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今週の1枚(08.08.18)


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ESSAY 373:キリスト教+西欧史(39)

  日本と中国〜満州事変から日中戦争へ


  写真は、Paddington。通称”Five Ways”のあたり。



 話の成り行き上、ドイツやイタリアと同盟を結んだ日本の状況を書きます。もはやキリスト教でも西洋史でもないのですが、しょうがないです。ここを触れないと第二次世界大戦の全体像が把握できないし。

第一次大戦後の日本経済

 これまで見たように、第一次大戦における戦時疲労によるヘロヘロ状態が各国において悪影響を及ぼし、ドイツやイタリアではファシズムを胚胎させます。1925年以降、生産力回復&国際協調の機運が高まって一瞬持ち直したかに思えたのも束の間、「致命的な第二波」である世界大恐慌によって腰折れし、一気に社会不安が募ってドツボに落ち込んでいきました。

 日本もこの例外ではないです。しかし、日本はさらに悪運に見舞われます。天災です。すなわち、関東大震災。
 関東大震災は1923年9月1日に発生しました。リアルタイムに体験された方もまだ存命でいらっしゃると思いますが、機会があればお聞きになるといいかもしれません。僕の場合、祖母がその体験者で、祖母からは直接聞く機会はありませんでしたが、母親から口伝えで聞いています。曰く、東京から千葉まで半死半生で逃げる途中、目の前で地割れが起きて、人を飲み込んだまま又くっつくという地獄絵図のような世界だったそうです。余震と火災が凄まじく、甚大な被害を与えたようです。もうすぐ9月1日になりますが、関東大震災記念日は「防災の日」となり、今でも避難訓練などが行われていますが、ある意味第二次大戦よりも日本人の心理にクッキリ刻み込まれているのかもしれません。

 ところで、さきの神戸地震(1995年の阪神・淡路大震災)は、僕自身大阪で体験し、カミさんは神戸だったのでモロに体験しています。あれも神戸など被災地では相当の被害が出ていますが、関東大震災はさらに超弩級の地震でした。神戸地震の死者は6,437名、負傷者43,792名ですが、関東大震災では死者(&行方不明者)10万5000人(従来の14万人に対し、最近はこちらの数字の方が定着しているらしい)、負傷者10万3733人といわれます。単純に死者数だけ比べても20倍の開きがありますが、地震そのもののスケールも違います。地震の原因である断層ですが、関東大震災の断層の長さ130キロ(神戸50キロ)、断層の幅は70キロ(15キロ)ということですから、関東大震災が途方もなく大規模な地震であることがわかるでしょう。関東大震災の震源地は神奈川県の相模湾と三浦半島、房総半島南部を結んだ一帯であり、神戸地震を「阪神淡路」地震と呼ぶならば、関東大震災は「相模三浦南房総」地震と呼んでもいいです。震源地からかなり離れているにも関わらず神奈川のみならず東京がほぼ壊滅状態になっているわけで、その広範な破壊力は凄まじいものがあります。マグネチュード自体は神戸M7.3対関東M7.9で一見大差ないようですが、マグネチュードが1違うとエネルギーは10倍違いますから、実は数倍の開きがあるのでしょう。

 話は全然違うのですが、今アフリカについての本を読んでいるのですが、神戸地震とほぼ同じ時期(正確には8ヶ月前)にアフリカのルワンダでは、内戦のあげく国民同士の大虐殺が起きています。それも、わずか6週間で80万人を殺したというから、気が遠くなるような凄まじさです。神戸地震での死者6400名は大きな悲劇ですが、関東大震災の死者10万人という数字には言葉を失います。が、天災でもなんでもなく、また外国との戦争でもなく、またミサイル一発でドカンでもなく、国民同士がいちいち一人づつナイフや棒切れで叩き殺すというやり方で1ヵ月半で80万人殺したというのは、もはや想像の枠を超えています。だから何だというつもりはないのですが、こんなことが日本で起きていたら日本史上最大級の事件になっているでしょう。話がアメリカでもフランスでも同じです。それだけのことが同時期に起きていながら、僕らはそれをあんまり知らない。ニュースで知ったとしても、「アフリカも大変だな」くらいで片付けているでしょう。実際アフリカは大変で、このルワンダ虐殺が小さなエピソードに見えてしまうくらい、あまりにも多くのことがあちこちで起きています。何か、まだ自分の視点が、日本や先進国に偏ってるなと感じました。少なくとも宇宙人や研究室の実験観察者が見るようにまったくフラットには見えていないな、と。だから何だということではないのですが、ふと読みながら思いました

 あ、虐殺で思い出しましたが、関東大震災のあと、朝鮮人が集団で攻めて来るとか、井戸に毒を投げたとかデマが飛び交って、多くの朝鮮人がリンチで殺されています。韓国語に濁音がないことから、「十五円五十銭」「ガギグゲゴ」などのフレーズを言わせ、言えないと問答無用で暴行をするなど。その被害者の数は、震災直後でデータもろくすっぽないのですが、200名から数千名といわれています。方言を話す日本人も間違われて殺されていますし、日本人の聾唖者も殺されています。無茶苦茶なんだけど、なかには千人の暴徒に向かって命を張って朝鮮人をまもった大川鶴見署長のような例もあります。


 さて、この関東大震災が、戦争が終ったあとの戦後恐慌に見舞われている日本に起きているわけです。
 ところで、第二次大戦の場合、戦争が終った後に日本経済が復興してますが、第一大戦の場合は逆に戦争が終った後に景気が悪くなっています。なぜなら、第一次大戦中は欧州が戦場になっていたので日本としてはライバル欧州企業の製品が止まっている間に輸出したりして景気が良かったわけです(大戦景気)。「成金」という新語が発生したのもこの頃です。しかし、戦争が終結して欧州企業が復活してきたら、落ち込むという。これが戦後恐慌です。第二次大戦後の景気は、お隣の朝鮮戦争による戦争景気なわけで、これをみると戦争というものは、つくづく「やらない者勝ち」であることが分かります。

 さらに、1927年には昭和金融恐慌という金融危機が起きます。この恐慌の原因や構造は複雑で興味深いのですが、ここでは深く立ち入らず、当時の脆弱な金融システムが震災後の不良債権処理をめぐるゴタゴタに耐え切れずポシャッたくらいにとどめておきます。そのあとに、前回やった1929年に世界大恐慌が襲い掛かってくるわけです。翌年30年に金解禁を行ったわけですが、タイミングが悪いのと裏目に出たのとで、ますます不況は深刻化し、昭和恐慌にいたります。

 なんか似たような名前が続きますが、整理しますと、1919年第一次大戦終結→戦後不況→1923年関東大震災→1927年昭和金融恐慌→1929年世界大恐慌→1930年昭和大恐慌となるわけで、第二波どころか、第三、第四の文字通り不況の波状攻撃を受けるわけです。

 相次ぐ不況のどん底で社会情勢はかなり暗く、悪くなります。中小企業の倒産が続き、失業者の数は増す一方。当時では引く手あまただった大学卒業生でも就職できるのは3人に一人というロスジェネなんかぶっとぶ超氷河期。それでも都会はまだマシで、農村になると壊滅に近い打撃を受けます。なぜなら当時の農村は、米作のほか製糸のための養蚕業を営んでいたのですが、生糸の輸出が激減したうえ、デフレと豊作によって米価が落ち込むというダブルショックを受けたからです。また、失業者のうち多くの者は帰農していますから、食い扶持も増えると。帰農者をカウントすれば失業者数は300万人以上とも言われています。これに加えて(まだある)、今日に比して品種改良がまだ進んでいない当時の東北や北海道ではコンスタントに冷害が襲います。その結果、泣く泣く自分の娘を売りに出したりします。また、町では労働争議が、村では小作争議が頻発するようになります。


 さて、このような社会情勢の中、日本はどんどん中国大陸に勢力を伸ばしていきます。関東軍が先陣を切って満州方面に侵攻し、中国軍と衝突します。ときの政府をはじめとして、日本は、この軍部の独走によって引っ張りこまれるにようにして日中戦争という泥沼にハマりこみ、ひいては第二次大戦に突入していきます。

 このあたりは中学高校の日本史&世界史でもやってますし、昨今の論争なんかでもよくテーマになっていたりするのだけど、なんかあんまり全体像がスッキリしない。わかったという気がしないです。個々のイベントを羅列しても、全体の絵が見えてこないというか。そこで僕なりに整理してみたいと思います。


中国の情勢

 まず、中国の全体像がよく見えないのですね。ここから整理しましょう。

 アヘン戦争からこっち西欧列強に蚕食されていた清朝末期の中国ですが、植民地一歩手前というか、ほとんど植民地状態というか、瀕死の状態にあります。西欧列強は、なんだかんだイチャモンをつけては租借地など事実上の植民地をブン取っていきます。朝鮮半島の支配権をめぐって日清戦争が起き、新興国日本が勝つことによって、さらに中国の権威は下がります。これではあかんと宮中の官僚たちが日本の明治維新を見習って改革をしますが(変法運動)、あえなくポシャリます(浅田次郎氏の「蒼穹の昴」の世界ですね)。もう中国そっちのけにして帝国主義国家間で戦利品の分捕り合戦が起きます。日清戦争で日本が遼東半島をゲットしたと思ったら、ロシアとドイツが三国干渉でイチャモンをつけます。そして日露戦争が起きます。日露戦争に勝った日本は、中国本土にコマを進めます。そうこうしているうちに第一次世界大戦が始まり、西欧列強は中国どころではなくなります。西部戦線で身動きがとれないドイツの植民地を日本がどんどん取っていきます。また、日露戦争の宿敵ロシアも本国で革命が起きて、それどころではありません。西欧列強がお留守になっている間に、地の利を生かして日本が中国大陸に地盤を築いていくわけです。

 じゃあ中国はどうなっているのか、やられっぱなしのマグロ状態だったのか?というと、そんなことはありません。中国は中国で燃えています。しかし、日本よりも遥かに巨大で遥かに古い国ですから、幕末〜明治維新みたいにチャッチャと話がまとまりません。同じことをやるにしても日本の数倍時間がかかりますし、スケールも巨大になります。しかも日本よりも遅れて始めて、時間がかかってるので、幕末でチャンバラやってたらそのまま第二次大戦に突入してしまったようなグチャグチャな混乱になります。

 具体的にいうと、中国大陸における中国人の勢力は、@中国国民党の勢力、A軍閥勢力、B中国共産党の勢力に大きく三分されるでしょう。

 国民党は、孫文や汪兆銘が1919年に広東で創始したものです。 孫文という人も深く立ち入って調べると、なかなか複雑なのですが、外遊(亡命)歴が長く世界的にも有名な革命家であり、中国革命の父として尊敬されています。1911年に有名な 辛亥革命が起き、中国内の14省が清朝から独立を宣言し、中華民国臨時政府をつくり、孫文はその大総統に就任します。孫文率いる国民党が一気に中国を民主化したら歴史の授業はどれだけ簡単だったかと思いますが、話はそんなに簡単に進みません。さすが三国志の国で、話は二転三転していきます。臨時政府が出来たとはいえ、清朝はまだ存在しており、清朝の軍部を握る袁世凱が討伐を命ぜられます。しかし、袁世凱はあっさり清朝を裏切って臨時政府と交渉し、自分が臨時政府の大総統に就任してしまいます。

 袁世凱という人は、一代の梟雄とも言うべき人物で、後世に悪評を残しています。大体、孫文が善玉で袁世凱が悪玉という感じですね。彼の上司であり師匠は 李鴻章です。李鴻章は偉大な人だったようで、まず進士出身というから科挙の合格者であり超々エリートなのですが、実務能力も抜群で、その優秀さは西欧諸国にも鳴り響いており、世界でも指折りの政治家といわれます。彼は、まったく役に立たない腐敗した清朝政府に代わって私財を投げ打ち軍備を整え、やりたくもない日清戦争を戦います。日清戦争というのは、日本対中国(清)というよりも、日本VS李鴻章の私軍のようなものでした。李鴻章が築き上げた私軍を、ナンバーツーだった袁世凱は引き継ぎます。その軍備を背景に清朝中枢に接近、変法運動を裏切ってチクり、ますます重用されます。孫文らの臨時政府が出来たら、「俺を総統にしてくれたら清朝を潰してやるよ」と取引を持ちかけ、臨時政府のヘッドになります。臨時政府において孫文と並ぶ実力者である宋教仁は、総統の権限を抑えて議院内閣制を主張し、多くの国民の心をとらえたのですが、袁世凱はこの宋教仁を目障りとばかりに暗殺してしまい、自分の権限をせっせと拡大させます。地方で反発があると軍隊を出すと鎮圧するという、要するに軍事独裁政権を作ろうとしたので、こんなはずではなかった孫文らは日本に亡命してしまいます。孫文らがいなくなったあと、袁世凱は国民党を解散させ、自分の独裁政権を作ります。

 ちょうどそのころ第一次大戦が起きます。日本から突きつけられた「21か条の要求」を呑み、弱腰を非難されます。国内では日本から伝わった自由民権や社会主義運動が広まっていきますが、袁世凱は1915年に帝政復活を宣言し、翌16年には国名を中華帝国とし、自分が中華帝国皇帝におさまります。アナクロにもほどがあるって感じですが、袁世凱の帝王宣言に開いた口がふさがらなかった国民は、口をあけたまま激しく反対、中央では学生のデモが相次ぎ、地方では軍閥が反旗を翻し、あっという間に退位を余儀なくされ、退位後数ヶ月で失意のまま病没します。なんか、ここまであっけらかんと権力追求をされると、いっそ無邪気とすら呼びたくなるような感じですが、袁世凱というのはそーゆー人で、国民党だけではなく共産党からも尊敬されている孫文を裏切り、せっかく革命をしながらまた帝政を復活させるわ、日本に屈服する弱腰だわで、未だに漢奸と悪役呼ばわりされています。ちょっと可哀想な気もしますが。

 袁世凱没後、黎元洪、段祺瑞、馮国璋などのナンバー2や3が仕切ろうとしますが、広大な中国を仕切る器量もなく、政府の看板は掲げているものの、互いに争ったりして再び中国情勢は混沌とします。一方、日本に亡命していた孫文は、袁世凱の死後、中国に戻り、広東でも臨時政府を発足させ、護法運動と呼ばれる活動を展開し、北京政府と対立します。といっても孫文らには中国統一をはかるためには強力な「力」が必要なため、西南エリアの軍閥の支持をとりつけようとしたり、ソ連や共産党と連携(第一次国共合作)しようとしたり苦心しますが、これといって具体的な成果に乏しいまま、「革命尚未成功」という遺言をのこして1925年客死します。孫文という人は、外遊生活が長かったこともあり東も西もよく見えていて、死の前年に日本の神戸で講演した「大アジア主義」を唱え、西欧の覇権に対抗してアジアは団結してあたるべきであり、日本の侵略主義的な方針を批判しています。言ってることは当たっているのでしょうが、思想家、カリスマ、象徴としての役割の強い人で、いざ切った張ったの実務になると、理論はあるが現世的な力がないインテリの哀しさで、袁世凱に裏切られたり、軍部の支持を求めたり、ソ連と協同してみたり、後世から場当たり主義と非難されるような動きをしています。でも、まあ、それは孫文が悪いというよりも、あの立場に置かれたらそうする他なかったでしょう。いずれにせよ、一個の人間の物理的限界として、思想、象徴としての役割を果たせばそれで十分過ぎるほどの功績だと思いますし、日本で言えば先覚者として多くの弟子を育てた吉田松陰のような存在だったのかもしれません。

    軍閥勢力ですが、これが中国各地に群雄割拠しています。豪族のような、戦国大名のような、三国志における各地の英傑のような。清朝という中央政権が長期腐敗すれば、反比例して独立独歩に地方が力をつけていっても不思議ではないです。軍隊といえば国家が持つもので、それを各エリアの県知事のような人間が軍の力を背景に勢力を競うというのは奇異な感じがしますが、それは近代中央集権国家に慣れているからそう思うだけであって、前近代的な国家というのはナチュラルに軍閥の連合政権です。日本各地の各大名(軍閥)を力で制覇し、統一連合国家にしていったのが、信長、秀吉,家康であり、幕末において一瞬もとの軍閥割拠時代(薩長VS徳川)に戻り、また急速に明治政府というガチガチの中央集権政府を作り、統一を塗り固めるために、重石として天皇を持ち出し、愛国心を国民に植え付けたというのが日本の近代史でしょう。それが中国の場合、清朝倒壊後の政権移譲時期が非常に長く、ナチュラルな地方割拠の姿に戻ったと理解すべきでしょうか。

 当時の軍閥もいくつかの系統があり、ひとつは袁世凱の北洋軍閥の系譜である 直隷軍閥です。袁世凱の死後、お家騒動の分裂&権力闘争をやってます。袁世凱の跡目は、段祺瑞→黎元洪→馮国璋となり、さらに呉佩孚などに続きます。北部方面の分派が 奉天軍閥と呼ばれるもので、張作霖が率います。まあ、細かな名前なんか覚えなくてもいいと思います。歴史的に「やられキャラ」ですし、李鴻章、袁世凱と代を重ねるにつれに小粒になりカリスマ性が乏しくなるにつれて、どんどん分派していき、合従連衡をやっていた、くらいの理解でいいでしょう。

 しかし、第一次大戦から第二次大戦に至るような近代において、未だに戦国時代のようなことをやっていても話が前に進みません。時代が求めているのは、地方単位で覇権を競うことではなく、一国を整然と動かす強烈なパワーと秩序です。それなくして強大な西欧諸国に太刀打ちできませんから。この強大な秩序を築く思想性やポリシーのある勢力が、前述の国民党と、あとで述べる共産党です。

 さて、現在も中国の権力を握り北京オリンピックを開催している 中国共産党です。19−20世紀の世界の政治思想は大きく二つの流れがあり、ひとつは古典派リベラル、もう一つは社会、共産主義思想です。これはどこの国でも同じでヨーロッパではウィーン体制下において1848年の諸国民の春という革命運動が広がったりします。日本においても、自由民権運動や大正デモクラシー、あるいは労働運動が活発に展開しています。中国の場合、リベラル派が孫文以降の国民党、共産主義が共産党です。

 これら二つの潮流がベースになり、比較的まっすぐ進めば国として大きな破綻はなく、安定します。英米仏などの勝ち組はそこが機能しています。リベラル&社会主義的な要求が強くなれば、保守政権がその要求を妥協的に受け入れたり、あるいは政権交代など議会制民主主義というシステムの範囲内で吸収していってしまう。しかし、枠組みがヤワだと思わぬ方向に走ります。共産革命が成功してしまうロシアのようなケースもありますが、多くはもう一つ民族主義、国家主義という思想というよりも気分や情緒性の強い別の要素が触媒になり、「気分を高揚させてイケてない日々の生活を忘れる」「弱いものいじめをして憂さ晴らし」みたいな方向にいき、ガン組織のようなファシズムが生まれます。これにその土地、その民族独自のツイストや権力闘争などがスパイスになって、各国ごとにユニークな歴史になっていくのでしょう。

 中国の場合は国民党と共産党であり、これが今日の本土の共産党が仕切る中華人民共和国と、国民党が仕切る台湾の中華民国に分裂しているのはご存知のとおりです。マルクス、レーニン以降の共産主義勢力は、19世紀から20世紀にかけて、今からは想像もつかないくいらい強力な世界潮流でした。共産主義勢力の国際組織は、古くは1862年のロンドンで第一インターナショナルが胚胎した頃までさかのぼります。勃興する資本主義にマルクスが指摘するような重大な欠陥があること(貧富格差拡大、労働搾取)が早くも知られ、イギリスやフランスの労働者達が国際労働者協会を作ります。次に1889年にパリでマルクス主義者達が集まって第二インターを結成します。ロシア革命成立後、第一次大戦中の1919年3月にはモスクワに21カ国の代表が集まり、第三インターナショナルが結成されます。これを別名、 コミンテルンといいます。世界の革命勢力が結集し、革命の先達であるロシアが各国の共産勢力に援助をするわけですが、次第にソ連の御用機関のようになり、第二次大戦とともに消滅します。が、初期においてはまだマトモに機能していて、中国における共産党の誕生や、国共合作にも影響を与えます。

 コミンテルンの主導によって、中国に共産党が発生するのが1921年です。第一次大戦終結の翌々年ですね。それ以前に陳独秀や毛沢東などが各地で結成していた共産組織を糾合し、全国規模に昇格します。全国組織になった共産党は、アンチ軍閥という共通項から国民党と手を結びます。1924年の 第一次国共合作です。ところが翌1925年にドンである孫文が死去し、例によって後継者争いが起きます。左派の汪兆銘VS右派の蒋介石で、結局蒋介石が最高司令官におさまります。26年には北部の軍閥を駆逐し、統一政府を作るための 北伐を開始し、27年には南京、上海を占領します。上手くいったように見えながら、ここで又内紛が起きます。蒋介石は共産党と対立し、共産党員を武力弾圧します(上海クーデター)。これで第一次国共合作は解消。しかし単独権力を握った蒋介石は、第二次北伐を開始し、奉天派を追い払って北京に入り、一応これで全国統一を果たすことになります。

 しかし、その基盤は磐石ではなく、内実は各地の軍閥の寄せ集めの感もあり、なによりも上海クーデターで袂を分かった共産党がいます。この時期以降、後で述べるように、日本は満州国を建国するわ、上海事変を起こすわでかなり好き勝手暴れているのですが、蒋介石はまず国内の共産党を攻撃することを優先し、5回にわたり共産党への軍事攻撃をします。第5回(33年)などは兵力100万の大軍を率いてます。大攻勢を受けた共産党は、奥深い辺境地帯に逃げ込みます。総行程約1万2500kmの大移動であり、中国共産党のレジェンド(伝説)になっている有名な長征(大西遷、1934.10〜36.10)です。

 2年に及ぶ過酷なドサ廻り=長征の間、中国共産党もまたシェイプアップしていきます。それまでは、ソビエト留学帰りのパリパリの連中が本場ロシア仕込の革命をやるんだと意気込んでいたのですが、どうも理論先行で空回りする傾向があり、国民党に十分に対抗できるだけの実質はなかったといわれます。代わって頭角を現してきたのが農民運動の指導にあたっていた毛沢東です。西欧の本場の革命は資本主義→労働者革命という流れですが、資本主義もろくにない中国でそれを模倣しても今ひとつ地に足がつかない。だから農村や農民をベースとする社会主義革命をという理屈になり、いわゆる毛沢東思想というのが生まれてきます。35年8月、長征の途上で共産党は八・一宣言を発表し、日本に対抗するために内戦を停止して民族統一戦線の結成を呼びかけ民衆に大きな影響を与えたといわれます。

 一方、蒋介石は、日本のことは国連に任せ、不抵抗主義を取ります。そのため日本の侵攻は進み、それが中国民衆のナショナリズムを強く刺激します。共産党が民族統一戦線を呼びかけた数ヵ月後には、北京で5000人以上の学生達が抗日救国のデモを行い(12.9運動)、これが全国に波及していきます。ここまで事態が緊迫し、国内が抗日一色に染まっていく中、もはや中国人同士でいがみあってても仕方がないということで第二次国共合作が行われます。蒋介石の下で働いていた張学良なども、抗日のためには共産党と提携する必要を感じていました。しかし、ボスである蒋介石だけがあくまで共産党は嫌いだと言いつづけていたので、「まったく、もうガンコな親父だ!」とばかりに張学良に軟禁され、周囲に説得されてしぶしぶ国共合作に承諾します(西安事件)。当初はそれでもギクシャクしていたのですが、37年に本格的に日中戦争が始まると、ウダウダいってる場合ではないということで、統一抗日戦線が作られるわけですね。第二次大戦終結後、「タイム」が解けたかのように再び国共は対立し、共産党は本土を握り、国民党は台湾に渡り、以後現在までにらみ合っています。


 以上は予備知識でした。

 さて、この群雄割拠する中国の勢力図をもとに、日本を始めとする西欧列強も戦略を練ります。
 第一次国共合作の頃(1924)は、東北部の奉天派(張作霖)と日本軍部がひっつき、直隷派には西欧列強が背後につき、中国共産党や国民党へはソ連が支持をするという構図になってます。北伐によって直隷派が壊滅した後(1926)、奉天派の張作霖は日本から欧州+米に鞍替えしようとします。一方、同じく欧米の支援が欲しい国民党はソ連派の共産党と中が悪くなり上海クーデターによって国共合作が壊れます。国共内部で仲間割れしている隙に、張作霖が北京に入り、自ら大元帥を名乗り、中華民国のドンになると宣言しちゃいます。張作霖は、欧米との結びつきを深め、反日反共路線を走ります。一方、党内をまとめあげた蒋介石は再び北伐を開始し、張作霖を北に追い払います。

 このくらい中国の大きな流れを知らないと、「日本軍が中国を侵略しました」といっても「どうやって?」というデテールやニュアンスが分かりにくいと思います。要するに中国といっても全然一枚岩ではなく、常に2−3派が激しくぶつかり、あるいは連合しています。そして、それに伴って欧米・ソ連・日本がどの勢力にどれだけ肩入れをするかという戦略ゲームが展開されていたわけですね。

日中戦争への坂道

 さて、話は変わって再び日本です。
 日本がなんで泥沼の戦争に突入していったかという原因論ですが、簡単そうで意外と難しいです。よう分からん。一つは関東軍など軍部の暴走、一つは前述のヘロヘロ日本経済です。経済がヘロヘロになると軍部が暴走するのか?というと、その因果関係は明白ではないです。無理やり単純に考えれば、本国が火の車だから、他国の領土をブン取って植民地をつくり、それをテコにして潤いましょうという帝国主義的発想です。まあ、確かにそういう部分はありましたし、「満蒙は日本の生命線」と声高に語られたりもしました。

 しかし、どうも経済的理由=日本国民の暮らしを楽にするため=という部分は薄かったように思います。パラパラとネットで調べてみても、あまりその種の理由には行き当たらなかったし、満州国を作ったからといって日本がバンバン儲かるかというと、あまりそんな感じでもない。確かに、満州には石炭などの資源も採掘されていたし、満州鉄道建設など日本の重工業企業が進出するビジネスチャンスもあったでしょう。また、英仏がブロック経済化するのに対抗して円ブロックを作ろうという意図もあったでしょう。でも、それで日本国民が楽になったという話も寡聞にして見当たらない。満州に移民した日本人もせいぜい20−30万人程度だし、移民の理由も「狭い日本にゃ住み飽きた」という概ね精神的な理由だったりします。それなりに経済に寄与していたのかもしれないけど、その効用があまりにも語られていない。大体ですね、古来日本という国家が、国民の暮らし、特に貧困な農村部にために一生懸命に何かをやったということは、今日に至るまであんまり無いんじゃないか。それは、敗戦後の満州引揚者への薄情なまでのケアの薄さを見ても分かります。

 だから日本が満州=中国東北部に固執したのは、もっぱら軍事的理由なのではないでしょうか。日露戦争のあと、一旦ロシアは退きますが、革命後にソ連になったあの国が再び南下してこないという保障はない、どころか多分に濃厚な可能性としてあったとでしょう。日露戦争以来の課題として、ロシアの南下を食い止めたいというテーマは日本の軍部に根強くあったはずだし、「満蒙は日本の生命線」というフレーズも、もっぱら軍事戦略上の文脈で唱えられていました。また、日本が軍国化に傾くにつれ、軍事予算は途方もない割合を占めるようになり、これによって国民生活は窮乏の一途をたどってるわけだし、その意味からも「国民生活を楽にするため」というのはあんまり考えられてなかったような気がします。何のための植民地なのかよう分からんのですね。

 日中戦争までの流れを一応イベントを追ってみましょう。
 田中義一内閣(1927.4〜29.7)の頃に、金融恐慌の処理に追われつつも、中国に対して強硬外交を展開します。日本軍と北伐軍とが衝突した山東出兵や、 張作霖爆殺事件(1928.6)が起きます。ちょっと前に書いたように、張作霖という人も食えない人物のようで、最初は日本軍といい関係を保ちながら、一転して欧米に近づいたり、勝手に中華民国の大元帥を名乗ったり。最初は、地元軍閥の張作霖と持ちつ持たれつでやっていこうと思っていた現場の日本軍(関東軍)も、だんだん「ええ加減にせんかい」と持て余すようになったと言われます。もう軍閥を立てて支配するよりも、傀儡国家を作って統治した方が早いという話の流れになっていったようで、そこで邪魔者の張作霖を暗殺します。張作霖の乗っている列車ごと爆破してしまう張作霖爆殺事件です。関東軍の河本大佐の立案実行によるもので、国民党の仕業に見せかける偽装工作を行うのですが、この偽装がチャチですぐに露見。しかも日本政府にも告げなかったという関東軍の独走でした。田中義一首相は昭和天皇に真実究明を上奏しつつも、陸軍内部の壁に阻まれ調査は失敗。結局、「関東軍は無関係でした」と天皇に報告したところ、天皇もキレて「お前はガキの使いか」と怒られ(というのは意訳で、本当は「話が違うではないか、辞表をだしてはどうか」と言われた)、総辞職します。天皇に怒られて辞職した唯一の総理大臣らしいですな。

 しかし、天皇が怒っても真相究明はついになされず、河本大佐が予備役に廻されるという軽い処分で一件落着です。関東軍司令部へのお咎めはなし。典型的なトカゲの尻尾切りですな。しかし、あれだけ年金横領事件が続々と告発されているのに処分されたのはごく一部であり、真相は闇の中である現在の日本と全然変わってないですね。というか、当時の状況が今に至るまで全然改善されていないというか。でもねー、戦前のバリバリの天皇制の下で当の天皇が怒り、首相の首がブッ飛んでも、真相を明らかにしないというのは相当のことですよ。これは二つの意味があります。ひとつは、すでに当時において、天皇や首相ですらコントロールできないくらい軍部(関東軍)は独走態勢に入っていたということです。もう一つは、日本の官僚組織というのはガンとして内部情報を公開しない&非を認めないという、伝統芸能のような日本固有の疾患です。



 田中義一が退陣した後、浜口内閣(1929.7〜31.4)になります。浜口雄幸という人は、風貌から「ライオン宰相」と呼ばれていたそうです。小泉首相はライオン二代目だったのね。正義感が強く、実直で頑固な浜口首相には各界や国民の支持が厚く、また根回しが嫌いで堂々と正面からブチ当たる政治姿勢は日本の歴代首相の中では稀有な存在といわれています。あまりにも真っ直ぐな正論居士だったので、あまりにも真っ直ぐな政治をします。世界の潮流をにらみながら、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、また経済を本道に戻すために金解禁をします。いずれも当時の世界情勢からすれば正しい政策でしょう。しかし、その正しさを理解できるほど日本は精神的にも経済的にも成熟しておらず、軍縮路線は弱腰外交と軍部から激しく非難され、主眼となる経済政策においても正論であるべき金解禁は、デフレで病んでいる日本経済には負担が重過ぎ、またタイミングの悪いことに解禁直後に世界大恐慌が押し寄せたため、日本経済は重篤症状を呈します。このため浜口首相は広島で右翼のテロの銃弾を受け(1930)、5ヵ月後に死去します。

 こういった時局を背景にして、1931年9月軍部は武力による満州侵攻を始めます。喧嘩をするにしても大義名分がいるので、無理やりデッチ上げます。奉天郊外の柳条湖というところで、南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを張作霖の息子の 張学良軍のテロである言いがかりをつけます( 柳条湖事件)。張学良はお父さんを日本軍に殺されたために、完全に反日派になり蒋介石のもとに走っていていたのですね。子供じみた言いがかりによって、関東軍はたちまち奉天を占領し、さらに満鉄沿線の都市を占領していきます。当時の日本政府は第二次若槻礼次郎内閣であり、不拡大方針を表明していたにも関わらず関東軍はこれをシカトし、満州全域に進軍し、あっという間に満州全土を占領、満州国を建国します(32年3月)。この一連の流れを 満州事変といいます。

 また、柳条湖事件の4ヵ月後、今度は上海で軍事行動を起こし( 上海事変)、中国軍と戦闘状態に入ります。この上海騒ぎのドサクサにまぎれて、日本軍はチャッチャと満州国を建設してしまったのですね。ラストエンペラーである宣統帝溥儀を引っ張り出して皇帝に据え、傀儡政権の傀儡国家を作り上げます(32年3月)。この時期、畳み掛けるように事件が起きます。32年5月15日には 5.15事件が起きて、若槻首相のあとを継いだ犬養首相が暗殺されてしまいます。

 中国政府は軍事的対抗措置を取らず、国連に訴えます。国連からはリットン調査団が調査を開始しますが、報告書を提出したとき(32年10月)にはすでに満州国は既成事実として出来上がってしまっていました。報告書では、満州における日本の利権は保護されるべきとしつつも、満州事変は侵略行為であるから満州国建国は認めず、中国内部の自治権を持つエリアとして国連管理下におくべしという提案をしていました。これを受けて国連総会では、33年2月に日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると日本代表(松岡洋右)は退場し、3月27日に国際連盟を脱退し、国際的に孤立するようになります。その直後、日本軍は、万里の長城を越えて北京に迫り、武力で恫喝して満州国を認めさせます。

 そして、偶発的に発生した盧溝橋事件(1937年)を利用し、満州だけではなく中国全土との日中戦争にはまり込んでいきます。当時は「対支一撃」(中国なんか一撃さ)という勇ましけど、プロが立てた戦略とは思えないような気分一発のノリで始めますが、意外というか当然というか戦闘は激化、いまさら引っ込みがつかなくなって泥沼化します。この場合、蒋介石の方が一枚上手というか、敢えて初期の段階では抵抗せず、国際世論を自分の味方に引き付けます(まあ、本人は日本よりも共産党が憎かったみたいだけど)。中国側の初期の不抵抗戦術で「中国、チョロイじゃん」と勘違いした日本は、「一撃KO」みたいな甘い見通しを持ってハデに軍事侵攻をし、国際社会で孤立していくのですから、結果的には乗せられたと言ってもいいでしょう。「戦争は外交の一部」という鉄則は、もう完全に忘れられている感じです。

 日本政府も軍部の独走を追認するような形になり、1938年近衛内閣は40年に国際博覧会と同時に開催予定だった東京オリンピックを返上する決断をし、軍部の要求により国家総動員令を発令して、戦時体制を固めていくようになります。ふーん、本当は1964年の東京オリンピックの24年も前に日本でオリンピックが開かれる予定だったのですね。おまけに万博も。ヒトラーだってオリンピックやったんだから、やっときゃ良かったのに、、、って気がしますが、そんな経済的余裕はなかったんでしょね。

 この流れで37年の12月に、ネットなどでもよく論争になっている南京大虐殺が起きます。論争の内容に立ち入る紙幅も意欲もないですが、少なくとも単なる軍事的進駐以上に後世に物議をかもすような出来事はあったのでしょう。それが30万なのか、数百人なのかはともかく。しかし、思うのですけど、外交的配慮というのは無かったのかしら。当時の日本は国連を脱退して世界の嫌われものになってます。また、中国本土はアヘン戦争以来西欧列強の注目の的でもあります。また、リットン調査団が派遣され、中国における日本の動きには世界から批判的な視線が集中していたでしょう。そこへもってきて非難のネタをわざわざ献上することもないでしょうに。実際、現地には欧米のジャーナリストも沢山おり、南京事件はほぼリアルタイムに世界に報道されたといいます。また、中国攻略という戦略的観点からも下策でしょう。中国を攻めるならば、あくまで国共を分離させ、お互いに噛み合わせながらその隙を突くのが常道でしょう。群雄割拠してまとまりがつかない中国を、わざわざ憎しみを煽り立てるようなことをして抗日戦線としてまとめ上げさせてやることはないでしょう。まさか国連から離脱したから好き勝手やれば良いなどと能天気なことを考えてはいなかったでしょうが(その可能性も強いが)、近代戦が総力戦・消耗戦である以上、なによりも資源その他の国力をいかに温存させるか、いかに他国と連携して自国の損耗を減らすかが国の舵取りの基本じゃないんですかね。ましてや孤立していたら尚のこと。それを、皆にちょっと非難されたからといって、スネて教室の窓ガラスを叩き割るような真似をして良い結果が得られるとは思えない。外交音痴にもほどがあるというか、国際的KYというか、空気読めなさすぎ。日露戦争の際、日英同盟によってタイムズという世界をリードするのメディアを味方にひきつけていた国際外交巧者の日本から考えると、同じ民族とは思えないほどの劣化ぶりです。どうしてここまで劣化したのだろう。

 南京陥落のあと、日本軍は国民党政府を中国政府として認めず、国民党の汪兆銘(蒋介石のライバル)に傀儡政権を作らせます。また、東アジアの新秩序を作るのだという声明を出したりしますが、ほとんど説得力も効果がなかったといわれます。大体、当時の日本軍のやってる”小細工”というのは、張作霖爆破にせよ、柳条湖事件にせよ、満州国の傀儡政権、汪兆銘の傀儡政権、東亜新秩序、、、やってるそばからバレているという茶番のようなものです。基本戦略にせよ、小細工にせよ、どう考えても、そんなに知能指数の高い人間がやってるとは思いがたいのですね。確かに、日本はイケイケ進軍して、38年末までに華北、華中、広東周辺を占領し、当時の報道によれば向かうところ敵なしの快進撃をします。しかし、実態は主要都市と交通線の確保に過ぎず、膨大な中間エリアは殆ど中国軍が支配しています。当時ですら人口4億人といわれる広大な中国大陸を、わずか数十数百万人でどう支配するというのか。そんなに簡単に武力平定ができるなら、イギリスやフランスがとっくの昔にやってるでしょう。戦争をする以上、それなりに「やり方」というのはあるのですが、とにかく大砲ぶっ放して進軍するという幼稚なやり方ではすぐに行き詰ります。事実行き詰ってしまって、日本軍は四方八方からのゲリラ攻撃に悩まされることになり、戦局を打開するためにさらに南方へ進軍し、ますます泥沼にはまりこんでいきます。


 うーむ、こうしてみていると、もう満州事変のあたりで日本もかなりヤバくなってますね。
 というか、張作霖爆殺事件で、天皇や首相という国家の最高権力者の言うことすら聞かなくなっている時点で、すでに国家システムとして破綻を来たしています。ここあたりの経過は、前々回のヒトラー・ナチスが権力を奪取する過程、あるいは前回のムッソリーニがイタリアを掌中に納める過程に似てます。もう武力を背景にイケイケで無理を通していくという。

 ただ、ドイツやイタリアの場合、ファシズムに染まっていったプロセス=誰が、何を考えて、どうやったかという経過は比較的クリアです。しかし、日本の場合はよく分からない。日本には、ヒトラーやムッソリーニに該当するカリスマ的な人物はいません。開戦時の首相東条英機がよく槍玉にあがりますが、やたら軍規に精通し、軍規をたてにネチネチと政敵を叩き、嫉妬心が強く、視野偏狭な典型的な小官僚気質で、石原莞爾に「東条上等兵」と嘲笑されていた彼にヒトラーに相当するカリスマ性はないでしょう。

 疑問点は二つありまして、ひとつはなぜ関東軍はあそこまで暴走したのかであり、もう一つは日本政府や社会はなぜそれを止められなかったのか、です。
 関東軍というのは、もとはといえば南満州鉄道付属地守備隊に過ぎません。それが現場の佐官クラスの参謀の独断専行がエスカレートし、陸軍内の「下克上」的で「手続軽視・結果重視」といった陸軍の悪い体質を残していったと言われます。まさに「尾が犬を振る」ようになって、日本を第二次大戦までひきずりこんでいくわけです。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」などによれば、日露戦争当時の日本軍とは「まるで別人種のように幼稚で無能な軍部(特に参謀本部)」に成り下がるわけですが、問題はWHY?です。なぜそんなに劣化したのか。

 もう一点は、日本の国民、社会、世論は何をしてたの?ということです。一般的には、軍部が独走し、情報操作をして一般国民を騙したので、あたかも国民は被害者であるかのように説かれたりします。確かに、内閣直属の情報局という世論統制機関はありましたが、それが設置されたのは開戦直前の1940年です。開戦後のガチガチの報道管制や思想統制はキツかったかもしれないけど、それにいたるまでかなり時間はあります。何をしていたのか。また、ナチスにせよ、イタリアにせよ、不況による労働運動という要素がファシズムへの過程で大きな要素になっています。ところが日本の場合、冒頭で述べたように相次ぐ不況&恐慌&天災で国民生活はかなり疲弊していたはずなんだけど、それと戦争やファシズムとの関連性がよく見えないのです。

 総じて言えば、なんで日本がファシズムになり、あの無茶な戦争に向かっていったのか、そのメカニズムがよく分からない。分からないからブキミなんですね。メカニズムと因果関係がわかったら、学習も反省も出来るし、次回の防止策も講じうる。しかし、そこがブラックボックスになってたら、「あの悲惨な戦争は二度と、、、」という抽象的心情的な「誓い」以上の具体的な対策が出てこない。

 これは将来の宿題にしておきます。どうも今の時点ではうまいこと理解できません。



 ただ、備忘録として、今思いつく、論証抜きの直感的な仮説をいくつか書き留めておきます。

 @、近代の西欧史に比べて、日本の場合、一般国民や民衆が歴史の形成に参与する程度がかなり低いのではないか?これは民主主義の成熟度とパラレルなのかもしれないですが、これまで見てきた西欧史の場合、不況→国民生活の窮乏→労働運動の過激化→ナチスやファシズムの台頭 or 修正資本主義と福祉国家への変容、、といった具合に因果の連鎖がつながっていくのですが、日本の場合、不況→国民生活の困窮の後、何もつながっていかないように見えます。つまり国民が苦しんでも、だからといって何かの国家社会のリアクションが起こるわけでもない。国民は苦しみました、それで終わりという。確かに、大正デモクラシーや労働運動という現象は起きますけど、弾圧されてそれで終わりという感じでしょ。明治の末期にもう大逆事件とか起きてますし、治安警察法によりストライキは違法化され、労働運動は弾圧されます。1919年には内務大臣床次竹二郎が西日本の暴力団の代表を呼んで労働運動弾圧への協力要請をしています。関東大震災の際には、労組の指導者が虐殺された亀戸事件、アナキストの大杉栄が3歳の子供とともに殺された甘粕大尉事件も起きています。

 戦後の不況や政界大恐慌による生活破綻は、ドイツやイタリアで大規模な労働運動を生み、それがある時期までヒトラーを台頭させたし、イタリアでは逆に労働運動の過激さを恐れた資本家がムッソリーニを支持して台頭させています。しかし、日本の場合、独伊並に経済的に苦しんでいるはずなのに、それほど大きな労働運動にもならないし、あったとしてもプチプチと個別に弾圧されて終わりです。また、弾圧する側においてもカリスマファシストを生み出すような経過になっていない。

 A、日本の民衆は、正当な政治的手続によって生活の向上を図るという水路付けはあまりなされていない反面、「気分の高揚」という情緒的、心情的なムードによって政治的圧力となす傾向がある。これは、日露戦争前においてすでに見られます。当時の国際常識でいえば、対ロシア開戦は暴挙以外のなにものでもなく、またそのことを冷静に理解していた政界では正しく慎重な態度でいたのを、弱腰として声高に非難したのは、軍部ではなく、一般大衆であり、マスコミでありました。帝大7教授が主戦論を携えてやってきたあと、大山巌だったかが「今日は馬鹿が7人来た」とボヤいたそうです。日露戦争で薄氷を踏む勝利のあとなされたポーツマス条約の内容が不満だといって、全権大使小村寿太郎の家が暴徒に襲撃された日比谷焼打事件がありますが、たかだか日清戦争の勝利で万能の覇者にでもなったと勘違いしてしまう視野の狭さは、ちょっと度し難いところがあります。まあ、つい最近までチャンバラやってたんだから仕方がないといえば仕方ないのですが、あれだけ西洋の文明や文化を輸入し、それなりのハイレベルで咀嚼しきった賢いはずの日本人が、なぜ国際情勢になるとこうも迷妄ぶりを発揮するのでしょうか?満州事変から第二次大戦まで、戦線の拡大に反対していた軍部首脳や政治家は沢山います。どうかするとそちらの方が多いくらいでしょう。にも関わらず、一部の軍部の暴走と、大衆の熱気によって開戦に引っ張られたという感じだと思います。

 なぜ、こういう現象になるのか?ふと思い出すのが、僕の弁護士時代の経験です。事件の中には当事者が集団になってるケースが多々あります。たとえば住民運動、団体内部の闘争、遺産分割、隣地との境界事件などなど、、、こういう事件で一番の「困ったちゃん」は、やたら景気のいい意見を吐き、やたら好戦的な人物です。こちらは敵と交渉する最前線で、最大限の利益をゲットすべく着地点を模索しているのですが、こういう困った人たちは到底現実味のない、しかし景気のいい意見を吹きまくり、議事進行を妨害します。そのとき、彼らが決まって言うセリフがあります。「弱腰」です。「最初からそんな弱腰では勝てるものも勝てない」と。あるいは「信念」ね。「それだけは絶対に認めるわけにはいきません。これは私の信念です」とか。しかし、彼らのいうとおりやってるたら、ほぼ百発百中玉砕し、最悪のシナリオになってしまったりします。また、直接の当事者じゃない人間が、この種の無責任に強気の意見を言うのですね。離婚事件でも、当の本人ではなく、その親族などが「○○家の名誉にかけて」とか盛んにまくしたてる。それだけだったらまだしも、問題なのは、えてしてこういう議論の場になると、この種の好戦的で攻撃的で声の大きな意見が通りやすいということです。現実的で、建設的な意見を吐いていると、いかにも気の弱そうな、腰の引けた意見に聞こえてしまうんですな。もしかしたら、日本が戦争に向かっていったプロセスというのは、これと似たニュアンスがあったんじゃなかろか?と思ったりもします。もちろん、どんな集団内部にもこの種の「愚かなんだけどパワーだけは腐るほどある」という意見や一団があります。彼らのパワーを生かし、うまいこと軌道修正させていけば、とんでもない破壊力になります。しかし、一歩間違えたら抱き合い心中になります。

 そして、さらにうがった見方をするならば、こういった景気のいい意見を吐く人、吐く心理というのは、何かの代償作用である場合が多いように思います。ほぼ生活全般において円満で、それなりに満たされている人は、それほど過激な意見を吐きません。冷静で穏当な意見をいう場合が多い。しかし、何かに屈折していたり、鬱屈するものがある場合、鬱屈感情の爆発のような感じで、意見や行動が必要以上に過激になる場合があります。「あんな連中、全員ぶっ殺してやればいいんだ!」などと言い放つとか。日ごろの生活がパッとしないから、せめて○○くらいは景気よく、みたいな感じ。これが、ひいきの野球チームを応援したり罵倒してるくらいだったら罪も少ないのですが、戦争とかになってくると笑い話ではすみません。もしかしたら、戦後不況、震災不況と続いた当時の日本で、かなりの日本人が失業その他で鬱屈するものを抱えており、その爆発点や突破口として満州進出や戦争を気分的に盛り上げていったのかもしれません。つまり、不況→生活苦→労働運動の展開というパターンではなく、生活苦→無責任に景気のいい主戦論ムードという方向にいってしまったのでは?と。ま、仮説ですけど。


 B、三番目に「血気にはやった若者」の存在があります。関東軍でも、佐官クラスの参謀が主として進めていったそうですが、このような下克上的な風潮は、他にも2.26事件の青年将校の決起などに現れています。考えてみれば、幕末の回天で原動力になったのは、薩長の下級武士であり、血気にはやった若者達です。こういった若者達が歴史を展開させていくわけで、一概に悪いことではなく、それはその民族のエネルギーとも言えるでしょう。ただし、一歩間違ったらドカンです。

 その上で、この血気にはやった若者達を必要以上に愚かにした要素が二つあると思います。ひとつは、日本社会の絶対的貧困です。あまりに貧困であるがゆえに、精神において、なんらかの宗教的救済を求める心理です。これが当時の場合、国家主義であり天皇崇拝です。一種の純粋右翼のようなもので、東北の寒村から出てきて、子供のころから辛酸を嘗め、故郷の家族や皆が幸福になることと天皇主宰の国家が繁栄することがイコールに結ばれるという祈りのような想いです。実際の社会はもっと薄汚れていて、そんな理念のとおりに進まないのは誰でも知ってるけど、そこに宗教的な心理がはいってきちゃうともう見えなくなってしまう。2.26事件など典型ですが、国家社会主義の思想に基づき、天皇を擁してクーデターを図ったわけで、左翼と右翼と国家主義のごちゃ混ぜブレンドという意味ではナチス的ですし、政治腐敗や不況克服を願っていたという点ではある意味純粋です。このままクーデターが成功して、北一輝がヒトラーの役割を果たして日本が軍国主義になったいたなら、それはそれでナチスのように分かりやすい経過をたどったでしょうか。

 もう一つは、エリート参謀の世間知らずさと、それを純粋培養した日本の官僚制です。日本の官僚制の弊害は、すでに上でみたように張作霖爆破事件の真相究明の拒否のあたりから濃厚に感じられるのですが、それ以上に、若手参謀が自らと日本軍を過信し、その過信をセーブすることができなかったという点があるのでしょう。軍への過信は、日露戦争の負の遺産のようなものでしょう。あの戦争で勝ったんだから俺たちは強いんだという過信。また、エリート官僚の自己過信というか、よく「俺は現代における坂本竜馬だ」「今西郷だ」みたいな滑稽なナルシズムにひたってるエリート君がいますが、「血気にはやった幕末の志士」と、単に思慮が足りない暴挙とを重ね合わせて自己陶酔し、そのボケぶりを誰も突っ込めなかったという風潮があったのではないかという気がします。まあ、勝手な推測なんだけど。

 C、四番目としては、あまりにも空気を読みすぎてしまって、言うべきことを飲み込んでしまう日本人の特性です。社会の風潮が一定の臨界点を超えてしまうと、内心「ヘンだな」「迷惑だな」と思っても、よう口に出していえなくなってしまうという。日本が中国へ軍事行動を起こしていくについても、一般市民の意識としては「ほお、やるもんだね」とか「まあ、勝ってるんだったらいいか」くらいの感じだったと思います。それがだんだん泥沼化し、生活も窮乏の一途をたどり、どう考えても嘘くさい大本営発表を聞かされているうちに、「嘘だろ」という大人としての批判精神は普通の日本人だったら普通に持ってたと思います。そうでなければ、あんなにあっさり「やれやれ、やっと終ったかと」と敗戦を納得できるわけないでしょう。でも、その疑問は言えない。誰もが言えないまま、ずるずると事態が進展していったという。

 他にもいろいろありますが、大体以上の諸要素がからみあって、日本が大戦に向かっていったのではないでしょうか。
 だから、なんで戦争になったかというと、ものすごく「微妙」。ヒトラーやムッソリーニみたいに分かりやすい人物もいないし、気がついたら戦争をしてましたみたいな、「なんとなく」戦争をしてしまったかのような感じなのかもしれないです。これ、まずいですよね。自他共にあれだけの惨禍をひきおこした戦争が「なんとなく」だったら、戦死した人も浮かばれないでしょう。でも、日本がなんで日中戦争を起こしたのか、本当に心から腑に落ちる説明に僕は出会ってないのですね。日清戦争は朝鮮の利権争いですし、日露戦争はロシアとの利権争い、その後の中国の租借地など西欧列強と肩を並べてやっていたのも「利権」だからわかる。第一次大戦のドサクサで、ドイツの植民地を奪ってしまったのも、まあ分かる。しかし、満州事変以降になると、いったいどんな得があって引き起こしたのか見えなくなるのですね。満州国でも、石原莞爾の最終戦争論(世界はやがて西欧民族VS日本をはじめとする東洋民族との最終決戦になるのだという理屈)くらい言ってくれたらまだ分かりますが、別にあれは石原さんの個人的見解に過ぎないでしょ。

 だからすごく分かりにくいです。不況や経済事情がそれを引き起こしたわけでもなく、覇権主義に燃えた大王がいたわけでもなく、政府&軍首脳に確たる侵略構想があったようでもなく、これを書いていても、めちゃくちゃ書きにくいです。中国側の国共合作とか、陰謀とか裏切りとかの方がよっぽど分かりやすいです。

 でもって、上の@からCの諸要素ですが、そら恐ろしいことに、これらは現代においてもそれほど変わってないような気がすることです。うーむ。



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文責:田村



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