時代の流れとしても無理です。だから美味しいツボだけしっかり取りつつ、独立させるという方向になっているのでしょう。イラクの場合も、イギリスは国内での軍事活動の自由や石油利権などはガッチリ押さえています。当然のことながら、イギリスの紐付き独立に不満を持つ民衆も多く、第二次大戦中はドイツと結んでイギリスの支配からの完全脱却をもくろむ動くもあります。が、これはイギリス軍に反撃され、また頼みのドイツも負けちゃったので元の木阿弥になります。

 同じイギリスの委任統治下にあったヨルダンは、1921年に国としての形をなし、28年トランスヨルダン王国、46年に正式に独立します。

 シリアはフランスの委任統治下に置かれますし、シリアから切り離されたレバノンもフランスの委任統治領となります。シリアに自治が認められるのは36年、44年独立。レバノンは41年独立宣言、44年に独立します。

 問題はパレスチナです。イギリスの三枚舌が一番後々まで祟ったエリアです。イギリスの密約によってユダヤ人とアラブ人がそれぞれ権利主張して対立していたところへもってきて、ナチスドイツによるユダヤ人迫害により、大量のユダヤ人が逃げてきたので、人口が増大、対立は激化します。第二次大戦後のイスラエル建国により、あとは皆さんご存知のとおりグチャグチャの中東問題に連なっていきます。


インドと東南アジア諸国


インド

 これも(34)回の続きですが、インドは東インド会社でお馴染みのとおり、大航海時代初期からイギリスの支配を受けています。数百年の支配の歴史においては、1857年のセポイの乱などの攘夷運動もありますが、これは徹底鎮圧され、ムガール帝国は消滅、イギリスが直接統治するようになります。

 第一次大戦中、またイギリスは二枚舌をつかいます。戦争に協力してくれたら独立させてあげるよ、と。インドは120万人も兵隊を動員して協力しましたが、その見返りは微々たるものでした。それどころか、ローラット法という「法の支配」の国とは思えないような悪法を押し付け、インドの民族運動を弾圧するようになります。抗議集会につめかけた群衆にイギリス軍が発砲、数百人が死亡するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インド民衆の反英運動は激しくなります。

 有名なマハトマ・ガンジーはこの時代の人です。ロンドン留学して弁護士でもあるインテリのガンジーは、南アフリカで弁護士として開業、差別禁止運動に関わります。1915年にインドに帰国したあと民族運動(国民会議)に身を投じ、非暴力・不服従の運動をリードします。このガンジーの動きに、インドのイスラム教徒(ムスリム連盟)も提携、広範なイギリスボイコット運動が広がります。その過程での暴動事件で、首謀者と目されたガンジーは懲役として投獄されてしまいます。一方、ガンジーと同じくイギリス帰りの弁護士であるネルーがより急進的な左派グループを指導して台頭、1930年ネルー指導のもと、再び非暴力運動が始まります。釈放されていたガンジーもこれに参加し、360キロに及ぶ「塩の行進(イギリスの塩専売に反対して)」を行い、また逮捕されてしまいます。

 一般に民族運動や独立というと、強固な地盤のある軍関係者や地方有力者がリーダーシップを握り、クーデターのような形で行うものだったのを転換させ、運動そのものを広く一般民衆に浸透させていった点がガンジーの凄味でしょう。政治家や革命家というよりは、哲学者、宗教者的な雰囲気を漂わすガンジーは、一段高次なレベルから非暴力不服従(これはインドの各宗教に伝統的にある考え方らしい)という指導理念を導くとともに、これだったらどんな弱者や貧者でも参加できるという点にポイントがあります。イギリスも昔からの利権の塊であるインドにはかなり執着していて、飽きもせず弾圧をしたり、あるいはロンドン円卓会議で懐柔策を講じたりしますが、効果はありませんでした。有力な反抗勢力を軍事的に潰せばそれでよいという戦いではなく、数億のインド民衆を敵に回すような構図にさせられているので有効な鎮圧法が見つからなかったのでしょう。1935年にはイギリスも譲歩して新インド統治法によって自治権の拡大をみとめ、第二次大戦後の47年にインドは正式に独立します。

 なお、ガンジーは大戦前に国民会議を引退し、カースト差別によって苦しむ不可触賤民の地位向上運動に努めており、独立後のインドの運営は首相となったネルーが進めていきます。35年の自治権拡大の頃からは、対英一枚岩ではなくなり、国民会議での内部分裂も起きますし、独立時にはヒンドゥーVSイスラムというより深刻な対立がインドを覆っていました。独立直後、ガンジーは狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺されてしまいます。

ビルマ(ミャンマー)

 ビルマを書くのは初めてですが、ビルマだけで一本エッセイが書けてしまうくらい盛りだくさんの歴史を持った国です。帝国主義時代からはじめると、19世紀に3回行われた英緬戦争において、インドを支配するイギリス軍に敗れたビルマは、イギリス領インドの属州にさせられてしまいます。当然、反英”攘夷”運動が起きるわけですが、第一次大戦中に始まった反英活動は、世界大恐慌中の1930年の農村蜂起につながりますが、イギリスはこれを武力鎮圧。しかし、首都ラングーン大学において組織されたタキン党から、アウン・サンやウー・ヌーらが学生運動や反英ストを決行、この民衆勢力に押されたイギリスは、1935年の新インド統治法制定の際にインドからビルマを分離、37年には完全分離して準自治領にします。第二次大戦中、中国から南進してきた日本軍とアウンサンが共闘し、イギリス軍を追い払い、ビルマ国を建国。

 しかし、革命の友達だった筈の日本軍の姿勢に疑問を感じ=結局イギリスの座に日本が座るだけではないかと思ったアウンサンらは、イギリスから独立の内約を取り付け、抗日運動をします。しかし、これはイギリスのお得意の二枚舌で、日本が負けたあとは、手のひら返してビルマの独立を認めようとしません。アウンサンは、粘り強くイギリスとの間で独立交渉を続け、1947年に1年後の独立を約した協定調印までこぎつけます。その直後、アウンサンは暗殺され、わずか32歳の生涯を閉じ、今もビルマ建国の父として国民に敬愛されています。有名なアウンサン・スー・チーは彼の長女です。

 48年に独立したといってもビルマの前途は多難でした。後で述べる国共内戦で破れた中国国民党軍がなだれこんできてゲリラ活動をするわ、ソ連と結びついている共産党勢力がいるわ、それに対抗するためにアメリカのCIAが乗り込んでくるわ、仏教優先の政策にキリスト教徒の多い地方民族で独立運動が起きるわ、政局はきわめて不安定でした。以後、ネ・ウィン将軍が軍部の力を背景に区データーを起こし軍事政権を樹立、この流れを汲み現在に連なる軍事政権と、アウンサン・スーチーなどの民主勢力がにらみ合いを続け、記憶に新しいところでは丁度1年前の2007年9月のデモで日本人ジャーナリストの長井さんが銃撃されて死亡しています。

 ビルマといえば、「おーい、水島、いっしょに日本に帰ろう!」というフレーズで有名な「ビルマの竪琴」がありますね。といっても、最近はそんなに有名じゃないのかな。あれは、日本軍がビルマに駐留し、敗走していく時期の物語ですが、このあたりのエリアになると日本軍のキャラも微妙になってくるような気がします。冒頭にも述べたように、日本というのはイジメっ子とイジメられっ子の両方のキャラを持ってます。日本との距離が近いほど日本の支配を受けている時間が長いから、日本はイジメっ子ヤンキーとして記憶されます。リベンジストーリーにおける完全に敵キャラ。朝鮮半島や中国がそうです。しかし、第二次大戦の南進の頃になると、第一段階であるその土地を支配していた西欧ヤンキー達を追い払ったというイジメられっ子の援軍というキャラに対して、第二ステージである日本がヤンキー化してイジめる時期が少なくなってきます。それに比例するように各地における対日印象も微妙に違っているように思います。

ベトナム

 この時代、トルコのケマルパシャをはじめ、世界各地で「建国の父」が登場します。リベンジストーリーの主人公のような存在ですが、ベトナムの場合は、ホー・チ・ミンでしょう。なんせ、サイゴンという都市名がそのままホーチミン市になってくらいですから。

 ホーチミンはフランス発、ソ連、中国経由の共産党員です。船員としてフランスにわたった折、ロシア革命に興味を持ち、第一次大戦直後にフランス共産党に入党します。ソ連の革命輸出フェスティバルであるコミンテルンに出席し、中国に行き、広州や香港でベトナム共産党(のちインドシナ共産党と改称)を結成します。国外で組織を作ったホーチミンは、ベトナムの労働者や農民を指揮して独立闘争を続けますが、香港でイギリス警察に逮捕、その後ソ連にわたります。第二次大戦開戦前後にベトナムに帰ったホーチミンは、祖国独立運動を組織します。

 ベトナムというのはもともとフランスの植民地です。ですので、ベトナム民衆における第一の宿敵はフランスなのですが、この時期になるとフランス本国がショボくなっているので妙な経過をたどります。中国から南進する日本軍ですが、ベトナムにも当然進駐してますが、ビルマのようにベトナムの独立運動を支援しているかというとそうではない。なぜなら宗主国であるフランスは、開戦時にあっという間にナチスドイツに占領されちゃっているわけです。だからフランス支配のベトナムといっても、フランスがドイツに支配されているからドイツの息のかかった支配になります。そして日本とドイツは同盟国ですから、日本軍としてもベトナムで無茶をやるわけにはいかないという勢力関係になるわけです。ややこしいですね。

 そんな中をホーチミンは独立運動をするのですが、援助をもとめに中国にいくと、今度は共産党勢力を恐れた中国国民党に逮捕されて監獄をたらい回しにされ、44年にやっとこさベトナムに戻り、すでに敗色の濃かった日本軍の支配に対抗します。大規模な8月革命が起きたのは、日本が敗戦した1945年8月15日の2日前の8月13日です。フランス+ドイツ+日本と三重に支配されていたベトナムも日独が敗戦で脱落し、最後に残ったのは宿敵フランスでした。フランスも弱いんだから止めればいいのに、ベトナムの独立をすんなり認めず、このため7年間のインドシナ戦争になり、軍事的に敗北したフランスはベトナムの独立を認めます(1954)。ここで終ればよかったのですが、またベトナムにチョッカイを出す国がいます。アメリカです。この時期になると東西冷戦になってますから、ソ連と結びついている共産党勢力を認めるわけにはいかないと、積極的に介入、泥沼のベトナム戦争に突入していくわけです。

インドネシア

 もう、このくらいになってくると大体のキャラクター配置とストーリー展開が飲み込めてきたと思います。
 インドネシアにおける敵キャラ(植民地支配の宗主国)はオランダであり、建国の父はスカルノです。

 オランダ支配下において、1825年にはジャワ戦争という呼ばれる民族反乱が起きますが、鎮圧。スマトラ島で石油が取れるとわかると、石油資源もゲットします(現在のロイヤル・ダッチ・シェル石油の前身)。ただ、20世紀になるとオランダも「倫理政策」と呼ばれる文教福祉政策を実施し、このオランダ人小学校に入学し西欧式教育を受けたのがスカルノ少年であり、長ずるとオランダ人が作った大学を卒業します。

 卒業後、オランダ留学から帰ってきた同志達とインドネシア国民党を結成(1927)、民族独立を訴え、指導者として頭角を現してきます。世界恐慌である1929年から10年ほどは、オランダ植民地政府に逮捕・流刑を繰り返します。第二次大戦になると日本軍が南進してオランダ軍を追い払い、抑留されていたスカルノを救出し、対オランダの共闘戦線を築きます。このあたりになると大戦末期で、日本軍はイジメられっ子の友達キャラのまま敗戦しちゃいます。日本が敗戦した直後独立を宣言し、これを認めないオランダと4年以上にもわたるインドネシア独立戦争になります。49年インドネシア連邦共和国、連邦が合体して55年にインドネシア共和国。

 独立を果たしたインドネシアですが、これまた前途は多難でした。もともと東西5000キロにわたる細長い国、人口2億4000万、島の数1万7500以上というこの国を一つに纏め上げるのは地政学的にも民族的にも困難でしょう。インドネシア語が共通語になってますが、これを第一言語にする人は人口のわずか10%強(第二言語としては結構通じるらしいが)、現在使われている言語数だけでも583言語あるとされます。もともとまとめにくい国である上に、アジア初の共産党がスカルノの活動以前からがんばってる老舗として存在し、軍部は軍部で独自の動きをしたがり、また諸国がちょっかいをだしてくるという状況で、スカルノ大統領も国をまとめあげるのに苦労します。接着剤としてのナショナリズムを高揚させるために、マレーシアと敵対し、西欧諸国と険悪になり、国連すら脱退します(65年)。しかしそれも限度に達し、スハルトによるクーデターが起き、共産勢力が一掃され、スカルトも失脚します。

 インドネシア独立戦争においても、旧日本軍の一部の兵士がインドネシアに居残って協力していますし、インドネシアにおいても相応に感謝されています。これも、日本が持っていた加害者と被害者の二面性の現れでしょう。国の中枢はイジメっ子ヤンキーポリシーで動きつつも、国民や前線の兵士には植民地解放、アジアの同胞を助けるというイジメられっ子の友達キャラを唱えてますから、同じ日本人でも思惑はバラバラだったりします。実際、第一局面では旧宗主国を追い払うわけですから、植民地解放という行動は同じわけですし。ところで、スカルノの第三夫人が日本人のデビィ夫人で、なんか今でも日本のTVに出てるらしいですな。まあ、でも世界史レベルで登場するほどの人ではないでしょ。それより、スカルトの長女がメガワテイで、インドネシアの第五代大統領になったことは記憶に新しいところでしょう。

フィリピン

 フィリピンはもともとスペインの植民地でしたが、米西戦争(1898)でアメリカがスペインを破ったあと、アメリカが後釜に座ります。スペイン統治時代、ホセ・リサールというガンジーや吉田松陰みたいな存在の天才的な若者が先駆的に存在しましたね。アメリカの支配に対抗して、米比戦争が起きますが、これはアメリカが武力鎮圧。ただ、アメリカも徐々に軟化し、1916年ジョーンズ法で広い自治権を認めつつ、独立はまだ認めません。「もっと大人になってからね」という口約束だけ。しかし、世界恐慌が起きてアメリカも外交方針を転換させ、35年には10年後に独立と刻限を定めて独立を認めます。

 もっとも10年待たない間に太平洋戦争で日本軍がやってきます。1942年マニア陥落で米軍は追い出されてしまいます。フィリピンはわりと初期に日本軍支配下におかれたため、戦時中はアメリカとフィリピン民衆が協力して抗日ゲリラ戦を展開します。大戦後期になると制海権を取り戻した米軍によってフィリピン奪回。戦後46年フィリピンは独立しますが、親米政権が続きます。フィリピンは国内に多くの米軍基地を持つという意味で日本とよく似ているのですが、戦後ある時期までは日本に次ぐ経済力を誇っていたそうです。それがマルコス大統領あたりから独裁、腐敗が横行して、経済的に低迷するようになります。もったいない。


タイ

 タイは外交上手で、植民地時代には各列強と等距離をおいて噛み合わせることによって支配から免れ、日本軍がやってきたら同盟を結んで支配から免れ、日本が落ち目になるといち早く連合国側と通じ敗戦国扱いを受けていないという。冷戦時においては周辺の共産国(ベトナム、カンボジア、ビルマ)に囲まれていることから、アメリカの支援を取り付けています。この国は昔から外交が上手なんなんですね。だから、この国ではあんまりリベンジストーリーはないです。

 内政においては、1932年にラーマ7世の頃に人民党による革命が起き、タイは立憲君主制になります。国名がシャムからタイに変わったのは1939年。「タイ」とは「自由、自由な民」という意味です。戦後ラーマ9世が即位しますが、この王様は国民の人気が非常に高かったようです。タイ王室は日本の天皇家と同じように、君臨も統治もせず、ただ象徴としてニコニコ温和に存在しているだけですが、逆にその徹底的な無害性が国民から人格的尊崇を受けています。タイ人の王室への尊崇は、いっそ無邪気と呼びたいくらいで、国王の肖像画があちこちに飾られていたりするそうです。まあ、僕はタイに行ったことないので目撃してませんが、シドニーのちょっとトラディショナルなタイ料理屋さんだったらどこも王室の写真が沢山飾ってますね。あと仏壇と。そういえば日本の皇室(特に秋篠宮)とは仲が良いそうです。しかし、内政的にはすさまじく、戦後から今まで16回も軍事クーデターが起きています。しかし、それでも動じないのは国王がニコニコ健在で、仲裁するからでしょう。特に1992年の5月流血騒乱の際にも国王が仲裁に入り、国王の前に呼び出されてひざまづく首謀者二人の写真が世界に配信されたのは僕も記憶しています。なんか喧嘩して職員室に呼び出された悪ガキみたいな感じで、妙にほほえましかった。

 ところで西欧人からみるとタイ、特にバンコクは妙に馴染み深い土地なのでしょうか。英語の勉強かたがたそのへんの英語の小説を片端から読んでた頃にバンコクを舞台にしたイギリス人(だったかな)の小説がありました。そこではバンコクに西欧人が長期にわたって滞在し、タイ語も覚えて地元暮らしをしていることに、特になんの説明もなく、「よくある話」というムードで話が始まっていて、「ふーん、キミらにとってはそんなに身近な存在なのか」と思った記憶があります。思うに、植民地時代、西欧列強の緩衝地帯として機能していたタイは、各国の外交官の活動の場であり、西洋と東洋が融合するエキゾチシズム溢れる変テコな空間だったのかもしれません。上海租界みたいな。そういえば、昔々にちょっとエッチで話題になった「エマニエル夫人」という映画がありますが、あれも舞台はバンコクだし、彼女は外交官夫人です。だから、かなり西欧慣れしている土地柄だったのでしょう。バンコクは、各航空会社が就航している世界でも有数のハブ空港で、バンコクでチケット取ったほうが安いとか言われたりしますが、その利便性も植民地時代のプラスの遺産なのかもしれません。ちょっとネットで調べて確認とろうと思いましたが、この種の情報って日本語情報では殆どないのですね。英語で調べた方がよいのだろうけど、時間がないので割愛します。



モンゴル、中国、朝鮮

 延々と世界各国を歴訪してきたのは、植民地支配VS独立という方程式が、この時期の地球のいたるところで見られるからです。第二次大戦、特に日本とアジアの関係は、こういった大きな枠組から見ていったほうが理解がブレないと思います。

モンゴル

 モンゴルは中国(清朝)に支配されていたのですが、20世紀になって清朝の支配がゆるまり、1911年に中国で辛亥革命が起きたときに独立を宣言します。が、すんなりそのままいくわけもなく、1919年には中国に奪回され、翌年にはロシアからロマン・ウンゲルンがやってきて中国軍を追い払います。なんでここでロシア?というと、彼はロシア貴族で軍人です。ロシアで革命が起きた後は反革命軍(白軍という)の首領の一人として革命軍として戦ってました。その一環として国境を越えてモンゴルに侵入したわけです。ここにモンゴルという国の立地条件が現れています。ソ連と中国にはさまれているわけです。

 モンゴルの地元では、ロシア帰りで革命思想の薫陶を受けたチョイバルサンがいます。彼はスヘバートルなどと民革命党が結成し、ソ連赤軍の援助を要請します。モンゴルに遠征してきた紅軍(ソ連革命軍)は、ウルンゲンを下して逮捕し、処刑します。チョイバルザンは革命政府を樹立、1924年には社会主義国であるモンゴル人民共和国の成立を宣言します。モンゴルはソ連に近いだけあって、わりとすんなりソ連に続く世界二番目の社会主義国になり、以後ソ連と歩調をともにします。


朝鮮

 朝鮮は日本に近いだけあって、日本の支配を一番長く受けています。完全に属国化したのは1910年の日韓併合ですが、ずっと前から植民地化しています。なんせ幕末〜明治維新の頃から征韓論というのがあったくらいですから。1875年の江華島事件を口実に、日本は朝鮮に開国を迫り不平等条約を結びます。このときのやり方が、日本が黒船ペリーから受けたやり方とかなり似ていて、日本も相当「学習」してます。「測量」という口実で軍艦で乗り込み、発砲演習を行ってビビらせるという。かつて自分らがビビったことだけにやり方は上手だったと思われます。日本のヤンキー化の第一歩ですね。

 1905年日露戦争に勝利し、ライバルロシアを蹴落とした日本は、朝鮮を恫喝し植民地化を推し進め、それが一応の完成をみるのが1910年の日韓併合です。当然、民衆がニコニコ黙認しているわけはなく、反日の機運は澎湃として沸き起こります。また、1917年にはロシア革命が起き、第一大戦後のパリ会議では民族自決がテーマになっています。独立闘争は世界的なブームです。朝鮮国内でも、学生や、宗教家などが独立運動を展開し、1919年には「独立万歳」と叫ぶデモ行進が全国に広まり、1年間にわたり200万人以上が参加したといわれます。これを三・一運動(万歳事件)と呼ぶわけですが、インドの場合もそうですが、広く民衆全般に浸透してしまった運動というのは鎮圧しようがないわけで、日本も支配の度合いをやや弱めます(武断政治から文化政治といわれる)。

 第二次大戦終了直前にソ連が宣戦布告し、ドドドと南下し、朝鮮半島北部に居座ってしまったことから、戦後は米ソ対立構図がそのまま朝鮮半島に反映され、朝鮮戦争が起き、38度線で南北朝鮮に分割されるという経緯をたどるのは周知のとおり。周知といえば、嫌韓だの反日だの両国サイドでワイワイやってますが、世界史レベルで考えてみたら、隣国で仲が悪いのは当たり前です。ヤンキーの頂点に立っていたイギリスですらお膝元に北アイルランド問題を抱えてロンドンでバスが爆破されてますし、イングランドとスコットランド、ウェールズのライバル意識も相当なものでしょう。フランスとドイツの怨念の歴史はナポレオンだのヒットラーだの山ほどありますし、イギリスとフランスに関して言えば百年も戦争してた時期もあるし、喧嘩してない時の方が少ないくらいです。本当に日韓関係がヤバくなるのは、東京の都バスがテロで爆破されたりするようになってからでしょう。

 朝鮮というのは有史以来、隣に中国という超大国がいるわけで、大国による支配をいかにかわすかという国際問題を昔っからやってるわけです。現在においても、北朝鮮という頭の痛い問題を抱え、アメリカという親しいけど押し付けがましい国がいて、隣の中国が急速に離陸してきて、、、という、カミソリの刃の上を裸足で歩くような緊張感があるのでしょう。そういう国際ストレスの強さは、海の上にポカッと浮かんで、ひょっこりひょうたん島みたいにお気楽にやってる日本とは違う部分があるのだと思います。また、そのストレスの強さがピリピリ感を生み、頑固な民族意識を生むのかもしれません。あまりに頑固なものだから、日本と同じように攘夷をやりつつも、日本のようにある時期に180度転換して開国近代化すべき時期を逃し、延々と攘夷やってるから逆に軍事的に敗北しちゃたのでしょう。リベンジストーリーでいえば、この国は開闢以来ずーっとリベンジストーリーだといってもいいでしょう。これもひとえに地政学的条件という宿命みたいなものなのでしょうか。

中国

 前回に続き再び中国です。
 アヘン戦争以来、衰亡する清朝に西欧列強が飢狼のように食い散らかしていた中国ですが、中国民衆もニコニコ見守っていたわけではなく、当然活発な民族思想や運動が生まれます。前駆的に登場するのは、これはどの国でも同じでしょうがが文学思想のインテリ達で、中国では文学革命という啓蒙運動が広まります。陳独秀、胡適、それに日本でも有名な魯迅などが文学や思想を通じて、近代西欧思想(民主主義と科学)を紹介し、旧態依然とした中国文化の改変を主張し、中国の若者達をひきつけます。また、第一次大戦中に欧州諸国が本国が忙しくて留守している間に、中国国内で中国人が起業経営する工場が出来、いわゆる民族資本が出来上がっていきます。経済的に充実してくると、ますます不平等な植民地支配が気に食わなくなっていきます。

 第一次大戦後のパリ講和会議で、日本から押し付けられた21か条の要求取り消しやドイツが利権をもっていた(戦時中に日本に奪われた)山東省の返還を期待していた民衆は、中国のことなんか全然考えていない西欧列強のパリ会議の帰趨に憤激し、北京大学の学生を中心に大規模なデモを行います(五・四運動)。このデモは全国に波及し、ストライキや日本製品のボイコットなどの運動が展開され、民族運動として発展していきます。この国民的盛り上がりを背景に、雌伏していた孫文は秘密結社中華革命党を中国国民党と改称して公開デビューします。そのころ、ソ連のコミンテルンの支援を受けた陳独秀を委員長として中国共産党も結成されます。

 中国に食い込みたいヤンキー初心者の日本は、しかし他のライバル諸国から牽制されます。足の引っ張り合いは帝国主義のイロハですから。まず、ソ連。ソ連は、帝政ロシア時代に中国と締結した不平等条約を撤廃すると宣言し(カラハン宣言)、中国民衆から熱狂的に歓迎されます。「ソ連、いい人じゃん」という。これによって陳独秀の共産党は支持を拡大します。ソ連の革命思想の輸出戦略ですね。上手なもんです。

 もう一つの妨害はアメリカからです。密かに自分も中国を狙っているアメリカは、先行していくに日本に「てめー、生意気なんだよ」とばかりに、待ったをかけます。これがワシントン会議による9カ国条約などで、これによって日本がベルサイユ条約で承認された山東省のドイツ利権は中国に返還されてしまいます。この間、アメリカと日本はギクシャクします。アメリカは、かつてパシリ扱いしていた小僧の日本が偉そうに進んでいくのが小面憎いでしょうし、日本もアメリカに言いたいことは沢山あります。パリ会議で人種差別撤廃条約を日本が持ち出したのを、ルール変更までして握りつぶしたのはアメリカだし、アメリカに移民した日本人が現地でイジメられていたり、アジア人の移民受け入れ割り当てをゼロにしたりしてるもんだから、「エラそうなのはどっちだよ、てめーのやってることは何なんだよ」という反米感情が芽生えます。このシコリが日米開戦に続いていくというのは、シリーズ36回で触れました。


 さて、中国ですが、盛り上がる民衆の叫びを中国政府が機敏に救い上げて、、ということは全然なく、三国志さながらの軍閥抗争(直隷派と奉天派)をやってます。そんなことやってるから、日本や列強につけこまれるわけです。アンチ軍閥の孫文は、しかし自前の兵力がないため、ソ連や共産党と提携します。これが第一国共合作(1924)であることは前回書きました。軍閥を倒すために北伐に出かけた孫文国民党+共産党ですが、途上にして孫文は客死します。

 孫文の死の2ヶ月後、上海で五・三〇事件と呼ばれる大規模なデモが起き、全国的な運動になります。このときは学生ではなく労働者達が先頭になった運動であり、民族運動が一部インテリ階層から一般民衆に降りてきているといっていいでしょう。こういった盛り上がりを受け、国民党は広東で中華民国政府を宣言します。孫文の後釜にすわった蒋介石は北伐を再開し、南京や上海を占領します。ここで、党内部で共産党との左右対立が激化し、蒋介石は上海クーデターで共産党勢力を粛清しようとします。もうこのあたりは前回のおさらいですね。ただ、この上海クーデターも、蒋介石個人が権力欲しさにやったというよりは、共産党勢力を恐れる西欧列強や中国で既に成長しつつある財閥(浙江財閥)が蒋介石に依頼したという説もあります。ありがちな話です。

 党内の共産党勢力を追い払った蒋介石は北伐を再開、1928年に北京に入城し北伐は完成し、蒋介石は中国統一をなしとげます。といっても、駆逐したはずの共産党勢力は、長征という山間僻地を回りながら徐々に力をつけていくし、何よりも満州を根城とする日本軍が待ち構えています。蒋介石は、北方の日本軍とはことを構えず、ひたすら共産党を攻め続けるのですが、長征中にリーダにのしあがった毛沢東率いる共産党も勢力を増していき、そう簡単にはいきません。日本軍の動きが活発になるにつれ、中国人同士いがみあってる場合かということで、部下の張学良に軟禁された蒋介石は、しぶしぶ共産党との共闘戦線をはることを承諾し、第二次国共合作となり、以後日本軍と戦うことになります。


 さて---。このくらい書いたらもういいでしょう。なんとなく世界の動きみたいなものがボンヤリとでもイメージできたら、第二次世界大戦にいきます。



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文責:田村



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